「やぁおはよう山根くぅん。君が来るのを待っていたよ」
金曜朝。だいたいいつもアドパスさんがやってくる時間帯に合わせてラボに向かうと、その中で待っていたのはベーテクさんとポラリスだった。
いや、なんで?
そう一瞬疑問に抱いたけれど、こんな朝早くから来てることが今まで無かっただけで、そもそもよくよく考えなくてもここのラボの主はベーテクさんだった。普通にいてもおかしくはないか……。
「どうしたんだい? まだ朝なのに、やけに肩に力が入っているじゃないか」
「自分の胸に手を当てて考えてください」
この時僕はこう思った。もう助からないぞ、と。
まだ成岩さんもアドパスさんも出勤してきていないので、一刻たりとも気を抜くことができない。最悪の場合に備えてノーヴルのハラスメント窓口やコダマさんへの直通電話のショートカットは既に設定してあるけれど、そもそもそうなった時にスマホが使えるかすら正直怪しい。
「ふぅん。なるほどねぇ……。心外だよ、山根くん」
「何がです?」
「今日はコアタイムで、僕は公的にここにいるんだよ。そして一昨々日の僕は休日、つまり私的にJRNまで来ていた訳なんだよね」
「それがどうかしたんですか」
「僕はねぇ、公私混同はしないと決めているんだよ。だから今日この場では私的なアプローチをするつもりはないよ、仮にやったら暫くは私的な時間でもそういうことはしないと誓ったっていいねぇ」
なるほど、ベーテクさんは今日は手を出さないと。本当かどうかは怪しいけど。
でも、警戒しなきゃいけないのはベーテクさんだけじゃない。背中に刺さる目線の元を辿れば、そこには緑色のブラックホールのような目をしたポラリスが。
「話を聞いていたかい、君? どうしてトレイニングをするんだい?」
「自衛に決まってるじゃないですか」
ベーテクさんは分別がついているかもしれないけれど、ポラリスは月曜に突然突き飛ばしてきたような悪い実績がある。だからまた似たようなことをされるリスクは決して小さくないと思っている。だからこそのトレイニングだ。
トレイニングしていない限り、人間の出しうる力はせいぜい数kWで、しかもその大部分は脚だ。軽く3ケタkWとか出してきて、指先ですら十数kWに乗るノリモンには逆立ちしても敵わない。ならばこっちだってトレイニングして同じ土俵に立たないといけない。それにこの姿なら、シールドだって使うことができる。
だけれどこれは、正直なところ姑息な手段に過ぎない。ずっとトレイニングしっぱなし、なんてのは到底不可能なのだから。
そもそも6時間以上の長時間連続してのトレイニングというのは、座学で必ず習う禁忌の1つだ。なぜかと言えば、トレイナーとノリモンの繋がりが強固になりすぎて、お互いがお互いの自我を保てなくなってしまう恐れがあるからだ。ものすごくふんわりとした概念的な話だけど、かっちりとした専門的な言葉で言わせれば、『ノリモンのメンタルモデルそれ自体が模倣子となってトレイニングを通じてトレイナーに感染する』のだそうだ。しかも、特にトランジットをしていないキール単独でのそれはトレイニング先同士での干渉が起きないため、比較的短時間でキールの性質がトレイナーを蝕んでしまうと言われている。
実際にそうなってしまった人が過去にいたのかどうかは僕は知識を持っていないけれど、それを前提としたガイドラインやルールが作られているあたり、あながち嘘八百を並べているとは言い難いだろう。
具体的に言えば、JRNでは緊急時を除き陸上での連続トレイニング時間を4時間、直近24時間中の合計を8時間に制限している。そして緊急時にそれを超えてしまった場合は、超えた時間の倍だけ影響を抜く休養時間を取ることになっているのだ。そして現在時刻は8時11分。だからどっちにしろこのトレイニングは12時10分までに1度は解かなくてはいけない。
それまでにできればいつものようにポラリスがアドパスさんの方に注視しているタイミングを見つけられればいいのだけど。見つけられなかったら無防備な姿をポラリスに晒すことになり、危険があぶなくて険しい。
「おはようございま……なんで朝からトレイニングしてんだ?」
「いろいろ、僕にも、事情が、あるんです」
「……そうか。明日の活動には支障でないようにしとけよ?」
ポラリスを視界から外さないようにしながら、到着した成岩さんと言葉を交わす。正直かなり慣れないことをしているので、めちゃくちゃ疲れる。だけれども、やらなければ僕は2人に負けてしまう。
まだ朝のミーティングは始まってないし、なんならまだアドパスさんは出勤してきてすらいない。けれども僕がこの部屋に入った時点で、僕とベーテクさんたちの勝負はすでに始まっているのだ。
何事も起こさずに、普段どおりにインターンの業務を遂行できれば僕の勝ち。ポラリスに捕まったりして、業務に支障をきたしたら僕の負け。かんたんなルールだ。
この戦い……負けられない!