0900。
JRNの始業時刻を針が回り、朝のミーティングが始まる。ポラリスは5分前に出勤してきたアドパスさんの膝の上にちょこんと座り、僕を見つめている。
「今日の議題だけど、昨日付でようやく本部がメールを回してきた通り、周回実験線が少なくとも1月程度は使えなくなってしまってね。それと再開以降の予約合戦の間でできる小規模なプロジェクトを立ち上げたいんだよ」
「となると、できればラチ内で完結出来る奴か。この前やってた4輪走行のとか行けるんじゃないか?」
「あるいは、そもそも線路を使わないで済むのもアリかもしれマセンね?」
「だとしたら今やってるみたいに台車周りじゃなくて別のアプローチを考えた方がいいねぇ」
目の前で議論が始まっているけれど、あいにく僕はまだ彼らの実験の本質を理解できていないので聞きに徹するしかない。本当はきちんと理解をして、僕からも何か口に出せるのが理想なのはわかっているんだけれど、彼らの実験の前提となる理論の理解が進んでいないので口の出しようがない。
それに、僕はマルチタスクがそんなに得意じゃない。知らないことを聞かされてそれを理解すること、そこからブレインストーミングして新しい何かを生み出すこと、それをアウトプットするタイミングを見計らうこと、そして視界の中に映るポラリスを警戒し続けること――この4つを全て同時にこなすのは到底無理だ。
結局朝のミーティングは、僕は一言も発することなく、そして全体として結論の出ることなしに終わりを迎えた。当面の間は既に得られたデータの分析をして、その間にその後の事をじっくり考えるのだそうだ。要するに、結局問題を棚上げして先送りにしただけだ。
「じーっ」
……問題を棚上げして先送りにできるなら、僕だってそうしたいなぁ。
幸いなことにポラリスは僕が目を離さないでいる間は、まるで「だるまさんが転んだ」をしているかのように動かないか、あるいは後ずさって僕から離れていく。そして書類に目を通そうとしたりして一瞬でも目を離して気を緩ませれば、恐ろしいスピードでこちらに近寄ってくるのだから、常に彼女を視界に入れながらタスクをこなすしかない。正直、マルチタスクでパフォーマンスが落ちる直前の限界ギリギリのラインだ。ミーティング中はただずっと凝視してきただけだったのに、その枷が外れた瞬間これなのだから、思っていた以上にしんどい。
「なぁアドパス、今日の山根とポラリスの様子おかしくないか」
「そうデースね。ずーっとお互いに見つめ合ってマースし……もしかしてオメデタデスか?」
ぶっ。
聞こえてきたふたりの会話に、思わず口の中の紅茶がミストとなって前方へと散布されてしまった。どう考えてもそんな空気じゃないでしょうよ……。
「紅茶が勿体ないデース!」
「あなたのせいですよ、聞こえてましたからね?」
そんな胸の暖まるようなエピソードは僕とポラリスの間にはない。強いて言えば現在進行系で背筋がヒエッヒエなので相対的に胸は暖かいという程度だ。
ポラリスを視界から外さないように、立ち位置を工夫しながら後処理をしていると、アドパスさんは空になっていたティーカップに追加で紅茶を注いでくれた。そのお礼をと会釈して……直感的にマズいと思って左後に手をのばせば、飛んできたポラリスの頭がすぽり。
一言だけ小言を投げて開放すれば、彼女はまた一旦離れていった。……油断も隙もないなぁ。
★
時計は回って、1200。
途中合計3回のポラリスの襲撃を追い払いながらも、ようやく午前中の業務が終わる。
これ、思っていたよりけっこうしんどいぞ。ベーテクさんが宣言通り業務中は特に何もしてこなかったから良かったんだけど、彼がポラリスと同じように何らかのアプローチを仕掛けてきていた場合はたぶん11時頃には僕は2人に完全に捕まってしまっていたんじゃないかな。
ただ逆に、公的な付き合いをしている間は安全な反面、私的な状況がいまからとても恐ろしいのがベーテクさんだ。流石に休日とまであれば顔を合わせる必要すらないから大丈夫だと信じてはいるけれど……。
そんな事を考えながら、ようやくトレイニングを解除して昼食をとるために一度JRNの敷地を出て市街の方へと出向く。うちの食堂部なんて使ってたらポラリスに襲撃される気しかしな……いや、これは外で食べても同じだな、総合スーパーで惣菜買ってユニット部室にでも避難するか。あそこきちんと鍵あるし。
「……本当に来た」
「噂をすればなんとやらって奴だな」
部室に入れば、どうやら成岩さんといつも通りいる佐倉さんが僕の話をしていたようだった。何があったのか成岩さんから話が共有されているのか、佐倉さんからも憐れみの混じった目線を向けられる。お願いだから今は少し放っておいてほしい。
「まぁなんだ、昼休みの間はポラリスをこの部屋には入れないから安心して休みな」
「10分前になったら起こしてもらえます?」
「わかった」
食事を腹に流し込み、部室の奥、一段高いカーペット敷きのスペースで横になる。今は少しでも疲れを取っておきたい。
僕は一旦、目を瞑った。