つらら、つららら。止まない雨。
生まれてから七年と少し。
近頃は三日三晩と雨が降り止むことがなく、つまり季節は梅雨である。
『こんな天気が続くと心は晴れず病んでしまうにゃあ』と想いながら小雫の御簾を意味もなく浴びていた。
これを朱雀大路のド真ん中でやっていたならば随分と物珍しく……シッ近寄っちゃいけませんとなるのだがココは宮中。
儚い美少年が哀れにも五月雨を滴らせ茫然と天を見上げているのならば絵になるというもの。
凄くオシャレなことをしているのではなかろうか。
数日ほど前、俺は親に連れられ宮へと訪れたという少女に声を掛け部屋に連れ込んでいた。
尚、互いの暇な時間を遊戯で潰すだけという六・七歳オンリーの健全な世界である。
だが、遊びの時間とは流れるように過ぎ去っていく。
格好良く言えば光陰矢の如し。
早々に仕事が終わったのか、彼女の迎えが訪れ一時間と少々で早くもお開きとなってしまった。
先の経緯もあり、霧も薄っすら見える状況の中。
俺はまぢ病む……と、少女との楽しい思い出を想い起こしては、止まない雨をひたすらに感じていたのだ。
そんな様子を、庭から少し離れた位置で女御更衣など多くの宮の者たちが頬を緩ませ見ている。
ふふふ、誰か和歌を書いてくれたのならば後でこっそりと見せて欲しい。
とは言え、永らく立っていた影響かそろそろ部屋に戻りたいなぁと思い始めていた。
しかし、いつの間にか観衆となっていた母や父の帝までもが屋根の下に集まりこちらを静かに観ている。
……むむむ、えっちだと源氏もそう思います。
でもこのままでは風邪を患ってしまうだろう。
現代のように万全な病院のある土地ではない。
小さな病に油断すると大きなしっぺ返しが来るのは目に見えている。
漢方はあれどアレは凄く苦い。
見栄も必要だが身体はそれ以上に大事だ。
となると、ここは身を引き部屋に戻るのが良いだろう。
そう判断を己に下し、皆のいる方へ歩みを進めようとしたのだが……
『 『 『 風情ある男の子だぁ 』 』 』
どこからともなく聞こえる恍惚とした声。
期待をされては仕方がない。
……あと少し、あと少しだけなら恐らく多分まだイケる(即落ち)
結局、風邪をひいてしまい三日三晩と付きっきりで看られた。
ξ
――『葵の上』――
彼を初めて知ったのは六歳頃。
父の仕事に着いて行きたいと駄々をこね、宮中へ随伴した先でのことだった。
自分の知らぬ所で父は何か面白いことをしているに違いない。
私は何の根拠もなく、そんな単純な予想と期待を胸に宮へ赴いた。
しかし、少女の淡な期待など直ぐ崩れ落ちる。
父は帝と何やら難しい話をしており、全くといって良いほど自分にはソレらを理解できない。
難しい単語、大きな数字、誰それがどうで、期限はいつまでで………。
当たり前だ。これが大人たちの世界なのだから。
期待が冷え、残ったのは水面に浮かぶ気泡が弾けたかの虚しさ。
なんだ、つまらない。
「少し外の空気を」
その一言で退出し、何か他に面白いことは他にないのかと探してみた。
だが、太陽がゆっくりと昇っている以外に変化は何も見当たらない。
「……つまらない」
早くも暇を持て余してしまった私は、近くの廊下で意味もなく足をぶらり交互に揺らしていた。
柔らかな外気が肌をするりと滑らせ、日光は頬を仄かに包み込んでいる。
――ぴよぴぃ。
ふと雀のさえずりが廊下に響き渡った。
庭の方に目を向けるとそこには二・三羽の小鳥たちが静かに踊っている。
……少しはこの退屈な気分も生き物が紛らわせてくれるかもしれない。
そう思い、小鳥たちの元へ近づこうとしたのだ……が、
――――。
雀たちは初夏への祈りと共に空へ消えていった。
ぼんやりと視線は彼方の鳥を追い、眺めるは遥か遠くの空模様。
一つ二つの灰雲が寂しそうに泳いでいるようだった。
もうじき長雨だろう。
早く、家に帰りたいな。
小さな不安と共に私は再び足を交互に揺らす。
誰か、この退屈さを晴らしてくれる人はいないのだろうか……。
……いないのだろうか
……いないのだろうか
……本当に
……何処にも
……私には
……存在しないのか
――いや否だ。
なぜなら、彼が現れたのだから。
---
「何をしているの」
退屈している私に声をかけた人がいた。
綺麗に整った美のつく少年が。
女である私が息を呑むほどの持ち主が。
どこからともなく現れた彼は無意識か頬へ指を当て、不思議そうな表情で私を見ている。
「つまらないから、ボーッとしているの」
その容姿に驚き、言葉に詰まったが、そんな他愛もない言葉を捻出したのだろう。
私の視線はその輝かしい瞳に吸われていた。
少年はあまりにも恒星のように眩しかった。
「ふむふむ。ならうちの部屋、遊戯あるんだ。試してかない?」
だがいかに優れた容姿を持つ少年とは言え、見知らぬはずの私に声を掛けて直ぐに部屋へ連れて行こうとする。
明らかに変な男の子だと私は思った。
「……今、父上が帝と話しているの」
やんわりと断らなければ。
そう思っての言葉だったのだが……。
彼は前向きであった。
「分かった。なら少しここで待っててね」
本来なら私はここですぐ父の元に戻り『変な男の子がいた』と報告するのが正しかったのだろう。
年六つの娘を持ち帰ろうとする人間が現れたのだ。
よっぽどの特殊な者である。
父は見知らぬ人に近寄ってはならないと私を自身の傍に保護したに違いない。
しかし、彼は“待っていて“の言葉を私に残し、自ら帝たちのいる部屋に向かうと、
「お待たせ。許可貰って来たよ」
と、父から逆に承認を得て私の元へと帰ってきたのだ。
綺麗な男の子だと思った。
また同時に変な人だとも悟った。
……でもそれ以上に、彼に着いていけば何か面白いことがある。
そんな予感がした。
「分かった。……宜しくお願いします」
どうしてか、この機会を逃してはならないと直感したのだ。
彼に連れられた部屋で、私たちは永き時間を共に過ごしていた。
実際には半刻ほどだったのだろう。
彼の持参した遊戯の軽い説明を受け、早速と対局を行う。
白、黒、白、黒、白、黒…………単純だが奥深い。
”むむむ”と初心者である自分以上に真剣に悩む彼。
その様子がどこか可笑しくてクスリと口元を緩ませる私。
だが二人の時間はあまりにも早く溶け去っていく。
「もう一度……」
まだ遊びたい。
そう願うも時は無情に訪れていた。
―――そろそろ約束の時間だったかな。そろそろお開きにしようか。
“時間切れ“の文字が視界に浮かび上がる。
それほどまでに彼との時間は一瞬であった。
言い換えれば有意義だった。
楽しい、まだ遊んでいたかった。
面白かった。
終止、過去、詠嘆か……その全てだろう。
「あっ」
と気づいた時にはもう遅い。
器から溢れるよう自然に、閉じようとも自身では抑えが効かない。
どうしてこんなにも感情が溢れているのか自分ですら分からない。
それほどまでに私の涙は川となり、頬の上を止まらず流れていたのだ。
離れ離れになるのが恨めしく惜しい。
もう少しだけ二人で遊んでいたい。
この時間の終わりを許したくなどなかった。
立ち上がり、こちらへ静かに手を差し伸べる彼。
哀々の気持ちが私の口内を柔らかな涎で支配している。
こちらへと寄り添い、雀をなでるかのよう情けに私を抱きしめる。
どこか安心する彼の胸……私はこの短時間で既に惹かれていた。
「その…」
静かな時間が流れた。
座ったまま何かを伝えようと見上げる私。
彼は首を傾げ不思議そうにこちらを眺めている。
そんな憐れな時間でも構わない。
あと少しだけ、このままでいさせて欲しい。
「待って」
無駄にはしたくなかった。
飢えた私の心を大きく満たしてくれた初めての存在なのだ。
この幸せに満ちた心をただの夢幻で終わらせたくなかった。
互いの名を知らぬまま終わってしまう可能性があったのだ。
だからこそ、幼心はそれを絶対に許さなかった。
「私の名前……」
『いつか貴方の大切と思う人にのみ、明かしなさい』 と母から教えられていたこと。
『親しく愛する者にこそ、預けるために守りなさい』 と父から命じられていたこと。
その真名を……私の名をここで彼に預けなければ、一体他にどうして明かすのだろうか。
――ならばこそ、彼にしかあるまい。
「私の名前は『葵の上』。だから……覚えておいて欲しい」
勇気を振り絞り少女が紡いだのは己が絶対名。
相手を忘れないため。
いつかの再会を信じ。
また会いたいと願いを掛け……『葵の上』を彼に贈る。
少年は嬉しそうに、部屋へと迎えが来るまで、何度も少女からの宝を呟き続けていた。
自邸へと戻った『葵の上』
運の良く未だ灰雲はやってこず、煌々と空を灼かせた夕焼けが宙には広がっている。
彼女は空を見上げていた。
……彼も今この景色を眺めているのだろうか。
……また再び、彼に会えるだろうか。
「次はもっと……頑張って話してみたいな」
少女の願い、再会は早いのかもしれない。
・
・
・
・
・
七歳
彼との再会を果たし、二人だけの時間だ。
姉の『頭の上』は不在だが、今は少し怯えているだけだろう。
八歳
努力が実り、彼に遊戯で初めて白星を飾った。
姉と彼はゆっくりと打ち溶けているようだ。
九歳
彼の妹が共に訪れた。
彼に似た輝かしく可愛らしい少女だ。
十歳
『光の姫』は私を警戒しているようだ。
彼に近づくとさり気の無い妨害。
不安の込み入った表情。
少し、ほんの少しだけ、鬱陶しく感じてしまうのは仕方ないだろう。
十一歳
少年は元服をし、私たちより先に大人の格好へと変身していた。
だが変わらず私たちに接してくれている。
どこか遠くに離れてしまったようなこともない……が、これは見合いである。
私は身内だからといって少し油断をしていたのかもしれない。
「慕っております」との言を姉に先越されてしまったのだ。
ハッと正気に戻った私は自分の想いも伝えてみようとする。
しかし、『光の姫』の “二度はない“ そう暗に伝えるかの恐ろしい視線に竦んでしまい結局伝えることはなく一日を終えてしまうこととなった。
彼の帰った後、一人哀しんでいる私の様子を案じた父がどうしたかと聞いてくる。
事を伝えると 「分かった。私に任せなさい」 そう言い父はそそくさと目の前を去っていった。
十二歳
裳着を済ませ、目の前には彼の顔を遮る御簾が。
彼の妹は今回の見合いには着いて来ていない。
父による根回しの結果だろう。
再び、姉による彼への遠回りな求愛が先に行われたが今は問題ないと感じた。
なぜならば、彼は姉の心を本心では受け取っていないからだ。
少しも寂しくなかったのかと言われたらばそれは違う、勿論悔しかった。
そこで私は前回のような失敗を起こすまいと、正式な儀を踏むことにした。
来年、彼が私の元へ訪れ詩を詠む約束を取り付ける。
私たちは既に成人した男女だ。
こうも外堀を埋めれば失敗はないだろう。
十三歳
深夜、訪れた彼が私に詩を詠んでいる。
彼の透き通る声から幸せを享受し、姉には少し悪いが今度こそはと望み臨んだこの瞬間だ。
私は今までの彼に対する想いをゆっくり言葉に紡ごうとしていたのだが……少し外が騒がしい。
御簾に近寄り、薄っすらな月の光を頼りに彼の方を覗いた。
何とそこには彼の妹……『光の姫』が、彼を押し倒しその上にまたがり掴みかかっているではないか。
込みあがる気持ちは何事だという困惑。
心を支配するはそれ以上は許さないとの憤怒。
私は御簾から飛び出し『光の姫』を彼から離して叫んだ。
「どうして現れた、どうして私の時間を邪魔するのか!」
――お前の時間ではない! お前の兄さんではない!
「何を言うか⁉ いい加減兄離れをしたらどうか! 私は……私はこの日をずっと待ち望んでいたというのに‼ お前のせいで台無しだ!」
――私だって待っていた! お前こそ兄を誘惑するこの……遊女め‼
「ふざけるなあ!!」
そこからは揉みあいなど生易しいものではなかった。
半狂乱で私たちは女として最も大事な顔を互いに、引っ搔き蹴り殴ろうとの壮絶な決闘を始めた。
恐ろしいことになると思われた。
それを覚悟してのことだった。
……だがあっけなく、それを聞きつけた従者や女御らが鬼の形相で集まり争いは即座に鎮圧されてしまった。
不幸中の幸いか、騒動は大事になってしまったものの、互いの容姿は少しの切り傷があったことや服が汚れてしまったこと以外には、特に目立った外傷はなかった。
呆然とする私、呻くように泣くは『光の姫』
――私は、私はただ……兄さんが何処かへ消えてしまうようで怖かったから…。
消え入るような声。
その言葉は私の心の中で、静かに反響していた。
そして、ゆっくりと染み込んでいった。
…
…
…
その後、帝が彼へ“いつの日か必ず責を取るように”と告げ、それに同意するような形で辺りは瞬く間に黄色い声に包まれたのであった。
こっそりと彼は近づき私へと囁く。
曰く、『光の姫』が裳着を済ませるまでは待って欲しいとのこと。
それほどまで大事にされているとは大いに悔しいが、彼にとって大切な妹には違いない。
でも大丈夫。
だって私はずっと、ずっと貴方のことを……、
「……待ってるね」
待っているのだから。
---
今宵は三日月。
御簾を持ち上げ視界に映る人は私の、私にとっての最愛。
いつまでも焦がれたこの瞬間。
――永らく、君を待たせてしまったようだ。
常日頃の遊戯を楽しむときのような笑みではなく、
いつの日か、一人でいる私に声をかけたその柔らかい表情……それに少し謝意を絡ませた彼。
嗚呼ようやく。
この身は貴方と結ばれることが叶う。
いつか見た夢の到来。
十三のやり直し……。
いつまでも待ち望んだ三度目の訪れ。
――約束を果たしにきた。今宵、私の詩を再び受け取ってはくれないだろうか。
それは、
“待っていて“と貴方に初めて送られた詩。
“責任を取る”とあの日送られた二つの詩。
ならばこそ、三つの詩は今この瞬間に。
彼から紡がれていく己が真名。
他者には決して許さぬその響き。
とうの昔に……初めて逢う日その時に私が貴方へと預けたもの。
其の名は……
――『葵の上』――
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END
玲瓏な花には棘があり、可憐な花には毒がある。
絶対に幸せにするのでハッピーエンドです