【完結】ウマ娘プリティーダービー企画短編集ーAutumnー 作:またたね
稲穂が揺れる。風が吹く。空に浮かぶ赤トンボは、季節を渡るように飛んでいる。広葉樹は葉を落とし、秋桜が街路樹と並んで咲く。
空にはイワシ雲。顧みる月日が走馬灯のように流れていく。馬場、良好。
澄んだ空気。短く手入れされた芝。静寂。
「じゃあ、行ってくるね」
「……そうだな」
「……っもう!それだけなの!?」
出走前。勝負服に身を包んだウマ娘がトレーナーへの不満を露わにしている。男は固唾を呑んだ表情をしており、それに対してウマ娘の方は随分と不服な顔をしていた。
「全然ダメ!最後のレースなのに、お兄ちゃんがそんな感じだったら全力出せないもん!」
「ご、ごめん……なんか今までの事が込み上げて、その……大変だったなって……」
ご立腹のウマ娘に対し、平謝りのトレーナー。しかし、彼はどこか感慨深そうな表情も孕んでいた。
それを察している部分もあるのか、彼女も本気で怒っている感じではなく小さな不満があるといった様子だった。
「それでも、ここまで来たんだよ。お兄ちゃん」
真剣な眼差しになり彼女は告げる。
ウマ娘である彼女。カレンチャンは生粋のスプリンターである。短距離からマイルまでを得意とし、好位置につけたときの直線は圧巻の速さだ。
トレーナーと出会って三年。自身の野望とウマ娘として出走することの交差的な利害の一致が、彼女をここまで育てたと言っても過言ではなかった。
無論、それを成し遂げるにはトレーナーである彼のサポートもあっての事ではあるが、彼の頭の中ではこの三年間の悲喜こもごも、様々が蠢いていた。
「カレンが毎日努力した成果だよ」
優しい眼差しで返すトレーナー。彼が発したそれは紛れもない本心からの言葉だ。だが、彼のその言葉の裏には計り知れない感情が数多に駆け巡っていた。
彼女はウマ娘としてだけではなく、大人気ウマスタグラマーとしての顔も持つ彼女。その他SNSも見事に使いこなし、昼夜ネタ探しに勤しんでいる。
勿論、その度に一緒に何かをしたりアポを取ったり保護者の代わりをしているのはトレーナーである彼であった。
彼が発した、毎日の努力とはウマ娘としての努力だけではなく"カレンチャン"という存在そのものを形作る全てに対しての努力を指していた。
濃厚な三年、ついにここまでと、彼は言い表せない感情を抱いていた。
「お兄ちゃんだからここまで来れたんだよ?」
「そう言ってくれるのは嬉しいよ」
彼女の野望、それは世界中に"カワイイ"を広げること。カワイイを広めれば、皆が幸せになる。カワイイで世界を包み込みたい。この理念を抱いて、彼女は日々カワイイの研究をしている。
ウマ娘としてのレースも、その一環だ。走ることへの興味よりも先に、カワイイことへの興味が芽生えてた彼女が走ることに目的を見出したのは他のウマ娘よりも遅かった。
しかし、ターフで全力で走り力の限りを尽くすウマ娘達を見て、彼女は"カワイイ"と思ったのだ。彼女にとって、ウマ娘としてレースに出て一位を獲ることも"カワイイ"の中の一つの行動であり、自身の目的の一つなのだ。
「じゃあ……いつもの言って?」
「……今日もカワイイよ」
「……えへへ……じゃあ、行ってくるね」
彼も恥じらいをなくしたわけではない。未だに言うのは恥ずかしいし、彼女の目を上手く捉えられているかも定かではない。
しかしこれもいつからか習慣化し、レースの出走前に必ず行うようになっていて最早ルーティーンと呼んでも差し支えがなかった。彼女曰く、身近な人に"カワイイ"と言われた時はかなり調子良く走れるという。
彼女は嬉しそうに頬を染め、彼に踵を返した。
今日行われるレースは短距離適性のあるウマ娘が必ず目指すと言っても過言ではない、一つの到達点のようなタイトルだ。それぞれ年月を積み重ねて、培って、登って、ようやくチャレンジすることが許される。勿論一定数の評価や知名度なども関係している。
多くのウマ娘が望む舞台のターフに、彼女は立っているのだ。そして、このレースが彼女の最後の到達点。現時点での最終目標であり、狙うべき場所。トゥインクルシリーズを勝ち抜いてきた彼女にとっての、最後のレース。更に上を目指すにしても、別の夢を追うにしても、分岐点になり得る日なのは誰もが理解していた。
「よし……大丈夫、だって今まで頑張ってきたもん」
少し乾燥した芝の匂い、肌を撫でる風、歓声。自分を鼓舞する、或いは安堵させるかのように彼女は小さく声を出した。トレーナーである彼の為にも、応援してくれている人々の為にも、友人や家族の為にも、そして何より"カワイイ"を証明する自分自身の為にも、この勝負に負けるわけにはいかない。
強く決意を漲らせてゲートに入り、彼女は前を見た。広がるパノラマ、緑と青に包まれた真っ新な世界。吹き抜ける風はどこまでも自由で、彼女の存在を強く再確認させているかのようだった。
続々と出走ウマ娘がゲートへ入る。このレースはフルゲートで、十六人のウマ娘が出走することになっている。ここまで勝ち抜いてきた猛者たち、積み重ねてきた強者たちが一堂に会するのだ。
プレッシャー、張り詰めた空気。
普段は笑顔を絶やさない、柔らかい雰囲気の彼女もその空気を感じていた。自然と表情が強張る、それと同時にこのレースの威圧感を受け取る。
――――でも、カレンがいっちばん"カワイイ"んだから……!
心の中で自分を肯定する。浮遊している沈黙。歓声を遠くに感じ、静寂が来る。自身の基準である"カワイイ"彼が言ってくれる"カワイイ"世の中に溢れている"カワイイ"頭の中を駆け巡るその言葉は、彼女に対する受諾であり許可だった。
自分が自分を認める。否定しないで受け入れる。許可するのは周りや世間体ではなく、自分自身。それは彼女が彼女であるという彼女自身の絶対的な根拠と、存在証明としての"カワイイ"誰にも邪魔できない"カワイイ"全てを証明するための"カワイイ"なのだ。
強く前だけを見る。
全員がゲートで位置に着いた定刻前、ファンファーレが鳴り響く。観衆は手拍子をしたり、双眼鏡で自身の一押しのウマ娘の調子を確認したりと浮足立つ賑やかなムード。
彼女にとってゲートが開くまでのこの数分間は、異質且つ独特なものだった。この時ばかりは"カワイイ"という言葉を念頭に置けなくなるからだ。集中を極限まで高め、風や音、光や影、全てのものが反射的に視界に入るようになる。芝の感触や匂いはその時々で違う。状況把握から既に勝負は始まっているのだ。
鼓動が早くなる、それと同時に視界は鮮明になる。静寂が寄り添う、昂っては冷静に。潮の満ち引きのように、呼吸を繰り返す。
たった数分が永遠かのように感じるこの時間は、今まで積み重ねた時間に対比しているかのようだった。
ファンファーレが鳴り終わる。それと同時にレース場全体が静の空間へと変貌する。
誰もが口を閉ざし、固唾を飲む。目の前にあるものすべてを受け入れる準備、そしてこれから先を焼き付ける準備。
一瞬が一生に感じられるかのようなその空間は、すぐに終わる。眠くなるほどの長い呼吸だろうか、或いは一瞬の生唾か。雲が流れる速度だろうか、或いは落雷か。練習を積んだ全ての時間が、一瞬に。
ゲートが開いた。
――――……っ!
噛み締めるように、踏み締める。十六人の集いし強豪が一斉に土を蹴り上げ、前進する。一瞬、そしてまた一瞬。瞬きする度に距離は縮まり、呼吸する度に足は加速する。"どう足掻いてもこれが最後"ならせめて、出来るだけ"カワイイ"ように足掻こう。ポリシーを纏った彼女は一歩、また一歩と風を走らせた。
「カレン……行ってくれ……!」
静かに、しかし決して冷静ではない眼差しでレースを見つめる彼。彼女が風を切るほどに、これまでの日々が頭を巡る。出会い頭にトレーナーとして指名されたあの時。トリプルティアラを脚質的に断念することになったあの時。映え写真目的で付き添いを繰り返したあの時期。
一緒にトレーニングをするだけではなく、日常生活も彼女と過ごすことの方が多かった彼にとってこの日々は決してレースの事だけではなかった。ウマ娘としての学園生活、トレーニング、実践。それに加えて一人の女の子としての日常、SNS、青春。たかが三年、されど三年。ジュブナイル。
その集大成が、このレースであり、今ここ。"カワイイ"を積み重ねた先であり、ウマ娘としての存在証明。彼の視線の先には、息を切らし走る彼女。普段の"カワイイ"ものに反応するふわりと浮きそうな雰囲気の彼女はいない。愚直に、そして確実に。狙ったものを逃すまいとする猛禽類のように視野を広げる彼女。
しかし、彼女にとってはこの姿も"カワイイ"の一部なのだ。がむしゃらに、今までの努力を吐き出す。誰もが一番を狙い、一位という獲物に向かい加速する。最前の開けた視界で逃げる者、それを逃がすかと虎視眈々と追い狙う者、一撃を溜め込み展開を伺う者、最後列で勝機を狙いながら留まる者。三者三様、様々な思惑が交差する中で勝つことだけが"カワイイ"の証明。
容姿や雰囲気、言動。全てに"カワイイ"を体現している彼女は学園内で疎まれることも少なくなかった。日々研鑽を積み、自身の日常なども顧みずに一位を勝ち取ろうとするウマ娘は少なからず存在する。
そういうウマ娘にとって、彼女の存在はどこか不真面目に映っていたり、居心地を良しとする雰囲気ではなかった。
だが、彼女自身はそれを気にしてはいない。どれだけ陰口を言われても、不真面目だと思われても、勝った者が正義の世界。勝てば勝つほどに彼女をそういう目で見る者は減り、ポリシーである"カワイイ"の意義や意味がのしかかる。
実況の声が響き渡り、その度に歓声が遠く広がる。その中で彼女は、静寂に寄り添っていた。
――――まだ……まだだよね
息、蹄鉄の音、風。前から五人目の位置で、只管抑え込む。一回スパートをかければ、そこから先は全速力で走り切らなければいけない。無論、そのタイプのウマ娘もいるが彼女はレース中盤までスパートはかけない。
中山レース場の中盤から終盤にかけては長いコーナーになっている。1200mの距離の中で、コーナー部分は620m。それを越すと最終直線になるが、入ってすぐに上り坂がありゴール手前で下りになっている。
「あぁ……まだ、もう少し」
彼らは事前のミーティングで、中山のレース場に対し彼女がどのようなアプローチをしたら一番最良かを考えていた。
その結果、スパートをかけるのは最終コーナーに入ってすぐの700m地点で一気に踏み込みをかけるのが残りの距離を万全な速度で走り切れると算出した。
彼女は速度や力はあっても、持久力には多少の心配が潜んでいた。最初から速度を出して逃げ切るよりも、逃げ切ろうとしている出走者についていき、最終に近づくにつれ速度を上げて追い抜くという方法。これが彼らが提示した最善策であり、ここまで勝ち抜いてきた自信でもある。
コーナーでは息を少しだけ緩める、言わば発射準備。近づく最終決戦に備え、蓄える。
「……この調子でいけば」
彼はか細い声で呟く。周囲の人間にも聞き取れない程、小さく。それほどに息を押し殺し、呼吸のタイミングも忘れるほど集中して見ているのだ。全てをぶつけろと、全てを焼き付けようと。
――――そろそろ……行くよっ!
一瞬の判断。彼女は彗星の如く加速した。金色に揺れる稲穂を横に地面を蹴り、彼女の勝負服である赤が閃光のように線を描く。木々が揺れる速度よりも速く、土は舞い上がり砂煙が舞う。天運よりも、自力。三年間の努力で培った"カワイイ"を全てぶつける。その想いだけでここまでやってきた。その想いは、オゾンより高く海溝より深い。
「いけ……っ!」
速度をつけ上がり始めた彼女に、聞こえるかも分からない声を投げる彼。聞こえたかどうかではなく、声に出したかどうかに言霊が宿る。
しかし、彼女だけが対策をしてきたわけではない。ここに集まる十六名は、勝ち抜いてきた猛者なのだ。それぞれがそれぞれに最前最良のタイミングが存在する。彼女がスパートをかけたタイミングを見計らって一緒に上がろうとする者。未だ機会を伺う者。そして、それを気にせず逃げる者。
――――うそ……全然追いつかない……!
二人を抜かし、現在三位。最終直線寸前、二位は目前だが一位との距離は開いたままだった。大逃げ。一位と二位の二人は脚質的に言えば逃げという部分で同義だ。しかし、一位のウマ娘は逃げの中でも更に大きく引き離す走法"大逃げ"をしたのだ。
通常、大逃げを打つのは中距離以上の差が顕著に出るレースが多い。短距離で大逃げをするのは珍しい類だ。
残り300m、上りで速度が少し落ちるところを追い越すしか勝つ術はない。彼女は敵を目の先に見据え、勝利への渇望は捨てなかった。
――――よし……抜いたッ……あと一人!
最終直線に差し掛かる寸前、二位まで辿り着いた。ここからが最後の勝負、本当に最後の、全てを解き放つ時。
「良し……後はあの大逃げ一人だけ……っ!」
自然と手を握る力が強くなる。彼にはもう実況や歓声さえも入ってこない。ただ愚直に、それでも尚。彼女を信じている。これは所謂奪還の航路。一位から一位を奪う、共犯者。解放戦線、それでも尚。彼女に祈っている。
秋晴れ、通り過ぎた夏の暑さが恋しくなることはなかった。何故なら今ここ、この場所が既に夏より暑く、そして熱いから。誰もが目を凝らし、最終レーンへと目を向ける。誰もが息を呑み、結末を見届ける。誰もが手を握り、その勝利を記憶する。
――――カレンが一番"カワイイ"って……証明するんだから……ッ!
彼女は勝負を仕掛けた。最後に残ったパワー、全身全霊をつぎ込んで足を思い切り踏み込む。逃げるのを躊躇わせるかのように、未だ余力を持った足取りで頂点へと接近する。
上り坂。例え前が坂だろうと、道を塞がれようとも、止まることのない勢いで彼女は進む。脚の感覚が薄れる。それでも、それでも。やっとたどり着いた大舞台。自分自身の証明であり物語の証明。
理解あるトレーナーと出会い、大変だけど楽しかった三年間。ずっと頭の中で描いていた自分のこと。"カワイイ"と思ってもらう、否、思わせる。
彼女の頭の中で、全ての日々が再生される。デビューした時、初めてG1に出た時、挑戦を諦めた時、目標を決めた時。隣に必ずいたのはトレーナーたる彼で、必ず言ってくれた言葉に力を与えられて。
その言葉を聞く度に、何度でも頑張ろうと思えた。自分自身をその言葉で鼓舞することで、何だってできると思えた。彼女にとってのその言葉は、まさに魔法だったのだ。自分の言われたい言葉を言ってもらえる事が、どんなに力強いだろうか。
"カワイイ"という言葉が、彼女を形作ってきた。そしてその言葉をかけてくれる人たちが、彼女の形をより明確なものにしていった。家族からの愛、友人との会話、彼との三年間。それら全てが彼女を活性化させ安定させているのだ。
「いける……行け!カレン……ッ!」
――――分かってるよ、お兄ちゃん……!
背中を捉えた彼女が一気に駆け上がる。ここから先は下り坂、残された体力と自力のみの泥臭い戦い。もう三位の出走者の姿は遠く、どちらかが一位になるのは自明だった。
手に、脚に、自分の力の限りを込め、彼女は振り絞る。速く、より速く。疾風と化して。流麗に風を切り、競る。弱いところなど見せず、一心不乱に魅せる。これを人は"カワイイ"とは形容しないだろう。
しかし、彼女にとってはこれが"カワイイ"であり、ウマ娘たる所以であり、彼女が彼女として彼女自身の存在を証明する手段なのだ。実存足り得る"カワイイ"を、彼女は証明しようとしていた。
「……っカレンが、いっちばんカワイイんだから……!」
競る。競る。そして競る。鼻差にもならない程の、超加速が二つ。真っ直ぐ前だけを見据えて、走る。
走る。走る。そして走る。どちらが勝つかなど、もう考えることも出来ないくらいに。逃げようとする者、逃がさないとする者。
人が人たる所以と言われると、余り思い付かないものだ。何故人は生まれて、何のために生きているのか。本能的なものを辿れば子孫を残し、後世へと生存する為なのかもしれない。しかし、それを目的として生きている人間は少ないだろう。人が人たる所以は個人個人に存在し、人であるが故の人として生きている。
ウマ娘は走ることに人生をかけることも少なくない。トゥインクルシリーズの三年を終えて、本格的なプロとしての道を歩む者や、別競技の選手を目指す者、また全然違う道を進む者など進む先は様々だ。
ウマ娘がウマ娘たる所以は、走ることなのかもしれない。しかし、その一方で彼女のように別のものへの熱量が高い者がいるのも事実だ。彼女にとって、走ることは"カワイイ"を証明することであり、走ることも"カワイイ"ことなのだ。
その"カワイイ"の基準は彼女次第で、一般的な"可愛い"の感覚からは少し別の場所にあるかもしれない。だが、彼女はそれを自身で証明しようとしている。それは彼女が彼女たる所以とよべるのではないだろうか。
このレースが最後。三年間、このレースを見据えてきて、最後。でも、その最後に用がある。最後に勝ったその先に、用がある。
ゴールのテープが切られた。
「あの後ほんとに疲れたよ」
「あはは……でも、カレンの"カワイイ"を広められた歴史的瞬間だよ!」
レースを終えて数日後。彼らはトレーナー室の片付けをしていた。
これで一先ずトゥインクルシリーズでの挑戦が終わった彼女。トレーナー室に溜まった資料の破棄や、機材の返却。それを終えて始めて一息がつける。
二人で片付ける最中、出てくる思い出の数々。トロフィーや賞状、使い古した道具たち。そのどれもに"カワイイ"という感情を抱くのは彼女だけか、もしくは。
「たしかに、最後とかすごすぎて逆に覚えてない……」
「えー!?いっちばん"カワイイ"ところだったのに!」
頬を膨らましながら訴える彼女に、彼は申し訳なさを感じつつもあの日を回顧した。
気付いたら、ゴールしていた。彼は今思い返してもそういう感想が浮かんでいた。ゴールに残り数メートルというところまで競りあっていた二人だが、気付いたらもうテープは切られ、ゴールの先に二人の姿があった。
訳も分からぬままに騒ぐ観客たち、レース結果の表示を待ち望む実況、勝敗が分からず呆然とする彼。結果が見たい、でも見たくない気持ちもある。もしかしたら、と最悪の結果が頭を過ぎる。
しかし、それは杞憂に終わった。
結果からして彼女はこの秋一番の短距離レース、スプリンターズステークスを制したのだ。一着の表示が出た時、彼はどういう顔をして良いか分からなかった。それでも、安堵感か、高揚か。自然と涙は出た。
ハナ差。これ以上はないくらいの、接戦だった。どちらが勝ってもおかしくない勝負、最後にその勝利を掴んだのは"カワイイ"だったのだ。
そこからの彼の記憶は怒涛だった。
気付いたらウイニングライブが始まり、あれやこれやのうちに終了。落ち着く間もなく周りのトレーナーや学園の教員たちへの挨拶。
倒れ込むように寝たと思えば、次の日は理事長やその他お偉い方々への挨拶。何かを成し遂げたという達成感を浴びる前に、多忙という名のシャワーを浴びているようだった。
そしてやっと一段落がつき、部屋の片付けを始めたのが今ここ。トレーナー室が結局落ち着くと思いつつも、今度はそれを片付けるというノスタルジーと安らぎが入り混じる空間にいた。
「でも……やっと落ち着いたところで言えるよ。優勝おめでとう、カレン」
「おめでとう、じゃないよ!お兄ちゃんがトレーナーなんだから、一緒に優勝したんだよ?」
「でも、走ってるのはカレンだから……俺は見守るだけで」
一緒に勝ち取った優勝だとしても、彼には彼女が輝いて見えた。自分の信念を持っているだけでここまで素直に努力が出来て、結果を残せる。それは口にするのは簡単だが、行動で示せる人が何割いるのか。
「もう!お兄ちゃんがいなかったらここまで来れなかったよ?」
「う……そういうって貰えるのは嬉しいよ」
彼女の嘘偽りのない真っ直ぐな言葉に、少し照れながら目を逸らす彼。出会った時から、彼女は彼の目を見てちゃんと想いを伝えていた。それは"カワイイ"の中にある真摯な気持ち。
可愛いものに目がなく、そして自分自身も"カワイイ"の写し鏡でいたいという直向きな思い。その道中にレースがあり、トレーナーとの関係があり、今がある。
片付けが進み、部屋が綺麗になってきた。始めに会った書類の山は、必要分以外はシュレッダー。返却する機材や道具は元の場所へ、そしてトロフィーや賞状は箱へ。
机とテレビだけの、どこか寂し気な部屋に巻き戻しをされたような感覚。またここから、何かが始まろうとしているような。
しかし、それはもう在り得た話ではなかった。トゥインクルシリーズを終えた彼女は、次なる目指すものに向け新たな出発を。そしてトレーナーである彼はまた次の担当ウマ娘を決めなくてはならないからだ。
名残惜しさ。
沈黙は、時には安心を纏う。ずっと喋っている関係も良いかもしれないが、そこから一歩進んだ先には沈黙が同居している。黙ってても心地良い関係、黙ってても素でいれる関係。
夕刻、トレセン学園が五時を告げるチャイムを鳴らした。その哀愁は、どこか別離の響きがした。
「じゃあ……そろそろ帰ろっか」
「そうだね、今日の寮の夜ご飯は何かな~!」
一つが終わり、一つが始まる。夕焼けが沈み、朝日が昇るように。一日という円環の中で生きる人々。その最中で出会い、別れ。円環と円環の十字路。合わさった交点。
彼女は成し遂げた。幼いころからの夢である"カワイイ"を広げるという野望を。
しかし、それはまだ旅の途中だ。たまたま、最寄り駅にウマ娘というものがあり、レースというものがあった。そして彼女の旅はこれからも続く。それは"カワイイ"をもっと、更に、世界中に広げるために。
彼は思った。それはきっと彼女にしかできないことで、彼女が彼女である限り決して挫けることはない光なのだと。
そして、その時々でこの三年間の事を思い出すだろう。彼女の中の糧として、力として、光として。
「じゃあ……ここでお別れかな」
心残りがありそうなほど、声は細く。しっかりと彼女を見れているかも分からない、彼の視線。
名残惜しさは、あった。三年間過ごしてきた彼女との別れ。来る日も来る日も、目標への練習を積み重ね、掴み取った勝利、栄光。
彼女との日々が過ぎって、彼はこの先が踏み出せるか不安だった。
「……なんでお兄ちゃんそんな悲しそうなの?」
「……え?だって、今日で終わりだし……」
いつもの様子で、だけど少し心配そうに彼女は彼を覗いた。思い詰めた彼の表情。しかし、彼女のその問いで彼は目を丸くした。
「なんで終わりなのー?」
困った顔をする彼女が、彼には分からなかった。今日でトレーナーとウマ娘の関係は終わりで、明日からは別の目標へと進む彼女とトレーナーを続ける自分。
彼の頭ではその構図が出来上がっていただけに、彼女の疑問に戸惑っていたのだ。
「え……?明日からカレンとは別々だからだよ」
「え?お兄ちゃんと一緒じゃないのー?」
「あれ?だってさっきトレーナー室一緒に片付けたよね……?」
互いに困惑。話が噛み合わない。一致しない。
現状、彼は今日でコンビが解消だと思っているが、彼女はそう思っている素振りを一つも見せない。何かが違う、そんな思いが彼の頭を通過した。
「えー?!お兄ちゃん今日でカレンのトレーナー終わるつもりだったの!?」
「え、違うんだっけ……?」
「全然違う!!お兄ちゃんは明日からもずーっとカレンのトレーナーだよ!」
何かを悟ったかのように彼女は声を上げた。トレーナー関係の解消、彼が考えていたそれこそが勘違いで、すれ違い。
「だって、トゥインクルシリーズはもう終わってカレンの目的は達成されたんじゃ」
「お兄ちゃんのばか!カレンがこれくらいで満足すると思ってるの……!?」
動転。宙返りをしたかのような衝撃に彼は襲われた。終わりだと思っていたのが、どうやら続き物だったらしい。彼は自分の理解力のなさを恥じながら、彼女の言葉を待った。
「日本のレースで勝ったんだから、次は……もうお兄ちゃんなら分かるよね?」
「せ、世界……?」
そういえば、と彼は思い出した。彼女の目標はレースで"カワイイ"を広めるということでも、日本に"カワイイ"を広めるということでもない。
「うん!だってカレンの目標は"世界中にカワイイを広めること"なんだから!」
彼女は自信満々に、そして目を輝かせて宣言する。そして、その時に隣に居てほしいのは紛れもない彼。一緒に世界を目指す。否、"カワイイ"世界を目指すパートナーとして、彼を選んだのだ。
彼は驚きつつも、心に安心がいることに気付いた。離れなくていい、そして彼女のその先を見れる。また三年間のような賑やかな日々になると思うと、楽しみであり心配でもあり。
二人の旅路は、終点駅ではなかった。むしろここからが新たな始発駅。先は長い、けど始まれば一瞬だ。一日が終わり、一日が始まる。今日が終わり、今日が始まる。彼女を形作るものは、彼女以外をも形作っていた。
奇跡に似た汽笛が、町の中で鳴るべくして鳴った。
「まだまだこれからだよ、お兄ちゃん!」