【完結】ウマ娘プリティーダービー企画短編集ーAutumnー   作:またたね

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「サンタクロースの贈り物よ」

聖夜とは良く言ったモノで、こんなにも凍える夜は嫌い。ありきたりなこの夜は――。少女は空を見る。星が綺麗だった。

 

 行き交う人々の息遣いまで聞こえてきそうな、静かな夜。でも煌びやかで、一年の終わりを告げられている気分だ。厚手のコートに身を纏った体は、少女が思っていた以上に熱い。

 吐く息は白く染まって、やがて消えていく。初めての感情。胸の中に居座るのは、ただ少女の本心をくすぐるだけの存在である。言って、そんな大層なモノではない。ただヒトにとってはごく自然なコト。この彼女も例外ではなかった。

 

 雪が降ると天気予報が言っていた。夜の七時を過ぎて、それは事実になる。髪に乗ってはすぐに消えてしまう儚い存在。ふわりとした浮遊感が少女の体を包み込んだ。乾き切った冬の空気が肺に流れ込んでくる度に。

 飾り付けられた大きなツリーの下で、鈴が鳴る音を聴きながら、この聖夜から切り離された世界に浸る。

 恋人たちの夜。ひとりきりの少女にとって何ともない夜である。そうやって自嘲する気にもなれなかった。

 

 体温が上がっていく。降り始めた雪をも溶かしてしまうぐらい。紅潮した頬、落ち着かない体、その全てが少女の感情そのものなのだ。苦しくなってまた白い息を吐く、少女の想い。

 

 ヒトよりも良い耳が反応した。自身の名前を呼ばれた気がして。ツリーを見上げるのをやめて、半身振り返る。

 意中のヒトが少女の目の前に立っている。優しい笑顔をしている。それだけで、少女の胸はときめいてしまう。

 

 いつもの通り。

 これまで通り。

 平常心のまま。

 

 こんな時に頭をよぎる。そうやって何度も何度も、あのヒトに教わったのに。

 ほんの僅かに上がった口角を誤魔化すつもりも無くて。

 

 ジングルベルが鳴る。

 想いが通じる少し前。

 

 

★★★★

 

 

「――夏祭りの話、聞いた?」

 

 揚々と尋ねるセイウンスカイに、少女は少しだけ耳を傾けた。梅雨なのに良く晴れた六月。これまでなら取り巻きが居るのにも関わらず、ここしばらくは一人になる時間が多かった。

 聞いていないと少女が言う。するとセイウンスカイは「ふふん」と鼻を鳴らした。

 

「なんか今回はトレーナーさんが中心となってやるらしいよー。忙しいのにねぇ」

 

 そう言う彼女の言葉は、トレーナーの愚痴そのものであった。セイウンスカイもまた、自身のトレーナーから聞いているのである。学園に対する重めの文句を。

 競走ウマ娘を育成する日本ウマ娘トレーニングセンター学園。通称トレセン学園では、日々少女たちが自らを鍛え上げ、夢に向かって走りを止めない。そのサポートをするのが、トレーナーという存在だ。

 

 このトレーナーというのが中々の激務で、担当ウマ娘の練習メニュー考案から体調管理まで一通りの世話係に近い。細かい部分はトレーナーのさじ加減であるとはいえ、勤務時間は有って無いような仕事だ。

 トレーナーと少女たちを繋ぐのが、選抜レースでスカウト。これが基本である。

 だが現実問題として、やはり相性というのは避けられない。正式に契約したが、どうも合わないというのはよくある話。そうなった場合の対処法はいくらかあるが、いずれも手間が掛かる。

 

 セイウンスカイたちが所属するトゥインクルシリーズは国内最高峰。その分、優秀なトレーナーたちが集ってはいる。

 が、彼らもヒト。少女たち同様に、柔軟な感情表現が出来る生き物だ。夢に挫折したり、激務に耐えられなくなって退職することも珍しくなかった。

 

「良い交流の場にはなるとは言ってたけどね」

 

 セイウンスカイは教室の外を眺めながら、少女に言う。別に返答を求めていないらしい。それが分かったから、言われた方も何も反応しなかった。ただ頬杖をついて、視線を青空に逃しているだけ。

 

 話を少し戻す。彼女らはトレーナーが付かなければ、レースへの出走が認められない。それは彼女たちを守るためでもある。だが勝手にレースに出て怪我でもされれば、運営母体であるURAの管理・信用問題にも発展しかねない。結果的には「守る」ことになるが、その経緯は彼女たちが思っているほど綺麗ではない。

 

「――いつまでも引きずってちゃダメだよ」

 

 穏やかなセイウンスカイではあるが、時折こうして胸に刺さることを言ってくる。それはこの彼女も十分すぎるほど理解していたから、何となく心の準備は出来ていた。

 

 この少女には、担当トレーナーが居ない。正確に言えば、契約を解除してしばらく経つ。その理由を彼女に言わせれば「信頼関係の欠如」である。

 引きずっていない、と口では言う。だがそれは分かりきった嘘である。水色の彼女は、呆れたような感心するような、よく分からない表情をしていた。

 

「わたし知ってるよー。あのトレーナーさんの練習メニューを密かにこなしてるの」

 

 頭の上にある耳がピクリと反応した。だがそれを認めようとしないのが彼女である。セイウンスカイもそれを知っていたから、それ以上は何も言わなかった。

 でもそれは肯定そのもの。となれば、彼女の言う「信頼関係の欠如」という理由は破綻してもおかしくない。そもそも、トレーナーも付けず練習すること自体が、このトレセン学園ではグレーなのだから。

 

 スカイさんには関係ないと言いながら、少女の決して大きくはない胸が痛む。言っておきながら、それは本心でも何でもないことに、本人も気づいていた。

 ただでさえ、トレーナーが決まるまでに時間が掛かった。それなのに、せっかく声を掛けてくれたあのヒトはもう居ない。この学園から逃げ出した。それなら――まだ良かった。

 

 少女の表情が歪む。思い出すだけで腹立たしい。一流であるこの自分に、一流だと言い張るトレーナー。これ以上ない組み合わせであると、彼女は信じていた。

 実際、同期のスペシャルウィークや、このセイウンスカイと繰り広げた弥生賞、皐月賞での激戦。結果は惜しかったが、一流の名に恥じないレース展開は着実にファンの心を掴んだ。

 

 その頃だった。トレーナーから契約を解除したいと言われたのは。

 彼女は驚きよりも、怒りの方が先に出てきた。一流には一流を。それが少女の流儀だ。そしてそのレッテルというのは、あまりにも重い。他人の目からは判断できない彼女なりの基準があったから。だから怒ったのだ。

 

 当時のトレーナーは言い張った。「家の都合」だと。だが、彼女には信じられなかった。

 新人のくせして、あんな大勢の前で「一流のトレーナー」だと自称したヒトが、そんな理由で辞めるなんてあり得ない、と。

 

 ――彼女の予感は的中していた。それからは、これまで生きてきて一番に大きな声を上げ、感情のままにトレーナーを罵倒した。流れ出る涙に気づくこともなかった。そして自身から言いつけたのだ。契約解除を。

 それは少女にとって、優しさでもなんでもない。ただ嘘を吐かれ、弱っていく体に張られた虚栄に気付けなかった。そんな自身のことすら、彼女は憎んだ。

 

 その噂はすぐに広がった。少女を気遣う声も少なくなかった。同時にスカウトの話もチラホラと。

 一度はセイウンスカイの担当トレーナーに面倒を見てもらったが、出るレース全て惨敗。自身の走りが出来なくなっていたから、レースに出ることすら辞めてしまった。

 

 セイウンスカイのトレーナーが一流ではない、というわけではないのだ。ただ、彼女にはあのヒトが合っていたというだけで。それが分かってしまったから、今もこうしてひとり。

 

「立ち止まってちゃ、置いていくからね」

 

 そう言って、少女の前を離れた。練習に行くと言い残して。嫌味でもなんでもない。残されたのは――走る意味を見失った空っぽの器だけであった。

 

 

★★★★

 

 

 ジングルベルの音色とともに夏祭り。

 波に乗って、サンタクロースがやって来た。

 

 学園を開放して、青空の下。初日を迎えた。

 盛大に開催されたソレは、少女の思っていた以上のクオリティであった。中でも、夏のサンタは子どもやウマ娘たちの目を引いた。立っているだけで汗が出てくるというのに、あんな白髭をたくわえて。赤い衣装は半袖スタイル。

 

 少女が出店を横目に歩いていると、そのサンタと目が合った。ガラス越し。ソレは涼しい屋内に居た。休憩時間だろうかと、面白くないことを考える。そもそも何故サンタクロースが居るのかも分からない。この暑さに耐えたくなくなったから、ひとり脚を向けた。

 そこは校舎の中にある食堂であったが、この日のために凝った飾り付けが輝いている。

 とにかく涼しかった。空調はもちろん、それ以外からも。アイスクリームの出店であった。

 

「よく来たね。アイス食べる?」

 

 見覚えのある女性トレーナーが声を掛けてきた。どこで見たかは記憶に無かった。

 少女は少し返答に戸惑った。そのつもりが無かったからである。

 

「じゃあ、サンタに会いに来た?」

 

 思っていた返事が来なかったから、女性はそう言い換える。笑っている。表情から相手の感情を読み取ることぐらい、この仕事をしていれば容易だった。

 二度も無視するのは申し訳なかったから、少女は仕方なく頷いた。別に間違いでは無かったから。

 

「あはは。客引きで目立つかなって。ただそれだけだよ」

 

 少女が理由を聞くと、女性は笑いながらそう言った。「今は暇してるみたい」と付け加えて彼女の元を離れる。

 確かに今はひとりだ。窓際の席に座って、黙って外を眺めている。中々におかしな光景だ。

 だからと言って、このまま立ち去るのも気が引ける。そう、そうだ。ただ涼むだけ。しばらく冷気に当たりたいから、と自身を正当化する。

 彼女はいつもそうだった。一流であり続けるために、比例してプライドまで高くなる。だがそれは、自身を守るために必要なこと。尊厳を保つために、作り出した虚無の壁である。

 

「願い事かな?」

 

 サンタクロースの隣に座った少女に、ソレは声を掛けた。彼女が思っていた以上に低い声であった。

 違うと否定する。ただ隣が空いていたからと付け足して。するとソレは、上品に笑った。

 

「そんな顔には見えないよ。僕は君を見たことあるから」

 

 そう言われて、あのトレーナーの顔が浮かんだ。けれど、声もそうだし、雰囲気だって全然違う。

 そういえば。と、あの日セイウンスカイに言われた言葉を思い出した。これはトレーナーが中心となったイベント。だから隣のコレも、そうなのだ。

 そう考えると、中々におかしな光景だった。どこか見下すような視線を送ると、また目が合う。

 

「トレーナーに捨てられたウマ娘は、何を思うのだろう」

 

 反射的に視線が尖った。自身のことを貶されているようだったから、咄嗟に。でもそう言われて、哀れな自分が情けなくもあった。だから少女は歯を食いしばって言葉を飲み込む。

 

「や、悪い。僕はあのヒトと同期でね。つい言い方がキツくなってしまった」

 

 気にしていないと言えば嘘になるが、少女はそう言った。また見栄を張ってしまったわけだ。トレーナーが居なくなってから、その癖が酷くなったようにすら感じられた。

 

「君の言うことはもっともだ。だから僕はサンタ役なんてやりたくなかったんだよ」

 

 少女が口の悪さを指摘すると、ソレは苦笑いしながらそう言った。妙に軽さを覚えるこの男。役に徹していない()()。かつてのあのヒトに似ている気もした。別人だと分かっていても、湧き出てくる嫌悪感が少女の顔を曇らせる。

 

「こんなにも晴れているのに、そんな顔は似合わないよ」

 

 とにかく、よく喋るサンタクロースである。少女はそのままの表情でその顔を見る。幼かった頃、夢を見たあのまんまの見た目をしているせいで、ついまた視線を逸らしてしまう。

 

「それで、君はトレーナーを見つけたのかな」

 

 見つけていないと言えば、また冷やかされるだろうと思った。だから彼女は何も言わず、ただ賑わう外を見つめる。それが十分すぎる返答になっていることに、彼女は気づいていない。

 あのヒトと仲が良いというと、それなりに絞れてくる。だが、少女はいまいちピンと来ない。それもそうだ。自身に付きっきりの時間が長かったのだから。他の誰かと話している姿なんて、見たことがなかった。

 

 ふと気になった。

 あのヒトが、普段どんな顔をしてヒトと会話しているのか。どうして今になって、なんて感情には背を向けて。

 

「え? うーんそうだなぁ。結構お調子者だよ。冗談も良く言うし」

 

 少女の問いかけに驚きながらも、サンタらしくない口調で答えた。もはや役に入ることすら忘れているよう。それでも、少女は先ほどのようなイラつきを抱くことなかった。

 確かに、彼の言うことは理解できた。少女が知っているあのヒトの印象と同じだったから。それでいて、トレーナーとしての素質も目を見張るモノがあった。だから彼女は、心の底から信頼していた。それなのに。

 

「ただ、悪く思わないでほしい。君に気を遣っていた。相当ね。もちろん、嘘をついたのは良くないけどさ」

 

 本人に代わって謝られる。それで許してしまうほど、少女は大人ではない。むしろイラついていた。それなら最初から本当のことを言って欲しかった、と。

 自然と拳に力が入っていた。ソレをサンタクロースが見つめている。あんなにも夢に溢れた幼少期。それとは正反対の感情を、少女の胸を覆い尽くしていた。

 

「……相当怒ってるね」

 

 それはそうだ。二人三脚で一流を極めると約束したのに、一方的な都合で突き放されたのだ。

 いいや。少女だって鬼ではない。最初から本当のことを言っていれば、自ずと納得して、身を引いていた。なのに、ありもしない都合を理由に挙げてきたことが許せなかった。

 

 彼女が「信頼関係の欠如」を契約解除の事由にしたのは、そこにある。それだけ、トレーナーのことを信じていたから。裏切られた時の怒りというのは、このサンタクロースが思っているよりも深く、彼女の心を傷つけていた。

 

「よし分かった。そこまで言うなら、願い事を叶えてあげよう」

 

 あまりにも唐突だった。咄嗟に何も言ってないと言う。するとサンタクロースはガハハと笑った。会話になっていなかったから、少女はため息を吐いて、また窓の外を眺める。少し雲が増えていた気がした。

 

 願い事。そう言われれば何だろう。

 少女は考えたこともなかった。ここしばらくはそんな機会も無く、ただひたすらに練習していた。

 そういえば。トレーナーと契約解除してからは、ずっと後ろを見ていた。前を見る余裕もなければ、つもりもない。それだけの存在を失ったのだと、心の中で分かっているから。

 

 ――走りたい、口から出そうになった。それは無意識のうちに。だからすぐに分かった。ソレは紛れもなく、自身の本心なのだと。

 走る意味を見失ってしまった少女にしか分からない感情。そもそも、自身は何のために走っていたのだろう。そうやって自問しては、一流になるため、より高みに行くため、なんて漠然とした答えで誤魔化す。

 

「――なるほど。随分と恐ろしいことを言うね。君も」

 

 そんなことはないと否定する。本当ならもっと罰を与えたいぐらいだと、付け加えて。するとサンタクロースは笑った。確かにねと。

 

「え、いや、それは厳しいんじゃないかな? サンタとは言え、時間が――」

 

 彼は思い切り狼狽えていた。何故かと言うと、少女が無理難題を突きつけてきたからである。明後日で終わるこの夏祭り期間中に、その願いを叶えろと言う。

 時間が無いなんて言うのはサンタクロースとは呼べない。確かにその通りであるが、このタイミングでの少女の正論はあまりにも重い。

 

 元はと言えば――。少女の駄々を聞き流しながら、サンタクロースは友人を思った。こんな面倒なヤツの相手をする友のことを。

 だからこそ、本当のことを告げづらかったのだろう。本当の心は弱くて、見栄っ張りの少女のことを理解していたから。

 

 だからこうして、少女は今も待っている。

 叶うことのない現実に目を背けて。

 

 

★★★★

 

 

 夏が終わろうとしている。最後の夜に、少女はグラウンドを眺めていた。誰も居ない。それもそのはず、既に練習時間は終わっているから。誰も居るはずがないのだ。

 一人での練習には慣れている。この静かな空気はいつも吸っているソレより澄んでいる気がした。普段よりも静かな観戦席。僅かに鳴る足音を、少女は聞き逃すはずもない。

 

 鬱陶しい母親から、また連絡が来た。帰っておいでと。ずっとだ。ずっと、ずっと。トレセン学園に入学した時から、少女のソレは言い続けている。

 だから、ただでさえ今の彼女は機嫌が悪い。どう足掻いても、決して認めようとしない親の元に生まれてしまったのだから。

 

 そんな少女の元へ、サンタクロースがやって来た。杖なんて持っている。夏祭りは終わったというのに、一昨日よりも本格的である。しかもこんな暑い夜に、真っ赤な衣装を纏っている。見ている方が暑苦しくすらある。ソレは、少女と少し距離を置いてゆっくりと腰掛けた。暑さのせいか、足取りは重そうに見えた。

 

 少女は察した。一昨日の願い事は叶わなかったのだと。約束通りここに来たものの、それもそうだ。体を壊したヒトがこんな夏の夜に、こんなワガママに応えてくれるはずもない。いくらあのトレーナーとはいえ、無理なモノは無理なのだから。

 

「――走っている君は、どこなんだ?」

 

 でも、その推測はすぐに崩れ去った。

 ソレは違った。耳が動く。聞き間違いでは無いかと、少女は声を漏らした。

 

「あ、いや、サンタクロースだ。そこのとこ、よろしく」

 

 違う。そんなんじゃない。いま、少女の少し離れたところにいるのは、サンタクロースなんかじゃない。

 だけど――踏みにじる気にはなれなかった。一昨日、思い切り蹴ってしまいたいなんて、言っておきながら。

 

「あれ……そこに居るんだろう?」

 

 少女が反応しなかったせいである。この夜はあまりにも静かだった。互いの呼吸音すら聞こえてしまうぐらいに。なのに、サンタクロースは問いかけた。

 

 

「随分呑気なのね。あなたって」

 

 

 自分の声なのに、頭に、耳に、胸に。とにかくよく響いた。心の中にあった霧が晴れたように。こんな感覚は久しぶりだった。するとソレは笑ってみせた。

 

「いや、まだ繁忙期じゃないからさ」

「……ふん。減らない口ね」

「お互い様だろう」

 

 懐かしくて胸焼けするこの夜。少女の胸に広がっていくよく分からない感情は、星の下で瞬く間に大きくなっていく。

 この絶妙な距離感が、二人の心を上手く表現している。どちらからも近づこうとせず、かと言って、離れようともしない。

 

「それで、願い事はどうしたのかしら」

 

 少女が問いかけると、ソレは笑った。

 

「中々な無理難題だ。元トレーナーを蹴り倒したいなんて。死んでしまうだろう?」

 

 だからサンタクロースなのね、とは言わなかった。少女は言葉を飲み込んで、別のモノを探す。どのみち、嫌味になることには変わりないのだ。

 

「そうしたくなっても可笑しくはないでしょう? 私への裏切りなのよ。あのヒトは」

「……うん。それもそうだ」

 

 裏切りというのは、一流の仕事ではない。その時点で、彼女のトレーナーになれる資格を捨てたようなモノだ。そうせざるを得ない状況だったとしても、嘘を吐かれたことに対する怒りは消えそうもなかった。

 

「あのヒトは結局、逃げただけなんだよ。走る君のことが見られなくなって、一流になんてなれないと悟ったから」

 

 トレーナーはトレーナーで苦悩している。それは少女にだって理解できていた。こうして漏れる言葉の一つ一つを、丁寧に拾い上げようとしている。それは誰の目で見ても明らかなほど。

 

「だったら何? 私は諦めてないわ」

 

 だから驚いた。そうやって言葉の全てを否定されることが。暗闇の中に光るその存在感だけを感じて、この闇を切り裂いてはくれないだろうか、なんて。

 

「……っ。あーもうっ!」

 

 少女はイラつく心を治めるように、あえて感情を声に出した。怒りというか、焦りというか。どうしてこんな言葉を投げかけたのか。自分自身でもあまり分かっていなかった。

 

「そんな悲しい顔をしないでくれ」

 

 それは、心を逆撫でする言葉であった。誰のせいだと、彼女は言いたくなった。なのに、そう言えなかった。

 このヒトは、誰よりも自身のことを理解している。友や他のトレーナーたちの誰よりも。

 

「分かったような口を――」

 

 一昨日とは違って、先ほどから目が合わない。いや、そもそも彼が少女の方を見ようとしなかった。ただグラウンドの方をジッと眺めている。黒い瞳が不規則に揺れている。

 あぁ、そうか。もう見られないんだ。私のことも、私の走りも。G1を獲るその瞬間すら、泡沫のように消えていく。言いかけて、狼狽えた。

 

「僕が知っている君は強い。走るのをやめたりしないはずだ」

 

 それはあまりにも残酷で、暗闇で。前に進めないことと同義であった。

 だからそう言った。記憶の中にある少女の走りを風化させないために。

 

「でも不思議だな。いまは星の上にいるみたいだ。このまま銀河に流されるのも悪くない」

 

 独特な言い回しが懐かしかった。少しムカついたから、彼女はあえて正反対のことを言う。

 

「そう。この世界は真っ暗よ。なのに、あなたはそう言うのね」

「世界というのは、君の心のことか?」

 

 小さな針で刺されたようだ。気持ちが悪く、妙に意識が胸の奥にいく。

 

「一流なんだろう。強いんだろう。なら君は、なんでここに居る。どうして、前に進まない」

 

 ぷつんと音がした。少女の中で。言われっぱなしは性に合わないから。

 それが何なのかは分からない。だけどすぐに感情の波となって、この世界にやって来る。

 

「あのヒトのせいだと言ったら、傷つくかしら」

「……そりゃあ、ね。彼もヒトだから」

 

 「そう」少女はそれ以上何も言わなかった。力の無い言葉は空気に溶け込んでいく。そう返事したことすら、すぐに忘れてしまいそうなほど弱い感情のカタチとなって。

 

「私たちには、チャンスは一度しか無いの。それを気安く手離すつもりもないわ」

 

 彼女を初めてスカウトした時も、同じことを言っていた。いかにして振り向かせるか、そのことばかりを考えていたあの頃。今でもはっきりと脳裏に浮かぶ少女の悔しがる顔。

 

「………やっぱり君は優しいな」

「別に、そんなんじゃないわ」

 

 少女は照れ臭そうに言う。懐かしくて、切なくて、胸の奥が(せわ)しなく揺れている。

 彼女の言うチャンス。ヒトやトレーナーと違い、その全盛期は短くあっという間に過ぎ去ってしまう存在であるからこその言葉だ。それを正面から受け止めるのであれば、今の少女はあまりにも無駄な時間を過ごしている。それは自身も良く分かっていた。

 

「一流と言うのなら、途中で投げ出すのは認めない」

 

 あれだけ嫌悪していた存在なのに。なのに。出てくる言葉はまるで――再会を待ちわびたかのようで。

 

「可笑しいな。契約解除を叩きつけられたのに」

「へっぽこには荒療治が必要なの。それが効いたのかしら? ねぇ、サンタクロースさん」

 

 ふと、記憶に溺れた。近くて、手の届かないあの頃の話。出会ったばかりの彼女の顔が脳裏に浮かぶ。

 

 この少女は、決して強くない。

 高飛車で、自惚れているだけの存在。優秀な血を引いているとはいえ、実力が伴っていない。それがトレーナー間の評価であった。

 概ね同意であった。彼も分かっていた。周りからは「苦労する」とまで言われた。だけど、放っておけなかった。

 自身を持ち上げていたのは、プレッシャーを掛けて己を奮い立たせるため。だからどんなに辛くても、結果が出なくても、彼女は声を大にして言った。「一流」であると。

 

 なんとかしたい、その一心だった。同情と言ってしまえばその通りかもしれない。だけど、そういう感情に駆られるのがヒトであり、トレーナーなのだ。

 

「……またチャンスをくれるのか?」

 

 その彼女が、今こうして手を差し伸べている。皮肉なモノで、助けたつもりが助けられていた。予期せぬ病に倒れ、視界を失いかけているというのに。

 

「だから、さっきからそう言ってるじゃない」

 

 少女はトレーナーのことを心から認めていた。尊敬していた。彼の作る練習メニューは自身の脚に合っていたし、日々の成長を実感していた。

 だからこそ、嘘を吐かれたのがショックだったが故に。彼女自身、つい口走ったと頭では分かっていた。それは決して本音ではなくて、作り上げた虚像の言葉に過ぎない。

 でもそれを撤回することも出来なかった。一度走ってしまった列車は、止まるまでに時間がかかるのと同じで。ゆっくり、ゆっくりと本音の前に止まった。

 

 本音という汽車に片脚を乗せると、妙な感覚に襲われた。少女はふわりと体が浮く気分。まるで水の上に浮かんでいるような。

 またスタートラインに立てるかもしれない。彼と一緒なら、どんな困難も乗り越えていけるかもしれない。そんな想いで、押し潰されそうになった。

 

 あんなに渦巻いていた嫌悪は、もう居ない。

 

「それがどういう意味か、分かっているのか」

「ええ、もちろん」

「指導だって、満足に出来ないんだぞ」

「並のトレーナーならね」

 

 あなたは違う、と言われているようだった。嬉しいような、照れ臭いような。彼は緩む口元を隠しきれなかったが、蓄えられた白い付けひげが幸いした。

 

「感謝なさい。もう一度、私のトレーナーになる権利をあげるわ」

 

 夏色の汽車に乗って、このままどこかへ行きたい気分だった。そんな高鳴る気分のまま、少女は言う。そう本人に伝えて、と。こんな夜に、懐かしい高笑いをしてみせて。

 

 涙で震えていただろうと、後から彼に言われた。そんなわけないと言ったけど、彼女は少し嬉しそうに。

 

 

★★★★

 

 

 キングヘイローという少女は、生まれた時から重圧とともに居た。

 

 母親とのすれ違いは、現役生活を終えるまで続いた。元々、走った結果なんてどうでもよかったから。ただとにかく、無事に帰ってきてくれれば、それで。

 その気持ちが、今は少しだけ分かる。あの苦しみを共有できる相手は居ない。基本ひとり。トレーナーや同期というのは、あくまでも寄り添うことしか出来ない存在で、心の奥にまで入り込むことはあり得ないのだから。

 

 優秀な血筋であるが故に、誰よりも速く、強くありたいと願った存在。一流だと吹聴するその様を、笑う者も居た。現にその戦績は、決して順風満帆とは言えなかった。

 

 立ち止まることもあったが、それでも彼女は走ることを止めなかった。どんなに勝てなくても、苦しくても、走り切った。

 キャリアの終盤に、彼女はG1レース「高松宮記念」を制した。たったの一回。一流と言っていた割には、少し寂しい現役生活であった。

 それでも、多くのモノを残した。救った。観る人々の心を揺るがした。その事実は消えることなく、後世に語り継がれていくだろう。

 

 そんな彼女のトレーナーは色々と訳ありだった。彼女が一線を退くと同時に、彼もまたトレーナーを辞めた。もともと無理言って復職してもらった経緯がある。制覇の瞬間だけハッキリと見えた、なんて奇跡は起こることもなく。それでも、溢れ出る涙を止める事が出来なかった。後からソレを聞いた彼女は、嬉しそうな顔を隠せなかった。

 

 頬杖をついて優しく笑う。夏の昼下がり。

 

 そんなあのヒトも、今は何処かで幸せに暮らしている。自身に負けず劣らずの良い恋をしたらしい。あんな軟派で軽い男が。でも、彼女はそれが嬉しかった。

 

 彼と出会って、生き方を決めることが出来た。全うすることが出来た。彼女にとって、彼は恩人である。何度も何度も言い合いになったあの頃が懐かしくて、今もこうして思い出す。

 

 おもちゃ箱が鳴る音を聞きながら、ミルクティーに口付ける。目には、風に揺れている洗濯物が映る。

 

 皮肉なことに、ヒト並の生き方は彼女に合っていた。一流と自称していた頃よりも心は軽く、忙しない毎日を過ごしている。

 普通に恋をして、普通に愛を知る。いつかのクリスマスで、想いが通じ合った。そして、そのカタチをこの手で抱いた時のあの喜びは、一生忘れることないだろう。

 

 だから、彼女もまた母親の系譜を辿る。

 あれだけ言っていたのに、引退してからは現役時代の栄光に(すが)ることをしなかった。

 

 ――涙が叫んでいる。物思いに水を差された気分だったから、呆れた顔をして見せて席を立った。でも、どこか嬉しそうですらあった。これもまた、幸せの証だと思っているから。

 

 こんな話がある。

 

 G1を制した後、ようやく結果を出した彼女には当然マスコミが集まる。そこでの発言が少しだけ話題なった。あのヒトの耳にも入っていた。照れ臭そうに笑ったという。

 彼女がさっきまで見ていたとある雑誌の切り抜きが、テーブルに残されている。夏の日差しに灼けることなく、これからも彼女の支えとなることだけを誓った記録である。風に揺れて、浮かび上がった。

 

 ずっと一流だと言っていたじゃない。だからこの結果は必然なの。今さら驚くこともないでしょう?

 ……でも、ここに来るまで色々とあったわ。それでも、私はここに居る。これは全部、私だけの力じゃない。

 

 そうね。あえて言い換えるのなら――。

 

 

「サンタクロースの贈り物よ」

 

 

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