【完結】ウマ娘プリティーダービー企画短編集ーAutumnー 作:またたね
一言で現すなら、その少女は“間の悪い”ウマ娘だった。
例えば、少女が外に出ると快晴だった空から急に雨が降る。
また少女が人の多いところに行くと、そこでは不思議と喧嘩が起きる。
そして少女が町を歩いていると、かなりの頻度で赤信号に足を止められる。
そんな小さな不運に、よく遭遇する少女だった。普通ならば、そんなことが続いたとしても『運が悪かった』の一言で済ませられることだっただろう。
しかしその少女の場合は、その類に含まれなかった。それは過去にその少女へ向けられた些細な言葉が、彼女の無垢な心を縛るキッカケとなった。
『ライスちゃんが一緒にいるとよく雨が降るね』
『ライスちゃんと出かけると、よく喧嘩してるのを見かけるのはどうしてだろうね』
『ライスちゃんと一緒に歩くと、なんで信号がよく赤信号になるの?』
何気なく言われ続けた言葉の数々。それは素直だった少女の心に深く突き刺さった。
だからだろう。そんな言葉を言われ続けた結果、少女は当時の幼かった年齢にも関わらず、いつしか“湾曲した考え”を持つようになっていた。
――自分がいると、みんなを不幸にしてしまう
その行き着いた考えが、無垢な少女を変えてしまった。幼い少女が行き着いた考えにしては、それはあまりにも歪んでいたものだった。
しかしそう思ってしまったが最後、少女は気が付くと“ひとりぼっち”になっていた。
意識的に他人を避け、そして独りでいることに少女は慣れてしまった。
誰かと一緒にいることを避けて、一人で好きな絵本を読む。それが少女の日常になっていた。
そんな異様な生き方を始めた少女を、彼女の両親は心から心配した。元より知っていた彼女の
自分がいると周りの誰かを不幸にしてしまう。それなら独りで良い。それが正しい選択だということを少女は信じて疑っていなかった。
その少女の考えは、あまりにも優しい想いだった。誰かの為に自分を犠牲にするその精神は、誰が見ても尊いものだと思えるだろう。
しかしその幼稚な考えの“歪さ”を、少女の両親は見抜いていた。気弱で、内気だけれども素直で誰よりも優しい娘が、そんな考えを持ったまま間違った成長をしようとしている。それを少女の両親は、決して許す訳がなかった。
だが肝心の娘は、自分の考えが間違っていないと信じて疑わない。
それ故に、少女の両親は考えた。少女に自分の考えが間違っていると気づくようになる為の方法が何かを。
しかし考えても、考えた先の辿り着いた答えは――結果的にひとつしか出なかった。
自分の娘に心の底から幸せだと思えるくらいに愛情を注ごう。
そして自分が幸せなのだと気づき、自分の過ちに気づき、自分の幸せを他人にも振り撒けるような素敵な子に育てよう。
少女の名前に相応しい。その名に恥じない素敵な娘になってほしいと願って、両親は娘に底知れない愛情を注ぐことを決意した。
娘が間違えても、間違えなくても、結果は変わらない。両親が自分達の娘に、決して変わらぬ愛情を注いで育てることには変わらないのだから。
しかし少女は、両親から沢山の愛情を注がれて育てられても、その歪んだ考えを変えることはなかった。
一人で大好きな絵本を飽きることなく読み耽け、素敵な創作の世界に入り込む。それが少女の数少ない楽しみとなっていた。ある意味で言えば、それは無意識に身につけた少女の処世術だったのかもしれない。
独りでいるのが嫌だから、素敵な世界が広がる絵本の世界が好きだった。素敵な世界が広がる絵本の世界が、少女にはあまりにも眩しく見えていた。
誰よりも独りでいるのを寂しいと思いながら、誰よりも他人の為を想える。そんな優しい少女は、また独りで本を読む。
しかし、そんな少女にも人生の転機が訪れていた。
それは、母親に連れられたレース場だった。
母親に半ば強引に連れられ、少女は渋々ながら母親の手を握りながら会場を歩き回る。
そして会場が騒ぎ立つと、少女はその歓声に驚きながらも会場の全員が見ている方を見た。
自分と同じような女の子が、走っていた。満面な笑みで、楽しそうに、だけども苦しそうに必死な顔で走るウマ娘達が、そこにはいた。
会場の人の多さに眩暈がしながらも、初めて見たウマ娘のレースに、少女の心は衝撃を受けていた。
会場の人達が、レースで走るウマ娘を応援している。そしてレースが終わると同時に起きた歓声に、少女の胸が人生で一番に高鳴った。
その歓声を受けて、レースに勝ったウマ娘が心の底から幸せそうな表情を会場に向ける。それと同時に更に大きな歓声が会場を再度包み込んだ。
会場全体が幸せそうな熱気に包まれていた。レースに勝ったウマ娘に心の底から嬉しそうな顔で声を叫ぶ人達が、少女には輝いて見えた。
たった一人のウマ娘が、こんなにも沢山の人達を幸せにしている。そんなことが本当にあり得るのだろうか?
その無垢な憧れを、少女は生涯決して忘れることはないだろう。だからこそ、少女が会場に響く歓声の中で無意識にポツリと呟いていた。
『ライスも……あんな風になってみたいなぁ』
内気な優しい少女に、確かな目標が生まれた瞬間だった。
その少女の呟きを聞いていた母親は、少女が今まで見たことのない輝いた目をしていることに小さく微笑んだ。
そしてその後、少女は成長し、名門と言われる『トレセン学園』に入学することを決めたのに、大して時間は掛からなかった。
大好きな両親と離れるのが寂しいと思いながらも、胸にある目標の為に少女は一歩前に進む勇気を振り絞った。
誰かを不幸にする駄目なウマ娘ではなく、誰かを幸せにできる素敵なウマ娘になりたい。
そして自分の名――ライスシャワー。祝福の名に恥じないウマ娘になりたいと願って、少女はトレセン学園に夢を馳せた。
しかし、現実は簡単ではなかった。
人は、簡単には変われない。それを少女――ライスシャワーは、身をもって実感することとなった。
◆
トレセン学園のレース会場から少し離れた場所で、ライスシャワーは茂みの中で座り込んでいた。
体育座りで蹲り、顔を太ももに押し付けて、ライスシャワーが声を殺してすすり泣く。
今日はトレセン学園に入学して、二回目の選抜レースの日だった。入学したウマ娘達で定期的に行われるレースを、トレセン学園に所属する多くのトレーナー達が見に来る。そしてトレーナー達がそのレースを見て、気に入った新入生のウマ娘をスカウトする大切な日だった。
ライスシャワーがトレセン学園に入学して初めて知ったのは、公式レースにウマ娘が出場するにはトレーナーとの契約が必要だということだった。
強いウマ娘と契約したいと思うのは、どのトレーナーも一緒である。成績の良いウマ娘は、同時にそのトレーナーの評価にも繋がる。
しかしトレーナーの数は、トレセン学園に在籍しているウマ娘の数よりもかなり少ない。
つまりは、公式レースに出られる枠は決まっていた。それ故、入学してもレースに出られないウマ娘がいるというトレセン学園の現状を知ったライスシャワーも、当然のように慌てて選抜レースに出場登録したのだが……
「こわいよぉ……」
そう呟いたライスシャワーは、レースに出ることができなかった。いや、それは出れないではなく、出ることを躊躇っていた。
勇気を出して、選抜レースの出場登録をした。レースに向けて、練習も重ねてきた。後は今まで積み重ねてきたことをレースで出し切るだけで良い筈だった。
しかし、選抜レース当日になるとライスシャワーの足はレース会場に進まなかった。
恐怖という言葉が、ライスシャワーの頭の中を埋め尽くす。出たいけど、出たくない。そんな矛盾した考えが、彼女の頭を埋め尽くしてた。
その恐怖の理由を、ライスシャワーは理解できずにいた。
変わりたいと願って、大好きな両親と離れてトレセン学園まで来た。レースで勝つ為の
それなのに、足が動かなかった。住んでいる寮からレース会場に近づくにつれて、足が竦んでいく。そして次第に強くなっていく胸の恐怖心に耐え切れず、気付くと近くの茂みに隠れるように座っていた。
「ちゃんとレースに出ないと……また同じことしちゃう……」
泣きながら、ライスシャワーが立とうと試みる。
しかし立ち上がろうとしても、途中で力が抜けてしまい、ライスシャワーはまた座り込んでいた。
勇気が出せないことに、悔しさのあまりにまた涙が溢れてくる。
一回目の選抜レースも、ライスシャワーは出場登録をしていた。だが、今回のように溢れ出てくる恐怖心に負けて、彼女は選抜レースを辞退していた。
同じことをまた繰り返してはいけない。だからレースに出なければ、そして自分の夢の為に変わらなければ――
「立てないぃ……ライス、立てないよぉ……」
しかしそう思っても、身体が動かなかった。
何度も身体を動かそうとしても、思うように身体が動かない。身体を動かすだけで溢れる恐怖心が恐ろしくて、その場から動けなくなる。
そしてまた悔しさのあまりに、目から大粒の涙を流しながらライスシャワーがすすり泣く。
変われない。変わりたいのに、変われない。自分には変われる資格がない。
泣きながら自虐するライスシャワーが、また嗚咽を漏らして泣き続ける。
「ふむ……? ところでお嬢ちゃん、そんなところで一人で泣いて、一体どうしたんだい?」
そんな茂みで座りながらすすり泣くライスシャワーの元に、一人の男性がそう言いながら歩み寄っていた。
突然、声を掛けられたことにライスシャワーが伏せていた顔を上げる。
ライスシャワーの元に来ていた男性は、彼を見た彼女の感想を言うならば《おじいさん》だった。
見るからに若くない年配者の風貌。怒ると怖そうな顔立ちに見えたが、話し掛けてきた顔は優しい表情をしていた。
白くなった髪を鬱陶しいのか後頭部で雑に一つに結っていた。しかし不思議と不潔感は一切なく、清潔感のある男性だった。
白のワイシャツ、黒いスラックスに茶色のビジネスシューズと絵に書いたような社会人の外見。しかしライスシャワーの目に留まったのは、そんな外見よりも左手で足を支えている杖だった。
足が悪いのだろうか? そんな疑問を抱きながらも、ライスシャワーはたどたどしくその男性に答えていた。
「なっ……なんでもないぃ……ですっ」
慌ててライスシャワーが涙で濡れた目を両手で乱暴に拭う。
しかしライスシャワーが手で涙を拭いだした途端、彼女の前に立っていた男性はそっと彼女の前に片膝をついて跪いていた。
「涙は手で拭うものじゃない。これを使いなさい」
そっと男性がライスシャワーに差し出したのは、青いハンカチだった。
涙で濡れた顔で、ライスシャワーが差し出されたハンカチと男性の顔を交互に見てしまう。
そんなライスシャワーの仕草を見て、勘違いしたのか男性は苦笑いしながら微笑んでいた。
「大丈夫。それは一度も使ってないハンカチだ。気にせずに使いなさい」
渡された青いハンカチをしばらく見つめて、ライスシャワーがそっと男性からそれを恐る恐る受け取る。
そして受け取ったハンカチでライスシャワーが顔から溢れ出ていた涙を拭うと、それを見て立ち上がった男性は満足そうに頷いていた。
「うむ、それで良い。女性の顔は命だ。手で乱暴に涙を拭うと、綺麗な顔が台無しになる」
男性の言いたいことがライスシャワーにはいまいち分からなかった。
しかしこうして男性が善意でハンカチを貸してくれたことには変わりはない。そう思うと、ライスシャワーは軽く頭を下げながら手に持つハンカチを小さく掲げていた。
「えっとっ……ありがとう、ございますっ。ハンカチ……ちゃんときれいに洗って返します」
借りたもの、そしてそれが自分の涙で汚したハンカチなら使ったものをそのままで返すわけにはいかない。
ライスシャワーが目を真っ赤に腫らした顔で男性にそう伝えると、彼は小さく微笑んでいた。
「それは不要な心配だ。それはこうして君と出会えた記念として、君にあげよう。それに青色は緊張と解してくれる優しい色だ。私には君がなにを思ってそんな風に不安な顔をしているか分からないが……君の抱えるその不安が、それで少しでも紛らうのなら安いものだ」
「えっ……そんなもらうなんて……」
見知らぬ人から物を貰う。それが見るからに高価そうな物ならライスシャワーは安易に受け取るわけにはいかなかった。
しかしライスシャワーがそう答えても、目の前の男性は優しく微笑むだけで答えようとしない。
それが遠回しに受け取れと言っているようで、そのことをふんわりと理解したライスシャワーは有無を言わせない男性の微笑みに圧倒されながらも、渋々と青いハンカチをポケットに入れていた。
無事にライスシャワーがハンカチを受け取ったのを見届けて、男性はまた満足そうに頷くと――小さく口を開いていた。
「レース、君は出たくないのかい?」
男性の唐突な言葉に、ライスシャワーは思わず目を大きくした。
「なっ、なんで……ライスがレースに出るって、わかったの?」
「今日は新入生で行われる選抜レースの日。そんな日に君がジャージ姿でいるのなら、おそらく君は新入生だ。そしてそんな生徒がこんな場所で泣いているなら、きっとそれはレースに負けたからだと思いたくなるが……まだ選抜レースはひとつも始まっていない。あとは……簡単な話だ」
考えてみれば、簡単なことだった。
ライスシャワーは観念したと言いたげに俯くと、小さな声で胸の内を男性に告げていた。
「うっ……ライス、レースに出るのが怖い、んです」
口に出せないと思っていたのに、ライスシャワーの口からは言葉が自然と出ていた。
他人に自分の気持ちを伝えるのが苦手な筈なのに、目の前の男性には不思議と自分の気持ちを吐き出すことができていた。
「なるほど、それはどうしてなのかな?」
「わからないの。なんで怖いかわからないから……ライス、すっごく怖い」
「そうか。なら私から、君にひとつだけ質問をしても良いだろうか?」
そう男性に問われても、ライスシャワーは答えずに俯いたままだった。自分の抱える不可解な不安に押し潰されそうになって、目がじんわりと熱くなってくる。
黙るライスシャワーを見つめながら、男性は目の前の少女に静かに訊いていた。
「君は、選抜レースに出て、それから何をしたいんだい?」
「えっ……?」
「君が今から出る選抜レースは、この学園にいるウマ娘達が進む栄えある道の第一歩だ。その道の先に、君が目指すモノが何か答えられるかい?」
その問いに、ライスシャワーが顔を上げる。
見上げた先にあるのは、小さく微笑む男性の顔。
男性が提示した問いの答え。その答えをライスシャワーは、しっかりと胸の中に持っていた。
「ライスは……ほんとにだめな子だけどっ、ライスが頑張って走って、それを見てくれた人が幸せになれるようなウマ娘になりたかった」
その憧れは、ライスシャワー自身でも驚くほど流暢に言葉にできた。
幼い頃に行ったレース会場。レースを見た会場の人達全員の幸せそうな歓声。あの日に感じた憧れを、ライスシャワーは一日たりとも忘れたことはない。あの憧れに惹かれて、自分はトレセン学園に来たのだから。
「そうか……君のその目標はとても素敵なものだ。それをそんな風に言えるのなら、本当に君は心の優しいウマ娘なんだろうね」
「そっ、そんなこと……ない。ライスはほんとにダメな子だから、みんなを不幸にしちゃうダメな子なのっ」
優しく微笑む男性に、ライスシャワーが目を逸らしながら小さな声で答える。
そこでふと、知らない男性と普通に話していたことにライスシャワーが不思議に思った。
どうして、この人は自分なんかと普通に話をしているのだろう。
そんな疑問をライスシャワーが抱くと、彼女は思わず怪訝な表情で男性に訊いていた。
「あ、あの……ところで……なんでお爺さんは、こんなところにいるの?」
「そうだ。すっかり忘れてたよ……私は、君にこれを届けてほしいと言われたんだ」
ライスシャワーの質問に、ハッと何かを思い出したように男性がズボンのポケットから何かを取り出して彼女へと差し出した。
「……手紙?」
男性が差し出したのは小さな封筒だった。
「先程、ここの生徒から君に渡してほしいと渡されたんだ。きっとこの先に泣いているウマ娘がいるから、その子に渡してほしいと言われてね。まさか本当にいるとは私も思わなかったがね」
そう言って、小さく笑う男性が「受け取りなさい」とライスシャワーに手紙を受け取るように促す。
確かにここで泣いていたウマ娘は自分しかいない。ということは間違いなく男性の持っている手紙は自分に宛てられたものなのだろう。
そう思いながら、ライスシャワーが男性から手紙を受け取る。そして拙い手つきで手紙の封を開けて、中身を見た。
――頑張って、あなたをずっと応援しています
大きな便箋に、一文だけそう書かれていた。
見つめる便箋に書かれた内容に、ライスシャワーが顔を傾げる。
その仕草を見て、男性は不思議そうに眉を寄せていた。
「手紙には、なんと書いていたんだい?」
「えっと……私を応援してるって。でも私、まだ一度もレースに出たことないのに、応援される人なんていないはずだよ……?」
レースで走ったことがまだない自分に応援してくれる人などいる訳がない。
つまり今見た手紙は、違う人に宛てられた手紙だとライスシャワーは思った。
違う人に送られた手紙を勝手に見てしまった。そう思うと、ライスシャワーは良くないことしたと思い顔を青くする。
しかしそんなライスシャワーを他所に、男性は何か考え込むように唸っていた。
「ふむ……昔、聞いたことがある。君は『幸せの手紙』というのを知っているかな?」
「幸せの手紙……?」
その言葉は、ライスシャワーの興味を惹くのに十分な名前だった。
そして興味を惹かれるまま、ライスシャワーは脊髄反射で訊いていた。
「幸せの手紙って……なに? お爺さん……知ってるの? 知ってるなら、ライスにも教えほしいなっ?」
幸せ、そんな手紙があるのなら、それはどんなものだろうと。
興味津々に男性を見つめるライスシャワーだったが、男性は何かを思いついたように楽しそうな表情を作っていた。
「それを聞きたいなら、君が今から始まる選抜レースに勝ったら教えてあげよう」
「ええええぇぇぇっ!」
突然の男性の提案に、ライスシャワーが大声をあげていた。
「うぅ……そんなのズルいよぉ……」
そして叫び終わると、ライスシャワーは目に涙を溜めながら俯いていた。
そもそもレース出れないのだから、自分はこんな場所で泣いていたのだ。レースに出る勇気がなく、不可解な恐怖心に打ち勝てないから、自分は泣いていたのだ。
無理な条件を提示されて困り果てるライスシャワーだったのに対して、男性は正反対に楽しそうにくつくつと笑っていた。
「ははっ、それも当然だろうな。君の反応は至って当然だ。だがそれよりも、君に届けられたその手紙に応えることも、当然忘れてはいけないよ?」
男性が指差すのは、ライスシャワーが持っていた手紙だった。
ライスシャワーは首を横に振ると、持っていた手紙を男性に突き出していた。
「これ、ライスのじゃない。私に応援してくれる人なんていないからっ」
「いいや、それは間違いなく君に向けて出された手紙だよ」
「……どうして、そんなことわかるの?」
「それが君に出された『幸せの手紙』だからだよ」
「そんなの、わからないよっ! ライスのだって証拠もない! それに幸せの手紙ってなにかも、ライスわからないよっ!」
自分の物ではない。そう伝えるようにライスシャワーが手紙を男性に再度突きつける。
しかし男性は突き返された手紙を受け取ろうとしなかった。彼はどこか呆れたように肩を落とすと、聞き分けのない子供を諭すようにライスシャワーに語りかけていた。
「なら君にヒントをあげよう。その手紙は、間違いなく君に出された手紙だ。それは送られた人に“何か”を運んでくれる手紙なんだ」
癇癪を起こす子供に言い聞かせるように告げた男性の話に、ライスシャワーがまた彼の話に興味を惹かれていた。
むっと顔を顰めていた顔から、ライスシャワーはキョトンと呆けたような顔を作っていた。
「送られた人に、何かを運んでくれる?」
「ああ、そうだとも。それとその手紙に書かれた言葉は、確かに君に向けられた言葉ということも忘れてはいなけないよ?」
「ライスに向けられた言葉……」
ライスシャワーはにわかには信じられなかった。
目の前の男性が言うことが本当なら、幸せの手紙という言葉の意味は置いておくとしても――この手紙の主はレースにも出たことのない自分を応援していることになる。
そんな人が本当にいるのだろうか。ライスシャワーは持っている手紙を見つめながら、そう思っていた。
「君をちゃんと応援してくれる人がいる。君の走りが見たいと思ってくれる人がいる。君が誰かを幸せにしたいと願い、その幸せを感じたいと思ってくれる人がいるのなら……君はどうするのが一番良いかな?」
もし男性の話すように、本当に手紙の主が自分を応援してくれているのならライスシャワーはどう応えるのが正しいのか?
レースに出て、誰かを不幸にするのではなく――誰かを幸せにしたいという自身の願い。それにライスシャワーが答えるとするなら、それはひとつしかなかった。
こんな自分を応援してくれる人がいる。自分が駄目な子だと信じ切っている自分を変えたいのなら、自分はその人の為に走りたい。
だけど、そう思ったとしても――
「でもライス……立てない」
そう思っても、ライスシャワーは立つことができなかった。
足に力を入れようとしても、力が入らない。身体を動かそうとすると、心に得体のしれない恐怖心が溢れてくる。
決意しても、それを実行できない自分の不甲斐なさに、ライスシャワーがまた泣きそうになる。
そんなライスシャワーに男性が座る彼女の視線に合わせるように片膝をゆっくりと地面につけて跪く。そして彼は右手を彼女に差し出していた。
「……どうしたの?」
ライスシャワーが差し出された男性の手を見つめる。
向けられた男性の手の意図に気づかないライスシャワーに、男性は微笑みながら答えていた。
「立てないのなら、こんな老ぼれの手を貸してあげよう。一人で勇気が出なくても、立てないのなら私が手を貸そう。それで君が誰かを幸せにすることができるのなら、私は喜んで手を伸ばすとしよう」
どうして、目の前の男性はこんなことをしてくれるのだろう。
ライスシャワーは素直にそう思った。今日、初めて会った人に、こんな風に善意を向けらる覚えはない。
トレセン学園にいるということは、関係者が入ることができないこの場にいる時点で、この男性はトレセン学園の関係者なのだと判断できる。
ただの気紛れなのだろう。ライスシャワーはそんな風に思うと、向けられた男性の手に取り合わないと言いたげに顔を逸らしていた。
「…………どうせ、ライスは立てないよ」
ポツリと、ライスシャワーが呟くように告げる。
ここまで嫌だと言えば、きっと男性も諦めるだろう。自分と関わっても良いことなんてない。そんな自虐を思いながら。
しかし男性はライスシャワーの言葉を聞いても、黙って微笑んだまま手を差し出したままだった。
また有無を言わせないと言っているような態度だった。
どうせ無駄だ。そんなことをしても無駄だと思いながら、ライスシャワーは渋々と差し出された男性の手を握っていた。
大きな手だった。ごつごつとした感触で、どこか懐かしさを覚えるような、そんな男性の手だった。
ライスシャワーが手を握った瞬間、男性もそっと彼女の手を僅かな力で握り返す。そして彼は立ち上がりながら、割と強い力で彼女の身体を引き上げていた。
成人男性の力に掛かれば、小柄なライスシャワーの体重など容易に持ち上げられる。
男性の力に引き上げられ、ライスシャワーの座っていた身体は、彼女の予想よりも遥かに楽々と起き上がっていた。
今まで立てないと思っていたのが噓のように、ライスシャワーは立ち上がっていた。そのことに、彼女は立った自分の足を見つめながら目を点にしていた。
「あっ……ほんとに、立てた」
続けて「歩いてごらん」と男性に言われて、彼に手を引かれながらライスシャワーがゆっくりと一歩、また一歩と歩く。
また不思議と、ライスシャワーの足は自然と動いていた。
「ほら、意外と簡単だっただろう?」
「……うん」
「まだ怖いかい?」
「少しだけ、でもお爺さんの手を握ってると……なんだか安心する」
握っていた男性の手に、不快感はない。むしろ何故か握っていると不思議と力が漲るような気さえした。
ライスシャワーが握って男性の手をそっと放す。男性の手も握り返していたはずなのに、彼女が手を放そうとした途端、するりと男性の手から彼女の手は離れていた。
離れた自分の手をライスシャワーが自分の胸の前でぎゅっと握り締める。
そうすると先程まであった恐怖心は薄くなっていた。そして自分を応援してくれる人がいて、自分の目標の為に何をするのが正しいのか考えて――
「ライス、頑張ってみる」
ライスシャワーはそう告げて、力強く一度だけ頷いていた。
「うむ、是非とも頑張って来るといい」
「うん。ライス、頑張って走る」
「なら早速、レース会場に行かないといけないよ。そろそろレースが始まる時間だろうからね」
男性が腕に付けていた時計を指差す。
ライスシャワーが男性に今の時刻を訊くと、本当に選抜レースが始まるまで時間が僅かしかなかった。
「ほんとだ。急がないと――!」
ライスシャワーがレース会場に向けて足を動かす。動かした足が、先程まで力が入らなかったのが嘘のように動く。
男性に背を向けて走り出そうとしたライスシャワーだったが、彼女は何かを思い出したように走り出す前に背を向けていた男性に振り向いていた。
「あの……! お爺さんもレース、見に来て……くれる?」
そして不安そうな顔を見せながら、ライスシャワーは小首を傾げていた男性に訊いていた。
それは男性の予想外の言葉だったのだろう。男性は意表を突かれた顔をしていたが、その言葉を理解すると可笑しそうに笑いながら答えていた。
「君みたいな可愛い子からの招待なら喜んで。こんな老ぼれで良いのなら、君の走りを見させてもらおう」
男性からの快諾を得て、ライスシャワーは嬉しそうな表情を作る。そしてまた走り出そうとしたが、また彼女は先程と全く同じく思い出したように男性に訊いていた。
「また、忘れてた……えっと、お名前知らないの……良くないと思うから。ライスの名前ね。ライスシャワーっていうの」
「ライスシャワー……そうか、そういうことか。それは……とても良い名前だ。幸せを願う君の名前に、とてもピッタリな名前だと思うよ」
「ライスもお爺さんのお名前知らないから、教えてくれたら嬉しいな」
「うむ……そうだ。ならそれも君が選抜レースで勝ったら教えるとしよう」
「ええっ……でもライス、勝てないかもしれないんだよ?」
「心配ない。君はきっと勝つ。私は勘が良いんだ」
ライスシャワーの心配に、男性は何度目か分からない微笑みを作る。
そんな男性の不可解な自信に怪訝な顔をライスシャワーが作るが、選抜レースまでの時間がないのを察して彼女は不服そうに男性から背を向けて走り出していた。
「君は勝つよ。そうだろう。たづなさん」
「分かりませんよ。今年の新入生は優秀な子達が多いので」
「ははっ、手厳しいな。今年は私も、少しは本気を出しても良いかもしれない」
「……考えを改めた方が良いと思います」
「それはあの子が決めることだ。もし、あの子がそれを選ぶのなら、私は彼女に尽くしても良いと思っているからね」
ライスシャワーが立ち去った後、その場で静かに行われた会話は彼女に届くことはなかった。
そしてその後に行われた選抜レースの結果は、男性の宣言通りに――ライスシャワーが一位になっていた。
初めて出たレースに勝った。その瞬間、ライスシャワーはあることを思い出していた。
一番好きだった絵本『しあわせの青いバラ』という話。
その話に出てくる。不幸を呼ぶと言われていた青いバラを救ってくれた『お兄さま』。
不幸な自分を立ち上がらせてくれたあの男性は、まるであの絵本に出てくる『お兄さま』のような人だったと。
いや、お兄さまと言うには……少し年齢が高過ぎる。そう思ってしばらくして、ライスシャワーが思いついた名前は、とても安直だった。
『お兄さまよりもお歳が高いなら……お爺さま?』
そんなことを考えながら、レースに勝ったライスシャワーが男性と再会する。
その男性が実はトレーナーだったと知り、ライスシャワーが心底驚くことになるのだが、それは別の話。
そしてその男性から、自分と契約しないかと言われ、ライスシャワーは即答で彼と契約を交わすことになった。
◆
あの日に会った男性――お爺さまとライスシャワーが契約して、彼女の生活は劇的に変わった。
不幸だと思っていた日々が嘘のように、毎日が楽しいと思える日々がそこにあった。
「ねぇ、お爺さま! 今日はライス、どんな練習したら良いかな?」
「そうだな。今日は坂道を走る練習をしよう。ライスが誰よりも速く坂道を登れたら、きっと見てくれる人達は君に見惚れるかもしれない」
「ほ、ほんとう? えへへ……ならライス、頑張ってみる!」
「なら今日は坂道トレーニングを二十セットにしよう」
「うん! ライス、頑張る! がんばれー……おー!」
「元気が良いのは素敵なことだ。どれ、私もやってみよう。がんばれー、おー!」
「おー!」
そしてそんな日々の中、お爺さまから聞いた『幸せの手紙』のことを聞き、ライスシャワーは時折お爺さまから届けられるその手紙を楽しみにしていた。
幸せの手紙。それは気まぐれにトレセン学園のウマ娘に届けられる差出人不明の手紙だった。
内容は宛先人を応援する内容が書かれていて、受け取ったウマ娘に幸せを運んでくれる。そんな素敵な手紙だった。
トレセン学園で密かに広まっている噂話のひとつだと、お爺さまが話していたのをライスシャワーは嬉々として聞いていた。
そんな素敵な手紙が自分のところに来ている。不幸で駄目な自分に、そんなものが来ていることがライスシャワーは素直に嬉しかった。
――坂道を走る姿のが凄く綺麗。これからもずっと見守っています
短い一文だけれども、その中に込められた差出人の気持ちを考えると、ライスシャワーは胸が高鳴るような気持ちが溢れていた。
◇
「あっ! やっと見つけた! ねぇねぇ、お爺さま! 今日はライスと一緒にお昼ご飯食べよ?」
「勿論、良いとも。ライスから昼食に誘ってくれるなんて今日はきっと更に良いことがあるに違いないな」
「もぅ……お爺さま、変なこと言うの良くないよ?」
「ははっ、なら折角カフェテリアに向かうとしよう。ライスは沢山食べるから、私も負けないように沢山食べるぞ?」
「ライスはそんなに食いしん坊じゃないもん……」
「食べるのは良いことだ。大きくなって強いウマ娘になれば、色んな人が君の走りに感動するぞ?」
「ほんと? なら今日はライス、いつもより沢山食べてみようかな?」
「それが良い。どんどん食べて、素敵なウマ娘になるんだぞ?」
「うん! ライス、素敵なウマ娘になりたい!」
――沢山食べてるところが可愛いと思ってます。沢山食べて強いウマ娘になるのを楽しみにしています。
◇
初めて出場した公式レースに勝った。
それはライスシャワーにとって、何よりにも代えがたい喜びだった。
レースで誰よりも速くゴール版を駆け抜けた瞬間に、会場に響いた歓声。それが自分に向けられ、幸せな自分と同じように会場全体が幸せに溢れていることに、ライスシャワーは目標に一歩近づけた感激があった。
「お爺さま! ライス、勝ったよ! 初めて公式レースで勝てたんだよ!」
「良くやった! 君の今日の走りはとても見事だった! 私は君がゴールした時、誰よりも私は君のトレーナーで幸せだったと思うしかなかったよ!」
「ほんとう! やった! ありがとう、お爺さま!」
――初めてのレース、一位になっておめでとう。あなたの次のレースを待っています。
◇
初めて勝った公式レースだったが、そこからの成績は惜しいものばかりだった。
一位になれず、もう少しで一位になれる二位が続く日々。
「うぅ……いっぱい練習してるのに勝てないよぉ……」
「勝負は実力もあるが、時の運でもある。日々の練習を怠ることをしていないライスなら、きっとそれが結果となって答えてくれる。私を信じてくれないのかい?」
「そんなことないよ! ライス、お爺さまのこと信じてるから!」
結果が出なくても、ライスシャワーはお爺さまと一緒に努力を続けた。
いつも悲しい気持ちになっても、支えてくれるお爺さまに感謝しながら、ライスシャワーは今日も練習に打ち込む。
――いつも頑張ってるあなたなら、きっと大丈夫。いつもあなたを応援しています
◇
努力を続けた。誰よりも練習に打ち込んできた。
身体で負けても、心で負けない。そんな言葉をお爺さまに言われながら、ライスシャワーは努力を続けた。
そしてクラシック級“菊花賞”で有力ウマ娘だったミホノブルボンを下して、ライスシャワーが一位になった。
本来なら会場の歓声が響く筈だった。しかしライスシャワーを待ち受けたのは、歓声ではなく落胆の声だった。
予想の範疇を超えた反応にライスシャワーが困惑する。勝利した筈なのに、どうして会場は静まり返っているのだろうか。
肩を落として、元気のないライスシャワーがお爺さまの元に歩いていく。
会場の人達を幸せにできなかったことを怒るだろうか?
そんな不安を抱えてライスシャワーがお爺さまの元に行くと、彼は彼女の予想を超える反応をしていた。
控え室に入ってきたライスシャワーを見るなり、普段使っていた杖を放り出しながらお爺さまは彼女を抱き上げていた。
ライスシャワーの両脇に手を添えて持ち上げ、そしてお爺さまは満面な笑みを浮かべながら、その場で回っていた。
「おめでとう! 流石はライスだ! ライス、菊花賞は最も強い馬が勝つんだぞ! それに勝った君は誰よりも強いウマ娘だ!」
本当に嬉しいのだろう。お爺さまは感激のあまりライスシャワーを掲げて回っていると、突如腰を痛めてその場で蹲っていた。
ライスシャワーが慌てて杖をお爺さまに渡しながら、彼を椅子に座らせる。
腰を痛そうにしながらも、ライスシャワーが菊花賞を勝った喜びを隠しきれず、お爺さまは目に僅かに涙を溜める。
そんなお爺さまの顔を見ながら、ライスシャワーは悲しそうな顔をしていた。
「ねぇ……お爺さま。どうしてライスが勝ったのに、みんな悲しそうな顔をしていたの?」
「ライス、君は何も悪くない。今日はライスを応援してくれる人が、一緒に走っていたミホノブルボンよりも少なかっただけだ。君を応援してくれる人が沢山増えると、今日の会場が嘘みたいに君の勝利を喜んでくれる歓声で一杯になるんだ」
「そんなこと……あるの? ライス、本当は勝ったらいけなかったんじゃないかって……ライス、みんなを不幸にするダメな子から」
「そんなことはない。君は祝福の名前を持つ、素敵なウマ娘だ。それに君の勝利を喜ぶ人は、ちゃんといるんだ」
そう言って、お爺さまがライスシャワーに渡したのは『幸せの手紙』だった。
ライスシャワーが手紙の中身を見ると、それを見た彼女は見つめていた便箋にポツリと涙を落としていた。
――菊花賞、優勝おめでとう。あなたが勝つのを信じてました。他の誰よりも、あなたが勝った瞬間を見ることができて、すっごく嬉しかったです
◇
シニア級、天皇賞(春)。
長距離ステイヤーとして名を馳せるメジロマックイーンとの対決。
ライスシャワーにとって、メジロマックイーンは憧れのウマ娘の代表格だった。
走れば会場が沸き、全員が幸せな表情と声で彼女を応援する光景は、ライスシャワーの目標そのものだった。
だからこそ、メジロマックイーンに抱いた憧れ、その憧れを超える為に文字通り死ぬほど練習を重ねた。
お爺さまに作ってもらった厳しいトレーニングメニューをこなしてきた。
自分のできる全力をして、全力のライスシャワーでメジロマックイーンに挑む。それだけを思い、彼女は練習し、そして天皇賞(春)に挑んだ。
そしてその結果、ライスシャワーはあの名優メジロマックイーンを下し、天皇賞(春)を勝ち取っていた。
勝った時、ライスシャワーは本当に嬉しかった。だから会場も同じように喜んでほしい、そう願って彼女が会場を見ると――会場は静まり返っていた。
まただ。菊花賞のことがライスシャワーの脳裏を過ぎる。胸に溢れる悲しい気持ちを抱えながら、彼女がまた控え室に行くと――彼女を待っていたお爺さまは静まり返った会場とは正反対に大喜びをしていた。
まるで会場が間違っていると言いたげに、子供のように喜ぶお爺さまに小さくライスシャワーは笑みを浮かべたが……気付くと彼女は、お爺さまに訊いていた。
「お爺さま、どうしてみんな悲しような顔してたの? ライス、勝ったのに……また、みんなが悲しい顔してる。どうして……ライス、頑張ったのに……一生懸命走ったのに」
「ライス、忘れてはいけない。君はあのメジロマックイーンに勝ったんだ。君より、彼女を応援する人が会場には多かった。だからだよ」
「それなら私は勝たない方が良かった……その方が、みんなが幸せになるもん……」
「確かにメジロマックイーンが勝てば、喜ぶ人は多いだろう。だけど、それ以上に君を応援してくれている人は悲しむ。勿論、私も誰よりも悲しむ。君を勝たせてあげられなかったことに、悔しくて泣いてしまうかもしれない」
「そんな……なんでお爺さまが泣くの? ライス、勝たない方がみんなが幸せになるんだよ?」
「それは私が君のトレーナー。そして君を誰よりも応援してる人だからだ。それでも……君に手紙を出し続けてくれる人には負けてしまうがね」
そして、お爺さまがライスシャワーに手紙を手渡していた。
見慣れてしまった『幸せの手紙』。しかし慣れたと言っても、ライスシャワーはそれをいつも心を躍らせて見ていた。
封を切って、中の便箋に視線を向ける。そしてまた、ライスシャワーは声を殺して泣いていた。
――天皇賞、優勝おめでとう! あのメジロマックイーンに勝つなんて本当にすごい! 今はつらいかもしれないけど、いつかあなたに沢山の歓声が向けられることを祈っています! 私は、あなたをずっと応援しています!
◇
辛いことがたくさんあった。それでも楽しいことも沢山あった。
いつしか自分の周りにいるのはお爺さまだけでなく、自分の周りに沢山の友達ができて、笑っていることが多くなった。
お爺さまのトレーニングも最初の頃よりも厳しい内容になっていて、泣きたくなる時もあった。だけどそれは自分のことを想って作ってくれたことを理解していたライスシャワーは、投げ出さずに一心不乱に取り組み続けた。
そんな日常だった。お爺さまと一緒に練習して、お休みの日はお爺さまと一緒にお出かけする。夏休みには合宿をしたり、自分の実家にお爺さまを招待したりもした。自分の両親と打ち解けるお爺さんを見ると、ライスシャワーは自分のことのように嬉しかった。
レースに出て、辛いと思っていた。長い時間を掛けても、自分の目標を叶えられないことに悲しいと思ったこともあった。
だけど、そんな時――ライスシャワーの隣には、お爺さまがいた。辛い時も、悲しい時も、楽しい時も、嬉しい時も、ずっと一緒に居てくれた。
初めて会った時に貰った青いハンカチは、今でもライスシャワーの宝物である。常に肌身離さず持っている、大切な宝物だった。
その青いハンカチを勝負服に忍ばせて、ライスシャワーはまた大きなレースに出走していた。
年内最後の重賞レース、有馬記念。
そしてシニア級、最後の重賞レースだった。
沢山レースに出てきた。勝てなかったこともあって、負けることも多かった。勝って嬉しかったけれども、会場の人達を幸せにできたことは少なかった。
悲しいけど、自分を支えてくれる人達がいるなら頑張ろうと決めて、ライスシャワーは最後の有馬記念に臨んでいた。
勝って、会場に幸せを届ける。そんなウマ娘になりたいという目標――夢の為に。
「やった! ライス、勝った! 勝てたよ! お爺さま!」
そして有馬記念の結果は、ライスシャワーが優勝していた。
そして今まで勝っても歓声が起きなかった会場は、ライスシャワーが長い間望んでいた歓声に溢れていた。
一度は成績不振で沈んでいた終わったウマ娘と言われていたライスシャワーが、最後の有馬記念で蘇った。
その場面に立ち会えた会場の観客は、これまでにない歓声をライスシャワーに向けていた。
ようやく、念願だった光景を見られた。
誰かを幸せにできるウマ娘になれた。目標に一歩近づくことができたと、ライスシャワーは感極まる気持ちだった。
その気持ちを抱えて、ライスシャワーはお爺さまが待つ控え室に小走りで向かう。
きっと誰よりも喜んでくれるに違いない。心を躍らせながらライスシャワーが控え室の扉を開けると――彼女は目の前の光景に理解が追い付かなかった。
「――お爺さま?」
倒れている椅子と一緒に、苦しそうに倒れている人がいた。
見間違えようがない。それはライスシャワーが慕う――お爺さまだった。
――その日、幸せの手紙は届かなかった。
◆
末期癌。それがライスシャワーがトレセン学園で働く理事長秘書の駿川たづなから聞いたお爺さまの病名だった。
医学の知識がないライスシャワーには理解を超える言葉だったが……それでも彼女は察していた。
お爺さまは、とても重い病に侵されているのだと。
有馬記念が終わって、お爺さまが倒れて、トレセン学園の大人達が慌てて走り回っていた。そして気付くと、お爺さまは救急車で病院へ運ばれていた。
詳しいことをライスシャワーはトレセン学園から教えてくれなかった。それからしばらくして一月末、ライスシャワーはようやく面会ができるようになった日に、お爺さまにすぐに会いに来ていた。
病室のベッドで寝ていたお爺さまは、いつもと変わらない顔だった。まるで病気などしていない、そう思わせるような顔だった。
ベッドの横に座るライスシャワーが、お爺さまを見つめる。そんな彼女を恥ずかしそうな顔で一瞥して、お爺さまは彼女の顔から視線を逸らしながら口を開いていた。
「正直に言うと――私はね、君に救われたんだ」
「えっ……?」
突然、お爺さまが口した言葉にライスシャワーが目を点にした。
救われた。それはお爺さまではなく、ライスシャワー自身だった。
初めて会った時、自分の手を握って立ち上がらせてくれた。前に進む勇気をくれて、そしてずっと支えてくれた。そして目標を叶える手伝いをしてくれた素敵なトレーナーだった。
救ってくれたのは、自分だ。ライスシャワーはお爺さまを救った覚えなど、なかった。
しかしお爺さまは、驚くライスシャワーを無視して語り始めた。
「私は、君と出会った日。本当はこの仕事を辞めるつもりだったんだ……もう年老いて、後のない私がトレセン学園にいても、きっと邪魔になると思っていたんだ」
「そんなことないよ! お爺さまが邪魔なんて一度も思ってこと、ライスないよ!」
ライスシャワーが必至な表情でお爺さまに伝えるが、彼は居心地が悪そうに小さく笑みを浮かべていた。
「あの日は、退職すると理事長に伝えた日だったんだ。だけど偶然……手紙を届けてほしいとお願いをされて、君を見かけてしまった。レース会場の前で、一人で泣く君を見かけて、私は不思議と君を放っておけなかった」
そこでライスシャワーは、ハッとした。まさか出会った日、その日がお爺さまがトレーナーをやめようとしていたなど思ってもいなかった。
「その頃に私は余命を宣告されてね。一年程度だと言われたんだ」
余命。その言葉がライスシャワーの胸に刺さった。
しかしすぐに、ライスシャワーは気づいた。お爺さまの話に妙な点があった。
「で、でも……お爺さまと会ってから三年も経ってるよ? ならそんな話は間違ってたんだよ……だってお爺さま、元気だもん」
余命が一年なら、話が合わなくなる。ライスシャワーとお爺さまがあって、三年ほど経つ。それなのに彼女の前でベッドにいるお爺さまは生きているのだから。
「それは、ライス……君のおかげなんだよ」
「私の、おかげ?」
小首を傾けるライスシャワーに、お爺さまは嬉しそうに頬を緩めていた。
「病院の先生から驚かれたよ。治りはしていなかったが、病気の進行が予定よりもかなり遅いとね。何かあったのかと訊かれてしまったくらいだ」
そう言って、少し間を開けると――お爺さまがライスシャワーに向き合っていた。
「君が、私を生かしてくれた。私に……君との楽しい日々をくれたからだと、私は思っているんだ」
「楽しい、日々?」
真っすぐな目でお爺さまがライスシャワーを見つめて、それに彼女は不思議そうに眉を寄せていた。
「ああ、知ってると思うが私は独り身でね。独りだと楽しいことも意外と少ないのだよ。それに私は担当ウマ娘も、長い間受け持っていなかった。そんな時に病になったから、引退する良い機会と思っていた。だけど……そんな時、君と出会った」
お爺さまが目を瞑る。まるで昔を思い出しているように、懐かしそうな表情で、彼は口を開いた。
「君との日々は本当に楽しかった。ウマ娘を鍛えることを忘れていた私に仕事への活力をくれた。君の走りを見て、心から震えた。そして……君の素敵な夢を聞いて、君の名前を聞いて、心から君の手助けになりたいと思ったんだ。それが私を生かし続けた。だからこれほどまで長い間、私は生きることができたんだろう」
そして目を開けたお爺さまは、寝ている自分の身体を見るなり、苦笑していた。
「ライス、君が有馬記念を優勝して、君の夢が少し叶った。それを見て、私は本当に嬉しくて泣いてしまった。そうしたら、身体に急に力が抜けてしまって……情けない限りだ」
「そんなことないよ! お爺さまは情けなくないよ! あの時のお爺さまはちょっと疲れちゃっただけで全然元気いっぱいだもん!」
しかしライスシャワーはお爺さまの言葉を否定していた。
倒れてしまい、そして入院までしてしまった自分に、健気にも精一杯励まそうとするライスシャワーを見て、お爺さまは少しだけ目を潤ませた。
「本当に……君は優しい。心が綺麗な優しい子だ」
「違うよ。ライスは、前よりもちょっとは良い子になったけど……まだまだダメな子だから」
そう答えて、ライスシャワーは俯いた。お爺さまの言葉は、昔から何度も聞かされた言葉だった。
しかしライスシャワーは、自分はそんな子ではないと思っている。前よりも良い子になったと自覚はしても、他人にまだ迷惑を掛けてしまうこともある。
自分が思い描く理想のウマ娘は、まだまだ遠いと心の底から思っていた。
「こっちにおいで、ライス」
俯くライスシャワーに、お爺さまが手招きで彼女を呼び寄せる。
呼ばれたことに、ライスシャワーは座っていた椅子から立つとお爺さまが寝ているベッドの傍まで近寄っていた。
お爺さまが近くに来たライスシャワーの頭にそっと手を乗せる。そして優しい手つきで、彼女の頭を撫でていた。
久々の感触だった。よくお爺さまに何かと頭を撫でてもらったことをライスシャワーが思い出す。
大きくて、ごつごつした大人の手。父親とも違う、心が温まるような、ライスシャワーの大好きな手だった。
「ライスは本当に優しい子だ。君は自分ではなく、誰かの幸せの為に走れる素敵なウマ娘。私が今まで見てきたウマ娘の中で、一番素敵なウマ娘だ」
お爺さまの話に、無意識にライスシャワーの目が少しだけ熱くなる。
しかしライスシャワーの頭を撫でながら、お爺さまは続けていた。
「こんな老ぼれた私に……まるで孫ができたみたいだった。とても、とても楽しい三年間だった」
ライスシャワーの目から、勝手に小さく涙が零れた。
何度も、ライスシャワーの頭を撫でて、お爺さまが語る。
「君の名前はライスシャワー。それは紛れもなく、祝福の名前だ。君は、これからまだまだ大きく成長する。そして君はきっと、その名前にもっと相応しいウマ娘になる。ご両親と会った時、私は確信したよ。君は、ご両親からとても深い愛情を注がれて育てられた素敵な子なんだと」
ライスシャワーの頭を撫でていたお爺さまの手が、少しだけ震えていた。
その手の震えを頭で感じたライスシャワーが大粒の涙を流して、ぼやける視界の中でお爺さまの顔を見つめる。
そしてライスシャワーが見る視界には、口元を震わせながら涙を流すお爺さまが映っていた。
「だから私は心の底から信じている。君はその名前に相応しい子になる。悪役などではない、英雄でもない、君は私の一番可愛い【幸せ】そのものだった」
何度も、震える手でライスシャワーの頭を泣きながらお爺さまが撫でる。
ライスシャワーも、溢れる涙を止められなかった。
嗚咽が漏れそうになりながらも、ライスシャワーは決死の思いで、口を開いていた。
「お爺さま! 私、ね……来週末、URAの決勝に……出るんだよ? お爺さまと、ずっと頑張ったから……大きな会場で沢山の人がいる場所で、走るんだよ? だからお爺さまも……絶対に見に来てくれないと、ライス……寂しいんだよ?」
泣きながら懇願するライスシャワーに、お爺さまは大きく頷いていた。
「勿論、見に行くとも……私の大切なライスのレースを見ない訳にはいかないからね」
「じゃあ、ライスと約束……指切り、しよ?」
「良いとも、約束だ」
「うん! 絶対、見に来てね……お爺さま!」
ライスシャワーとお爺さまが小指を絡ませる。
そして一度だけ互いに手を振って、声を揃えた。
ゆびきりげんまん、と。
――幸せの手紙は、今日も来なかった
◆
芝生の感触を足で感じながら、ライスシャワーはゲート前に立っていた。
URAファイナルズ、決勝戦。年度内で優秀なウマ娘達が集う公式レースの中で最上位に位置する名誉あるレース。
ライスシャワーの周りにいるのは、世間に名前の知らない人はいないほどのウマ娘達が揃っている。
しかしライスシャワーには、関係ない。勝ちたい、今までのレースがどうであろうと関係ない。今日は、今日だけは――必ず勝たなくてはいけない。
「ライス、本日は負けません」
「ライスさん、今度こそ私は負けませんわよ」
ゲート前に立つライスシャワーに、二人のウマ娘が声を掛ける。
ミホノブルボンとメジロマックイーン。過去に勝負してきたライスシャワーのライバルとも言えるウマ娘だった。
声を掛けられて、ライスシャワーが二人に振り向く。そして二人に向き合うなり、彼女は二人に向けて頭を下げていた。
「ごめんなさい。マックイーンさん、ブルボンさん」
「どうしましたか? ライス?」
「ライスさん? 急にどうされましたの?」
怪訝な表情を二人が作るが、ライスシャワーは気にも留めなかった。
頭を上げたライスシャワーの顔を見た途端、ミホノブルボンとメジロマックイーンの表情が固まった。
「ライスね……今日だけは、絶対に勝たないといけないから」
今まで過去にライスシャワーの尋常ではない気迫を感じてきた二人でも、今の彼女から発せられた気迫は――常軌を逸していた。
「だから先に謝ります。ライス、勝つから」
二人を通り過ぎて、ライスシャワーが小さく呟く。聞こえなくてもいい、そんな自己満足の呟きを。
――お爺さまの為に
気が付けば、あっという間だった。
レースが始まり、そして数分経たずにゴールを迎える。
URAの決勝と言えど、レースに掛かる時間は数分程度。
そんな時間が早く感じるほど、ライスシャワーの走りは圧巻だった。
終盤。全員が追い込む中で、ただ一人だけ圧倒的な速度で駆け抜けた黒いウマ娘。
ゴールした瞬間、会場から今まで聞いたことがないほどの歓声が轟いた。
見たかった景色。自分がみんなを不幸にするのではなく、幸せにできるウマ娘になる為に目指した景色だった。
「あっ……そういうことだったんだ……」
ライスシャワーの心に、今までにない充足感がある。
しかしそれと同時に気付いたことに、更なる満足感があった。
今まで見たかった景色だと思っていた。だけど、それは“見せたかった景色”だったのだと気がついた。
自分をずっと支えてくれた人。自分の夢を自分のことのように応援してくれた人に、この景色を見せたかったのだと。
「お爺さま、見ててくれたかな?」
そう満足そうに呟いて、ライスシャワーが控え室に戻る。
そして開けた扉の先に、お爺さまがいたことにライスシャワーは目を大きくしていた。
しかしライスシャワーが控え室入っても、車椅子にお爺さまは俯いたままだった。
不思議そうにライスシャワーがお爺さまに近寄るが、それよりも先に……一人の女性が彼女の前に立っていた。
「たづなさん? どうしたの?」
急に目の前に立ったたづなに、ライスシャワーが小首を傾げる。
しかしたづなは尋ねるライスシャワーの言葉に答えることなく、手に持っていた物を彼女に差し出していた。
「ライスさん、お手紙です」
たづなから差し出されたのは、手紙だった。
ライスシャワーがそれを見た途端、彼女は思い出したようにその名を呟いた。
「幸せの手紙……」
「はい。そうです。これは……幸せの、手紙です」
たづなから手紙をライスシャワーが受け取る。
そしてライスシャワーが手紙を受け取るなり、たづなは顔を歪めながら涙を流していた。
「これはあなたに贈られた最後の『幸せの手紙』だそうです」
泣きながら告げたたづなの言葉に、ライスシャワーが首を傾げる。
意味が分からなかった。だけど、不思議と手は手慣れたように手紙の封を切っていた。
中に入っていた折り畳まれた便箋を取り出し、そっと手元でそれを広げた。
『ライスシャワー、レース優勝おめでとう。きっと君はレースで誰よりも速くゴールに辿り着いただろう。会場に響き渡ったあの歓声は、紛れもなく君に向けられたものだ。君がレースに勝って幸せを感じたように、君を見て幸せになった人は大勢いるだろう。その光景は君の夢、そのものだ。
君は本当にすごいウマ娘だ。君の願いは、必ず叶う。私が何度も保証しよう。そしてどんなことがあっても、私は君を見守っているから。
君がこれから感じるその幸せを、君の名前のように――たくさんの人に振り撒けるような素敵なウマ娘になることを心から願っている。だからめげずに、前に歩いてくれ。それが私からの最後のお願いだ。
私がいなくても、君はもう大丈夫だから。君の夢に、世界で一番の幸せを願おう。本当に、今までありがとう。
――――――――――君の一番目のファン、お爺さんより』
便箋を持っていたライスシャワーの手に力が込められる。視界が何かで歪みながらも、必死に力なく書かれた文字を読み進めていく。
便箋に水滴が落ちてしまうが、ライスシャワーは必死に文章を読んでいた。
「ひっぐ……」
嗚咽を漏らして、ライスシャワーは手紙を読んで――理解してしまった。
思えば、どうして気が付かなかったのだろうかと。
幸せの手紙は、自分に勇気をくれた大切なものだった。
お爺さまも、私を支えてくれた大切な人だった。
しかし幸せの手紙は、他の人から一度も渡されたことがない。
お爺さま――ただ一人からしか渡されたことがなかった。
簡単だった。それはお爺さまが差出人だから、それしかなかった。
今まで自分に勇気をくれた人と支えてくれた人は、お爺さまだった。
俯いて泣いていた自分を、立たせて、前に進ませてくれたのは、お爺さまだった。
ライスシャワーは顔を涙と鼻水でくしゃくしゃにしながら、俯いて座るお爺さまに咄嗟に抱き着いていた。
「お爺さま! ライスね! お爺さまに会えて本当に良かった! 悲しい時、励ましてくれて嬉しかった! 楽しい時、一緒に喜んでくれて嬉しかった! 一緒にご飯食べてくれて嬉しかった! こんなライスに……だめだめだったライスにめいいっぱいの、たっくさんの幸せをくれて、本当に幸せだった! お爺さま! ライス、お爺さまのことが大好きだよっ!」
力なく座るお爺さんに、泣きながらライスシャワーが叫ぶ。
しかしそっと、ライスシャワーの頭に手が乗せられていた。
ハッとした表情で、ライスシャワーが顔を見上げる。
力なく微笑むお爺さまがライスシャワーを見ながら、口を開いていた。
「ライス……」
「なに……? お爺さま?」
ライスシャワーがお爺さまの小さい声を聞き取るために、顔を近づける。
どうにかライスシャワーが聞き取れる声で、お爺さまが想いを口にした。
「私に……俺に、沢山の幸せをくれて――」
そっと、ライスシャワーの頭を撫でる。
今までの感謝を込めて、幸せをくれたウマ娘に返せる自分の最大級の想いを込めて、お爺さまが頭をゆっくりと撫でる。
そして、お爺さまは笑いながら――最後の言葉を紡いだ。
「――ありがとう」
そうしてライスシャワーの頭から、お爺さまの手がゆっくりと落ちた。
◆
慌ただしく、かなりの時間が経ったと思う。
沢山の人に迷惑を掛けたかもしれない。時間を掛けて、普通に生活できるまで戻ったのには、感謝しかないだろう。
ライスシャワーは休日になると通うようになった場所で、一生懸命に目の前のとあるモノを手入れしていた。
それから少しして、ようやく一通りの手入れが終わったことにライスシャワーは額の汗を拭いながら満足そうに頷いていた。
疲れた身体をうんと伸ばして、ライスシャワーが手入れをしたモノの前に座り込む。
そして目の前に置かれていた――“墓石”を見つめがら、ライスシャワーは小さく微笑んだ。
「ライスね、お爺さまとほんとに会えて良かったよ。お爺さまが居たから、ライスはずーっと楽しかった。辛いこともあったけど、思い出すと別に嫌じゃなかったって思えるようになった……と思う」
まるで誰かに話しかけるように、ライスシャワーは話す。
特に誰かがいる訳でもなく、ライスシャワーはまるで目の前に誰かがいるような表情で言葉を紡いでいた。
「ねぇ、お爺さま。ライスは……全然、不幸なんかじゃなかったんだね。お爺さまの言ってた通りだった。ライスは……ライスの周りにはね――」
ライスシャワーが満面の笑みを浮かべる。
そしてライスシャワーが息を大きく吸うと、大きな声を出すことが苦手だった彼女が――大きな声で叫んでいた。
「――たっくさんの幸せでいっぱいだったよ!」
そう叫んで、ライスシャワーは立ち上がった。
墓石に向かって、その場で胸を張り、ライスシャワーは誇らしく告げていた。
「ライスの名前は、ライスシャワー。みんなに幸せを届ける祝福のお名前。お母さまとお父さまが褒めてくれた名前で……お爺さまが褒めてくれた大切なお名前」
目の前にある墓石に笑顔を向けながら、ライスシャワーは決意するように、それを口にした。
そして誓うように、心の底から尊敬する人に向けて、ライスシャワーは制服のポケットから何かを取り出した。
青いハンカチと手紙。自分と大切な関係を繋いでくれた大切な宝物を抱きしめて、ライスシャワーは笑っていた。
「だからライスは……みんなを今よりも、もっとたくさん幸せにできるウマ娘になるよ! だからずっとライスをお空の上から見ててね、お爺さま! ライスと約束だよ!」
伝えたいことは伝えた。そう思うと満足げにライスシャワーは墓石から背を向けていた。
トレセン学園に戻ったら、また練習しないと。そんな日常的な考えを巡らせて、ライスシャワーが足を動かす。
――ライス、私はずっと君を見守っているよ
ふと、そんな声が聞こえた気がした。
ライスシャワーが思わず振り向くが、振り向いた先には変わらず墓石があるだけだった。
「……うん! ありがとう! お爺さま! ライス、これからも頑張る!」
そうしてライスシャワーがまた墓石に背を向けると、足を動かしていた。
一歩、また一歩。墓石から離れていく。そして少し歩いた先で、ライスシャワーは元気よく叫んでいた。
「よーし! ライス、頑張るぞー……おー!」
みんなに幸せを届けるウマ娘になる為に。
ライスシャワーは幸せそうな顔でまた一歩、前に歩き始めた。