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夢、目標、理想。
それらを掲げた過去の自分は、何一つ間違っていなかった。そう信じ続けて毎日飽きもせずとにかく走る。
どんどん錨の数は増えていくが、これが自分の糧になると思えば辛くはない。どこぞの誰かさんがこっちの限界ギリギリを攻めてくるのでもの凄くキツいが、それ以上の充実感がある。
かつては、捨てると決めた“希望(いつか)”だった。諦めていた“未来(いつか)”だった。来ないはずの“明日(いつか)”だった。
それが今、当たり前のように自分の手の中にある。
その当たり前が何よりも愛しくて、だから辛さとか苦しさなんて一切感じる暇がない。
「ふぅ…5分休憩」
呼吸を整えつつ、大佐の差し出してきた水筒と携帯食糧(濃厚はちみー味)を受け取る。
アタシの上官は、とうとう簡易な執務机をグラウンドの脇に設置し、そこで書類仕事をすることにしたようだ。本人は「効率的だろ?」と満足気だが、絶対に色々と間違っていると思う。
けど、まあ。
アタシとしては大佐の監督があった方が調子も良いし?迷惑でもないから?本人がやりたがってることをわざわざ止める理由もないわけで。ハイ、この話終わり。
「ねぇ、大佐。そういえば何でアタシにあんなこと言ったの?」
小休止ついでに、唐突だが以前から気になっていたことを大佐に尋ねることにする。
急に話を振られた大佐は、手元の知恵の輪を机に置いて首を傾げた。いや、仕事は?
「すまない大尉。正直、君が何のことを言っているのかさっぱりだ」
申し訳なさそうな大佐にちょっと罪悪感。流石に言葉足らず過ぎた。
「ほら、アタシが異動決める前の。話が聞きたいー、とか。自分を捨てんなー、とか。あとアレ、ゴールドシチー少尉の直属の上官志願者だ!ってヤツも」
かつての自分がかけられた言葉を一言紡ぐ度に、何だか段々頬が熱くなってくる。落ち着けアタシ。表情に出すな。耳と尻尾、動くな。
あんまり余裕の無いアタシに対し、言った当人である大佐は「あー、あの時の」と平然としている。何かムカつく。
「あれは何と言うか、まあ私の本音だよ。君の上官に成るつもりだったし、そのためにもまずは話を聞きたかったから」
いつも通りの優しい声と微笑みを浮かべて、何でもないことのように大佐は告げる。
大佐にとっては当たり前だったその言葉に、どれだけアタシが救われているのか、果たしてこのおたんこニンジン(※ウマ娘特有のスラング)はちゃんと理解しているのだろうか?
「そっか。まあ、その…感謝してるよ。大佐に声かけられなかったら、多分だけどホントに海軍辞めてただろうし」
──だから、ありがとう。
思っていたよりすんなりと、お礼の言葉は形になった。
大佐は一瞬呆けたような顔になって、だけどすぐにいつも通りの微笑みを浮かべて「どういたしまして」と返してきた。
その微笑みを何故か直視できなくて、アタシは思わず目を反らしてしまう。
ああ、なんだってこんなに──
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──冷たい感触で目を覚ます。
アタシは、海軍本部所属“金砂”のゴールドシチー大尉。
ここは、海軍本部訓練用グラウンド。
何をしていたんだっけ…ああ、日課の自主トレか。
徐々に覚醒していく意識に合わせて、現状を把握していく。
体が冷えている。既に夜は更けており、曇り空のため星一つ見えない。
体にはいつも通り、たくさんの錨が繋がれた鎖が巻かれている。
脚は、裸足のせいかボロボロで血が滲んでいるようだ。
そういえば蹄鉄が外れて、靴自体も破れて使い物にならないから脱ぎ捨てたんだった。
状況からして、自主トレに熱が入り過ぎてそのままぶっ倒れて寝ていたらしい。
ズボンのポケットから金色の懐中時計を取り出し、時刻を確認する。夜中の2時。15分くらい寝ていたようだ。よし、じゃあ休憩終わり。
のろのろと立ち上がり一息吐くと、そのまま再び走り出す。
新しい靴に履き替える時間が惜しい。足は痛いが、まあ別に走れるから問題ない。
体は重いが、監督役に止められていないということはまだ追い込めるということだ。
──視界の端、グラウンド脇の指定席を見るが、目当ての人物の姿は見えない。
そう。あの人はアタシが自主トレ中はいつも隠れて見守っているから、あそこにいるわけがない。
アタシはモデルという“周囲に見られる仕事”のおかげか、見聞色に適性があるのでちょっと注意すればすぐに見つけられる。
だけど、やっぱり流石だな。今日はどこに隠れているか全く分からない。こんなに気配を消せるって、暗殺者にでもなるつもりなんだろうか?
──ズルズルと、体を引き摺るように前へと進む。
「昇進祝い」に、自分で着色したという金色の懐中時計を送ってきた誰かさんは、相変わらずこっちの限界ギリギリを攻めてくる。
もの凄くキツいが、それ以上の充実感があるから辛くない。苦しくない。
かつては、捨てると決めた“希望(いつか)”だった。諦めていた“未来(いつか)”だった。来ないはずの“明日(いつか)”だった。
それを今、当たり前のようにアタシは享受している。
その当たり前が何よりも愛しくて、だから辛さとか苦しさなんて一切感じる訳がない。
いっつも優しい顔をして微笑んでる癖に、訓練には一切手を抜かず、アタシのことを一度だってお人形扱いしなかった。
だから、止まれと言われるまでは続けられる。喩え一見無茶苦茶に思えても、彼はできると信じた以上のことは求めないと知っているから。
「──っ、痛ぁ」
体がふらつき、脚が縺れて転んでしまう。
まだまだ足腰が鍛え足りないということか。もっとハードに追い込まないといけない。
こんなんじゃいつまで経っても強くなれない。強くならなきゃダメだ。アタシは強い海兵を目指してるんだから。
「────」
ぼんやりと曇り空を見上げる。あー、雨降ってきた。傘持って来てないや…いいか、別に。走るなら関係ないし。
──視界の端、グラウンド脇の指定席を見るが、目当ての人物の姿は見えない。
──見聞色で可能な限り周囲を探るが、目的の人物の存在は感知できない。
まったく。あの人は部下の監督を放り出してどこに行っているのか。
これは昇進祝いの時と同じ、とまでは言わずとも、ちょっとお高いディナーでもご馳走されないことにはアタシの機嫌は直りそうもない。
もう部隊は別だが、キタちゃんやユキノも呼んで皆で奢って貰うとしよう。ウマ娘三人分の食欲を思い知らせてやるから、しっかり反省して欲しい。
まあ、それは後で話せばいい。さしあたっては自主トレの続きだ。
携帯食糧(メロンパフェの香り)を一口齧る。うわ、甘。メロンってか砂糖の味しかしない。これはハズレだ。別にいいけど。
「──ゴールドシチー大尉」
立ち上がって走り出そうとした時、誰かが目の前に歩み寄ってきた。
長く伸びた鹿毛の髪に、三日月のような特徴的な流星。
海軍の生きる伝説にして、ウマ娘達の守護者──“皇帝”シンボリルドルフ中将。
「もうこんな夜更けだ。早く戻りなさい。これ以上やっても、君の求めるものは手に入らない」
普段の威風堂々とした態度は鳴りを潜め、今はどこか疲れきったような、“皇帝”らしからぬ草臥れた老人のような弱々しい雰囲気で彼女はアタシに語りかけた。
自分より遥かに上の階級で、そうでなくてもウマ娘ならば一定以上の敬意を称する彼女の言葉が、何故だか無性に苛立たしい。
「ご忠告ありがとうございます。ですが、まだ止めの合図が無いのでもう少しだけ続けさせてください。アタシ弱いから、少しの時間も無駄にしたくないんです」
アタシの言葉に、ルドルフ中将の表情が歪む。これは、怒っているというより…何だろ。どうでもいいか。
「大尉、君も分かっているはずだ。もう合図は出ない。君の望む言葉がかけられることはない。今日だけではなく、これからずっと」
…この人は何を言ってるんだろう。やっぱり中将ともなると激務で忙しいんだろうね。だからちょっと虫の居所が悪いのかもしれない。ま、関係ないけど。
構わず走り出そうとするが、ルドルフ中将に肩を掴まれてしまう。普通に痛いんだけど。武装色使ってる?
「ゴールドシチー大尉、今回の件について軍葬の日程が決まった。彼の──君の上官である大佐君への弔花は、君が担当することになるだろう」
…いや、ホントに何の話?
アタシ時間無いんだけど。サボってるの大佐に見つかったら幻滅されちゃうじゃん。
モデルも頑張るし、海兵の訓練も仕事も手を抜かないで、全部全力でやるって約束してるのに。
約束破って大佐に嫌われて別の所に飛ばされたりしたら、そんなのアタシ耐えられない。
「大尉、君の気持ちはよく分かる。己にとって本当に大切な者を喪うのは、身が引き裂かれる思いだろう」
違う。アタシは何も喪ってなんかいない。だって、こんなにも満たされてる。
何一つ欠けてない。取り零してない。
何もかも順調、とは言えないけど、それでもかなり充実した日々を過ごしてる。
だって言うのに。
「だが、そこで立ち止まるわけにはいかない。過去は振り返ることは出来ても、戻ることは出来ない。残された者は、前に進むことしか出来ないんだ」
「…………っさぃ」
目の前の女の言葉が、妙に癪に障る。
「かけられるはずのない言葉を待ってどうする?永遠に鍛練を続けるつもりか?体を傷めつけて、いるはずのない者を探し求めるのが君の言う強くなるための努力か?」
「…………るさいっ」
分かったような口を利いてくるのが腹立たしい。
知ったような顔をしていることに反吐が出る。
──今にも死にそうな顔してる癖に、こっちを気遣ってくるその態度が心底ムカつく。
「永遠に過去の夢に囚われ、停滞するのが君の正義か?時間を無駄にしたくない?はっきり言って、今の君の行動こそ時間の無駄だ」
「うるさいっ!!」
──甦る情景。眼前に翻る『正義』と刻まれた白い外套。一瞬遅れて、視界が朱く染まる。
瞬間、アタシは目の前の女の胸ぐらを掴んでいた。相手が誰かとか、自分の立場など関係ない。とにかくコイツを黙らせたい。
──崩れ落ちる背中。急速に熱を失う身体。子供みたいにキラキラと輝いていた瞳が、光を無くした暗い硝子球に変わる。
何が分かる。何も知らない癖に。アンタは圧倒的に強いから、弱いヤツのことなんか理解できないんだろう。
──呼びかけても返事は無い。そも、こちらの声が届いていない。既に、心音と、呼気が、聴こえない。
強くなりたかった。弱いからあんなことになった。弱いままだと誰かを救うどころか、誰かが傷付くという当然のことを、未だに理解できていない甘えた子供(ガキ)だった。
──一瞬のことだ。乱戦になって、脚を負傷したアタシが動けなくなって。目の前の海賊達からの剣を、槍を、矢弾を、大佐が代わりに受けた。
だって、楽しかったから。夢を見るのが、目標を持つのが、理想を追い求められるのが。
大人になった振りして一度は諦めたものに、がむしゃらに打ち込めるのが、本当に楽しかった。
──酷い激戦で大佐もボロボロで、その上“覇気”使いからの集中攻撃を受けてしまえば、如何に自然系の能力者といえど一溜まりもない。それでも反撃して、その場の海賊達を撤退させたのは流石だといえる。
胸ぐらを掴まれながら、痛ましい者を見る眼でルドルフ中将はアタシを見る。その瞳に写るアタシの顔は、とても見れたものじゃなかった。
──でも、それで終わり。そのまま崩れ落ちて、脚を引き摺りながら慌てて近寄った時には、もう意識は無かった。
吐き気がする。駄々捏ねて、当たり散らして、心配かけてばっかりで。
どうしてこんなにも、アタシは弱いんだろう。
──大佐を背負って衛生兵を探すが、この戦場にそんな余裕は一切無い。結局、何も出来ないまま、自分のせいで命が一つ消えたという現実だけが残った。
ああ、こんなことなら。
あの時、異動なんてしなければ良かった。モデルで満足していれば、大佐は足手纏いを守る必要も無かったはずだ。
いや、そもそも海兵なんて夢を持たず、地元でひっそり暮らしていれば。
いや、せめて。
「大佐じゃなくて、アタシが、死」
「ゴールドシチー大尉。その先だけは、言ってはいけない」
厳しい視線が投げかけられる。
先程までの弱々しかった雰囲気を一変させ、“皇帝”に相応しい『神威』を纏い、シンボリルドルフ中将は語りかけた。
「その言葉は彼を、大佐君を愚弄するものだ。その尊厳を踏みにじり、その想いを汚すものだ。君だけは…彼に救われた君だけは決して、その言葉を口にしてはならない」
「でも!アタシがいなければ、大佐は…!」
「あの戦いは、誰かがどうしていれば何て次元で語れるものではない。世の部外者や後世の歴史家は好き勝手に語るだろうが、少なくとも当事者であった我々にとっては、起きたことが全てだ」
雨が強くなっている。
“皇帝”の言葉は厳格で、冷徹で、何よりも正しかったが、隠し切れない色濃い後悔が滲み出ていた。
「反省するなとは言わない。後悔もまた必要な時もある。だが、言い訳を重ねて、本質を見誤ってはいけない。
──ゴールドシチー大尉。君の目指すものとは、何だった?」
──君はどうしたい?
かつて、全てを諦めていた自分を当たり前のように救ってくれた、とんでもないお人好しの言葉。
ポケットの中の金色の懐中時計が、酷く重く、哀しい。
「『キレイ』で、っ『強い』海兵に、なることです…!」
雨に打たれずぶ濡れになって、髪も顔もぐちゃぐちゃで、信じられないくらい掠れた声。
もう投げ捨てたくて、でも結局捨てられなくて、未練がましく後生大事に抱えた夢を、目標を、理想を口にする。
「ならば君が為すべきことは、自分を責め傷めつけることではない。まずはゆっくり休んで、傷を癒すことだ。身体も──心もね」
雨に濡れながら、アタシの眼を真っ直ぐに見据え、“皇帝”は優しく微笑んだ。
ああ、何か分かった気がする。
「ルドルフ中将、もしかしてですけど…大佐と同じ隊にいたことが?」
「…自慢の教え子の一人だ。エアグルーヴと一緒に入隊してきてね。彼はいくつかある私の誇りの一つだよ」
懐かしさと寂しさが同居した、そんな声音でルドルフ中将は目を細めた。
やっぱり。大佐の件で心を傷めているのは、アタシだけじゃなかったんだ。そんな当たり前のことも分からないなんて、本当に今のアタシはおかしいらしい。
「その、申し訳ありません。失礼なこと言ってしまって…」
「いや、構わないさ。誰だって余裕の無い時くらいある。さあ、もう帰りなさい。こう雨に濡れては風邪をひいてしまう」
ルドルフ中将の言葉に今度こそ素直に従い、体に巻き付けていた鎖を外す。靴は…もうボロボロだけど履かないよりはマシか。
帰り仕度を始めるアタシを見て、ルドルフ中将は満足気に頷き踵を返した。
「──ああ、それともう一つだけ。君に限らず、私ならばこの身一つで全てを手にできると、そう思う者は多い」
こちらに背を向けて、“皇帝”は告げる。
まるで懺悔する罪人のように。苦渋と後悔に満ちた、血を吐くような声で。
「実のところ、取り零してばかりだ。喪ったものは全て覚えているが、何一つ欠けていいものなどなかった。──それでも、全てを抱え込むには、私はあまりに弱かった」
失礼する。と、こちらを振り返ることなくルドルフ中将は去っていく。
──海軍の生きる伝説。最強のウマ娘。永遠なる“皇帝”シンボリルドルフ。
この時、その偉大な背中がとても小さく見えた。
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「中将、こちらを」
ルドルフが自身の病室に戻ると、真夜中だというのに副官であるエアグルーヴが待機していた。手には大きめのタオルを持っており、ルドルフへ差し出してくる。
「すまないなエアグルーヴ。まさかまだ残っているとは思ってもみなかった。分かっていれば、もっと早く戻ったんだが」
タオルを受け取り、髪を拭きながらルドルフは詫びた。
確かエアグルーヴの子供はまだ小さく、手のかかる時期だったはずだ。それなのにこんな真夜中まで待たせしまったことに、申し訳ない想いが募る。
「いいえ、中将。私も彼女のことが気になっていたので残っていただけです。少々、参っている様子でしたので」
戦死した大佐──2階級特進でもう少将だが──と同期だった繋がりで、エアグルーヴはゴールドシチー大尉によく訓練をつけていた。
そのため、大尉が自分の上官のことをどれだけ信頼していたか、そして今どれほど深い傷を心に負っているか。
間近で見てきたエアグルーヴには、それが痛いほどに理解できてしまう。
そも、ウマ娘という種族そのものが情に厚く、人間との絆を重視し共に歩むことに喜びを覚える性質がある。
仮に自分が同じ立場であったなら──そう考えるだけで、エアグルーヴは背筋が凍る想いだった。
「一旦は落ち着いてくれた。が、やはり最後は本人次第だろう。周りからどう言われても、結局は己の意志で決断するしかない」
ここ数日、ゴールドシチーは幾度となく病室を抜け出してはグラウンドを走り続けていたという。
何度連れ戻しても状況は変わらず、その話はついに療養していたルドルフの耳にも届くこととなった。
一先ず様子を見て、危険だと判断すればその時に止めればいい。そう考えていたルドルフであったが、実際にその光景を目の当たりにして、思わず息を飲んだ。
まるで死人のように生気の無い顔で、大量の錨を引いて走るゴールドシチーの姿。
自慢の髪に艶は無く、頬は痩け、目元には隈がある。
壊れた靴を脱ぎ捨てたのか裸足になっており、足からは血が流れている。
ただその瞳だけは煌々と不気味な輝きを放っており、何かを探すように必死に辺りを見渡していた。
──雨に濡れながら、静かに涙を流すゴールドシチーの表情を思い出す。
少しだけ会話を交わしたが、完全に心が折れかかっている。
その心中を察することができるだけに、叱咤しつつも当たり障りの無い言葉を選ぶことしか出来なかった。
何か、もっと他にかけるべき言葉があったのではないか?
迷い惑い悩める若人を導くのが先達としての役目だというのに、老いた己の無力さに腹が立つ。
自身の不甲斐なさに奥歯を噛み締めるルドルフに、エアグルーヴが声をかけた。
「ルドルフ中将、お言葉ですがあまり彼女を見くびらないでいただきたい。彼女は──貴女の教え子に鍛えられたのですから」
いつも通り。“海軍の女帝”と畏怖と尊敬を込め呼ばれる彼女は、普段と変わらぬ厳しくも優しい口調でそう言った。
「彼女の根性には目を見張るものがあります。アレ(大佐)に鍛えられて、弱音一つ吐かずこれまで走り続けてきたんです。躓き倒れ、土を噛むこともあるでしょう。
しかし、それが何度あろうとも立ち上がれると──貴女の教え子である私が保証します」
ルドルフが直接的・間接的に関わり、鍛え教え導いた海軍関係者は数多い。
その中で大怪我を負い海軍を退役せざるを得なかった者や、戦死した者も少なくはない。
それでも“皇帝”の薫陶を受けた者の全員が、彼女に対し心からの信頼と尊敬の念を抱いていた。
そんな教え子の一人から日々鍛えられたゴールドシチーが、ここで終わるはずがないと、エアグルーヴは確信している。
「──は。敵わないな、エアグルーヴには。だが、少し気が楽になった。さあ、もう遅い。早く帰って、君の家族を安心させてあげて欲しい」
「はい、それでは失礼いたします。中将も、まだ完治していないのですからご自愛ください」
分かっているさ。と、しっかり釘を刺して退室する副官に苦笑を返し、ベッドに横になる。
──雨が強くなっている。
グラウンド側に気配が無いことに安堵しつつ、ルドルフはゆっくり瞼を閉じた。
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ルドルフ中将と会話した後、病室へ戻ったアタシはそのままベッドに倒れ気を失い、そのまま3日ほど眠っていたらしい。
目を覚ますとまずユキノに泣かれ、次にキタちゃんにも泣かれ、止めとばかり広報部隊の准将にも泣かれる始末。
周囲に多大な迷惑と心配をかけていたことを改めて実感し、青筋を立てキレ散らかしる医師の指示に大人しく従い、一週間の絶対安静を受け入れた。面会謝絶じゃないだけ温情だと思う。
脚の治療と、弱っていた内臓の治療。何より衰弱していた精神のケアを第一に、しばらく訓練もモデル業もお休みだ。
ベッドで横になりつつ、ぼんやりと窓の外の景色を眺める。
──遠く離れた夕日に照らされるグラウンドに、かつて当たり前だった光景を幻視した。
来る日も来る日も、飽きもせず走っていた。
体は疲れてヘトヘトで、着古した訓練着はボロボロで、履いていた靴も蹄鉄もあっという間に摩りきれて。
だけど、空はわけ分かんないくらいキレイで、大佐はいつでもアタシのことを見守ってくれた。
その当たり前が何よりも愛しくて、だから辛さとか苦しさなんて一切感じる暇がなかった。
瞼を閉じて、心を鎮める。うん、きっとアタシは大丈夫。
あの時と違って、聞く者は誰もいない。聞いて欲しい相手は喪ってしまった。それでも、口にせずにはいられなかった。
「──今アタシは、ちゃんと“アタシ”だよ」
いつかの言葉を繰り返す。
そっか。と、何てことないように微笑む大佐の顔が、瞼の裏に見えた気がした。やっぱり、全部見透かされてるみたいでちょっとムカつく。
自分の妄想でしかないのに、何だか笑えてきてしまって、声を殺してアタシは笑った。どうしてか涙が止まらなくなるくらい、笑った。
──後日、誌面に掲載された一枚の写真が世界中で話題を呼ぶことになる。
未だ復興の終わらぬマリンフォードの一角にて行われた海軍の軍葬式典。
そこで墓前に弔花を捧げる一人のウマ娘の海兵の姿。
黄金に輝く“尾花栗毛”の長髪を潮風に靡かせ、“百年に一人”と称される絶世の美貌と強い意志を感じさせる瞳。
彼女の身体には明らかに不釣り合いに大きく、補修痕の目立つ草臥れた『正義』を背負う白い外套。
その表情は、過去を悼んでいるとも、今を重く受け止めているとも、未来への希望を見据えているとも言われ、人々の間に議論を呼んだ。
だが、彼女に近しい物達はこう口を揃える。
──あれが“金砂”のゴールドシチーの新たな一歩。その始まりであった、と。
シチーさん→齢23(本SS設定)にして漸く大人への第一歩を踏み出す。彼女ならどんな困難があっても折れずに真っ直ぐ進んでくれることでしょう。
大佐→昇進して少将になった。やったぜ。悪魔の実の能力で金色に着色した懐中時計を、シチーが大尉になった時に昇進祝いとして渡した。結果的にこれと最後に着ていた外套が遺品としてシチーの物に。
ルドルフ→駄洒落を聞いてくれる相手が一人減った。オペラオーとの戦いの傷の療養中でも、シチーを気遣ってくれた聖人。彼女の実情や内面を理解するには、シチーはまだ若過ぎた。
エアグルーヴ→大佐と同期で、揃ってルドルフの教え子だった。大佐とは「お互い万が一死んだら遺体は回収してやる(だから憂い無く逝け)」と軽口を叩ける仲。最近、子供が自分の口癖を真似て夫を「たわけ」と呼ぶのが悩み。