ジョジョの奇妙な迷宮 ~発狂寸前ディアボロを添えて~ 作:ヘビとマングース
町は夕焼けに照らされていた。
それだけならば驚きはしないが、不思議なのは空がないことだった。
頭上を見上げれば海が広がっている。物言わぬ穏やかな波が空があるべき場所に存在して、近くには町があった。“壁の目”。囲まれた町も見えている。
あれは日本だ。きっと。そうであることを知っている。
記憶が剥がれていく感覚がある。
自分が何者であったのか。どこに居たのか。何をしていたのか。多くのことが自らの意思とは無関係に消えていく。動揺もせずにそれを受け入れられたのは、驚くことがたくさんあったからだ。
自分が今立っている場所は、イタリアだ。日本で生まれた日本人だという自覚があったのだが、果たしてそれは嘘だったのか。しかし空に海と町があって、あれが日本のどこかだというのなら、あそこから落ちてきたのかもしれない。
そんなことがあり得るのかはさておき、とにかく不思議な光景だったのは間違いない。
自分が居る広場には誰も居ない。石畳があり、喧騒のない、音が存在しない無人の町だった。
周りを見渡してみても気になる物はない。無さ過ぎることが不気味である。
どこかから何かが落ちてきた。背後でがしゃんと音がして振り返る。乳母車だ。何の変哲もない乳母車がどこかから現れて転がっている。
少年は何を考えるわけでもなく、ただそれが気になったというだけで歩み寄ろうとする。すると突然背後から肩を掴まれてぐいっと引っ張られた。
「何やってんだ!」
引っ張られる力に従って足を運び、なんとか転ばずに体勢を立て直すと、頭上から降ってきた人物が着地と同時に地面へ剣を突き立てたのだ。
焦ることもなく呆然として、少年は状況を理解出来ていなかった。
彼の肩を掴んだ男は舌打ちをして、少年を背後へ庇うと、嫌そうに銃を構える。
「ったくよぉ~、なんでおれが男を助けなきゃあならないんだぁ? まったく嫌になるぜ」
文句を言いながらも素早く引き金を絞り、連続して三発の銃弾を発射する。
剣を構える長髪の男もまた素早く剣を振り抜き、正面から迫る銃弾を斬り捨て、外れた二発の銃弾は見当違いの方向へ飛んでいってしまった。しかし突然その軌道を変え、男の背後から後頭部を狙って迫る。男はそれに気付き、冷静に振り返ると残りの二発も斬り落としてしまった。
常人なら防御不能の必殺攻撃なのだが、テンガロンハットの男は強く舌を打った。
「これだから人間じゃねぇ奴は嫌なんだ。ほら、走れ走れ!」
テンガロンハットの男に背を押されて、理解できぬまま少年は走り出す。
後ろを気にすれば剣を持った長髪の男が追ってきていた。時折振り返りながらテンガロンハットの男が同行して銃を撃つのだが、全ての弾丸は剣で斬り払われる。
彼の指示で扉を蹴破り、ホテルの中に入っていく。
理由は知らないが追われているようだ。そして彼は助けてくれようとしている。
何から何までわからないが、死にたいと思うほど絶望はしていない。
走りながらも彼らの姿を確認する少年は、あっと声を漏らした。
「ちくしょう! “銃は剣よりも強し”じゃあなかったのかよ! ゾンビのくせしやがって!」
「思い出した。あんた、ホル・ホースだろ?」
「あぁ? 何言ってやがる」
放った銃弾を自在に操って、開けっぱなしの扉を上手く閉めた。すると直後に剣でバラバラに斬り裂かれて長髪の男が入ってくる。
長い廊下を走って進みながら少年はテンガロンハットの男に声をかけた。
反応は微妙で、顔をしかめた彼は意味がわからないと言いたげな態度を見せて、問いかけに応えることなく背後への銃撃を繰り返す。
しばらく走るとずずんと揺れた。
地震、というよりはまるで地面が意思を持って動いているかのように、地響きを立てながら巨大なホテルが割れて分かれてしまい、寸断された地面が遠ざかっていく。そちら側には剣を持つ長髪の男が取り残されて、少年とホル・ホースは急な出来事で難を逃れたようだ。
辺りの風景は一変していた。割れたホテルの断面から外を眺めると、イタリアの町並みや空に浮かんだ海と町は消えていて、確認できたのは右側に見えるあまりに巨大な滝。下には光を吸い込む暗闇が広がっていて何も見えず、ドドドとうるさいくらいの水が落ちる音だけが存在していた。
分かたれたもう一方のホテルは瞬く間に遠ざかっていき、暗闇の中へ消えてしまう。
自分たちはどうなるのか。二人は空中に浮遊するホテルに取り残され、状況を確認しようにも常識が通じない風景で理解が追いつかない。
ここにあるのは半分になったホテルと空中に浮遊する足場、巨大な滝と暗闇。
忙しなく視線を動かした二人は動揺を隠せなかった。
「おいおい、何が起きてやがんだ!? またこんなのかよ!」
「また? さっきもこんなのがあったの?」
「あぁ?」
「ここはどこなんだ?」
少年の発言にホル・ホースは訝しげな顔をする。
答える暇もなく再び地響きがした。
見上げれば半分になったホテルがボロボロと崩れており、どこへともなく消えていく。また景色が変わろうとしていた。
視線を上げたためだろう。どこからか降ってくる人物の姿が目に映った。
血を撒き散らしながら降ってくるその男は派手な外見をしていて、暗い風景の中でも映えるピンク色の長髪と上半身は肌がほとんど見えるが一応服を着ているらしい。そして右腕を失った切断面を左手で押さえて、必死に叫んでいた。
真っ逆さまに落下してくる彼と視線が合う。
少年はあっと思い出した。
「うおおおあああああぁ~っ!? 私に……近付くなぁ~!!」
「あの人は、ボスだ」
「ドッピオォ~! 私を助けろォ~!」
「だから、僕はドッピオじゃないって言ってるのに」
落下してくる男はディアボロだ。それだけは思い出せる。
その背後、追随するかのように落下するのはほとんど半裸の男だ。強靭な筋肉の鎧に身を包んでいるため見苦しくはない。むしろその姿は凛々しく、雄大で、美しい。
「ワムウッ!」
「うおおおぉ~! ドッピオォ~!」
「助けた方がいいんじゃねぇのか?」
「ええっと、どうやって助ければ……」
自分は何かを知っていたはずなのだ。この世界のことも、ボスと呼ぶディアボロのことも、自分の名前ではないとはっきりわかるドッピオの存在も。助けろと言う彼を助ける方法も知っていなければならないはずだった。
どうしてこんなに忘れてしまっているのか。わからなくてもやもやする。
少年は頭を抱えてうんうん唸り、ディアボロの叫びも聞こえず、ホル・ホースは嘆息した。
何がなんだかわからないのは彼も同じだが、見ず知らずの人間とはいえ、助けろと叫びながら落ちてくるのを無視するのも忍びない。
相手が女性だったならもっと早くに助けていたのだが。そう思いながらも銃を構える。
落下してくるのは二人。叫んでいるディアボロじゃあなく上に居る奴を撃てばいい。
ただし、あいつも只者ではないのだろう。落下しながらぐにゃぐにゃと形を変えつつある周囲の景色に驚くこともなく、ディアボロのみに注意を向けていて、彼を仕留めることのみを考えている目だった。遠くから見ていてもわかる。それを証明するかのように、両方の手に拳を作って、腕には目に見えるほど風を纏わせているのだ。
通用するかはわからない。だがホル・ホースは決断して発砲した。
「仕方ねぇ。これも貸しにしとくぜ、ドッピオ!」
「だからドッピオじゃないって……」
銃声を響かせて何度となく弾丸を放った。真っ直ぐに飛ぶだけでなく、縦横無尽に動いて曲線を描くことさえあり、様々な角度から標的を襲う。
その全てを視認した半裸の“敵”は、この時ばかりはディアボロから意識を外して、自らを襲う攻撃に対処する。
全身がぐにゃりと軟体動物のように動き、当たるはずだった銃弾は全て意識的に回避され、偶然を味方にしたのではなく、自らの意思で銃弾を避けられる奴なのだと判断した。
ホル・ホースは強く歯噛みした。
こんな奴しか居ないのか。彼の銃撃も十分に強力であるはずなのに当たらない。
彼は次の攻撃を躊躇い、思わず銃を下げてしまった。
「ちくしょう、また当たらねぇじゃねぇか! あいつも人間じゃねぇのか!? スタンド使いでもねぇようだし、そもそもおれはNo.1よりNo.2が信条なんだ! こんな戦いは柄じゃねぇんだってよぉ!」
攻撃こそ当たらなかったが、時間を稼いだ意味はあったようだ。
周囲の風景が変化して、暗闇の中から長く巨大な塔が空気を裂きながら伸びてきて、半裸の“敵”を突き飛ばして消してしまう。それだけでなく、何本もの塔やビルがあちこちから飛んできて複雑に絡み合い、どこかにぶつかっているのか、ゴンっと大きな音を響かせる。
このままでは自分たちも潰される、と思った二人だったが、ホテルが消えたように彼らが立っていた足場もいつの間にか消えていて、少年とホル・ホースはディアボロと共に落下していく。
何から何まで理解が及ばぬまま、落下中光に包まれると、今度は水中に落とされていた。
ドボンと落とされて勢いよく体が落下していく。ぐるぐる回っていて姿勢が落ち着かない。そもそも水中であるのか? それさえも定かでなかった。
必死に体を動かして水面を目指そうとした少年は、自分がどちらを向いているかもわからずに、体は一方向に落ち続けていることさえ理解できていない。
やがて水中を突き抜け、ようやく空気を見つけた時、彼らは揃って大きく息を吸った。
「ハァ、ハァ……」
「どこだ今度は……噴水? ただの公園の?」
必死に呼吸する少年の傍で、ホル・ホースが呆然と呟く。
どこの国のなんという場所かはわからない。彼らは子供たちが遊ぶ公園にある、大きな噴水に膝を着いて座っていて、さっきまでの落下はなんだったのかと思ってしまう。
のどかな風景であり、公園の周りには住宅街があった。
空を見上げれば、高く浮かんで町を照らす太陽があって、驚きのない光景だった。しかしだからこそ奇妙な体験をした彼らは驚いてしまう。
「普通の公園だ。日本かな?」
「ああ、ガキどもは黒髪だぜ。しかしこれがいつまで続くかはわからねぇ」
状況を確認しようとする少年の隣、ぐったりした様子のディアボロが弱々しく動き、残っている左腕を噴水の縁に掛けて外へ出ようとする。
右腕を斬り落とされており、まだ血は止まっていない。しかしそんな彼が居ても、公園でボール遊びをしている子供たちは一向に興味を示さず、ちらりと見ることはあっても、大騒ぎして助けを呼びに行こうとは一度もしなかった。
噴水の中に座っている少年とホル・ホースもそうだ。気付いているのに関心を向けない。やはりここも奇妙な場所なのだろう。
「おおおぉぉ……ドッピオォ……私に、誰も、近付かせるなぁぁ……」
「あまり動かないでボス。手当てができないし、また危険な物があるかもしれない。それと僕はドッピオじゃないよ」
「止めたところで無駄だぜ。お前ら、こんなことを繰り返してるんだろう」
勝手に動こうとするディアボロを止めようと体に触れて、少年はその後で振り向いた。
すっかり濡れてしまった煙草を捨てて、ホル・ホースは呆れた顔で喋る。その目は少年に向けて猜疑心を隠そうともしなかった。
「お前がおれに説明したんだろう。死なないように“真実”に辿り着かなきゃならないって。もう何度も死んでるんだろ?」
はて、そんなことを言っただろうか。なぜだか忘れてしまっている。
強いショックを受けて忘れてしまったのかもしれない。
平気でそんなことを考える少年はすぐさま冷静にディアボロを介抱しようとしていた。
その時、どこかから走ってきた小さな玩具のような物体を見つける。
タイヤを転がして走ってくる車のようなそれは、髑髏の顔を着けており、子供の玩具にしては些か悪趣味だと思う。
あっと気付き、まさかと思った時には、すでにディアボロに触れられるほど接近していた。
咄嗟に顔を上げた少年は、遠くからこちらを見ている金髪の男性を目撃する。
「平穏な日常のために……“シアー・ハート・アタック”」
玩具だと思っていた小さな物体が強い光を放ち、直後には大爆発を起こした。
当然の如く爆炎に呑まれたディアボロと少年はその姿を消す。
ぱちりと目を開けて、少年は目を覚ました。
さっきの出来事は夢などではない。全て夢の中の出来事だった、という展開ではない。
全ては実際に起こっていたことで、ここがどんな世界なのかは知らないが、夢のようでもある一方で眠っている間にだけ見るものではない。
彼らは死亡し、同じ場所へ戻り、また死ぬことになる。それだけを繰り返す。
思い出せそうな、そうでもないような。
戸惑った様子で少年が体を起こし、頭を掻いていると、隣の部屋から絶叫が聞こえた。ついでに物をひっくり返す音も聞こえて、ああ、こんな感じだったと考える。
住処にしていたのは何の変哲もないアパートである。一室はさほど広くはないが、安ホテルの一室のように、大きなベッドとユニットバスがあり、小さなテーブルと椅子もある。他には冷蔵庫と固定電話が一つずつ、それ以外には何もない部屋だが生活には困らない。
何もないが何もないわけではない。最低限の住処だ。
少年は隣の部屋へ赴き、聞いていないだろうと思いながら念のためにノックをして扉を開ける。
中を覗くとひっくり返されたテーブルがあり、その傍に肩で息をするディアボロが立っていた。あれでも数少ない調度品なのに、と思いながら少年は部屋へ入り込む。
刺激しないよう恐る恐る足を運んで、ディアボロの背後を取った。
相手はわかっていたためだろう。背中を向けたまま、彼はぶつぶつと呟いている。
「また、ここだ……私は、もう何度死んだ? 数百、数千、数万……それとも数億か? 何度死んだらここを出られる。いつになったら終わるんだ……」
「また死んじゃったね。でも今回は一瞬だったし、熱っ、何? くらいで死ねたからそんなに苦しみはなかっ――」
「死に方などどうでもいいっ! またここへ戻ってきた! 同じことの繰り返しだ!」
鋭い怒声を放ってディアボロが振り返った。余裕のない彼はこうして怒鳴ることが多くなった。
肩を上げてぎゅっと目を閉じた少年だが、ああめんどくさい、程度にしか思っておらず、落ち着かない彼の話を聞いてやろうとその目を見つめる。
「私はもう何回死んだ? 何回死ねば終わる? 同じことの繰り返し……また今日もどこかで誰かに殺される。必ず死ぬことになる。かつての記憶が、嘘だったのではないかと思えてくるんだ。だんだん薄れていって、私が私であったことさえ忘れそうになる。わ、私は、帝王だったのか? 帝王だったんだろう? そうに違いない……そうに違いないんだ、ドッピオ」
「だからドッピオじゃないって。何百回か、千回は越えてるかな? 僕も呆れるくらい死んだし自分の名前は忘れたけど、ほら、髪は黒いし」
「真実を手に入れなければ……終わりを見つけなければならない。でなければ私は、今後も死に続けるだけだ……」
ぶるぶると斬り落とされていない両腕を震わせ、ディアボロはひどく不安そうな顔をしていた。
人間、何千何万と死を経験させればこんな風になるのか。
自身はまだその境地に至っていないとはいえ、それなりに死を経験した少年はふむと考える。
やがてディアボロは縋りつくように少年の下へやってきて、跪いて腕を掴み、泣きじゃくる子供のように彼を見上げて声を震わせた。
「わ、私にはもう、お前しか居ないんだ……頼りになるのはお前だけだ、お前だけなんだ。私を助けてくれドッピオ。私を捨てないでくれぇ……!」
「ドッピオじゃないって言ってるのに。まあ、いいけど。見捨てないけどさ」
抱きついてくるディアボロをそのままにしておいて、幼子をあやすようにポンポンと背を叩いてやった。それでもディアボロが安心する様子はない。
少年もまた、なぜかは知らないが奇妙な世界に囚われてしまっており、抜け出すことができずに何度となく死んでいる。その際には常に傍にはディアボロが居た。
奇妙な連帯感が生まれてしまっているのは自覚している。
自分がドッピオでないことだけは確実に明言できるのだが、言っても聞かないディアボロを放置するのも気が引けるので、こうなればもう一蓮托生だ。
ついには泣きじゃくり始めたディアボロの背をよしよしと撫でてやり、無駄な時間を過ごす。
自分の名前さえ忘れてしまった少年は、また死にに行くのだな、と考えていた。