「………眠れない」
思った通り眠ることができなかった。さっきの食事で少し気を逸らせたものの自分の部屋に戻ったら、紛らわせた気も元に戻る。電気をつければ終わる話だが、やる気ものにも出ない。だから課題は朝やることにして静かに眠ろうと思ったのに………
俺はベットから起き上がり、腰掛けて両太ももに両手を置いて力を抜く。そしてそっと息を抜く。その音は静まり返った部屋の空気を振動させる。空気が空気を伝い、それはどんどん大きくなっていき、かえるの輪唱と同じくらいの音量になる。その音が何かの呻き声にも聞こえ、さらに心をざわつかせる。耳障りの甲高い音に耳を塞ぐもその抵抗も虚しく、それは手という障壁をものともせずすり抜けていき、俺の鼓膜を揺らす。
(やめろ。来るな。俺が何をした。なんで俺ばっかりこんなことに。)
そんな疑問に誰も答えてなんてくれない。しかしその答えに答えるように不快な音はさらに大きくなる。つくづく俺は不運、不幸などに好かれているようだ。
真っ暗で何もない空間に一人、体育座りに顔を埋めて座っている。すると足音が段々大きくなってくる。そこには人らしき影が俺の方へ向かって歩いてくる。暗いけど視界ははっきりしている。あれは人の影だった。助かると思ったその時に俺は実に愚かだった。
ーー誰も救ってくれなかったのに。誰も味方じゃないのに。ーー
影が俺の前まで来た時俺はそれが人じゃないことを確信した。それは真っ黒でまさに影というべき存在で、俺を見下しあはっ…と言い軽く笑う。そいつには顔の輪郭はあるが、目も耳も鼻もなく、ただ口だけがある。そんなものの表情がただの人間の俺にわかるわけがないのに、俺は直感した。あいつが俺を嘲笑っていると。
そいつはどんどん俺に近づいてくる。奇妙な笑い声を上げながら。俺はそれから離れるように座ったまま後退していく。
「いひっ………えひひ…」
「来るなよ…なんなんだよお前!!」
歩いてくるにつれて糸状ののものが黒い人の形をした何かに巻きついていく。すると段々と人が出来上がっていく。肌白の足、中学時代のジャージ。それらは全部今俺が来ている寝間着だった。そして口だけしかなかった顔に色が乗る。口はピンク色になり頬は段々と肌色になっていく。次第に鼻も出来上がる。
「えへ…おでかぁ?おでは、お前だよ。いひひ………!」
そいつは突然走り出し、俺の顔に自身の顔を近づけた。それと同時に目が出来上がる。真っ黒な目、長いまつ毛にくっきりとした二重。それは俺だった。
「うわああああぁぁぁあぁ!!!」
俺はそいつのお腹を蹴って立ち上がり全速力そいつがいる方とは逆方向に走った。怖くなって後ろを振り返ることなく、ただ全力で何も見えないところをただ走った。足音はせず、そいつは追ってきていないことがわかる。だが、足が止まらない。どこまで逃げても逃げられる気がしないから。
“逃げられないよ〜”
それは確実にあいつの声だった。でも、 鼓膜が振動した、耳を通った感覚が全くしなかった。
(なんだ今の?!なんで!離れたのに、走っているのに、なんであいつの声が俺に聞こえるんだ!)
“そりゃそうだよ〜さっき俺の顔見て直感しただろ?お前は…俺なんだからな。お前自身に声を届けるなんて簡単なことだ。”
俺はそれを聞いた途端全身の力が抜けてそこに立ち尽くす。恐る恐る後ろを振り返っても、そこにはもう誰もいない。
(俺が…あいつ?そんなはずない、ありえない。あんな怖いやつが俺なわけない!)
“俺が言ってんのは人間として一緒ってだけだ。俺は俗に言うお前の影とか闇ってやつだからな。”
「精神が二つあるなんてありえないんだ!お前は俺じゃない。ここが俺の精神なんだとしたら、勝手に入ってくんな!」
“長年連れ添ってるのに釣れないね〜ただお前が俺を認識してなかっただけなのによ。俺はお前の全てを知っている。どんなふうに思って、どんなふうに時を刻んできたのかもな。だが、俺ならもっと上手くやれる。だからこの体の、俺ら二人の幸せのために、俺と変わってくれ。”
何を言っているのかわからなかった。目の前にいないのに、そいつの声が聞こえる時点で、訳がわからないのに変われと言う。情報が多すぎて整理が追いつかない。
「な、何を言っているのかわからない!どう言うことだ?」
“だからお前…光の方の俺がこっちの世界にいろって言ってんの。これから変わらねえだろうしな。変われねえだろ?”
そう頭に響いた時、俺はあたりを見渡した。真っ暗で何もない空間にぽつんと一人残される。その辛さを誰よりもわかっているのは俺自身だった。そして不意にいろんな記憶が呼び起こされ、冷や汗をかく。両手で二の腕を交差するように抑え、ブルブルと震える。次第に呼吸も荒くなり上手く息が吸えなくなる。
“やっぱり…光の俺は周りの闇に呑まれすぎたんだ。だから俺はここまで成長してしまった。そして成長してしまったから、お前から知識を奪う量が増えちまったんだよな〜”
「はぁ…知識を…奪う………?」
“そう。まあ、ピンとは来ないだろうな。俺が奪ってるせいでお前の知識、意識や判断応力など、あらゆるものが低下してってるんだからなぁ。もちろん最初からじゃないさ。光のお前が生まれた時俺はまだ生まれてない。心に闇がないからだ。生まれても初めはチリ程度しかないんだ。だがそれらを奪って成長していく。成長するほどに一回に奪える量増えるってだけだ。現に奪われる前のお前だったら、直感でわかることも、今はもうわかるけど、そこにたどり着くまで時間がかかってるだろ。それにこの短時間でお前のあらゆるものが二、三か月分くらい減った。これはお前の中の5%ぐらいのものを奪ったことになる。………悪いな。”
「なんで、謝るんだ……?」
さっきまで俺を狙っていたとは思えないほど落ち着いた声で話す影を俺はどうしても悪いやつだとは思えなかった。
“俺ら影は意志関係なく知識とかを奪っちまうんだ。そしてそれを返すこともできない。記憶ってどんどん上書きされていくだろ?それと一緒で古くなった記憶を俺らが養分として吸収してるってわけだ。でも、今のお前の時間は止まっちまった。止まってないけど、記憶に刻まれる記憶が何もないから上書きされることなく、減る一方になってるんだ。”
確かにそうだ。こいつにこの体を渡せば、何か変わるかもしれない。でも、そうしたら俺が今まで築いたものはどうなる。友達や杏花さんたち、そしてスクールアイドル同好会の人たち、兄さんや海音それらが今の俺を作っているんだと思うと、俺は意地でもここで引き下がることができなかった。
「ありがとう。でも、それはできないよ。」
“………っ、なんでだよ!ここにいればお前はもう辛い思いをすることはないんだぞ?!今までにあった家族のことも、周りの人間のことも、何も関わらなくて済むんだぞ?!なのに………なんで!”
「もちろん辛いよ。今でも暗いところにいれば、沈むし、なんなら泣きそうになる。けど…それも今の俺だから。それを受け入れて変わりたいと思うことが大事なんじゃないかな?」
“そんなの綺麗事に過ぎない!お前はもう十分頑張ったんだ。いろんなやつの裏切りにあってきたろ!なんならお前の知らないところでもお前を裏切っている奴がいることを俺は知っている。そんな火の中に飛び込もうとしているお前を止めたいんだ!なのに………”
「逃げることも大事だと思うけど、逃げたら変わらないし変われない。もしそれが辛い関係だったら、そんな関係の延長なんてただの地獄だと俺は思う。」
“………………お前はそれでいいのか?”
さっきまで怒鳴り散らしていた影が急に大人しくなった。少し諦めが入ったため息をこぼしながら。しかし何か吹っ切れたように声が明るくなっていく気がした。
「ああ、俺は俺にしかできないやり方で、影は影にしかできないやり方があるんじゃないかな。」
“へっ、実にお前らしいな。もちろん否定はしない。でも肯定する気もない。お前がやりたいようにやってダメだったら俺に頼るといい。いつでも相談乗るぜ。”
「すまないな。助かるよ。」
“まあ〜一つ言えるのは、思い出を作ってくれってことだ。これ以上お前が沈むところを見たくないし、俺は奪っちまうからな。減る一方にならないようにな。”
「そうだね。地元から離れたからってのもあるから、のびのびできるし、いろんなことしたいな。」
“お前の思い出、楽しみにしてるからな”
影はそう俺に響かせると、真っ黒な旋風と一緒に俺の前に現れた。俺と全く容姿は一緒だが、意識が違うから行動も口調も全然違う。俺を見ているのに俺じゃないって言うのは実に不思議なことだが、少し楽しくなっている自分もいた。
「で、ここから俺はどう帰るんだ?」
「これは夢みたいなもんだからな。起きたらそのまんまここからはいなくなる。」
「そっか。また会えるのか?」
「まあ〜夢って言っても夢じゃないからな。俺が呼ぼうと思えば呼べなくもない。毎日は疲れるから嫌だけどな。」
「そんな毎日影にあったら、気が休まらなくて眠れないよ。」
「それもそうだな。今、ちょうど、5時50分だ。そろそろだろ。じゃあな。」
腕時計を見ながらそう言って影は後ろに振り返って、ポケットに手を突っ込んで歩いていく。俺はその背中にありがとう!って叫ぶと、彼は振り向くことなく、後ろ手に手を振ってくれて、そのまま闇に消えた。そして俺も段々意識が飛びそうになり、タイムリミットを自覚した。このまま立った状態だったら倒れた時痛いと思った俺は、そこにあぐらを書いて座る。最初に来た時より少しだけ恐怖が消えている。これも影のおかげなんだと思うと自分に助けられたみたいで、なんか違和感しかないがすごくありがたい。そんなことを思いながら、俺はそこに倒れ込んで静かに目を閉じた。
ピピピピ…ピピピピ…
音が鳴る方へ手を伸ばし、音の元である目覚まし時計を止める。ベットに座った状態で目を覚ました俺は、腕を伸ばして伸びをする。んーと声を上げ、腕を脱力させる。夜中のうちに体が冷えてしまったから、ブルっと体を震わせる。腕を見ると鳥肌が立っていた。それを見ながら、夢のことを思い出し、微笑む。カーテンを開けて、太陽が俺の部屋を照らす。その伸びた光を横目に俺は昨日入り損ねた風呂に入るため、下着と制服がかかったハンガーを持って、部屋を出た。