某所にあげたエアグルーヴのSSです。
楽しんでくれると嬉しいです

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是なる女帝とその杖よ、御身を見初めた『眼』を潰せ

 12ハロン、2400の花を戴く。

 その距離に多少の違いはあれど、それは間違いなくウマ娘にとっての憧れで、焦がれで。

 まさに何よりも果たすべき、遙かなる走者の本懐だ。

 

 けれどそれを果たせるのは、ごく一部のウマ娘だけ。

 才と努力と、何よりも運。どうしようもない事故によって花道から暗がりに転落することが“よくある悲劇”で片付けられてしまう以上、そうならないための努力は前提で、事故に見舞われない──死神に見定められない運というものが、どうしても必要になってくる。

 

「はっ、はっ──」

 

 “女帝”エアグルーヴは、そうして死神の目を逃れ続けた一等バだ。

 トゥインクル・シリーズを駆け抜けた三年。名実ともに“女帝”と呼ばれ、されど驕らずに積み重ねてきた確かな実績。

 その累積した努力と自負から来る彼女の走りは、見るものを惹きつける美しい気迫に満ちている。

 

 使い込まれたジャージを纏い、走り慣れたターフの上で、己の限界を走破する。

 熟練のルーティーンとしてこれ以上ない走りを終えた彼女は、しかし苦々しく顔を顰めていた。

 

 差し出されたスポーツドリンクをぐっと煽り、排熱とともに嚥下する。

 からからの喉を通り抜ける、冷えに冷えたスポーツドリンク。女性的な喉仏の流動は、ひび割れた大地に降る雨のように潤わしい。

 涼やかに細まる情熱的なアイシャドウが、汗に濡れて妖しく衒った。

 

「……ぷはっ。それでトレーナー、タイムはどうだ」

 

 一息吐いた彼女に問われた“女帝”の杖は、恭しくも首を振る。

 彼が手に持つストップウォッチは、エアグルーヴがラインを踏み越えたのと寸分違わぬ時間を示している。

 己の杖に一切の不備がないことをわかっているエアグルーヴは、重苦しく息を吐いた。

 

「ふう……まったく、お前がそんな顔をするな。これは私自身の問題だろう」

 

 数多のウマ娘たちを焦がしたその無類の輝きは、今や衰えつつあった。

 

 

 /

 

 

「お前のトレーニング内容と体調管理は完璧だ。だからこれは、私の──私自身の身体に限界が近づいている、ということだろうな」

 

 新人の頃は多少抜けていた面もあったが、ともに駆け抜けた過酷な闘争の中でこれ以上ないほど研ぎ澄まされたことは、その杖にこれ以上ないくらい支えられている彼女だからこそ理解している。

 

 だから、いっそ残酷なほどに、彼女は己が衰えていると断言した。

 

「……トゥインクル・シリーズの三年。加えて中長距離を何度も走り込めば、ガタが来るのも当然だ。それはお前もわかっていただろう?」

 

 トレーナーは、躊躇いながらも確と頷く。

 今に至るまでターフの夢に身を捧げてきた無数のウマ娘たちが遺してくれた“限界”を、『杖』たる彼が把握していないはずがない。

 

 だけど、でも、それでも、まだ──そう言い続けてどれだけ経った?

 それが“女帝”に、死神の目を惹きつける行為だと知っていてもなお、支えることを諦めたくはなかったのだ。

 

「たわけめ。私がお前の気持ちを理解していないわけがないだろう。……私も、お前の目が心地良かったのだ。“女帝”への理想と──私への熱を孕んだお前の目が。だから本来ならすでに引退するべきところを、こうやって無理を通して無様を晒そうとしているのだ」

 

 無様なわけがない。その輝きは衰えた、癪だがそれは認めよう。

 だが君が無様なはずがない。長きにわたって研磨された“女帝”の自負と、折り重なった鋼のような実力が、君を無様に見せるはずがない。

 

 そう言われるごとにエアグルーヴの目が泳ぐことに、トレーナーは気付いていない。

 

「そ、そうか。……そうだな、“女帝”たるもの己を卑下するなどあってはならない。それは今まで歩んだ道と、それに倒れたウマ娘たちへの侮辱、だな。

 すまなかったなトレーナー、……あと近い、顔が近い、いいから離れろ適正距離まで身体を引け!」

 

 エアグルーヴの可憐な頬は、まるで熟れた果実のよう。

 微かな化粧が目に見えて、鼻腔を淡い芳香がくすぐる。

 ばっと飛び退けば、エアグルーヴはそっと顔を逸らしながら、垂れた髪を耳にかける。

 その仕草までもが艶やかで、トレーナーも彼女から顔を背けるほかなかった。

 

 

 /

 

 

 もはや私室と変わらないトレーナー室で、先のことを忘れた上でいつものように話をする。

 それは建設的で客観的な、私事が入る余地のない、理路整然とした“女帝”と杖の作戦会議。

 

「やはり、次走で引退することを表明するのが賢い選択だろう。私への対策を練っているウマ娘も、トレーナーがよほどのボンクラでなければ私の衰えに気付いているはずだからな」

 

 中央トレセン学園にいるようなトレーナーならば、警戒対象のウマ娘を調べ尽くして対策を練るのは当然で、そうするうちに過去映像との微妙な差異に気付くだろう。

 であれば、衰え始めたその輝きを潰しに来るのは容易に想像できる。

 

 エアグルーヴは椅子に背を預けると、ほっと息を吐いて天井を見上げた。

 見慣れた白。勝負への熱と算段を託し、その情熱を受け止め続けた天蓋も、もう少しで外れてしまう。

 外れた先は、長く、長く──遥かに続く、夢追いびとの醒めた跡。

 

「……これで見納めだと思えば、案外寂しさも募るものだな」

 

 そう言ってエアグルーヴは、その冷涼な瞳を閉じた。

 釣られてトレーナーも、まるで何かに祈るように──白い黙に眼を瞑る。

 

 

 /

 

 

 “次の出走で引退する”。

 理事長を始めとする学園側に話を通し、惜しまれながらも理解を受け取った後、世間にそう発表した。

 “女帝”の引退とあってはメディアも黙っていられないらしく、そこに金の匂いを嗅ぎつけた諸々の思惑もあって引退騒動は早々終わることはなかった。

 

「最後の出走だ。私に焦がれ、今もターフを走っているウマ娘たちのためにも、半端なレースで終わるわけにはいかん。厳しい戦いになるだろうが……ふっ、言うまでもないことか」

 

 確実な勝利を目指すのならばGⅢ、もっと言うならOP戦が一番だ。

 しかし、ラストランで堅実に逃げるようなウマ娘に、同じウマ娘が憧れるだろうか。答えは否だ。たとえ必至の敗北だろうと、見果てぬ夢に身を捧げてこそ意味がある。

 

 ──掲げるは金の華。

 その身をGⅠの栄光に沈めると、エアグルーヴは宣言した。

 

 

 /

 

 

 ──引退が決まっても、やるべきことは変わらない。

 決まったトレーニングをこなし、参加を表明しているウマ娘への対策を練る。それを実数値で再現し、仮想敵として迎え撃つ。

 類稀な強豪しかいないからこそ、ある程度戦法が決まっているのがありがたい。

 

 もっともそれは、咲き誇る名花が誰にでも知られているのと同じこと。エアグルーヴも紛れもない名花である以上、その関係性は逆の場合でも当てはまる。

 だが今になって作戦を変えるような愚は犯さない。それは花壇に雑草を芽吹かせようと努力するのと同義であり、勝利を手放すのに等しいからだ。

 

 エアグルーヴが取れる戦法は、慣れ親しんだ一択のみ。

 差し。今までの経験を十全に活かせる、彼女の得意な脚質である。

 

 トレーナーとエアグルーヴは、ありとあらゆるメディアを用いて敵となるウマ娘たちの情報を集めた。

 脚質、出走のくせ、スパートのタイミング、末脚のキレ、得意距離、バ群への耐性、過去どんな作戦を行ったかに至るまで、どんなことでも二人の道を拒む要素となり得るならば些細であろうと関係ない。

 トレーナーは杖としてエアグルーヴを支えるために全てを捧げ、彼女もそれを手に全霊を尽くす。

 

 けれど、その字面の仰々しさに反し、二人になんら変調はない。

 いばらのような緊張も、造花のようなわざとさも、枯花のような寂しさも。

 それに疑問を抱く者もいた。

 それに絶望を見る者もいた。

 それに希望を抱く者もいた。

 それに余裕を見る者もいた。

 けれど二人に訊いてみれば、皆一様に理解した。

 

 “妙なことを訊くのだな。何故いつもと様子が変わらないのか、だと? ふん、変わるまでもないのでな。……いいや、変わる必要もない、と言った方が正しいか。

 私たちは、今まで刻んだ全てのレースで全身全霊を捧げてきた。最後だからと諸々の具合が変わるのならば──それは、今までのレースで手加減をしてきたということだと、私たちは思っている”

 

 単純な話。

 いつも全てを出しているから、今更態度を変えもしない。

 それが“女帝”と杖、ターフに夢を駆けてきたウマ娘たちへの返礼であると、彼らはすでに知っていた。

 

 

 /

 

 

 過ぎ去る日々は、紅葉散る季(すえ)の落陽のごとく。

 それは冬に向かうとともに、実りが死に絶えていくのに似ている。

 しかし世の摂理として巡る四季と違い、死に絶えた後に次に来るものは何もない。

 散って枯れる、萎んで潰れる。どちらにせよ未来はない。

 

 だがそれも当然の話、会長風に言えば“盛者必衰”というものだとエアグルーヴは思索する。

 確かにそれは寂しいものだ。走れないわけではないが、競争に身を投じる機会はきっと失われるだろう。

 ──けれど自分とトレーナーは、そんな今後の走る未来を賭してまで今の競争に身を投げている。

 

 馬鹿なことをしている。脚のことを考えるなら走らない方がいいのは間違いない。

 トレーナーは言った。“トレーナーとして、本来なら次の出走を取りやめるのが正道”だと。

 それは正しい。どうしようもなく、誰が何を言おうが正しい。今まで積み重ねてきた二人だからこそ正しい判断。

 

 “ふっ、杖としてはそれが正しいのだろうな。だが……私とお前は、それだけで括れるほど一面的な関係を築いてきたわけではない。

 ……私はまだ、走り足りんのでな。お前はそれを見届ける義務がある”

 

 それでも、積み重ねてきた二人だからこそ、それだけでは終われない。終わることを彼女自身が受け入れない。

 理想を夢見たから、最後に一度、一度だけ。

 

 ──“女帝”として、己を律するその前に。

 ウマ娘として、メルヒェンに生きる童女にも似たその憧れを、終生半端に抱えるわけにはいかないのだから。

 

 そして、夢から覚めるときが来る。

 

 /

 

 童話に不穏はつきもので。

 ユメに終わりはいつか来る。

 死神に見初められるのは、だれ?

 

 

 /

 

 

 木枯らしが吹く、寒い冬の競バ場。

 刹那にも思えるほどの日々を経て、今、エアグルーヴはゲートで息を整えていた。

『一番人気エアグルーヴ、少し落ち着かない様子です』

『これが最後の出走ですからね、それも仕方ないでしょう』

 外野がうるさい。

 聴き慣れた実況、ゲートの喧騒が耳に障る。

 

 体調は万全。

 ──当然、トレーナーと自身の管理は完璧だ。

 身体は軽快。

 ──無論、肉から神経の一本に至るまで一切の不備はない。

 バ場は良好。

 ──天恵、まさにその通り。

 

 息を鎮め、意識を研ぎ、身体の奥で自問自答を繰り返す。

 “女帝”として、くだらないミスで負けるわけにはいかない。研ぎ澄まされた認識が、今も身体を追い越さぬように。

「…………ふ、う」

 緊張はアクセサリーだ。程良く持てば持てる力を際立たせ、持ちすぎればその重みに身体が鈍る。

 自身のパフォーマンスを最大限生かし切ることが、勝負に出るための前提条件。そのあと勝負を決めるのは、地力の厚みと時の運。

 

 地力に関して、彼女に一切の不足はない。

 “女帝”の実績、積み重ねた無数の経験が、彼女を支える無類の土台になっている。

 

 けれどもう一つの要素に関しては、誰も身につけることはできない。

(……やれることは全てやった。あとは、私が走り切るだけだ)

 試合に勝つための、地力の上乗せする分の運は、もはや天に任せるしかない。

 自分はただ走る。己の理想を背負い、最後まで走り切ることだけを考えればいい。

 

 それで彼女は思考を打ち切り、精神の統一に再潜した。

 

 ──天から見初めるものが凶運(しにがみ)でないように祈るのは、勝負を控えている彼女がやるべきことではない。

 それは、勝負に勝つことよりも、ただ彼女が無事に走り切れることを心の底から願っている、あのたわけた顔のトレーナーにしかできない役割なのだから。

 

 

 /

 

 

 夢を追うウマ娘たちの名が、今まで積み重ねた土台の厚さが、順位という体で呼ばれている。

 数否のカウントダウンが、ひとつひとつ刻まれていく。ともすれば一番人気という、ウマ娘たちの中でもいっとう多いカウントを刻まれたエアグルーヴのプレッシャーはいかほどのものか。

 だがそれを力に変えられるがための“一番人気”。闘志は満ち満ちて、健全な殺意にも似た威圧感がエアグルーヴを中心に猛者たちの間で高まっていく。

 

『さあ出走の準備が整いました』

 

 ひりつく空気。視界が極度の集中で、端から灰に染まっていく。

 空風にも似た冷たさは、しかし手足の凝固を意味しない。

 何万回も積み兼ねてきた経験が、自然と躰を出走態勢へと移行させる。

 

 ──世界が、こおりつく。

 

『ゲートが開きました!』

 

 神経が唸り、肉は呻いて骨が軋む。

 何億回も積み重ねてきた力の配分。失敗するなどあり得ない。

 ぐ、と力がこもる。どこか肉体が肉体として自律する。筋肉が収縮し、大地を蹴り砕く膂力を限界まで振り絞る。

 

『スタートです!』

 

 どん、とターフを蹴った。

 自重までも利用した完璧なスタート。だがその程度の神業は、この場にいるウマ娘ならば当然のように成し得ることだ。

 計十八名、百戦錬磨の猛者たちは、己の業を顧みない。

 

 視界が加速する。大気が肌を撫で上げて、地を蹴る肉が熱を生み、熱が脳髄の悦楽を回す。

 ──ああ、これが。これが私の求めた──

 

「ッ!」

 

 歯が軋む。悦びを噛み砕く。乾いた喉が熟れた悦びを嚥下する。

 筋肉の震えが止まらない。

 

 脚が、──アツイ。

 

 

 /

 

 

 トレーナーは見ていた。

 彼女の走りを特等席で、手を伸ばしても届かない場所で、湧き出る喜びを己の中の不安感が貪る様を感じていた。

 その走りは猛々しく、走者の中でもいっとう輝いているのは間違いない。“女帝”の重みを乗せて、エアグルーヴは名花の誉れをほしいままにしている。

 

 だが、エアグルーヴは衰えた。

 その肉は熱に焼かれ、神経は萎びて、骨は悲鳴をあげている。脚などもってのほかで、トレーナーならば見てわかるほどに限界が近い。

 

 ──がんばれ。

 

 それでも今は、今だけは。

 トレーナーとして、杖として彼女を支えた末に、彼は一人の……“エアグルーヴ”に魅せられた一人の男として。

 

 ──がんばれ。

 

 その輝きが途絶えないように。

 今は届かない、伸ばした両手を重ね合わせて。

 

「頑張れ、エアグルーヴ……!!」

 

 せめてこれだけは届くようにと、目を閉じないで彼は祈った。

 

 /

 

 1000メートル通過。

 勝負をかけるウマ娘はおらず、一番人気のエアグルーヴは差しであるため後方で構えている。

 スローペースな試合運び。だが徐々に脚を伸ばしてくるウマ娘もいる中で、レースは中盤に差し掛かっていた。

 

 /

 

 勝負の熱に震える身体は、脳髄までも揺らしている。

 それでも何度も走り込んだ距離感覚で、今が1400メートル付近であることはわかっている。残り1000メートル、スパートの準備に入る距離だ。

 

 新鮮な酸素が欲しい。血が霧散してしまうくらいの酸素が欲しい。

 すぅとエアグルーヴは息を吸うと、意識を走ることに先鋭化させた。

 

 バ群に埋もれるわけにはいかない。徹底マークで潰される。

 だがそうやって気を付けるほどに、脚には熱がこもっていく。ただでさえ余裕がないにも関わらずだ。

 

「……ぐ」

 

 死神はまだ見ていない。彼女の脚を見ていない。

 だが本気でスパートをかけるとき、その輝きに引かれてくるに違いない。

 忌々しいことだ。だがどうにもならないことだ。

 

 余人が運命と呼ぶそれから、エアグルーヴが逃れるのは簡単だ。

 止まればいい。脚を緩め、差しの意味を放棄して。後の安寧を選ぶならそれが正解で、辛く厳しい戦いからも離脱できる。

 

 それは、あまりにも──あまりにも、魅力的な選択で。

 

 

 ああ、脚が──熱い。

 

 

 それでも、エアグルーヴの脚は止まらない。息は荒れたまま、身体は走るのに最適なフォームを保ち続けている。

 熱で鈍感した頭は、その信号を送り続けていた。

 

 

 /

 

 

 ──あと1000メートル。

 そもそも、己に問うまでもない。

 

 ──あと800メートル。

 今まで、何度だって確かめたはずだ。

 それを、今更?

 

 ──あと、700。

 今更それを放り投げる?

 辛く苦しいから? 脚が壊れるかもしれないから?

 

 ──500。

 そんなもの、今まで腐るほどあった。

 タキオンを真似するわけではないが、ウマ娘の身体はその速度に似合わず脆い。壊れる危険があるなんていくらでもあったし、ただその可能性が、今は極めて高い。それだけだ。

 

 ──あ、と

 可能性、可能性だ。確率だ、不確かなものだ。

 でもそれが怖いという己もいる。それも正しい、不安なくして生はない。

 

 だが、その不安を踏み越えてこそ。

 その不安を踏み越え、生を駆け抜けることそのものが、ウマ娘に許された最大の『闘走』なのではないか。

 

 そして、──ああ、そうだ。

 “女帝”の誇りと同じくらいに、私には大切なものがある。

 トレーナー。あの抜けた顔のトレーナーは、私の走る姿が好きだ、理想の姿だと言った。

 いつからだろう。誇りを胸に抱えると同時に、彼の目を期待する自分がいたのは。

 それは多分、ずっと昔のことで。

 あの、夏の夜の輝きを──私は生涯、忘れることはないだろう。

 

 ──400。

 かちん、と。

 脳髄で、撃鉄が降りたような、気がした。

 

 /

 

 視界が灰色に染まる。

 端から色を失っていき、次第に情景すらも消え失せる。

 一歩脚を動かすごとに、思考から余分なものが削ぎ落とされていく。

 

 ──ゾーン。

 特定のものに極度の集中力を発揮する状態。特定のもの、それが何かは言うまでもない。

 

 レースのために最適化された身体と、一切の余分を捨てた脳の波長は過去最高に噛み合っている。

 唯一彼女の世界に在るのは、前を行くウマ娘の残影と、己の身体を焦がさんばかりに燃え盛る熱量のみ。

 

 まるで摩擦熱のようだ、と彼女は思う。

 走り続ける──大気を貫いて走る限り、消えない炎。

 走り終えるとき、自分の身体が無事かどうかはわからない。

 

 であるならばやってみせよう。

 誇りを鎧として焚べて、誇りを燃やして打ち勝とう。

 

 肉が軋む。痛みはない。

 

「はあ、は、ぐぅ……!」

 

「──は、あああああッ!!!」

 

 裂帛の叫声を上げて、エアグルーヴは迸る熱を脚に込める。

 ぐ、と刹那のうちに姿勢を整え、渾身の力で大地を蹴った。

 

 /

 

『これは!? エアグルーヴ、どんどん伸びていきます! さすがは“女帝”、若輩に容易く負けるわけにはいかないとばかりの気合の入った末脚です!!』

 

 ガタン、と何かが倒れたような音がした。

 気にする余裕などなく、トレーナーはエアグルーヴを凝視する。

 その加速、その末脚、今のエアグルーヴの脚が耐え切れるようなものではないはずなのに。

 

「エアグルーヴ……!!」

 

 どうして、何故そんな無茶をするのかと、そう思うトレーナーとしての気持ちもある。

 だが、だが。

 

 その走り。

 類を見ないほど整ったフォームに、離れた場所からも伝わってくる彼女を包む『熱』。それは彼女の身体をまるごと燃やしているような──

 

 ──ああ、ならそれは。

 それはきっと、夜空に輝く、あの花火にも負けない美しさで。

 

 その美しさを見たいと思う自分は、トレーナーとして、失格だ。

 

「……エアグルーヴ」

 

 でも、そんなこと今はどうでもいい。

 彼女は今、誇りを燃やしている。大気の壁を貫いて、己の走りを成そうとしている。ならば無駄な装飾はいらない。

 

 一人のファンとして、一人の男として、一人のウマ娘を応援するだけなのだから──!!

 

 

「走り抜けっ、エアグルーヴッ!!!」

 

 

 /

 

 何処かで、声が聞こえた気がした。

 聴き慣れた声。灰色の世界に響く、春風のような暖かい声。

 

 ああ、そうだな。

 お前がそう望むのなら、私もそれに応えよう。

 お前の理想はここに在ると。

 ──お前が惚れた私の走りは、こんなものではないのだと!!

 

 /

 

 ぐん、と彼女の脚が伸びる。

 遅延した時間、伸びる世界、灰色のターフが加速する。

 その中で、いっとう輝く流れ星。

 

 夜空を裂き、花火にも劣らず、己の全てを燃やし尽くしてその一瞬に全てを賭ける。

 遥かな世界の誰かに浮かぶ、流星の如き白点(ブレイズ)のように、残り数百のターフを駆ける。

 

「う、ああああああああああああ!!!」

 

 風前の灯火、流星の輝き、燃え尽きる前の摩擦熱。

 なんだっていい、なんだって追い付けない、もはやその熱はただの熱に留まらない。

 

 彼女は衰えた、それが何か。“エアグルーヴ”の輝きは此処にある。

 脚が保たない、それがどうした。死神なぞ恐るるに足らず、その鎌も何も彼女の脚には届かない。

 

 否、届かないはずがない。数多のウマ娘を殺してきた死神は、きっと彼女の脚にも追い付く、追い付いてしまう。

 だが無理だ。どうやったって届かない。何故か、そんなのは簡単だ。

 

 ──その輝きで『眼』を潰す。

 誰よりも輝き、誰よりも美しく、誰よりも気高いその走りを見るものが、眼を焼かれないはずがないのだから。

 

 

 ラスト数十メートル。

 まるで永遠のように思える輝きは、その距離を刹那のうちに踏み越した──

 

 /

 

 ──あ、ダメ、だ──

 ──身体が、浮ついて──

 ──わたし、が、くずれて、

 

 だれに、だきとめられた。

 ぼやけて、くすんで、だれかもわからなかったけど。

 

「エアグルーヴっ……!! エアグルーヴっ……!! おつかっ、おつかれ、さま……!!」

 

「……は。なくな、この、たわけめ」

 

 こちらがはずかしくなるくらいに、ねつれつに、ないていた──

 

「っ、エアグルーヴ……!? 悪い、救急担架を頼む!! 脚は──折れてないが熱を持ちすぎてる! エアグルーヴ、ちょっとでいいから耐えてくれ……!」

 

 /

 

 結局。

 エアグルーヴは病院に運ばれたあと、主治医のお叱りを受けた。

 曰く、『ウマ娘はそんなに頑丈じゃないし、ましてあなたは衰え始めているのにこんな無茶をするなんて』──などなど、さまざまな小言の詰まったお叱りである。

 ……エアグルーヴの意識が少しぼうっとしていたので、もっぱら説教を聞くのはトレーナーの仕事だったが、それも当然の話だったりする。

 

 幸いにして、トレーナーの触診通り脚の骨は折れていなかった。だが足首を始めとする複数の部位に洒落にならない負担がかかったため、しばらくの間はベッドで寝たきりの上、今後も長く走ることにはリスクが伴うことは避けられないという。

 

 それでいい、とエアグルーヴは話半分に思った。トレーナーもそうだ。

 一番可能性が高かった「骨折による大事故」が起きなかっただけでもありがたいのに、今後も少しなら走れるのだから、あれだけの無茶をしでかしたにしては上等も上等の結果である。

 

 ともかく、世間をざわつかせた今回の一件も、エアグルーヴの無事という形で幕を下ろした。

 

 だがそれはあくまで舞台の幕。

 誰にも見せない舞台の裏では、まだ、全ての決着は付いていなかったりするのだ。

 

 ちなみに。

 あれだけの大奮闘をしたレースの結果が、果たしてどうなっているのかと言えば──

 

 /

 

「──ハナ差で二着、か。……ふん、やはりスパートを掛けるのが遅かったか」

 

 患者たちが心を落ち着けられるように、と作られた、秋の枯葉に飾られた病院の中庭で、エアグルーヴは呟いた。

 寝たきりからは脱却できたものの、未だに車椅子の状態で、どこに行くにもトレーナーの補助がいる。

 だがトレーナーは一日のほとんどを病院で過ごしてエアグルーヴの世話を焼いているため、出かけるときに困らない。

 

「お前、諸々の後始末はどうした。まさか投げ出しているわけではあるまいな」

 

 ないない、とトレーナーは首を振る。そんなことをしたら、エアグルーヴがいの一番に叱ることをよくわかっている対応だった。

 ならば良し、とエアグルーヴもそれ以上言及しない。代わりに、ん、と顎を上げる。すぐにトレーナーが側の水筒を渡すが、エアグルーヴはその水筒を掴んだ手ごとぐっと引き寄せた。

 

 水筒を離したトレーナーの手に自身の手を絡め、ぎゅう、と握りしめる。ぎゅっ、ぎゅっ、と何度か甘く握りしめて、エアグルーヴはぱっと手を離した。

 慌てるトレーナーを置いて、そのまま何事もなかったかのように青空を見上げたので、トレーナーは何も言えずに空を見上げた。

 

「……清々しい空だな。少し肌寒いが、それもいい。……む、あまり耳に触れるな。むず痒いだろう」

 

 ぺちん、と耳に触れるトレーナーの手をはたき、ほうと息を吐く。

 

 ……どうもあの一件があってから、お互いに気軽に触れるようになったらしく、時折このような緩い攻防が行われる。

 匿名のN.B氏曰く、『……姉貴に見せてやりたくなる』、同じく匿名のS.R氏からは『仲良きことは美しきかな、というやつだね。比翼連理は……まだ早いかな?』などと言われているが、二人はその言葉を知る由もない。

 

「しかし、引退か。覚悟はしていたが、いざその時を迎えてみると……なかなか寂しさも募るものだな。それをわかって最後のレースに挑み、あんな無茶をしたのだから、今更何を言えるわけでもないが」

 

「その寂しさも趣があっていいと思うよ。寂しさが懐かしさになるまでに、それを堪能しておこう」

 

「……それもそうだな。ふん、お前にしては風情のあることを言う」

 

 口ぶりに反し、エアグルーヴの顔は穏やかだ。車椅子の背に身体を預け、ぼうっと空を見上げている。

 ──エアグルーヴは燃え尽きてしまったのだろうか。不意に、トレーナーはそう思った。

 

 /

 

 別にそれが嫌というわけではない。むしろ当然のことだろう。

 長年に渡り責任を背負い、闘争にあけくれ、そして最後にあれだけの全力を出したのだから。

 走り終えた後に残るのは、穏やかな余生だけでいい。

 

 ──でもそこに、トレーナーの居場所はあるのだろうか。

 そんなの考えたくなくて──けれど、いずれ彼女が新しい人生のパートナーを見つけると思うと、心臓の辺りがむずむずするというか。

 

「おい、どうした。何をそんなに思い悩んでいる」

 

「……わかるのか?」

 

「たわけめ、お前のことがわからない私ではない……と言いたいが、全てがわかるわけではない。私には、お前が妬いているように見えるが、それが誰に対してのものなのかはわからん」

 

 トレーナーは苦笑しつつも、裏で少しだけ安堵する。

 長年付き添ってきた絆があっても、完全に理解できるほど人間は浅くはない。エアグルーヴとトレーナーの関係でも、まだ知らないことは山ほどある。

 

「将来、君と一緒に歩むことになる男性が、羨ましいなって思ったんだ。有り体に言えば……そう、嫉妬だね」

 

「そう、……は?」

 

「エアグルーヴなら大丈夫、きっと良い人を選んでくれるって思っても、俺個人としてはどうにも。今後はどうしたってエアグルーヴに会う機会は少なくなるだろうし、というか部屋もキッチンも掌握されてるからまともに生活できるかどうかも……」

 

 遠くを見ていたトレーナーは、エアグルーヴの反応が唐突になくなったことに気付かない。

 そして、──ぎゅうう、と掌をつねられて、今度はトレーナーが素っ頓狂な声を上げた。

 

「ちょ、エアグルーヴ!? い、いきなりつねるのは……エアグルーヴ?」

 

「……お前は、この、お前は……本当に、この、たわけめ」

 

 片手の繊指で皮をつねりながら頭を抱えるエアグルーヴは、はああ、と一際大きいため息を吐いた。

 

 /

 

「……お前には、私が、契約が終わったらすぐに関係も終わらせるような女に見えているのか? 私が、なんとも思っていない男の部屋で、ストレス発散となんの関係もない家事を行うような尻軽に見えているのか……!?」

 

 やばいめっちゃ怒ってる、とトレーナーは冷や汗をかく。確かに今の言い方は──なんとも思っていない男、の?

 

 ぶわっと、何か別の汗が流れるような気がした。

 トレーナーが硬直している間にも、エアグルーヴの陰鬱とした独り言は段々と変化を見せている。

 

「共に歩むほど頼り甲斐を身に付けて、それでも妙に素直だったり……私に理解を示してくれたり……時折無自覚な口説き文句を放ったり……! ああ、お前なんぞ真性のたわけだ! このたわけ! たーわーけー!!」

 

「い、いたいってエアグルーヴっ!」

 

 ぶんぶんとつねられたまま幼女のように振り回されるので、当然皮も千切れそうになる。ひーひー言いながら手の主導権を取り戻したときには、エアグルーヴはむすっと目を逸らしていた。

 

 普段凛々しい彼女からすれば、考えられないほどに幼い行動。

 ……いいや、違う。そうさせたのは自分なのだと、トレーナーはようやく気付いた。

 

「エアグルーヴ」「うるさい、黙らんか」「エアグルーヴ」「うるさいと言っているだろう」「エアグルーヴ」「大体、お前がそんな様子では今後もずっと一緒にいることを前提に考えていた私が馬鹿に思えてくるだろうが……!」

 

「……エアグルーヴ」「ええいっ、そのにやけ面をやめろ! このたわけっ!」

 

 /

 

 ばっとトレーナーを振り返ったエアグルーヴが正気に戻る前に、トレーナーの手がエアグルーヴの頬に触れる。

 柔らかく、暖かな、女性的な白い頬。触れるだけで、心臓がどくどく鳴っている。

 

「……お前は。お前は、私を、どう思っている」

 

 逡巡する意味はない。

 

「……エアグルーヴは凛々しくて、それでいて家庭的で。その優しさと同じくらい、厳しい面もあって。人として尊敬できて、……誰よりも、大切だ」

 

 そんな女性と、誰よりも近くで接して、支えて。

 互いに理想を見出すために、死に物狂いで走り抜いて──ふと気付いた時には、当然のように惚れていた。

 

 まして、“私はお前の理想だ”なんて──そんなの、卑怯だ。

 

「走る姿に魅入られた。花を見る君に惹かれていた。虫が苦手なところとか、むしろ人並みに弱点があって余計にさ。……母の重圧を当然のように背負う姿が、素敵だった」

 

「……そうか。……私も、最初はお前のことを信用していなかったのに……どうしてだろうな。今では、お前がいない“私”が、想像できない」

 

 それはきっと、望外の。

 口角があがる。瞳が潤む。こうして顔に出していないと、どうにもならないきらきらが、一気に溢れてしまいそうだ。

 

「お前、顔がだらしいぞ。少しは引き締めんか」

 

「それは、エアグルーヴもそうだと思うよ」

 

「……言うな、たわけめ。ふん、今だけはその顔を許してやろうと思ったがやめだ」

 

「どうしたら、許してくれる?」

 

「そうだな。お前の気持ちを、正直に言葉にすれば許してやらんことも──」

 

 りんごのように真っ赤になったその頬に、息が触れるくらいに近付いて──雪が降るような優しいキスを、ひとつだけ落とした。

 いつか、なんでもないふうに言えたらいいと──そんな願いがこもったそれが、何よりも雄弁な答え(ゆるし)であることを、エアグルーヴはわかっていた。

 

 ──秋の風の訪れに、彼女の耳がぴくりと動く。

 それが彼女の照れ隠しであることを、トレーナーだけが知っていた。

 



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