今朝から空は生憎の曇天で、分厚い雲がすっかり太陽を覆い辺りは薄暗い灰色に沈んでいた。霞がかったような薄ぼんやりとした光が目に優しくて、湿気を帯びたどこか甘いような濃い匂いが鼻腔をくすぐった。
「雨、降るかな……」
ベッドに寝転んだまま半袖のパジャマから陶器のように白く滑らかな腕をするりと伸ばし、細く長い人差し指と中指の先でカーテンの裾をちょんと摘まんでそっとめくる。
しばしばと瞬きを繰り返しながら、まだ眠たそうに目を擦って外を眺める彼女が独り言を零した。
このアパートの一室に一人で暮らす彼女の呟きに返事をするように、足下に丸まっているキムリックの猫が「にゃー」とか細く鳴いて欠伸を零した。
*****
「合コンしよーぜ、合コン」
「またかよ、お前」
尾谷高等学校、学生食堂。外は相変わらず朝から続く雨曇りの暗雲が空を覆っており、薄暗い室内を照らす蛍光灯が一段と眩しい。
お昼休みのこの時間帯は多くの生徒でごった返す中で、窓際の席を陣取り昼食にありつく一団の一人がそう提案した。
サイドと後ろは短い黒髪、それを覆うように金髪を伸ばしているツーブロックヘア。耳の軟骨部にはピアスを付け、顎髭を生やした見るからにチャラチャラとした男、山口克也がへらりと笑いながら口を開いた。
となりの男が食べ終えた焼きそばパンの包装紙をぐしゃりと丸めながら呆れ顔を浮かべる。右の眉骨にピアスを付け眉は細く鋭く整えている。黒い長髪の見るからに不良然とした彼は城嶋悟。真面目な生徒が多く不良の少ないこの尾谷高校では若干浮いている存在で、そういった意味では有名な三年生の二人組である。
「オレああいうの苦手なんすよ」
「俺もパスっす」
困ったように笑いながらやんわりと断りを入れるのは二年の真田広章。少し脱色した茶髪は整髪料でイヤミなく軽くセットされ、顔立ちも整っており一見モテそうな見た目をしているが、あまりそういった男女でのイベント事が得意ではないらしく苦笑いを浮かべて頬を掻く。
対して興味がないと言わんばかりにきっぱりと断りを入れたのは同じく二年の
この混雑するお昼の食堂でも彼らの周りだけ妙に人が少ないのは、彼らのその風体が原因だろうか。
一樹が今にも降り出しそうでなかなか降らない空模様を見上げなら、先程購買部で買った紙パックのオレンジジュースのストローを吸い上げる。
「俺、部活のコンクール応募用の写真撮らないといけないんすよ」
「写真部のだろ? お前いいのが撮れないーって言ってたじゃん。息抜きも必要だって、な?」
写真部に所属する一樹はどうにも最近スランプ気味のようで、次の作品の進捗も芳しくないようだ。
「てかお前その見た目で写真部とか、何度聞いてもおもしれーな」
「いやもうそれ散々言われてるんで」
「いやそう言われればアーティスティックなルックスに見えなくもない気がしないでもない」
「フォローしてんのか、それ」
一樹の見た目と写真部というミスマッチな組み合わせに思わず笑ってしまう城嶋と真田。そんな彼を押しのけるように山口が両手を合わせて一樹の顔を覗き込む。
「だから気分転換に、さ。真田の写真見せりゃ食いついてくる女の子も多いんだって。芦名は用心棒で居てくれりゃ心強い」
「用心棒……」
女子人気があると褒められて満更でもないように顔が綻ぶ真田と、その横で納得いかない様子の一樹。
拝むように手を合わせて頼み込んでくる山口を前にお互い視線を合わせ「どうする?」とアイコンタクトで言外に確認し合う。
この流れは付き合わされるだろうなと、半ば諦め気味の二人は静かに目を伏せた。
「もちろんお前ら好みの子もセッティングするって」
「……じゃあ俺金髪クォーターのバンギャで」
「……オレは黒髪ショートのメイドさん」
「お前ら……どんな趣味してんだ」
*****
「なんか、どっと疲れた……」
「同じく……」
星や月も姿を隠す曇り空、夜も更けた繁華街はギラギラとしたネオンの灯りに包まれて目が回るようだ。
結局山口の主催する合コンへと駆り出された一樹と真田。こう言った催しを頻繁にセッティングするだけのこともあり山口の連れてきた女性陣は実に見目麗しく着飾った粒ぞろいであった。しかし彼らの表情はそれに対する喜びではなく、無駄に気を遣ってしまう事への疲労の色が浮かんでいた。
思わず溜め息交じりに呟いた一樹がガードレールに腰掛けると、その隣に真田も座り込む。
「俺こういうの苦手なんだよな」
「右に同じく……」
食事を終えた一同が店を後にすると、酒を飲んだ山口がほろ酔い気味に女性の肩に手を回して楽しげに会話を交わしている。
飲酒を咎める城嶋の肩を組み「堅いこと言うなってー」と、したたかに酔っ払った山口が、その説教を受け流しつつも場の雰囲気を壊すことなく、見事に女の子達と会話を転がしていた。
ついつい盛り上がって騒いでいる一同の横を別の集団が通りかかった。
「うぉっ」
「いってぇなあ! おぉ!? 邪魔じゃボケぇ!」
お世辞にも柄がいいとは言えない数人組が山口の肩にぶつかってしまったようだ。向こうも酔っ払っているようで足下はおぼつかない。それにしても、わざとぶつかってきたようにも見えたが。
「あん? お前がぶつかってきたんだろが!」
「やめろって、道に広がってたこっちが悪いだろ」
「んだガキャァ!」
タダでさえ喧嘩っ早い山口が酒の勢いも相まってつい相手に語気を荒げる。そんな彼を抑える城嶋であったが、相手の方もヒートアップしてきたようで一触即発状態となる。
すると見かねたように一樹が立ち上がると一同の間へと割って入っていった。「おう! やっちまえ芦名ぁ!」と声高らかに叫ぶ山口の事は城嶋へと任せ、相手方の声を荒げる男の目の前に仁王立つ一樹。
「お、おう……なんじゃいワレ」
まくられたワイシャツの袖口から覗かせる太い腕、顔面に容赦なく入った痛々しい古傷、自身より頭一つ以上高い等身に威圧的なほど大きな体躯。目の前の大男に睨み下ろされ思わず相手の男の威勢も削られ、語尾も弱々しく尻すぼみに消えていく。
その傷跡越しの眼力は重く鋭く、酒も入っているせいか男は思わず失禁してしまいそうなほどだった。
すると一樹はゆっくりと身を屈め男へと距離を詰める。相手も気圧されて思わず半歩下がってしまう。
「うちの先輩がすみません。ただ、そちらもわざとぶつかってきたように見えましたが……、気のせい、っすかね?」
一樹がドスの効いた声で静かに問いかけると、男はごくりと生唾を飲み込んで視線を泳がせる。わざとぶつかったと認めればこの大男に喧嘩を売ったことになってしまいかねない。
「べ、別に、んなこと……」
「……あ、そう。気のせいならいいんすよ。じゃあ、お互い気をつけましょうね」
相手がすっかり戦意喪失していることを察すると、一樹はその強面の顔に柔和な笑みを浮かべて「仲直り仲直り」と半ば強引に相手の手を取り握手を交わす。
これ以上もめ事はゴメンだと言わんばかりに、呆気にとられる相手の男の背中を押しやってから「さよならー」と手を振った。男達も何度かチラチラと振り向きつつも逃げるようにさっさと退散していく。
「相変わらずあしらうのが上手いなぁ」
「こういう時くらいしかこの体と傷は役に立たないから」
労うように肩を叩く真田に自傷気味の半笑いで答える一樹。
その後はいつもの通り、山口が気に入った女の子を送っていくと言い残して夜の喧噪に消えていく。一樹たちも残った女性陣から声をかけられるものの、困ったように苦笑いを浮かべるだけで、彼女たちを駅まで送ってさよならした。このメンバーでの合コン後の定番の光景である。
真田と一樹がその身から溢れる疲労を零すように溜め息を吐きながら連れ立って夜の街を練り歩く。城嶋は帰り道が異なるようで、先程別れ際に後輩を労って健全にも缶ジュースを残して去って行った。
手元のプルタブを起こすと、ブシュッと炭酸が抜けた。
「そういや真田。お前の言ってた黒髪ショートのメイドさんって……」
「ぶふぇっ!?」
突然の一樹の言葉に思わず口に含んでいた飲み物を吹き出してしまう真田。先日はつい口にしてしまったが、自身の周りの女性事情を知っている人物ならあの一言が誰を指しているのかは明白だった。
思わずあわあわと取り乱す真田を横目に、一樹は半ば呆れたように小さく笑った。
「いや、いいや。なんでもない」
「ううぇっ!? あ、ああ、そ、そう?」
口元を拭いながらホッとする真田が、聞いてもいいのかと少し逡巡するように視線を泳がせてから、窺うように一樹を横目に見る。
「えっと……お前の言ってた、金髪クォーターのバンギャって……?」
その人物像に一人しか心当たりのない真田が確認するように問いかける。一樹が缶ジュースを呷ると、豪快に数度喉を鳴らした。
「ぶへー」と体内へ侵入してきた炭酸を抜くように大きく息を吐く一樹。困ったように頭をポリポリと掻いてから肩をすくめた。
「お互い、苦労するなぁ」
それは真田の質問への答えではなかったが、彼の言葉の意味が何となく察せて、真田も「そうだな……」と頷いた。
見上げた空は相変わらずの曇りで。ギラギラと光る怪しいネオンの光は安易にこちらを誘ってくるようで、本当に欲しいと願う優しい月明かりは厚い曇天の雲に覆われてどこに浮かんでいるのかも分からなかった。
「写真、撮りたいなぁ……」
「写真部のやつ、期限もうすぐじゃなかったか?」
「あと一ヶ月」
「合コンしてる場合じゃないだろ」
「いや、まったく。けど、いいのが撮れないんだよ……」
「撮りたいものは、あるんだけどねぇ」と、やけ酒のようにジュースを呷りながら吐露するのだった。
*****
今日は今朝からやけに肌寒くて布団から出るのが億劫だった。
眉間に皺を寄せて重たい瞼を薄らと持ち上げる。寝起きの目を擦りながらチラリとカーテンの隙間から空の様子を窺う。
先日から続く灰色の空は今日も晴れることはなく、辺りは薄暗い影の底に沈んだかのよう。町の喧噪さえも遠のいてしまったように思えた。
彼女は少しホッとしたように小さく息を吐いた。
「今日は雨かな、コバン」
彼女の枕元で丸まっていた猫を抱き寄せそのお腹へ顔を押し付けて、くぐもった声で問いかけた。
コバンは「にゃー」と小さく鳴くと、欠伸を零して再び丸まった。
*****
「やだー、降ってきちゃったわ」
教室でお弁当をつついていた
「へへーん。私、置き傘あるもんね」
どうだと言わんばかりに胸を張るのは
はぐはぐと小動物のように弁当を食べる彼女に辰野の呆れた溜め息がかかる。
「あんたのは置き傘じゃなくて、前に傘持ってきたけど帰りに雨が止んでたから忘れて帰った傘、でしょ」
「一緒じゃん、結局こうして役に立ってるんだからいいんだよ!」
「それにしても、かなり降ってきちゃったわよ」
辰野と歩鳥と一緒に机をくっつけて、ビーバーのような立派な前歯を突き立ててバケットサンド食べていた
「ここ数日降りそうで降らなかったからね。雨雲のやつ、力をため込んでたんだよ」
箸で窓の外を指しながら恨めしそうに言う歩鳥。
彼女たちの見つめる先で雨は容赦なくその勢いを増していき、大粒の雨は窓にぶつかっては筋となって蛇行するように伝い落ちていく。瞬く間に外は横殴りの雨の向こうに霞んでいき、窓ガラスは薄暗い街並みではなく明るい教室を反射していた。
どこかもの寂しくなるような雨音が耳をくすぐる。夕刻に差し掛かる頃にはグラウンドは水浸しになり雨粒が弾けるようにしぶきを上げていた。
*****
「あれ、紺先輩どうしたんですか?」
厚い雨雲の向こうに夕日も姿を隠す夕暮れの下校時刻。
本日最後の授業が終わると教室も廊下も生徒で溢れかえり、途端に校内は活気づいてくる。さっさと帰路を急ぐ者、部活や委員会へと向かう者、だらだらと教室に
そんな中、歩鳥と辰野は共にアルバイトをしている喫茶店「シーサイド」へと向かうため帰路につこうと校舎入り口の下駄箱へと急ぐ。二人が階段の踊り場に差し掛かったとき、校舎のすぐ外で雨宿りをする見知った女生徒の後ろ姿が目に入った。
歩鳥が声をかけると、制服のシャツの上に着込んだ黒いパーカーのポケットに両手を突っ込み少し寒そうに背を丸めながら、校舎の壁に背を預け出入り口の
「ん……? なんだ、お前らか」
「なんだとはご挨拶ですねー」
日本人離れした乳白色の白い肌に映える、染髪したとは思えないほどサラサラとした痛みのない金の髪。口を開くと顔を覗かせる小さな牙のようなその八重歯は、大きくパッチリとした釣り目と相まって猫を連想させる。
むっとする辰野の声も聞こえていないのか、紺は青みがかった鉛色の瞳を気怠そうに半分閉じて二人を一瞥すると、その視線はまた雨の降り注ぐ曇天へと吸い寄せられていく。
「もしかして、傘忘れちゃったとか?」
「あー……、いや、そういうわけじゃ」
歩鳥が靴箱の靴と上履きを交換しながら冗談めかしつつも少し心配そうに外の紺に問いかける。
曖昧な返事をする紺の横で歩鳥は自身の置き傘を開いた。ビニール地に桜色の縁取りがされた彼女のお気に入りの一本だった。
「一緒の傘に入れてあげましょうか?」
「いいよ。部活して帰るから」
「いや、この天気ですよ。部活終わりも降ってると思いますけど」
歩鳥の提案に紺は壁にもたれたまま少し申し訳なさそうに眉尻を垂らして手を振った。彼女の言葉に辰野は思わず身を屈め
視界に白い線が走るほどの激しい雨は、部活をする数時間の間ではとても止みそうにはなかった。
「そん時はそん時に考える」
呆れるような辰野の言葉に紺も少しだけむすっとしてぶっきらぼうに返す。歩鳥も困った人だと言わんばかりに腰に手を当て鼻から息を
携帯で時間を確認する辰野が急かすように歩鳥の脇腹をつつく。
「先輩大丈夫ですか?」
「一人でちゃんと帰れますか?」
「大丈夫だって」
「ほんとにいいんですね?」
「バイト遅れちゃいますし、私達もう行きますよ?」
「ああ、いいってば」
まるで子供を心配する母親のように何度も確認する歩鳥と辰野。二人とも自身に弟や妹がいるためか、先輩である紺に対してまるで姉のように振る舞う。
一応本心で心配してくれている二人の心遣いを無碍にする気はないが、余りにしつこく、かつこちらを子供扱いするような態度に紺も思わずしかめっ面を浮かべ二人を追い払うように宙をはたいた。
「まあ、大丈夫って言うんならいいんですけど」
未だ心配そうにチラリと紺の方へ振り返る歩鳥だったが、これ以上遅くなるとバイト先の店主から何を言われたもんじゃないと意を決するように濡れた地面へと踏み出した。
「あ」
「うえっ? どうしました、先輩っ?」
歩鳥たちが傘を差して外に出たとき、何かを思い出したように紺がポツリと声を漏らした。傘を叩く激しい雨の音に自身の声が掻き消されそうになりながら歩鳥が振り返る。
「あ、ああ、いや、なんでもない」
雨の中呼び止めて悪かったと、紺が眉を垂らして困ったように笑いながら慌てて手を振った。
校門を抜けて少しずつ小さくなっていく二人の背中を見送る彼女の唇から小さな吐息が零れた。
「一緒に帰りゃよかったかな……」
すっかり冷えた両手を再びパーカーのポケットに隠して背中を丸めて肩をすくめる。思考がどこか遠くを泳ぐように、焦点の合わない視線が足下に落とされた。
「いやでもさ――」
「知るかよ、そんなこと――」
「それよりさ――」
目の前の水たまりに広がっては消えていく無数の波紋を見つめていた彼女の耳に複数の男子生徒の声が聞こえてくると、紺はビクリと小さく肩を跳ねさせて、そっと横目に振り返った。
誰かを待っているのか、少なくともその声の集団には興味がないらしく、彼女はつまらなさそうな半眼で鼻から深く息をついた。
それからも下校する生徒達が紺の脇を過ぎていく。楽しげに笑い声を上げながらはしゃぐ男子グループ。雨と湿気に辟易しながら文句を言い合う女子グループ。そしてわざわざ一本の傘で帰ろうとするカップル。
彼らの声が聞こえるたびに紺は振り返る。そしてその集団が脇を抜けていくときは少し脇に寄って隠れた。
なんだかそんな自分が情けないやらアホらしいやら、陰鬱な気持ちになってきて顔は俯き視線は再び足下を彷徨う。紺は溜め息を吐くと共に、もたれる校舎の壁から背を起こした。
雨は先程よりいくらかマシにはなったが、それでもとてもではないが傘を差さずには帰れそうにない。
「…………はぁ。アホらし……」
「あれ、紺先輩……?」
「っ……!」
なにかを諦めたように自身の鞄の中を漁りはじめた紺の背中に声がかけられた。
思わず体が弾むほどビクッと肩を震わせる彼女が振り返ると、そこには自身より頭一つ分以上大きな大男が不思議そうに目をぱちくりさせながら突っ立っていた。
「あ、お、……ぉう」
一瞬焦ったようにオロオロとせわしなく動いていた彼女だったが、ビックリした自身を落ち着かせるためにそっぽを向いて深呼吸を繰り返す。
そして仕切り直しだと言わんばかりに何食わぬ顔で右手を首の後ろに回し、視線を泳がせながらゆっくりと振り返った。
大男、一樹は小首を傾げた。
「どうしたんですか、こんなところで」
「いや、ちょっと……な」
「あ、傘忘れたとかすか?」
「あ、あー……。そう、かもな」
「かもってなんすか」
歯切れの悪い紺の言葉に一樹も思わず懐疑的に眉をしかめた。
「忘れたに
「あー忘れたんだよ! 忘れた忘れた!」
一樹の突っ込みに紺も思わず
拗ねたように腕を組んでそっぽを見る彼女と自身の手の中に収まる傘を見比べてから、一樹はその大きな傘を彼女へと突き出した。
「よかったら、これ使いますか?」
「……、……お前は、どうするんだよ」
「あー、俺はまあ……走って帰ります」
「それでお前が風邪でも引いたら寝覚め悪いって」
なんて事なく言う一樹に、紺は不服そうに目を細めて雨の降り止まない外へと視線を送る。
どこか不機嫌そうな彼女に一樹は困ったように頭を掻く。顎に手を当て「えー……じゃあ……」と呟いてから、しばしの沈黙が二人を包んだ。そして落ち着きなくキョロキョロと辺りを見回し視線が彷徨う。なにかを思いついたようだが、言葉に出すことを躊躇っているようだ。
紺はパーカーのポケットに手を入れて外を見ながらも、「んー……」と声を漏らす彼の目を盗んではその様子をチラチラと横目に窺っていた。
「……は、っくしゅ……!」
煮え切らない彼の思考をせき止めたのは可愛らしい小さなくしゃみだった。
ここ最近続いていた曇天に今日の豪雨。どっぷりと夕闇に浸かる辺りの気温はすっかり下がりきっており、湿り気を帯びた冷たい空気が肌を撫でていく。
「あ、えっと、……じゃあ、一緒に、入ります……か?」
チラリと紺の顔色を窺っておずおずと提案する一樹。彼女がこちらに振り返って目が合うと、思わず下を向いて視線を逸らしてしまった。
――ああ余計なこと言ったかな、無理にでも傘を押し付けて帰るべきだったかな――
その強面のポーカーフェイスからは読み取ることは難しいが、一樹は胃の辺りがキリキリと痛むのを感じていた。
「あぁ、まぁ。お前がいいなら……、別にいいけど」
そんな彼の心情を知ってか知らずか、紺は自身の手を口元へとあてがい、なんてこともないように言った。そして自身の前髪をちょいと触ってから深く息を吐いた。
一樹の視線から逃れるように
「紺先輩」
「んぁ?」
「靴、上履きのままっすよ」
「…………」
外を向いたままの彼女の表情は分からなかったが、まあ、恐らく、指摘されたことが恥ずかしかったのだろう。そそくさと校舎内へと戻ると黙ったまま靴箱の前で上履きを脱ぎ捨てた。
靴を履き替えた彼女が戻ってくるとき、その視界に傘を持って待っている一樹の姿が映り一瞬体が強ばってしまった。思わず足がもつれそうになって玄関端に設置されている来客用の傘立てを蹴っ飛ばしてしまった。
「いっ、たくねえ」
「なんの強がりっすか」
「おー、芦名じゃん」
ぶつけた足を庇うように歩く紺に思わず呆れたように笑ってしまう一樹。そんな彼に紺が突っかかろうとしたとき、廊下の方から男子生徒の声がかけられた。
通りかかったのは山口と城嶋の二人だった。思わぬ同級生の登場に、紺は思わず靴箱の陰に身を隠してしまう。
山口達は帰る予定ではないのか、こちらには来ない様子。そのまま廊下の奥へと向かいながら少し歩くペースを落として一樹へ話しかける。
「昨日はありがとな、また合コン行こうぜ! お前好みの相手セッティングしてやるよ!」
「…………」
「うぇっ、いやっ、それは別に……っ」
山口の言葉に慌てて話を逸らそうとする一樹。自分が合コンへ行ったことを誰かに知られたくないようだ。
「バインバインがいいか!?」
あっはっはっはと快活に笑い、自身の胸元で手を山なりに動かし巨乳のジェスチャーをする山口。その大きな声に他の下校する生徒からの視線も集まり、隣の城嶋は「すまん」と言うジェスチャーを残し山口を連れて去って行った。
「いやっ、誰もんなことはっ……!」
廊下の奥へと消えていく先輩方を不満そうに眉をしかめながら見送る一樹。
他の生徒に騒いで申し訳ないと思いつつ周囲を見回すも、誰もが関わるまいと彼から視線を逸らしてしまう。そういった反応はいつものことで、一樹は刈り上げた後頭部をぽりぽりと掻いて肩をすくめた。
「…………」
「……」
そんな中でなにやらこちらに向けられる冷たい視線を感じ取り、一樹は恐る恐るチラリと横目に確認する。
そこには靴箱に右肩と頭をもたれかけ、黙ったまま腕を組んでこちらを見つめる紺の姿が。心なしか猫のような釣り目がいつにも増して鋭くつり上がり、その瞳はガラス玉のようにただこちらを反射し、氷のように冷ややかだった。
「……ふーん。……合コン、行ってたんだな」
「ち、違うんですよ紺先輩、今のは山口先輩の冗談で」
「じゃあ行ってねーのか?」
「いや、それは……俺は断ったんすよ。でも山口先輩がしつこくて」
「……」
「いや、ぜ、全然可愛い子とかもいなかったですし……」
「……」
「そもそも興味ないですし、俺ああいう場が苦手ですし」
「……」
「いや、さっきのもほんと、山口先輩の冗談で、胸とかそういうの関係ないですし、だからその」
「別に、私なんも聞いてねーけど」
「あ、はい……すんません」
彼女の鋭い眼光から逃れるようにせわしなく視線を泳がせてあたふたと言葉を並べる一樹を、紺は冷気を孕んだ一言で一蹴した。
「あの……なんか、怒ってますか……?」
「……別に。私が怒る理由なんかねーだろ」
恐る恐る彼女の足下を彷徨っていた視線を上げてみるとご機嫌は斜めのようで、紺は不機嫌な猫のようにそっぽ向いたままだ。その不機嫌さの中に一抹の寂しさを溶かしたような瞳が降りしきる雨を見つめて動かない。
「えっと……、は、入りますか……?」
「……」
一樹は
彼女はチラリと一樹の様子を一瞥するだけでなにも言わなかったが、パーカーのポケットに手を入れたまま黙って彼の隣に歩み寄り傘の中へと身を寄せた。
「……ったく、人の気も知らねーで……」
隣に入ってきた紺がちらりと空を見上げて零したその呟きは、傘を打ちつける雨音に掻き消されて一樹の耳には届かなかった。
*****
「痛つつ……」
「どうした?」
一本の傘の中に二人が収まりながら尾谷高校最寄りのバス停へと向かっていると、一樹が自身の顔に触れながら眉をしかめた。
「いや、天気の悪い日は皮膚が突っ張って、傷が痛むんすよ」
自身の顔に入る古傷を空いている左手で撫でるようにマッサージする一樹。紺が心配そうにしながらも少しからかうように彼の顔を覗き込む。
「何したらそんな傷がつくんだよ」
「ああ、これは……」
昔を思い出すように遠い目をしながら記憶の中を泳ぐ一樹。
――昔海で遊んでいたときに盛大に転倒して砂浜に埋もれていたガラス片に突っ込んでいったんです――
「……なんてかっこ悪くて言えねえ……」
「ん? なんだって?」
「あ、いや、これはまあ、……色々ありまして……」
「ふーん……」
自身の過去の恥ずかしい失態を知られては困ると、つい顔を逸らす一樹。彼のその態度に『聞いてはいけない過去が……』と勘違いした紺も思わず口を噤んだ。
ふと沈黙が二人を包む。なんだこの空気は、と一樹は慌てて別の話題を探した。
「ここのバス停はなぜ屋根を設置しないのか」
バス停についた二人がその設備の悪さに文句を零しつつ時刻表を確認する。次のバスが来るまではまだしばし時間がかかりそうだった。
周りにはバスを待つ他の学生もちらほらと見え、良くも悪くも目立つ二人はチラチラと視線に晒される。
一樹は全く気にしていないようだったが、その視線に晒されて居心地が悪い紺はそっと彼の裾を引っ張った。
「……歩くぞ」
「え? ちょっと待ってたら来ますよ?」
「いいからっ、行くぞ」
「は、はい」
紺が彼の傘を持つ手ごと引っ掴んで逃げるようにバス停から離れていく。
停留所が見えなくなるまでしばらくずんずんと歩いていた紺だったが、ハッと何かに気がついて慌てて彼の手を掴む自身の手を離しパーカーのポケットへと突っ込んだ。
ポケットに両手を隠して黙ったまま視線を落とす紺と、どこか照れくさそうに上を向く一樹。先程とはまた違う沈黙が二人を包んだ。
その沈黙を破るように一樹が口を開いた。
「あ、あぁ、そういえば。この前先輩に教えてもらった曲、めっちゃよかったです」
一樹が大きな水たまりを跨ごうとするも、隣にいる紺を見て二人並んで水たまりを迂回する。
「特にあのベースなんかもうシビれましたよ」
「だろ! あの曲でベースの良さに気づくとは流石だな」
自身のおすすめした曲を気に入ってくれたのがよほど嬉しかったのか、子供のように目を輝かせる。
「あんまり楽器のこととか分からないですけど、ほら、あの一番の終わりの伴奏で――」
わかってるな、とでも言いたげに「うんうん」と腕を組んで満足そうに頷く紺。
「こう重低音が
「……」
「……え?」
しばしの沈黙の後、激しい雨音の中でぽつりと漏らす先輩。
「……ばいん、ばいん」
「……⋯⋯はッ! いやっ、今のは別に深い意味はっ」
一樹の何気ない一言に何かを思い出したのか、俯いて空虚な瞳で自身の胸元を見下ろす紺。
「……ははっ」
「ぐっ……」
自分の胸を見つめていた視線を一樹へと送り自傷気味な乾いた笑みを浮かべると、一樹も心が痛むと言わんばかりに胸を押さえ、「見てらんねえ」と顔を伏せた。
しかし彼女の言葉には既に棘も冷たさも無くなっていて、一樹もそれが冗談だと分かっている。ただこうしてじゃれ合うのが何とも言えずむず痒くて楽しいのだ。
そうやってふざけ合っていながらも紺が雨に濡れないように、一樹は自身のその大きな体が濡れるのも構わず紺へと寄せて傘を差す。
冗談交じりに妬むような拗ねたような視線を一樹に向ける紺だったが、彼の濡れた肩に気がつくと、その表情はどこか呆れながらも嬉しそうに綻び、しかしそれを悟られないように小さく鼻で息をついた。
「肩、濡れてんぞ」
「別に大丈夫っすよ」
「風邪引くだろ」
「大丈夫っす。俺、体は頑丈なんで。それに無駄にデカいんで、そっち寄ると先輩が濡れちゃいますよ」
「いいから、……もっと寄れって」
照れ隠しのように饒舌に言葉を並べる一樹の袖を引く。決して強くない力なのに、一樹は不思議なぐらい簡単に彼女の方へと引き寄せられてしまう。
時折肘が当たってしまう距離感に、お互いそっぽを向いたまま言葉を失う二人。
「そういえば……前に、先輩が傘貸してくれたこと、ありましたよね」
「っ……さあ、覚えてねえけど」
未だ降り止まない雨を見上げていた一樹がふと、何かを思い出したように呟く。ピクリと肩を震わせた紺はぶっきらぼうに吐き捨てる。
「あの時、なにか言ったような……」
遠い目をしたまま記憶の糸をたぐり寄せる一樹に対して、その思考をせき止めるかのように紺は慌てて声を上げた。
「あ、ああっ、えっと、私シーサイド寄って帰るからっ、ここでいいよっ」
「え、ちょっ、先輩っ!」
気がついたら随分と歩いていたようで、そこはいつもの見慣れた丸子商店街の入り口だった。
考え込む一樹から逃げるように傘から飛び出した紺は、彼が止める間もなく商店街の奥へと駆けていく。
「傘っ、ありがとなっ!」
途中で振り返って心底嬉しそうに笑いながら手を振る彼女が、雨の音に掻き消されないようにそう叫んだ。
手を伸ばしたまま見送る一樹の溜め息が湿り気を帯びた空気に溶けていった。
普段バスで通う通学路を歩くのはなんだか新鮮だったし、比較的平坦な道が続いているため歩くのは思ったほど苦ではなかった。それどころか、いつも一人でバスに揺られる時間よりも、ずっと早く感じた。