それでも町を廻したい   作:ニコフ

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紺色の傘②

 

「あれ、紺先輩? 部活は?」

 

 乾いたベルの激しく揺れる音と共に喫茶シーサイドへと駆け込んできた紺に、この喫茶店の制服であるメイド服に身を包んだバイト中の歩鳥が驚いたように尋ねた。

 

「えっ? ……あ、ああ。ちょっとな……」

「ていうか、傘は?」

 

 誤魔化すように言葉を濁す紺。歩鳥と同じくメイド服を着込んだ辰野が、未だ激しく雨の降りしきる窓の外を見ながら不思議そうに呟いた。

 

「いや、それは……」

 

 思わずシーサイドに逃げ込んでしまったが、――傘の無いはずの私が大して濡れもせずにここに来るのはおかしい、勘ぐられる――、と思わず冷や汗を垂らす紺。

 案の定、その様子を見ていた歩鳥が顎に手をあてがい、ゆっくりと近づいていく。ふむふむ、と呟きながら紺の周りをぐるりと回り込み彼女の様子を観察する。

 

「全体的に少し濡れていますが、この雨の中を傘も差さずに帰ってきたならもっと濡れているはず。バス停からここまでも微妙に距離がありますし」

「なっ、なんだよ……」

 

 ミステリードラマに出てくる探偵役のように、疑いの眼差しを紺に向けながら推理する歩鳥。

 この雨で他に客はいないようで、店主の老婆、磯端ウキも競馬新聞を広げたまま歩鳥たちを放っている。辰野はお客用の席に座りこみ大して興味もなさそうにことの成り行きを眺めている。

 しばらく紺を見つめていた歩鳥が、紺の右腕を見るやいなや「むむっ」と怪訝な声を上げる。

 

「全体の中でも右腕が比較的多く濡れている。そして足下の濡れ方は普通に傘を差していたかのよう……」

「……っ」

「先輩、あなた……」

 

 紺を見つめる歩鳥の眼光がキラリと光り、刑事ドラマで刑事が犯人を名指すかのようにビシッとその指先で紺を指し示した。

 

「誰かの傘に入って帰りましたね。つまり、……相合い傘をして!」

「なっ、なっ、にをっ」

「そして友達が少なく人見知りをする紺先輩が一緒の傘に入れる人間。かつあの時間残っていたのは……日直のやつぐらいなもの。……相合い傘の相手はずばり、芦名ですね!」

「なっ、はっ、はあっ!?」

 

 普段ミステリー小説を読み漁っているだけあり、探偵になりきって推理する時の歩鳥は無駄に鋭いときがある。見事に言い当てられてしまった紺は羞恥に頬を赤く染め上げ、目を白黒させて思わず後ずさる。

 

「へー、先輩が、芦名君とねー」

 

 紺の弱みを握ったと言わんばかりに目尻を垂らし口角を吊り上げニヤニヤとイヤラシい笑みを浮かべる辰野。右手の指先で口元を隠しながら「あらあら」とわざとらしく紺を見つめる。

 辰野の態度に紺も思わず目つき鋭くその鋭い牙を覗かせた。

 

「べっ、別にあ、あいつと帰ったとは言ってねーだろっ!」

「え、違うんですか?」

「…………っ、ぁ、くっ……」

「あ、これは“そうです”って言ってますね」

 

 (しら)を切ろうとする紺に思わずきょとんと素で尋ねてしまう歩鳥。彼女の言葉に紺は犯行を認める犯人のように四人がけの席へ崩れ落ちた。

 

「うっせ! 傘を忘れたからしゃーなしだっ!」

「でも先輩、部活は」

「行ってねーよっ! 悪いか!」

「いや、別に悪くはないですけど、それってつまり芦名を待って」

「待ってねえ! たまたまだ!」

 

 三人集まり(かしま)しく桃色の空気を出しながらキャッキャと騒ぐ彼女達を尻目に、店主のウメは一人新聞片手に苦みの効いたコーヒーを口に運んだ。

 

「若い⋯⋯。この桃色の空気、あたしにゃすでに毒でしかないんだね⋯⋯」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「えーん、傘がないよー」

 

 翌日の放課後。昨日と同じく空は分厚い雨雲に覆われ辺りは暗い灰色に染まり、大粒の雨が地面を叩くように激しく降り注いでいた。

 校舎の玄関先で歩鳥が頭を抱えて降りしきるその雨を呆然と見つめながら嘆いていた。

 

「お前、天気予報見ねえのかよ。しばらく雨だっつうの」

 

 そこに偶然にも通りかかったのは呆れた様子の紺。

 

「朝は降ってなかったんですよ! 遅刻しそうで急いでたのもあって……」

 

 がっくしと肩を落として傘を忘れた理由をつらつらと述べる彼女に、紺は困ったように頭を掻いて自身の鞄を漁りだした。

 

「仕方ねえな。私の傘貸してやるよ」

「え、先輩も傘持ってないじゃないですか」

「私は常に折りたたみ傘を鞄に入れてんだよ」

 

 そう言って取り出したネイビーカラーの折りたたみ傘を歩鳥へと突き出した。

 その傘を受け取りつつ歩鳥はついある疑問を口にする。

 

「ありがとうございます先輩! ……あれ、でも先輩、昨日傘がなかったから芦名の傘に入れてもらったんじゃ……」

「う、うっせー、昨日はたまたま、本当に、折りたたみも忘れたんだよっ。オラ、要らねえなら貸さねえぞ」

「あーっ、要ります要りますっ! ありがとうございます先輩! 遅れたらばーちゃんに何を言われるか」

 

 紺から受け取った傘を広げながら「助かったー」と胸を撫で下ろす歩鳥だったが、雨の中へと踏み込む前に紺へと振り返る。

 

「でも先輩はどうするんですか」

「……部活終わってから考える」

「今日はほんとに部活なんですね」

「ほんとだよ」

「今日は芦名も帰っちゃってますよ」

「っ……、あいつは関係ねーだろっ! いいから早よ行け!」

 

 心配そうに見る歩鳥の肩を掴んで向こうを向かせると、その背中をぐいっと押し出す紺。チラチラと何度か紺へと振り返りながら離れる歩鳥だったが、何かを閃いたのかにっこりと満面の笑みを浮かべるとこちらに大きく手を振った。そして雨音に掻き消されないように大きく声を張り上げる。

 

「先輩っ、ありがとうございます! お礼は必ずしますからー!」

 

 それに小さく手を振って応える紺。

 どうやら今日は本当に帰る当てがないようで、歩鳥の姿が見えなくなってから紺は少し不安げに空を見上げた。

 

「どうすっかな……」

 

 雨は未だ止む気配を見せず、その曇天はますます濃くなっていくようだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 部活終わりの学生がちらほらと姿を見せる。校舎の玄関口には傘を片手に友達との会話に花を咲かせる生徒が次々に雨の霞む向こうへと姿を消していく。

 

「針原のやつ、今日休みだし……」

 

 卓球部に所属する紺が運動用のジャージから制服へと着替え、恨めしそうに携帯と睨めっこしている。どうやら数少ない友人であり卓球部の後輩でもある針原の傘に入れてもらおうと思ったようだが、生憎彼女は家庭の用事で今日の部活を欠席していた。

 溜め息を一つ零して携帯をパーカーのポケットへと突っ込み、靴箱から自身の靴を取り出して気怠そうに外を見やる。

 しばらく雨宿りしていると、少し前まで向こうの校門に見えていた他の生徒の傘も見えなくなってしまい、辺りに人の気配は消えてしまった。

 雨がアスファルトを叩き水たまりに弾む水音だけが聞こえる。未だ街灯の灯らない街並みは霞むような薄ぼんやりとした景色となって、まるでこの豪雨で水の底に沈んでしまったかのよう。

 

「どうすっかな……」

 

 いつもならまだグラウンドから聞こえてくる他の運動部のかけ声も今日はなりを潜めている。

 暗雲に蓋をされた黄昏時の空は妙に寂しくて、傘立てに座り込み玄関口の窓ガラスにもたれながら俯く紺は、まるでこの世から切り離されたような気さえして、校舎の少し埃っぽい湿った空気を肺一杯に吸い込んで深く大きなため息を零した。

 思わず途方にくれる紺だったが、ゆっくりとした動作で面倒くさそうに立ち上がると止む気配のない空を一瞥してからパーカーのフードを深く被る。

 (ひさし)の端に立って改めてフードを深く被るようにつばを引っ張る紺。

 不思議に思ったのは、意を決して一歩踏み出した時だった。外に出たのに大きな雨粒が体を濡らさない。足下に見える曇天に滲む自身の薄い影の上に、大きな別の影が重なった。

 フードで狭くなった視界に誰かの大きな靴が映った。

 

「あ、先輩。えっと……、迎えに、来ました」

「っ……」

 

 聞き覚えのある、しかし思いもよらないその声に驚いて顔を上げる紺。そこには少し照れくさそうにそっぽを向いて、その強面の古傷を人差し指でぽりぽりと掻く一樹の姿が。

 彼を見つめる紺の、目を見開いた驚きの表情が少しずつ弛緩していく。つまらなさそうに虚ろだった瞳は光りを吸い込み、への字に結ばれていた口元がぽかんと開いて、次第に口角が持ち上がる。

 周囲の街灯がぽっと灯り、オレンジ色の暖かな光りが辺りを包んだ。

 

「――ッ、な、なんで、おま、お前がわざわざ」

 

 緩む自身の顔を見られまいと咄嗟に腕で口元を隠しながら思わず半歩退く紺。

 

「いや、なんか嵐山が迎えに行けって」

「ほ、歩鳥が?」

「はい。なんでも、先輩に“お礼です”って伝えたら分かるとかなんとか」

「――ッ!」

 

 気を利かしたつもりであろう歩鳥の根回しに、こちらの心情が筒抜けにバレている気がして、その気恥ずかしさに思わず顔に熱が集まっていく。

 

「……って、なんで傘一本なんだよ」

「いや、先輩は傘持ってるから一本だけ持って行けって、嵐山が念押し……してきて」

 

 今差している傘しか持ち合わせていない一樹がその理由(わけ)を説明するも、目の前の紺は傘を持っている様子はなく、そもそも傘を持っていたら迎えなんて要らないはずではと尻すぼみに声が消えていく。

 

「先輩、傘無いんすか?」

「……、……ああ」

 

 どこか拗ねたように恥ずかしがるようにそっぽを向いて答える紺に、一樹も次第に状況が飲み込めてきた。歩鳥に嵌められたと。

 雨の降りしきる中、二人の人間に傘は一本。自ずと答えは浮き彫りになってきて、この雨の中でも聞こえそうなほどに高鳴る鼓動は、どちらのものだろうか。

 

「じゃあ、入り、ますか……?」

「……しゃーねえな」

 

 昨日と同じはずなのになぜだか今日は無性に気恥ずかしい気がして、一樹も絞り出すように彼女を自身の隣へと誘う。紺もまた、そっぽを向いたまま、ぼそりと呟いた。

 

「……」

「……」

 

 大きな傘に二人が収まって、紺に合わせた小さな歩幅で一樹は学校を後にする。

 隣を歩く彼女のゆらゆらと揺れる金の髪が、まるで心をくすぐってくるかのようにむず痒くて、アスファルトの濡れる雨の匂いに混じって、ふわりとシャンプーの香りが漂ってくる。考えないようにとすればするほど、彼女の要素の全てが一樹の脳をかき乱していく。

 まるで吸い込まれるように、ふらりと彼女の方へと身を寄せてしまう。手と手が触れあいそうなほどの距離。

 一瞬肩を震わせた紺が、少しの間を置いてからハッとしたように半歩退いて彼との距離をとる。

 

「ち、(ちけ)ーよ! あ、あんまり、寄ってくんな……」

 

 一樹の肩を軽く押して、自身の肩が傘からはみ出して濡れるほど離れる。

 

「す、すんません……。いやでも、昨日は濡れるからって」

「き、昨日は昨日! 今日は今日だばか!」

「ええー……」

 

 どこか落ち込むように眉尻を垂らす一樹が訳が分からないと天を仰いで視線を泳がせた。

 

「今日はほんとに、部活終わりだっつうの……」

 

 そっと自身の制服の胸元を持ち上げて自身の匂いを()ぐ彼女が、彼に聞こえないほど小さく呟いた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「次のバスまで結構ありますね。……歩きますか?」

「あ-、……そうだな」 

 

 先日と同じく、二人は雨の中バスを待つことはせず、二人で並んで歩いて帰ることにした。

 

「……」

「……」

 

 何とも言えないむず痒い雰囲気が二人を包み、どうにも会話が続かない。

 紺が相変わらず少し距離を取るので、一樹は自身が傘からはみ出ることで彼女を傘の中へと収める。この薄ぼんやりした暗さでは、多少肩が濡れても彼女には気づかれないし、気を遣わせることもないだろうと考えてのことだった。

 しばらく沈黙が続いたあと、傘を打つ雨音にも掻き消されそうなほど小さな声を彼女が零した。

 

「……迎えに来てくれて、……ありがとよ」

「あ、いえ、……よかったっす、濡れなくて」

 

 再び沈黙。その空気に耐えかねたように紺が「あー」とわざとらしく頭を掻きむしり、その猫のような瞳を一樹へと投げかけた。

 

「なんかっ、お礼!」

「へ?」

「迎えに来てくれた礼をするって言ってんだよ! なんかあんだろ!」

 

 半ばやけくそのように一樹を指差してそう言い放つ。「急に言われても……」と困ったように視線を泳がせる一樹だったが、しばらく考えたあと、「あっ」と何かを思いついたように目を見開いた。

 

「じゃあ、先輩。その……」

「なんだよ……?」

「……写真、撮らせて下さい……、先輩の」

「しゃ、写真っ? 私の?」

「うっす。次のコンクール、ポートレートっていうか、人物写真が題材で……」

「い、いや、はずいって」

 

 思いもしなかったお願いだったようで、話の流れから自身の写真をコンクールに出そうとしていると察した紺は慌てて手を振った。

 

「そういうのは辰野とかに頼めよ」

「俺は、先輩を撮りたいんです」

「……っ」

 

 自分から話を逸らすために適当に名前を出しただけだったが、それに対して何とも真っ直ぐな目で間髪入れずに応える彼に、思わず心が揺れて目が泳いでしまう。 ほのかに顔が熱い気がして、見られないようにパーカーの裾で顔に触れた。

 

「な、ば、おま、……」

「ダメですか? 先輩」

「…………ぅ、ぃ、ぃい、けど」

「っ!!」

 

 顔を隠したまま彼女が応えると、一樹は晴れ渡る太陽のように嬉しそうな笑顔を咲かせ無意識に拳を握りしめて掲げる。紺の手に傘を握らせると雨の中へと駆け出し、彼女から少し離れたところで背中に回していた鞄から早速カメラを取り出した。

 

「い、今撮るのかよ!」

「善は急げっすよ!」

 

 素人目にも決して安くは見えないカメラを準備する一樹に、紺も半ば心配そうに声をかける。

 

「お、おいっ、カメラ濡れるぞ」

「濡れるとか汚れるとか壊れるとか! そんなの気にしてたら、今撮りたいこの瞬間を逃しちゃいますよ!」

 

 紺の心配も余所に、体を丸めて自身の大きな体で雨風を凌ぎながら手元をいじっていた一樹が、バッと身を起こしてカメラを掲げる。

 カメラのレンズ越しに紺を見ながら雨音に負けないように声を張り上げる。

 

「先輩! 笑顔笑顔!」

「笑顔って、んな急に言われて笑えるか」

 

 カメラを向けられ少し照れくさそうに前髪をいじっていた紺だったが、一樹からのリクエストにいつもの鋭い眼光で応える。不器用な彼女に撮影用のスマイルを要求するのは少し酷なようだ。

 

「んー、だったら……、今日はどんな日でした?」

 

 カメラを服の中へと避難させて顎に指を添えて少し逡巡する一樹が、ほのかに微笑みながら、何気ない会話のように彼女に問いかけた。

 

「今日? いつもと変わらねーよ、別に。朝起きて学校行って部活して」

「でもなにか一つくらい良いことあったでしょ。テストの点数がよかったとか、お昼ご飯が美味しかったとか、部活で調子よかったとか。それを思い出してください」

「んなこと言われても……」

 

 突然の提案に眉をしかめて頭を掻く紺に、一樹はゆっくりカメラを掲げて、レンズを覗き込みながら優しく囁くように続けた。

 

「別に教えてくれとは言いませんから。ほら、目を閉じて、深呼吸して。今日あった一番嬉しかったことを、素直に、鮮明に、その瞬間を思い出してください」

 

 彼の言葉に導かれるように静かに瞳を閉じる。ゆっくりと鼻から息を吸って、口から吐き出す。それを何度か繰り返してしばしの沈黙の後、なにを思い描いたのか、彼女は瞳を閉じたまま子供のように無邪気に「へへへっ」と笑った。

 心底嬉しそうな笑みを零すと、その無垢な笑顔は徐々に、静かに、端正に、少女から大人の女性へと瞬く間に成長するように、美しい微笑みへと変わっていく。

 

「…………」

 

 すっ、と音もなく彼女の宝石のような瞳が開かれると、その潤んだ灰色の色彩がレンズ越しに一樹を捕らえた。

 一樹は瞬きも忘れたかのように、顔に滴る雨の滴を気にもとめず、ただ呆然と食い入るように、呆けたようにカメラ越しの彼女を見つめていた。

 ほのかに朱をまとう頬、微かに灯りを吸い込んで反射する瞳、薄く開いた桜色の小さな唇、雪のように白く透き通った肌、雨粒の弾ける黄金の艶髪。その全てが儚げで、雨に霞む情景と相まって、まるでこの世のものとは思えないほどに――

 

「…………――……」

「んっ? なにか言、キャッ――」

「だっ、大丈夫ですかっ、先輩」

「あ、ああ、ちょっとビックリした、だけだから……」

 

 紺が道路一つ挟んだ一樹の元へ駆け寄ろうとしたとき、ちょうどバスが水しぶきを上げながら目の前を横切っていった。

 

「バス行っちゃいましたね。バス停で待ってても同じくらいの時間に帰れてましたね」

 

 そう言って笑う一樹に、さっきなんて言ってたのか、尋ねるタイミングを逃してしまった。

 なにか言いたげに彼を横目に見つめる紺に、一樹はカメラの画面を向ける。

 

「最っ高にいいの、撮れましたよ。先輩」

「……わぁ……」

 

 一樹の手元を覗き込んだ紺が思わず感嘆の溜め息を漏らした。食い入るようにその写真を見つめ、目を輝かせる。

 

「これ、次のコンクールに出してもいいですか?」

「…………だめ」

「ええっ」

「や、やっぱ、恥ずいっ」

「そんな殺生な」

「ダメったらダメだ!」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あら、素敵な写真だこと」

「ほんと、綺麗ねえ。撮る人が撮れば違うものね」

「いやいや、モデルも相当いいってこれ」

 

 数日後の休日。先日までの雨も嘘のように晴れ、今日はここシーサイドで宿題をしようと一樹と真田と辰野、そして数学の宿題の転写を狙う歩鳥が集まっていた。

 女性陣が私服なところを見るに、今日はお客さんとしての来店のようだ。

 一同が一通りの宿題を終わらせると、話題は先日の相合い傘の件へと移っていった。女子二人がきゃいきゃいと騒ぐ中、真田だけが一樹の肩に手を置いていい笑顔を浮かべてサムズアップをしていた。

 むずがゆさと気恥ずかしさで己の精神がやられてしまう前に一樹は話題の転換を求め、詳細や成り行きはうやむやにしつつも、先日紺の写真を撮ったことを口にしてしまった。

 当然見せろという流れになるわけで、一樹が常にカメラを持ち歩いていることも最早筒抜けであり、彼に逃れる術はなかった。

 彼が素直に写真を一同に見せると、皆食い入るようにその画面を覗き込み、各々からお褒めの言葉が飛び出した。

 写真の中には、曇天の空とぽつぽつと灯る街灯、薄く灰色に沈んだ街並みを背に、傘を差した紺がこちらを向いて佇んでいた。

 

「しかしこれすげえな、手前の雨粒まで鮮明に撮れてる」

「曇ってて全体的に暗めなのに先輩ははっきり映ってるし」

「まあ、そこは、一応写真部だからそれなりの技術で」

 

 写真の技術を褒める真田と辰野に手を頭に回して思わず照れ笑う一樹。そんな中、じーっと写真を見つめていた歩鳥がポツリと零した。

 

「いや、私は先輩からこんな表情を引っ張り出した技術の方を褒めたいよ」

「言われてみれば、なんか……何て言うんだろ、優しげ? 儚げ?」

「うーん、美人なのは当然なんだけど、こう、暖かい? 嬉しそう?」

 

 歩鳥の一言に写真の中の紺へと視線が集まる。彼女の得も言えないその表情を見て各々がそれを表現しようと四苦八苦する。

 頭を傾げる一同の中で、歩鳥が「あっ」と声を上げてピンと指を立てた。

 

「乙女だ」

「あー、乙女ねぇ。うん、乙女だわ」

「あー、なるほど。それだ」

 

 歩鳥の一言に妙に納得したと頷く辰野と、思わず指差す真田。

 

「芦名、どうやって先輩のこんな表情撮れたの?」

「いや、俺は別になにも」

 

 歩鳥の質問に同調するように辰野と真田も彼を見つめる。弱ったなと頬を掻く一樹が、すっかり温くなったテーブルのコーヒーを一口すすった。

 

「俺はただ……今日、つまりこの写真撮った日だけど、『今日あった一番よかったことを思い出してください』って頼んだだけで」

「それだけ?」

「それだけ」

 

 きょとんとして聞き返す辰野に一樹も困ったように頷いた。

 

「で、その嬉しかったことって何だったんだよ」

「いや、それは聞いてないけど」

 

 真田の疑問に肩をすくめる。その会話に耳を傾け目を閉じてなにやら考え込んでいた歩鳥が、ハッとしたように目を見開いて身を乗り出した。

 

「もしかして、この写真撮ったのって、あの『お礼』の日?」

「あー、まあ、うん」

「なによ、お礼って」

 

 一樹の答えを聞いて歩鳥は得心したと言わんばかりに頷きながら背もたれに体重を預けた。詳細を聞きたそうな辰野と真田に小さく手を振った。

 

「いや、これ以上はやめておこう。先輩のプライドのために」

「なによー、自分だけ分かった風に。教えなさいよ」

 

 辰野が歩鳥のちょんと結われた髪を摘まみながら問い詰める。そんな彼女らを尻目に真田が確認するように写真を指差す。

 

「で、今度のコンクールだっけ? これ出すんだろ?」

「いや、先輩が恥ずいからやめろって。先輩を説得できたら出そうかな」

 

 相変わらず歩鳥の髪を掴んだまま辰野も意外と言うようにきょとんとする。

 

「こんないい写真なのに、もったいない」

「……いいんだよ。俺も出したいような、出したくないようなって感じだから」

「なんそれ」

「いや、俺には分かる……人に見られたくないんだよなぁ」

 

 溜め息交じりの一樹のぼやきに頭を傾げる歩鳥。真田だけは一樹の心情が理解できたのか腕を組みうんうんと頷いていた。

 そんな彼を訝しがるように横目に見てから、歩鳥がスプーンをマイクのように一樹の方へと向ける。

 

「それで、ずばりこの写真のタイトルは?」

 

 考えてもいなかったその質問に、一樹も弱ったなと顎に手を添えて天井を見上げた。しばし思考を巡らした後、写真に視線を落とした彼が、少し恥ずかしそうに照れ笑いながら口を開いた。

 

「うーん、まだ出すかも分からないから考えてなかったけど……。……そうだな、じゃあタイトルは――――…………」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『なんだ芦名じゃん。何してんだそんなとこで』

『あ、先輩。いや、傘忘れちゃって』

 

 今朝まで薄曇りだった空は帰る頃にはすっかり分厚い雲に覆われてしまっていた。家を出たとき一瞬迷ったが、鍵までかけてしまったドアをもう一度開くの億劫だったので、ついそのまま傘を持たずに登校してきてしまった。

 そして案の定、大粒の雨に足止めをされ校舎の玄関口で雨宿りするはめになってしまった。

 

『バカだな、お前。天気予報見てねえのかよ』

『いやー、今朝急いでたもんで』

 

 一樹が辟易しながら空を眺めていると、後ろからよく知った声がかけられた。振り返ると紺が鞄を肩にかけながら半ば呆れたように、からかうような笑みを浮かべて立っていた。

 格好悪いところを見られてしまったな、と一樹が自傷気味に笑うと、紺が自身の鞄を漁ってなにかを取り出した。

 

『……ほら、私の貸してやるよ』

『いや、でも先輩はどうするんですか』

『私は今から部活だし、置き傘もあるから』

 

 それは彼女の折りたたみ傘のようで、さすがに借りるのは申し訳なかったが彼女は大丈夫だと手を振った。

 一樹の腹を刺すように突き出されるその傘を、彼も思わず受け取ってしまった。

 

『ありがとうございます。じゃあ、今度先輩が傘忘れたときは俺の貸しますね』

『お前は雨の日に常に傘二本持ってくる気かよ』

 

 快活に笑う一樹に、紺はバカだなと小さく微笑んだ。

 

『あ、そっすね。じゃあ、その時は……俺の傘入ります? なんて』

『……ま、大雨でどうにもならない時は、考えといてやるよ』

 

 水の跳ねるアスファルトの地面に視線を泳がせながら、冗談めかしてそんな誘い文句を呟く一樹。

 対する紺は恥ずかしげな彼の横顔を見て、少しニヒルな笑みを浮かべながらあっけらかんと答えた。幸い、そのほのかに紅潮した頬はそっぽを向いたままの彼には気づかれずに済んだようだ。

 

『あざっす。じゃあお疲れっした』

 

 自分の言葉に気恥ずかしさが募ったのか、彼は紺を見ることなく軽く頭を下げてすかさず外へと駆けだしていく。

 外に出て少し離れたところで、一樹は紺に借りた折りたたみ傘を開いた。その傘を見上げてくるりと回してから、校舎からこちらを見送る彼女へと振り向いた。

 

『いい傘っすね』

『普通の傘だよ』

『いえ、俺……(この)色、好きなんすよ』

 

 屈託無く微笑むその笑顔には深い意味など何も無いのだろうけど、思わず思考がぐるぐると巡ってしまって、鼓動が大きくなってしまった。

 こちらに手を振ってから去って行く大きな背中を見送って、彼女は己の中の熱を冷ますように深呼吸をする。

 

『アホか……』

 

 誰に言うでもなく、そう自身にツッコミを入れてくしゃりと髪を掴むように頭を掻いた。

 

 

 

 


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