第一章
* 0 *
自分の弱さを思い知ったのは、いつだったろうか。
『あなたの妹よ』
そう言われて栞の顔を見た瞬間から、あたしは栞の姉となった。
栞は生まれつき身体が弱くて、それが原因なのか気も弱くて、家の中でも外でも、あたしは常に栞を一歩リードするようになっていた。
親からも誰からも、それを求められたことなんてなかった。栞の姉であるあたしは、自然とそうである自分を身に着けていっただけだった。
気がつくといつもそんな感じのあたしが、当たり前になっていた。
初めて強いと言われたのは、いつだったろうか。
確かそのとき、あたしは栞と一緒に遊んでいた。
栞が幼稚園に入った頃だったと思う。雪が降るにはまだ少し早い時期だったけど、秋が深まり行くそのとき、あたしは栞と連れだって公園で遊んでいた。
ブランコや滑り台、ジャングルジムで遊んで、それでも遊び足りなくて、あたしたちはどちらともなく見知らぬ世界へと、公園の外へと出て行っていた。
初めて通る道。見たこともない街。そこには多くの発見や驚きがあっておもしろかったけど、ふと気がついたとき、あたしと栞は道に迷っていた。
近づく冬の足音に日はそうそうに落ちてしまい、道に迷ったことに気づいたと少し後には、辺りはすっかり暗くなってしまった。そうして、栞は泣き始めた。
そのときあたしも栞と一緒に泣きたかった。
寂しくて、悲しくて、心細くて、そんな気持ちが胸いっぱいにあふれてきて、大声を上げて泣き出してしまいたかった。
けれどあたしは栞の姉。妹が泣いているのに、姉のあたしが一緒に泣くわけにはいかない。栞のことを慰めつつ、自分の気持ちは胸の内に押し込めていたのを憶えてる。
歩き回っていてやっと知ってる人に偶然出会ったとき、その言葉を言われた。
『香里ちゃんは強いね』って。
あたしは強くなくちゃいけなかった。弱さなんて見せられなかった。気づいたときにはそうであることが当たり前で、そうであることに慣れすぎてしまって、意識する必要もなくそれが普通になってしまったあたしは、それ以外の自分を思い出すことができなくなってしまった。
そしてあたしは、なにかを見失った。
[newpage]
* 1 *
ゴールデンウィークを明日に控えたその日、この街ではやってくるのが遅い春も、もうそこら中にあふれるようになっていた。
けれどホームルームも始まらない時間の学校の屋上となると、まぶしいほどの日差しを受けていても吹き抜けていく風には冷たさが感じられた。
「好きなんだ、美坂っ。いや、香里!」
そう言われた瞬間あたしが見ていたのは、言った彼の背後にどこまでも青く広がる空。
――今日はいい天気になりそうね。
目の前にはいつになく真面目な顔をした彼がいて、らしくないくらい揺るぎない視線を向けてきているというのに、あたしはそんな彼に視線を合わせているようで合わせていずに、空にばっかり注意を向けていた。
「――それで?」
ずいぶん長い間黙っていて、やっと彼が答えを待っているのだと気づいたあたしは、そんな言葉を返した。
「『それで?』って……。オレはお前のことが好きだから、つき合って欲しいと思ってるんだけどな」
少しばかりのあきれをまじえ、さっきほどの真剣さを失った彼が言う。
「好きだったら、なんでつき合うの?」
「香里は思わないか? 誰かに側にいて欲しい、って。できるなら自分の好きな人に側にいて欲しいって。そんな風なこと、感じたことないか?」
「……」
「少なくともオレは自分が好きだと思う人には近くにいて欲しい。なにかあれば愚痴だろうとなんだろうと話くらいは聞いてやりたいし、オレの方になにかあったときには、ただ好きな人が近くにいてくれるだけで、気持ちが軽くなる……と、思う」
「――」
彼が言った言葉に対して出てきそうになった「ふぅん」という相づちを、すんでのところで飲み込む。そういう反応の仕方は、いまの言葉には適当じゃないと感じたから。
けど、「ふぅん」という相づちくらいしか出てこないことに変わりはなかった。
あたしには、彼の言った言葉の意味がいまひとつわからなかった。どうしてそんなことを思うのか、どうしてそんな風になりたいのか、理解できなかった。もちろん、彼が感じたようなことを、少なくともあたしの記憶の限り、感じたことはなかった。
それよりわからないのは――。
――人を好きなるって、どういうこと?
過去に何度も、同級生や下級生、それどころかかなり年上の男性からも、告白を受けたことはあった。でも告白の度に、あたしはつき合うことを断ってきた。
自分で自分のことを可愛いだとか美人だとか感じたことはなかったけど、逆に容姿について悩んだこともあんまり憶えがない。誰かから言われるだけなら、あたしは美人という部類に入るらしいってことを知ってる程度だ。
そんな部分を見て軽い気持ちで告白してくるような人もいる。そうでなくて、いまの彼のように真剣な想いから告白してくる人もいる。
けれども、あたしはそのすべてを断ってきた。
栞のことが心配でそれどころじゃなかったこともあったけど、それより強いのは、告白してくる人たちの言う言葉の意味が、理解できなかったからだった。
なぜつき合うのは異性が普通なのか。側にいて欲しいとはどういうことなのか。なぜ好きだと抱きしめたりキスしたりするのか。
そんな疑問ばっかり浮かんできて、告白してきてくれた相手とつき合うなんてことまで、考えることができなかった。
「栞ちゃんのことに結末が着いたら、考えてくれるって話だったよな?」
「そうだったわね」
考え事をしていてずいぶん長く続いてしまった沈黙を破った彼に、あたしはそんな答えを返した。
いま目の前にいる彼は、二度目の告白だった。
一度目の告白のときは栞の病気がちょうど悪化して入院してるときで、誰かとつき合う余裕なんてなかった。でも彼が軽い気持ちじゃなく、あたしのことをよく思ってくれた上での告白だったことが感じられたから、妹のことを話してあった。
……そのときにはたぶん、栞はダメなんだろうと考えながら。
「それにしては素っ気ないよな。どうしたんだ?」
「なんでもないわよ。……ただ、考えられないだけ」
「考えられない? どういうことだ?」
「――言葉の通りよ」
そうとしか答えようがなかった。
栞が病気であったときには、彼女のことで頭がいっぱいで、悲しみと寂しさとやるせなさで、誰かとつき合うなんてこと、考えられなかった。でもいまは栞は元気になってる。それなのにあたしは、誰かとつき合うということを考えることができなかった。
――栞のことが理由じゃなかったの?
考えてみるけど、理由は見つからない。ただ本当に、考えられないだけだった。
「別に嫌いってわけじゃないのよ。――好きって気持ちも、浮かんでこないけど。他の誰かとつき合ったりもしてないし――」
「だったらっ!」
「それじゃ嫌なの。誰ともつき合ってないから、なんて理由でつき合うのは、違うと思う。でも本当にごめんなさい。誰かとつき合うってこと、考えられないの。考えたくないわけじゃなくて、考えることができないの。ごめんなさい」
その瞬間の彼の目を見ていられなくて、あたしはガラにもなく深く頭を下げた。そうして顔を上げて彼のことを見ると、彼はやっぱり真剣な目であたしのことを見つめていた。
――本当に、あたしのことを想っていてくれてる……。
そのことは言われなくても目を見るだけでわかった。嘘なんてついてないことは、揺るぎない視線から読みとれていた。
けれどやっぱり思い浮かんでしまうのは、
――人を好きになるって、どういうこと?
だった。
こんなあたしは異常なのだろうか?
告白されたことになにも感じず、他のことを考えているあたしは、果たして普通なんだろうか?
――あたしは、いったいなんなの?
浮かんでくる疑問に当てはまる答えは、見つからなかった。
「――香里。いや、美坂。もし考えられるようになったら、オレとのこと、考えてといてくれ」
そう言った彼はあたしに背を向けた。いつもの快活な様子からは想像できないほどの寂しさを背負い込んで。
「……っ」
なにか、声が出てきそうになった。でも、声になることはなかった。
去っていく彼の背中に、なにか声をかけなくちゃいけないような気がしてる。それなのに、その言葉を思い浮かべることができず、やるせなさで握られた手を自分の胸に当てた。
――胸が、痛い……。
見つからない言葉を探すあたしは、胸に痛みを覚えていた。まるでそこに穴でも空いてるかのようで、そこに吹き込む風が、痛かった。
彼が屋上を去ってしまって、どれくらい経ったろうか。予鈴が鳴り響いた。
そろそろ胸に感じていた痛みもなくなって、あたしは屋上から降りる階段へと足を向けた。
あの胸の痛みはなんなんだろうか? 胸に穴が空いているような、そんな痛み。前に誰かから告白されたときにも、同じような痛みを感じたことがあるような気がした。いや、それ以外のときでも、感じていたような気がする。でも、すぐに思い出すことはできなかった。
いまのあたしには、そんなものはどうでもよかった。そんな痛みよりも先に探し出さなくちゃいけないものがある。それはどんなことよりも重要で、ここのところずっとあたしの心を占めてるものだ。
――奇跡なんて、起こるはずなかったのに……。
見上げた空は、明日から始まるゴールデンウィークを祝うかのように、どこまでもどこまでも青く広がっていた。
*
「っつぅことで、みんなで集まって遊ぶのはその日くらいのもんか」
「うん、そうだね。あとはそれぞれ予定入っちゃってるみたいだし、いいんじゃない?」
相沢君のまとめの言葉に応えて、名雪が大きく頷く。
「おし、決定」
相沢君と名雪、あたしと栞、それから北川君の名前とともにそれぞれが空いてる日を書いたメモの中で、全員が空いてる日と目的の場所にシャーペンで大きく丸をつけて、相沢君はさも嬉しそうに大きく表情を崩した。
「でも祐一も意外と用事が多いんだね。てっきりゴールデンウィークは家で寝て過ごすかと思ってたのに」
「なにを言う、名雪。これでもオレは学校にいる人の顔と名前を全員記憶してるんだぞ」
「どこまで本気ですか? 祐一さん」
「――栞、止めてくれ。前々から思ってたんだが、お前の『顔は笑ってるのに目は笑ってない』表情ってのは、けっこう怖いぞ」
「あ、ひどいですー。祐一さんはわたしのことが怖いんですね……」
「あのなぁ、栞――」
授業が終わった放課後。明日からは六連休の……いや、もうこの時間からゴールデンウィークに入ってるって言える。そんなだからたいていの生徒は早々に帰ってしまって、突然昨日相沢君が言い出した「みんなで遊びに行こう」という提案をまとめてるあたしたち五人の他は、教室に残ってる人はいなかった。
明日も天気が悪くなることはないだろうと思えるほどの陽気が降り注いでる静けさの教室の中で、栞と相沢君、それに名雪を含めた三人の他愛のないやりとりが続いてる。
「でもいいの? 相沢君。これでもあたしたち、高校三年生よ? 今年は大学受験だと思うんだけど?」
ヒートアップする三人のやりとりにちょっといたずら心で口を挟んでみる。
「うっ……。そ、それはな、香里……」
「思えば祐一、今日帰ってきた休み前の小テストの結果、悪いって言ってなかったか?」
「ぐふっ」
あたしの言葉で表情が暗くなった相沢君は、さらに北川君の言葉で胸を押さえた。
「祐一さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ。受験戦争前に入れる、ちょっとした休息だよ……」
「そのセリフ、たぶん夏休み前も聞くような気がするけど?」
「ぐへぇ~」
名雪にトドメを刺された彼は、椅子に座り込んでそのまま机に突っ伏した。そんな様子にあたしも名雪も北川君も、そしてなにより栞が微笑みを浮かべていた。
――まるで別人のようよね。
ほんの数か月前まで、たった一週間生きるのですら難しいと言われていた栞。それがいまは、みんなと一緒に騒いで、微笑みを浮かべてる。
栞は生まれつき病弱で、なにかあるごとに入退院をくりかえすような生活をしてきた。そしてついに、というべきか、大病を患い、十六歳の誕生日まで生きられないと病院の先生から言われるほどの容態に陥った。
それがいまは嘘のように回復し、高校一年をもう一度やらなくてならないこと、まだ思い切り運動しないように言われてることを除けば、普通の人と同じように生活することができるようになっていた。
「栞ちゃん」
「はい?」
「ちなみに、ゴールデンウィーク中はどれくらい祐一とデートするの?」
「え!? あっ、えと……。そっ、それは……」
「あのなぁ、名雪。そういうこと訊くかぁ~」
意地悪な笑みを浮かべた名雪の質問に、栞も相沢君も顔を赤くしてる。それを見て北川君が声を立てて笑っていた。
まるで嘘のようだった。こんな穏やかな時間を過ごしてる栞と数か月前の栞とが、同一人物とは思えないことすらあるくらいだった。奇跡だった。
なんと答えを返そうかと考えてる栞がそっと相沢君の顔を見て、彼はまだ少し頬を赤くしながらも優しげな笑みを見せる。それに応えて栞の顔に浮かぶ、陰りのない満面の笑み。
あたし自身の目で見ているのに、心のどこかで信じ切ることができないでいた。いま見ているものこそが現実なのに、現実であるはずなのに、どことなく実感が湧いてこなかった。起こることを願い続けて、願いが叶うことはずっとなくて、諦めていた奇跡が起こったという事実を――。
そして同時に、あたしの中には疑問がわだかまっている。
栞に起こったはずの奇跡。しかしそれは……。
「あれはホントに、奇跡だったの?」
知らぬ間に、あたしはその言葉をつぶやいていた。
――あれ?
名雪は会話に参加していない香里に気づいて、彼女の方に目を向けた。すると彼女は、ころころと表情を変える栞の顔に複雑な視線を向けていた。
――香里、どうしちゃったんだろ?
そのときの香里の表情はまるで、栞がまだ病気を患っていたときにたまに見せていたような、重いものだった。
栞はもう充分に元気になった。名雪は栞が煩っていた病気のことはほとんど訊いていなかったが、いまの様子を見ても、祐一などから少し聞く話からも、彼女がすっかり完治したんだと思っていた。
「あれ…………に、奇跡……の?」
そんなとき栞がなにかつぶやいた。はっきり聞こえなかったが、「奇跡」という言葉だけは、名雪の耳に残った。
――奇跡……。
そう、奇跡だった。治るはずがないとまで言われていたという栞の病気。それが治ってしまったのは、まさに奇跡だった。
そうしていま、彼女は祐一と一緒に微笑み合っている。
本当に幸せそうで、見ていると自分も微笑みを漏らしてしまうような、晴れやかな笑みだった。けれど同時に、名雪の心にはひとつの想いがわだかまっている。
――なんで、奇跡は起こっちゃったんだろう……。
香里と同じように栞の表情を見つめている名雪は、誰にも見えないように左手の拳を握りしめていた。
「おぉーい、お前たち。そろそろ帰れよぉ」
「あぁーっと、わかりましたぁ~」
巡回で各教室を回っていたのだろう。扉から顔を覗かせた先生が祐一たちに声をかけていった。
「んじゃ、そろそろ帰るか」
「そうですね」
祐一の言葉に栞が応え、それを合図に名雪たちも帰り支度をして昇降口へと向かった。靴を履き終えた人から集まってくる。
「思えば栞ちゃん、携帯電話買ったんだって?」
「えぇ。……祐一さんと、色違いでお揃いのを」
「そうなんだ。じゃあオレにも番号教えてくれないか? オレのも教えるし」
「いいですよぉ。ちょっと待って下さいね」
香里と北川が話をしているとき、少し遅れてきた祐一が全員に向かって言った。
「せっかく明日から休みなんだし、商店街に寄って帰らないか?」
「あ、いいですね」
「思えばこの五人が全員集まって帰るってのも、珍しいよな」
栞と北川が順に同意し、異存のない名雪も頷こうとしたが、ふと思って隣りにいる香里の方に目を向けた。
少しの間なにかを考えるかのように視線を落としていた彼女は、なにかを決めたのか顔を上げる。
「ごめんなさい。ちょっとあたし、用事があるから先に行くわ」
「香里?」
「ゴメンね、名雪」
ひと言名雪に謝りの言葉を言って、香里は祐一たちの輪を離れ早足に校門に向かっていった。
「どうしたんだ? 香里は」
祐一に問われた北川は、「さぁ、な」と自信なく応えるだけだった。用事の内容を知らないらしい栞は、無言のまま香里の背中を見つめるだけだった。
名雪もまた、言ってしまった香里の背中を見つめているしかなかった。
香里とのやりとりにはいつも踏み込んではならない部分があるのを、名雪は昔から知っていた。それが栞であることがわかり、そして栞は元気になった。それ以来香里の辺りは微妙に柔らかくなったことを名雪は感じていた。
それなのに、いまの香里の背中に漂う昔と変わらない雰囲気。栞が原因であったと思っていたのに、勘違いだったのだろうか?
――香里には、まだなにかあるのかな?
祐一に声をかけられるまで、名雪は校門を曲がって見えなくなった香里の背中のことを考えていた。
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* 2 *
ずいぶん長い間バスに揺られて降り立ったのは、見知った場所。そう、ここは栞が数か月前まで一週間と置かずに通っていた病院だった。
それほど高くないとは言え山の中腹くらいにあるここは、穏やかな日差しがあっても街に比べてまだ寒さを感じる。商店街で買ったおやつ代わりの食べ物が入った紙袋と鞄を手に、あたしは広く取られたロータリーを回ってロビーのある建物に向かっていく。
いまも検査のために栞の付き添いで訪れることがあるここだけど、今日はあたしひとり。ひとりで来たのにはもちろん、理由がある。
生まれつき病弱で、もう治らないとまで言われた病気を患ってしまった栞。親からも、もうダメなのだと、どんなに手を尽くしても死んでいくのだと、栞には言えない事実を姉のあたしは聞かされていた。
だから諦めていた。医者でもないあたしにはなにもできない。今日は元気でも、明日には容態が急変してしまうかもしれない。明日は大丈夫でも、明後日には……。
毎日そんなことばかり考えてしまって、栞だけじゃなくあたし自身もダメになりそうだった。そしてなにより、実際に栞を失った後、自分がどうなってしまうのかが怖かった。
だからあたしは諦めた。栞はもう逝ってしまうのだと、いなくなるのだと、心の中で諦めて、栞はもういない人間なのだと思いこむことにしてきた。
そんな彼女は完治してしまった。
嬉しいことだった。泣きたいほどに嬉しくて、実際、容態が快方に向かい始めた栞のことを抱きしめて病院の中であるにも関わらず、声を上げて泣いた。
栞に起こったのは、まさに奇跡。起こるはずがないと、起こることはないんだと諦めていた、奇跡。
奇跡によって栞が元気になったことは嬉しいけど、でも、奇跡自体を受け入れることはできなかった。
その奇跡は、前触れを持って起こっていたから。
広いロビーへと続く入り口前にやってきたあたしは病院の建物を見上げる。日差しを照り返すそれは、何度も来てるから見慣れているものだった。けれどもそこでは、信じられないことが起こった。
そう、あたしはあのとき確かに見た。奇跡が起こる、前触れを。
眠気覚ましに顔を洗い、洗面所を後にする。非常灯しか点いてない夜の病院は特有の匂いと相まって薄気味悪い雰囲気を漂わせていた。
そんな廊下をあたしはひとり歩いていく。
栞の容態は、いま峠に差し掛かっていた。
二月一日を越え、彼女は十六歳になっていた。栞の担当医が言っていたことは裏切られた。……でも、それだけ。彼女の容態に希望は見えず、二月一日に病院に運び込まれて以来、意識が回復する様子はなかった。そして容態は悪化を続け、栞の命は今日とも知れないほどになっている。
そんな状態だからこそ、あたしはお父さんやお母さんのみんなで、病院の許可をもらって夜を徹して栞に付き添うようにしている。
昨日から丸一日以上付き添っていた両親はさすがに疲れて、いまはあたしひとりで栞の側にいた。
――早く病室に戻ろう。
顔を洗ってもまだ少し残っている疲れと眠気を振り払って、あたしは栞の病室へと急いだ。
――あれ?
洗面所から戻って角を曲がり、栞の病室がある廊下に出てみると、かすかな光が見えた。
とっくに就寝時間は過ぎてるし、この辺りは個室ばかりの場所で、誰かが起きていることなんてそうそうないはずだった。それどころか、よく見ればその光は、栞の病室から漏れていた。
「扉は確か閉めたはずなのに……」
つぶやきながら足を早める。すると扉から人影が現れた。
「栞?」
遠くから小さな声をかけてみたが、違った。
あたしの声に振り返ったのは、暗くて顔まではよく見えなかったけど、栞よりも背が低くて、パジャマをではなく普段着らしい服装の女の子。扉が閉められて病室から漏れてた光がなくなっても、その娘が頭につけてる赤いカチューシャだけは、非常灯に照らされてよく見ることができた。
「あっ」
小さく声を上げたその娘があたしとは反対方向に向かって走っていく。病院内を走るのもなんだと思ったけど、栞になにか起こったんじゃないかと思って、足音に気をつけながら病室へと急いだ。
扉を開けてみて、ざっと病室の中を見てみる。パッと見て変化はない。
扉を閉めて女の子が走っていった方向に目を向けると、階段を下りていく赤いカチューシャが一瞬見えた。
――誰なの?
栞の知り合いだろうか? それとも病院に入院してる人だろうか? どちらにせよこんな時間に栞の病室を訪れるなんてことないはずだ。誰なのか確かめようと、あたしはまた足音を忍ばせつつ女の子の後を追っていった。
すっかり距離を離されてしまい、その上薄暗い場所では追っていくのは難しそうだった。それでもかすかに聞こえる足音から、彼女が一階まで降りていったのがわかった。
「待って!」
階段を下りていくと、一階の踊り場で女の子がどっちにいこうかと赤いカチューシャを左右に振ってるのが見えた。声をかけた瞬間、振り向いた彼女はまた「あっ」と声を上げて走っていってしまった。
「待って、栞になんの用事だったの!?」
大きな声は立てられず、小さな声で遠くの女の子に声をかける。静けさの中に忍ばせた足音しかしない病院内では、それくらいの声でも聞こえるはずだった。
一瞬だけ振り向いた彼女だけど、すぐに前を向いて廊下を通り、別の建物に入っていってしまう。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
どれくらい走ったろうか。陸上をやってる名雪ほど体力のないあたしは、ついに女の子に追いつくことができなくて、彼女の背中を見失ってしまった。
「ここ、どこだろう?」
回りを見回しただけでは暗くてわからない。栞がいる場所とは違う建物なのはわかってるけど、並んでる扉の近さから見て、ここもひとり用の病室が並んでるところみたいだった。
耳を澄ましても足音は聞こえない。物音もない。完全に見失ってしまったみたいだった。
――本当に、誰だったんだろう……。
女の子の正体のことを考えながら、あたしは栞の病室へと戻っていった。
戻ってきてまず病室内を詳しく見ていく。さっきはざっと見ただけで見逃してることがあるかも知れない。
そう思って調べ始めた直後。
「これは……」
ちょっとしたことでさっきは気がつかなかった。
栞が寝ているベッドの脇にある物入れ兼サイドテーブルの上の花瓶に一輪だけ、花が刺してあった。
なんて名前の花なのかはわからない。でも、この花はあたしが顔を洗いに行く前はなかった。
――さっきの娘は、この花を置いていったの?
なんでそんなことをしたのかはわからない。けれど花を刺していったのはさっきの娘としか思えない。
栞の知り合いだったのかと思いつつ、あたしは栞の顔を覗き見た。
「……本当に? 嘘――。ホントなの!?」
信じられなかった。信じることなんてできなかった。
なにしろついさっきまで苦しそうにしていた栞の息が、安らかになっていたから。
額に手を置いてみても、微熱がある程度で、洗面所に行く前ほどの高い熱はない。表情もまた、穏やかなものになっていた。
――なにが起こったって言うの?
わからなかった。信じられなかった。けれどひとつだけ、信じられる事実があった。
――栞は、峠を越えたんだ!
あたしはすぐさま病室を出て、看護婦さんたちがいる場所に足音を忍ばせるのも忘れて走っていった。
*
そんなことがあってからだった。栞の容態が快方に向かっていったのは。
治るはずがないと言われていた栞の病気が奇跡のように、……いや、奇跡によって治ってしまったのだ。
あのときあたしが顔を洗いに行くまでは栞は苦しみ続けていた。それがあの女の子が病室に花を置いて行ってから栞の体調は回復していったのだ。そんな短時間の間に栞の身体を治すようなことなんてできるはずがない。あのとき、奇跡というべきなにかが起こったんだ。そしてあの娘は、それに関わっていないはずがなかった。
だからあたしは、快方に向かい始めた栞がまだ入院してるときに見舞いに行ったときや、検査のために病院に行くのに付き添ったりしたときを利用して、あのときの女の子をずっと捜し求めてきた。それでも、見つけだすことはできなかった。
そして今回のゴールデンウィーク。あたしはみんなで遊びに行くのの他にはほとんど予定を入れず、どうにかあのときの女の子を捜し出そうと決めていた。本当は明日辺りから始めようと思ったけど、気になることを放っておくなんてできない。だからいま、相沢君たちの誘いを断ってまでここに来ていた。
相沢君たちとずいぶん長く学校に残っていたのが災いして、病院についた頃には日が傾き始めているのがわかった。それでもあたしは出会った看護婦の人たちや先生に何気ない挨拶を返しつつ、いろんな建物の中を回って彼女のことを探し求めていた。
もちろんあたしはあの娘の名前を知らないし、暗くて顔すらはっきり見てない。誰かに聞こうにも「栞に起こった奇跡に関わる娘だから」と説明するわけにもいかない。ただ少ない手がかりは、遠目に見た背格好と声、それから赤いカチューシャだった。
この病院はこの辺りでも一番大きなところだけど、見舞いの人が行ける場所はもう全部行ったと行ってもいいくらいだった。それでも女の子は見つかってなかった。
――あのとき彼女、走っていたんだ。もしかしたら退院直前で、いまじゃもういないのかも……。
考えてみれば入院患者かどうかすらわからない。いまもまだこの病院にいるかどうかもあやふやな女の子を捜すなんて考えると、莫迦らしささえ感じられる。
そんなことを考えつつ、もうすぐ赤く染まり行くだろう空の下、中庭に出たあたしはそこにベンチを見つけた。
「思えばおやつを買ってきてあったんだっけ」
あたしにしては今日はいつになくお腹が空く日で、ホームルームが終わる頃にはなにかつまみたい気分になっていた。相沢君たちと一緒に帰ってればなにか食べることもあったんだろうけど、それを蹴ったあたしは仕方なく、通りがかった露店で少しだけ食べるものを買って持ってきていた。
女の子のことを捜すことばっかり考えててすっかり忘れていたそれを食べようと、あたしは見つけたベンチに腰掛けた。
膝の上に鞄とともに紙袋を置く。前に相沢君に聞いたお店で買ったそれはバスに乗るまでは袋まで熱かったくらいだったけど、もうすっかり冷えてしまったらしい。それでもあたしは袋を開けた。
「へぇ」
思わず少し歓声を上げてしまった。冷たくなってはいたけど、袋を開けるとふわっと甘い匂いが辺りに広がったからだ。
味の方も期待しつつ、さすがに少し固くなってる形のいいたい焼きをひとつ取りだして、あたしはかじりつこうと口元に寄せていった。
ガサリッ。
そんな音が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。
振り返って音のしたベンチの後ろの茂みを見てみる。するとそこには――。
「あっ……。え、えぇっと、その――。お腹が空いちゃって、いい匂いがしたから……」
茂みの中からひょっこり顔を覗かせた女の子。戸惑いと恥じらいの苦笑いを浮かべる彼女の髪には、赤いカチューシャが陽の光に輝いていた。