第二章
* 0 *
それはいつからだったのか、もうあんまり憶えていなかった。
けれどそれを意識した瞬間だけははっきりとわかる。
七年ぶりに祐一に再会したあの日。わたしは自分の中にあるその気持ちを、初めて強く意識した。
彼はずっとずっと、わたしの中で大切な存在だった。七年前に別れたあの日から、彼はわたしの心の中に棲み続けていた。
物心ついたときにはお母さんとふたり暮らしで、友達はけっこういたけど、よく話をする男の子はいなかった。家にはいないお父さんという男の人を知ることもなく、男の子と話すこともなくて、なんでか話しかけるのもためらってて、いつからか怖いと感じるようになっていった。
そんなときだった、祐一が現れたのは。
わたしの知ってる男の子と照らし合わせて考えると、祐一というのはとんでもない男の子と言えた。
口は悪いし、いたずら好きだし、ときにはお母さんにどんなに言われて手も遅くまで家に帰ってこないことがあったりして、怒られたりしてた。……もちろん、祐一は祐一だから、寝て起きると忘れてるんだけど。
話しかけるのが苦手でも、わたしだって男の子っていうのがどんなのかは知っていた。それから判断した祐一は、けっして身近にいて欲しくなるような男の子じゃなかった。
でも、祐一こそが、わたしが一番最初に身近に接した男の子だった。
わたしが部屋に引っ込んでいても、祐一は入ってきて話しかけてきてくれた。嫌がっても、わたしを外に遊びに連れていってくれた。
ふと気がつくとわたしは祐一と一緒に遊ぶようになってて、ほんの少しの時間で彼がするあらゆることが気になるようになって、彼の気持ちを捕らえることができずに訪れた別れは、悲しすぎた。
中学高校と、男の子から声をかけられることはあったけど、わたしの中にはずっと祐一が棲んでいた。
手紙を出しても返してくれず、ほんの何回かした電話でも素っ気ない言葉しかかけてくれなかった祐一。そんな彼だったのに、わたしの中に棲み着いた祐一は、身体の成長とともに大きくなっていたらしい。
彼と再会したとき、はっきりと意識した。
――わたしは祐一のことが好きなんだ。
って。
久しぶりに会った祐一は幼い頃とぜんぜん変わってなかったけど、わたしの中での祐一の存在は、あの頃と違っていた。――恋だった。
でもその想いは伝えられないものなってしまった。
変わってないと思ってたのに、やっぱり祐一は変わっていた。男の子ではなく、成長した男になっていた。
……そうして、栞ちゃんと結ばれた。
両親の引っ越しが先送りになってて、祐一はいまでもわたしと一緒の家に住んでる。朝は同じテーブルで食事して、毎日のように走りながら登校して、夜、寝るときにはおやすみの挨拶をする。
すぐ側にいる祐一。すぐ側にいてしまう祐一。
そんなに近くに彼はいるのに、わたしの思いは伝えることができない。
幸せそうな栞ちゃんの顔をよく見てるから、彼女の想いに答えて微笑んでる祐一のことを見てるから、ふたりの間に割って入ることなんてできない。
わたしが抱いてるのは、忘れないといけない想い。
それでも近すぎる祐一との距離は、想いを忘れさせてくれそうになかった。
ただわたしは、伝えることができない想いを抱きしめつつ、それを持て余しているしかなかった。
[newpage]
* 1 *
「おはよぉ~」
リビングに入って、名雪は大きな伸びをした。
時間はまだお昼少し前。ゴールデンウィークの初日なのだからもっとゆっくり寝ていても大丈夫だったのだが、名雪はいつもの休日より早めに起きるためにいつも通り目覚ましをかけていた。
「おう、名雪。よく起きられたな。だけど、今日は学校ないぞ?」
伸びをしてまだ少し残っていたけだるさがなくなったところで、祐一がいたずらな口調で声をかけてくる。
「あ、祐一。おはよう。祐一こそ、そんなに急いでご飯食べたら喉に詰まらせるよ?」
そう言った名雪に、ちょうどご飯を口の中に詰め込んでいた彼は「むぐっ、むぐぅ~」とわからない言葉で反論する。そして案の定、喉を詰まらせた。
「ほらほら、祐一さん。ご飯はもう少しゆっくり食べて下さいね」
ゆったりと言いながらキッチンから現れた秋子が祐一の前にコーヒーの入ったカップを置いた。
「っぷふぅ~。ったぁく、名雪がちょうどいいタイミングで声をかけるからだ」
「口の中に食べ物が入ってるときに話をしようとする祐一が悪いんでしょ?」
コーヒーで食べ物を飲み下した祐一の言葉に名雪は笑みとともに言葉を返していた。
祐一がいて、秋子がいて、そして自分がいる。昼にはまだ少し遠くて、なににも急かされることのないこの時間、リビングに漂っているゆったりとした空気を名雪は胸一杯に吸い込んでいた。
なんてことのない休日の朝だった。でも名雪はそんな時間が好きだった。
――いまが、ずっと続けばいいな。
そんな叶えられることのない望みを、祐一との楽しい言い合いを続けながら名雪は思っていた。
「でも本当にどうしたの? みんなで出掛けるのは明日でしょ? ゴールデンウィークの初日くらい、ゆっくりしてればいいのに」
時計の針はまだ十時にもなっていない。いつもの休日であればこんなやりとりはあと三十分か一時間くらいあとにやってるものだった。名雪自身がいつもより早く起きたことを棚に起きつつ、不思議に思った彼女はそれを祐一に訊いてみた。
「いや、まぁ、なんつーか、ちょっと出掛ける用事があってな……」
「え?」
なにかをごまかすように頭をかく祐一。一瞬考えてしまったが、名雪はその意味に気がついた。
「そっか。うん、行ってらっしゃい」
「ぉう」
答えて彼は微笑んだ。
「そろそろ時間だな。んじゃ名雪、秋子さん。行ってきます」
カップに残っていたコーヒーを飲み干した祐一は、椅子から立ち上がってふたりに声をかけた。
「――うん」
「あ、祐一さん。遅くなるんですか?」
「あぁ~。遅くなるときは連絡します」
「はい、わかりました。行ってらっしゃい」
ふたりの声を背に受けて、祐一は玄関に向かっていく。すぐにもう一度「行ってきます」と声があって、扉が閉まる音がした。
「名雪、ご飯あるけど、食べる?」
「あ、うん。食べる」
祐一を見送った格好のまま立ち尽くしていた名雪は秋子の声で椅子に座った。そしてひとつ、大きな息をつく。
――祐一は、栞ちゃんとデートか……。
彼が残していったまま片づけられていない食器を見つめながら、名雪はもうひとつ溜め息をついていた。
「どうしたの? 名雪。元気ないわね」
「そ、そんなことないよっ」
食事を手にキッチンから姿を見せた秋子に指摘され、慌てて立ち上がった名雪は彼女の手から自分の分を受け取った。
「ただ少し、眠いだけだよ……」
「本当に?」
優しい表情をしながらも厳しい秋子の追求に、名雪はテーブルに食器を置いて、なにも答えることができなかった。
「せっかくゴールデンウィークで、休みにしては久しぶりに早く起きたんでしょ。どこかに出掛ける用事はないの?」
自分の分の朝食を持ってきて椅子に座った秋子はそう言って微笑んだ。
けれどそれに対して、名雪はうつむく。
「今日は、……もし祐一が暇だったら、一緒に映画でも見に行こうと思ってたんだけど……」
「――、そう」
秋子が自分のことを心配して視線を向けてきてくれてるのはわかっていたが、名雪はいつも通りに元気良く前を見ることはできなかった。
その日、祐一のいない水瀬家の食事は、いつになく静かなものになっていた。
*
昨日思っていた通り、ゴールデンウィークの初日の今日は、青空がまぶしいほどの日和になっていた。それでも少し寒いことのあるこの時期、栞はあたしが上げたお気に入りのストールを持ってくるかどうか悩んだ末、けっきょく肩に掛けてきていた。
「……ちょっと暑かったかな?」
「もうそろそろそれもしまう時期ね」
「うん」
溜め息をつきつつ肩から外して畳み、栞はストールを腕に掛けた。
「気に入ってたんだけど……」
「そう。今度また、なにかプレゼントしてあげるわよ。一緒に、服でも見に行ったときにね」
「うんっ!」
そんな、何気のない姉と妹の会話。果たして栞は、これをどれほど望んでいただろうか? それはいま、夢でも幻でもなく、実現していた。そして今日、相沢君とデートである栞は、まるでスキップでもしているかのような足取りで、あたしと肩を並べて商店街に向かって歩いていた。
――本当に良かった……。
こんな日が来るなんて思ってなかったから。栞がいなくなってしまうものだと諦めていたから。
「どうしたの? お姉ちゃん」
「ん? なんでもないわよ」
考え事で沈黙してしまったあたしの顔を覗き込んできた栞に、笑みを返した。
「それより今日は、どこにいくの?」
「えぇっと、一応、ゲームセンターの予定」
「――この前もそうだったんじゃない?」
「そうだけど……。でも、モグラたたき、ちょっとは上手くなったし、もう少しで祐一さんに勝てそうだし……」
「よく飽きないものね」
「それはもう。……祐一さんと一緒だから、息をつく暇もないくらい楽しいよ」
頬を赤く染めた栞は、嬉しそうに微笑んでいた。
ここ最近の病院での検査で、栞の状態は順調だった。そろそろ運動の方も普通の人と同じにやっていいと言われていた。
本当に嬉しかった。こうして栞と一緒に歩きながらなんの気兼ねもなく話をできることが。ただ普通の会話ができるだけなのに、たまに涙がこみ上げてきそうになるくらいに。
けれどなんでだろう。
あたしの胸の中にある、不思議な違和感が消えていなかった。
――なにかが、足りない気がするのよね。
それと同じ感覚は、栞がまだ元気になる前はよく感じてた。いまだともう、ふとしたときに感じるくらいだったけど、胸の中に穴が空いているような不思議な感覚は、消えることがなかった。
――たぶん栞のことを心配してたときの名残ね。
回復したからと言って、栞はまだなにかあるかわからない身体であることは確かだった。それが心のどこかに引っかかっているのだろう、くらいに思って、あたしはその違和感について考えるのは止めた。
「栞はあっちよね」
「うん」
「あたしはこっちだから。相沢君と仲良くね」
「うん。……お姉ちゃんは、どこに行くの?」
昨日相沢君からの誘いを断ったことといい、今日誰との用事があるのかひと言も話してないことといい、栞はそのことを心配まではいかなくても気にしているらしかった。
そんな彼女の不安を拭い去るために、あたしは笑みを浮かべて「秘密よ」と言った。
納得してなかったようだけど、待ち合わせの時間を気にして手を振りながらゲームセンターに向かう栞のことを見送った後、あたしもバスに乗るために駅前に行く。
駅が見えてくる手前で、あたしはふと立ち止まった。
「今日もやってたのね」
商店街の曲がり角の余裕をつかって営業してる露店を見つけて、あたしはそこに近寄っていった。
もちろんそこで売ってるのは、たい焼き。
「んーっと、どうしようかな……」
こんな時期なのに「新商品」と大きく書かれた張り紙に目が行って迷ってしまう。昨日の粒あんのたい焼きは美味しそうに食べていたけど、果たしてこの新商品はどうだろうか?
「えっと、粒あんのを三つとその新しいのふたつ」
「へいっ」
けっきょくあたしは、ひとつずつと思って新商品のたい焼きを買っていった。
*
「やっぱりたい焼きはここのが一番だよね!」
口の回りに残っていたあんこを嘗め取って、彼女は満面の笑みを浮かべていた。
彼女の名前はあゆ。月宮あゆだった。
栞に起こった奇跡に関係してるはずの彼女に、あたしはついに会うことができた。昨日は看護婦さんに見つかってしまってたいして話すことができなかったけど、翌日の今日、このベンチで会うことを約束して別れた。
そしていま、彼女はあたしの横で昨日のよりかは温かいたい焼きを頬張っていた。
「ボクがここのたい焼き好きだって、なんでわかったの?」
「ちょっと知り合いに聞いたのよ、美味しいってね。まぁ、たまたまね」
「そっか。でも良かったよ。ボク、ここのたい焼きが世界で一番美味しいと思ってるんだっ」
満面の笑みを浮かべて、月宮さんはふたつ目のたい焼きを食べ終えた。
「えぇっと……、その……」
「もうひとつ、食べるでしょ? これってあのお店の新商品なんだって。一緒に食べようと思って、ふたつずつ買ってきたのよ」
「へぇ~。粒あんと白あんとクリームの以外に、どんなのができたんだろ?」
そう言って彼女は差し出した袋から三つ目のたい焼きを手に取った。一個目のたい焼きをやっと食べ終えたあたしも、自分の分を取りだした。
「うっ……。こ、これって……」
「けっこう美味しいわね。へぇー。こういう取り合わせでたい焼きっていうのも、合うのね」
「う、うん。そっ、そうだね……」
なんでかちょっと顔をしかめながら、月宮さんはチョコレートアーモンドたい焼きのふた口目を飲み下した。
月宮さんに出会ってから、まだ時間的に昨日を合わせても何時間も経っていない。でもあたしが一番に彼女に感じるのは、「元気な娘だな」だった。
ここのところの栞も表情がコロコロ変わると思っていたけど、月宮さんは栞に匹敵するか、それ以上と思えるくらいに表情が変わるし、もちろん感情の動きも激しい。
まだ会ってから時間が経っていないからなのか、彼女自身にどこかおかしなところは見られない。それでも彼女は聞いたことを信じるならば、幼い頃からずっと入院し続けてると言う。
――どんな病気なんだろう?
いままで見てきた彼女の様子から見て、怪我やそれの後遺症とは思えなかった。
「それで、ちょっと聞きたいんだけど」
食事もひと段落したところで、あたしは昨日できなかった話を切りだした。
「あっ……、えぇっと――、うん」
ためらう様子の月宮さんに、しかしあたしはしっかりと問う。
「あの日、月宮さんはどうして栞の病室に行ってたの?」
「それは、その……」
口ごもり、うつむいてしまう彼女。
――やっぱり月宮さんは奇跡に関係あるんだ。
そう思っていたのに……。
「びょ、病院の中の、探検をしてたの……」
「え?」
「あっ、ぜ、絶対誰にも言わないでね! 言ったら怒られちゃうから……」
恥ずかしそうにしながら「絶対だよ」と慌てた風で念を押してくる彼女。そんな様子に、嘘をついてる感じはなかった。
「あの日は、ぜんぜん眠れなくって、暇になっちゃって……」
「だから探検?」
「そうだったんだよ」
月宮さんは「えへへ」と照れ隠しのような笑みを浮かべる。
「ボク、本当は恐がりで、暗いとことかぜんっぜんダメなんだけど、よく知ってるところだから大丈夫だろうって思って、探検に出たんだよ。……でも、夜の病院って昼と違ってすんごく怖いんだね。あんなに違うなんて、ボク初めて知ったよ。だから、えぇっと、栞さんの病室から明かりが漏れてるの見えて、少し落ち着かせてもらおうと思って入ったんだよ」
「そうだったの――」
――病室の扉を閉めたつもりだったけど、記憶違いかしら?
あたしが見つめるのに「ん?」と不思議そうな表情を返してくる月宮さんの様子には、やっぱり嘘は見えない。あのときあたしは確かに扉を閉めたつもりだったけど、それはたぶん勘違いだったんだろう。
「えっと、あのね……」
「ん?」
「香里さんに追いかけられたとき、ボク、本当に怖かったんだよっ! ご、ゴメンね。でも、看護婦さんか誰かに見つかっちゃったのかと思って、怖くて、夢中で逃げちゃった……」
「そうだったの。ごめんなさい。栞の病室でなにしてるのか思って、思い切り追いかけちゃったわ」
「勝手に入ったボクも悪かったんだけどね」
そう言い合って、あたしと月宮さんは笑いあった。
――素直な子、なんでしょうね……。
照れ笑いを浮かべてる月宮さんに対して、あたしはそんな感想を抱いていた。
素直で、感情屋の月宮さんがまさか嘘をつけるとは思えない。嘘をついたら、すぐに顔に出てしまうはずだ。
「でもどうして? あのとき花を置いていったのは」
「それは……、あのね」
「うん」
「……あんまり、意味はなかったんだよ」
「え?」
「ボクが――栞さん? の病室にはいったとき、苦しそうにしてたから……。ボク、とくに意味はなかったんだけど、お見舞いかなにかのときに誰かが持ってきてくれた花を、探検の道連れにって一本だけ持ってきてたんだよ。とくに、意味はなかったんだけどね……」
「そうだったの――」
あの花は、後で調べてわかったことだけど、ヤグルマソウの花だった。その花言葉は、「幸福」。
峠を越えた栞のことを見て、あたしは確かに幸せを感じていた。そんなときに月宮さんがヤグルマソウの花を置いていったなんて、偶然と言うにはあんまりだった。
……いや、でもそれは、あのときのことを偶然と、奇跡と考えたくないあたしの想いが入ってしまっている。
奇跡なんて、起こるはずがない。
栞が入退院を繰り返す生活をするようになってから、あたしはずっと奇跡を願ってきた。栞が元気になるように、祈り続けてきた。それなのに奇跡は起こらなくて、栞は次の誕生日まで生きられないと知ったとき、あたしは奇跡は起こらないんだと諦めた。
だから、あたしの中では奇跡は起こらないもの。栞が治ったのには理由がなくちゃいけなかった。そして栞の病気を治してしまうなにかが起こったのあのとき病室に居合わせた月宮さんは、絶対になにかを見てるはずだった。
「月宮さん」
「ん?」
「栞の病室で、なにか見なかった?」
「なにか?」
あたしの問いに、彼女は不思議そうな顔をする。
「あのとき、栞は峠に差し掛かってたの。生きるか死ぬかの、ね。それで月宮さんを追っていって病室に帰ってきたときには、栞は峠を越えていたわ。――なにかが起こったはずなのよ。越えられないはずだった栞の峠を越えさせてしまうような、なにかが……。月宮さんは、なにか見てない?」
「ん~、っと……」
考え込む月宮さん。
――彼女は、絶対なにか見たはず。そうじゃないと……。
それはもう、願いに近かった。
「ボクが見たときは栞さん、苦しがってて、他になにか見たって訊かれても……。うぅ~ん、思いつかないよ」
「そう……」
月宮さんだけが、起きるはずなかった奇跡を見てる可能性がある人だったのに、彼女はなにも見ていなかった。彼女が嘘をついてるようにも見えず、あたしが探していた奇跡の原因を見つけることは、できなくなってしまった。
「奇跡なんて、起こるはずなかったのに……」
ひとりつぶやいて、あたしは唇を噛んだ。
そんなあたしに月宮さんは――。
「そんなことないよ!」
そう大きな声を上げながら立ち上がった。
「奇跡は、起こるよっ。本当に、本当に想ってる願いがあって、奇跡を起こすことができる人にその願いが届いたら、起きるんだよ、奇跡は。起こらないと思ってても、そう信じても起こるのが、奇跡なんだよ。
……この世界はね、夢みたいなものなんだよ。だからなにがあってもぜんっぜん不思議じゃないんだよ。奇跡が起こっても、ちっとも不思議じゃないんだよ……」
あたしの前に立って必死の顔で訴えていた月宮さんは、言い終えた後、憂いとも悲しみとも取れない視線を向けてきた。
――本当の願い? 奇跡を起こすことができる人? この世界が夢? そんな、そんな……。
「そんな都合のいい奇跡があったら溜まらないわよっ!」
思わずあたしは叫んでいた。
両の拳を握りしめ、月宮さんじゃない誰かを睨みつけながら、あたしは叫ぶ。
「心から願ってても、どんなに強く祈ってても、奇跡は起こらなかったわ! 栞は苦しみ続けていたわっ! 奇跡を起こすことができる人? なによ、それ。そんな人がいるなら、もっといろんな人のために奇跡を起こしてよ。願ったそのときに、奇跡を起こしてくれればいいじゃない。……奇跡なんて、奇跡なんて、あたしは信じないわ!!」
強く握りしめた両手が痛くなっていた。噛みしめた奥歯がギリギリと嫌な音を立てていた。栞に起こったのは奇跡としか言いようがないのに、信じることなんてできなかった。
「信じなくても、いいよ」
その声に顔を上げると、涙目になった月宮さんがいた。
「誰も信じなくても、奇跡はあるんだよ。絶対に、絶対に……」
やっぱりあたしには、彼女が嘘をついてるようには思えなかった。
[newpage]
* 2 *
ゴールデンウィーク二日目っていうのは、ある意味最悪の日だったかも知れない。一日目は寝て過ごす人もけっこういるんだろうけど、二日目ともなれば多くの人が家から出てくる。
五人で出掛けた遊園地は、真っ直ぐ歩くのも大変なくらい人であふれていた。
「次、なに乗りますか?」
「ん~、栞はなにがいい?」
そんな中であるというのに、あたしたちの先頭に立って歩く栞と相沢君のふたりは、本当に楽しそうにしていた。
「まったく、あのふたりのデートにつき合ってるわけじゃないってのにな」
「栞ちゃん、遊園地なんて久しぶりなんだろうし、それでもいいんじゃない?」
少し離れてあたしと一緒に歩いてる名雪と北川君は、ふたりの様子を見てそんなことを言い合っていた。
「どうしたの? 香里。元気ないね」
「えっ? あっ、うぅん。そんなことないわよ」
会話にほとんど参加してないあたしに、名雪が声をかけてきた。あまりに突然のことであたしは言葉に詰まってしまう。
「別に元気じゃないなんてことないわよ。それより名雪は、楽しんでるの?」
「もちろんだよ」
応えて名雪は笑みを見せた。
栞や相沢君はもちろんのこと、名雪も北川君も楽しそうに遊園地のアトラクションを回っていた。けれどあたしは、楽しんではいたけど、なんとなくヘンな感じがしていた。
――栞が、こんなに楽しそうにしてるのにね……。
それなのにあたしは、なにかを失っているような、栞が病気であったときと同じような、胸の苦しみを感じ続けていた。
「あっ、あれに乗りましょう」
「いいのか? 栞」
「もう大丈夫ですよ。先生にも大丈夫だって言われてますから」
言って栞は相沢君の手を取り目的の場所に急がせる。あたしたちもまた、それを追っていく。
もう栞は充分に元気だった。そして彼女には相沢君という彼氏がいて、いつも支えてくれている。ひとりで涙を流すことなど、もうない。
不安を感じる必要などなかった。そんなものを感じる理由など、どこにもなかった。それなのにあたしは、心のどこかに栞が病気であったときと同じようなわだかまりが残っているのを、いつも感じている。感じる必要ないと思っていても、その気持ちを拭うことはできなかった。
「どうしたんだ? 香里。今日はちょっと、おかしくないか?」
次のアトラクションに向かう途中、他の人には聞こえないよう小さな声で北川君が話しかけてくる。
「そんなことないわよ」
「そうか? いまのお前はまるで、栞ちゃんが病気だったときみたいな感じだったぜ。栞ちゃんはもう元気なんだぜ? 夢でも幻でもなく、な。それなのにどうした?」
「うん……」
――夢? 幻? それとも、現実?
北川君の言葉を聞いてるうちに、あたしは昨日月宮さんから聞いた言葉を思い出す。
『この世界はね、夢みたいなものなんだよ。だからなにがあってもぜんっぜん不思議じゃないんだよ』
そこの部分だけがあたしの頭の中で繰り返されていく。そしていま見ているものから、現実感を失わせていく。
――夢、なのかもしれない。
そんな考えが浮かんできた。
目に見えてる栞の様子にはもう、病魔の影は見られない。栞は幼い頃、一番最初に倒れる前の元気を取り戻していた。
嬉しいことだった。嬉しいことのはずだった。それなのにあたしの中にある嬉しさには、どこか物足りなさを感じずにはいられなかった。嬉しいと感じてるはずなのに、どこか栞が病気であったときの、彼女を存在を忘れようとしていた想いが消えていなかった。
栞を忘れようとしていたのは、彼女を失ったときにやってくる寂しさに堪えられる自信がなかったから。そのときに涙とともに訪れる辛さを感じたくなかったから。
いまではもう、そんなこと考える必要ないのに、あたしの中ではそれは残り続けてる。
――もしかしたらいま見てるものすべては、夢なのかも知れない。
残り続ける感覚。起こるはずのなかった奇跡。嬉しいはずなのに、どこか現実感のない「いま」。
それがすべて夢だとするなら、現実ではなくて幻であるというならすべて説明がつく。
「あ、ここで締め切りなんですか……」
アトラクションのゲートに並んでやっとあたしたちの番が来たとき、人数の関係で二組に分かれることになってしまった。
「ってぇことは仕方ねぇな。俺と栞、――それから名雪の三人だな」
「え? わたしなの?」
「一緒に行きましょう、名雪さん」
戸惑う名雪の手を引いてゲートをくぐっていく栞。笑みを浮かべてる彼女からあふれる生気。
それが現実だった。あたしが見ているものそれこそが現実であるはずだった。
でもあたしは、それを心から信じることができないでいた。
本当は香里と一緒にジェットコースターに乗りたかった名雪だったが、栞の手を振りきれずにそのまま座席に着くことになってしまった。
そこはちょうど祐一たちの真後ろの席。目のやり場に困って名雪が香里の方に目を向けると、彼女はなにか複雑そうな表情で祐一たちのことを見つめていた。
――まただ。
高校に入って香里と知り合ってからすぐ、彼女の心には暗い影があるのは気づいていた。それはもちろん、栞の病気のこと。けれどもそれはもう祐一や栞自身が言っているように、奇跡のように回復してしまった。それなのに香里はいまもまだ栞が病気であったときと同じ暗い表情をしてることがあるのに、名雪は気づいていた。
――まだ栞ちゃんには、なにかあるのかな?
声をかけても応えてくれそうにない香里から、前の座席に座ってる栞の方に目を向ける。
「ど、どきどきしますね」
「本当に大丈夫か?」
「だっ、大丈夫、ですよ……」
祐一と声を掛け合いながら、不安そうにしながら、けれども嬉しそうに笑んでいる栞。そんな元気な様子に微笑もうと思った名雪だったが、でもなぜか、顔が引きつるばかりで微笑むことができなかった。
ベルトがしっかりと固定され、間もなく動き始めるという放送が流れる。
――あっ……。
それを合図にしたかのように、栞がそっと肘掛けに手を置き、なにも言わずに祐一が自分の手を重ねた。
「――っ」
言葉があふれ出しそうになった。自分の口が勝手に開いて、祐一になのか栞になのか、それともふたりになのか、なにか言おうとしていた。
名雪自身にもわからない言葉はけっきょく出てくることはなく、彼女はそっと、自分の胸を押さえることしかできなかった。
*
「ふぅ、さすがに疲れちゃったかな……」
「栞、大丈夫なの?」
「うん。心配ないよ、お姉ちゃん。前みたいに熱とかないし、本当に手とか足とかが怠いだけだから」
「そう――」
そんなことを言いながらも、栞の歩きはずいぶんと軽い。期待のあまりに緊張していて静かだった朝によりも、彼女の歩調は弾んでいた。
相沢君や名雪や北川君と一緒に過ごした遊園地の一日は、意外に早く終わった気がした。日が傾き始める頃には遊園地を出て、みんなで夕食を食べたりしてるうちに日は落ちてしまっていた。駅の辺りで北川君と別れ、毎朝相沢君と落ち合ってる曲がり角で彼と名雪と別れ、いまは栞とともにすっかり暗くなってしまった家路に着いている。
「でもやっぱり……」
「ん? どうかしたの?」
「えぇっと、疲れたんだけど、あっという間に今日が終わっちゃったみたいで、ちょっと物足りないかな、って思って」
「そうね」
栞のはにかんだ笑みに、あたしもまた笑んでいた。
栞と一緒に遊園地に行ったのはもうどれくらい前だったろう。言葉からも歩きからも、……うぅん、全身から楽しかったのが感じられる栞にとって今日という日は短かったらしい。
「また今度行けるわよ。――今度は、ふたりきりでもね」
「え!?」
冗談混じりで入れた突っ込みで途端に顔を真っ赤に染める栞。弾んでいた足取りもゆっくりになって、片手で熱くなった頬を押さえてる。
「……でも、そうなんだよね」
恥ずかしさが少し収まったのか、栞が口を開く。
「私はもう、遊園地でもどこでも、自由に行けるんだよね」
「もちろんよ」
「うん」
嬉しそうに頷き、栞は晴れ渡り星がちりばめられた空を見上げる。
「私はもう、治ったんだよね。もうお姉ちゃんや名雪さんや北川さんや、……祐一さんと、ずっと一緒にいられるんだよね」
「そうね」
「ホントに、奇跡だよね」
「え?」
突然栞が「奇跡」という言葉を使い始めたために、あたしは小さく驚きの声を上げる。「奇跡なんて……」って言葉が喉元まで出てきたけど、まだ続いてる栞の話を聞くためにとりあえずは黙っていることにした。
「私も、治らないと思ってた。治るなんて思えなかった。ずっと、治るなんてこと考えられないくらいだった。――でも、治ったんだよね。いまはまるで、毎日が夢みたい……。うぅん、夢なのかも知れない」
「どういうこと?」
「うんと、うまく言えないんだけど」
そう断って少し考えてから、栞は言う。
「もしかしたら私が生きてるのは、誰かの夢の中なのかも知れない。私の身体は、その夢を見てる人が、奇跡を起こして治してくれたのかも知れない」
「……」
――夢を見てる人。夢の、主? それはいったい誰なの?
栞の言葉を聞きながら、あたしはぼぉっとそんなことを考えていた。
考えてみるまでもなく、栞の身体が治ったのは都合のいい奇跡だった。相沢君と出会って、おそらく栞の中で一番幸せで、一番辛い時間となったあの一週間。それが終わりを告げた瞬間に、彼女に奇跡が起こった。まるであのときがドラマのクライマックスであるかのようだった。
夢と考えられるなら、その方が自然と言えるくらいあの奇跡は都合が良かった。
『誰も信じなくても、奇跡はあるんだよ。絶対に、絶対に……』
そんな、月宮さんの言葉を思い出す。
もし彼女の言葉を信じるなら、誰かの純粋な想いを誰かが夢の主に伝えて、奇跡は起こったってことになる。純粋な想いを抱いていたのはたぶん相沢君だ。でもあとのふたり、夢の主と相沢君の思いを伝えた人のことが誰なのかは、思いつくことができなかった。
それでもひとつだけわかることがある。
――月宮さんは、栞に起こった奇跡について、なにか知ってる。
長い間入院してるのに、少なくともいままで見てきた中では元気そうで、長く入院してる人が持ってるような暗い影なんてぜんぜん見えなかった。それに彼女は栞に起こった奇跡の現場に居合わせてるはず。本人が嘘を点いてなくても、なにか知ってておかしくないはずだった。
「――お姉ちゃん?」
栞が声をかけてきてたけど、そのときあたしはそれに気づくことができなかった。
――月宮さんのことを、もっと知ってみることにしよう。
あたしの心のなかには、ただそれだけがあった。
*
帰ってくる頃にはお腹を空かしているだろうと、秋子が気を利かせてイチゴの焼きケーキを用意してくれていた。それを食べ終え、少し膨れすぎたお腹を名雪は紅茶を飲みつつ休めていた。
「ふぅ……」
溜め息ばかりが漏れてくる。
今日一日、みんな一緒にいろんなことをしていて楽しかった。楽しかったと感じているのに、漏れてくるのは笑みではなく、溜め息だった。
いま祐一は風呂に入っていて、秋子はキッチンで洗い物をしていた。食器の立てるカチャカチャという音と水音しかしないダイニングで、名雪はもう何度溜め息を漏らしたのか、数えていなかった。
「今日はどうだったの?」
言いながら自分の分の紅茶を手に秋子がキッチンからやってきた。
「え?」
「楽しめたの? 名雪」
「えっと……」
――お母さんは、やっぱり気づいてるのかな?
答えを詰まらせた名雪は、いつもと変わらぬ穏やかな顔をしている秋子の心の内を読み切れなかった。
今日のことは、ケーキを食べている間に祐一がほとんど話してしまっていた。どんなアトラクションを回ったのかも、どんな食事を食べたのかも、誰がどんな失敗をしたのかも、すべて話してしまっていた。名雪はそのときたまに祐一がかけてくる声に相づちを打ってるだけだった。
今日一日のことはもう知ってしまっているはずなのに、ふたり切りになったときにあらためて訊いてくる秋子。その真意を、名雪ははっきりと感じ取ることができなかった。
――気づいちゃってるんだろうな……。
秋子は昔からよく気がつく人だった。名雪の知っているどんな女性よりも気配りができているように思えていたし、名雪にとって秋子は目標にもなっていた。名雪がなにかに悩んでいるときはいつもそっと話しかけてきてくれていた。そうと気づかせないような話で慰めてくれてもいた。
秋子はおそらく自分の祐一への想いに気づいてしまっている。それで自分にいま話しかけてきてくれたんだろうと名雪には思えていた。
でも名雪にははっきりと答えを返すことはできなかった。
ジェットコースターに乗ったとき、そっと繋がれた祐一と栞の手と手。それを思い出す度に、名雪の胸は痛んだ。
あまりに自然なことで驚くこともできなかった。いつも見ているはずの祐一と栞なのに、たったそんなことで、名雪にはいままで以上にふたりの関係の近さを意識してしまっていた。
――わたしは、祐一のことが好き。
想いが消えることはない。消そうとしてるのに、消しきることができない。そのことをたぶん、秋子は気づいてしまっているのだろう。
「うん、楽しかったよ」
そう答えた名雪は、両手で包んだ紅茶のカップに目を落とした。それ以上、真っ直ぐに秋子のことを見ていられなかった。