第三章
* 0 *
ボクは捜し物をしていた。
ずっとずっと長い間あの人が帰ってくるのを待ってて、約束通りあの人はこの街に帰ってきてくれて、ボクは目覚めた。そのときから、ボクは捜し物を始めた。
なんで捜し始めたのかなんて知らなかった。どうして捜さなくちゃいけないのかなんてわからなかった。目覚めたときには捜さなくちゃいけないことだけは知ってて、とっても大切なものだってわかってて、でもボク自身はそれがなんなのか憶えてるはずなのに、思い出せなかった。
それでもボクは捜さなくちゃいけなかった。
捜し物をすることが、ボクがあんな風にしてあそこにいた意味みたいだった。
そしてボクは、捜し物を見つけてしまった。
見つけてみて初めてボクは捜し物がなんなのかわかった。
それは……、奇跡の種だった。
ボクがこうしているのは、見つけだした奇跡の種の苗床になって、奇跡を成就させることだった。そして奇跡を成就させた後、ボクは消えていくはずだった。
それなのに、それなのになんでだろう?
ボクはいまも消えずにいる。
あの人はボクのことを見てくれなかった。ボクがいる意味なんてもうなかった。消えちゃいたかった。ボクの役目は、もう果たしたんだから。
それなのにボクはいまもここにいる。
ボクがいまもいる意味なんてぜんぜんなかった。あの人はもうボクに振り向いてくれることなんてなかった。消えてしまった方がよかった。ひとりでいるのは寂しくて、これ以上いたくなかった。
でも少しだけ、そんな気持ちが変わってきた。
寂しいのは変わらないのに、消えてしまいたいと思ってるのに、その気持ちに、なにか違う気持ちが生まれていた。
ボクはその日、寂しくなかった。
*
「ボクは、片想いのままで終わっちゃったんだよね」
寂しそうな顔をして、月宮さんは小さな息とともに下を向いた。そんな彼女の顔を見つめてるあたしは、彼女になにも言葉をかけてやることができないでいた。
なんでだろう。
晴れ渡った空の下、明るい日差しに包まれた穏やかな中庭のベンチで、なんでか恋愛の、それも失恋の話になっていた。
「ボクってさ、もうすごく長い間病院にいるんだよね。だからほとんど誰もお見舞いに来てくれたりしないし……。あの人のこと、ボク、本当に本当に好きだったんだけど、他に好きな人ができちゃって……。ボク、はっきり言わなかったし、あの人のこと本当に好きだって気づいたの、片想いが終わっちゃった後だったんだよね」
「……」
うつむき、横顔に笑みを――悲しそうな笑みを浮かべながら、月宮さんは語る。
「ひとりぼっちになっちゃったよ、ボク」
うつむいた首だけをあたしに向けて、彼女は「えへへ」と力無く笑っていた。
そんな月宮さんに対してかける言葉が、あたしにはなかった。
慰めて上げたいと思ってる。元気づけて上げたいと思ってる。それなのに言葉は出てこない。本当はなにも言えないわけじゃない。けどあたしに足りてないのは――。
「たまにあの人とよく一緒に遊んでた森に行ったりするんだよ。でも、やっぱり誰もいないんだ。来るわけないよね。だって、あの人にはもう、恋人がいるんだから……。待ってても仕方ないのわかってるんだけど、わかってるつもりなんだけど、気がつくと、そこにいたりするんだよね……」
涙はまだ出てない。でもいま涙があふれさせてしまいそうな月宮さんの様子はわかる。
「――っ」
なにか、言おうと思った。でも言えなかった。言葉はあるのに、口に出すことができなかった。
――なんなの? この感覚は。
胸の奥が痛かった。月宮さんの話を聞いてるうちにあの胸に穴が空いてるような、奇妙な痛みが襲ってきた。その痛みがあたしの気持ちの邪魔をして、月宮さんを励まして上げようと思っても、同情になってしまいそうな言葉しか出てきそうになかった。
元気づけて上げたいと本気で思ってる。けどこういうときに同情して上げても、なんにもならない。彼女の言葉を受け止めて、あたし自身の言葉をかけて上げなくちゃいけない。でも胸の痛みによって、あたしはそれだけの力のある言葉を言うことができないでいた。
「えぇっとさ」
「ん?」
あたしが言葉をためらっている間に、少し気持ちが落ち着いたらしい月宮さんが顔を上げる。
「香里さんには、好きな人とか、恋人とかいないの?」
「あたし?」
「そう、香里さん」
まだ少し悲しげな顔をしながらも、驚くあたしの顔を見て笑ってる月宮さん。「んー」とうなり声を上げてあたしは考え込んでしまった。
――好き、とは言えないわね。
この前告白されたことを思い出すけど、でもそのときの彼を好きだと感じることはなかった。
「いない、わね。恋人はもちろんだけど、気にしてる人もね」
「なんで?」
「なんでって訊かれても……」
答えようがなかった。いないものは、いないから。
いつも誰かのことを好きでいることが当たり前なんて、違うと思う。好きな人がいないならつき合おう、なんて言われたこともあるけど、それも違う気がした。
――じゃあなにが本当なの?
わからなかった。わからないから、あたしはそれを問うてみた。
「なんで、人を好きになるの?」
「どういうこと?」
問い返されてあたしは少し考え込む。
「好きな人がいないって言ったら、なんでって言ったわよね」
「うん」
「それじゃあまるで、いつも誰か好きな人がいるのが当たり前みたいじゃない。それが普通だなんて、あたしには思えないわ」
「うぅ~ん」
今度は月宮さんが首を傾げながら考え込んでしまった。
「……みんな、寂しがり屋なんだよ」
「寂しがり屋?」
「うん」
ベンチから立ち上がった月宮さんは、広い青空を仰ぐ。
この場所は静かだった。けっこう広い場所ではあるんだけど、もうひとつ広い庭があるからなのか、いい天気の昼間なのにここにはあたしと月宮さんしかいなくて、とても静かな場所だった。
そんな場所で空を見つめて一歩二歩とベンチから離れていった月宮さんは、顔を下ろしてあたしの目を真っ直ぐに見つめる。
「どんなに強そうに見える人でも、ほんの少しかも知れないけど、寂しさを抱えてるんだよ。その寂しさを見せられるのは、お父さんとかお母さんとか、身近すぎる人だと近すぎて話しにくいし、友達じゃ遠すぎるんだよ。だから恋人っていう、自分のことを知らないで、でもわかってくれる人を求めてるんだよ」
「……」
「それにね、素敵なことだからだよ」
「素敵なこと?」
「うん」
頬を少し赤く染めて、言葉を続ける彼女。
「誰かを好きになるとすっごく不安になるんだよね。泣きたくなったりいらいらしたり……。でも、でもね、誰かを好きでいるときって、胸がいっぱいになってるときなんだよ。いつもいつもその人のこと考えてて、辛くても不安でも、嬉しかったりするんだよね。誰かを想ってるってだけで、寂しさが消えちゃうんだよね」
言い終えて月宮さんは、恥ずかしそうに微笑んでいた。
そんな彼女に対して、あたしはどう反応していいのかわからなかった。彼女の言ってることの意味がよく理解できなかった。
栞がいなくなることに寂しさや悲しみを感じることはあった。でもそれを誰かに埋めてもらおうと思ったことはなかったし、誰かに側にいて欲しいと思ったことはなかった。そんなことする必要があるなんて感じなかったし、そんなことをする理由もなかった。
寂しいとき、悲しいとき、辛いとき、あたしはいつも――。
「悲しみも寂しさも、忘れてしまえばいいのよ。そうすれば辛くないわ」
栞のときもあたしはそうしていた。
栞がいなくなってしまうことが寂しくて、悲しくて、その辛さに堪えるられそうになくって、あたしは栞のことを忘れることにした。どんなに身近にいても、毎日家の中で顔を合わしてしまっているとしても、いつも彼女がいないように振る舞っていれば、本当にいなくなってしまった後も涙を流さずにいられるはずだった。
そう、そのはずだと思っていた。
「そんなこと、できないよ」
月宮さんが言う。
「忘れるなんてこと、できないんだよ。だって忘れたつもりでも、心はずっと憶えてるんだから。そのときだけ辛くなくても、本当に忘れるなんてことできないから、いつか泣くんだよ。辛いのが全部、後になって涙になってあふれてきちゃうんだよ」
胸の前で握った片方の手にもう片方の手を重ねて、まるで祈ってるかのような月宮さんが、あたしに潤んだ目を向けてきていた。
「辛いとき泣くのは、普通のことだよ。涙を堪えてても、いつか後で泣くことになるよ。忘れたつもりでも忘れきれないから、いつか泣くんだよ……。もし涙を受け止めてくれる人がいたら、そのときどんなに辛くても、泣きやんだらまた笑えるようになるんだよ」
涙目になった月宮さんに言われて、あたしは考えていた。
あたしには、自分の涙を受け止めて欲しいと思うような人がいなかった。それどころか、家族以外に好きと言えるような人が、過去を考えても思いつかなかった。
――なんで、いないんだろう?
そのときになって初めて、あたしはそれを疑問に思った。
涙を流したことは何度かあった。悲しくて、寂しくて、誰かにいて欲しいと思っていたことはあった。けれどもどんなに辛くても、誰かにいて欲しいと思っても、実際に求めたりしたことはなかった。
求めるのが当たり前だとは思わない。けれど月宮さんの言葉の通りだとも感じてる。
――あたしはなんで、人を好きになったことがないんだろう?
まったくないなんて、それはそれで、ヘンな気がした。
「香里さんは、なにかを見失ってるんだよ」
そう言った月宮さんはひと粒、涙を流した。
――見失ってる。
そう、あたしは確かになにかを見失っていた。
胸の奥に穴が空いてる感覚がする。そこにはなにかがはまっていたはずなのに、あたしにはそれがなんなのかわからなかった。
――なにを見失ってしまったんだろう……。
あたしにはそれが強く気になっていた。
[newpage]
* 1 *
握った拳で胸の上を押さえる。
今日、月宮さんと話していてはっきり意識した胸の穴の感覚は、家に帰ってからも消えることはなかった。
ただ意味もなく机の前に座って、意味もなくデスクランプをつけて、あたしは半分ぼぉっとしていた。
胸の感覚が気になってなにもする気が起きない。胸を強く押したり弱く押したりしながら、たまに月宮さんの言葉を思い出しては溜め息ばかり漏らしていた。
――あたしは、なにを見失っちゃったんだろう。
家族以外の人間を好きになれなくなってしまったあたし。うぅん、家族への好きというのも、いま考えると違うような気がする。
「わからない。全部、全部わからない」
誰かを好きになるのが当たり前だとは思わない。でも、誰も好きになったことがないし、誰かを好きになれそうな気もしない。だからと言って、あたしは、でも……。
――わからないっ!
奥歯を強く噛みしめて机に突っ伏す。
わからなかった。好きということが。本当はわかってるはずなのに、それがどういうことなのか思い出すことができなかった。なにかが喉元まであふれてくる感覚があるのに、それがなんなのか理解することができなかった。
「お姉ちゃんお姉ちゃん、ちょっといい?」
そんなことをしてるとき、部屋の扉がノックされて栞の声がかかった。
姿勢を正して軽く深呼吸し、「いいわよ」と声をかける。扉を開けて入ってきた彼女の手には、一枚の葉書があった。
「これ、これ。見てっ」
そう言って彼女が差し出した葉書には、知ってる親戚の名字と、あたしの記憶にない名前が書いてあった。絵はがきになっていて、裏側にはどうやら大学の入学式らしい写真がプリンタかなにかで簡単に印刷してあって、表の下の部分に、あたしと栞、それからあたしたちの親に大学入学を告げる言葉と、そして栞が全快したことに対する喜びが書かれていた。それに加えて、ゴールデンウィークの最後の辺りに家に来るということがあった。
「来るんだって、あの人が! ホントに久しぶりだよね!!」
葉書に書かれた内容と、栞のはしゃぎようからして、それを出した人はあたしも知ってる人らしい。でも、いくら思い出そうと記憶を探っても、葉書に書かれた名前が誰なのかわからなかった。
「……栞。この人、誰?」
「え!?」
「なんかちょっと、思い出せないの」
栞はすごく驚いた様子だったけど、思い出せないのは仕方がない。
目をつむり少しの間考えて、気のせいかなにかに納得したかのようにわずかに頷いた後、目を開けた栞は話し始めた。
「この人は、私とお姉ちゃんの従兄だよ。私が小学校に少し前のときだから、もう十年くらい前に家の都合で引っ越しちゃって、それからぜんぜん会ってなかったけど。幼稚園の頃は『お兄ちゃん、お兄ちゃん』って、本当のお兄ちゃんみたいに私もお姉ちゃんも、一緒に遊んでもらってたんだよ」
「……」
栞の話を聞きながら、自分の記憶を掘り出してみる。幼稚園くらいの頃に誰かに遊んでもらったような気はするけど、それが誰だったのかまでは思い出せない。
「この人が引っ越していくとき、お姉ちゃんは自分の部屋に籠もって泣いてたの、憶えてない? いつもふたり一緒に遊んでもらってたのに、お姉ちゃんは彼のこと、独り占めにしてたくらいなのに……」
栞が小学校に入るくらいのときなら、あたしが小学校二年になるかならないかのときのことだ。その頃のことをよく思い出してみようとするのに、やっぱり思い出すことができなかった。小学二年生に上がる辺りの記憶そのものが、あたしの頭の中で曖昧になっていた。
でもなぜか、胸の痛みがひどくなる。
憶えてるのかも知れない。でも、思い出せない。思いだそうと考えれば考えるほど、胸に空いた穴が痛みを発してる。それはあまりにひどくなって、あたしは栞の前だというのに服の胸元をつかんで痛みに堪えなくちゃいけないくらいだった。
――どうして思い出せないの?
まさかそこまではっきり憶えてて、葉書まで来てるのに、栞が嘘をついてることなんてあり得ない。だとしたらあたしも栞と一緒に遊んだ記憶がなくちゃいけない。それなのに、そこら辺がすっぽり抜け落ちていて、どうすることもできなかった。
――あたしは、忘れてしまったの?
まるでドラマかなにかに出てくる都合のいい記憶喪失のようだった。特定の記憶だけが思い出せなくて、それを思いだそうとするとあたしの胸は激しく痛みを発する。
――どうしてあたしは忘れてしまったんだろう……。
栞がいるのも忘れて、あたしは忘れてしまった思い出に言葉もなく呆然としていた。
苦しそうな香里の表情を見ていた栞は、その場に居づらくなって、静かに部屋を出た。自分の部屋に戻って、少し回りを見、彼女はベッドに寝っ転がる。
――なんで、憶えてないんだろう……。
幼稚園の頃、従兄とは本当にいっぱい遊んでもらっていた。少し年上で、栞も香里も兄のように慕って、なにかあればその人について回ってるような感じだった。それどころか引っ越しの話が出てくる少し前には、香里と従兄の間には、幼いながらも親類以上の関係が生まれつつあるようであるのを、薄々ながら栞は気づいていた。
しかしそんな雰囲気が出てきた直後、従兄は家の事情で引っ越しが決まってしまった。突然決まったその事実を知り、香里は激しく泣いた。しっかり者として映っていた香里がそんな激しい感情を見せたのは、栞の知る限り後にも先にもそのときだけだった。
手に持っていた葉書をかざして、大学の校門で撮ったらしい写真を眺める。
十年も会っていないのだからずいぶん変わっていたけれど、その面影は一緒に遊んでくれていた頃の記憶と変わっていなかった。
――なんで、憶えていないんだろう。
もう一度、栞は同じことを思う。
忘れるはずがない人だったのに、忘れられる人でないはずだったのに、香里は本当に忘れてしまっているようだった。しかし栞は、そういうことが起こるだろう予想を、前々からしていた。
従兄が引っ越していってしまったその日も、香里は自室に引きこもって泣いているようだった。食事も摂らず、一晩中ひとりでいて翌日、香里はけろりとした顔でリビングに現れた。まるで、何事もなかったかのように。
そのときそんな変化を見せた香里に対してどうしたのかと栞は問うた。けれど彼女は逆になにかあったのかと問い返してきた。それ以来、従兄のことは気まずい雰囲気が生まれてしまって言い出せず、香里がどうしたのかを問わずにときが経ってしまっていた。
そして今日だった。
香里の心の中でなにが起こったのか、栞には推測することすらできなかった。とにかく香里は、あんなに仲が良かった従兄のことを全部忘れてしまっていることだけは確かだった。
「ふぅ」
香里のことを心配しながらも溜め息をつき、起きあがった栞は葉書をレターボックスの中にしまった。
今日はもうとくにやることもなく、風呂にも入ってしまった後だったので、後は寝る以外にすることはなかった。
けれど香里のことを考えると、なにかがしたいと思う。
「あっ……」
なにができるかと思って部屋の中を見回してみると、机の上に真新しい携帯電話が置いてあるのが目に入った。
それを買ってからまだたいして時間が経ってなく、買ったことをあまり教えていないため、そこに登録されてる番号はあまり多くなかった。
――なにかすることになるのかな?
栞は携帯電話を手に取り考えていた。
香里の様子がおかしいことは、身近にいるのだからよくわかっていた。それでもどしたのかということを問うことはできなかった。あまりに身近に接しているために、あんまり深いところでの関わり合いをしようにも、近すぎる距離があらためてそういったことを問うことをためらわせた。
――少しでも、お姉ちゃんのためになにかして上げたい。
決心した栞は、登録してある番号のひとつをコールした。
*
「名雪、今日の夕食はなにがいい?」
「えぇっと……、お母さんに任せるよ」
「あら、そう」
「うん……」
「今日の帰りは遅くなるの?」
「え……。夜は家で食べるつもりだから……」
「それじゃあもし遅くなるんだったら電話をしてね」
「うん……」
どうやら今日も、祐一は午後から栞に会うらしい。
ゴールデンウィークももう四日目。その日出掛ける予定があった名雪は、ちょうど買い物に出るという秋子とともに商店街に向かっていた。
秋子がいろいろと話しかけてきていたが、出掛けしな起きてきた祐一の様子から彼の今日の予定に感づいた名雪は、目線を伏せながら訊かれたことに答えることしかできないでいた。
――わたし、ダメだよ……。
忘れなければならないのに、祐一と栞のことを思うと気分が暗くなっていくのを止めることができない。意識しないようにしてるつもりなのに、最近祐一の様子から栞とのことがよく見えるようになっていた。
そんな様子の自分を秋子が心配してくれているのは知っていたが、元気な様子を見せることなど、いまの名雪にはとうてい無理な注文だった。できる限りいつも通りにしようと思ってもできず、訊かれたことに答えて、時折泣きそうになってしまう顔をうつむいて隠し、それでいまをつくろうことしかできなかった。
「今日は少し雲があるわね。でも、ここのところ暑いくらいだったから、ちょうどいいかしら」
空を見上げながら誰に言うでもないような秋子の言葉を聞き、名雪もまた空を見た。
ゴールデンウィークに入ってから晴れ続けていた空が、今日に限って白い雲が多く出ていた。天気予報で雨が振るような予想は出ていなかったし、いまの名雪の気持ちに似合わないほどの強い日差しが辺りに降り注いでいた。
――今日もけっこう、いい天気だよね。
日差しを直接顔に受けて、名雪はそんなことを思っていた。
「さて、それじゃあわたしは行ってくるわね」
商店街の中のスーパーに差し掛かったところで、秋子は立ち止まりそう言った。
「楽しんでらっしゃい。ね?」
「うん……」
――わたしの、できる限りをしよう。
「あの――、お母さん」
「ん? どうしたの?」
スーパーの中に入っていこうとしていた秋子を呼び止めた。
「今日の夜ご飯は、クリームシチューがいいな。長い時間煮込んで、ジャガイモとかニンジンが溶けかけてるくらいの」
「そう、わかったわ。腕に寄りをかけてつくるわね」
満足そうな笑みを残して、秋子はスーパーの中に姿を消していった。その後も名雪はしばらくその場に立ち尽くして、歩き出すことができなかった。
「お母さん、ごめんなさい……」
いまにも出てきそうな涙を、名雪は空を仰いで堪えていた。
*
過ごしやすい気温になったからなのか、ブティックなんかが並んでるこの通りにはかき分けないといけないくらいの人手があった。
とにかく前に進んで行って、ふと振り返ると、すぐ側にいるはずの名雪の姿がないのに気がつく。
「名雪?」
黒々とうち寄せる頭の間に目を凝らすと、もがくことすらできないのか、人の波に流されていく名雪の姿が見えた。
「名雪!」
仕方なく来た道を少し戻って名雪の手を取り自分のもとに引き寄せた。
「あ、香里」
いままでボォッとでもしていたのか、あたしに手をつかまれてそんな言葉を発する彼女。
「まったく、なにやってるの?」
「えと……、ゴメン」
いつも通りの軽い口調で言ったつもりだったけど、名雪は本当にすまなそうに謝ってきた。
――まぁそれも仕方ない、かな?
今日これで名雪のことを見失ったのは何度目だったろう。まぁそれも学食の列にまともに並べたことのないくらい要領の悪い彼女だから、仕方ないような気がした。
――それよりヘンなのは、あたしよね……。
いつも名雪の様子を見てあきれてるあたしだけど、今日はそれすらできてない。当たり前のようにやっている名雪の行動への注意が、まったく払えないでいた。
どうやらあたしはなにかを考えてるらしい。それはたぶん失ってしまった胸の穴に当てはまるものなんだろうけど、意識して考えてないから注意力ばっかりが足りなくなる。結果、いまみたいに名雪を見失うようなことを連発していた。
「あ、名雪。あそこなんてどう?」
「……そうだね。うん、行こう」
名雪の答えに、あたしは彼女の手をつかんだまま人の間を縫って目的のお店を目指す。
あたしはあたしで考え事をしていて、名雪は名雪で今日はどうしたのか元気がなくて、せっかく彼女とふたりで服を見に遠出したっていうのに、ぜんぜん服なんて見てなくて、人混みの街をひたすら歩き通しのような状態だった。
そうしてけっきょく、あたしと名雪は手提げ袋でふたつずつの買い物をして、その日は暗くなってきてしまった。お金がなかったわけじゃないし、これから来る夏用に服を揃えておこうと思っていたのに、いつもなら両手いっぱいで持ちきれないほどになるはずが、そんなくらいにしかならなかった。
――もう少ししっかりしてないと。
もういつも使ってる商店街を抜けて、毎朝通ってる通学路の道に出ていた。一日中晴れ渡ることがなかった今日、夕焼け空には色つきの綿菓子みたいな雲がいくつも浮かんでいた。
――今日は名雪、どうしたんだろう?
ここに来てやっと、あたしは気持ちに余裕が出てきた。
一日中考え事ばかりしていて、でもやっぱり答えは出てこなくて、そろそろ帰る時間だと思ったときに出た溜め息とともに少しいつもの自分を取り戻していた。
今日、あたしは確かにおかしかった。けれどおかしかったのはあたしだけじゃない。元気だけが取り柄みたいな名雪が、今日はぜんぜん元気がなかった。
そのことに気がついたいま、あたしは彼女に注意を向けられるようになっていた。
「名雪?」
ともすると遅れそうになる名雪に目を向けると、彼女はなぜか涙目になっていた。
「香里。わたし、わたし……」
「どうしたの? 名雪」
ちょうどそのとき、人通りはなくなっていた。おかしな様子の名雪に、あたしはどうしようかと少し考えて手提げ袋を塀沿いの道路に立てかけて、一歩彼女に近づく。
「なにかあっ――」
あたしが言葉を最後まで言い終えるよりも前に、名雪が胸の中に飛び込んできた。
飛びつかれた勢いで押されたあたしは、塀に背中をつけて名雪の身体を抱き留める格好になっていた。
「わたし……、わたし……。祐一のことが、好きなの」
肩を震わせながらの告白。すがってくる彼女の手から手提げ袋が落ちていって、ぱさりと音を立てた。
「忘れられないよ、祐一のこと。本当に本当に好きなんだよ。でも、どうすることもできないよ。祐一にはもう、栞ちゃんがいるんだもん……」
――名雪は今日、ずっとそのことを考えてたんだ。
やっと、名雪の元気の無さの原因が理解できた。自分ことばっかり考えてたあたしは、一日中彼女の様子に気を配ってやることができなかった。
あたしの胸に顔を埋めて肩を震わせてる名雪に両腕を回す。
「わかってるんだよ。いまのわたしの気持ちは忘れないといけないのは。でも祐一は近すぎるんだよ。いつもいつも、わたしと祐一は近くにいすぎちゃうんだよ。言いたくても言えないし、言うわけにはいかないのわかってるのに、でも、忘れられないんだよ」
顔を上げた名雪の目からは涙が流れ出していた。止まることなく流れ出していくそれは、頬からこぼれて名雪の手に落ち、そこから伝ってあたしの服を濡らしていた。
「――なんで、なんで奇跡は起こっちゃったんだろう。……奇跡が起きなければ、わたしは祐一の胸に飛び込めていけたのかも知れないのに。奇跡が起きなければいまみたいな気持ちにならなかったのかも知れないのに……」
しゃくり上げながらそう言い始めた彼女は、またあたしの胸に顔を埋めた。
「ゴメン、香里。わたし、ヘンだよ。ヘンなこと言ってるよ。栞ちゃんは香里にとっても祐一にとっても大切な人なのわかってるのに、でもわたし、そう思っちゃうことがあるんだよ。ホントに、本当にゴメン、香里――。それでもやっぱり、祐一のこと忘れられないよ……」
いつまでも肩を震わせ続ける名雪。彼女はその後、ずっとあたしへの謝罪の言葉と、祐一への想いを繰り返していた。
――なんで、こんなに人を好きになれるんだろう。
名雪のことを抱きしめるあたしの中に浮かんできたのは、なによりもそんな思いだった。
相沢君といて幸せだと言う栞。
彼のことを忘れられない名雪。
あたしには、そんなふたりの想いが理解できなかった。
告白されたときもそうだった。
この前のときも、それ以前のときでも、あたしは告白してきた男の子たちの言う言葉の意味が理解でなかった。心が動かなかった。言われたことに対してなにも感じなかった。
名雪や栞を心配する気持ちはある。でも彼女たちの気持ちを感じ取ることができない。好きという気持ちが、誰かに抱きしめられたいという想いが、自分を誰かに預けたいという望みが、あたしの中に生まれることはなかった。
――あたしの心は凍りついてしまったの?
そう思えるほど、あたしの心が外に向かって揺れることはなかった。揺れる心は自分の中だけで収めて、収めきれないのであれば忘れてしまう。それが当たり前になりすぎていた。人を好きになるということを忘れてしまっていた。
――あたしが見失ったのは、それだったんだ……。
名雪を抱く胸が、痛かった。
[newpage]
* 2 *
「栞や名雪のことは、好きよ。でもそれはなにか違うの」
「うん」
今日もまた、あたしは病院に来ていた。
病院に着いて真っ直ぐに中庭のベンチに向かうと、いつも通り月宮さんが待っていた。やっぱり手土産に持ってきていたたい焼きをふたりで食べ終えた後、いつもと違って、今日はあたしの方から話を始めていた。
「どうして人を好きになるのか、わからないの。寂しいって感じる。辛くて堪らないときもある。でも、誰かにその気持ちを預けたいとか、そういうことは思えないの」
「うん……」
ふと見た空が、青かった。
昨日と違って雲ひとつなくて、どこまでも青い空が広がっていた。
見上げているうちに、あたしの胸に痛みが走る。
「あたしが泣くときは、なにかを失うとき。栞を失うんだと知ったとき、あたしは泣いた。でもそんなときくらい。それに誰かに涙を受け止めてもらおうなんてことは考えられない。大丈夫だから、いつも。少し涙を流して、そしたら大丈夫になるから」
何度か思い出す泣いたときはいつもそうだった。誰にもすがることなく、隠れてひとりで泣いて、泣き終わった後にはもう大丈夫になっていた。憶えてないけど、たぶん従兄が引っ越していってしまったときも、そうだったんだと思う。
「あたしはもしかしたら、強いのかも知れないわね」
「それは違うよっ」
そのとき初めて、いままであたしの話を聞くだけだった月宮さんが反論の言葉を口にした。
「強いことは、弱いことでもあるんだよ。強いだけの人なんていないんだよ。感じられなくても、心の中に溜まってく想いがいつか吹き出して、いま香里さんが思ってる強さは、もろさに変わるよっ」
そんな月宮さんの言葉に、あたしは聞き入っていた。
反論の言葉もない。彼女の言葉は、自分でも感じることができることだったから。
隣りに座る月宮さんもまた、あたしと同じように空を仰ぐ。
「強さっていうのがどんなのかはわからないけど、でも、香里さんが言ってるのとは違うよ。涙を堪えられる強さなんて、強さじゃないよ」
「でもあたしはなにかを見失ってるわ。それがなんなのかはっきりはわからなくて、だから、ひとりでいることしかできないの」
「香里さんが見失ってるのは、たぶん本当の自分、だよ」
言って月宮さんは目を閉じる。深呼吸をして、それから、彼女は歌い始めた。
「エリカの花が散る頃に
厚い根雪も消えるだろう
エリカの花が散る頃に
小川の氷も溶けだして、清い流れをつくるだろう
エリカの花が散った後
春の気配に胸躍る」
短いのに、でもなぜか、どこからか湧いてくるものがあるような気のする詩だった。ともするとあたしの胸の穴を埋めてくれるような、そんな感じがした。
「その歌は、ボクが好きな歌なんだ。エリカの花言葉は、『孤独』なんだって。だからボクの中のエリカの花も、散って欲しいなって思って、歌うんだよ」
月宮さんの方を見ると彼女と目が合った。そして彼女は、あたしの顔を見て力無く微笑んだ。
「でも……」
「ん?」
「でもあたしは、すべて忘れてしまうの。悲しみも、辛さも、寂しさも、孤独であったことも、すべて忘れてしまうの。それが当たり前で、普通すぎて、もう自分では、どうすることもできないの……。どうしたらいいんだろう、あたし。どうしたら本当の自分を見つけられるんだろう……」
うつむいたあたしは、もう月宮さんに話しかけていなかった。ただ自分にだけ、その言葉を向けていた。
「……」
「……」
ふたりとも言葉もなく、どれくらい時間が過ぎたろう。
「あっ、えっと、んと――」
「どうしたの?」
見ると月宮さんが慌てた様子で立ち上がっていた。
「えぇっと、あのね、あの……。もうすぐ、看護婦さんがボクの部屋を見回りにくる時間のはずなんだ」
「病室に戻る?」
「う、うん。ゴメンね、香里さん。それじゃ」
「あっ……」
あたしが言葉を返す暇もなく、月宮さんは走って行ってしまった。
――そう思えば。
あたしは月宮さんの病室を知らなかった。どんな病気なのかも聞いてないし、いつもここのベンチに来ると、彼女が待ってて、それで会えていた。
「それで充分と言えば充分なんだけどね」
つぶやきを漏らして、あたしも家に帰るために立ち上がった。
もうそろそろ陽が傾き始めたロータリーを回って、香里はなにか考えているのか少しうつむきながらバス停に向かっていた。
そんな様子を、彼女はずっと見つめていた。
正面の門を曲がって香里の姿が消えて、しばらくするとバスがやってきた。おそらく香里を乗せていったのだろう、バスは走り去っていった。
「……」
その間もずっと、彼女はその様子を眺め続けていた。
そしてバスが彼女の視界から消えた瞬間、視界が変わった。
そこは病室。奥手に窓があって、その近くにベッドがあって、ベッドには寝ている人の姿があった。
「あまりに長すぎた……」
「それではそろそろ?」
「おそらく」
ベッドの脇に立つ医者と看護婦がそんな言葉を交わしている。それでもベッドに横たわる人物は、目を開けながらも無反応だった。
やつれきったその人物は、女の子。彼女のベッドの脇のテーブルにはもう時期ではないダッフルコートとミトン、小振りの羽がついたリュックに、少し古びた感じのある赤いカチューシャが置かれていた。
「あとどれくらいなんですか?」
「わからない。しかし身体は衰弱しきってる。このまま正常な意識が回復しなければ、すぐにでも容態が急変しておかしくはない……」
ベッドで横たわるあゆに、もうひとりのあゆが近づいていく。やつれたあゆとそんな様子のないあゆのふたりがいるのに、医者も看護婦も、それに気づく様子はなかった。
「ゴメンね」
ベッドに眠るあゆの顔を見つめながら、もうひとりのあゆがつぶやく。
――ボクのエリカの花は、散らないまま枯れちゃうみたいだよ。香里さん……。