エリカの花が散る頃に   作:きゃら める

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第四章

第四章

 

          * 0 *

 

 辛いことも、悲しいことも、すべて忘れることでやり過ごしてきた。

 忘れてしまえば、どんなに堪えがたいことでも、感じることができなくなるから、やり過ごすことができていた。

 栞の病気が治らないと聞いたときも、彼女の存在を忘れることで堪えられそうにない気持ちをやり過ごそうとしてきた。それはたぶん記憶にない従兄のときもそうだったんだろう。

 忘れてやり過ごそうとするのは、自分の心が壊れてしまいそうで怖いから。自分の心が壊れてしまった後、どうなるのか見たくなかったから。

 だから強いなんて、嘘だった。

 忘れて涙を流さないのなんて強さじゃなくて、自分の弱さを隠すための手段に過ぎなかった。そのときだけ辛さをやり過ごして、忘れてしまうことによって二度と感じないようにして、そうしてずっと涙を流すのを遠回しにしてるだけだった。

 もしかしたら、思い出してしまってそのとき以上の辛さを感じるかもしれないかもしれないのに……。

 あたしはそんな自分に気がついた。

 そうして、忘れてしまうことがそのとき涙を流す以上の苦しみをもたらすという事実を知るのは、もう少し後のことだった。

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          * 1 *

 

 食事を終えたダイニングには穏やかな雰囲気が流れていた。みんなでお茶を飲みながら、和やかに話をしていた。

「へぇ~。そこって確か、あの辺りでは一流じゃなかったでしたっけ?」

「一流なのかな? でもまぁ、けっこうレベルの高いところだったね」

「そこを受かったなんて、やっぱりすごいですよ」

 ゴールデンウィークの最終日、葉書に書いてあった通り家に従兄が訊ねてきていた。夕方近くで、お父さんは忙しくて家にいなかったから、お母さんと栞とあたしと従兄の四人で食事をして、そのままお茶を淹れてみんなで談話の時間になっていた。

「でも今日は本当にすみません。遅い時間に来てしまって……」

「うぅん、来てくれただけで嬉しいよ。本当に久しぶりだったもん」

「なんだけど、本当はもっと早くに来るつもりだったんだよ。昔の知り合いとかと会ってたら遅くなっちゃって。元気になった栞ちゃんや、香里に早く会いたかったんだけどね」

「えへへっ」

 いつにも増してはしゃいでる栞に対して、あたしはたまに振られた言葉に対して相づちを打つくらいのものだった。

 お母さんも栞も、成長した彼でも面影はそのままだと言っていた。それなのにあたしは、彼のことを直接見ても思い出すものがなかった。いろいろ話していても思い出なんて出てこなかった。本当に忘れてしまっていた。

「えぇっと……」

「――どうしたの? 栞」

 ほとんど押し黙った状態のあたしに対してちらちらと栞が心配の目を向けているのは知っていた。従兄からも注意を向けられてるのはわかっていた。でもあたしには、どうすることもできなかった。

「栞、電話よ。祐一さんから」

 相沢君のことはもうよく知ってるお母さんの弾んだ声に呼び出され、危なっかしげなほど飛び上がった足取りで栞は電話に出ていってしまった。それによってけっこう長い間楽しいようで、あたしひとりだけ取り残されていた感じの時間は終わりを告げた。お母さんも片づけなんかで席を立って、従兄とふたりきりになってしまった。

「栞ちゃんには彼氏、いるんだ?」

「そうね。相沢君は栞の命の恩人みたいなものよ」

「へぇー。じゃあ、香里には?」

「……いないわね」

 そんな微妙なやりとりに息苦しさを感じ始めた頃、栞が帰ってきた。

「ゴメン、あの、私――」

「これから相沢君と会うのね」

「……うん」

 頬を染めながら応えて、栞は早々に準備を済ませて出掛けていった。

「さて、僕もそろそろおいとましようかな。明日から学校だしね」

「……うん」

 椅子から立って荷物をまとめた従兄は、あたしとキッチンから出てきたお母さんと一緒に玄関に向かう。

「送ってくれない? 香里。駅まで」

「え?」

「行ってらっしゃいよ、香里。久しぶりなんだし、別に時間もあるでしょ?」

「――そうね」

 お母さんにそう言われては拒否するわけにも行かない。ふたりきりの時間の気まずさを想像して溜め息が出そうになりながらも、簡単に外出の準備を済ませて、あたしは従兄と一緒に玄関をくぐった。

「そっか。香里と別れてもう十年くらいになるんだね」

「そうだったわね」

「時間が経つのは早いよ」

「……そうね」

 従兄が話し続けてそれにあたしが適当な相づちをうつような、そんな時間が過ぎていく。送ってくれと言った割りに従兄の方が先にどんどん歩いていってしまって、あたしは彼の後を追いかけるような感じだった。

「この辺りでもよく一緒に遊んだよな」

 もうすっかり日は落ちてしまって、街頭に浮かび上がる街並み。ここはよく知ってる場所だった。幼い頃いつも遊んでいた公園に続く道。そうであることはわかっていても、あたしには彼と一緒に遊んだという記憶はなかった。

「そうそう。ボクが香里や栞ちゃんを呼びだして、こんなところを通って公園に行ってたんだよな」

 懐かしげな声を上げながら、彼はもう成長してしまったあたしたちでは通ることができない壁と壁の隙間を覗き込む。

 ――どこに行くつもりだろう。

 駅に向かってる様子はない。どう考えても公園に向かってるとしか思えないけど、でもあたしは、彼の後を追うことを止めることができなかった。

 だんだんと強くなっていく胸の痛み。けれど胸に空いた穴がなにかで満たされてきそうな感覚。そのどちらもが、あたしの足を彼の後へと誘っていた。

「あっ……」

 ついに彼は公園の中に入っていってしまった。

 住宅街の中心から少し外れた閑静な街並みの中にポツリとある公園は薄暗くて、電灯に照らされた園内には人の影がまったくなかった。

 噴水や池のある憩いの場としての公園でなくて、ブランコや砂場のある子供の遊び場としてのその公園。それでもその広さはけっこうあって、彼はそんな中をなにも言わずに歩いて巡る。彼の後を追いかけて歩くあたしは、胸の痛みに息が詰まりそうになっていた。

「香里」

 公園の中を一周したくらいだったろか。彼が立ち止まってあたしの名前を呼んだ。

「なに?」

 立ち尽くしたまま振り向かない彼に、あたしは一歩一歩と近づいていく。

 わかっていた。雰囲気は理解していた。そうなるだろうと予想しながらも、あたしは彼に近づいていった。

「香里……」

 すぐ側に来たところで彼は振り返り、あたしの身体を両腕で引き寄せ、抱きしめた。

 強く強く彼の腕に抱きしめながらも、あたしは違っていた。彼がたぶんいま感じてるような、こみ上げてくる気持ちはなかった。

「約束を確かめに来た。栞ちゃんのこともあったけど、今日あの家を訪ねたのは、約束を確かめることだった」

 ――約束……。それって、なに?

 ひとつも憶えてなかった。彼の顔も面影も、彼と一緒に遊んだことも、彼との約束も――。ひとつも、ひとつも憶えてなかった。

「あのとき、いつか必ず迎えに行くって言ったの、憶えてるよね。まだ香里を迎えに行くには早いし、もし僕が迎えに来るまでに僕以上の人に出会ったんだったらいいけど、でもそのときまで僕以上に人が現れなかったら迎えに行くって、言ったよね。今日はあのときの約束を、確かめに来た」

 彼がどれほど真剣なのかは、あたしを抱きしめる両腕から伝わってきていた。

 でもあたしはそれに応えることができなかった。返す言葉がなかった。忘れてしまった記憶を思い出せなくて、あたしの口から言葉が出てくることはなかった。

 ――痛い、痛いよ……。

 あまりの胸の痛みに、あたしのつむった目からひと粒、涙がこぼれ落ちていった。

 

            *

 

「じゃあ今日はここまで」

 鐘が鳴って、四時間目の授業が終わった。

「ふぅ」

 先生が教室から出ていった瞬間、あたしは溜め息を吐き出して机に突っ伏した。

 昨日のことを思い出すと、寂しいとか悲しいんじゃなくて、胸の穴の存在感が大きくなってくる。けっきょく思い出すことができなかった従兄との思い出が、あたしの胸を締めつける。

 昨日のことを思い出さずにいられればよかったけど、感じたまま消えない胸の奥の喪失感が、それを無理にしていた。

「どうしたんだ? 美坂。お前らしくない」

 突っ伏したままのあたしにいつのまにやってきたのか、北川君が声をかけてくる。顔を上げると、いつものさわやかな笑みがあたしに注がれていた。

「別になんでもないわよ。ちょっと寝不足なだけ」

「ホントか?」

「本当よ」

 寝不足なのは、本当だった。昨日はベッドに入った後も考え事ばかりしていて、いつまでも眠れずに、気づいたら朝だったくらいだから。

「だけど美坂にしちゃ珍しいだろ。寝不足になるくらいなにかしてるなんて。なにかあったんなら――」

「香里っ」

 北川君の言葉が終わる前に、この前相沢君と栞のことで泣いていた様子なんてどこにも見えない名雪が、元気な声とともにやってきた。

「あっ、もしかして、邪魔だった?」

「……そんなことないけどな」

 なにか言おうとしていたのを止めて、彼は一歩あたしの側から離れた。

「じゃあ香里。一緒にご飯食べよ。今日もいい天気だから、みんなで中庭で食べようって話してたの」

「わかったわ。学食でなにか買って、あたしもすぐに行くわ」

「うん」

 応えて名雪は行ってしまった。息をひとつ吐き出して、あたしも学食に向かうために立ち上がる。

「そうだ、美坂」

「なに?」

 北川君とすれ違おうとしたとき、彼に声をかけられてあたしは振り返った。

「後で少し話がある。昼飯食い終わったら、時間空けといてくれ」

「――わかったわ」

 いつもより少し真面目な顔をしてるような彼は、あたしの答えを聞いた後、教室を出ていった。

 

            *

 

 お昼ご飯を食べ終わって女の子同士でいろいろ話して、昼休みが残り十分くらいになった頃、北川君があたしたちのところに通りがかった。

「……」

 無言でかけられた彼の視線に頷いて、あたしは立ち上がって彼の後を追っていった。

 中庭からいったん校舎を突き抜けてる渡り廊下を通り、北川君は校舎裏に向かっていく。少し距離を離しつつあたしは彼の後に着いて行っていた。

「さて、ここで大丈夫だろう。今日この辺はオレの貸し切りだからな」

 そう言って立ち止まった彼は振り返った。

「それで、なんの用なの?」

 数歩の間を置いて立ち止まったあたしは、そう問いかけた。

「まぁ、それほどたいしたことはない、……ってぇことはないか。とにかく美坂。ここんところどうしたんだ?」

「なんでもないわよ。さっきも言った通り」

「そうか?」

「そうよ」

 いつもの気軽な様子の北川君に、でもあたしは、いつもを装いながら言葉を返していた。

「ん~~」

 腕を組みながら考え込み始める彼。あたしは次にどんなことを言われるのかと、できる限りの冷静さを保ちながら待っていた。

「深く考えるのは止めよう。オレらしくない。正直に答えてくれ、美坂」

 なにかを吹っ切ったような北川君が、あたしの方に一歩近づいてきた。

「どうしたんだ? 本当に。栞ちゃんが元気になったのに、あんまり嬉しくなさそうじゃないか」

「そんなことないわよ。ちゃんと嬉しがってるわよ」

「そんなこと、ないだろ」

 もう一歩、彼が近づいてくる。そんな様子にあたしは、腕を組んで彼に対して半身に構えた。

「だったらなんで、そんな顔してるんだ?」

「そんな顔って、別にいつも通りでしょ?」

「そうだ。いつも通りだ。……栞ちゃんが元気になる前と変わらず、な」

「……」

 ――胸が……。

 彼の言葉にあたしの胸が痛み始めた。

 組んだ両腕を強くつかんで、できるだけその様子を出さないように努める。

「なにか心にため込んでるものがある。違うか? 美坂」

 もう一歩。

「オレはずっとお前のことを見てきた。お前のことならなんでも受け止める。なんでも受け止めたい」

 胸の痛みが強くなる。腕を組んでるだけじゃ堪えられなくて、握った右手で胸を押さえなくちゃいけないくらいになっていた。

 ――なんでそんなに胸が痛むの?

 わからない。でも、彼の言葉に反応して、あたしの胸はどんどん痛さを増していく。

「オレに受け止めさせてくれ、香里っ!」

 そう言って彼は、あたしの身体を抱きしめた。

 

 

 ――どこ行ったのかな?

 昼食の後どうやら北川に呼ばれたらしい香里を、名雪は校舎の中を回って探していた。

 まもなく予鈴が鳴る時間なのに、それでも香里は戻ってきていなかった。彼女にしては珍しいことだと思い、それに北川とどんな話をしてるのか少し心配で、名雪は探すのを止められなかった。

 予鈴まで本当に何分もない。廊下には教室移動で教科書などを持ちながら歩く生徒や、まだ昼休み気分で立ち話をしている生徒たちでごった返している。

「本当に香里、どうしたんだろう……」

 つぶやきを漏らしながら名雪は廊下沿いの開いてる窓へと近づいていった。

 ふと見下ろしたそこには――。

「あぁ……っ」

 それはもう、小さな悲鳴だった。

 裏に家があって磨りガラスになっているそこの窓は、開けない限り外を見ることができなかった。窓を開けたそこはなにもなく狭い校舎裏の小道のようなところがあるだけで、誰かがいることなんて滅多になかった。

 しかしいま、そこにはふたりの人間の姿があった。

 ――香里……。

 そんな場所にいる香里は北川に抱きしめられ、ふたりはなにもすることなくじっとしていた。

 ――香里には……。

 それ以上、なにも考えることができなかった。なにかが胸の中に上がってくる感覚に、両手を握りしめていることしかいられなかった。

「わたしは……。わたしには……。うっ」

 喉まで上がってきた感覚に言葉を詰まらせ、香里たちから目をそらした名雪はその場を走り去った。

 

            *

 

 北川が美坂香里という人間を「見つけた」のは、高校一年の入学式の日だった。

 式が終わって新入生は自分の割り当てられたクラスの教室に入り、初めて会う同級生たちと話を始めたり、席にいながらもそわそわしているような感じだった。

 そんな中で香里はひとり、落ち着いた様子で窓の外を眺めていた。

 はっきりそうと言えるくらい美人ながら少し冷たい雰囲気を漂わせる彼女に、男子生徒も女子生徒も近づいていくことはなく、ひとりで孤立していた香里。どんな人なのだろうと思ったときには、北川は彼女に話しかけていた。

 意外に当たりのいい性格であることを知り、仲が良くなっていくうちに、彼は香里の中に不透明な部分があるのを感じ始めた。それがなんなのかわかることはなく、香里も自分から話をすることなく、いつのまにか名雪と香里という仲の良いふたりに自分が加わることがあるという、定番の友達関係が築かれていた。

 普段は見せない影の部分を本当に意識したのは、二年になって少し経った頃だった。

 入学式も終わり、在校生のための始業式の日、香里は休んでいた。数日連続して休んでやっと出てきた日、名雪とはそれまでと変わらず話をしているようで、北川には香里の空元気がよく見えていた。

 空元気であるという確証はない。けれどそうであると確信した彼は、放課後香里を人気のない場所に呼び寄せて抱きしめた。彼女の気持ちを解き放って上げたくて、彼女のすべてを包んで上げたくて、おそらく訊いてもなにも言ってくれないだろう彼女の身体を抱きしめた。

 なぜそんなことをしてしまったのか北川自身わからなかったが、そのときはそうすることしか自分のできることはないと考えていた。

 しかしそのとき、香里は北川の腕をかたくなに拒絶した。妹のことに決着がつかない限り、考えられないと言って。

 そんなことがあって以来、北川は香里のことをいつも見ていながらも、一定の距離を保ってきた。そうして香里の妹――栞のことに決着がついた。おそらく香里は悪い方向での結末を考えていたのだろうが、栞は逆に元気になった。

 栞がもう一度一年生として通うようになり、そんな学校生活が安定してきたと感じた先日、北川はもう一度香里を抱きしめた。それなのにそのときも、彼女は北川の腕を拒絶した。

 ――美坂は……、香里は、いまもまだなにかを抱えている。それはなんだ?

 北川はゴールデンウィーク中ずっと考えていたのに、その答えを出すことができなかった。

 しかし休みの最終日にかかってきた栞からの電話で、少しわかったような気がしていた。……従兄とのことを忘れているということを聞いたことによって。

 そうしてその翌日の今日、香里を校舎裏に呼び出して、三度目、抱きしめた。

「もしかしたら、オレの気持ちは『好き』っていうのとは、違うかも知れない」

 身じろぎひとつなく自分の腕の中にいる香里に、北川は優しくささやいた。

「でもオレは香里、お前の抱えてるものを解き放ってやりたいと思う。もし泣きたいなら、お前の涙をオレの胸で受け止めてやりたいと思う。だから、言ってくれ。お前がため込んでる思いのすべてを」

 いくら言葉を尽くしても効果がないのは、これまでのつき合いで知っていた。だから北川は、飾り気のない真っ直ぐな言葉を香里に告げた。

 ――応えてくれ、香里。オレの想いに!

 彼は心の中で祈っていた。……それなのに、祈りが通じることはなかった。

「ごめんなさい、北川君」

「香里……」

 そっと両腕で胸を突かれて、北川は香里の身体を解き放った。

「あなたのこと、嫌いではないけど、好きとも感じることができないの。あたしは、誰かを好きになることなんてできない人みたいだから……」

 北川が始めてみる、香里の本当に悲しげな表情。けれどそれは、ただひとりで悲しんでいるだけで、誰かに助けを求めているものではなかった。

 予鈴が鳴り響いた。香里はもう一度「ゴメン」と言って、振り返ることなく校舎の中に消えていった。

「オレは……」

 彼は自分の両腕を眺める。

 そこに残る柔らかくも、強張った感触。

「オレは無力だ」

 悲しくて、寂しくて、北川は血が出るほどに唇を噛んでいた。

[newpage]

 

          * 2 *

 

 嫌いではなかった。それは確かだった。でも、好きという気持ちも感じられなかった。それどころか、好きとか嫌いとか、そういうことがどういうことなのか、わからなかった。

「エリカの花が咲いてる……」

 口にしてから、あたしは自分のつぶやきに気がつく。

「どうしたんだ? 香里。ぼぉーっとして、お前らしくもない」

 名雪や栞や北川君もいるのに、意外にも一番に気がついたらしい相沢君にそんなことを言われた。

「なんでもないわよ」

 言ってあたしはできるだけいつもを装っていた。

 いつもとたいして変わらない、五人での帰り道だった。あたしがいて名雪がいて、相沢君と栞がいて、そして北川君もいる。この五人が全員揃うのはそれはそれで珍しいけど、別になにがあるわけじゃないし、いつもと変わらないはずだった。

 でも、いつもだったらしてるだろう弾んだ会話が、あたしたちの中には生まれていなかった。

 とくに五人で帰るのに目的もなく、先頭を歩く相沢君の後に着いていってるうちに、商店街に入ってきていた。

 そろそろ夕方の買い物の時間になりつつあるいま、商店街は人が多くなってきている。そんな中をあたしばかりでなく、名雪も、北川君もほとんど会話もなく相沢君に着いて行ってるような感じになっていた。

「おっ。たい焼き屋がなくなってる」

「え?」

 相沢君が口にしたそんな言葉にあたしは我に返る。

「あ、ホントですね。夏になるとなくなっちゃうんでしょうか?」

「どうなんだろうなぁ~。でも、ちょっと寂しいな」

 いまの話に出てるのはもちろん、あたしが相沢君から聞いて、月宮さんのところに毎回持っていっていたたい焼き屋のことだった。商店街の少し広くなってる角に出ていたその店は、いまは影も形もなくなってしまっていた。

「ここでしたよね、あゆさんが好きだったたい焼きやさんは」

 ――あゆ?

「え? 栞ちゃんもあゆちゃんのこと、知ってるの?」

「はい。祐一さんと一緒に商店街を歩いてるときに何度か会ったことがあったので」

「へぇ~」

 全員で立ち止まって、名雪と栞がそんなことを話している。

 ――相沢君も栞も名雪も、月宮さんのことを知ってるの?

 思えば相沢君にたい焼き屋のことを聞いたとき、言っていたような気がする。「ここのたい焼きを食い逃げするほど好きな奴だっているんだぜ」と。

 そのときは美味しいということを彼なりに言うための冗談かと思っていた。でももし、食い逃げが本当かどうかはともかく、そのたい焼き好きの人が月宮さんだとしたら……。

「思えばあいつは、いまどうしてるんだろうなぁ」

「そうですね……」

「相沢君」

 話に割り込んで彼に声をかけた。

「んぁ? どうかしたか? 香里」

「ひとつ訊きたいんだけど、そのあゆって人の名字は、もしかして『月宮』?」

「え? なんで知ってんだ? お前もあの食い逃げ娘のこと、知ってんのか?」

 驚いた様子の相沢君の言葉に答えず、あたしは月宮さんが言っていた失恋の話を思い出す。

 偶然商店街で再会したと言っていた彼女。けれど振り向かせることができずに彼女ができてしまったのだと。そしてもうひとつ、幼い頃、月宮さんの話に出てきたその彼は、一緒に遊んでいた……。

「もうひとつ質問」

「なんだ?」

「相沢君は月宮さんと、幼い頃からの知り合いだったの?」

「ん~~。あゆの奴はそう言ってたんだが、俺の方はその辺り、さっぱり憶えてないんだよな。そんな記憶もなくもないんだが……」

 ――たぶん、間違いない。

「んで、どうしてそんなこと訊くんだ?」

「たいしたこと、ないわよ――」

 反射的に相沢君の問いに答えながらも、あたしは考えていた。

 月宮さんの失恋の相手は、おそらく相沢君で間違いない。そして彼女は、栞があたしの妹であることに気づいていたはずだ。

 ――全部わかってて、月宮さんは……。そうだとしたら、栞に起こった奇跡も……。

 それがわかったからって、どうすることもできないのはわかっていた。でも今すぐに、月宮さんと会って話がしたかった。

「どうしたんだっ。美坂!? どこ行くんだ!」

 北川君からの声は、もうずいぶん遠くから聞こえる。そのときはあたしはもう、病院に向かうバスが来るバス停に向かって走っていたから。

 

            *

 

「ただいまぁ~」

「おぅ、お帰り」

「……祐一、なんかそれ、違う」

「そうか?」

 そんな、いつも通りの、でも、いつもと変わることのないやりとりをしつつ、名雪は祐一とともに玄関からダイニングに入った。

「あら、お帰りなさい、ふたりとも」

 電話中だったらしい秋子は、受話器を置きながらダイニングに入ってきたふたりに声をかけてきた。

「ごめんなさい、少し出掛けてくるわ。冷蔵庫に材料はあるから、名雪、お願いね」

「おっ。今日は名雪の手料理か」

 隣で奇妙な笑みを浮かべてる祐一のことをちらりと見つつ、名雪は少しおかしな様子の秋子のことを心配していた。

 ――お母さん、どうしたんだろう。

 できれば名雪は、祐一とふたり切りになりたくなかった。秋子はおそらく名雪の祐一に対する気持ちに気づいてるはず。それでも秋子は行ってしまう。

 ――行って欲しくない。

 そう、言いたかった。でも言うことはできなかった。

「どうしたの? お母さん」

「大丈夫、少し出掛けてくるだけよ」

「……」

 微笑みを浮かべて言われても、名雪は大丈夫という言葉を信じることができなかった。秋子が目の前で起こってる以外のことで表情を曇らせるときはよほどのことがあるときだけだと、名雪は知っていたから。

 祐一は二階の自室に上がってしまった後も、名雪は秋子が出掛ける準備を終えるのを待っていた。急いでいたのか、秋子はすぐに準備を終えてダイニングに戻ってきた。

「それじゃあ行ってくるわね」

「……お母さん」

 玄関に向かう秋子を、名雪は引き留めた。

「…………」

 なんと訊いていいのかわからない。訊いたところで自分に直接関わることではないから、答えてくれないだろうことを名雪はわかっていた。それでも秋子の表情を曇らせるほどのことが心配でならなかった。

「――ふぅ」

 ひとつ溜め息をつき、靴を履く手をいったん止めた秋子は、名雪の目を正面から見つめた。

「やっぱり名雪はわたしの娘ね」

「それは……、そうだよ」

 その答えに秋子は満足そうな笑みを浮かべ、

「これから、あなたの友達になれるかも知れないし、なれないかも知れない人に会いに行くの。いまはこれ以上は言えないわ」と、また表情を曇らせた。

「うん、わかった。行ってらっしゃい」

 靴を履いて玄関の扉を開けた秋子は、ふと振り向いた。

「名雪。なにがあってもあなたはわたしの娘よ。名雪は名雪。それ以上でも、それ以下でもない。そのことを、忘れないで」

 言われた言葉の意味はよくわからなかった。それでも秋子がなにかを伝えようとしているのだけはわかった。

「わかった。憶えておくよ」

「ん、じゃあ行ってくるわ」

 満足そうな笑みを残して、秋子は玄関をくぐっていった。

 

            *

 

 あたしが病院に着いたとき、辺りはもう茜色に染まりつつあった。

「月宮さん!?」

 いつも彼女と会っていたベンチに行ったけど、そこには誰もいなくて、あたしの声に応えて現れてくれる人もいない。ただぽつんと、いつもより夕日を受けて赤く光るベンチがあるだけだ。

 回りを見回しても彼女らしい人の姿は見えない。あのいつもつけてた赤いカチューシャは、陽に照らされて光っていることはなかった。

 ――どうしたらいんだろう。

 中庭の中を回って探してみる。

 月宮さんと話をしてたときはぜんぜん人がいなかったここなのに、今日はけっこう人がいて、でもやっぱり彼女の姿はどこにもなかった。彼女の病室がどこなのかもわからない。

 ――とりあえず受付で聞いてみよう……。

 思ってあたしはロビーにある面会受付の方に回った。

「月宮……、あゆさん……」

「はい、そうです」

 知り合いだと説明して、受付の看護婦さんに訊いてみる。少しの間彼女の病室を探しているみたいだったけど、なんでか表情を曇らせたその人は顔を上げた。

「ごめんなさい。ここではわからないみたい」

「そうですか……」

「本当に、知り合いの子なの?」

「はい。ゴールデンウィーク中は何回も会ってましたから」

「……そう。でも、ここではわからないみたいね」

 なにか含みのある表情をしている看護婦さんが月宮さんの病室を教えてくれることは、けっきょくなかった。

 ――わからない、って、ヘンよね。

 いないならいないと言えばいいのに、受付の看護婦さんは「わからない」と答えていた。知っていても答えられないということなのだろうか……。

 どちらにせよ月宮さんの病室はわからなかった。まだ時間はあるから、あたしは病院の中を回って、彼女の病室を探すことにした。

 ――いったい月宮さんって、どういう人なんだろう……。

 相沢君と幼い頃に出会って、最近再会して、栞がいたために身を引いたという彼女。そうだとするなら、栞の病室にいたのは偶然なんて思えない。そして奇跡は、起こったんだから……。

 ――彼女は絶対になにか知ってる。

 これまで以上にそれを強く思って、あたしは病院内を回っていく。あの日の夜、彼女を見失った辺りを重点的に。

「ここって……」

 あのときは気づかなかったけど、月宮さんが逃げていったのは精神病棟の方だった。つまり、ここの辺りは精神的になにかしら不調のある人が入院してるところってこと。

 月宮さんの心になにかおかしなところは見られなかったことを考えると、ここに逃げてきたのは偶然なのかも知れないと思いながら、あたしは個室の扉の脇にかけられた名札を順々に見ていく。

「あった――」

 まさかとは思ったけど、確かちょうど彼女を見失った辺りで、あたしは「月宮あゆ」と書かれた名札がかけられた病室を見つけた。

 辺りを見回しても人気はない。耳を澄ましても、彼女の病室の中から人が動いたり話したりしてる気配はしなかった。

 ――ここに、月宮さんがいるのかな……。

 思い切ってあたしは、病室の扉を開ける。気配から分かっていた通り、病室の中には動いてる人は誰もいなかった。少し手狭な感じのある個室で、整理棚とベッドがひとつずつある程度で、中は整然としていた。

 テーブルを兼用してるような整理棚の上には、もう時期じゃないダッフルコートとミトン、それに小さな羽のついたリュック、そしてもうひとつ、古びた感じのある赤いカチューシャが置いてあった。それから一番奥の窓辺に置かれたベッドには、ひとりの女の子が横たわっていた。

「月宮さん……」

 ベッドにいるのは確かに月宮さんだった。けど、あたしの知ってる月宮さんじゃなかった。

 やつれきった様子には、わずかに面影が残るくらいで、あの元気が目立つ月宮さんと同じ人とは思えないほどだった。

「月宮さん?」

 ベッドのすぐ側まで近づいていって声をかけても、目は開いてるのに、反応がない。起きてるのかどうかわからないけど、開いてる目はうつろだった。

 ――本当に、月宮さんなの?

 病室の外にかけられた名札も、かすかに残る面影も、そしてなんでか古びた感じはあるけど、整理棚の上の赤いカチューシャも、どれも月宮さんであることを示していた。でも、数日前まで会っていた月宮さんとはぜんぜん違っていた。それはここ数日で起こったなんて思えない、恐ろしいほどの変化だった。

「どうして、こんなことになったの?」

 月宮さんを見つけたのにどうすることもできなくて、あたしはその場にずっと立ち尽くしていた。

 どれくらい時間が経ったんだろう。たぶんそれほど経ってないんだと思う。

 足音が近づいてくるのに気がついて、あたしは振り向いた。

「……どうして、あなたが?」

 開けられた扉から現れた人物。それはあまりに意外で、あたしはどうしたらいいのかわからなかった。

 かろうじてぽかんと開いてる口から言葉を紡ぎ出す。

「秋子さん?」

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