第五章
* 1 *
秋子に言われた通り、名雪は冷蔵庫の中にあった材料でオムレツをつくり、祐一と一緒に食べた。
食事のあと祐一と、秋子のことや学校のこと、それに最近少しおかしな香里の様子のことを話していたけれど、あまり弾むことはなかった。
話が尽きたところで、どちらともなく席を立ち、名雪は自室に戻った。
「ふぅ」
溜め息とともにベッドに寝転ぶ。
――ダメだよ、わたし……。
名雪は祐一のことが好きだった。いつも彼と一緒にいたいと思っていた。彼に自分のことを見て欲しかった。親戚の女の子としてではなく、ひとりの女性として……。
祐一がなにかに悩んで、悲しい顔をしていたとき、名雪は慰めて上げたいと思っていた。それが栞のことであることを知り、彼女と祐一が結ばれたときから、名雪の想いは悲しみに変わった。それでも名雪は、祐一のことしか見れなかったから。
もう伝えることができない気持ち。消してしまわなければならない気持ち。けれど、胸の中でわだかまってどうすることもできない気持ち。
「ダメだよ、ホントに……」
つぶやいて、名雪は寝返りを打った。
『名雪。なにがあってもあなたはわたしの娘よ。名雪は名雪。それ以上でも、それ以下でもない。そのことを、忘れないで』
そんなときに思い浮かんでくる、秋子の言葉。
自分のことを心配してくれているのはわかる。けれど秋子がどういう意味を込めてその言葉を言ったのかは、よくわからなかった。
「ふぅ」
また溜め息をついて、名雪は部屋にたくさんある時計のひとつを見た。
――そろそろ、お風呂沸いてるな。
このままなにもしないでいても時間が経つばかりなのは、もうずっと考えてきたことなのでわかっていた。だから名雪はけだるい身体を動かして、風呂に入る準備を始めた。
着替えを持って一階に降りダイニングに入ると、そこにある電話で祐一が誰かと話しているのが見えた。
――たぶん栞ちゃんとだな。
待っている意味もなく、その場にいるだけでも辛いと感じる名雪は、祐一に声をかけることなく風呂場に向かおうと彼とすれ違おうとした。
「――ってことは香里は……」
『……、――』
声の感じからして電話の相手は予想通り栞であることはわかったが、名雪はそのとき祐一の口から香里の名前が出たことに立ち止まった。
――香里も最近、ヘンだったよね。
栞が元気になったというのにまだ心に抱えてるものがあるような香里。それは香里の中で吹っ切れるどころか、最近になってひどくなっているような気がしていた。原因はわからなかったが、名雪は香里になにがあったのかと心配だった。
――でも香里には……。
今日、昼休みの終わりに北川に抱きしめられていた香里。そのときの様子を思い出して、名雪はうつむく。
――香里には、あぁやって抱きしめてくれる人がいるんだよね……。けどわたしは、わたしには――。
「じゃあ、明日な」
そう言って祐一が電話を終えた。
「おぅ名雪。元気ねぇな。どうしたんだ?」
ごまかしているのか、彼はいつもより大きな声でそんなことを言ってきた。
「香里、どうかしたの?」
「――聞こえてたのか。まぁ、よくわかんないんだよ。明日香里に直接訊いてみるつもりだ」
途端に真面目な顔になる彼。
「たいへんなことになってるの?」
「らしい。栞も事情がうまく飲み込めてないみたいだが、なにかあったのは確かだな」
言って祐一は真剣な顔で頷いた。
――いつのまにか、男の子じゃなくなってるよね。
いまの彼の様子に、名雪は苦笑いを浮かべそうになっていた。
こんな祐一だったからこそ、病気でふさぎ込んでいた栞は心を開くことができた。「男の子」じゃなく「男」に成長した祐一だったからこそ、栞のことを受け止めることができた。
名雪はそのことに気づくのが、ほんの少しだけ遅れてしまった。そして気づいた頃には、彼の気持ちは手の届かないところにあった。
だからと言って祐一が栞に出会わなければよかったなどとは思わない。奇跡が起こった理由はわからないけれど、幸せそうな祐一と栞の笑顔を見ていると、それで良かったんだと、まだ胸に残るものはあっても、思うことができていた。
――わたしは祐一とは、縁がなかったんだね。
後悔でも嫉妬でもなく、名雪はただそれが残念に感じる。悲しいのではなく、冷静にそんな風に思えていた。
「でも祐一。香里のこと、どうするつもりなの?」
「ん~、どうしたらいいのかよくわかんないけどさ――」
真剣な、男の顔で少し考えて、彼は言う。
「もし俺でできるんだったら、香里の気持ちを抱きしめてやりたいと思ってる。もちろん俺にとっては栞が一番なんだが、香里は香里で、俺にとって大切な人だからな。栞のお姉さんだからとか、そういうことがなくっても、な。まぁ俺でできるんだったら、だけど……」
言い終えて微笑む祐一の顔には、優しさが満ちていた。
――わたしは、祐一のことが好きだよ。
あらためて名雪はそのことを想う。
幼い頃に想った男の子ではなく、いまの祐一のことを、名雪はあらためて好きになっていた。
――もうわたしの知ってる祐一は、昔の祐一なんだね。
「どうしたんだ? 名雪」
考えている間、ずっと祐一の顔を見つめてしまっていた名雪。言われて少し我に返ると、自分の目に涙が溜まってきているのに気がついた。
――伝えたいよ、いまの気持ちを。
話したくて、話せなくて、辛くて堪らなかった。誰かに話せれば少しは気が楽になるのかも知れないけど、でも本当に話したいと思える相手は、祐一しかいなかった。
『名雪は名雪。それ以上でも、それ以下でもない』
そのときまた浮かんでくる、秋子の言葉。
なにもないまま終わらせられそうにはなかった。ひとりで抱いているには辛すぎた。それでも栞と幸せにしている祐一に話すわけにはいかなかった。
だから名雪は――。
「ゴメンね、祐一」
そんなひと言とともに、祐一の胸に飛び込んでいった。
「どうしたんだ? いきなり」
最初の一瞬驚いたようだったけれど、すぐに彼は左手を肩に回し、右手で髪を撫でてくれた。
「ゴメン。言えないの。言えないけど、でも……」
流れていく涙は、祐一の胸に吸い込まれていった。髪を撫でてくれる手が気持ち良くて、胸の広さが心地よくて、名雪は涙を流し続けた。
「いまだけだぞ、名雪」
「……うん」
これまで以上に祐一の左腕に力がこもり、名雪の身体をしっかりと抱きしめる。
「俺には栞がいる。ずっと抱きしめてやるのは、栞だけだ。だけど俺だって男だ。お前に少しの間貸してやれるくらいの胸の広さは、あるつもりだ」
「うん」
その後は涙が止まるまで、名雪は祐一に包まれていた。
[newpage]
* 2 *
ゴールデンウィークからずっと、穏やかな天気の日が続いていた。
この時期になるとやっぱり人が多くなる裏庭で、栞は祐一とふたりで昼食を楽しんでいた。
「おっ。栞もなかなか上手くなってきたじゃないか」
いつも通り栞がつくってきた弁当を微笑みながら食べている祐一。それに応えて栞もまた笑んでいたが、心の中にはわだかまりがあった。
昨日祐一に話した香里の様子。夜ずいぶん遅くなってから帰ってきた彼女は、食事も摂らずにそのまま自室に籠もってしまった。翌日まだ重い顔をしていたところから見て従兄のときのようなことはまだ起こってないようだったが、心配だった。
栞の中のわだかまりは、それだけではなかった。
――名雪さんは、どうしてるんだろう……。
名雪がよく祐一に視線を向けていることに、栞は気づいていた。それも親戚に対する視線ではなく、女性から男性に送る視線であることにも、気づいていた。
栞は祐一のことを愛していた。彼から愛されているということも、感じていた。それでも不安を拭い去ることはできなかった。
――嫌ですね、こういうのは……。
その気持ちが自分の独占欲であることもまた、栞は気づいていた。けれども同時に、もう二度とひとりぼっちになるのは堪えられそうにもなかった。
「どうしたんだ? 栞」
「あっ……。えぇっと――」
――祐一さんに、少し話してみた方がいいかな。
隠していても不安が顔に出てしまのはわかっていた。それよりも、祐一にそんな隠し事をしていたくなかった。
「あの、祐一さん――」
「ちょっといい? 相沢君」
話をしようと口を開いたとき、香里がやってきた。
「ゴメンね、栞。でも少し相沢君に話したいことがあるの。いいかしら?」
――お姉ちゃん……。
どういう話になるのかわからず、そしていつになく厳しい表情の香里に、栞は不安を感じていた。
「わかった。つき合おう」
「ありがとう」
祐一の言葉にきびすを返した香里はそのまま行ってしまう。祐一もそれを追って立ち上がった。
「あっ……」
一瞬、祐一に向かって手が伸びた。けれど栞の手は彼の身体に触れることなく引っ込められた。
――祐一さん、一緒にいて……。
思っているのに口に出すことができない。香里のことも心配なのは確かだったから。しかしやはり、栞の胸の内にはいま考えていたことがわだかまり、ひとりにして欲しくはなかった。
「大丈夫だ、栞。香里のことは俺に任せておけ」
「……はい」
そんな気持ちを読みとったかのように、歩き出す前に振り返った祐一は、そう言って微笑んだ。
「頼みます、お姉ちゃんのこと」
「あぁ」
笑みを残して言ってしまった祐一の背中。遠退いていくのに、遠くに行ってしまうようには思えない。彼の気持ちはいつも自分とともにあるのだと、さっきのたったひと言で、栞は安堵していた。
*
「ここだったら大丈夫ね」
つい昨日北川君に連れてこられた校舎裏まで来て、あたしは立ち止まり振り返った。
「それで、話ってのはなんだ?」
正面に立って、いつもの子供みたいな様子からは伺い知れない真面目な顔をした相沢君が言った。
「話っていうのは……」
どう切り出そうか相沢君から視線を外して少し考える。
――考えたところで、仕方ないわね。
また正面を見たあたしは、そのままの言葉で話し始めた。
「栞の奇跡は、起こるべくして起こったの」
「起こるべくして?」
「そう……」
驚いた様子の相沢君。
「ちょっと前、言ってなかったか? 『起こらないからこそ奇跡だ』って」
「えぇ、言ったわ。でも実際に奇跡は起こったの。それも奇跡が起こった原因は……、相沢君、あなたにあるのよ」
「どういうことだ?」
「それは……」
言うわけにはいかなかった。口止めされていたから。
いまは相沢君には話すべきでないこと。昨日起こったことは、ただそれだけで、奇跡かも知れなかった。
秋子さんの手から受け取ったまだ熱いカップのコーヒーを半分くらい飲み干した。
「ふぅ……」
「落ち着いた?」
「はい」
自動販売機なんかが置いてある病院内の休憩所のソファに座り込んで、あたしは脱力していた。
いま、秋子さんに聞いた話は、あたしにとって信じられないことだった。なにしろ月宮さんは七年前に木から落ちて大怪我をして、傷こそ治ったもののなにが原因なのか、彼女がベッドから起きあがることはなかった。
もちろん、ベッドから立ってどこかにいけるような状態なんかじゃない。
――じゃあ、あたしが会ってた月宮さんは、誰なの?
「その様子からして、昔のあゆちゃんの知り合いじゃないみたいね」
隣りに座った秋子さんがあたしの思いを読んだかのように言う。
「あたしが会ってた月宮さんは、誰だったんでしょうか?」
「わからないわ。わたしもそのあゆちゃんには会ったことあるけど……。信じられなかったわ。あのあゆちゃんの面影はあるのに、別人としか思えないんですから。――でも、人間なんてちっぽけな存在よ。そんな人間で見えることなんて、そんなにたいしたことじゃないわ。だからどんなにあり得ないと思えることが起こっても、ぜんぜん不思議じゃないと思うの」
両手で包むように紙コップを持って、秋子さんは視線を落とした。
「それで、今日わたしが病院に来たのは、あゆちゃんの容態を彼女のお父さんから聞いたからなの。彼女の肉親は父親しかいなくて、お父さんも仕事で転勤してあゆちゃんのお見舞いにあんまりこれないの。――でも、あゆちゃんのことを想ってないわけじゃなくて、ひとりだけで必死でいろいろかかる入院費をつくってらっしゃるわ。ただ、もう二度と回復しないかも知れない自分の娘を見ているのは、辛いらしいの……。
事故がきっかけであゆちゃんのお父さんと知り合って、わたしも心配だから、お父さんの代わりに月一回くらいの割合でお見舞いに来てるわ。それで病院から連絡を受けたお父さんから電話が来たんだけど……」
顔を上げた秋子さんは思い詰めたような視線であたしの目を見据えてくる。
「あゆちゃんの身体は、限界に近いのよ。意識のないままずっと過ごしてて、今年に入って目を開けることがあるようになったんだけど、意識が回復したというか、起きたまま寝ているような状態という感じかしら? 回復の兆候かと思ったんだけど、でもそんな状態が、七年もベッドで眠り続けていた身体をさらに悪くしていったわ……。あゆちゃんは、もういつ容態が急変しても、おかしくないくらいなの……」
「そう、ですか……」
秋子さんに言われたことに、あたしはそんな風に応えることしかできなかった。
今日見つけたベッドで眠り続ける月宮さんと、あたしと会って話をしていた月宮さん。ふたりとも本当の月宮さんなんだろうけど、あまりに違いすぎた。
――起きたまま寝ているような状態。
――この世界はね、夢みたいなものなんだよ。
もしかしたらあたしが会っていた月宮さんは、今年に入ってから起きていながら眠っているような状態という彼女が見ている、夢の中の自分だったのかも知れない。
――どちらにしても、あたしが月宮さんに会う方法がないのは確かよね……。
ベッドで横たわっている月宮さんはもちろんのこと、あたしが会っていた月宮さんと会う方法はわからない。彼女が出てきてくれない限り話もできないんだから、あたしじゃどうすることもできなかった。
「香里さんにひとつお願いなんだけど……」
「はい?」
秋子さんに声をかけられて我に返ったあたしは、残っていた冷めたコーヒーを飲み干して顔を上げた。
「このことは、祐一さんには言わないで欲しいの。たとえどんな些細なことでも、あゆちゃんの真実に関わることは……」
「どうしてですか?」
あたしの問いに、辛そうに顔を歪めた秋子さんは言葉を続ける。
「あゆちゃんは、幼い頃の祐一さんにとって大切な人だったわ。幼心にしろ、ふたりは同じ気持ちと時間を共有しあっていたから――。そしてあゆちゃんが大怪我をしたとき、その場所に祐一さんもいたの。原因が祐一さんにないわけじゃなかった。だから彼は自分を責めて、大切な人を失ってしまった悲しみに堪えられなくて、すべてを忘れてしまった……。そんなつらい経験をまだ彼に思い出して欲しくないの。思い出してしまえば祐一さんがどうなってしまうのか、まだわたしには怖いわ」
「……わかりました。相沢君には月宮さんのことは黙っておきます」
「えぇ、お願いね。栞ちゃんのためにも」
「はい――」
それから少し話をした後、面会の時間の終わりを告げる放送が流れた。
空のまま持っていたカップを手に立ち上がったあたしは、同じように手に握り込んでいた秋子さんのカップを受け取ってゴミ箱に捨ててきた。
「それじゃああたしは今日は帰ります」
「そうね。今日はごめんなさい。わたしばかり話してしまって。香里さんがあゆちゃんを捜してる理由も聞いて上げられれば良かったんだけど……。そうだ。車で来てるから送って上げるわよ。話は、車の中でできるし」
「それは……」
――あたしは、どうしたらいいんだろう?
秋子さんの申し出を断る理由なんてとくになかった。けれどいまもあたしの中では、月宮さんのことが大きな衝撃として残っている。いまは誰かと一緒にいるよりも、ひとりでいたかった。
「すいません。今日は、バスで帰ります」
「そう、わかったわ。それじゃあわたしは駐車場だから、こっちね。また家にも遊びに来てね」
「はい。今日はありがとうございました」
丁寧に頭を下げて、あたしはロビーに向かっていった。
――やっぱり、月宮さんが奇跡に関わっていたんだ。
そうでなければあたしの会ってた月宮さんと病室の月宮さんはまったく関係のない人ということになる。彼女の境遇と彼女の話を考える限り、そんなことはないはずだった。
すっかり暗くなってしまったロータリーを回って正面の門を出、すぐそこにあるバス停に行く。そこにあった時刻表を見るとバスは十分ほどで来るらしい。あたしはその場に立って、バスを待った。
――月宮さんと話して、どうするつもりだろう。
自分のことなのに、まるで他人事かのように思う。
会って話して奇跡を確認して、それでどうなるものじゃないのはわかり切っていた。それでもあたしは、ただ月宮さんに会いたかった。
「もう二度と、会えないのかな……」
「――そんなこと、ないみたいだよ」
「え?」
独り言に言葉を返されて、あたしは振り返った。
そこには赤いカチューシャをした、あの元気な月宮さんが立っていた。
「月宮さん……」
会うことができた。会えないと思っていたのに、会うことができてしまった。あまりに突然のことで、半分諦めていたあたしは驚いて言葉が出てこなくなっていた。
「知っちゃったんだね。ボクのこと」
「……えぇ」
「そっか。知られちゃったんだ……」
言いながら月宮さんは笑っていた。それは本当に、悲しそうで、いまにも涙が流れそうな笑みだった。
「ありがとう、香里さん。こんなボクといっぱいお話してくれて。ボク、香里さんと話ができて、本当に嬉しかったよ。楽しかったよ。本当に、本当に……」
バス停の弱い光に照らされてる月宮さんの目から、涙が流れ始めた。それでも彼女の顔は、精一杯笑っている。
「でももう、ボクに残された時間は少ないんだよ。香里さんの言う通り、ボクは栞さんの奇跡のこと、知ってるよ。だって、ボクは祐一君が一番に願った想いを叶えるために、いたんだから。これ以上、ここにいる意味はないんだよ」
気のせいなのか、語り続ける月宮さんの身体が薄くなっていく感じがした。
「だからもう、ボクはここにいる意味がないんだよ。祐一君の願いを叶えたことで、それ以上ボクがいる意味はなくなっちゃったんだから」
気のせいなんかじゃなかった。少しずつ、少しずつ月宮さんの身体が薄くなって、彼女の後ろの方にある街灯の光が透けてきつつあった。
「ボクはもう消えるよ。ボクが残ってる意味なんて、ないんだから。ぼくにはもう――」
「待って。ひとつだけ聞かせて」
「……どんなこと?」
あたしの中にひとつだけ生まれた疑問。それがもし本当だとするならば、月宮さんの奇跡を起こす力は――。
「もし、もし相沢君が月宮さんを、月宮さんが元気になることを願っていたとしたら、どうなっていたの? 栞じゃなくて、月宮さんのことを想っていたら」
「聞かないで欲しいよ、そんなこと。そんな、もう終わったことなんて……」
笑い顔はもう保てないで、月宮さんは辛そうな顔をして涙を流していた。涙を流しながら、もうその身体は、ほとんど消えてしまいそうなほど薄くなってしまっていた。
「ありがとう、香里さん。でもごめんなさい。それから、さよなら」
そんな言葉とともに、月宮さんの身体は完全に消えてしまった。あたしには彼女にかけてあげられる言葉がなかった。
いなくならないで欲しい。そう思っているのに、月宮さんの身体にあたしの手が伸びることはなかった。
――あたしには、どうすることもできないのよ。
誰が夢の中の住人である月宮さんをつなぎ止めておけると言うのか。その本体である身体を、医者でもないあたしがどうやって助けてやれると言うのだろう。
――仕方がないのよ。これはもう、どうしようもないことなんだから。
握りしめた手が、痛かった。胸の奥の穴が痛くて、避けてしまいそうだった。それでもあたしの目からは、ひと粒も涙が流れてこなかった。
「言えないのよ……」
本当は言いたかった。全部言って、相沢君にどうやって願いを伝えることができたのか、訊きたかった。けれど訊くわけにはいかない。秋子さんと、約束したんだから。
「どうして言えないんだ?」
「約束だから。言ったら、すべてが崩れちゃうかも知れないから」
「……」
複雑な表情を浮かべる相沢君に、あたしはなにも言うことができなかった。だからあたしは、彼に問う。
「なにを思っていたの? あのとき。栞の誕生日になった、あの瞬間に」
「――俺はただ、祈ってただけだ。栞がいなくならないでほしいって。ずっと一緒に過ごせるようになりたい、って。ただ、それだけだった」
「そんなんじゃ、わからないわよっ!」
言いながら相沢君の胸にすがりついていく。
もう二度と会えないだろう月宮さんのことを思うと、胸が張り裂けそうだった。寂しくて、悲しくて、辛くて、でもそんなことから逃れようしている自分が、忘れてしまってやり過ごそうとしている自分がいるのがわかっていた。
このままどうすることもできなければ、あたしはひとりで泣いて、月宮さんのことを忘れてしまうだろう。そうなってしまわないために、あたしは相沢君を求めていた。
「解き放ってよ、あたしの心を。栞の心を解き放ったときのように。忘れてしまうのよ、あたしは。全部忘れて、それで自分の気持ちを終わらせてしまうのよ。そんなのもう嫌なの。辛くても、悲しくても、受け止めたいの。でも自分じゃできないの。忘れてしまうのが当たり前過ぎて、泣くこともできないのよ!」
相沢君の両腕があたしの身体に回される。彼の胸の中にありながらでも、あたしは涙を流すことができないでいた。
泣き方なんて、忘れてしまった。栞に対することなら泣けるのに、自分のことになると、泣かないことが普通で、涙なんて、出てくることがなかった。こうやって相沢君に自分の気持ちを言葉にするのが精一杯だった。
「奇跡が起こしたいのよ、あたしは。奇跡を起こしてでも、助けたい人がいるの。でもあたしじゃダメなのっ。相沢君みたいに、自分の気持ちを出せないの! だから、だから相沢君、栞にしたことを、教えてよ。あたしの心も、解き放ってよ!!」
自分で言ってて、なにが言いたいのかわからなかった。ただもう、月宮さんとあんな別れ方は嫌で、彼女に会いたくて、彼女のことをどうにかして上げたくて、それだけの気持ちで叫んでいた。
それでも、あたしの目からは涙はあふれ出してこない。胸は張り裂けそうなほど痛いのに、それに堪えてしまっているあたしがいる。
「香里――」
優しい声で言いながら、相沢君はあたしの肩をつかんで身体を離した。涙に濡れることのない目を見つめて、彼は言う。
「なんなのかわからないが、俺じゃ香里のやりたいと思ってることは無理だ。奇跡を起こしたいと思うなら、自分で起こすしかない。奇跡を起こしたいと思う相手のことを本当に想ってるなら、香里自信が奇跡を起こしてやるしかない。香里は、その人を助けるために奇跡を起こしたいと、本当に思ってるんだろ?」
「そう、そうよっ」
「だったら、香里自身が奇跡を起こすんだ。それほど難しいことじゃない。たぶん、誰にでもできることなんだ」
揺らぎのない声で、彼は言う。まるで自分が奇跡を起こしたときのことがわかっているみたいに。
「なんで、そんなにはっきり言えるの? 起こるものじゃないわよ、奇跡なんて。起こそうとして起きるものじゃないよ、そんなものっ!」
「そんなことないと思うんだよな、なんでか。少なくとも香里。お前が助けたいと思ってる人に関しては。どうしてかよくわかんねぇけど、そう感じる。香里にも、奇跡は起こせるはずだ。ただそのとき必要なのは、ただひとつの真実と、それを持つことができる、本当の自分だと思う」
「……」
不思議なことを言いながらためらいのない彼の目に、なんでかあたしは、吸い込まれそうになっていた。
[newpage]
* 3 *
「もう一度確認させて下さい。お姉ちゃんのことが、好きなんですよね」
『ん~。またちょっと、違う気持ちのような気もしてるんだよな』
「どういうことですか?」
『「好き」ってのはさ、意外に難しい言葉のような気がするし、その言葉そのものには、あんまり意味がないのかも知れないんだよな。少なくともオレがいま美坂に――香里に抱いてる想いは、「好き」っていうひと言じゃ片づけられない』
「それじゃあどういうことなんですか?」
『普通な感じのままけっこう鋭く突っ込んでくるよな、栞ちゃんって』
「え? えぇっと、それは……」
『いや、いいんだよ。頼まれるからには、はっきりしないといけないしな』
「……」
『好きは、好きなんだと思う。オレは香里のことが。でもそんなひと言じゃ収まらない。オレはいつもなんか抱え込んでる香里の気持ちを抱きしめてやりたいと思ってる。しっかり笑ってるのに、いつもどこかひとかけら足りてないように感じるものを、見つけてやりたいと思ってる。それにオレは、香里みたいな人が現れてくれるのを、ずっと待ってたんだ』
「どういうことですか?」
『オレだって普通の、そこら辺にありふれてる人間なんだよな。悩みも迷いもあるし、それをひとりで抱えきれなくなりそうなこともしょっちゅうだ。なのに不器用だからな、オレは。いろんなことを思ってても、誰かに話すことなんてできないんだ。話ができると思えるような相手以外には、な』
「そうだったんですか……」
『あぁ、そうだぜ。オレは香里を抱きしめてやりたいと思った。そしてオレは、香里に抱きしめてもらいたいと思ってる。それが、オレの香里への「好き」って気持ちだな』
「……わかりました。やっぱり、お任せしようと思います」
『いいのか? 本当に』
「いいんです。いいんだと、思います……。私じゃお姉ちゃんにできることはほとんどないんです。誰かお姉ちゃんの気持ちを汲み取ってくれる人がいればいいんですけど、お姉ちゃんは自分でそうして欲しいと思ったりしないみたいで、でも誰かが必要なときがあって……。そこまでお姉ちゃんを思ってくれてるなら、大丈夫だと思います。少なくとも、お姉ちゃんの力になって上げることはできると思いますから」
『そっか。わかった。頼まれる。いや、オレ自身が香里になにかしてやりたいと思うから、やる。栞ちゃん、いまだっていう瞬間を教えてくれて、ありがとう』
「いえ、私は……」
『いや、ありがとうだ。とにかく、そっちに向かう』
「こんなに遅い時間だけど、お願いします、本当に。もう二度と、あんなことがないように――」
『わかってる』
*
月宮さんにもう一度会って話がしたくて、あたしは彼女の姿を探し求めていた。
相沢君に不思議なことを言われたあたしは、そのまま教室に戻らずに病院に向かった。夕方まで彼女の姿を探し求めて、病室にも行ったけど、けっきょくあの元気な月宮さんには会うことができなかった。
なにもできずに家に戻ったあたしは、ただいまの声だけをかけて自室に入った。気がつくと肩がつりそうなほど重く感じる荷物を机の上に置いて、引いた椅子にどさりと座り込んだ。
「ふぅ……」
溜め息をつきつつ机に突っ伏した。「うぅ」と小さなうめきを上げながら、痛む胸を右手でさする。
月宮さんと会いたかった。でも、どうやったら会えるかなんて、わからなかった。会えないことから来る寂しさが、悲しみがあふれてきて、胸の痛みがひどくなっていく。いまにも泣きそうな自分がいて、でも泣けなくて、堪えられない気持ちをどうにかするために月宮さんのことを忘れようとしている自分がいるがわかっていた。
――こうしてあたしはまた、忘れていくの?
もうそんなことはしたくなかった。月宮さんのことは憶えていたかった。
けど、忘れてしまってもいいのかも知れない、と思う。
もう彼女には二度と会えないのだとしたら、忘れてしまっても構わないんじゃないかと思う。
――けど、でも、やっぱり……。
「美坂。起きてるか?」
「え?」
突然ノックの音とともに、北川君の声が聞こえてきた。
「どうして北川君が来てるの?」
言いながらあたしは部屋の扉を開けた。するとやっぱり、そこには北川君が立っていた。
「いや、まぁ、なんていうか、美坂が大変なことになってるって、栞ちゃんから聞いてな、心配になって」
そう言って彼は、彼らしくなく恥ずかしそうに鼻の頭をかいていた。
「来てくれたのは嬉しいけど、でもあたしはそんなに大変なことなんて――」
「ないなんて言うのは、嘘だろ? ……できたら入れてくれないか? 部屋の中に」
「……どうぞ」
扉の前を開けて、彼を招き入れた。扉を閉めてとりあえず部屋に入ってきて居心地悪そうにしていた彼に、ベッドに座るよう勧める。
「なにかあった、ってのは、栞ちゃんから聞いてる。詳しいことは聞いてないけどな」
「……」
彼から少し離れてる机の方の椅子に座って、あたしは黙り込む。それを見て彼は「ふぅ」と溜め息を吐き出した。
「美坂は、いつもそうだよな。自分のことを話すのがすごく苦手だ。苦手だから、答えられないと黙り込む」
「……そうね。あたしはいつもそう。自分のことを話すのは苦手ね。話そうと思うときでも、話すタイミング外してばかりだわ。それに、話す相手を選んじゃうし」
「話す相手を選ぶってのは、普通だろ。知らない奴に相談なんて、早々できるわきゃない」
「うん……」
できる限り自分を出すようにしながら、あたしは言う。
「忘れてしまうの、あたしは。辛いこととか、悲しいことがあると、それを全部忘れて、辛さとか悲しみを消してしまうの」
「従兄のこととか、だな」
「――そう」
「従兄のことは栞ちゃんから少し聞いてる。完全に忘れちまったんだってな」
「そうなの……」
いつもと違うあの、真剣な北川君の目に見つめられて、あたしはその視線を受け止めきれずにうつむいた。
「忘れることなんて、逃げることにしかならない。わかってるんだろう? それは」
「わかってる。月宮さんに言われたし、この前実感したから」
「そっか」
あたしの言葉を聞いて、北川君は目を閉じる。しばらくなにかを考えるかのように静かにそのままでいた彼は、目を開けて、ベッドから立ち上がった。
「やっぱり、言っておこう。こんなときだけどな」
「なにを?」
「オレのお前への想いを、だよ。この前好きだと言ったんだが、ちょっと違う気がしててな。好きは好きなんだが、その言葉だけじゃ足りないんだ」
彼が真剣だけど、優しい視線をあたしに投げかけてきた。それはまるで、相沢君が栞に送っている視線のような、柔らかなものだった。
「オレは香里のことを知って以来、お前のことだけを見てきた。だからオレは香里がいつもなにかを抱えて悩んでるってことにも、気づいてた。栞ちゃんの病気が治った後も、ずっと抱え込んだものを離せずにいることにも、な」
吸い込まれるような彼の視線。告白されるときはいつも上の空だったあたしが、いまは違っていた。彼の視線に吸い込まれて、気がつかぬうちにあたしも彼と一緒に立ち上がっていた。
「なんで、あたしのことを見てたの?」
「それは考えてもよくわからないんだが……。だけどとにかく、香里の抱えてるものをどうにかしてやりたかった。もっと心から笑えるようになって欲しいと思ってた。それだけじゃなく、オレだって大した人間じゃないんだ。誰かに、側にいて欲しいと思うこともある。オレだって人を選ぶ。できれば、香里に側にいて欲しいと思う」
一歩、彼が近づいてくる。彼の目に吸い込まれたままのあたしは、彼から遠ざかることもなにもできず、立ち尽くしている。
「男としちゃヘンなのかもしれないが、でも本当だ。オレは香里に側にいて欲しいと思うし、香里の抱えてる想いも、どうにかしてやりたいと思う」
いきなりじゃなかった。ゆっくりともう一歩近づいてきた彼が、両腕を広げて、あたしの身体を抱きしめた。
それまで吸い込まれていた視線がなくなって、あたしは目を閉じた。自然と身体を彼に預けていた。両手を彼の身体に回すことこそなかったけど、彼の胸の中であたしは大きく安堵の息をついていた。
「香里。お前は人一倍弱いんだ。だから、忘れることで逃げちまうんだ」
「うん、そうなの。弱くて、逃げたくなんてないのに、逃げちゃう。誰かに話せば少しは楽なのかもしれないけど、あたしは栞の姉で、栞よりもしっかりしてなくちゃいけなくて、いつのまにか自分のことを話すのが苦手になってた。苦手で、堪えられなくて、でも話す人がいなくて、あたしは忘れることを憶えた。それがダメだったの……」
「辛いだろう、忘れちまったら。それに悲しいだろう、本当に想ってる人のことを忘れるなんて」
「うん……」
下ろしていた手を彼の胸に当てて、目を閉じたまま彼の肩に頭をもたせかけた。
辛くて、胸は痛むけど、でも安らかだった。彼の胸の中で、あたしは生まれて初めて感じるような安らぎを得ていた。
「今回も、忘れちまうつもりか?」
「そんなこと、したくない。したくないけど……」
「本当になにもできないのか? よく考えてみろよ。少しできることがあるなら、それを全部やって、そして憶えておこうぜ」
「そうね」
彼の胸の中で、なにができるかを考える。
病院ではもう、月宮さんには会えない気がした。どこかで会えないかと、あたしは考え続ける。
『気がつくと、そこにいたりするんだよね』
そんな彼女の言葉を思い出す。
――月宮さんが気がつくと言っちゃう場所って……。
たぶん、秋子さんなら知ってるはずだ。過去の相沢君と月宮さんのことを、忘れてしまった相沢君の他に唯一知ってる人のはずだから。
「あたし、行ってくる。なにができるかどうかわからないけど」
「わかった。できるところまでやってこい。どうなっても、オレはお前のことを待ってる。お前のためにオレの胸を開けておく。涙は、オレの胸で受け止めてやる」
「そのときは、お願いね」
「あぁ」
一度強くあたしの身体を抱きしめた後、彼はあたしの身体を離した。
「じゃあ、行ってくるわね」
「おぅ、行って来い」
彼のかけてくれた優しい笑みが、なぜかあたしの胸の奥の穴を、満たしてくれるような気がした。