エリカの花が散る頃に   作:きゃら める

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第六章

 第六章

 

          * 1 *

 

「そう、わかったわ」

 言って秋子は受話器を置いた。

「さて、やるかな」

 小さくかけ声をかけて、彼女はキッチンへと入っていく。

 水瀬家は既に夕食は終わって、全員風呂にも入り終わっていた。それでも秋子は、キッチンでなにかの準備をしている。

「あれ? お母さん?」

「あら名雪。まだ起きてたの?」

「うん……」

 ダイニングに入ってきた名雪に笑みをかけながらも、秋子は作業の手を止めない。

「お母さん、わたし……」

 側まで来た名雪は、そう言って潤んだ目を秋子に向けてきた。

 作業の手を止めて、秋子はしばらく名雪の目をただ見つめる。しばらくして秋子は名雪のことを見つめながら笑みを浮かべた。

「その様子だと大丈夫そうね」

「……うん」

 まだ弱々しくともしっかりとした頷き。秋子は名雪の頭に手を乗せ、彼女の髪を撫でた。

「それでこそわたしの娘ね」

「うん……。うん……。あの、お母さん……」

「ちょっと待って、名雪」

 一気に表情が崩れそうになった名雪を押しとどめて、秋子は側に置いてあったボールを手渡した。

「これから必要になる人が家に来ると思うの。早めにつくってしまいたいから、手伝って」

「え?」

 渡されたボールと秋子の顔を交互に見て、不思議そうな表情を浮かべる名雪。

「わたしにできることは、これくらいだから」

 そう言って秋子は、ガスコンロの上に置いてあったたい焼きの焼き型を名雪に持って見せた。

 

            *

 

 最初病院に行こうと思ったけど、とって返してあたしは水瀬家に向かった。

 初めのうち走っていたけど、息が切れて走れなくなって、でもできるだけ早足で向かっていった。気がつくともう、そこは水瀬家の玄関の前だった。

「夜分遅くすみません。美坂です」

 門の脇にあるインターホンを鳴らしてすぐにそう声をかけた。そこから返答はなく、すぐに玄関の扉が開いた。

「いらっしゃい、美坂さん。待ってたわよ。入ってらっしゃい」

「え?」

 出てきた秋子さんにかけられた声に、あたしは驚きつつも門を通って開いてる玄関の扉をくぐった。

「いらっしゃい、香里」

「え? 名雪もいるの?」

「はい。とりあえずこれね」

 そう言って差し出された紙袋。受け取って中を開けてみると、そこには焼きたてらしい、まだ湯気が立ってるたい焼きが入っていた。

「これは、あの……」

「必要でしょう? いまの美坂さんには」

「――はい」

「それと美坂さんが知りたいのは、あゆちゃんと祐一さんの思い出の場所ね」

「そうです」

「あそこはね――」

 なにも言ってないのに、秋子さんはその場所を詳しく教えてくれた。

「それじゃあわたしは、片づけがあるから」

 教えることだけ教えてくれて、奥に行ってしまった秋子さん。玄関口には、あたしと名雪が残された。

「ゴメンね、名雪。本当にゴメン」

 あたしは名雪に、とにかく謝った。これまであたしのことで彼女の気持ちをどれくらい揺らしてしまったのかわからないくらいだったから。

「うん」

 ひとつ頷いた名雪は、弱々しいものだけど、微笑みを浮かべる。

「大丈夫だよ、わたしは。それより香里、頑張ってね」

「うん、わかってるわ」

 あたしもまた名雪に微笑む。

「じゃあ行ってくるわね」

「うんっ」

 名雪の声を背に受けながら、あたしはその場所に向かっていった。

 

            *

 

 一階が静かになったことに祐一は寝返りを打つ。

 秋子と名雪がなにかをしているのはかすかに伝わってくる音で聞こえていたが、なにもしないでいた。そのことで誰かがやってきていたのも知っていたが、栞であれば呼ばれるであろうと思って、ベッドに寝転がったままでいた。

 ――来たのは、香里だろうな。

 推測はできていても、もう祐一には彼女にできることはない。昼間のうちに精一杯のことをした。それ以上、できることなんて思いつかなかった。

 ――なにもできねぇよな、俺って。

 もっとなにかできるくらいの人間であればと思う。香里が抱えているものをどうにかしてやりたいとも思う。しかしそれをするときは香里の心に踏み込まなくてはならないのはわかっていた。それも、深く踏み込まなければならないことが。そうなったとき、自分も香里もそれまで通りの関係に戻れるかどうかわからなかった。

 自分には栞がいる。必要以上に他人の心に踏み込むことは、たとえそれが助けになることであっても、そんなことは優しさではなく残酷さであることを、祐一は承知していた。

 ――もっと、強い人間になりたいよな。

 思いながらも、彼は自分が間違ったことをしていないと言う自信があった。

 ――もっと他に、俺にできることがあっただろうか?

 家に帰ってから何度となく考えていたが、思いつくことなどなかった。

「祐一さぁ~ん」

 考えているときに一階から秋子の呼ぶ声が聞こえてきた。

 ――なんの用事だろう?

 またなにか手伝いすることでもあるのかと思いつつ階段を下りていくと、秋子に並ぶように、玄関口に栞が立っていた。

「あ、祐一さん」

「どうしたんだ? 栞」

 驚きながら栞の前に立った祐一に対し、栞は安堵の息をもらす。

「すみません。でも、祐一さんに会いたくて……」

「そっか」

 ――たぶん、香里のこととか、あったんだろうな。

 栞の気持ちを察して、普段ならこんな時間に訪ねてきたらいくら彼女でも怒るのに、祐一は笑みを浮かべた。

「上がっていくか?」

「えぇっと、はい」

 少し頬を赤らめて、靴を脱いだ栞が先に階段を上がり始めた祐一の後を着いていく。

「あ、栞ちゃん」

「はい。なんでしょう?」

「今日は本当にありがとうね」

 そんな栞を引き留めて、秋子が深々と頭を下げる。

 祐一にはなんのことかわからなかったが、ふたりの間でなにかあったのだろうくらいの予測はついた。

「いえ、とんでもないです。夢の中で、あの人が奇跡を起こしてくれたってこと、知ってましたから。だから私も、力になれるなら、って思ってました」

「そう、だったらよかったわ」

 やっぱり祐一には意味がわからなかったが、ふたりは微笑み合っていた。

 そして祐一は栞を連れて自室に入った。とりあえず彼女をベッドに座らせた後、どうしようかと迷う。

 突然会いに来るのは、こんな時間であるのはともかく、初めてではなかった。と言って今回のような状況で、どうしたらいいのかを、祐一は迷っていた。

「祐一さん、あの……」

「どうした? 栞」

 かけられた声に栞に微笑みかける祐一。そのとき見た彼女に潤んだ瞳に、彼はすべてを理解した。

 栞の前に立ち、祐一はそっと両手を広げた。胸の中に飛び込んで来た彼女をしっかりと抱き留めてやり、しばらく見つめ合ったあと目をつむった彼女の唇に、自分の唇を重ねた。

 言葉などいらなかった。ただ彼女の求めに答えてやるだけでよかった。

 ――栞には俺がいる。俺には栞がいる。それで、いいんだな。

 自分は栞に対してやりたいと思うことを、やるべきと思うことを精一杯やっていると実感することができた。だから祐一は長く続いたキスの後、彼女の身体をそっとベッドに横たわらせた。

「愛してるぜ、栞。お前だけを」

「――はい」

 恥ずかしさで真っ赤になっている栞に、祐一はもう一度唇を重ねていった。

 

 

 二階から聞こえてきていたかすかな物音は、聞こえなくなっていた。

「ふぅ……」

 大きく溜め息を吐き出し、名雪は深くうつむく。

 香里が行ってしまい、栞が来た後の名雪に、眠気などなかった。明日はもちろん学校があったが、二階に上がってベッドに入ることすらためらわれた。だから名雪はダイニングにいて、ただテーブルの前に座っていた。

 ――いいんだよ、これで。

 納得しながらも、細かく震える身体を止めることはできなかった。

 泣きたかった。でも泣けなかった。祐一の胸の中で涙は流し終えてしまっていた。

「名雪」

 キッチンの後始末を終えたのだろう。声をかけながら秋子がやってきた。

「お母さん……」

 顔を上げて秋子のことを見ただけなのに、流し終えたと思った涙がまたあふれてきそうになった。

「わたし……、わたし……、大丈夫だから」

「そうかしら?」

 優しく言いながら、秋子は名雪の側にやってくる。

「名雪。あなたはわたしの娘よ」

「うん」

「そしてわたしは、あなたの母親よ」

「うん――。うんっ」

 その言葉だけで、名雪は理解した。秋子の言葉に頷き立ち上がった名雪は、広げられた腕の中にそっと身を寄せた。

「わたし、わたし、本当に大丈夫だから」

「えぇ」

 あふれ出した涙は、秋子の豊かな胸元を濡らしていった。その胸は祐一のものとは別の意味で暖かくて、そして優しかった。

「いまは少しだけダメだけど、泣きやんだらもう大丈夫だから」

「そうね。わかってるわ」

 髪を撫でてくれる大きいようで小さな手は、自分の母親のものだった。

[newpage]

 

          * 2 *

 

 もう夜も深夜に近づいてる時間だったけど、星灯りを辿って、その場所に着くことができた。そこにある大きな切り株に座って、あたしはただ彼女が現れるのを待つ。

 こここそが、月宮さんにとって思い出の場所。彼女が相沢君と一緒に遊んで、そして大怪我をした場所……。

 秋子さんにはここだろうと言われてたけど、自信があるわけじゃないみたいだった。あたし自身も、病院よりも可能性は高いと思っていても、本当に月宮さんが現れてくれるかどうかなんてわからなかった。

 それでも、待っていること以外、できることなんてなかった。

 長い入院が祟って衰弱してしまっている月宮さんの身体。もう彼女の命は、消えゆこうとしていた。

 もしできるなら、あたしは月宮さんが逝ってしまうまで待ち続けるつもりだった。

 ――もう一度、話がしたいの。現れて、月宮さん。

 見上げた星々に、あたしは祈っていた。

 

 

 ボクはただ、奇跡を起こすためにいた。

 それはもしかしたら、本当の想いを伝える力を与えてくれた夢の主さんが与えてくれた、たったひとつの希望なのかも知れなかった。

 もしボクが祐一君に望まれたら、ボクは眠り続けていた時間を終えて、起きることができる。

 でもボクは祐一君に望まれることはなかった。ボクの力は、祐一君にとって最愛の人を、栞さんを救うのに使われた。

 だからもうボクにはなんの力もなかったし、生きている意味なんてなかった。

 ――それだったら、なんでボクはまだ生きてるんだろう?

 死んでも構わないはずなのに、ボクはまだ生きていた。

 ――でももう、そんなことどうでもいいんだよね。

 眠り続けるボクの本当の身体は、もうすぐ死んでしまう。だからいまこうしているボクも、ひとり寂しく消えていくはずだった。香里さんにもう一度会いたいと思うこともあるけど、もうわかり切ってることなんだから、どうしようもなかった。

 ――もしボクが祐一君に望まれてたら……。

 思ったところで、すべては手遅れなのはわかっていた。こうやってそんなことを考えてる自分ももうすぐ、消えてしまうんだから。

 ……そうだと思ってた。そのはずだった。そうなるべきなのに、そうならなかった。

 あの人が、そこに現れたから。

 

 

 気がつくと、空は白み始めていた。

 さすがに待ち続けて眠気に襲われていた。ともするとそのまま眠りに落ちていってしまいそうだった。

 最初は熱かったくらいのたい焼きも、紙袋を触ってみても冷たさしか伝わってこない。それでも袋を開けてみると、かすかにいい匂いが広がった。

「冷めちゃったみたいだけど、いい匂いだね」

「……なんたって、秋子さん特製のたい焼きだからね」

「そっか。温かいうちに来るべきだったね」

「そう。そうよ、月宮さん」

 顔を上げるとそこには、あの元気な月宮さんがいた。

「えっと、ボクは、その……」

「いいの。待ってたわよ、本当に」

「ゴメンね」

「いいわよ、来てくれたんだから。もう一度会って話がしたかったのよ、あたし」

 言いながら紙袋を切り株の上に置いたあたしは、彼女の身体を抱きしめた。

「ボクも、もう一度会って話がしたかったよ。でもできるかどうかわからなかったんだよ。ボクは、夢の主さんの使いで、夢の主さんの都合のいいようにしかいないから……」

「どうにかならないの? もう一度奇跡を起こして、自分を助けることとか」

「できないよ。ボクにできるのは、一回だけの奇跡だもん。もうそれは使っちゃったから、ボクにはなんの力もないんだよ」

「そう……」

 ともするとまたすぐに消えてしまいそうな月宮さんの身体を、あたしはさらに強く抱きしめる。

『ただひとつの真実と、それを持つことができる、本当の自分』

 相沢君の言葉を思い出して、あたしは考える。

 ――本当のあたし……。

「別れたくない。忘れたくないよ」

 自然と言葉が出てきていた。

「月宮さんと別れたくないの、あたし。もっともっと、いろんな話がしたいの」

「ボクもそうだよ。でも、でも……」

 口ごもる月宮さんにかける言葉がなかった。奇跡を起こしたいと思う。でもあたしにはなにもできない。彼女を助ける方法も思いつかないし、本当に心の底から月宮さんと別れたくないと願っているのに、奇跡を起こす方法なんてわからなかった。

「行かないで。あたしだって寂しいの。月宮さんがいなくなったら寂しいのよ。ずっと一緒にいて。もっといろんな話がしたい。だから、行かないでっ!」

 月宮さんのことを抱きしめながら、あたしは叫んでいた。心の底から思ってることを、声にして叫んでいた。

「ありがとう、香里さん。でもゴメンね。時間なんだよ」

「ダメ。ダメっ。行かないでぇーーっ!!」

 声を上げた瞬間、腕の中にあった月宮さんの身体の感覚がなくなった。

 なにもなくなった腕の中には、かすかに光の粒が残っていて、でもそれも、すぐに消えてしまった。

「なんで……。どうしてなの……」

 震える唇からこぼれ落ちていく言葉。

 願ってたのに、祈っていたのに、叶わなかった。奇跡は起きなかった。

「嫌だよ、そんなの。もう、もう――」

 やるせなくてつむった目から、涙が流れ落ちた。一度流れ始めた涙は、止めようがなかった。

「いやあぁぁぁぁぁーーーーーーーーーっ」

 あたしの叫びは、森の中にこだまして消えていった。

[newpage]

 

          * 終 *

 

 冬が長くて夏が短いこの街だけど、夏休みもあと数日に迫るくらいの今日は、日差しが強すぎて暑いくらいだった。

「高校最後の夏休みだからな。遊ばねぇ手はないぜ」

 あたしに名雪、北川君と栞が集まる教室の隅で、相沢君が高らかに宣言した。

「……大丈夫なんですか? 祐一さん」

「大丈夫だって。そんなに遊びまくるわけじゃなし、どうにかなるって」

 不安そうな顔を見せる栞に、相沢君は屈託のない笑みを見せる。

「やぁっぱり言ったよね、祐一」

「なにがだ?」

「憶えてないんだ……」

 相沢君の答えに名雪はあきれたように息を吐き出した。

「思えば祐一、期末の成績、良くなかったんだろ?」

「言うな北川……。補習は全部片づけたぜ……」

「ギリギリセーフで、でしょ?」

「名雪ぃ~~」

 泣きそうな声を上げている相沢君のことを、みんなで笑っていた。

 夏の日差しが差し込む静かな放課後の教室で、ゆったりとした時間が流れている。そんな様子にほっと安堵の息をもらしながら、あたしはそっと背中をもたせかける。

 あたしの後ろには北川君がいて、なにも言わずに背中を預けたのに、そっと手を添えて支えてくれた。

「ふぅーっ」

 もう一度あたしは安堵の息をもらす。

 ただ背中を預けただけなのに、こんなに安心できるという感覚。受け止めてくれるという実感。

 みんな寂しがり屋だと言っていた月宮さんの言葉をあたしはいま理解していた。こんな安心が得られるんだったらもっと早く知っていたかったと思うほどに。

「あ、そだ。思えばあの娘はどうするのかな」

「んあ? あぁ、それだったらそろそろ家に着いてる頃だと思うぞ」

 名雪の疑問に相沢君が答える。

 あたしもまた彼女に想いを馳せた。

 

            *

 

「今日はごちそうをつくらないとね」

 その日仕事が休みだった秋子は、ひとりつぶやきながら秋子は冷蔵庫の中身を見ていた。

 静かな家の中で、冷蔵庫の稼働音だけが鳴り響いている。

「あれとこれと……、あれも足りないわね」

 足りない材料をテキパキと記憶しているとき、インターホンが鳴った。

「来たみたいね」

 笑みを浮かべて冷蔵庫を閉めた秋子は、エプロンで両手を拭きつつ玄関に向かった。

 ひとつ息をついてから、秋子は玄関の扉を開ける。

「いらっしゃい。あゆちゃん」

「えっと、お邪魔します……」

 そこに立っていたのは、月宮あゆだった。

「あら、髪、切ったのね」

「うん……。ちょっと、切り過ぎちゃったんだけど……」

「でも似合ってるわよ。それよりもさぁ、入って」

「うんっ!」

「あゆちゃんの部屋、準備できてるわよ。泊まっていくのは、どれくらいだったかしら?」

「えぇっと……、一週間、かな? お世話になります」

「固くならなくていいのよ。家族が増えて、楽しくなるわ」

「よかったぁ。ボク、そんなに長い間人の家に泊まったことないから、ちょっと心配なんだけど……」

「大丈夫よ。ね?」

「うんっ」

 そして水瀬家の中で、秋子とあゆの明るい声がいつまでも満ちていた。

 

 

           「エリカの花が散る頃に」 了

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