「そういえば、どうやって校舎に入りましょう」
フランチェスカの要望通り、“反転”の“結界”の様子を確認しに行く事にした。
今俺達が居るのは
だが、敷地を囲う塀は高い。二メートル以上ある壁は、普通の人間であればよじ登るのも一苦労だ。フランチェスカの様な少女には超える事は難しいだろう。
あくまで一般人であれば、だが。生憎と俺は魔術師なので、この程度の高さの壁なんともない。
一度眼鏡を掛けて、直ぐに外す。俺の精神を強制的に高揚させるスイッチだ。高揚と共に魔力が通る回路が開いていくのを確認して、“身体能力強化”を発動する。
「フランチェスカ」
「はい……きゃっ!」
一応名前を呼んでからフランチェスカを抱きかかえ、彼女を地面から遠ざけた。
事態が分からずに顔を赤くしたまま混乱しているフランチェスカに「舌を噛むなよ」と忠告した。
その言葉は通じたのか、はっと口元を手で押さえて何度か頷いて答えてくれる。その様子がどこかおかしくて笑いそうになったのは黙っておくべきだろうか。
ここからならグラウンドの方に侵入出来る。足に力を籠めて跳躍し、二メートル以上の壁を軽々と飛び越える。地面に着地した後、自らの意志ではない急な浮遊感、そして墜落感に襲われたフランチェスカは小さく呻いていた。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
ほんの一瞬の出来事による負担は、それこそ一瞬だったようだ。応答にも問題はないし、活動に支障は残らないだろう。
フランチェスカを降ろす為に腰を落とそうとするが、それを阻止するかの様に服を握られる。どうしたのかと彼女の顔を見てみれば、さっきから赤い顔を更に紅潮させている。
何かを言いたそうにして、後一歩踏み出せないでいる。そんな様子だった。
少し待ってみれば、やがて意を決したらしい。服を握る力を強くして、口を開く。
「あ、あの……あたし、重かったですか?」
「重い? 体重の事か?」
訊かれた意味が分からなかったので訊き返すと、恥ずかしそうに頷かれた。
三メートル程の跳躍が出来る今の俺に対して、フランチェスカの体重は何の障害にもならない。
俺が質問の意図を掴みかねているのを察したフランチェスカが、気恥ずかしそうに顔を伏せてぼそぼそと呟いた。
「え、えと……あたし、きっと芳乃君があたしを目覚めさせた時より、体重が……」
「あぁ……成程な」
要するに自分が太ったのを気にしているらしい。
そんな事を気にする必要はないだろうに。フランチェスカはまだまだ痩せている方だし、どれだけ悪く見積もっても標準体型だ。
「元々が軽過ぎたんだよ、お前。背負って帰ってる時、本当に人間を負ぶってるのか心配になったぐらいだ」
同じ布団で眠る時だって、寝ぼけた表紙に手折れてしまわないか不安にもなった。
それぐらいフランチェスカという少女は儚くて、あいつが明日のお昼代を契約の代価に選んだ理由にも納得がいった。
今の食べ物はフランチェスカが生きていた時代よりずっと栄養価も高い。栄養失調染みた身体に肉がついてきてくれたのは、寧ろいい傾向だろう。
「俺が言うのもどうかと思うけど、まだまだ成長途中なんだからちゃんと食えよ」
「それなら、いいですけど……。で、でも、太ってきたって思ったら言ってくださいね?」
そう言われると、どうにもフランチェスカという少女を意識させられる。
こうして触れ合っている場所から伝わる高めの体温。身体の柔らかさ。指と指の間を流れる、薄青の絹糸。
それ等をこれ以上感じているのは不味い気がして、フランチェスカの許可も取らずに彼女を降ろした。
意外とすんなり体勢を整えてくれたフランチェスカは、俺の動揺に気付いたのか心配そうにこちらを覗き込んだ。
「何でもない」と短く答えて、俺は校舎の方へ歩き出した。フランチェスカも慌てて俺の後ろを着いてきて、服の袖を掴んでくる。
昇降口まで辿り着いた俺達は一旦そこで待機をする。“反転”の“結界”は既に作動していたが、いきなり入るのも憚られる。
一人で行くのなら、きっと躊躇う事無く踏み込んだだろう。だが、フランチェスカと行くのは……心の準備が、必要だった。
そんな俺の様子に気付いたのか気付いていないのか、フランチェスカは不思議そうに訊いてきた。
「“結界”が動き出した後って、あたし達は中に入れるんでしょうか」
その質問に、どうやら悟られてはいないようだと内心安堵する。
「何を今更。入れるに決まってるだろ」
「そうなんですか?」
「お前の“結界”は“結界”としては作用してないよ。元々の性質が内部に入れない性質か外部に出さない性質かは知らないが、“反転”の性質はそれすら“反転”させてる。つまり誰でも出入りは自由だ」
「へぇ……“結界”って、そんな性質があったんですね」
フランチェスカが楽し気に頷いて、ショーウィンドウの様にぽーっと昇降口の奥を覗き込んだ。
そんなフランチェスカを横目に、俺は記憶の淵からあいつの事を思い出す。
“結界”の性質についてはあいつに教えてやった事だ。その性質を利用して、あいつは“結界”に捉えられた俺を助けてくれたりもした。
そっと目を閉じて、あいつとの思い出を打ち切った。目の前に居るのはフランチェスカだ。あいつじゃない。
だが、疑問を訊く時の期待した様子は確かにあいつと同じものだった。その陽炎の様な既視感を堪えて、どうにか会話を続けた。
「ま、つまりは正真正銘の異界だな。性質を“反転”させる異界なんて、世の魔術師が知れば垂涎ものだぜ」
「そうなんですか……? と言うよりは、知られてなかったんですね。そっちの方が驚きです」
「百四十年前の粛清自体が協会の黒い部分だし、大昔の出来事だからな。“制隠協会”の中でも知ってる人間は多くないし、協会に所属していない魔術師なんて知る由もない」
「あたしは魔術に全然詳しくないですけれど、そういうのって分からないんですか?」
質問をされて、それに答える。この感覚は久しぶりだ。
胸の穴が疼く感覚を吞み込んで、フランチェスカの問いに答える。
「お前が張った“結界”は“結界”としては作用してないのは言ったよな。出るのも入るのも自由だし、尚且つお前の想念が生んだものだから人為的なものじゃない。態々そこを調べない限り、魔術師じゃ見つけられないだろうな」
実際、上桐は自らが張った“結界”の中にもう一つの“結界”がある事に気付けなかった。
上桐は“反転”の“結界”を求めたわけではなく、学園そのものとそこで行われる生徒達の学校生活を欲していたのだから当然の事ではあるが。
とにかく、“結界”の特性はともかくとして、外界との差異を出さずに上手く世界に馴染んでいる。その隠匿性と併せて監視を続けていれば、悪用をしようとする魔術師の存在には直ぐに気付けるだろう。
「そうなんですか……でも、分かる人もいるんです?」
「それは“結界”を張った張本人だ。後は……まぁ、特別勘がいい人間とか」
「第六感……ですか」
フランチェスカの答えに頷く。あぁいう手合いは一番理不尽だ。
経験からでもなく、理論からでもなく、唯何となく気になった。そんな理由でこちらの手を暴かれるのは堪ったものではないだろう。
まぁ、俺にそんな知り合いは居ない。これからも知り合わない事を祈っている。
そんな事を思っていれば、どうにか俺の中での踏ん切りもついた。
「行くか」
「は、はい」
多少の緊張を抱えたままフランチェスカに手を差し出すと、自然な手付きで服の袖を握られた。
夜の散歩に行く前に必ずやっている事だ。そうしなければ、フランチェスカは夜道を歩く事もままならない。
フランチェスカは昇降口の扉に手を掛け、鍵穴を見つめ強く念じる。かちり、と鍵穴から小さな音がした。掛けられていた錠の状態が“反転”して解かれた証だ。
自らの生と死を“反転”させられる程の魔女であるフランチェスカにとっては造作もない事だ。尤も、フランチェスカは自らの身の自由と引き換えに、自然の摂理を覆す程の“反転”を使えば、俺の命を代償に彼女の心臓が止まる術式を俺と結んでいる。
今のフランチェスカには『魔女』と呼ばれる程の力はない。直接的な攻撃手段を持たない魔術師相手には反則染みた効果を発揮するが、それ以外の生活では今みたいに鍵を開けたりする程度の、ほんの少しのずるぐらいにしか使い道のない魔法だ。
それでいいのだ。フランチェスカがこれから生きる人生には、自然の摂理を覆す必要などない。
「……行き、ます」
静かに宣言して、フランチェスカは昇降口の扉を開けた。
少し重い扉が横にスライドし、校舎への入口が出来上がる。
だが、フランチェスカの足がその先に向かおうと動き出す事はなかった。
一体どうしたというのだろう。そう思い彼女の顔を覗き込めば、自らの愚かさを呪った。
「っ――――は、っ……は……」
フランチェスカは浅い息を繰り返しながら瞳孔を開いている。明らかに過度なストレスに襲われていた。
それは当然の事だ。ここはフランチェスカ自身が何度も死を迎えた場所なのだ。
一方的に命を奪われ、幾度とない痛みと他者の犠牲を感じながら必死に逃げ回り続けた地獄。
そんな場所に戻ってくる事が、フランチェスカにとってどれだけの負担になるかは想像すら出来ない。
少し考えれば分かる筈の事だったのに、どうして連れてきてしまったのか。
――――それとも俺は、自分の中の何かに引っ張られ、考えないようにしていたのか。
「……帰ろう、フランチェスカ」
『ここはお前が居ていい場所じゃない』と言わんばかりに腕を引いても、フランチェスカは頷いてはくれなかった。
唇を青くして、病的なまでに血色が悪くなり始めても、昇降口から目を逸らしはしなかった。
そうまでして意固地になる理由。それは――――。
「呼んでる人が、居ます」
ここに来たいと言い出した時と同じ理由だが、確信に近い物言いになっていた。
小さな身体が震える程に怖い癖に、誰かも分からない人間が呼んでいるから、お前は行くのか。
「確かにあたし、怖いです。でも、この人を放っておいたら、きっと後悔します」
……そういう所、変わらないな。
あぁ、そうだ。俺にも経験がある。“月に咲く
忘れなければいい筈だった。思い出さなくてもいい事だった。既に死んでいる人間なのだから、亡者の学園からの解放による影響を考慮する必要もない存在だった。
だけど俺は、彼女を一足先に亡者の学園から解放する為に、あいつと対峙した。
精神はずたずただった。身体に異常が無いのをいい事に、無理矢理に階段を上がっていった。
そうまでしてあいつを助けたかった理由は、心がそう望んだからだ。
理屈じゃない。完全な説明なんて出来ない。魔術師が聞いて呆れるが、それが全てだった。
きっと、今のフランチェスカもそうなのだ。だったら俺も付き合うしかないだろう。一瞬でも共感してしまった俺の負けだ。
どの道、俺が居なければフランチェスカはここを動く事さえままならない。置いて帰る気などないのだから、好きにさせてやろう。
先ずは緊張を解いて安心させるのが先決だろう。足が竦んでいるのでは移動もままならない。
「大丈夫だ。百四十年も経ってるんだぞ? お前を襲った連中はとっくに全員死んでるよ」
言ってから、自分の口下手ぶりに流石に呆れた。
これは慰めではなく情報だ。普段自分がこういった事に慣れていないのが仇となった。
フランチェスカもそれを理解しているのか、漸くこちらを見て、少し呆れたようにはにかんでくれた。
「……芳乃君、本当に慰め方が下手なんですね」
「だな。自分でも少しどうかと思ってる」
「大丈夫ですよ。……あたし、芳乃君がちゃんと言葉にしてくれる所、好きですから」
こんな俺を好いてくれるお前にどう答えてやったらいいのか、それはまだ言葉にはならない。
「お前が慰めてどうするんだ、立場が逆だろ」
「ふふ、そうですね」
それでもお前がそうやって笑ってくれたのなら、下手なりに何かを伝えた甲斐もあったのだろう。
多少は緊張も解けたのか、フランチェスカの足が動き出す。俺達は校舎の中へ足を踏み入れた。
「電気、点いてないんですね」
周りをきょろきょろと見回しながら、フランチェスカはそう呟いた。
俺もちらりと周りを見て、状況を確認する。俺を閉じ込めた忌々しい姿見も変わらずそこにあった。
嘗て、ここが亡者の学園だった頃は電気が点いていた。校舎の“結界”とは別に学園の敷地に沿って張られた“結界”が作用していたからだ。それが無くなった今、校舎を照らすのは窓から入る月明かりぐらいのものだ。
夜と呼ぶに相応しい、数メートル先も覚束ない闇。そんな場所に呼んでいる人間が居るとしたら、どうせそいつは碌な奴じゃないだろう。
俺には居るかどうかも分からないそいつを探さなければいけないのは気は乗らないが、そんな碌でもない奴とフランチェスカを一人で会わせるわけにはいかない。
「どこに行く? お前を呼んでいる奴を探さなきゃいけないだろう」
「……多分、こっちです」
自分が通っていた頃とは造りも違うだろうに、フランチェスカは迷う事無く歩き出した。
廊下を進んだ所で、丁度二階の渡り廊下の下に位置する場所に出る。校舎の外ではあるが舗装されている、体育館に続く道だ。
俺も異界と化した状態では来た事が無かった。七不思議達の内、元々の調査対象だった“林檎を剥くジャックナイフ”、“童話に還るアリス”、“走り続けるスプリンター”が立ち寄らなかったからだ。
俺があいつと行った場所は、家庭科室、図書室、グラウンド……そして、屋上。
「芳乃君?」
知らずに屋上の方を見てしまった俺を不思議に思ったのか、フランチェスカが俺の名を呼ぶ。
直ぐに視線を戻して、「何でもない」と答える。
あいつも眠りに就けているのだろう。願わくばその眠りが覚めないまま、世界に溶けていければいい。
「静かな夜だって思っただけだ」
「前はもっと騒がしかったんでしょうか?」
「……あぁ」
それ以上その問いに答える事無く、俺は体育館の方へ意識を向ける。
「お前の目的地は体育館でいいのか」
「確証はありませんけれど……。でも、呼んでるとしたら……ここです」
「そりゃまた、確証はないのに確信的な言い方だな」
俺の言葉に、フランチェスカは静かに頷く。
その横顔から恐怖心を抑えている事は明白で、俺の服の袖を掴む力がその度合いを教えてくれる。
「あたし……最後にここで封印されたんです」
階段の先にある体育館の扉を見つめて、魔女はそう呟いた。
当然、この体育館も建て直されている。彼女が死んだ現場としては、厳密に言えば別物だ。
「あたし、殺された時の記憶は正直ぐしゃぐしゃで。相手の顔も憶えてないですし、殺された場所の順番だって定かじゃないんですけれど。最初に殺された場所があの空き教室で、最後に封印された場所がこの体育館。それだけは……間違いありません」
フランチェスカの言う通りだった。協会の記録にもそう残されている。
自らの恐怖と戦いながら何とか進もうとするフランチェスカの背中を押せるかどうかは分からない。唯、その勇気を大事にしてやりたかった。
「じゃあ、行こうぜ。こんな悪趣味な場所にお前を呼ぶような奴には、何かしら言ってやりたい気分になってきた」
「……過保護ですよ、もう」
やっぱり呆れたようにはにかむフランチェスカ。その足が動き出すのと同時に、俺も体育館へ歩を進めた。