校舎の中の様子は昨日と変わりはなかった。おかしな魔力が充満している様子も、空気感が変わっている様子もない。
廊下の電気も相変わらず点いていない。数メートル先も覚束ない闇と淡い月明かりに支配された空間。緑の輪郭も存在しない。
もうこの校舎に、“亡者の学園”としての側面は残っていない。それだけは変わらない事実だった。
同じようにきょろきょろと周囲を見渡していたフランチェスカが、俺の顔を見上げた。どうやらフランチェスカも同じ了見のようだ。
フランチェスカの様子は昨日よりは少しだけましになっていたが、それでも緊張が解けているわけではない。呼吸は浅く、顔色も若干悪い。こうして止まっているのは得策ではない。
「じゃあ、先ずはどこに行く。外套の男を探すにしろ、ここに居続けてもしょうがないだろ」
「……そうですよね」
フランチェスカの気を紛らわす為にも行く先を問うと、そっとを目を閉じて、何かを感じ取るように静かに佇む。
魔法使いである彼女は、俺の様に頭で考えるよりかは、自らの感覚に頼って行動を決めたがる傾向があるのだろう。
これは俺にはない特徴だ。以前の俺なら魅力を感じるかどうかは怪しいところだが、今は不思議と信頼出来た。
それから五秒程。自分の中の感覚が答えをくれたのか、フランチェスカは目を開ける。
「確か、三……でしたよね」
「……外套の男が分裂した数がか?」
外套の男は自らを包んだ光ごと、風船が膨張しきるように三つに分裂した。
それは確かに重要な情報ではあるが、つい昨日の事をフランチェスカが忘れる筈もない。
何故その事を確認してきたのか疑問に思っていると、自らの質問の意図が正しく伝わっていない事に気付いたフランチェスカが首を横に振る。
「亡者の学園に誘われた、ここの生徒さん達の数です」
「……あぁ」
フランチェスカはあいつの記憶を完全ではないが読み取る事が出来る。
完全ではない故に細かい事は抜けているが、亡者の学園の事の顛末ぐらいなら理解しているようだ。
「えーっと……七不思議って、どんな人達なんでしたっけ」
そして細かい事は抜けているので、こうした事は俺が補足していく事になる。
説明と補足はあいつのせいで慣れたものだ。意識するより先に、俺は口を開いていた。
「出来事の順番から言うと、“反転する魔女”、“夢に誘う
「“反転する魔女”はあたしの事ですよね。“夢に誘う
「あぁ。残りの三人は、本来であればここに来る筈が無かった被害者だ。魔術や魔法なんてオカルトとは無縁の、完全な一般人だよ」
今ではそれぞれの悩みに答えを出し、前に歩み始めている。全部、あいつが言葉で想いを伝えた結果だ。
「その人達が居た場所……家庭科室、図書室、グラウンド。そこに、きっと居ます」
「ものの見事に焼き回しだな。……何が理由だ」
三つに分かれた光が、亡者の学園の被害者である三人が根城としていた場所に居る。偶然にしては出来過ぎだ。
だが、フランチェスカは頷いている。彼女の感覚はそこに居ると言っている。魔法使いの感覚を信じると決めた以上、俺はそれに従おう。
「分かった。一番近いのは真後ろのグラウンドだけど……ま、ここは家庭科室からだろうな」
「ですね。ランチちゃんとの想い出もなぞっていきたいですから」
気合を入れるように両手を胸の前で握るのを見れば、一先ずはもう平気なようだと安心出来た。
……思い出をなぞるのなら、これを忘れてはいけないだろう。
「フランチェスカ」
名を呼ばれたフランチェスカに、俺はポケットの中から取り出したあるものを渡す。
「これって……」
「なぞるなら、これは外せないだろ」
明日のお昼代。あいつが契約の対価に選んだ、明日を生きる為の希望。
フランチェスカに対しても渡してきたものだ。だけど、そのお昼代には何の意味もなかった。
唯の明日のお昼代。誰もが持っている何の変哲もない硬貨。物質としては何の効果も持たない。
それをこうして嘗てあいつに渡していたように渡す事で、フランチェスカの中には何が生まれるのだろう。
いつも貰っているくせに、まるで宝物を手に入れたように大切そうに握り締める彼女を見て、そんな事を思う。
「ありがとう……ございます、――――」
礼の後の言葉は唇だけで紡がれ、声にはならない。
しかし、俺には唇の動きだけで内容が分かってしまった。たった一週間の間に、数えきれない程呼ばれた名前だったから。
「……行くぞ」
「は、はい」
記憶を断ち切るように足を進めた俺に、フランチェスカは慌てて着いてくる。
そうして二人並んで歩き出して目的地に向かう。特別棟に行くには渡り廊下を渡らなければならないので、先ず二階に上がってから渡り廊下を渡っていく。
「桜……咲いてませんね」
渡り廊下の途中の窓から中庭を眺めたフランチェスカが、ぽつりと呟いた。
「今は二月の終わりだから、こっちだと八月の終わりから九月の頭ぐらいだ。咲いてないのも無理はない」
「そっか、そうでしたね。あの桜、綺麗だったのに……あれ」
「……、」
意識せず口に出たのだろう。フランチェスカは自らの発言に驚いたように口に手を当てた。
目が覚めてから、フランチェスカは咲いた桜を見た事が無い。学園の中に咲いた桜なら猶更だ。
つまり今の発言は、フランチェスカの中のあいつの記憶が呼び起こされた事を意味していた。
目が覚めてからの数ヶ月間音沙汰が無かった記憶が、こうも簡単に呼び起こされる。
こうして学園を調査する事が、夜の散歩をするよりずっと効果的なのだろう。
「……気分が悪くなったりしていないか?」
「あ……はい。それは大丈夫です。行きましょう」
記憶の混流による体調不良などはないようだった。その点は素直に安心出来る。
フランチェスカが歩き始めるのに合わせ、俺も歩を再開する。
渡り廊下を抜け、階段を下りて右に曲がり、突き当りまで進めば家庭科室に辿り着いた。
「……久しぶりだな」
嘗て、“林檎を剥くジャックナイフ”が座していたこちら側の家庭科室。
今は主が居ないこの場所はあちら側と差異はない筈だ。中から声もしなければ、昂った感情による空気の淀みも感じない。
本当に三つの光の内の一つが居るのか怪しく思うが、それは扉を開けてみれば分かる事だ。
「……ここに居た七不思議さんは、“林檎を剥くジャックナイフ”さんでしたよね」
「あぁ。何と言うかまぁ、機嫌が悪いと刃物を投げてくるような奴だった。意外と会話は出来たけどな」
「刃物を投げてくる人と会話をしようとするなんて、魔術師って凄いんですね」
素直に感心してしまったフランチェスカが家庭科室の扉を開ける。“反転”の“結界”により、異界の入り口である昇降口、そして範囲の外に繋がる屋上の扉以外の鍵の状態は全て“反転”している。今なら特別棟のあらゆる教室には入り放題だ。家庭科室はジャックナイフが誰も入ってこないように鍵を掛けていたが、既に彼女はここには居ない。
緩やかに、微かな摩擦音を立てて扉はスライドする。開かれていく視界の中で、俺は月明かりを光源に内部を確認する。
「……異変はないな」
「そうなんですか?」
フランチェスカの声に頷く。全体を見渡す限りでは、何度か授業で使った際や三葉と会話をした際の記憶と違いはない。
「あぁ。前は包丁指しにジャックナイフが刺さってた。軽いスプラッタだったな」
「スプラッタ……?」
聞き慣れない単語に首を傾げるフランチェスカ。その隙に、俺はフランチェスカを追い越して家庭科室の中に入る。異変はないが、危険がない確信もない。
「――――お前は」
そうして足を踏み入れた俺の存在に、どこかの誰かが反応した。若い男の声だった。
追いついてきたフランチェスカと共に、声がした方を見る。
――――居た。嘗てジャックナイフが座していた家庭科室の奥の一席。そこに、俺達以外の人型が存在していた。
先日邂逅した外套の男と同じ、黒い外套を纏い、フードを深く被る事で一切の外見を隠蔽した男。
「フランチェスカも、か……」
「こ、こんばんは……」
男はフランチェスカの事を知っているようだった。
そして口振りからして、俺の事も知っているのだろう。
「……お前は、体育館に居た黒い外套の男が分裂した姿だな」
俺とフランチェスカの存在を知る、黒い外套の男。この条件に当て嵌まる可能性は一つしかない。
そして、その可能性は間違いではなかったのだろう。男は布の奥に隠された眼光を俺に向けた。……この視線は、外套の男から受けたものの一部だ。
「態々確認する必要もないだろ。知っているからここに来た。俺に会いに来た。違うか?」
本人から認められた言葉を受けながら敵対行動を取らないのは、この男から邪気を感じなかったからだろう。
それは向こうも同じの筈だ。構え一つ取る事無く、俺の存在を睨み続けている。敵対心はあるのだろうが、一応こうして会話が出来る可能性があると分かったのは収穫だった。
その敵対心に対しても問題はない。男の憶測は正しくはない。その言葉を掛けるべきは俺ではなく、もう一人の方だからだ。
視線でフランチェスカの方を見ると、意図を理解したフランチェスカは俺の横に並んだ。
「あの……あたしの方なんです。あなたに会いたいって思ったのは」
「君が……?」
男は不思議そうにフランチェスカを見た。表情が見えない割には感情が分かり易い奴だ。
「その……どうして昨日、あたし達を襲ったのか。それを知りたくて」
「……それは」
男からの答えはなかった。
そこには罪悪感や後ろめたさはない。答えられないのが当然であるかの様に、自然な様子で男は沈黙する。
答えが返ってこないと思っていなかったフランチェスカも、困ったように黙り込んでしまう。このままでは埒が明かないのは明白だった。
「お前はフランチェスカの問いには答えられない。そうだな」
男は俺の方を見るが答えない。沈黙が肯定だった。
「なら、もうここに用はないな。行くぞ、フランチェスカ」
「芳乃君……」
「お前の目的は外套の男の真意を知る事だっただろう。こいつにそれは期待出来ない。分かっただろ」
フランチェスカの性格からして、後ろ髪を引かれる気持ちになるのは理解出来る。
だが、目の前に居るのは昨日俺達を襲った男が分裂した姿だ。今はまだ危害を加えてこないが、何時敵対するかは分からない。
「……
担いででも家庭科室から出ようとした時、男が俺の名前を低く呼ぶ。
男の声色は恨みだった。俺に向けた感情だけではない。この世界全てを呪うかの様な、己さえ対象にした怨嗟の音色。
その対象から外れているのは、きっと俺の隣に居る少女だけだ。
俺の反応があるかどうかなんてお構いなしに、男は言葉を紡ぎ始める。
「お前にとっての本物はもう出会っている」
あいつの事を言っているのは明白だった。
一人の魔術師の興味によって出会った二人は、恋情の夜を駆ける契約を結んだんだ。
それが
「俺にもあった。本物が」
「……、」
遠い過去を想うように。男は恨みを綴る。
「何故自分がこんな事をしなければならなかった。そんな事を思った事はないか? ……俺はあるぜ。無限にな。恨めしかった。周りの人間が。当たり前にその場所に居る人間が。……俺自身の責任が。気が狂う程に恨んだよ」
それは誰の経験なのだろう。こいつが体育館に居た外套の男の一部であるのなら、外套の男の経験なのだろうか。
「お前も喪ったんだろう。最愛の少女を」
「……、」
「穴が開いたんだろう。お前の心に」
三つに割れたとしても、やはりこいつは外套の男である事には違いないようだった。体育館で奴に言われた事と同じような内容を、再び俺に突きつける。
男の言葉に、フランチェスカは切なげに俺を見る。その心境がどういったものであるか、想像するまでもないのが後ろめたい。
「お前はフランチェスカの傍に居ていい人間じゃないんだよ。お前がそうやって彼女を求める程に、フランチェスカ自身を傷付けていくんだ」
「……、」
フランチェスカの息を呑む音が聞こえた。つまり、それは真実なのだろう。
「何故お前がフランチェスカの傍に居るんだよ。交わらない筈だったお前が、安息を破ってそこに居るんだ。この恨みは、その事実だけが湧き起こしている」
「……さっきから黙って聞いていればべらべらと。お前に用はないって言った筈だ」
「断ち切ろうとするのは怖いからだろう? お前の行いがフランチェスカを傷付けている現実を見つめる事が」
それが俺の罪であるように、この男は俺への恨みを突きつける。
「開いた心の穴を塞ぐ為に、お前は何をしてきた? そうして何を得た。お前が欲するものは手に入ったのか?」
「勝手に言ってろ」
俺とフランチェスカの問題に、これ以上口出しされる理由はない。
フランチェスカの目的も果たせない。こちらに害を為してくるわけでもない。恐らくこの校舎からは出られない。そんな存在を、これ以上相手をする理由なんてなかった。
無理矢理にでも踵を返そうとした時、今までずっと黙っていたフランチェスカが男の方を見た。
その瞳はいつもとは様子が違う。気弱ささえ感じてしまう穏やかさはどこかへ消え、微かな怒りを感じさせた。
「これ以上芳乃君を責めるのは止めてください」
フランチェスカの言葉に、俺と外套の男は言葉を失った。
「……芳乃君の事、何も知らないじゃないですか。何が分かっていてそんな事を言うんです」
「フランチェスカ……お前」
「嫌なんです……一人ぼっちでお昼代も無くて、お腹が空いている事より。あたしの事を“反転の魔女”だって呼んで、命を狙われる事より。あたしの大好きな人が、あたしの事で悪く言われるのはずっと嫌」
睨むと言うには圧が足りない眼差しで、それでも精一杯外套を牽制する。
自分の事ではこんな風に自らを奮い立たせる事なんてしないだろう。唯相手に言われるまま黙って耐え、時が流れるのを待っている筈だ。
その見解は間違いではないようだ。外套の男さえ驚いたように黙ってフランチェスカの言葉を聞いている。それだけこの男の中のフランチェスカとは違う性質を見せつけられた証だ。
そしてその動揺を表すかの様に、男の姿に異変が誘われる。
「っ――――」
「お前……!」
ノイズの様に、男のシルエットがぶれる。それを皮切りに徐々に輪郭が光の粒子と変わっていく。
嘗ての七不思議達とは違う。光の粒子だけ見れば、まるで昨日の外套の男の逆再生の様だと思えた。
「だ、大丈夫ですか!?」
思わず心配をしたフランチェスカへ、男は自らの異変の結末を知っているかの様に首を横に振った。
だが、その様子は穏やかだった。気が狂う程に何かを、何もかもを恨んだらしい男に似つかわしくない、精一杯の強がりに思えた。
「君は……何時でも優しいな」
「え?」
「お腹が減っていても、他の子に食べ物を分けてあげていただろう。学校では一人で寂しくても、皆に学校の楽しさを伝えていたな」
「……どうして、それを」
既に殆どが粒子と化した男は、フランチェスカの問いに答える事はなく、譫言の様に自らの何かを振り絞る。
「幸せになればいいと思っていた。報われてほしいと願っていた。だから……俺が幸せにしたかった」
願望を吐き出し、それを叶えてしまった事が限界だったのだろうか。
「フランチェスカ……君の本当はどこにある」
その言葉を残し、男は存在を家庭科室から消していく。
男を模っていた粒子が、存在しない風に乗るようにある方向へ流れていったのを、俺は見逃さなかった。