宵闇に満ちた神社の中で一人風に揺れる木々のざわめきを聞く。それ以外に音は聞こえず、辺り一面に生き物の気配は微塵たりとも感じ得ない。
『…あ…』
微かな音が久しく使われていなかった喉から零れ落ちる。誰も居ない、誰も見えない、誰も来ない。そんな神社の様子は活気という言葉とは程遠い場所に居た。
話し相手なんか望むべくもなく、唯独りきりで窓から覗く星の浮かぶ夜空をぼんやりと見上げていた。
薄っすらと空の白んできた早朝のシラカミ神社。そのキッチンの中には、今では恒例となった二人の姿があった。
「透君、お皿取って貰っても良いかな」
丁度手の空いた所で大神さんに声を掛けられ、戸棚から皿を取り出し彼女へと差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう。そっちはもう終わった?」
礼を言いながら受け取った大神さんはこちらの手元を覗き込み問いかけてくる。とはいえこれはあくまでも確認の為だ。
「えぇ、大神さんの方も終わったみたいですね」
「うん、今盛り付けが終わった所。…それにしても、常々思うけど二人だとかなり楽になるね。ウチは今まで一人でしか作ったことなかったから知らなかった」
「俺もです」
そう会話を交わす俺達の目の前には、既に器に盛りつけられた朝食が盆の上に乗っている。あとは之を居間へ運べばすぐにでも朝食に出来る形だ。
「問題と言えば少し時間が空く事ですけど…」
いくら早く調理を終えたと言っても直も相まってすぐに乾燥して、冷めてしまう。通常であればラップなどで対応するところだが、しかし現在は通常であるとは言い難く。
「そこはウチのワザの出番だよ」
大神さんは腕まくりをすると出来上がった料理の皿へと手を添える。すると徐々に薄っすらと空気の膜が張られていき、やがて盆ごと覆い包んでしまった。
「これで保温と保湿は万全」
「…本当に便利が過ぎませんかね、それ」
ふふんと息巻いて胸を張る大神さんに、俺は感嘆を通り越して最早呆れすら感じていた。ラップ替わりどころか完全に上位互換になっている。これでゴミも出ずに温度をキープできるとは、世に知れたら恨みすら買ってしまいそうだ。
「透君も誰かと料理することに慣れてきたよね。最初のころと比べて連携が取り易くなってるし」
「そうですか?…けど、確かに調理もしやすくなってる気はします」
このシラカミ神社にやって来て、こうして大神さんと共に料理を作るようになってから早くも数日が経過していた。最初こそ複数人で料理をすることに違和感も感じていたが、回数を重ねるにつれてそれも緩和していき、今では以前以上に落ち着いて調理が出来るようなった。
準備も終わったという事で大神さんは割烹着を取ると、ぐっと一つ伸びをする。
「んー、ウチはそろそろフブキとあやめを起こしに行こうかな。透君も一緒に起しに行く?」
「いや、俺は…ん?」
すちゃりと素早くフライパンとお玉を装備する大神さんに苦笑いを浮かべつつ返答しようと口を開くのと同時、不意にぴょこりと入り口から覗く白い獣耳が視界に映った。
「どうしたの?…あ、そういう」
唐突に言葉を区切った俺の視線を不思議そうに辿った大神さんもそれに気づき納得の声を上げる。
この神社で白い獣耳を持つ人物など一人しかいない。
「白上さん、そんなところで何してるんですか?」
声を掛ければピクリと覗いている獣耳が動き、それからそろそろと白上さんが顔を出してきた。しかし何故か彼女はその顔に悔しさをにじませている。
「ぐぬぬ、何で分かったんですか。白上の擬態は完璧だったはず…」
「完璧も何も耳が出てたよ。…それにしてもフブキがこの時間に起きてくるのは珍しいね、夜通しゲームをしてた訳じゃないんでしょ?」
そう話す大神さんは目を丸くしていて、かくいう俺もそれは同様だった。基本的に白上さんは大神さんが起こしに行くまで起きてこない。その為に神社では朝にけたたましい金属音が鳴り響く事が常と化していたのだが、今朝はそうもいかないらしい。
「あー…いえ、今朝は少し夢見が悪くって。この時間帯なら二人はここに居るかなと」
「夢見?変な夢でも見たの?」
「はい、そんな感じです」
聞き返す大神さんに簡単に返すと白上さんの視線は盆の上に乗せられた朝食へと向けられる。
「あれ、もう出来てる…。手伝いでもしようかと思ってたんですけど、早くないですか?」
もう完成してるとは予想外だったようで、キョトンとした表情を白上さんは浮かべた。そんな彼女に大神さんは誇らしげに鼻をならす。
「ふふん、そうでしょ。いつもならまだ出来上がってないけど、これも透君とウチの連携力の賜物だよ」
「恐縮です」
チラリと視線を送って来る大神さんに会釈共に返せば、白上さんは感心したように息を吐いた。
「はへー、けど納得です。ミオも透さんも料理上手ですもんね。」
「比べて、フブキは最後にいつ料理をしたのかな?」
意地の悪い笑みを浮かべた大神さんが揶揄い混じりに問いかけられて、衝撃を受けたように白上さんの身体が揺れた。
「それは…、いつでしたっけ…」
目を逸らしてのぼかした物言い。それだけでもかなりの期間を彼女が料理をしていないと言う事が読み取れる。
「白上さんも料理してたことはあったんですね。てっきりずっと大神さんが作ってたものかと」
そんな彼女らの様子を見ながら率直な感想を口にする。神社に来てから白上さんがキッチンに立つ姿を目にしていなかった為これは意外であった。
「住み始めの頃は交代で作ってて、その時はフブキも料理はしてたんだけど…」
「ミオが甘やかし上手なのが悪いですね。いつの間やら白上は堕落させられてしまったんです」
完全に開き直ってしまった。ふんすと胸を張る白上さんにさしもの大神さんも苦笑いを浮かべている。
「まぁ、ウチも好きでやってるからなるようになったと言えばその通りなんだけどね」
そう話す大神さんの顔には確かな友愛が含まれていて、彼女らの関係性を如実に表している様に思えた。こうした友人がいるというのは一種の財産ともいえるだろう。
話にひと段落が付いたところで、大神さんは「フブキが起きてきたなら」とお玉とフライパンを直して百鬼さんを起こしにキッチンを出ようとする。しかし、そんな彼女に待ったをかける狐が一匹。
「ちょっと待ってください。あやめちゃんと白上の扱いが違い過ぎませんか?」
「あやめをあれで起こすのは可哀想でしょ」
「可哀想ですけど!その慈悲の心を白上にも少しは向けて下さいよ!?」
何を当然のことを言っているのだという顔で言い放つ大神さんに悲鳴が上がる。毎朝餌食になっているだけありその凶悪さは身をもって知っているようだ。
「そんなに酷いんですか?」
「酷いなんてものじゃないですよ。目の前に雷が落ちるのと同等の音の衝撃が白上の耳を突き抜けて頭に鳴り響くんです」
フルフルと耳を震わせる彼女は何処か憐れにすら見えた。
「フブキが遅くまで起きないのが悪い」
そんな白上さんを一蹴する大神さん。白上さんには同情するが、これも長年の付き合いのなせる事だろう。
「…ちなみに自分は関係ないみたいな顔してますけど、多分あやめちゃんが特別なだけでミオは普通に透さんにも白上と同じ起こし方をしますよ」
「へ?…いやいや、流石にそんな事は…」
言いながらチラリと大神さんへと視線を向けて見ると、サッと大神さんに目を逸らされた。
「…大神さん?」
「…ウチあやめを起こしてくる!」
再度の声かけに答えないまま、大神さんはそれだけ言い残すと足早にキッチンを出て行ってしまった。
『言った通りでしょう』そんな白上さんの視線を感じつつ、俺は之からは絶対に寝過ごしはしないと固く心に決めるのであった。
「へー、朝にそんな事があったんだ」
のんびりとした声音で話を聞いた百鬼さんが答える。現在、既に昼も過ぎて横の縁側から見える外ではさんさんと日光が降り注いでいた。
「それで、あやめちゃんはどんな起こされ方をされたんですか?」
「余?余はね、ミオちゃんが優しく揺らして起こしてくれたよ」
百鬼さんから結果を聞いて、思わず俺と白上さんは目を見合わせる。やはり確証はないが白上さんの読みは正しいのかもしれない。
「まぁ、ミオの気持ちは分かるんですけどね…。あやめちゃんは可愛いですし」
「えー、フブキちゃんの方が可愛いよ」
白上さんに褒められて照れ笑いを浮かべながら言う百鬼さんは、けれど満更でもなさそうにしていた。そんな二人の様子を俺は椅子に座って眺める。
「…それはそうと、あやめちゃん」
「なあに?」
話を変える白上さんに百鬼さんは首を傾げる。そんな彼女へとその頬をほんのりと赤く染めながら白上さんは口を開いた。
「まだ満足しないんですか…?」
「もうちょっとだけ」
何度目かになる返事を繰り返しながら百鬼さんは後ろから抱き着くようにして白上さんの獣耳へと手を添えていた。
「もふもふー」
「うぅ…」
さもご満悦といった風の百鬼さんとは対照的に、白上さんは羞恥に耐えるようにぎゅっと目を閉じている。この状態になってからかれこれ小一時間は経過していた。
こうなった経緯としては割と単純で、白上さんが百鬼さんに角を触らせてと頼んだ結果交換条件として白上さんも獣耳を触らせるとなっただけである。
「こんな筈では…」
しかし、そこで誤算だったのが百鬼さんが思っていた以上に獣耳を気に入ってしまったことであった。結果として百鬼さんが中々離れようとしなくなってしまい、白上さんも自分から頼んだ手前無理に断れなくなり現在に至っている。
「…フブキちゃん、本当に嫌だったら言ってね?ちゃんと余も我慢するから」
気遣い混じりに百鬼さんが声を掛ける。
「いえ、別に嫌という訳では無いんですけど…。ただあまり触られる事も無いので、恥ずかしいと言うかくすぐったいと言いますか…」
白上さん自身上手く言葉で言い表せないようで、そんな曖昧な答えを返してしまう。ここできっぱりと断れば良いものを、嫌ではないと言うものだから百鬼さんも止まらない。
「なら、もうちょっとだけ」
「あう…」
続行の許可も出た所で百鬼さんは白上さんの獣耳を、あくまで丁寧に優しくもふもふと触る。見るからに毛並みの良いその触り心地は百鬼さんの表情を見れば一目瞭然であった。
「透さん…」
すると、そんな声と共にこちらへと救いを求めるような視線が向けられる。とはいえこの状態に介入できる手段を俺は持たない為、お手上げとばかりに手を上げて見せれば白上さんは観念したようにがくし肩を落とした。
「そう言えば、そのミオちゃんは何処に行ったの?神社には居ないみたいだけど」
獣耳を触る手を止めないままにふとしたように百鬼さんが言う。言われるまで気が付かなかったが、確かに大神さんの姿を昼食の後から見ていない気がする。
「ミオでしたらミゾレ食堂に行くと言ってました。なんでもミゾレさんに新しいレシピを聞きに行くそうです」
「ミゾレ食堂ですか…」
ふと恰幅の良い店主の姿を思い出す。二度しかあっていないが、また豪快な人だったとかなり印象に残っている。
すると、不意に白上さんがこちらを見ながらくすくすと小さく笑い声を上げた。
「白上さん、俺の顔に何かついてます?」
「いえ、実はミオがミゾレ食堂に行ったのは透さんが原因なんですよ」
「俺が…?」
そんな事を言われても思い当たる節も無く疑問に首を傾げていれば、「はい、そうですよ」と白上さんは実に面白そうにしながら首肯する。
「あれで意外と負けず嫌いな所があるので、透さんに触発されて自分も料理の腕を上げようとしてるんです」
「腕を上げるって…、今で十分じゃないですか」
「そうもいかないのが対抗心という奴ですよ」
そんなものだろうかと、いま一つ納得しきれないままに頷く。共に料理をするにあたり、彼女の料理の腕はそれなりに把握できているつもりだ。その上で大神さんは既に悠々と高水準に位置していると認識している。
彼女が対抗心を燃やす理由に、自分が当てはまるとは如何にも思えない。けれど、腕を磨こうとするその事実は素直に称賛すべきだと思った。
「凄いですね、大神さんは」
「うん、ミオちゃん偉い!」
「流石ミオ!」
本人のいないところで、口々に賞賛の声が上がる。尚、こうして話している間にも百鬼さんの手が白上さんの耳から離れることは無かった。
「…ところで、料理つながりにはなるんですけど…あやめちゃんは料理の方は?」
恐る恐ると白上さんが後ろの百鬼さんへと問いかける。恐らく朝言われたことを気にしてのモノだろうが、しかしそれは現状かなり諸刃の質問である。
三人中二人が料理の出来る中、百鬼さんの返答次第ではとても悲惨な事になるだろう。
緊張の走る中、しかしそんな事知る由もない百鬼さんは軽い調子で口を開く。
「余は料理できるよ」
「ぐはっ…」
そして案の定、一人取り残される形となった白上さんから断末魔が上がった。
がくしと畳の上に両手を付ける白上さん。彼女の唐突な行動に百鬼さんはおろおろと動揺を顔に覗かせる。
「え、フブキちゃん、どうしたの!?」
「少し、白上の女子力がクライシスでして…」
想定以上にダメージは大きかったらしい。効果音が聞こえてきそうな程に落ち込んでいる様子の白上さんは、すぐには立ち直れそうもない。
「あー…、まぁ、料理が出来ないくらいどうって事は無いんじゃないですかね」
「透さん、それは持つ者の余裕というものですよ。というか、何で透さんまで料理が出来るんですか!」
「理不尽過ぎません…?」
擁護したつもりだったのだが、どうも追い打ちになってしまったようだ。若干涙目の白上さん、彼女の逆切れの矛先がこちらへと向けられる。出来るのだから仕方がない。
どうどうと百鬼さんに頭を撫でられて幾らか落ち着きを取り戻し、白上さんはその顔を上げた。
「…決めました、白上も料理を再開します。このままでは乙女的プライドが…!」
悲壮に見える覚悟を決める彼女だが、あくまで料理の話である。流石にこれには百鬼さんも同情したのか、白上さんの背を宥める様に摩っている。
「フブキちゃん、落ち着いて?余の角触る?」
「触ります」
即答であった。先ほどまでの一連の流れは何だったのかと思う程の切り替えの速度で彼女は表情を喜色に染めて目を輝かせる。
「え…あ、うん。どうぞ…?」
あまりの変わりように若干狼狽しつつも百鬼さんは触りやすいように頭を垂れて角を差し出した。
「では…失礼します」
白上さんはごくりと喉を鳴らし、そろそろと二本の角へと手を伸ばす。
「あやめちゃん、大丈夫ですか?」
「ん-、ちょっとくすぐったい」
一度触れて確認してから、白上さんは改めてそっと角に触れた。途端、恍惚とした表情で感嘆の声を上げる。念願が叶ったことが余程嬉しかったらしく、先ほどまでの悲壮感は完全に吹き飛んでしまっている。
それから暫くして、両者共に満足の行ったようでようやく謎の時間が終わりを告げた。
「いやー、あやめちゃんの角の触り心地は最高でした」
「フブキちゃんの耳も、ずっと触ってたくなった」
そう二人は互いに感想を言い、称賛し合う。そんな彼女らを何ともなしに別次元の出来事のように見守る。
「あ、もしかして透さんも気になりますか?」
そんな俺の視線に気が付いた白上さんにふと問いかけられた。
「ん?…あぁ、いや、普通に自分には無いものなのでどんな感覚なんだろうなと考えてただけです」
生憎と尻尾も無ければ角も生えていないただの人間であるため、どうにも共感がし辛い。聞く限り一応感覚は有る事は分かるがその程度だ。
「そうですか…なる程…」
それを聞いた白上さんは何やら考え込むと、不意にポンと手を打った。
「じゃあ、透さんも体験してみますか?確かそんなシンキがあった筈です」
「あ、それ良い!余もちょっと見てみたい!」
「…はい?」
体験とはどういう事だろう。その疑問を投げかける間も無く、彼女らは揃って何処かへと去って行ってしまう。それから数分後、足早に戻って来た彼女らによっておもちゃにされるとは、この時の俺には知る由も無かった。
「じゃあ、透君の頭に生えてるのって…」
「正真正銘の獣耳ですね」
説明を終えれば、大神さんは完全に状況を理解したようで納得の声を上げる。そう話す間にも彼女の視線は俺の頭の上へと向けられていた。
そこには現在犬とも猫とも言えない妙な形をした獣耳が生えており、これが大神さんがミゾレ食堂から帰って来るまでの間に起きた事態の結果であった。
「…もう、二人共、透君をおもちゃにしたら駄目でしょ!」
「「はい…」」
大神さんの注意を受け、向かい側に座る白上さんと百鬼さんがしゅんとした様子で返事をする。別段耳を生やすこと自体はそこまで問題ではない、ならばなにが問題かと言うと。
「…これ、本当に明日までにとれるんですか?」
「恐らくですが…」
「イワレの残量的にも、明日の朝には取れてると思う…」
色々と弄りまくった結果、重複してしまい解除が出来なくなってしまったことだった。幸い、永続にはならないようで時間経過で戻るには戻るらしいが、それまではこのままだと言う。
「透さん、獣耳が生えた感じはどうですか?」
「そうですね…」
白上さんに問われて、ふと慣れない感覚に集中してみる。神経が通っているのは落ち着かないが、それ以上に聴力が跳ねあがっているのが分かった。
「…これは、フライパンとお玉は勘弁願いたいですね」
「ですよね!」
苦々しく顔を歪めて言えば、白上さんは同士を見つけたと言わんばかりにぱっと顔を輝かせる。
暫く慣れない感覚に悩まされることになったが、代わりにこれ以上無い程に白上さんに共感することが出来た、そんな一日であった。