寝静まった神社を抜け出し、一人寒空の下へと身を晒す。外へ出ると同時に身を刺すような冷たい風が襲い掛かって来るも気に留めることも無く。雲一つない星の瞬く夜空とは裏腹に、それを見上げる俺の心には靄がかかったままであった。
『あんたは今良い方向に変わっているのさ』
ふと先ほどのミゾレ食堂での一幕が脳裏に浮かんだ。ミゾレさんに言われたこの言葉が、返しが付いた針のように心に突き刺さっている。
変わっている、そんな自覚など微塵たりとも無かった。そもそも変わること自体がないと思っていた。
ひょんな事からカクリヨに迷い込んで、シラカミ神社で生活するようになって。以前とは異なる環境は、経験したこともない感情を次から次に湧き上がらせてきた。
場所の問題ではない。それもこれも始まりは。
「眠れないんですか?」
背後から掛けられたその声に振り返る。とはいえそれが誰かなど既に気が付いていて、振り返った先には予想通り白い狐の少女が立ってこちらへその瞳を向けていた。
「…えぇ、眠れないので夜風に当たってました」
思えば全ての始まりは彼女だった。草原で倒れ込む俺に声を掛けてくれて、こうして神社に置いてくれて、何かと気にかけてくれている。
当時の俺にとっては何処に行こうと変わらないものだと考えていた。けれど今、彼女達との生活を経て、以前まででは考えられない程にこの心はざわめきを覚えてしまっている。
「ミゾレ食堂から帰ってから顔色が優れないみたいですけど、何か悩み事ですか?」
「そうですね、悩み…というよりは考え事が少し」
チラリとこちらへ視線を向ける白上さんに問いかけられて、俺は何処か誤魔化し交じりに答える。わざわざ話すような事でもないと、そう思った。
けれど次の白上さんの言葉に、自分の考えが甘かったことを理解させられる。
「戸惑ってるんですよね。初めて出会う感情ばっかりで、どう向き合えば良いのか分からなくって」
「…え?」
それを聞いた瞬間、どくりと心臓が強く脈を打った。
戸惑っている。あぁ、そうだその通りだ。それ似たことは彼女にも一度話したことがあるし、見れば分かるような事だろう。だが理由については、過去については誰にも話した覚えはない。なのに、どうして彼女はこんなにも見透かしたような瞳でこちらを見ている。
驚愕に思わず瞠目する俺を、白上さんは一目見るとくすりと柔らかく微笑んで見せる。
「あ、別に心を読んだとかじゃないんです。ただ、透さんに似た境遇を知っているだけで」
「知ってるって…、どういう意味で」
そんな説明をされても納得など出来るはずもなく、動揺も隠し切れないままに白上さんへと言葉を返す。
「そのままの意味ですよ。最初の頃はもしかして程度の疑念だったんですけど、接していく内にそれは確信に変わっていきました」
答える白上さんはあくまで平静を保っていた。
「どういうことだ、分かるように説明してくれ!」
要領を得ない説明に、困惑は理解できないという焦燥感へと変化してつい声を荒げる。しかし、それを気にした風も無く彼女は尚続けた。
「…いつか、透さんは聞きましたよね、『どうしてそこまでしてくれるんだ』って。あの時は内緒にしてましたけど、今は答えます」
そう言って白上さんは一歩前へと出る。少し離れた彼女の背は、一歩分の距離しか離れていないのにも関わらず途方もない程に遠く感じた。
「白上…さん…?」
掠れたその呼びかけに、白上さんは宙を見上げたままゆっくりと口を開いた。
「少し、昔話をしましょうか」
カクリヨのとある山奥、光も差し込まない暗い森の中で幼い一人の少女が目を覚ました。少女は朧げな意識にぼうっとした瞳で辺りを見渡す。そんな彼女の頭には白い毛の生えた狐の獣耳が生えていて、同じくふさふさとした尻尾が彼女の足元に揺れている。
『誰も…いない…』
ぽつりと零されたその言葉は、彼女の周囲の状況をそのまま表していた。光も無い森の木々はずんと無言のまま立ち並んでおり、そこに生物の気配は少女の他には存在していない。どうしてここに自分が居るのか、どうして周りに人がいないのか、少女の中に疑念は尽きない。
けれど唯一つ分かることがあるとすれば、それは少女が独りぼっちであるという事だった。
目覚めた少女はそれから当てもなく森の中を歩いた。別段こうする明確な理由があった訳でもないが、しかしあの場に留まっている理由もまたない。
幸い、少女にとって歩き続けるという事は特に苦にはならなかった。それは彼女の身体に流れる膨大なイワレによる身体能力の向上によるもので、既に少女はカミへと至っていた。
カクリヨにおいて、カミに至るには二つの方法が存在する。一つはヒト、アヤカシから素質、鍛錬など様々な過程を経て地道に到達する、もう一つは最初からカミとして発生するというもので、少女は後者に該当していた。
発生したその瞬間からカミという膨大な力を得た少女だったが、しかし当人は其の事に対して何とも思っていない。何せ比べる相手が存在しないのだ、幾ら強大な力だろうと関係ない。ただ食事をせずとも長期間行動が出来る便利体質、彼女の自身の力に対する認識としてはその程度であった。
そうして歩き続けた末、少女はとある山の頂上に人々に忘れ去られてしまったもう名も無き神社を見つけた。荒れ果てた神社だったが少女はそれを気にも留めずに、どうせ誰も使っていないのならと軽く親近感を覚えてそこに住み着いた。
神社の名はシラカミ神社。錆びれたその字を見て、まだ名が無かったと気が付いた少女は自らに白上フブキと名付けた。
この世界に存在するイワレというものは人の歴史を内包する。簡単に言い表せばイワレには情報が宿っている。故に発生した直後で周囲に何も教わるものも無いフブキでも、その身に宿る膨大なイワレからある程度の知識を最初から身に着けており、喋れもすれば字を読むことも出来た。
『…』
けれど、それらはあくまで他人とのコミュニケーションツールだ。どれもこれも独り神社の中で蹲り続ける彼女にとっては必要のないものだった。
神社に住み着いてから、フブキは一日中孤独に空を眺め続けていた。晴れでも曇りでも雨でも雪でも、じっと眺め続ける彼女の瞳に感情の色は一切映っておらず、その瞳に映る景色もまたモノクロで色に乏しいものであった。
『お前、いつまでそうしているつもりだ』
それから幾つかの夜を超えた頃、ふとフブキの脳内に何処か責めるような声が響き渡る。それは彼女の中に発生していたもう一つの人格である黒上フブキは、そんなフブキの様子を見かねて声を掛けてきたのだ。
(…別に、いつまでだって良いじゃないですか。何かする事がある訳でも無いんですから)
『けど…、…いや、何でもない』
返って来た思考を受けて言いかけた言葉を飲み込み、黒上はそのまま黙り込んでしまう。
何もない空っぽという事は、つまり動機が無いと言う事に直結する。何をするにしても動機というものは重要で、それが無い以上どんな言葉を掛けた所で自発的に動くことは無い。
黒上が黙ったのもこれが理由だった。あくまで黒上にとってはフブキが主体で、そのフブキが動こうとしない以上何を言っても仕方がない。けれど、動かなければ動機に繋がる経験も出会いも何も得ることはできない。
(フブキ…)
希望も絶望も無い悪循環に陥っているフブキを前に、黒上はやるせなさを奥歯に噛み締めた。
モノクロの世界には当然色が存在しない。ここで言う色とはつまり感情の事で、モノクロの世界とは感情の抜け落ちてしまった世界の事だ。
例えば幻想的な一枚の絵画があるとして、それを見た時に何の感傷も感情も抱かなければそれは当人にとっては一枚の紙きれと同然で、逆に誰にも見向きもされない絵でも感情が揺れ動けばそれは当人にとっての名画となりうる。
それは世界に対しても同様で、感情の動かない世界ではやがて色は失われていく。
別にそれ自体は不幸でもなんでもない。幸か不幸かの問題は希望と絶望があってこそのモノだ、色のない世界とはそれ以前のモノで扱う土俵が異なる。
故に、フブキもまた自分を不幸だとは思っていなかった。これが自らにとっての通常であると、これが世界の形そのものなのだと、そう考えていた。
とんとんと神社の中に足音が響き渡り、いつもの様に蹲って空を見上げていたフブキの前に一人の少女が姿を現して、慣れない出来事による衝撃にびくりとフブキは身を揺らした。
『本当に、こんなところに人が居た』
驚いたように目を丸くするその少女はフブキとは対照的に黒い獣耳と尻尾を携えていて、そんな彼女の登場に、いや、初めて出会う他人にフブキもまた目を丸くする。
『あ…』
『あなたは誰ですか』そう問いかけようとしたフブキだったが、長らく使われていなかった喉からは掠れ声しか出てこなかった。けれど、その意図は黒の少女にはきちんと伝わっていた。
『ウチの名前は大神ミオだよ、君は?』
そう言って差し伸べられた少女、ミオの手をフブキはまじまじと見つめる。その様はまるでどう反応すれば良いのかと迷っているように見えた。そんなフブキをミオは根気強く待ち続ける。
しばしその手とミオの顔を見比べるフブキであったが、やがて意を決したようにおずおずと手を伸ばして口を開く。
『私は…白上、フブキです』
「これが、ミオとの出会いでした」
白上さんの話に俺は固唾を飲んで聞き入っていた。今の彼女からは到底想像しえないそれは、けれど話しに含まれる実感に真実だと裏打ちされる。
「それからミオは神社に引き籠っていた白上の事を外に連れ出してくれました。そうして初めて触れた外の世界は白上の想像していたものよりもずっとずっと綺麗で暖かくて、最初の頃は凄く戸惑っていました」
そうして、白上さんはこちらへと目を向ける。
同じだった。白上さんの話に、俺はこれ以上無い程に共感が出来てしまっていた。勿論、全てが一緒ではない、過程は異なる。けれど白上さんの言う戸惑いは、今この胸の内にあるそれと同様のモノであると確信が持てた。
「でもミオや街の人達と触れあっていく内に、少しずつですけど自分の中でも気持ちの整理がついて行って、今まで自分の見ていた世界は色あせたものだったんだって気づきました、世界はもっと綺麗なんだって気づきました」
思い出を巡るようにふと視線を宙に彷徨わせる白上さんの表情はこれ以上無い程に感慨深げで、優しかった。
「ミオと出会って、ようやく白上の世界は色づいたんです」
ふわりと微笑む彼女から目を離すことが出来ない。
「それからミオと一緒に生活するようになって街の人達ともよく話すようになって、最近だと透さんとあやめちゃんが一緒に住む様になって、今の白上の周りは幸せで満ち溢れているんです」
話す白上さんは言葉の通り幸せそうに見える。それと同時にどうして彼女がこの話をしてくれたのか分かった気がした。
「…俺も、同じだと思ってるんですか」
「はい、勿論です。絶対に幸せになれない、なんてことはあり得ません」
即答だった。澄まし顔で首肯する彼女の顔は確信に満ちていて、誰もが幸せになれると信じてやまない、そんな表情を浮かべていた。
良いのだろうか、そんな不安にも似た疑念が顔を出す。今までの常識が丸々ひっくり返るような、そんな気分だ。
「だから、心配しないで下さい。戸惑いも迷いもまだたくさん残っていると思います、すぐには呑み込めなくて苦しんでしまうこともあると思います。けど、それでもきっとその先には透さんにとっての幸せが待っている筈ですから」
影響の大きさに必然的に恐怖さえも覚えるが、続けられた白上さんの言葉はそれさえも纏めて吹き飛ばしてくれた。ここまで自分という存在を肯定されたのは初めてだった。
あまりの衝撃に呆然と彼女を見ていると、白上さんはふと気が付いたようにピクリと耳を動かす。
「…柄にもない事を話し過ぎましたね、ちょっと頬が熱くなってきました」
照れ笑いを浮かべて言いながら白上さんは熱を冷ますようにパタパタと両手を扇ぐ。その頬は照れの為かほんのりと赤く染まっていた。
「ともかくそういう訳ですので。悩むな、なんて言うつもりはありません。けど、あまり考えすぎなくても良いんです。透さんの結論が出るまで白上は勿論、ミオやあやめちゃんも待ってますから」
やや強引に話を纏める白上さんだったが、けれど言葉の節々には確かな優しさをにじませている。
「…どうして、そこまでしてくるんですか?」
いつか聞いた質問を繰り返す。答えは十分貰った。けれど、できる事ならば明確な言葉として聞いておきたいと思った。
「勿論同じ境遇に親近感がわいたから、と言うのもあります。でも…」
予想通りの答えだと確認が取れた所で、しかし白上さんはさらに言葉を続ける。
「それ以上に透さんが、ミオが、あやめちゃんが、この世界が大好きだからです」
ハッキリと明言した彼女は、誰がどう見ても幸せに満ち溢れていた。そんな彼女がどうにも眩しくて、つい瞼を下ろす。そうでもしないと、感情が零れ落ちてしまいそうだった。
「…そうですか、…ありがとうございます」
「いえいえ、白上が好きでやっている事なので。お節介だったらすみません」
お節介でなどあるものか、現に彼女の言葉はこんなにも心を温かくしてくれている。心の中に掛かっていた靄が晴れたような気分だ、少なくとも背負っていた重荷が幾らか軽くなった。
「それでは、白上はそろそろ戻ります。透さんも風邪を引かないように気を付けてくださいね」
「はい、分かりました」
そうして神社の中へと戻っていく彼女の背中を見送った後、俺は改めて星の瞬く夜空へと目を向けた。
全てが解決した訳ではない。まだまだ様々な感情を持て余し気味で、多分これからも迷いや戸惑いに苦しむ事になるのだろう。けれど…。
「俺も、幸せになれるのかな…」
ぽつりと呟きながら、俺は暗い夜空に輝いている無数の綺麗な光へとこの手を伸ばした。
翌朝、神社の廊下を歩いていると、ふと白い狐の少女の姿を見つけた。前を歩く彼女はまだこちらに気が付いていないようで、ぼんやりと外を眺めながらのんびりと歩いている。
そんな彼女に声を掛けようと口を開くが、いざその時になるとどうにも緊張が勝ってしまい、息が詰まって中断してしまう。だが、このままでは機を逃してしまう。そう考えた俺は一つ静かに深呼吸をしてから、意を決して口を開いた。
「おはよう、白上」
「あ、透さん、おはようござい…」
声に反応して振り返った彼女は言葉を返してくるが、しかし途中で驚愕に目を見開き声を途切れさせてしまう。
ぽかんとして呆然とこちらを見つめてくる彼女に、流石に羞恥心を覚えた。
「…なんだよ、敬語じゃなくても良いって言ったのはそっちの方だろ」
それを隠すようにぶっきらぼうに言うが、内心心臓がはち切れそうな程に鳴っている。なにせこんな口調で誰かと話すなど初めてで、そもそも口慣れていない。
襲い掛かって来る羞恥に耐えていると、やがてようやく状況が理解できたのか白上さんはその瞳をキラキラと輝かせる。
「おはようございます、透さん!」
明るく返事を返す彼女は、その顔に満面の笑みを浮かべていた。