凰鈴音の心は決して強い訳では無い。幼い時分は今ほど快活ではなく、どちらかと言えば内気な方であった。そんな少女が両親の都合で日本にやってきた折に、慣れぬ環境の中でいじめのターゲットになってもどうして抵抗する事が出来ようか。そして、理不尽な境遇に甘んじるより他に無かった中で、織斑一夏に助けられ交流する事で彼に対し恋心を抱くのも極自然な流れだった。
しかしながら、想いを募らせるも両親の離婚という悲劇に見舞われ、それに加えて中国への帰国という生活環境の目まぐるしい変化は少女の心に大きな傷を残した。大切にしていたものが自分の手から引き離される事に底無しの恐怖を感じ、やがて猛烈な怒りという反応を示すようになった。だが、この事が益々彼女の心を弱くし、折れてしまった心を隠す為に彼女は強さを求めてしまった。結局の所、現在の彼女の気性の荒さは、弱くて脆い心の裏返しとも言えた。
ともすれば、イツァムを庇う為にクラッシングに立ち向かったのは虚勢の現れなのかも知れない。彼女を突き動かしているものは言うならば義憤であり、彼女自身には全く関係の無いものだ。これまでの彼女であれば、到底思いつく事すらなかっただろう。そんなものに対して、体が素直に動いていた。無論、そこには自身は被害者だという怒りがあったが、心を支配するには至らなかった。代わりに、充実感が溢れて元来の弱い己を鼓舞する。自分が本来願っていたもの。手に入れようとしていたもの。それが、漆黒の巨人の向こう側にある。そんな確信があった。
一対の双天牙月を以てクラッシングに斬りかかる。その剣身はすべて実体剣に捌かれる。ならば、と斬撃の合間に龍砲をねじ込む。弾道の隙間を縫うようにクラッシングは回避する。いずれも反応はやや鈍く、装甲の表面を掠める。鈴音は悟る。今はまだ、自分の動きを学習している最中なのだろう。
一方、ジェーンはひたすらに驚愕していた。甲龍の動きが加速度的に向上している。VTシステムの学習が明らかに間に合っていない。彼女が文字通りに進化を遂げているようにすら思えた。
バージュから聞いた話を思い出す。凰鈴音という少女はISを直感で動かすタイプで、その動きを言語化して他者へ説明する事をまるで放棄しているという。だが、肝心のISの技術がどうだと言われれれば話は別だ。中学三年からISに関する勉強をようやく始めて、そこから国家代表候補まで上り詰める地力は疑う余地もない。彼女を努力の塊、向学心の鬼だと評する人間は多いが、その正体は学んだ事をスポンジの如く恐ろしい速さで吸収する天才肌と言うべきなのだろう。自身の会得した技術を周りに解説しないと言うのも、学習能力の高さ故に表現しきれないからだという事を心のどこかで自覚しているからなのかもしれない。
つまり、彼女はVTシステムに取り込まれている間、VTシステムが必死になってかき集めた学習を無意識の内に追体験し、自分の経験として吸収してきたのではないだろうか。それこそ、たった今ジェーン自身がクラッシングを通じて甲龍の動きを学習するのと同じように。
乱打の中、甲龍が上方向に跳ねたかと思えば、鋭角を刻みながら急降下した。極めて短距離だが、プロトエグゾスの機動よりも遥かに早い。ジェーンは自身の体が震えている事にこの時初めて気がついた。凰鈴音は体の良い生贄に過ぎなかった。だが、この戦士はVTシステムを、ジェーンというランカーを今まさに越えて来た。まさかISアリーナの外でこのような『戦士』に出会えるとは!
甲龍がクラッシングの右の砲身に向かって左腕を伸ばし、双天牙月を突き立てる。そのまま、突進した勢いを殺す事なく体を捻った。全身が回転し、クラッシングの装甲をずたずたに切り裂くと肩部の砲身を斬り飛ばす。反動で、クラッシングが大きく後方へと退いた。そして、甲龍を挟んだ向こう側で、ドロドロに溶けた砲身だったものが落下し蠢く。両者の距離が今一度離れる。幾ばくか冷静さを取り戻したジェーンは既にクラッシングでなくなったモノに見向きもせず、視線を甲龍へと向けた。手負いとなった獣を逃すまいと鋭い視線が、自分を射抜いていた。
クラッシングが一度身を沈める。ジェーンは心がはち切れんほど震えるのを感じながら、甲龍へと飛びかかった。クラッシングの両手の実体剣が甲龍へと迫る。だが、その切っ先が装甲に触れようとした瞬間、地響きのような衝撃が辺りに響き渡った。彼女らの足元の鋼鉄の床が紙くずのように舞い上がり、大小様々な破片が飛び散る。甲龍の体が沈む。そして、クラッシングもまた、足をつける場所を失い崩れるように前のめりになって倒れ込んだ。
ジェーンは、視界が回転する中で鈴音が笑っているのを見た。この状況が彼女の意図した通り、即ち、甲龍が足元に向けて最大出力の龍砲を放ったのだと直ちに理解する。このままでは奈落に落ちる。本来ならば彼女にとってこのまま甲龍と共に落下するという事を回避する事は容易いはずだった。再度上昇すれば、難なく逃れる事ができるはずだった。
「これ以上手間をかけさせるとあたしの手に負えなくなるんでしょ? だったら、その前にアリーナに倒してもらう事にするわ」
さもありなんと、鈴音が呟く。ダメ押しと言わんばかりに甲龍の拳がジェーンのみぞおちを叩いた。意識を僅かに奪われた。その瞬間、二体のISが崩れ行く穴の中へと飲み込まれる。衝撃が鋼鉄の床を伝わり、雪崩のように落ちていく。その最中、鈴音はジェーンの両肩を掴み、甲龍のスラスターを点火して落下速度を加速させた。二体のISの質量も加わり、その加速度は瞼を明けていられない程となる。
「私ごと瓦礫の中に沈めるつもりか。その程度でISは機能を停止しないぞ」
小さく咳き込みながらジェーンは皮肉げに言う。だが、鈴音は脇目も振らず甲龍を加速させ続けていた。
ジェーンの口元で舌打ちの音がした。VTシステムはあまりにも非常識なアイディアだと判断したようだが、鈴音が何を企んでいるのかをジェーンは直ぐに理解する。纏わりつく甲龍を引き剥がそうと残っていた右肩の砲身を向けるが、甲龍から一足先に放たれた砲弾が放たれる。ほぼ密着状態で放たれ甲龍自身もただでは済まない。それを証明するように鈴音は歯を食いしばって目を細めている。しかし、その瞳の奥底に並々ならぬ覚悟があり、クラッシングの肩を掴む手は揺らがない。
そのまま数メートル程落下したところで突如、ドン、と一際大きな衝撃と共にクラッシングが静止した。けたたましい程の甲高い警告音が鳴り響く。ジェーンは、反射的に耳を塞ごうとするが指先一つも動かせない。
「馬鹿な、こんなやり方で」
この警告音は、ISアリーナの領域から外れた事によるエリアオーバーを知らせるものだった。領域外に出てしまったISは直ちにエネルギーを全て失い、機能を停止する。ISアリーナの基本ルールが、クラッシングの動きを止めたのだ。
ジェーンは目をみはる。確かに、今しがた鈴音がやったように相手を外に押し出すというようなエリアオーバーを利用した戦術というのは存在する。だが、それは多くの場合偶然の産物だ。エリアオーバーに巻き込まれる可能性がある為、狙ってやろうとはしないのが常だ。ましてや、ISアリーナでの戦闘をやった事などない筈の鈴音が、この戦術を何の躊躇いもなく実行するとは。
「エリアオーバーの判定ラインがどう張り巡らされているかちょっと不安だったけど。ま、結果オーライね」
一方で、鈴音はあっけらかんとしていた。ジェーンの顔が益々驚愕に歪んでいく。果たして鈴音の言う通り、ISアリーナとして改装されたばかりの場所でエリアオーバーの判定が機能しているという保証などどこにもない。ジェーンにしてみれば、いや、おそらくイツァムですら、それを無謀としか表現しないだろう。
「全く、とんでもない奴だ。あるかどうかも分からないもので、勝負を仕掛けるとはな」
「あたしはただ、自分の勘に従っただけよ」
鈴音の、あまりにも自信有りげな姿に思わずジェーンの顔から笑みが漏れた。ここまで堂々とされてしまっては、何を言おうと『結果の残滓』にしかならない。
「……私の負け、か」
堪らず、ジェーンは顔を上に向けてため息をつく。そして、淡々と言葉を紡ぎ出した。
「バージュと結託してお前を攫い、ISアリーナの管理外でイツァムに戦闘行為をしかける。禁忌と言われたVTシステムも使った。これだけの事をしたのだ。私はきっと然るべき所より、然るべき制裁をされるだろう。
……何もかもを賭けた。そうするだけの価値があると信じたからな。悔いはない」
そこに後悔は微塵も感じられない。高潔な覚悟すらあった。
ところが、鈴音にしてみればどうにも面白く無かった。ジェーンが相当の覚悟をもってこの場に臨んだ事は勿論理解していたが、その先にあるただ沈んでいくであろう未来に、ただ理不尽さを受け入れるしか無かった自分の過去が重なったからだ。
「その、あたしはあんた達の事情はさっぱり分からないけど。それでも、イツァムさんとはちゃんとした形で決着を付けたほうが良いんじゃない? こんな、極一部の熱狂的なファンしか集まらないような場所でやるんじゃなくて、さ」
クラッシングの肩から手を話し距離を取る。微動だにしない黒き巨人を見下ろしながら、鈴音は大義そうに言う。反射的に、ジェーンは彼女を睨んだ。
「……情けをかけるつもりか」
「流石に人さらいを前にしてそんな事考えてないわよ。これはあたしなりの、あたしの挑戦を受けてくれたあんたへの『敬意』の払い方ってところ」
その少女の目は決闘を始める前と打って変わり穏やかで慈しみのあるものになっていた。果たしてその見通しは甘い、と言わざるを得なかったがジェーンは口を噤む。脳裏に、諦めたはずの光景が自然と浮かぶ。満員のギャラリー、悲喜こもごもの歓声が響く中、そんなもの関係なしと言わんばかりにプロトエグゾスと力をぶつけ合う。それはきっと、とても愉しい事なのだろう。
糸のように細い目元から涙が一筋流れた。まるで、ジェーン自身の人間性が完全に消失していない事を知らしめるかのように。
※ ※ ※
イツァムは柱に背を預けたまま、たった今鈴音達が吸い込まれていった巨大な穴を見つめていた。激しい衝突音が繰り返し響いていたが、今は静寂だけがあった。果たして彼女達の結末がどうなったのか。それを確かめようにも酷く傷んだ体が動く事は無い。
不意に、頭上から突風が吹き付けるような音が聞こえてきた。見上げると、そこには暗い影があった。やがてこの影は大きくなる。何かが近づいてきている。
程なくして、イツァムの前に一体のフルスキンISが降り立つ。プロトエグゾスのそれよりもずっと暗い赤を中心としたカラーリングで、両腕の前腕は二の腕に比べて一回り程長い。頭部は西洋兜とも、和兜とも取れるような形状をしており、プロトエグゾスのような鋭い角が一本、額にあたる部分から長く伸びる。更に特徴的なのは、その肩越しにあった左右一対のスラスターユニットだ。どうやら直接IS本体と接続されているようだが、ちょうどIS一体がすっぽり収まってしまいそうな程に大きい。
「ハスラー・ワン、いや、今は『セラフ』か。あんたが来たって事は、勝負はついたんだな」
「ああ。勝者は凰鈴音。ドクター・ジェーンはエリアオーバーによって敗北した。
間もなくIS学園の人間が来る。凰鈴音と共に彼女らに運んでもらえ。ドクター・ジェーンは学園経由で然るべき場所に連行される。私が出るまでもない」
軽く頷いてから、イツァムは口を開いた。そして、彼女が『セラフ』と呼んだISから、ノイズ混じりのハスラー・ワンの声が返ってくる。その言葉を聞いたイツァムは、嬉しそうに笑うと無音になったスピーカーを一瞥してからこう応えた。
「そうかい。それなら、ケツ持ちの方はしっかり頼むよ」
僅かな沈黙を挟み、セラフが浮上する。あたりに突風を撒き散らしながら、コルナートから飛び出す。またたく間に点となって、やがて見えなくなった。
それから、入れ替わるように大きな竪穴から甲龍が飛び上がってきた。そのまま身を翻すと、イツァムの目の前でゆっくりと着地する。僅かに微小な金属片が舞い上がった。
「あれ? 今誰かいたような気がしたんだけど」
「まさか。戦闘が終わって気が立ってるんじゃないか」
首を傾げる鈴音に、イツァムはけらけらと笑いながら応える。そうかも、と鈴音は空を見上げて頷いた。いつの間にか、そこには煌々とする満月があった。それが照らす影は、彼女らの姿の他に全く無い。
「どうやらバージュは一足先に逃げたみたいだ。全く悔しいね」
「……そっか」
「ま、それはそれとしてさ。決着の瞬間を見れなかったのは残念だけど、ナイスファイトだったよ」
「ありがとう」
いささか不謹慎であったが、イツァムが空を見上げる鈴音を労う。すると、鈴音は頬を赤らめると頭を振った。
イツァムは、そんな勝者の表情をしばし堪能する。彼女とIS学園で初めて模擬戦をした時にあった迷いが、今はもう感じられない。その上で、非公式とは言えISランカーを打倒したのだ。心のあり方が変った、などと高尚な事を言うつもりなど勿論無い。だが、果たして彼女が勝ち得た『確固たる意思』が揺らぐ事はもうないだろう。
「ああ、それとね。明日は一日ベッドの上だと思った方が良いよ。
意識してたかは分からないけど。私の動き、真似してただろ? 慣れない奴がそれをやると、体が悲鳴を上げるのさ。すごい筋肉痛ってやつだ。今は平気だろうけど、多分明日は一日ベッドの上だよ」
イツァムが微笑む。それに釣られて、鈴音は得も言われぬ引きつった笑みを浮かべた。