この日の食堂は騒然としていた。理由は明白であった。隻眼隻腕の見知らぬ女が、実に手慣れた様子で昼食を取っていた為だ。その女はカツカレーを食していた。片手で器用にスプーンを使い、カツを口に放り込んでいく。嚥下するたび、舌から伝わる味に満足しているのか実に朗らかな笑顔を浮かべながら。
いつものように食堂にやってくる生徒達は、彼女の姿を見るなりはっとなり遠巻きに様子を伺いながら今日の昼食を吟味する。皆が皆、そういった反応をする為に、ピークタイムにも関わらず彼女の周り一帯は極一部を除いてまるで区切られたように空席が目立つ。
その極一部の例外、つまり彼女の真正面に織斑一夏は座っていた。自身の左隣に篠ノ之箒を、右隣にセシリア・オルコットを座らせて。彼は、両隣からの奇妙なプレッシャーを一身に受けて肩身が狭くなる思いだった。そんな中にあっては、つい先程まで湧いていた『目の前の女性が何者であるか』という興味よりも、何故席順を決めるじゃんけんでチョキを選んでしまったのだろうという後悔が支配的になるのは自然な事だろう。
そんな感情をなんとか払拭しようと、無言のまま手元の焼き魚の身を解す。だが、程なくしてほぼ同じタイミングで両脇からの脇腹を狙った肘打ちを頂戴し、とうとう本題に入る為に口を開いた。
「その。どちら様ですか」
「んん? 昨日からしばらくの間滞在する事になったイツァム・ナーだ。宜しくな」
「あ、はい。俺は織斑一夏と言います。宜しく」
下手をすれば失礼極まりない問いかけにも、その女、イツァムは一度水を口に含んでから穏やかに答えた。まるで親しい友人と雑談するかのような反応に、一夏は思わず気が抜けてしまう。と、同時に、彼女の名前に聞き覚えがあった事を思い出す。
今朝のHRで、副担任である山田真耶が「今日から一週間ほど二名の来賓が滞在する」と話をしていた。自然と、どんな人が来るのかという話題になり、どことなく言いづらそうにしていた彼女は「外国の凄腕のIS操縦者」と簡単に答えた。イツァム・ナーという名前はその時に聞いたものだった。来賓かつIS操縦者というからにはどれほどの堅物かと思っていたが、まさかこんなところで呑気に昼食を取っているとは思っていなかった。
「いやあしかし。日本の飯はやはり旨いよ。良いね、このカツカレーってのは。カレーといえばインドやネパールだけども、こんな料理見た事が無かった」
彼の動揺など知る由もなく、イツァムは再びカツをスプーンで掬い頬張る。片手のみで食事を取りながらも、背筋はすっきりと伸び所作も整っている。口調こそ砕けていたが、彼女の食事の様子には気品が感じられた。
見とれた、とまではいかないものの、一夏の中にたった今まであったはずの警戒心はすっかり無くなっていた。そして、自然と彼女のふとつぶやいた疑問に答えていた。
「カツカレーって日本発祥の料理ですよ。それに、日本のカレーは独自に進化していて、カレールーが海外に逆輸入されたって良く聞きますし、カツカレー自体も色々なバリエーションがありますからね。トンカツじゃなくてエビカツとか、メンチカツにしたり。……あ、あと千切りのキャベツを乗せるのも見た事があります」
カレー料理について自分の記憶を掘り起こす。幸か不幸か、家の中の事が壊滅的に出来ない姉がいるおかげでこの手の知識には明るい。そんな彼の表情を、イツァムはしっかりと捉える。そして、時折相槌を打ちながら静聴する。一夏は、彼女が自分に向けているものの正体を掴む事は出来なかったが、それに後押しされるようで安堵を覚えていた。自分でも驚く程に話す内容がすらすらと出てくる。
「なるほど。日本を離れる時はカレールーをお土産にするのも悪くないね。教えてくれてありがとう」
彼の話が終わる頃には、イツァムはスプーンをカレー皿に置き、姿勢を正していた。そして、最後には頭を下げ感謝の言葉を告げた。
今の話は一夏にとって雑談の一端でしかないつもりだった。しかし、聞き手であるイツァムの態度を前にし、嬉しさと気恥ずかしさを覚えてしまう。同時に、急かされたとはいえ彼女への最初の言葉について後悔が遅れてやってきた。
「すみません。さっき、いきなり失礼な事を言ってしまって」
「さっきの? ああ、私が何者かって聞いたあれか。この学園の人間じゃない奴が呑気に飯を食っていたんだ。こんな『なり』をしているしね。怪しむって言ったら言いすぎかも知れないけど、気になるのはしょうがないよ」
彼女がそうしたのとはまた違う理由で一夏は頭を下げる。
しかし、当の本人は怪訝そうな表情を浮かべたかと思えば、からからと笑い左肩を少し上げて揺らし始めた。すると、その先にぶら下がるシャツの袖が、少し遅れてゆらゆらと振られる。
彼女のこの行動に対し、彼女と会話をする前であれば横切る度に表情を曇らせる他の生徒と同じような表情をしていただろうと一夏は思う。しかし、短いやり取りの中で彼女の気質のようなものを僅かでも感じ取った彼にしてみれば、これは彼女なりの気遣いである事はすぐに分かった。思わず、笑顔を浮かべてしまった。
そんな一夏の傍らで、イツァムとのやり取りを眺めていたセシリアは心底面白くなさそうに口をへの字に曲げていた。彼を挟んでいる為に表情を伺えないが、恐らく箒も同じような表情をしているだろうという確信があった。
決して、自分達を差し置いて、すっかりこの場に馴染んだ目の前の女性と微笑ましいやり取りをしている事に対し嫉妬をしている訳ではない。そう手前勝手な言い訳を心の中でしながらも、なかなか彼らの会話に入るタイミングを掴めない事に苛立ちを感じていたのも事実だった。小皿に取り分け、フォークの先で弄んでいた乱切りの人参がボロボロになって崩れる。
「別にとって喰おうって訳じゃないんだ。そこまで警戒しなくても良いんじゃないか? ミズ・セシリア・オルコット」
いつの間にかフォークで突き刺すには小さくなりすぎた人参を、セシリアが寂しそうに見つめているとイツァムは彼女の名前をフルネームを呼んだ。
その瞬間、セシリアは顔を上げた。これまでの会話の中で自分の名前があがった事は無い。にも関わらず彼女はその名を正確に口にしたのだ。きっと、この学園に来た直後の自分であれば今頃歓喜していただろう。そんな突拍子もない思考が生まれる程に、セシリアの中に動揺が走った。心臓を掴まれたような気分だった。
「……私の事、知っているのですか」
「そりゃあもう有名人じゃないか。たった今話をしていたのがブリュンヒルデの弟だって事も。その隣にいるのが篠ノ之箒。篠ノ之束の妹だって事もよく知っているよ。この場で皆まで言うのは無粋ってものだけど、ね」
イツァムの言葉に、淀みは無い。そこには聞く者に直接届くある種の爽やかさ、実直さがあった。
国家代表候補のプロフィールについては、調べれば直ぐにでも出てくる。それこそ、イギリスの代表候補で無くとも。ところが、イツァムの口ぶりは、その事を称賛するでも無く、事実だけをありのまま淡々と述べているようだった。視界の隅には、とりとめのない雑談を交えつつ満足げに食事をする生徒達の姿がある。果たして彼女の言う通り、自分の中にあった感情は無粋なのだとセシリアは思い知らされた。同時に、そんな事でたった今動揺してしまった事が急に恥ずかしくなった。
そして、普段ならば『姉の名』を出された途端に不機嫌になる箒ですら、視線が泳ぎっぱなしだった。イツァムの言葉をどう受け止めて、何と返して良いのか良いのか分からず困惑しているのは明白だ。隣で彼女の表情を伺っていた一夏にとっても、彼女がこんなにしどろもどろになるのは久しく見ていないようで視線が右往左往している。
「ま、空腹に勝てなかったとは言え、こちらも客人なのに無遠慮だった事は詫びるよ」
三者三様の反応を見せる一夏らを一瞥したイツァムは、気恥ずかしそうに小さく笑った。
気がつけば、彼女らの周りに生徒達が集まりつつあった。どうやら今までの会話を聞き耳立てている中で、すっかりイツァムに対する警戒心は和らいでいたらしい。中には同じテーブルに座る者も現れた。それでも、彼女の両隣は空いたままだったが。
「今日は食堂に来てたのね」
にわかに賑やかになった中で、一夏は背後から自分を呼びかける声を耳にして振り返る。すると、そこにはトレーにラーメンを乗せた鈴音の姿があった。鈴音はその場にいた面々を横目に、箒の隣の空いていた席に座ると手早くラーメンを啜り始める。
一夏は彼女のその姿に既視感と違和感を重ねて覚えた。普段なら「自分をおいて食堂に行っちゃうなんて!」というように癇癪を起こす彼女がどうにも大人しい。覇気が無い、というよりも何か考え事をしているように見えた。そして、これがここ数日の彼女の姿だった事を思い出した。
「……ああ。凰鈴音、か。中国の代表候補の」
何か、彼女に声をかけるべきだろうか。しかし、一向にその言葉が思いつかない。そんな一夏をよそに、鈴音の姿を見てからずっと首を傾げていたイツァムが呟いた。すると、鈴音の手がピタリと止まる。
「すまない、IS学園に来る事が決まったのはなにせ三日前でね。移動の合間にはある程度目星をつけたIS操縦者について調べるぐらいの時間しか取れなかったんだ」
そう言いながら、イツァムは自嘲気味に肩をすくめた。
鈴音は彼女の言葉に、言い方に。自身の中に苛立ちが生まれた事を認めた。例えその意図は無くても、不本意だと思っても、自分は後回しにされたと思ってしまった。つい今しがた、一夏や箒、セシリアの事はすぐに分かったというのに。自分も、『セシリアと同じ国家代表候補』だというのに。
そこで、はたと気づく。たった今、自分の中に渦巻いている感情。それは、ツーマンセルトーナメント以来、ずっと自分を悩ませ続けているものとどこっか似ていた事を。
「イツァムさんはどれぐらいIS学園に滞在する予定なのですか」
「マネージャーが言うには一週間ぐらいだったかな? その間は模擬戦の希望があったら受けるつもりだけど、専用エリアの改修が終わるまでは基本的には暇なんだよね。せっかくだから食べ歩きなんてのもやってみたいねえ」
そして、セシリアがイツァムと対話を始める中、鈴音は昨日の昼間に校門でイツァムが千冬らと対峙していた時の事を思い出していた。遠巻きに見ていた自分ですらはっきりと感じ取れて震え上がる程、両者の間には側に誰も寄せ付けようとしない異質な空気があった。それが、今は全く感じられない。
同時に、『この事』が、鈴音の心にささくれを引き起こした。隣に居た箒の顔が少し引きつるのを見た。まるで子供のわがままだと分かっていても、自分でどうしようも出来ない程にイツァムへの苛立ちを止められなくなってた。
「……単刀直入にお尋ねする。ISアリーナのトップランカーというのは。つまり、あなたは織斑千冬より強いのか?」
スープだけとなった手元の丼に視線を向けた鈴音の頭上で、箒の声が飛んだ。僅かに沈黙があった。鈴音は、イツァムの返答を窺う為に目線だけを上げる。すると、イツァムは一旦椅子に深く座り直してからため息交じりにこう答えた。
「その質問に答えるのは難しいな。あの人とやり合いたいのはやまやまだ。だけど、勝敗がどうなるか、全く見当がつかない」
その回答は、弱腰だ。鈴音がそう思った。『そうさせる程』に、昨日見た光景は強く印象に残っていた。あの時感じたものは、単なる虚勢だったのだろうか。ならば、ISアリーナというのも、トップランカーというのも、或いは。
「軽々しく『絶対』なんて使うべきじゃないと私は思っている。そんな言葉を使うのは、そいつとんだ勘違いをしているか、もしくはよほど自信が無いだけさ」
だが、続けて発せられたイツァムの言葉は、鈴音のそんな内心を抉った。ただ会話を聞いているだけなのに、まるで、自分の浅はかさを見抜かれたと思った。
「あの、さ。イツァムさんって言ったわよね」
気がつけば、鈴音は睨みつけるようにイツァムを見ていた。それまで談笑に興じていた一夏達は、場の空気が変った事を悟り、その視線は一斉に鈴音の方へと向く。
「模擬戦の相手。それ、あたしが立候補しても良いかしら」
しかし、今の彼女にとっては最早どうでも良い事になっていた。イツァムと出会った事で生じた苛立ちの理由と、数日前からずっと抱いていた疑問はきっと近くて似ている。だが、いくら一人で思案を続けてももはや答えを探す事すら敵わない。結局、それに近づくには『これ』が一番手っ取り早い。彼女の直感が、そう告げる。
「挑戦者現る。良いね、待っていたよ」
その一方で、イツァムは真剣な眼差しと共に笑みを浮かべていた。直前まで食事を楽しんでいた女性の姿は、無い。つまり、千冬と相対した時と本質的に違う強烈な威圧感が、鈴音を襲っていた。