サラブレッドに生まれ変わったので、最速を目指します 作:Budge
己の脚の状態に気づかないままのセキトと、迷いに迷った朱美ちゃんはある行動を起こしたようで。
『全っ・・・快だぜ!ヒャッハー!!』
放牧に出るようになってから半月ほどが過ぎて。すっかり欧州遠征の疲れも言えた俺は、パドックの中を狭いなりに走り回っていた。
コズミを引き起こしていたほどの気だるさも消え失せ、重さを感じていた右前脚もすっかり元通りに動くようになって。なぜかバンテージはそのままだけどな!
ここまで回復したなら、スプリンターズステークスに向けて美浦に戻るなりなんなり、何かしら動きがあるものとばかり思っていたが、これが意外にも何も起きなくて。
それどころかショックウェーブの回数が増えたり、収牧の時間が早くなったり・・・あれ?これって運動制限?
なんだよ、せっかく付けた筋肉が落ちちまうじゃないかと運動しまくって体型を保とうとしてるけど、やっぱりトレセンでやるようなしっかりした調教とは質が違うのかちょっとトモのボリュームが落ちたような・・・とほほ。
こんな感じで、なんだか最近周りの様子がおかしい。俺はこんなに元気なのになと思って走り回るのもそうだが大きく立ち上がってみたり、右前脚を掻いてみたりと馬らしく「元気になりました」アピールをしてみたんだが。
それがそういう動きをする度にスタッフさんたちが顔を青くしたり、「頼むからやめてくれ!」と懇願されてしまったから、素直に大人しくしておく。あーあ。この後身体を戻すのが大変になるな。
それにしても、今まであれくらいやったって怒られなかったのに急に怒られたからびっくりした・・・本当に何なんだろうな?
しかし、今の俺にはそんな疑問以上に、即刻どうにかするべき重大な問題があって。
『おーい、待てよー!』
『待たねぇよー!!』
『ヤロー!抜かしてやる!』
『ん・・・あっちは賑やかだな』
今日も真面目に周りを警戒し続ける耳には、名前も知らない小鳥の囀りと、若駒達の賑やかな声、そして蹄音の便りが届き。
上を見上げてみれば入道雲が立ち上り、よく晴れた空は穏やかで。
下を見れば、青々とした牧草が吹き抜ける風にその身を揺らしている。
それは実にのんびりとした、牧場としてはごくごく当たり前の風景・・・なのだけど。
『ふあぁあ・・・暇だぁー・・・やることねぇー・・・』
そう、現役競走馬の俺にとって、それはこうして大あくびをかますほどには退屈なのであった。
退屈なあまりその辺の放牧地にいる2歳だか1歳だかわからない馬を捕まえて走り方を見てやったり、時々なんにも考えずにただただ空を眺めて過ごしたり。
離れている時間が長くなるに連れて、厩舎と競馬場の喧騒が懐かしくなってくる。
ああ。早く、こんな狭いところじゃなくて、競馬場で思い切り走りたいなぁ。
そんな悶々とした欲求を抱えたまま地面に座り込むと。
『・・・お?おお?』
遠くから近づいてくる何者かの気配、目よりも先に耳の方がぴくんと動いて。
『この感じは・・・もしかして!』
程なくして見えた人影に、やはりそれは、俺にとってよく知った足音だったと確信した。
「・・・はぁ」
セキトが己の脚の事など露知らず、いち早く復帰を望む一方で。
バスに揺られ、今まさにその馬に会いに行こうとしている馬主、朱美の気持ちは未だ沈んでいた。
セキトバクソウオー。引退か、現役続行か。
馬主になって初めてその二択を突きつけられた彼女に、その選択はあまりに荷が重い。
が、セキトバクソウオーという馬に関してはしっかりと預託料を払っている以上全ての権利は朱美にあるのもまた事実。
「寧ろ今までよく頑張ったって太島さんは言ってるけど・・・」
ここを訪れる前、美浦の太島と電話で交わした通話を思い返す。
『考えてみれば・・・セキトは新馬戦の時からストライド走法の馬でした。このタイプはスピードが落ちにくい一方で、足にかかる負担が大きいんです』
「なるほど・・・」
セキト生来の走りである、ストライド走法。直線に向いてからの最大のセールスポイントがその身体を傷つけていたなど、朱美は今まで知らなかった。
『そして年明けのクリスタルカップ。そりゃあもう驚きましたよ。ストライド走法の筈のセキトがピッチ走法でコーナーを回っていくんですから』
「ええ・・・」
騎手としても、調教師としても今までこんな馬見たことありません、と付け加える太島。
しかし、そんなことよりも朱美は、愛馬の様子が気がかりで仕方なくなっていて、太島との会話もどこか上の空になっていく。
『そこから更に走りが変化して・・・と、天馬さん、聞いてますか?天馬さん!』
「っ、は、はい!」
それに気がついた太島の呼びかけで意識を取り戻した朱美であったが、その様子に太島は小さく息を吐いて、こう持ちかける。
『そんなに気になるのなら、一度セキトに会いに行ってみますか?私が話を通しておきます』
・・・結局、その厚意に甘える形とはなったが、朱美は今のセキトに会いにいく選択肢を取った。
「あぁ・・・セキタン、大丈夫かなぁ・・・」
本
正常な馬のものと比較すれば素人目でもおかしいと判断できるほどの惨事を見た後では、自分の目で確かめるまで何も信用ならなくなってしまった。
本当にセキトは元気なのだろうか、と。
『次は〇〇、次は〇〇・・・』
「あ、降りなきゃ」
ふと、思い出したようにガラガラの車内に響き渡った機械音声の案内。それに従い、朱美は降車ボタンを押す。
「よい、しょっと・・・あはは、本当になにもないや・・・」
バスが止まったのは、どこかの牧場の柵沿い。見渡す限り広がるのは牧草、牧草、そして牧草。
「えっと、ここから・・・」
そこから、太島の案内を思い出し、東へと歩みを進める朱美。
話によれば、このまま5キロほど歩けばセキトが放牧されている育成牧場だという。
これでも牧場としてはアクセスのいい方と聞いたときに朱美は驚いたものだが、なるほど、自分がセキトと出会ったマキバファームも自家用車で訪れたにも関わらずかなりの時間を要したなと思い出し。
タクシーやその自家用車で訪れるのも良かったが、朱美は敢えて徒歩で牧場を目指すことを選んだ。
それは、セキトの進退を考えるための時間が欲しかったというのもあり、引退した後の事を考えるためでもある。
・・・ふと、名も知らない牧場の中に目をやれば、今年生まれた仔馬とその母馬が、お互いをグルーミングしながら穏やかに過ごしていた。
「・・・そっか、セキタンは引退したら、こういうところで過ごすんだ・・・」
当たり前だが、大歓声に包まれ、全ての馬が必死の思いで駆け抜ける競馬場とは、馬の様子が全然違う。
その姿に、朱美は放牧地で穏やかに過ごす愛馬を見たような気がした。
「・・・幸せそう、だね」
思わずそんな呟きが口から漏れ出し、朱美はハッとする。
競馬と言う環境が異質なだけで、この穏やかな風景に溶け込んだ姿こそ、馬本来の姿なのでは。
牧柵沿いに歩みを進めていくと、不思議と心が落ち着いていくのを感じていた。
「不思議だなぁ・・・あっ」
運動で生じた汗が邪魔で、それを拭うついでにふと上を見れば全面を覆うような青空が広がっていて、思わず足を止める。
「(空ってこんなキレイだったっけ・・・?)」
それを見ていると、普段自分が見ているビル群によって角張った空が随分ちっぽけに思えてきて。
その後もさまざまな大自然に圧倒されながらひたすらに歩き続けて・・・。
「あっ、あの看板・・・!」
道沿い、手頃な板にペンキで文字が書かれただけの雑な古い看板に、セキトの所在地が記されていた。
ようやく、セキトバクソウオーのいる育成牧場へと辿り着いたのだ。
「セキタン・・・」
しかし、いざいつものようにその赤い馬に声をかけようとすると、思わず声が詰まる。
彼の進退をどうするべきか。未だにその答えの定まらない朱美の声は、それでもヒトよりはるかに優れた聴力を持つセキトバクソウオーにはしっかりと届いていて。
よく見知った馬主の声に、退屈していたセキトバクソウオーは、待ってましたとばかりに立ち上がったのだった。
『朱美ちゃん!!久しぶりだな!』
俺はジュライカップの時以来・・・少なくとも半月以上ぶりの朱美ちゃんの姿を見て、勢いよく立ち上がった。
そのまま柵沿いまで駆け寄って、すっと伸ばされた手に触れる。
ん?朱美ちゃんの匂いがいつもより強い・・・?随分と汗をかいているみたいだな。それに、なんだか今にも泣き出してしまいそうなくらいに俺を呼ぶ声も弱々しかった。
『なんだ、どうしたんだよ朱美ちゃん。嫌なことでもあったのか?親父さんと喧嘩でもしたのか?』
まったく、誰だよ朱美ちゃんみたいな可愛い子にこんな顔をさせたのは。
それはともかくこのくらいの女性が泣き出しそうになることなんて限られてる。大体が彼氏に振られたとか、親と喧嘩したとか。後はお気に入りの芸能人が結婚したとかな。
前者の話は聞いたことがないし、ひょっとしてあの渡○也似のお父さんと喧嘩でもしたかなと思って。
『朱美ちゃんに一番似合うのは笑顔なんだから話くらいは聞くぜ・・・おっと!』
どこか彼氏面で話を聞く姿勢を取ったら、朱美ちゃんは急に柵越しに俺の首を抱きすくめるようにして寄せた。
「セキタン・・・セキタン!」
『なんだ?』
そのまま、朱美ちゃんは今にも泣きそうな声で俺を呼んだから、優しく鼻を鳴らし、その先っぽを顔に擦り寄せる。
大方、このまま悩みを打ち明けてくれるのだろう・・・そうとばかり思っていた俺にとって、朱美ちゃんの口から出てきた内容は、早く復帰したいと望む俺には最悪のニュースであった。
「太島さんから聞いたんだけど・・・あなたの脚・・・もう、ボロボロなんだって・・・!」
『な・・・!?』
脚が、ボロボロ・・・!?どういうことだ。
だから、最近俺はショックウェーブやら運動制限やら色々とやられていたのかと納得すると同時に、頭を思い切りぶん殴られたような衝撃が俺に襲いかかってきて。
「ねぇ、あたしはどうしたらいいの・・・?」
困惑する俺を見つめる朱美ちゃん。その目からこぼれた涙がつぅ、と一本の線を引いて、瞳が揺れている。
どうすればいいか、なんて俺のほうが聞きたいくらいだった。
セキトの進退編、月曜更新の次回に続く!