サラブレッドに生まれ変わったので、最速を目指します 作:Budge
彼の装蹄がセキトにもたらす影響とは。
それはそうとシャフリヤール、次はイギリスに飛んでロイヤルアスコットに挑むそうですね!リアルの方でロイヤルアスコット勝利がなるかどうか、見守っていきたいです。
装蹄所。
G1馬でも、未勝利馬でも、馬ならば皆四肢の先に等しくくっついている蹄を守るための鉄の靴、蹄鉄を加工するための施設。
美浦トレセンのそこに、俺と、馬口さんと、見知らぬ男性が、一人。
髪は一本残らず白髪になっていて、そこは流石に歳を感じさせるが・・・ごつごつと力強い手は、確かに職人の手だった。
「よくいらっしゃってくださいました」
「いえいえ、馬が泣いていると聞けば、北海道だろうが沖縄だろうが、行かないわけにはいきませんから」
それでもまだ本州で助かったかな、とはにかみながらいう年配の男性。
俺はその顔に心当たりがある。
・・・日本では、割と近代まで馬の身体の仕組みがよく分からず、知ろうともされなかった時代があった。
その一環が、蹄鉄だった。現代から見れば恐ろしい話だが、当時の蹄鉄は文字通りの鉄製。重く、加工しづらく、装着した馬が脚元を悪くしたならそれは管理か馬の体質の問題とされる、そんな時代。
そんな中において、彼の人は屠殺場に入り浸り、何十頭、いや何百頭?とにかく数え切れないほどの馬の脚を自宅の天井から下げながら、ついにただの一頭も同じ蹄を持っていないことに気づく。
だれも見向きもしない所から、「馬に合わせられない蹄鉄のほうがおかしい」と思い至ると遂には自ら蹄鉄を開発してしまったのだ。
当時の蹄鉄と比べて圧倒的に薄く、加工しやすいその蹄鉄は、競走馬になれない、戻れないと烙印を押された馬と、時に生きることさえ絶望的とされた数多くの馬の競走生命、馬生を救ってきた。
本当に数え切れないほどの功績があるのだが・・・その中でも、一つ。彼の手腕がよくわかる事例を一つ紹介させてほしい。
50戦以上を駆け抜けながら、ただの一度も故障しなかった「鉄の女」、イクノディクタスをご存知だろうか。
最近は美少女になって知名度を一気に上げたから、知っている人も多いだろう。彼女は実はデビュー前、競走馬としては駄目だと言われるほどの屈腱炎を患ったことがある。
あらゆる手を尽くしてもだめ、餌も食べない。このままでは廃馬にするしかないと連れてこられたイクノディクタスだったが。それが彼の手にかかり、蹄鉄を打ち替えただけでけろりと完治してしまったのだ。
それ以降はまったく健康そのもの。前述の通りに競走馬として競馬場を駆け抜けた後は十頭の娘息子達をこの世に送り出し、2019年、32歳の時に天国へと旅立ったが、死因が老衰というのは、彼女の頑健さを非常によく表していると言えるだろう。
その陰に、名工の手助けあり。
もしもデビュー前、屈腱炎を治せていなかったら。「鉄の女」でさえ「名無しの不運な馬」として処分されていたのかもしれないのだから。
そんな馬を一頭でも減らすべく。
声をかけられれば東奔西走、日本中どこにでも駆けつける。
馬たちをこよなく愛し、粉骨砕身で精進し続ける彼を。
いつしか人は、馬の神様と呼んだ。
『神様がいる、マジの神様が・・・!』
「はは、懐っこい馬だな」
その表情に驕りはなく、俺にも「今日はよろしく」とにこにこしながら話しかけてくるもんだから、俺もすぐに警戒心を解いてしまった。
「今日はよろしくをお願いしますね、
「ええ。先生の話じゃ次で引退とか・・・本当ならしっかり治してから出てほしいんですけどね」
全体的に和やかな雰囲気のまま、幸長さんと呼ばれた馬の神様は俺の脚のことについて釘を差していった。
やはりというか、名前は変わっているが馬口さんの態度といい、馬に対する愛情といい・・・その腕は俺が人間だった時に語り継がれていたあの「馬の神様」と変わらないのだろう。
前世では彼の素晴らしさを知ったのは亡くなってしまった後だったから、今こうしてその技術を目の前で見られるのは感動的ですらある・・・俺、患者だけども。
って、あれ?今日初めて会ったはずの幸長さんが、なんで俺の脚の状態を知ってるんだ?
そんな何気なく、しかし一度湧いてしまえば気になって仕方ない疑問に答えてくれたのは、他でもない幸長さん自身だった。
「さっき先生にこいつの脚のエコーを見せてもらったんですが・・・うん、なんとか出られるくらいまでは治ると思いますよ」
成程、太島センセイか。大方俺の脚のことを相談して、どう調整するか相談したのだろう。
「じゃあ、まずは蹄鉄を外しましょうか」
その末、蹄鉄を打ち替えることになった俺は洗い場のような場所に繋がれ、まずは一番負担がかかっているであろう右前脚を上げるように促される。
『はいよ』
「よっ、と。素直でやりやすいなぁ」
素直にそれに従うと、幸長さんはすかさずそれを足の間に挟み込み、専用の道具であれよあれよと言う間に蹄鉄を外してしまう。
「・・・あれ、これ、日本の打ち方じゃない?」
そして、すぐさまその蹄鉄の違和感に気がついた。というか外してすぐに気づけるってのがすげぇよ。これが職人か。
確かに、欧州遠征をしている時俺は現地で一度蹄鉄を打ち替えて貰った。蹄鉄自体は日本で調節してもらった奴だから問題はなかったんだけど・・・。
「あ、ええ。セキトは欧州遠征に行ってたんです」
首を傾げる幸長さんに、馬口さんが答える。それを聞いてああ、そういうこと!と納得したような顔をした幸長さんは、少し難しい顔をしながら言った。
「うーん・・・難しい話かもしれないけど、次からは装蹄師も一人連れて行ったほうがいいよ。日本の打ち方で育った馬は、それに合うように育っちゃうから」
成程・・・国が違えば、蹄の手入れの仕方も違う。それによってせっかく微妙な線引で保たれていたバランスが崩れてしまうこともあるってことか。
欧州の馬場を走ったからだとばかり思っていた俺にとって、幸長さんの意見は全く新しい視点から吹いてきた風のようだった。
「多分だけど、屈腱炎になったのはこんな履き方をしながら走ったからだろうね。」
そう続けた幸長さん。人間で言えば靴自体は合っていたが、履き方を間違えていたってところだろうか。
しかし・・・もしたったそれだけで屈腱炎になったのだとしたら、これって人災じゃね?保険とか降りないの?降りない?そうですか、残念。
・・・さて、4つの蹄鉄も全部外し終わって、蹄も裏掘りとついでだからと削蹄し。随分ときれいにしてもらった。
だが、ここからがいよいよ、馬の神様が神様って呼ばれる所以の見せ所だ。
「ふー・・・よし!」
一息ついてから、蹄鉄を高温の炉に突っ込む幸長さん。
バチバチと焼かれた蹄鉄が最初は銀色をしていたが、すぐに赤くなって、そして白く輝いていく。
『うおっまぶしっ』
長く見ていると目が焼けそうだから、適度に顔をそらしながら幸長さんの様子を見守るが・・・なんでこの人はあんなのをずっと見ていて平気なんだろう。俺の中で職人七不思議の一つに認定しておこう。
「ふっ!ふっ!」
『おぉー・・・』
やがて赤熱し、柔らかくなった蹄鉄を取り出すと、角の生えた金床のような道具に引っ掛けながら、甲高い金属音を響かせ、時折火花を散らしつつ蹄鉄を曲げていく。
元々着けていた蹄鉄を参考にしながらも、今の俺の状態を加味してほんのちょっとだけ曲げや厚みを変えるんだが・・・それがまた微妙な調整一つで、脚を地面に付けたときなんかの感触が全然変わっちまう。
人間ならば合わない靴を履いたところで靴ずれ程度で済むんだろうが・・・馬の場合はもっとヤバいことになるんだよ。
具体的に言うなら蹄の形が崩れたり、それによって余計な負担が掛かったり。そんな状態で走らされたら・・・脚を守るどころか、故障のリスクが余計に跳ね上がるだけだ。
だからこそ、状態や形を慎重、かつ馬はそんな長時間じっとしていられないから大胆に把握し、素早く蹄鉄を変えなければならないのだが。
「・・・うん、まずはこんなもんかな」
『おぉ、早ぇー』
しっかし、流石は馬の神様。早速1つ目が仕上がっちまった。
トレセンに所属している装蹄師のおっちゃんたちの手腕も見事なものだが、それを上回る早さと技術、これが装蹄師にして、唯一「現代の名工」の称号を賜った人物か。
「ここは・・・よし、これでいいね。次はこっちだ」
まずは問題のない左前脚の蹄鉄から形を合わせ、次は左後脚の蹄鉄に取り掛かる馬の神様。
「そういえば・・・」
「ん?どうしたの?今なら大丈夫だよ?」
作業の途中で、見守っていた馬口さんが首を傾げながら、俺の脚に起きた不思議な現象についての疑問を、幸長さんに投げかける。
「いや、セキトの脚なんですけどね、間違いなく屈腱炎、いやそれ寸前なんですよ。なのに痛みも腫れも無いなんて・・・獣医でも原因が分からなくて」
「ああ、それね。さっきエコー見せてもらったって言ったけど・・・綺麗に神経が多いところを避けてるの。だから腫れはともかく、痛みがないんじゃないのかな」
「神経・・・!なるほど・・・!」
『マジか・・・』
なんてこった。流石は屠殺場に入り浸ってまで馬を研究し尽くした男。獣医ですら分からなかったことに「こうじゃないか」という答えを導き出すとは。
「ふっ!それで、最後のレースが無事に終わったら、もう一回呼んでください、また調整しますんで」
幸長さんは2つ目の蹄鉄を叩きながら、見解に頷く他ない馬口さんにそう言っていた。
いや、この人にもう一回装蹄してもらえるなんてなんのご褒美?あ、完走おめでとう記念か・・・まずは無事に走り終えないとな。
「・・・だから、現代の若者ももっと馬の身体について学ぶべきなんだよ、元気なのに処分されてしまう馬は沢山いるんだから」
「成程・・・」
「馬の死を無駄にしない・・・か」
それから3つ目、4つ目と蹄鉄を調整し終えた幸長さんは、どこからか噂を聞きつけて集まってきた美浦の装蹄師さん達に独自の理論を語らっていた。
最初は遠慮がちだったものの、真剣に聞き入る姿に感化されたか、次第に熱が入って行って。
今や「馬の蹄をどう見ればいいか」とか「何を学ぶべき」かなんてちょっとした講義みたいになっていた。というかギャラリー多すぎね?真ん中にいる俺が恥ずかしいんだけど。
「・・・よしっ、できた、これでどうだ」
『おー、おしまいか。ありがとうございました!』
「はっはっ、お礼か?お前はいい子だなー」
いつもより随分時間を掛けた装蹄、しかしそれはその分だけ俺に向き合ってくれたってことだ。幸長さんに首を擦り寄せて、素直に感謝しながら何回か足踏みをして感触を確かめると。
『・・・んん?』
なんだろ、これ。いつもとあんまり変わらないようでいて、何かがが違うような?いまいち分からん。
「それじゃあ、歩かせてみますね。セキト」
馬口さんが幸長さんに一礼してから、俺の引手を柱から外して手に取った。
『おう』
そうやって、一歩装蹄所から歩みを進めた瞬間、俺は、後から振り返ってみても馬生で五本の指に入るショックを受けた。
『・・・!?』
いやいや、おいおいおい。マジか。
『脚が・・・脚が軽い!?』
勿論今まで装蹄してくれていた人の腕が悪いって訳じゃない。寧ろこの年齢まで脚に異常なんて出なかったんだから、腕利きな方なんだろう。
しかし。
その感覚を彼方に追いやってしまうほどには、今の蹄鉄は、「別格」すぎる。
『今すぐ走りたいくらいだ!』
跳ねる心に呼応するように、俺の足取りも軽く、ステップを刻むように歩様を刻む。
その様に、ギャラリーたちから「おぉー」と歓声が上がった。
「セキト・・・そんなに楽になったの?」
『ああ!』
「ふふ、楽になったんだねぇ、よかったねぇ」
あまりのはしゃぎっぷりに、馬口さんがそう俺に尋ねてきたから一つ鳴いて返事を返す。
「・・・くそっ」
『あっ』
そんな俺の姿を見て、集まった装蹄師達の中で、一人だけ。悔しそうに拳を握ったのが見えた。
・・・以前、俺に蹄鉄を打ってくれた人だ。
しまった。よりによってこの人の前ではしゃぐなんて。
「あれ?セキト?」
今更ながら普通に歩いてみせるが、もう後の祭り。
「やっぱり、オレなんかじゃあの人の足下にも・・・」
そうボヤいた後、立ち去ろうとする装蹄師さんを見つめていると、その肩をどこからか伸びたシワシワの手が静かに叩いた。
「誰・・・っ!?」
反射的に振り返った装蹄師さんの悔しさを隠しきれない表情が見えたかと思えば、すぐさまそれが驚きへと変わって。
そりゃあそうだ。
「セキトバクソウオーが故障したのは君のせいじゃないよ」と。
そう、優しく諭したのは、他ならぬ「馬の神様」、幸長さんだったんだから。
「悔しい、か。懐かしいなぁ。あの頃はひたすらに馬のことばっかりで、妻には迷惑をかけて・・・うん。君には私と違って、まだまだ時間がある、大丈夫だ」
まだ、学べる。
そう優しい顔をしながら締めくくった幸長さんに、装蹄師さんは呆気にとられ。しばらくしてからハッとすると潤みかけた両目を右腕で乱暴に擦り、「ありがとう、ございます・・・」と頭を下げた。
『丸く収まってよかったぜ』
ふぅ、美浦トレセンから有能な装蹄師が一人消える、とかならなくてよかったぜ。
『メインはあの人なんだからな』
だって、
みーんな、あの人が打ってくれたんだから。
俺には引退レースが残ってるし。ひょっとしたら、その・・・俺の子供たちがお世話になるかもしれないし。なによりあの装蹄師さん、年齢もこの業界としては若いからまだまだいなくなられちゃあ困るんだよと胸を撫で下ろす。
『さてさて・・・』
幸長さんと固く握手を交わす装蹄師さんの姿を見守りながら、俺はまた背中にそっと新たな思いが乗せられるのを感じていた。
「無事に帰ってこい」という、祈りにも似た思いを。
『ああ、分かってるよ』
言われなくても、絶対に応えないとな。
さて、前回、今回と登場頂いた「馬の神様」ですが、新婚にして自宅の天井から大量の馬の脚がぶら下がっていた、故障馬を引き取り治療法を研究していた、等数々のエピソードが凄まじすぎて、某書を読んだ当時は唖然としたものです・・・。
他にも専門書の記載を書き換えさせてしまったほどの大事件である当てエビの件もありますが・・・流石に内容が内容なので自重ですw
間違いないのは、彼の功績は競馬という文化、いや、馬に関する歴史として未来永劫語り継がれていくであろうということですね。
次回更新は月曜日の予定です。