サラブレッドに生まれ変わったので、最速を目指します 作:Budge
しかし執筆している間にスターズオンアースは両前脚骨折、ジオグリフも骨折、イクイノックスも左前脚が腫れるなどクラシック組がやばいことになってますね・・・全馬、故障が治癒することを願います。
そして、同期がボロボロになっていくのに一頭平然としているドウデュース君、君の身体はどうなっとんねん。
1月、某日。
僕・・・こと岡田順平はとある式典に呼ばれ、その場である中山競馬場へと赴き・・・参列者の一人として、その式へ出席していたのだが。
「っ・・・!」
正直に言えば・・・緊張していた。騎手人生16年目に突入する頃になっての、初めての経験。
この空気すら知らずにムチを置く騎手が多い中で、この場に居合わせることができる僕は、それだけ幸運な男なんだろう。
しかし、反比例するかのように、その幸せを噛みしめるほど・・・何を話せば良いのか、なにをすればいいのか。頭に詰め込んできたはずの筋書きが、端の方から消えていく。
「・・・ジュンペー、大丈夫か」
そんな僕を見かねたのだろう。隣に立つ太島センセイが、そっと声をかけてきた。
更にその隣に立つもう一人のジョッキー・・・蛇井政史くん、僕とは歳がほど近いからそう呼ばせてもらっている彼も、僕の方を心配そうに伺っている。
でもその表情にはどこか余裕があって・・・たった一年しかデビューの差は無いはずなのに、こちらが落馬やらなんやらでまごついている間に、随分と差がついてしまったものだ。
「は、はい・・・」
震えるような声で、かろうじてそうセンセイに言葉を返した僕がいるのは・・・夕闇が支配しつつあるターフのど真ん中に設置されたステージの上。
不思議なもので、ターフで馬を駆っているときはどれほど目線を集めても平気なのに、今は足に込めている力を抜けばすぐにでもがくんと崩れ落ちてしまいそうだった。
ところで、このステージがこの場にある意味だけれども。今日は別に大きなレースがあった訳でも無ければ、僕が今日レースを勝ったわけでもない。
こんな状態で馬に跨るなんて失礼だと思って・・・馬主の皆さんには本当に申し訳ないけれど乗り鞍を全て断らせてもらったくらいだし。
それほどまでに僕の心を揺らし、惑わし、かき乱す。
その原因となっているのが、今僕がここにいる目的と同じということは・・・誰の目から見ても明らかだったことだろう。
・・・と。地下馬道から礼装に身を包んだ一人の女性が現れる。
しかも、彼女と共に騎手となった同期の中には女性騎手が二人、「天才」と呼ばれたジョッキーの息子である幸長くんや、最近になってテイエムオペラオーとともにG1戦線で暴れまくった原くんなんかもいて・・・「花の12期組」なんて囃されていたっけ。
しかし競馬の世界は勝負の世界・・・JRA所属の女性騎手として初めて海外での勝利を上げたものの、怪我によって思うような騎乗ができなくなってしまい、引退。
そんな彼女は・・・谷さんの助言によって競馬評論家へと転身。今では競馬中継番組でのコメンテーターの仕事なんかも任されているとか。
今日、この場に姿を現したのもそんな仕事の縁と言ったところだろう。
糸井さんはライトに照らされながら馬場の真ん中まで歩みを進めると・・・スタンドに向かって一礼し、手に持っていたマイクでその声を場内へと響き渡らせた。
「・・・ご来場の皆様、長らくお待たせ致しました。セキトバクソウオーと、マンハッタンカフェの登場です」
その声と共に、かつて国民的RPGをも彩った有名作曲家が手掛けたという関東G1の入場曲、「グレードエクウスマーチ」が、今日の主役たちのために流れ出した。
そして・・・ここにいるすべての人々が待っていたであろう、赤と黒の毛並みを持った2頭の馬が、女性の後を追う様に地下馬道からゆっくりと姿を現した。
その瞬間、拍手と大歓声に包まれる競馬場。
観客たちが2頭に向けて思い思いに投げかける言葉は多々あれど、大多数が「ありがとう」や「お疲れ様」といった、今まで走り続けてきた彼らを労う言葉。
・・・そう、今日は、彼らの引退式。
ターフを去る前に、その姿をお客さんに見せる、現役最後の仕事であり、新たな旅立ちに向けての儀式のその日である。
2頭の入場からしばらく経ち、場内の興奮もだいぶマシになった頃合いを見計らって。糸井さんは先にマンハッタンカフェの来歴を紹介し始めた。
「まずはマンハッタンカフェの紹介です。マンハッタンカフェ号は父サンデーサイレンス、母サトルチェンジの青鹿毛の牡馬、生産は千歳の馬飼ファーム。通算成績は12戦6勝、菊花賞、有馬記念、春の天皇賞とG1を3勝と素晴らしい戦績を上げ、昨年秋には凱旋門賞にも挑みました。」
マンハッタンカフェ。思えばこの菊花賞の馬着を纏った漆黒の馬と僕は、あまり関わりがなかったな。
G13勝、とは言われても・・・セキトとは全く違う路線を歩んだ馬だし、乗り役は蛇井くんだったし・・・セキトに会いに太島厩舎に行くと、その隣の馬房からにゅっと顔を出してきたりこなかったり。そんなイメージがあるくらいで、強い馬だと言われてもあまりピンとこない。
勿論、名馬という素晴らしい肩書きにはなんの影響もないけれど。
・・・そして。
「馬場を周回していますもう一頭、セキトバクソウオー号は父サクラバクシンオー、母サクラロッチヒメの鹿毛の牡馬。生産者は新冠町のマキバファームとなっています。通算成績は17戦12勝、スプリンターズステークスや高松宮記念を始め、香港スプリント、更には欧州のジュライカップを制するという、こちらも素晴らしい成績を収めています」
皆が聞き入っているその紹介文に、「そして、僕の相棒です」と付け足してやりたいくらいだ。
身に着けてきた馬着は、悲願のG1初制覇となったスプリンターズステークスのもの・・・僕と制したG1のものじゃないのが、案外ちゃっかりしている獅童さんの置土産のような気がした。
相変わらず腫れ上がった右前脚の屈腱炎が痛々しい。けれど、今日は獣医に処方してもらった痛み止めがよく効いていて・・・相棒は、ライトの光で赤い毛並みをこれでもかと輝かせ、調子良さそうに堂々と胸を張るようにして歩いている。
最近は飼い食いもいいと聞いた。時間をかければ元の状態に・・・とはいかないけれど、軽く走ったりする分には問題なく回復する見込みで、その診断を太島センセイから聞いたときにはほっと胸を撫で下ろしたものだ。
「では、ここで2頭を育てた調教師である・・・太島昇調教師に話を伺ってみましょう、太島さん、いかがでしょうか?」
「あ、はい」
式は2頭の紹介を終えたことで次の段階・・・関係者の挨拶へと移り変わったようだった。
ああ、もうじき僕の出番だ。何を話すのか整頓しておかないと。
「んっんん!どうも、調教師の太島昇です。まずは月並みな言葉になってしまいますが・・・セキトバクソウオーも、マンハッタンカフェも、とてもいい馬でした」
センセイは一つ咳払いをしてから、2頭についての思い出を語る。
・・・同時に、もっとG1を勝てていた筈の馬が、こんなことになってしまって馬主に申し訳ない、とも。
「今回合同で引退式を開くことになった二頭は非常に仲がいいと聞いたことがありますが、本当ですか?」
その話が一段落ついた時。今度は糸井さんの方からそんな質問が飛んだ。
それに一つ頷いてから、センセイは答える。
「その通りですよ。マンハッタンカフェが入厩してきたばかりの頃、人見知りならぬ馬見知りをして体調を崩したことがあったんですが・・・そんな時、休養から戻ってきたセキトバクソウオーが隣に入った途端に回復したんです。まるでセキトバクソウオーに励まされたようでした」
マンハッタンカフェが入厩した頃・・・セキトは3歳、丁度僕が落馬の後遺症と戦っていた頃の話だ。
そんな時、相棒は頼れる兄貴分として・・・しっかりマンハッタンカフェをフォローしていたのか。
僕が離れている間も、お前は何にも変わらなかったんだな。
「それって・・・まるで兄弟のようですね!」
センセイの話をしっかり聞き届けてから、驚いたような声色で糸井さんはそう言った。
兄弟・・・なるほど、確かに。
歳もほど近く、苦しい時には支え合って。
そんな関係性には、正しく「兄弟」という表現がピッタリだろう。
「・・・では、続きまして。引退する2頭の主戦騎手のお二人に話を聞いていこうと思いますが・・・」
2頭の軽い紹介とセンセイの挨拶を終えて・・・式は次の段階へと進んでいく。
やばい、来た。
これが、僕が緊張していた一番の理由。
騎手による単独の挨拶だ。
「まず、マンハッタンカフェの主戦騎手である、蛇井政史ジョッキーの挨拶からお願いします」
糸井さんの口から先に蛇井くんの名前が出てきたことで、ホッとしている自分がいた。
とはいえ僕の話もきっちりと予定に組み込まれている訳で・・・それが先延ばしになっただけという事実は変わらない。
しかし、まずは・・・蛇井くんの話に集中しよう。
「皆さん、まずはマンハッタンカフェを応援してくださり、本当にありがとうございます。皆様の応援があったからこそ・・・マンハッタンはここまでの名馬になったと思っています」
そこまで話すと、蛇井くんは一旦スタンドのファンへと向き直り・・・そのまま一礼する。大きく沸き上がるスタンド。
その盛り上がりが一段落してから、蛇井くんはですが、と前打ってから更に話を続けた。
「しかし・・・今日、マンハッタンは屈腱炎、競走馬にとって不治の病とも言われる疾病によって、道半ばでターフを去ることになってしまいました・・・そうなってしまったのは、騎手である私の責任でもあります。皆様、本当に申し訳ありませんでした!!」
そう言い終わるなり、先程よりも深く頭を下げる蛇井くん。すると、スタンドからは「頭上げろー!」だの「気にするなー!」だの、彼を鼓舞する野太いヤジが飛ぶ。
しかしそれに構うことなく蛇井くんはしばらく頭を下げ続け・・・やがて顔を上げると、話を締めにかかる。
「幸いなことに、マンハッタンは今日を以て次のステージへと進んでくれました。四年後に、またここで彼の子供と共に皆さんに挨拶ができれば・・・そう思っています。そして、最後になりますが・・・ファンの皆様、今までマンハッタンカフェを応援してくださり、本当にありがとうございました!よかったら、どうかその子どもたちにも温かい視線を向けてやってください!」
尺の都合上、あまり長々と喋る訳にもいかないんだろうな。比較的手短にまとまった蛇井くんの挨拶がきれいな一礼と共に締めくくられると、競馬場全体が拍手に包まれた。
・・・そして。
「では、続きまして・・・セキトバクソウオーの主戦騎手として、海外での2勝を含むG13勝を上げました岡田順平ジョッキーです」
いよいよ、僕の出番がやってきた。やってきてしまった。
「えと・・・セキトバクソウオーの主戦の岡田順平です、本日は非常にお日柄もよく・・・」
緊張のあまり僕の口から飛び出したのは、そんな当たり障りのない、いや、この場においては一種のボケとも受け取られかねないそんな言葉・・・あ、セキトがずっこけた。
「ジュンペー、そんなどっかの開会式じゃないんだから・・・」
蛇井くんが苦笑いしながらそう突っ込みを入れてきた。って!
「あ、蛇井くん、マイク、マイク!」
「うおっ、しまった」
咄嗟に口を手で抑えてももう遅い。先程のキレのいい声がマイクに入ってしまい、笑いが起きる場内。もう滅茶苦茶だよ。
・・・でも、ちょっとは気持ちが楽になったかな。今なら行けそうな気がする。
「えー、さっきの通り僕はこういった場に慣れてなくて・・・すみません、開会宣言をする気はなかったんですけどね?礼儀とか、どんなことを話せばいいかなんてまったく分からないんで、僕の言葉でセキトバクソウオーについて語らせて貰おうと思います」
喋りだしてみれば、それは簡単なことだった。先にそう前置きしておけばよかったんだ。
「・・・まず、セキトバクソウオー・・・セキトは、僕にとって一生忘れられない馬です。印象的な出会い方をしたのもそうですし、もう手が届かないと思っていたG1を獲らせてくれた・・・勿論それもありますけど、こいつは・・・こいつだけは、特別なんです」
そこまで話して、一息入れる。
セキトの・・・相棒の話したいエピソードなんていくらでもあるから、全部を話していたら地平線に姿を消した日がまた昇ったって終わらないだろう。
「どう特別なんだ、と聞かれると難しいんですが・・・そうだ、相棒・・・いや、どっちかといえば気心の知れた友人、に近い感じかもしれません」
だから、何を話すべきか考えようとしたんだけれど・・・僕は油断していた。
僕を絶望から引き上げてくれた相棒への惜別と。
その相棒を次の舞台へと無事、というと語弊があるけれど。しかしちゃんと送り出せたというほんのちょっとの安堵。
そして、こんな式典に呼ばれたことなんてない、という緊張。
特に今日はその3つの感情が入れ代わり立ち代わり、常にぐるぐると渦巻くように、僕の心を支配していたんだから。
「良いときには力を合わせて。駄目なときは支え合って・・・僕とこいつは、そんな関係でした。だからこそ、こうして・・・無事に、次のステージへ送り出せることが・・・!」
それが・・・その一つである緊張という抑えを失った今・・・思い出が次から次へと押し寄せて、噴水のように一気に噴き上げていく。
ああ。もう。そもそもこんな精神状態じゃ・・・全部が全部、上手くいく訳がなかったんだよ。
「あれ・・・おかしいな・・・なんで・・・うれしい、筈、なのに・・・?」
あ。もう駄目だ。
そう思う間もなく、溢れ出した感情が僕の目から流れ落ちていく。
僕の思わぬリアクションに、周りがどよめいているのが伝わってくる。けれど、一旦そうなってしまえば僕の振る舞いは想像していた以上に酷かった。
まさか、自分が話す時になって・・・言葉に詰まっただけじゃなくて、大勢のお客さんの前で、泣いてしまうなんて。
涙なんてとっくに全部、香港の芝に流し尽くしたと思っていたのに。
「ジュンペー・・・」
この業界では貴重な、年が近い同業者である蛇井くんが何も言わずに僕の背中を撫ぜてくれた。
恥ずかしい、でも、ありがとうっていうのが正直な気持ち。
「ぐっ・・・!止まれ、止まってくれよぉ・・・!」
人目もはばからず流れ出した涙は、どれほど心に意地という堤防を積み上げて「止まってくれ」と願ったところで。
その壁を穿ち、鉄砲水の様に押し寄せ、いとも簡単に壁を乗り越えては溢れていく。
大の大人が、涙をどうしたって止められないなんて・・・ああ、もう、情けないったらありゃしないよ。
・・・それだけ、あの赤い相棒の存在が、僕の中でどうしようもないほどに大きくなっていたという事実に他ならないんだけれども。
そして。
僕の泣き声は、突如、「フー」と、なにか大きな生き物が息を吐く音が聞こえ・・・暖かく、草の匂いを含んだ湿っぽい風が吹いたことでひとまず終わりを迎えた。
今の時期の風とはかけ離れたその温度に、一体何事だと驚きのあまり身体が跳ね上がったけれど。
落ち着いて考えてみれば、今日、この場で。こんなことをする奴なんて・・・たった
「っ!セキト・・・!?」
咄嗟にその名を口にしながら、ようやく顔を上げると。
目の前で「ブルル」と鼻を鳴らして立っていたのは・・・やっぱり僕の最高の相棒にして、スプリンターらしく圧倒的な速さで瞬く間に世界一へと駆け抜けたセキトバクソウオーだった。
さっきまで、馬口さんに引かれて馬場を周回していたはずなのに。
咄嗟に彼の方を向けば・・・困ったような顔をしながら指で顔を掻きながら「セキトがジュンペーくんを励ましたいって聞かなくて・・・」と呟いていた。
つまり、こいつはわざわざ僕を励ますためだけにこっちに・・・!?
・・・本当に。こいつは最後の最後まで・・・うれしいことをしてくれるじゃないか。
「何するんだよ、せっかく人がお前との別れを惜しんでるっていうのに・・・!」
口ではそう言いつつも、いつの間にか涙は止まって、口角は持ち上がって・・・セキトのことを思って流した涙を止めたのも。また、セキトであったのだ。
そっと右手を伸ばして、目の前にあるセキトの顔・・・その頬を撫でてみる。
体温の暖かさを感じると共に、彼の心の大きさというか、安定感というのか・・・安心感のようなものを覚え。
しかし、これからセキトには、北の大地で種牡馬としての仕事と、沢山の花嫁が待っているんだ。と思い出す。
僕とは離れ離れになって・・・こうやって触れ合うことも滅多にできなくなるのだと思うと・・・また、段々と気持ちが重くなってくる。
そんな時だった。
「えっ・・・」
不意に、セキトが。ぷいっとそっぽを向いた。
今まで僕に見せたことのない、そっけない態度。
それに驚き、思わず固まってしまうと同時に・・・なにか気に食わないことでもしてしまったのか、と必死に思考する。
今は触られたくなかった?
何かに気を取られたのか?
それとも単なる気まぐれか?
いや。少なくとも、セキトは理由なくそんなことをする馬じゃない。なにか原因はあるはずだ。
問題はそれが一体何なのか。考えて、考えて、考え抜いて・・・ようやくピンときた答え。
ひょっとして、セキトの態度は・・・「そんな落ち込んだまま、湿っぽいムードで俺を送り出す気か」という、お叱りなんじゃないか?
不思議なことに、素直にそう思えた。
確かに、こいつはそういう雰囲気をよく察して、おどけてみたり、励ましてみたり・・・暗い空気を嫌う馬だったなと思い出す。
なるほど、そういうことなら嫌われるのも当然だ。
何故なら・・・今の僕は、悲しい、寂しい、別れたくない。そんな気持ちが体いっぱいに詰まった「負の感情」のデパートそのものなんだから。
じゃあ、どうするべきか?
・・・そんなの決まってる。
「セキト!ごめん!僕が悪かった!」
素直に謝り、そして。
悲しい気持ちなんて追い出して、快くこいつを送り出す。
それに尽きる。
その気持ちが伝わったのだろうか?明後日の方向を向いていたセキトの顔がゆっくりとこちらを向いて・・・そのまま「それでいいんだ」と言わんばかりに僕の顔へと擦り付けてきた。
「・・・はは、そうだよな・・・」
ああ、やっぱりだ。と胸を撫で下ろした。
そこでふと、気がついた。ひょっとしてさっきそっぽを向いたのも、僕を元気づけるために、わざと・・・?
これが僕の幸せな勘違いなら・・・それでもいい。
相棒の行動によって、僕が励まされたのは事実なんだし、それで十分だから。
そして、相棒は・・・最後の最後まで、マイペースなまま、相棒であろうとしているという事実は1ミリも揺るがない。
「・・・セキト、ありがとうな」
元気づけられたことにお礼を言いながら、彼を抱擁すると。
「ワアアアアァァァァ!!」
一連の流れを見届けていた観客たちから、大歓声の雨が降り注いだ。
混ざり混ざりにあったその奔流が、どんな言葉を含んでいるかなんて、僕の耳じゃ何がなんだか分からない。
「(あ、そうだ、僕、競馬場にいたんだ)」
恥ずかしいことにその声が聞こえるまで、ここが競馬場であったことなんて頭の片隅にも残らないほどにはどこかにすっ飛んでしまっていて。
それを思い出した途端に、僕のやったことが全部見られていたという事実に羞恥心が押し寄せて・・・ええい、こうなったら!
恐らく赤くなっているであろう顔を隠すように、僕は更にセキトを抱きしめる。
その身体に纏う、草の、獣の、全部の匂いが分からなくなるくらい、抱きしめて、抱きしめて。
そうする他に、テンパった僕には「ありがとう」を伝える方法はなくて・・・そして。
どうして僕はあんなに涙を流したのか、ようやく理解できた。
寂しい訳でも、悲しい訳でもなく。
頼りがいのある、ピンと芯入った立派な背を。
何者も寄せ付けない軽やかなスピードを。
荒れた芝を蹴り上げるその力強い脚を。
どんなに苦しくても、勝利を目指して走るその眼差しを。
・・・そして、そのすべてを支えていた、呼吸と、心臓の音を。
今からずっとずっと、時が流れて、その先で・・・確かに、共に駆け抜けた彼を、忘れてしまうのが怖かったから。
それが、涙の源泉。等身大の僕が抱え込んで、離すことができない、情けない理由だった。
「はぁ・・・」
一体どのくらい時間が経ったんだろう。
周りの人が止めに入る前にやめたからそこまで抱きしめ続けていたって訳では無さそうだけど。
人よりも高いセキトの体温のお陰か、それとも「大丈夫、忘れない」って思えたからなのか。
僕の心にはもう、冷たかったり、寒かったりなんて場所は一欠片も残っていなくて。
代わりに、春のように暖かく、穏やかな空間が胸の奥にあるのを確かに感じることができた。
「なんだか力が抜けちゃったよ」
そう呟き、微笑みながらセキトから離れると・・・その顔はきょとんとしたような、驚いたような。とにかく「意外」といったような表情を見せていたような気がした。
「もう大丈夫だよ」
さあ、涙なんて拭い去って。
僕も、しっかりとケジメをつけないと・・・ね。
「ジュンペー、ほら」
ふと、聞き慣れた声に呼びかけられ。そちらを見やれば、蛇井くんが電源の入ったマイクを差し出してくれていた。
「ありがとう」
それをありがたく受け取って・・・僕は、セキトが心置きなく新たな戦いへと旅立てるように、別れの言葉を綴る。
「お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありませんでした」
まずは、あんな醜態を晒してしまったことへのお詫び。それから。
「ですが、先程見せてくれたあの行動・・・あれが僕と、セキトの関係の全てです」
嘘偽りなく、僕の思いを惜しげなくぶつけていく。
「思えば僕はセキトに助けられてばかりで、何かを返せたかと聞かれれば、残念ながら「まだ」という他にありません」
悔しいけれど、それが現実だから。セキトから貰った贈り物を殆ど返せないまま、彼を見送らなくてはいけなくなってしまったことに後悔が無いわけじゃないけれど。
それでも、セキトが見たい僕の顔は泣き顔じゃないはずだから。顔を持ち上げ、背を伸ばし、軽く胸を張って。その「後悔」を堂々と言い放つ。
すると。
「ヒヒーン!」
まるで僕の言葉に合わせるかのように嘶きが一つ・・・セキトだ。
『そんなことはない』って言ってくれてるのかな。
でもね、セキト。
僕は、自分が君の力を引き出しきれたようには思えないんだ。
前に、ちょっとした切掛で獅童さんが手綱をとったスプリンターズステークスの動画を見た。すると、僕が乗っているときより・・・君のストライドが、少しだけ広くなっていたんだ。
それは、騎乗技術の差かもしれないし・・・ひょっとしたら、手足の長さだったり、追い方の違いだったり・・・そういうちょっとしたものだったのかもしれない。
けれど、それを一旦見せられてしまえば、追い求めてしまうのが騎手の性。
どうにかその走りを僕も・・・と思ってはいたけれど、遂にその時は来ることなく、君は旅立ちの刻を迎えてしまった。
そうして、確信する。
僕はやっぱり未熟で、力の足りない馬一頭を勝ち上がらせるにも苦労するような人間なのに。
それがどういうわけか、セキトバクソウオーという、素晴らしい名馬と巡り合い、その背中に乗せてもらっていただけだ、と。
それは、まるで・・・そう、一炊の夢。
まるで、夢のような四年間だった。
「セキトバクソウオーという、歴史に名を刻むような素晴らしいスプリンターと出会えたこと、その背中に乗って、世界へと名を刻んだこと・・・それらすべてが、僕にとっては夢のような出来事でした」
セキト自身には、次なる使命がある。
だから、もう、共に駆けることは叶わない。
・・・けれど、けれども。僕にできることは、まだ残っている筈だ。
「僕としても・・・正直、もうちょっと。セキト自身の背中に乗っていたかったという思いはあります。ですが、その素晴らしい力を子供たちに伝えるという・・・サラブレッドにとって走ることよりも名誉ある使命を授かって、セキトは、本当に幸せな馬だと思います」
その血を受け継いだ子供たちを、栄光へと導くという、騎手としての本懐が。
「本当に・・・本当に。奇跡の塊のようなこの馬と出会えたことを、僕は一生忘れません!」
長ったらしく続けてしまった挨拶を、僕はそう締めくくった。
そして・・・信じられない光景を目の当たりにする。
『ヒヒィィィィン!!』
「セキト・・・!?」
夕暮れのターフで、セキトが大きく嘶いたのだ。
しかも、一度や二度じゃなく、何度も、何度も・・・。
「・・・これは・・・セキトバクソウオーが、いなないてますね・・・」
その様を見ながら・・・糸井さんが、呆気にとられたような顔で状況を整理する。
セキトは、さっきも言ったけれど・・・意味もなくこういうことをする馬じゃない。
何がしたいのか、いや、何を伝えたいのか。
彼が何を想っているのか・・・少なくとも、今の僕には、一つだけ、その意図を理解できた。
「『ありがとう』って言っているんじゃないですかね」
「『ありがとう』・・・?馬が、騎手に、ですか」
僕の発言に食いつくようにして尋ねてきた糸井さんに、僕は相棒のことを語る。
「ええ・・・確かに、レースで無理矢理走らされたり、ムチで打たれたりするんですから・・・騎手は馬から嫌われたりするのが常です。けれど、セキトは違った」
自分はなぜ生まれたのか、何を成すべきなのか。そのためには何をすればいいのか・・・それらをすべて理解していて、受け入れている。
まるで、人間のような、賢い馬。
そう言葉を綴れば、糸井さんは、さっきまでとは違い感心したような、優しく見守るような顔でセキトを見つめていた。
『ヒヒィィィィィィィン!!』
『ヒヒーン!!』
・・・と、場内へと響き渡る嘶きが一つ増える。
「あ、マンハッタンも鳴き出した」
それを聞いた蛇井くんがあれ?という顔をしていたから、僕は咄嗟に半分冗談、半分本気の言葉で話しかける。
「セキトに何か吹き込まれたかな」
「おいおい、変な癖にならないといいけど」
それを聞いた蛇井くんは苦笑いしながらも、やっぱり穏やかな顔で、引退の時を迎えた愛馬の嘶きを聞き届けている。
『ヒヒーーン!!』
『ヒヒィィン!』
まるで、自分に関わったすべての者へ感謝を捧げるような2頭の嘶きは、いつまでも、いつまでも・・・中山のターフへと轟いていたのだった。
引退式、無事終了。
次回はあのお馬ちゃんともしっかりお別れしないと・・・ね。
そんな回の予定です。