サラブレッドに生まれ変わったので、最速を目指します 作:Budge
本編の更新は後、ほんの少しと相成りましたが、完走まで気を抜かずに走りきろうと思います!
あ、北海道に杉林って珍しい様ですが、無い訳ではないらしいので、このまま突っ切らせていただきます。
一体どのくらいの時が過ぎたのだろう。
一体、何頭の娘、息子たちをこの世に送り出したのだろう。
遠い昔、共に走ったあのライバルの名は何だった?
俺とどちらが速いかなんてよく比べ物にされた親父の名前はなんと言っただろうか?
ああ、思い出せない。
記憶に蓋でもされてしまったかのように、あらゆることが。
それでも、確かなことが・・・二つ。
『ん・・・寒・・・』
一つは、今の季節が冬だと言うこと。
ツンと刺すような寒さで目を覚ました俺は、最近あまり動かなくなってきた身体をゆっくりと持ち上げ・・・いつものように、牧場全体を見渡せる場所へと向かう。
すると、まず目に入ったのは広い放牧地で土煙を上げながら走り回る、もうじき一歳を迎えるであろう若駒の群れ。
それから、春先の出産に向けて大きなお腹を揺らしながらもせっせと草を探したり、思い思いの場所で寛いだり、世間話に花を咲かせている牝馬たち。
それと離れた場所にいる、何頭かの身を休める現役の競走馬たちも。
それらすべてを満足の行くまで確認してから・・・俺は一つ大きく頷いた。
『・・・よし、今日も俺の「家族」は元気だな』
そう呟いた俺に、声が一つかかる。
『父さん、おはよう』
『おう、おはよう』
いつものルーティーンが終わるまで待っていてくれたのだろう。隣の放牧地から黒鹿毛の馬が話しかけてきた。
こいつは、ナイトオブファイア。俺とスーの間に生まれた2番目の子にして、長男坊。俺はナイトと呼んでいる。
何回か重賞を勝つという活躍を見せながらも種牡馬としては必要とされなかったこいつだが・・・幸いにして、乗馬としてここへ戻ってくることが出来た。
その穏やかな性格が生きる乗馬の仕事は正にこいつにピッタリで花形として大活躍、今じゃ知名度もあってツアー客や個人で乗馬に来たお客さんに大人気だそう。
『調子はどうだ?』
『仕事は充実してるよ。でもね、いやー、何年経ってもさ、大事なところが無いってのは慣れないね・・・キングやティオの奴が羨ましいよ』
今、こいつの口から出てきたのも俺の家族の名前。キングはセキトキングオー。俺とスーの間に生まれた5番目の子。俺に似た赤毛で、G1も獲った立派な奴だったが。
昨年、種付けの事故で若くして亡くなってしまったんだよな・・・けれども遺された子からG1勝ち馬が現れてくれたらしく、その血はしっかりと受け継がれていく事だろう。
そして、ティオの方だが・・・。
『なに?ボクがどうかしたの?』
ナイトの愚痴を聞きつけてか、更にその向こうにある放牧地から、一頭の芦毛の馬が声を上げ、柵のそばまで寄ってきた。
こいつがティオ。ちゃんとした名前はシロガネテイオー。俺とスーの最初の子供がトウカイテイオーとの間に産んだ子だ。
こいつがまた憎たらしいほどに優秀で・・・皐月賞、日本ダービー、そして三冠を逃したものの有馬記念に矛先を定めた矢先に骨折。軽度なものであったが希少な血の持ち主ということで引退し、ここへ戻ってきたという訳だ。
『なんでもねーよ、毎年毎年、沢山嫁さんを貰えるお前が羨ましいってだけだ!』
『にっしっし!ナイトおじちゃんは大事なところを取られちゃったんだもんねぇ』
『この・・・!』
魂の叫びを上げたナイトを軽い調子でからかうティオ・・・なんだろう、この口ぶり、どこかですごく聞き覚えがある気がするんだけど・・・だめだ、やっぱ思い出せねぇ。この頭も随分とポンコツになったもんだ。
それよりも、このままティオがからかい続けると流石のナイトもキレてしまいそうだな。そろそろ止めるべきか。
『こら、ティオ、そろそろ止めないか。ナイトも年下の言っていることだ、そこまで気にするな』
俺がそう
『・・・分かったよ、父さん』
『ちぇー、じいちゃんの頼みなら仕方ないなー』
そう言ってお互いにあっさりと引き下がってくれる。
・・・というのも、どうやら経験と知識が豊富だということで俺がボスの座に据えられているらしく。
頼み事をすれば、無茶なお願いでなければ大体は聞いてくれたりするんだよな。
・・・まあ、この身体の言うことの聞かなさっぷりを感じる度に、そんな肩書きももう少ししたら、誰かに譲らなきゃならなくなるかもしれないという思いが強くなっているが。
『(しかし、ここも随分と立派になったもんだな)』
仲裁されたとは言え、無言で睨み合いながら相変わらず何か言いたそうな二頭を尻目に、再び牧場全体を見渡せる場所へと移動すれば。
昔々の記憶・・・俺が生まれた頃よりも遥かに広大になった敷地を駆け回る若駒たちに、思いを馳せる。
『あいつも、あいつもあいつも・・・俺の血を引いてそうだな、お、あいつもそうか・・・』
その中に、俺と同じく炎が燃えるような・・・赤く、揺らめく毛並みを持った馬が何頭もいる。
それが意味することは、直系ではなくとも、確実に俺の血を引いているということ。
・・・そう。遅くなったが、もう一つの確かなこととは。
俺とスーの間だけじゃなく、他の牝馬の間にも何頭も子どもが生まれて。
そしてその子どもたちもまた、全部ではなくとも生存競争を勝ち抜き、親として仔を送りだしているということ。
それがなんとも嬉しくて、自然と口角が上がってしまった。
こうして、自分の血を引く子や孫たちの活躍を見守りながら、息子や孫と和気あいあいとしながら穏やかな1日を過ごす・・・。
それが、馬としても晩年と言える年齢に差し掛かった俺の日常。
・・・そんな、ささやかで、平和な、幸せに溢れた日々がいつまでも続くと思っていた。
しかし・・・どんな名馬でも、名も知れぬ馬にも。
遅かれ早かれ、唯一つだけ等しく訪れる「その日」がある。
そして、数奇な運命を辿りに辿った俺にも。
その日が・・・遂に訪れようとしていた。
「セキトー、散歩行くぞー!」
『ん、ちょっと待っててくれ・・・今行く』
好天に恵まれたとある日の昼下り。
いつものようにスタッフさんに呼びかけられた俺は、ゆっくりと身体を起こして、その声の方へと向かう。
最近は視力も段々と落ちてきていて・・・獣医のセンセイは失明も時間の問題だって言ってたな。
でも、不思議と怖くねーんだよ。耳と鼻がバッチリ働いてくれてるおかげか?
あ、でもこのまま失明したとして、これから生まれてくるかわいいかわいい孫やひ孫の顔を拝めないってことが何より辛い。孫バカ?なあに、昔からだよ。
・・・まあ、とにかく。加齢のせいで色々とガタが来ている俺の身体だけども、これ以上ボロボロにならないために・・・こういう天候に恵まれた日には、牧場を散歩することになっている。
コースも、時間もまちまち。俺の行きたいまま、したいままに牧場を周る・・・つまり、実質リハビリ。老人扱いされるのは、中身の人間としては中々に辛いものがあるんだけどな。
けれど、馬としてはそれこそ全力で走ったり、体力以上に動いたりでもしたらそれこそ命に関わるような歳の筈・・・それも仕方ないと渋々受け入れることにしたのが、少し前の話。
『さて、今日は・・・久しぶりにスーと・・・娘たちに会いに行こうかな』
頭絡と引き手を着けてもらって・・・ブルルッと一度身体を震わせれば準備完了。
『あれ、父さん、今日は散歩の日?』
『ああ』
『あ、じいちゃん、散歩行くんだ!いいな〜、いってらっしゃーい!』
『行ってくるよ』
それぞれ
「セキト、ここは牝馬の放牧地だぞ、やっぱり歳をとってもそういう・・・」
十分程かけてなだらかな丘を下り、牝馬たちが放牧されてる場所の一つへと辿り着いた俺。
『なに勘違いしてんだ、俺はかわいい娘たちに挨拶に来ただけだぞ・・・おぉい!』
今日の散歩に付き合ってくれているスタッフ君・・・恐らく今の俺よりも年下であろう彼の勘違いに呆れつつも、放牧されている牝馬たちへと声を掛ける。
すると。
「ん・・・うわっ、イリスにアイリにベル、それにヒカリ!?ドレスまで・・・一体どうしたんだ!?」
その中から5頭の牝馬たちが俺の方へとやって来た・・・みんな、スーの娘と、更にその娘だ。
驚くスタッフ君を尻目に、俺たちは馬同士で挨拶を交わす。
『まあ、お父様!随分とお久しぶりですわね、今日は何のご用事でいらしたのですか?』
早速反応を示してくれたのは全身が真っ白な毛並みに覆われた、見目麗しい白毛の牝馬。
イリスレヴィガーダ。通称イリス。俺とスーの間に6番目の子として生まれた彼女だが、母に似たのか体質が弱く競走馬としてのデビューは叶わなかった。
その事実を受けた朱美ちゃんが授けた彼女の名前はカキツバタの学名から取られていて・・・その花言葉は、「いつか幸せは訪れる」だそうな。
幸いにして繁殖牝馬としてなら生活に問題はなかったイリスはゴールドシップとの間に娘を授かったのを皮切りに、毎年新たな仔を産み落としている。
『イリス、久しぶりだな・・・なに、久しぶりに皆の顔を見たくなっただけだ』
彼女からの挨拶に応えていると、横からよく似た白い顔がもう一つ現れた。
『どしたの、お母さん?あ、じいちゃんだ!やっほー、じいちゃん!』
『ああ、アイリも今日はここにいたのか』
先程言ったイリスとゴールドシップの娘がこのゴールドアイリス・・・アイリだ。他の連中と被らないように呼ぼうとしたらこんな呼び方になった。
一旦は競走馬としてデビューし、重賞への参戦も見えて来た彼女だったがやはり体質があまり強くなかったらしい。つい一月前に故障し無念の帰郷となり、今は来年の種付けに向け身体を作っている途中だそう。
『じいちゃん、一緒になんかする!?草とか探そうぜ!』
『あ、ああ・・・すまないが遠慮しとく』
『えー!?やろうよー、絶対楽しいよー』
他の馬たちと比べても若いせいか、アイリのテンションは常に高めだ。すまんな、俺が後十年も若ければ一緒にはしゃいであげられたんだが。
アイリ相手だと歳の差によってこうして振り回されてしまうこともあるが、心配ご無用。そんな時は大体・・・。
『アイリさん、落ち着きなさい、セキトさんが困っているでしょう?』
ほら、アイリとは正反対な、青鹿毛の毛並みに大流星が走る「漆黒の女王」様がおでましだ。
そんなこの群れを束ねるボスの登場に、アイリは『ゔっ』と一言だけ漏らして、途端に大人しくなってしまった。
威厳と、美しい見た目を併せ持つボス。そんな彼女の名はブラックベルベット・・・国内のみならず、海外遠征を敢行してG1を制した名馬でもある。
俺がベルと呼ぶ彼女もオスマンサスの娘ではあるのだけど・・・彼女が生まれる前年、俺は体調不良に陥ってスーに種付けができなかったんだよな。
それはつまり、ベルは兄弟姉妹の中で、唯一父親が違うということ。そして、俺との血縁関係はないということであって・・・。
『ベル、助かったぜ。それから体調はどうだ?』
『お安いご用です。お腹の仔も・・・ああ、今蹴りましたね、とっても元気みたいです』
落ち着きながらも嬉しそうにそう答えてくれるベルだが、何を隠そう彼女の腹にいるのは俺との仔である・・・いや、そりゃあ配合できるんだったらしちゃう気持ちもわかるよ?
けどスーからしてみれば俺一本と決めた身でありながら他の牡馬との間に生まれた娘が、夫との間に子供を作るという人間目線ならとんでもなくカオスな状況。
果たして大丈夫なのだろうかと、スーに恐る恐る伺ってみると・・・彼女の反応自体は意外にも『それはそれで仕方ありませんわね』と言う様なスタンスで。
馬って生き物自体がそういうこともある生態だからだろうか?いずれにしても寛容な妻のお陰で俺は命拾いしたのだった。
・・・そういえばスーはスーで、種付け相手が俺じゃないと知ったときは大暴れして抵抗し、唯一彼女の言う『お兄様』にピンときて俺の話を持ち出したお陰で宥めることに成功したのがベルの父親・・・マンハッタンカフェだったと聞いた。流石は俺の後輩だな。
『ヒカリも調子はどうだ?』
『ぼちぼちってとこ、お腹の仔も元気だよ!』
そして、黒鹿毛の毛並みをもつこの牝馬の名はキボウノヒカリ。彼女もまた、俺とスーの間に生まれた九番目の子だ。今は初めての子を腹に宿している。
確か・・・なんかの重賞を勝ったとは聞いたけどよく覚えてねーや。何にせよ無事なのが一番。こいつのすぐ上の兄ちゃん・・・8番目の子は、名前も付けられる前に旅立ってしまったからな。
どんな形であれ、その名無しの兄ちゃんの分もヒカリにはしぶとく生きてほしいものだ。
『パパ、久しぶり』
『おう、元気にしてたか』
そして、最後に挨拶してきたスーそっくりな芦毛の牝馬・・・こいつがゴールドレースこと、ドレス。俺とスーの最初の子にして、朝っぱらから元気な挨拶をかましてくれたティオの母親でもある。
『うん、あたしは元気。それよりティオの奴はどう?』
『相変わらずだぞ、今朝はナイトのタマが無いことをからかってた』
『あのガキは・・・まったく、身体ばっか立派になって中身はほとんど変わらないんだから・・・』
彼女の質問に、今朝見たままの光景を伝えてやれば、大きなため息を吐きながら息子のバカさ加減に腕があったのなら頭を抑えているであろう表情を見せるドレス。
ティオは仔馬の時から生意気だったからなあ。それでいて二冠馬で、種牡馬としても種付けはともかく産駒は大体が優秀だという話を聞いたときは目玉が飛び出るかと思った。ほんと遺伝子って何が起きるか分かったもんじゃねえ。
・・・さて、この放牧地にいる身内はこの5頭だけか。若駒たちの方にも何頭かいると思うし、その後は功労馬になったスーにも会いに行かないとだから・・・そろそろ行かねーと日が暮れちまう。
『それじゃあ、他の連中にも挨拶しなきゃいけないんでな』
短い訪問ではあったが、娘たちは俺の訪問を喜んでくれていたようで。
『会えて嬉しかったです』
『じいちゃんまたねー!』
『またお会いしましょう』
『父ちゃんも元気でね!』
『パパ、またなー』
俺はここでもみんなに見送られて・・・次の目的地へと向かう。
『じゃ、行くぞ、スタッフ君』
用事は済んだぞ、とスタッフ君の持つ引き手を軽く引っ張って、その手を緩めてもらうようにお願いすると。
「あ、セキト、もういいのか」
『ああ』
最早お馴染みのサインとなったそれに、スタッフ君の手が緩んだことを確認した上で、俺はゆっくりと歩き出す。
・・・うーん、やっぱり現役の時と比べればなんと歩みの遅いことか。もう少し頑張れば速歩くらいは出来そうな気もするけど。
全く、ほんの数年前まで秋になればリードホースも務めていたのが嘘のような衰えぶりだぜ。
ん?リードホースもやっていたのかって?ああ。マキバファームの規模が大きくなっていくに連れて、やっぱりとうとう薪場のおっさんは育成牧場も始めたんだよ。
そこで少し・・・な。おっと、種牡馬がリードホースを務めるなんて危険すぎる?・・・俺は十年間、無事故だぜ?寧ろ仔馬たちがよく動くってんで評判だったくらいだし。
しかもなんかそうやって鍛え上げた奴の中に大当たりの奴が居たとかなんとかで一時騒然となったっけなあ。G1・・・6勝?7勝?とにかく大活躍だったらしい。
まあ、俺と暮らしたことなんかよりも、その後の調教がよかったってのがオチだろうけどな!
「・・・そういえばもうじき年明けだな」
『ああ、やっぱりそのくらいの時期だったか』
ぼうっとしながら次の目的地に向かっていると、ふと暇を持て余したスタッフ君が俺にそう話しかけてきたから、鼻を鳴らして『そうだな』と返しておいた。
俺も
今となっては、俺に残された季節を探る方法なんて放牧地の風景の移り変わりと、牝馬たちの腹の膨らみ具合しかなくてさ。
だからこそ、スタッフの方からこうして時々時相に合わせた話をしてくれると、今の自分が思っている季節や時期と、実際どのくらいズレているのか分かりやすくてありがたかったりする。
「にしても、来年でお前も二十五歳か。すっかりおじいちゃんって感じだなぁ」
『・・・悪かったな』
首を軽くぽんぽんと叩いてそう言うスタッフくんに年寄り扱いされているのが腑に落ちなくて、少し耳を倒す。
それにしても二十五歳か。確かに馬としては高齢の部類だし、リードホースから引退させられたのも納得してしまう。
これからはより一層身体の衰えには気をつけなければ。
そう思った矢先だった。
『だ、誰かぁーーー!!』
これから挨拶に向かおうと思っていた若駒たちの放牧地の方から、大きな嘶きが聞こえてきたのだ。
「えっ!?」
『っ!?』
その声に、異常事態を察して思わず身体を強張らせる俺とスタッフ君。
あれは、興奮から来る歓声とか奇声とかそういうもんじゃなくて。
・・・間違いなく悲鳴だった。
『クソっ!何が起きた!?』
「あっ!セキトッ!!」
一刻も早く、何が起きているのか把握する必要がある!そう判断した俺は、呆然としているスタッフ君を振り払い、先程までの動きが嘘のような走りを繰り出して放牧地へと向かった。
「あ・・・ほ、放馬ー!!セキトが放馬しましたー!!」
一瞬遅れて事態を把握したスタッフ君が、必死に俺を追いかけてくるのが視界に入る。すまんな、今は君にかまっている暇は無いんだ。
お叱りならたっぷり後で受けるから今は若駒たちの様子を確認させてくれ、と俺はさらに脚に力を入れる。
『はぁ、はぁ・・・着いた、一体なにが起きて・・・!?』
そうして最早散歩とは言えないハイペースで辿り着いた放牧地で俺が目の当たりにした光景は。
まず、一部が無残に壊された牧柵が目に入り。
それから、一箇所に固まって、ひたすら身体を震わせ、怯えている若駒たちと。
その反対に位置する場所で不法侵入をしているにも関わらず悠々と座り込んで、若駒たちを一頭一頭吟味するように見つめている・・・。
一頭の、ヒグマだった。
しかも。
『(あのヒグマ・・・デカくねぇか!?)』
この牧場があるのは、自然豊かな山の中。それ故ヒグマ自体はたまに見かけることはあったが・・・目の前のこいつは、そんなヒグマたちとは比べ物にならないほどに大柄で。
・・・いや、待て、そもそも本来ならば冬眠していなければならない筈の生き物がどうしてここにいる。そう考えた時、緊急事態によって最大まで活性化した頭が一つの知識を絞り出した。
『(まさか、「穴持たず」って奴か・・・!?)』
・・・近年、地球温暖化や人間の無茶な開拓などによって、野生動物の生態には、大きな変化が現れ始めている。
町中に姿を現す鹿や猿、畑の作物を食い荒らすイノシシなどなど・・・数え切れないほどの変化の一つが、穴持たずと呼ばれるクマの存在だ。
皆さんご存知の通り、少なくとも日本におけるクマって生き物は本来ならば冬の間は穴等に籠もって春になるまで寒さや飢えをやり過ごす生物である。
・・・しかし、山は拓かれ、餌もなければ、場所もない。そんな環境では、冬眠など出来る訳もない。
そうして生まれてしまった・・・歪な生態のクマが、穴持たず。
こいつらは、冬眠をしない。あるいは、できない。
そして、最大の特徴は・・・冬場になっても活動を止めず、絶えず餌を探しているということ。
つまり今、目の前にいる巨大ヒグマは、よっぽどのことがない限り無茶苦茶飢えているってことだ!
『(クソ、大声は出せねぇな・・・!)』
しかし、ここからどうするべきか。
一番いいのは、あのヒグマを刺激せず、若駒たちが全員安全な場所まで避難するか、ヒグマが大人しくここを去るまで耐えることだが・・・あのギラついた目を見る限り、それを許してくれそうにない。
ならばクマを撃てる人物を呼ぶしかない、が、ここは山の中。連絡が行ったところで、猟師が来るまでには相当な時間がかかることだろう。
それまで、あいつらが耐えられるかどうか・・・!
と、そこへ。
「はぁ、はぁ、セキト・・・やっと追いついた・・・って、あ、あれは・・・!?」
置いてけぼりにしてきたスタッフ君がようやく到着してきた。
「ひぇ、ひ、ひひ・・・ひぐ、ひぐ、ま・・・」
そして、早々に異常事態の元凶を目にした彼は、恐怖のあまり尻もちを付き、悲鳴を・・・
『おっと!すまんがそれは我慢してくれ!って、あ、不味・・・』
上げる瞬間、その口を俺が身を挺して塞いだことでまずは事なきを得た。
しかしあまりに慌てるあまりミスったわ。なんで野郎とキスしなきゃいけねえんだよ。俺にそんな趣味はねーよ。
『ゔぉえー・・・』
思わずなにか吐き出してしまいそうな気持ち悪さに襲われたが、スタッフ君はいつもの表情に戻っていて。一先ずどうにかなってくれたようだ。
「セキト、何するんだ・・・って、あ、そうか・・・ごめん、助かった。とにかく連絡連絡・・・」
そして、一旦は俺を叱ろうとしたものの、事態が事態であることをしっかりと認識したのか、冷静になった彼は携帯・・・もとい、スマホを取り出して事務所へと連絡を入れ始めた。
『これで後は若駒たちが耐えられれば・・・っと!?』
ヒグマが若駒を襲わないよう、しっかりと目を光らせていると・・・ああ、まずいぞ、若駒の一頭がブルブルと身体を震わせ、怯えきった顔をしていて・・・。
『も、もう駄目!!逃げるしかねぇぇぇぇ!!』
とうとう、耐えきれなくなって放牧地の中を走り回り始めてしまった。
そうなってしまえば、最後。
『ぼ、僕も!!』
『オレも!!』
『いやだ!食べられたくないよぉ!!』
走り出した奴を引き金に、若駒たちの全員が走り出してしまった。
そして、それを見た巨大ヒグマも、やるかと言わんばかりに一声上げると・・・いよいよ獲物を捉えるべく動き出す!
『ああ、畜生!やっぱり駄目だったか!!』
馬という生き物は常に追われる立場で進化してきた生き物だ。
それ故に臆病で、足が速くて・・・そして、群れで動く習性がある。
だから、一頭動き出せばこうなってしまうのは目に見えていた。
もし、あいつらが本能が想定しているあるべき場所・・・平原に居たのならば、そのスピードを以ってしてヒグマを振り切れる可能性もあっただろう。
だが、ここは牧場。狭く区切られた柵の中では上手く逃げ回れず、下手をすればクマではなく、そこに激突して命を落とす可能性すらある。
出来るならば動いてほしくなかったのはこれが起きてしまうから。でも、あいつらはあいつらで、「生きるための本能」に従っただけ。
起きてしまったことは仕方がないし、誰にも責められない。
そして・・・こうなってしまった以上、この事態を打破できるのは・・・最早俺しかいねぇ!!
生まれて初めて目にする本物の野生動物の迫力に少しばかり怖気づきながらも・・・それをねじ伏せ、首を下げ、武者震いをする。
『・・・スタッフ君・・・俺に何かあったら・・・後は、頼んだ!!』
「え、あ、ちょっと、セキト!!?」
俺の決死のセリフなんて微塵も伝わってもいないだろうが、関係ない。スタッフ君の手が引き手を掴む前にするりと抜けて、俺はヒグマのいる方へと走り出した。
『おらああああ!!クソヒグマぁぁぁあ!!襲うならこっちを襲いやがれぇぇぇぇ!!』
腹の底から空気を絞り出すようにして、何年ぶりかも分からない大声を張り上げ、どの若駒に襲いかかろうかと決めかねているヒグマの注意を引けば。
『・・・!』
奴はこちらの方へと視線を向けて・・・こちらへと走り出してきた。どうやら完全に俺に狙いを定めたようだ。
『へっ!そりゃあそうだ!若くて俊敏な奴よりも、歳をとっててトロい奴の方が狙いやすいもんな!』
肉食動物が獲物を捉えるときの本能・・・基本はどんな肉食動物も群れからはぐれた個体を狙うのだが、それは労力を掛けずに子供だったり老化だったり、様々な理由で「弱い」個体を狙う為。
まさに、「高齢」で「一頭だけ」で行動していた俺はヒグマから見ればうっかり群れからはぐれた哀れな犠牲者に思えたことだろう。
だが、それこそが俺にとっては好都合。
『おら!こっちだ!ついて来い!・・・って速!?』
さも群れからはぐれたところで天敵に出会い、逃げ出した様を装えば・・・ほら。ヒグマは見事に釣られてくれた・・・ってうぉ!?意外と速いぞ!
油断したら食われちまう、本当の意味での命を掛けた生存競争。
が、どれほど腐ってようが俺だってG1馬なんだ。あらゆる相手と戦い、「速さ」を証明した俺がクマになんざ追いつかれて食われたとあれば・・・それこそ、あの世で負かしてきた相手に笑われちまう。
『こっちも・・・簡単に食われる訳には・・・行かねぇんだよ!』
自分を鼓舞し、老体に鞭を打ち、現役馬さながらのスピードで牧場を走り抜けると、山道に入り、その道もやがて獣道へと変わり・・・。
それでもヒグマがついてきていることを確認しながら、俺は奴を牧場から引き離すように山の奥へ、奥へと進んでいったのだった。
そして。
「セキト・・・そんな・・・」
道の真ん中で、ぽつんと一人残された若い牧場スタッフが一人・・・セキトが走り去った方角を見ながら呆然と呟いた。
それから、一週間の時が過ぎ。
「セキトー!!おーい!セキトー!どこやー!」
「セキトー!どこだー!」
「セキターン!!どこにいるのー!」
「・・・ここでもなさそうだな。次の場所へいこう」
牧場の人々と、セキト失踪の報せを受けた朱美によって結成された捜索隊は何組かに分かれ・・・万が一に備え猟銃を構えた、熊撃ちと呼ばれる地元の猟師と共に山の中へと入って姿を消したセキトバクソウオーの手かがりを求めていた。
しかし如何に牧場に隣接しているとはいえ山は山。しかも所有者によれば少なくとも十年以上は放置されているというその場所での捜索は困難を極め。
セキトが通ったと思わしき場所こそ何箇所か見つかったものの、その現在地までは分からず、時間だけが過ぎ去っていき・・・。
「あかん・・・山ん中に馬が食える草があるとは思えへんし、ましてやセキトは年寄りや・・・これは、クマに食われてなくても、万が一ってこともあり得るで・・・」
とうとう、薪場の口から弱気な言葉が吐かれたのを皮切りにして。
「そんな、セキタン、今まであんなに頑張ってくれたのに・・・そんなのって・・・!」
朱美はセキトが働く一方で、まだ何も休めていないじゃないか。もっと会っておくべきだったと彼の馬の身に降り掛かった不幸を嘆き。
「いえ、天馬さんは何も悪くないです!あの時・・・オレがセキトの性格をもっと理解して、引き手をしっかりと握っていれば・・・!」
あの日、セキトの散歩に付き添っていたスタッフはその手の掛からなさに油断して本気で事故を警戒していなかった自分を責め。
もう既にセキトが亡き者であるかのような扱いをする3人に、猟師が呆れたように言葉をかけた。
「お三方、死体が見つかるまでは諦めるのは早いぞ」
ある意味、セキトがすでに死んでいると認めるような発言であるが・・・同時に「死体が見つからない限りは生きている可能性もある」と示唆するその言葉に、3人はハッとして。
一旦顔を見合わせると・・・何かを決意したような表情で力強く頷き合ってから再びセキトを探す声を山中に響かせ始めた。
「セキトぉぉぉ!!返事をしてくれぇぇぇ!!」
「セキタァァァアン!!どこにいるのぉぉぉ!!」
「セキトー!!隠れとらんで早よでてこいやぁぁぁぁ!!」
今度はもう、100%ダメと言える証拠が見つかるまでは諦めない。
何度も、何度も呼びかける。
痛む脚を抱えながらも、最後の最後まで勝利に食らいついて行った、あの馬と同じように。
・・・そして。
奇跡か、必然か・・・その、3人の声は。
『・・・ぅ、あ?』
鬱蒼と茂った木々の間を、捕食者に襲われまいと本能のまま彷徨い歩く一頭の馬の耳へ・・・確かに届いた。
その目は虚ろで、ただ、今を生き延びることにしか意識が向いていないようであったが、それでも、二度、三度。
確かに覚えのある声が聞こえる度に、ぴく、ぴくと耳がそれを捉え、脳がその信号を解読して・・・。
『・・・はっ!?』
遂に、その目に生気が戻ってきた。
『どこだ、どこに・・・って・・・おいおい、こいつもかよ・・・しつこいなぁ』
そしてそのまま、懐かしい声の出処を探してあちらこちらへと耳を忙しなく動かす内に、未だ優秀な性能を保つレーダーがどうやらありがたくない存在までもがまだ自分を付け狙っているという情報を捉えてみせた。
『(クマは一度手に入れた物に対して執着するって聞いたけど・・・幾らなんでもこれはちょっとおかしくねぇか・・・?)』
その存在とは、牧場の馬たちを餌食にしようと襲いかかってきたあのヒグマに他ならない。その姿こそ上手く茂みへと隠しているが・・・一度隙を見せようものなら、その数百キロはある巨体を踊らせ、鋭い爪牙で喉元を掻こうとしてくるだろう。
しかし、そんな頂点捕食者である存在が・・・いつまでも、いつまでも、あの手この手で攻撃を躱し、捕まらないはずの自分を追いかけてきている事にセキトは違和感を覚えていた。
いや・・・そもそもの話、クマという生き物は恐れ知らずではあるが、本来人間の家畜を積極的に襲うような生き物ではない筈なのだ。
それが、こうまでして自分を、家畜を付け狙うその理由。
セキトは一週間の朧気な記憶を必死に掘り返して・・・その原因かもしれない違和感へと行き着いた。
『・・・なるほど・・・お前も苦労してるんだな』
この山の植物は、特に杉が不自然に多い。そして大きく高く育ち、広がった杉林がもたらすものといえば・・・大量の花粉、そして鬱蒼とした日陰。
日陰に・・・いや、杉林によって僅かな木漏れ日すら失われたこの地の場合は暗闇というべきか。そんな陽の当たらない暗い、暗い場所では植物は育たない。例外なのは杉に巻き付くツタくらいだ。
・・・つまり、この山は「死んで」いる。
だからこそ、本来山でのサバイバルに向かない筈の馬であるセキトはここまで来れたのだし、そんなセキトを狙い続けるヒグマ以外の生き物を見かけなかった。
それは、ここがヒグマにとってエサがない地ということを意味していて。
ならば何故、これ程の巨体を持つヒグマが生きてこられたのか・・・その理由など、考えれば考えるほどに一つの可能性にしか行き当たらなくなっていく。
『ご苦労なこった・・・腹が減る度に、人里に降りちゃあ大事な家畜を掻っ攫ってくんだもんな』
このヒグマは一度や二度なんてものではなく・・・人の家畜を幾度となく襲う、常習犯。
セキトは、そう結論付けた。
そして、「失敗する訳が無い」というそのプライドと・・・家畜を襲うようになってからというものの、経験することの無かった異常な飢えが、ヒグマの本来持つ知恵を歪ませ、セキトへと執着させているのだろう。とも。
「セキトー!どこやー!」
『おっさん!・・・っと!』
そんな時に、再び耳に届く薪場の声。応えようとする気持ちを咄嗟に抑えて、近くに身を潜めているであろうヒグマへと意識を集中させる。
『(クッソ・・・!ここにいるって応えられたら、どんなに楽か・・・!)』
一週間、運良く雨や水溜りから水分こそ取り入れることが出来たが、草は一口たりとも口にしておらず・・・身体は随分とやせ細ってしまっていて。
そんな身体で全力疾走しようとしたところで力が足りずに、追いついてきたヒグマにあっという間に組み伏せられ・・・そしてお陀仏。
その光景が見えるからこそ、下手に動けず、動かせず。
「セキトー!」
そんな所で、再び耳に届く声がこれでもかと心を大きく揺さぶってくる。
幸いにも何度も呼びかけてくれたお陰で・・・彼らのおおよその位置は分かっている。
だからこそ・・・セキトは非常に歯痒い思いを抱え・・・どうするべきか、大いに迷っていた。
みんなの下へ行くのはいい、だが、そこにこんな大熊まで引き連れていったら・・・大惨事ルート直行コースが確定してしまうだろうから。
が。そんなセキトの葛藤を知ってか知らずか、聞きたかった声によって、彼の迷いは容易く断ち切られることとなる。
「セキターン!!大丈夫だよー!熊撃ちさんもいるからー!熊さんが着いてきても、やっつけてくれるよー!!」
『朱美ちゃん・・・!?』
聞き間違いかと思うような内容、しかし確かに現実のものであるそれは、他ならぬ大切な馬主の声。
その中にあった熊撃ち、という言葉・・・。
それを聞いて、セキトはにやりと笑う。
『(上手く行けば・・・牧場に帰れるかもしれねぇ・・・!!)』
我が家に帰れるかもしれない・・・と。
そうと決まれば・・・問題点は、今のセキトの限界がどこにあるかだった。
『(おっさんたちとはなるべく近いほうが良いんだが・・・)』
熊撃ちが同行しているとなれば、何らかの方法でこちらの位置を知らせるか、或いは自分でそちらのほうへと赴くか。
いずれにしても、未だ自分を付け狙うハイエナのようなヒグマの存在を知らせなければ、彼らの命も危険に晒されることになる。
そのためには、・・・ある程度の距離がある状態でこちらの健在を知らせつつ、襲いかかってくるであろうヒグマから逃げ切るしかない。
チャンスは一度きり。
『(・・・大丈夫、やれる、やれる・・・!)』
成功すれば生き延び。失敗すれば・・・死へと一直線。
ハイリスクな作戦に、脈打つ心臓の音が大きくなり、そして、早くなっていく・・・そんな時。
『(あ・・・?)』
セキトは不思議と大昔、これと似たような高鳴りを感じたことがあるような気がした。
二度とない大舞台。かかる大記録。
なにか・・・いや、誰か。大切な「相棒」を背に乗せて、四方八方から歓声が湧き上がる。そんな場所を駆け抜けたような、朧気な記憶と共に刻まれた、激しい鼓動。
『(なんだか知らねぇが・・・燃えてきた!)』
その正体が、かつて「競走馬」として駆けた己の闘志であるということを知らぬまま、セキトは一か八か・・・自分を助けに来てくれたのであろう者の方へと身体を向ける。
その瞬間、どこからかの射抜くような視線が、更に鋭くなるのを感じたセキトは身体をブルリと震わせ・・・また、心を高鳴らせていく。
『(やってやろうじゃねぇか)』
これから走るのは、あのヒグマに恐れをなし、尻尾を巻いたからではない。
己の意思による、立派な作戦である。
三十六計逃げるに如かず。
『(つまり・・・逃げるが勝ち、だ!)』
そう思いながら、セキトは・・・力強く大地を蹴り出した。
「セキト・・・どこやぁ・・・」
「セキ・・・タン・・・」
「セキトぉ・・・」
「・・・まだ、ダメか・・・お三方、ここは休みましょう」
その頃・・・流石に疲れを隠しきれない様子の一行は、一旦セキトの捜索を取りやめ、身体を休めようとしていた。
そんな時。
「・・・あれ?」
「どうしたんや?」
「場長、すみません、ちょっと静かに・・・あ!」
セキトを逃してしまったことを激しく後悔しているあのスタッフが・・・何か聞こえたのか、耳を澄まして、顔を綻ばせた。
「なんや、なんか聞こえたんか」
「はい!馬の足音のような音が・・・」
「ん?それって、この・・・だんだん近づいてきてる音のこと!?」
3人の耳に入った音・・・それは確かに、聞き慣れた馬の足音に他ならなかった。
セキトだ!セキトが生きていて、それだけじゃなくこちらを見つけて、近づいてきている!
「・・・?」
3人が3人共、そう信じて疑わない中・・・熊撃ちの男だけが、足音に違和感を覚えて猟銃を手に取った。
「あれ、どうしたんですか?」
「いや、ちょっとした保険だよ。馬の足音にしちゃ、ちょっと変なところがあって・・・」
そう言いかけた瞬間。
『グオォォォォォ!!』
杉林の中から・・・まるで地の底から湧き上がる様な世にも恐ろしい鳴き声が轟いた。
「!?今のって・・・」
それに慄いた朱美を宥めるように、熊撃ちの男は落ち着いた声色で説明する。
「・・・間違いなく、熊です。危険ですからお三方は下がっていてください。それから」
その言葉に、先程までの歓喜から一転、緊張が走る3人。そして。
「先に言っときますわ。最悪の場合・・・馬ごと殺ることになります」
熊撃ちの男は、それだけ言うと、ジャキリと銃を構え、冷徹な目で照準を覗き込んだ。
「馬ごとって、そんな、なんでセキタンまで!?」
いきなりそんなことを言われて、納得が行かなかったのは朱美だ。
彼女の取り乱した声を聞いて尚・・・熊撃ちの男は冷静に告げた。
「パニックになった馬は、人を踏み潰すこともありますから」
「・・・」
そう言われてしまっては、何か言いたくても、最早何を持ってしてもその言葉を押し返すことなど出来なくて。
不安のあまり、目に涙を浮かべ始めた朱美の手をスタッフが握って・・・思わず顔を上げた彼女に、彼は言った。
「オレが言えたことじゃ無いかもしれないけれど・・・大丈夫です。セキトは・・・セキトバクソウオーは、そんなこと・・・絶対にしません。そういう馬です・・・!!」
彼とセキトの付き合いが始まったのは、ほんの数ヶ月前。そんな短い付き合いながらも事ある毎にその賢さには痛感させられるばかりで。
何があろうと、人を踏み潰すなんて・・・そんな事故を起こすわけが無い。
そう信用し切ってしまうほどには・・・情と、愛着と、信頼が生まれていた。
「・・・うん・・・!」
セキトを信じた真っ直ぐなスタッフの瞳に、力強く頷いて応える朱美。
「さぁ・・・どこからでも来い!!」
そして、熊撃ちの男が耳を澄ませ、360
そんな状況など知る由もなく。セキトと、それを追うヒグマの足音は・・・着々と一行へと迫っていた。
『(あぁー!クソっ!速ぇ!速すぎじゃねーのかあいつ!!)』
一方こちらはその一行目掛けて、一か八かの全力疾走をかましている途中のセキト。
走り出したは良いものの・・・やはり痩せ馬で、しかもオフロードとあっては熊相手に不意打ちでリードを取れたこと自体が奇跡に近く。
長く走れば走るほど、あちらが有利になる一方的な展開ながら、しかしその前に目的地まで辿り着いてしまえばこちらの勝ちが確定すると言わんばかりに、必死に脚を動かしている。
『グォォォォォ!!』
そんなセキトを追うヒグマの方も、待ちに待ったチャンスを逃すまいと赤い馬体を追っていた。
群れからはぐれ、衰え、弱った個体。ましてやこの奇妙な森の中でも煌々と輝くその生き物を見逃すわけがない。
そう思っていたのだが・・・これが中々、隙を見せない曲者で。まだか、まだか、ええい、まだかと待ち続ける内に何回も日が沈んでは、また昇って。
そんな獲物が・・・どういう訳か急に走り出した。
ならば追わないわけにはいかず、何ならこのまま行けば十分に捕らえられる可能性がある・・・いや、捉えてみせる!
・・・最早目の前を走る獲物のこと以外、眼中に無くなっていることにも気づかぬままに、ヒグマはセキトを追いかけ、追いかけ、追いかけ続ける。
そして、案の定追いついた。よくよく見れば痩せ細ったその獲物は飢えを満たすには不十分だが・・・まあ、またあそこへ襲いに行けばいいだけだ。と気持ちを切り替えた。
今はこの獲物を捉えるべく、アバラが浮いたその背中へと爪痕を刻むべく、大きく口を開け・・・!
「セキタンッ!!曲がってぇぇぇぇぇぇッ!!」
その瞬間、突然聞こえてきた謎の甲高い声に驚く間もなく。
その意味を理解しているかの様に・・・眼前の赤い生き物が大きく右へと身を翻したのを捉えた時だった。
ターン、ターン、ターン、と。
何かが爆ぜるような音が一つ、二つ、三つ。
山全体へと響き渡った。
次回、本編最終回。セキトの運命や如何に。