剣ノ杜学園戦記 作:新居浜一辛
――かくして、本人らが認知しているかどうかはともかくとして、大小の謀略と戦闘の果てにようやく歩夢たちの生還は叶った。
だが、過酷な凍土の生活はたった数日と言えども少女たちの肉体を意識せぬうちに蝕み、爪痕を残していた。
それすなわち、
「暑ッつい!!」
……体温調整機能のいちじるしい低下であった。
突如放り込まれた冬場の生活に慣れ切っていたが、現実の時節は間もなく初夏を迎えようとしていた。
その温度差は如実に体調のリズムとバランスを崩し、余計に暑く感じるようになっている。
いち早く夏服へと転じた彼女はそれでもなお拭えない息苦しさがために私的なスペースにおいてはボタンを第二まで外し、タイをたわませ、スカートを校則に抵触しない限度まで切り詰めてソックスを脱いで冷水を溜めた風呂桶に素足を沈める。
そして開いた襟やら裾やらをバサバサと、白鳥が羽を打つがごとく上下左右に往復させる。
もちろんその私的スペースというのは保健室、もとい士羽のアジトの一室なのだが、その部屋の主はと言うと、利かせすぎる空調に辟易しているようで、逆に高デニールのストッキングを履いた両脚を擦り合わせながら、恨みがましそうに当の歩夢と鳴を凝視ながら熱い濃茶をすすっている。
ただその無言の抗議のために部屋から出ていかずにいるのだから、彼女の偏屈ぶりも大したものだった。
あとよくわからないカラスはビニールプールを作ってぷかぷかと浮かんでいる。
生じた渦に従いその身を回転させているが、スタイルのせいでより煽情的に見える鳴の方を見るたびにクワッと緑の双眸を開眼させ、似たような恰好とポーズの歩夢を見ればスンとクールダウンする。
……状況証拠のみで言質を取っていないし正直言って分からないでもないので、今回は放免とする。
そんな折、ドアが無遠慮に開けられた。
長身の青年が、戸の入り口に立っている。厚手のミリタリーコートを身に着け、愛想にはきわめて乏しく、用事があって訪れただろうに容易に口を開かない。
「暑っ苦しいところに暑っ苦しいカッコの奴が」
と歩夢はその男、白景涼に苦言を呈した。今の彼女たちが言えた義理ではなかろうが、少しはTPOをわきまえたコスチュームに着替えて欲しいとは思う。
だが涼はそれにも反応らしい反応を見せず、じっと少女たちのあられもない姿を見返していた。
「……ちょっと」
それとなく居住まいを正しつつ、歩夢は涼を睨んだ。
「えっちな目で見ないでよ」
「お前を見てるわけがないだろ!! ……ぐえ」
これは見事なライン越えである。
突如横合いから無思慮な口を差し挟んできたレンリを足裏でプール深くに沈めていく。
吐き出される泡の量が極少まで減ってから、ようやく解放する。
「す、すまん……身を張った自虐ボケかと」
「んなわけあるかボケ」
「いや、君を見ていた」
「…………マジで!?」
「今だかつてないくらい驚いてんじゃねーか」
このままでは収拾がつかないと判断したのか。あるいはただ単純にうるさかったのか。
士羽がイスを回転させながら
「それで、視姦以外に歩夢に何か用向きがあってきたのではないのですか?」
と尋ねた。
「あぁ、自分がどこでもドアを使ってここにやってきたのは訳がある」
「……」
「……」
瞬間、空気が凍り付いた。
元より和気あいあいとガールズトークにいそしむ間柄ではないが、まず間違いなくこの時間は誰もが言葉を失って、閉口していた。
どこでもドア。なぜこのタイミングで、どこでもドア。
彼女たちの顔色を窺っていた涼は、視線のみを正面に戻して、
「冗談だ」
と短く言った。
「いやギャグでしょーけども、意味が分かんなかっただけっすよ」
「生息環境と同じくめっちゃ寒い」
「……お前ら、毎度ながら辛辣だよな」
切り出すタイミングも、話し方自体も不自然だったから、おそらくずっと言えずに温めていたネタなんだろうなというのは推測できたが、それはそれとしてしょうもなかった。
話の腰を二重三重に折られて、また冷房のせいで士羽は露骨に苛立っていた。
マグカップの縁を指で連続して叩きながら、
「それで、用事」
と短い中に多分に怒情を含ませて眉根を寄せる。
だがそれでも、涼は話さない。代わり、コートのポケットから一本の鍵を取り出した。
ライフル銃と、それに二発の弾丸が尾に取り付けられた、群青色の『ユニット・キー』。
特定の誰かに向けたわけではないだろうが、ぞんざいに放られたそれをキャッチしたのは、彼から見てもっとも手前にいた鳴だった。
「自分の身内が失礼したようだ。その詫びと、そして礼だ」
そして口頭で伝えたのは、本当にシンプルな用件のみだった。
「『エリートスナイパー』……これの出所は……聞いても無駄でしょうね」
「それは、身内の裏に在って君たちを害そうとした人間からの詫びの品でもある。今回はそれで手打ちにしてくれ。それとも約束もあることだし、詮索もしてくれるな」
「……元よりこの馬鹿どもが迷惑をかけたこと。知ったことではありませんが、貰えるものは貰っておきましょう」
鈴の鳴るような声調で散々な言われようだが、たしかにまわりまわって迷惑となったのは自分たちの行動と、そしておそらく狙われたレンリの存在であって、礼も詫びも必要ないとは思う。
あえて顔見せのうえでそれを手渡すあたり、そしてハメられた相手にも筋を通そうとする辺り、律儀というかなんとやら。
「だが、『彼女』はそのレギオンの奪取を諦めたわけではない。目的までは知れないが、遠からずまたその魔手を君たちに伸ばしてくることだろう。今回はその忠告もしておきたかった」
つまり今回の騒動の原因となっているのは、レンリである。
井田典子がレギオン化されたのも、銀世界に放り込まれたのも、そして南部真月の暴走も。
一同の視線が、遠慮しがちに碧眼を伏せるカラスへと集まる。その丸っこい身柄をひったくって、それとなく歩夢は膝の上に置いた。
ひんやりとした濡羽を、掌と脚で感じる。
別に庇い立てしてやるほどのことでもないが、この異形のモノに関わると決めた時に、すでにある程度のトラブルは予期し、かつ呑み込んでいる。交渉や説得ではなく謀略と害意によって奪わんとする相手に、気前よく義理もない。
何より、それで損なうような人間関係でも自分の人生でもなかった。
何しろ、それらはすでに、とうに破綻しているのだから。
少女のやや輝きに欠ける瞳に自身の姿を投影させつつ、北の武王は厳かに、寡黙に首を上下させた。
そして軍靴のごときブーツの踵を切り返して出て行こうとする。
その足が、ピタリと止まった。
「どうしました?」
どうせ自分からは切り出さないだろう。そう見越した士羽が問いかけ、対して涼は
「言い忘れていたことがある」
と答えた。
「さっきのどこでもドアというのは、ドラえもんというテレビアニメに出てくる架空の道具で、どこでも自在に移動できる。だからそれを実際に使ってやってきたわけではなくあくまでものの喩として」
「知らねーよ!! いや知ってるけど知らねーから笑わなかったんじゃねぇよ!」
「ギャグを自分で解説って恥の上塗り過ぎる……」
「何故このタイミング」
「ほんとコイツ、コミュニケーションヘッタクソだな!」
全員から総非難を浴びても、ちゃんと会話ができたと言わんばかりにどこか満足そうな、『旧北棟』の長、白景涼。
彼を見ると南部真月の苦悩と暴走を、ほんの少しだけ理解した足利歩夢、十五の初夏であった。