「・・・あーもう・・・」
パドックでアピールを終えてから、私はゲートの近くで体をほぐしながらコンディションの最終チェックをするけど、どうにも集中しきれない。
まるで靄がかかったように、あるいは心が体から離れているかのように、思考が頭の中でまとまらない。
勝負服の裾を掴んで引っ張ってみたり、何度もマフラーの位置を調整したり、特に意味のない行動を繰り返す。
今までレースの前や最中にこんなことになったことはなかったのに、どうしてこんなことに・・・。
「・・・あ、いけねっ」
ふと足下を見てみると、無意識のうちに芝を足でガリガリとひっかいていた。
ウマ娘がつま先で地面を引っかくのはストレスが溜まってるときによくやる行為の一つだけど、自分でやったのは初めてかもしれない。中央に移籍したばかりの頃でさえ、緊張してたとはいえ言うほどストレスは感じていなかったし。
たぶん、周りから見た今の私は今までにないレベルで気が立っているように映っていることだろう。あながち間違ってはいないけど。
その証拠に、周囲を見渡せば他のウマ娘がヒソヒソしながら私から距離をとっていた。皐月賞ではまっすぐ私のところまで来たサートゥルナーリアですら遠巻きから私のことを見ているだけだった。
やっぱり、今日の私はいつもと調子が違うなぁ・・・。
こんなことになっている原因は、まぁわからないわけではない。
十中八九、あの悪夢だ。
あの前世の記憶らしき夢を見ると、どうにも心が乱れやすくなる。
じゃあ、あれはただの悪夢なのかと問われると、それは自分でもよくわからない。
たしかにあの夢を見た朝の寝起きは最悪だけど、夢自体はそんなに怖いとか嫌だとか、そういうのは感じない。
それに、あれは夢にしてはあまりにもリアルすぎるというか、はっきり記憶に残りすぎてるのはすごい不自然だけど、探ろうと思ってもどうにも深入りできない、そんな違和感がある。
まるで、私の本能があの夢を受け付けないかのように・・・
「クラマハヤテ選手。時間なのでゲートインをお願いします」
係員に言葉を掛けられて、ハッと意識が現実に引き戻された。
そうだ、今は目の前のレース、日本ダービーに集中しないといけない。
案内に従ってゲートの中に入り、視線と一緒に余計な思考をシャットアウトする。
考えるのは、競うべき相手と勝つための走りだけ。
『最後に1番人気、クラマハヤテがゲートに入り、各ウマ娘、ゲートインが完了しました。今世代の最強を決めるレースが今・・・スタートしました!』
スタートは完璧。ゲートが開いたと同時に駆けだす。
リオンリオンは・・・見つけた。リオンリオンは最外の私ほどじゃないけど、15番の大外からのスタートだ。私のように逃げない手もあったかもしれないけど、今回も青葉賞の時と同じハイペースの逃げを選択したらしい。
なら、私にとって都合のいい展開だ。
『第1コーナーで先頭に立ったのは青葉賞で逃げ切ったリオンリオン!そのピッタリ後ろに1番人気クラマハヤテが張り付いた!その4バ身後ろにロジャーバローズが控えます!』
最外スタートで前に出きれなかったように見せながら、リオンリオンの後ろにピッタリつく。
コントレイルが加入してから、コントレイルには私の後ろだけじゃなくて前も走ってもらったおかげで、マークのコツはなんとなくだけど掴んだ。
『私はいつでも抜かせるぞ』と圧力をかけながら、レースのペースを上げていく。
私もその影響は受けるけど、リオンリオンを風よけにしているおかげでまだ許容範囲内だ。
チラリと後ろを確認すると、全体的に縦長の展開になっている。私たちの後ろは3番手のロジャーバローズが先頭で食らいついてるのを他ウマ娘が追っている形か。
ハイペースに持ち込めているのは、こっちの作戦通りだ。
『向こう正面に入って1000m地点でのタイムは57秒8とハイペースの展開です!逃げるリオンリオンにクラマハヤテがプレッシャーをかけ続ける!』
こういう時は実況のアナウンスが便利だ。実況が現在の状況を解説してくれているおかげで私も仕掛けやすくなるし、場合によっては誤った情報を与えることができる。
『おっと!向こう正面半ばでリオンリオンに代わってクラマハヤテが先頭に出た!早くもスパートをかけ始めたか!』
実況には悪いけど、実際はスパートはまだかけていない。
ここでリオンリオンを抜かしたのは、向こう正面半ばにある上り坂で効率的に走ることができる私の方が相対的にスピードが上がったように見えただけだ。
そして、上ってからすぐに始まる下り坂でロスなく下ることで、私がスパートをかけているとさらに錯覚させる。
あとは、最終直線で残った脚をすべて吐きだせば、私の勝ちだ。
『さぁ第4コーナーを抜けて先頭に立ったのはクラマハヤテ!リオンリオンは少し苦しいか、ここで一気にロジャーバローズが上がってきた!』
ロジャーバローズ?たしか、ファン投票では12番人気のウマ娘だったはず。そういえば、レースが始まってからずっと3番手を走っていたけど、1枠1番からスタートしたとはいえ、このハイペースでその位置をキープし続けていたのなら、スパートに使える脚なんて・・・
「・・・ッ!?」
後ろを振り返って、背筋が凍りそうになった。
ロジャーバローズの表情に、ハイペースに付き合わされた消耗の色なんて見当たらない。
むしろ、この状況こそが、待ち望んでいた最も得意な状況だとでもばかりの気迫だ。
不味い。今のロジャーバローズは、限りなく最高に近い状態でスパートに入っている。ロジャーバローズの走りに引きずり込まれそうな感覚を覚える。
このままじゃ・・・いや・・・!
「負けて、たまるかぁあああ!!」
『ロジャーバローズが追い上げるが、クラマハヤテまだ逃げる!最外のスタートからのハイペース、半バ身まで迫られ、なおもまだ脚色は衰えない!最強の座は渡さないと言わんばかりの走りだ!』
あぁ、そうだ。
須川さんに拾ってもらって、イッカクにも支えてもらって、私に道を見出したコントレイルが来てくれた。
だからここで負けるわけにはいかないんだっ・・・!
『クラマハヤテ苦しいか、じわじわとロジャーバローズとの差が詰まっていく!さらに外からダノンキングリーも突っ込んできた!』
すぐ近くにロジャーバローズが迫っているのに加えて、後ろからも新たに足音が迫ってくる気配を感じる。実況が言ってるダノンキングリーか。
ダメだ。このままじゃ、負ける。
でも同時に、違う確信もあった。
今ある世界がひび割れていく感覚。それは、私の限界じゃない。限界を超えた向こう側、新しいステージへの道。
それが何なのか、私は知らないけど、直感的にわかる。
ここを越えれば、私は・・・!
ガシッ!
不意に、誰かが私の腕を掴んだ。
気付けば、私の視界はレースではなく、暗闇に包まれていた。
ここはどこだ?いや、なんで今?いったい誰が?体が重い。首を動かすことすらできない。何がどうなっている?
その答えを考える必要は、なかった。
だって、私の目の前には、今まで夢の中で何度も見てきた、あの黒い人型が立っていたから。
急に動きが鈍ったのは、周囲の闇が手の形になって私のいたるところを掴んでいたからだ。
まるで、そこから先に行くなとでも言わんばかりに。
「・・・ッ!」
邪魔をするな。
そう言いたいのに、声を出せない。
近づこうとしても、力をこめるほど腕が増えて、私を拘束していく。
なんで。
どうして。
このままじゃ、私は・・・!
『ゴール!!接戦を制したのはなんと12番人気ロジャーバローズ!伏兵が2分22秒6というレコードタイムで日本ダービーを制したーーー!!2番手争いはクラマハヤテとダノンキングリー、現在掲示板に写真判定の文字が光っています!』
フッと闇が解けた時には、すでにレースは終わっていた。
掲示板で輝いている数字は1。つまり、ロジャーバローズ。さらには、レースタイムにレコードの印までついている。
あぁ、そっか・・・私は、負けたのか。
レースにも、あの黒い人型にも。
一応、2着3着は私とダノンキングリーの写真判定らしいけど、なんとなく私が3着な感じがする。
ゴールの時の記憶はないけど、私の中に残っている感覚、というより本能が、私の敗北を囁いていた。
そして、10分ほどの審議の結果、ハナ差でダノンキングリーが2着、私が3着という結果になった。
そのあとのことは、あまり覚えていない。
気付いた時には、いつの間にか控室の前に立っていた。
「・・・ただいま」
「おう・・・頑張ったな」
「ハヤテちゃん。これ、スポーツドリンク」
「えっと・・・その・・・」
中に入ると、すでに須川さんとイッカク、コントレイルが待っていた。
須川さんは微妙な表情を浮かべながらも励ましてくれて、イッカクはレース直後の私を気遣うようにスポーツドリンクを差し出してくれた。コントレイルだけは、何を言えばいいのかわからない状態でおろおろしていた。
でも、今はちょっとそっとしておいてほしい。
「・・・ごめん、ちょっと1人にさせてもらってもいい?」
「・・・わかった。何かあったら呼んでくれ。2人共、出るぞ」
「はい」
「・・・わかりました」
須川さんに促されて、3人は控室から出ていった。
* * *
控室から出た僕たちは、控室の扉から少し離れたところで待機することにした。
「ハヤテ先輩、大丈夫でしょうか。初めて負けて、ショックを受けたりして・・・」
「いや、それは違うな」
ハヤテ先輩のことを心配していると、須川トレーナーは僕の言葉をバッサリと否定した。
ハヤテ先輩なら立ち直れると、そういう意味なのかと思ったけど、いつも以上に厳しい表情を浮かべている須川トレーナーを見て、根本的に問題が違うことが僕にも分かった。
「たしかにレース本番で負けたのは初めてだが、そもそもあいつは負けてショックを受けるような軟な性格じゃない。去年、併走とはいえ負ける前提でグランアレグリアと走ったこともあるからな。あいつは、負けた原因をしっかりと見て、次に活かすことができるタイプのウマ娘だ。
だからこそ・・・あの様子は、勝敗とは関係ない、根本的に違う何かがあったんだ。そして、おそらくそれはレース前の不調と何か関係があると見える」
「そう、なんですか?」
「あぁ。イッカクも、レースのことで何か思い当たることはなかったか?」
「はい。多分ですけど・・・最終直線で、ハヤテちゃんの走りが少し変に見えました」
「変、ですか?」
僕は思わず首をかしげるが、イッカク先輩は多分と前置きしたものの、半ば確信もあるようだった。
イッカク先輩は、地方であれば十分活躍できるほどのポテンシャルを持っていたらしくて、さらにハヤテ先輩に対して、なんて言うか、こう、執着に近い感情を抱きながらアシスタントをしている。
だからこそ、レースにおけるハヤテ先輩の変化を見逃さなかったのかもしれない。
「最終直線で、ロジャーバローズさんに追い抜かれそうになった時、さらに加速するような姿勢を、一瞬見たような気がしました。ですが、それはすぐに解けて、そのまま抜かれたように見えました」
「やっぱりか。俺も似たようなもんだ。心当たりもあるが・・・正しいかどうかは、ハヤテの話を聞いてみないとわからないな」
たぶん、今回の不調はハヤテ先輩にとってかなり根の深い問題のはず。
どれだけ自分たちにできることがあるか。そのことに一抹の不安を感じながら、僕たちは控室にいるハヤテ先輩を待ち続けることしかできなかった。
* * *
一人控室に残った私は、備え付けられた椅子に座って右手で額を押さえつけながら俯いた。
「・・・・・・はぁ」
ダービーという晴れ舞台で、初めて敗北したことにショックを受けた・・・というわけではない。
いや、もちろん負けたことにショックは少なからずあるけど、レース内容を振り返ってみれば冷静に受け止めることはできた。
今回のダービー、私の運が過去最悪レベルで悪かったのもそうだけど、私にとって一番の不運は、ロジャーバローズの運が最高レベルで良かったことだ。
ロスが大きい不利な最外枠、ダービーに向かない不利な走り、自分の持ち味を出し切れない不利な展開だった私に対して、ロジャーバローズはロスの少ない有利な最内枠、ダービーに向いた有利な走り、そして自分の実力を最大限引き出せる有利な展開、その全てが揃っていた。
その上でレコードを出して勝ったんなら、こればっかりはどうしようもない。こういう言い方はアレだけど、私の運が悪くて彼女の運が良かった、それだけの話だ。
それに、アタマ差+ハナ差ならタイム差なしで実質私もレコード保持者みたいなものだから、それがあるだけよしとしよう。
それよりも問題なのは・・・最後に見た、あの光景だ。
あのまま行けば、私は限界を超えることができると、その確信があった。
だと言うのに、最後の最後であの黒い人型に足を引っ張られた。あれのせいで、ダービーに勝てなかった。
あれがなければ・・・さらに先の景色が見えるはずだった。
・・・今思えば、レース中に、いや、走っている最中にあの黒い人型が現れたのは初めてだったな。
でも、今までも心当たりがないわけじゃない。
今回の現象は、移籍する前に中央で試走した時に、1人で走っているときに意識が深く沈み込んだ、あの感覚に近いものを感じた。あれと違うのは、黒い人型の有無と、あの時よりも今回は意識がはっきりしていたこと。
あの時は、なんと言うか・・・私じゃない誰かが私の代わりに体を動かしているような、そんな感じがした。
私の代わりに、私の限界を探るような、そんな感覚。
とはいえ、あの時は記憶がはっきりしてないから、具体的なことは何も覚えていないけど。
「・・・そろそろ、かな」
今までは、よくわからない夢の中の存在程度にしか考えてなかったけど、いい加減向き合わないといけないのかもしれない。
夢の中に現れる、そして今回レースで現れた、あの黒い人型に。
はい、というわけでダービー敗北ルートです。
本当は、欲を言えばもうちょいレースシーンを書きたかったんですけど・・・自分の文才じゃここら辺が限界でした。
ちなみに三冠取らせるルートもなくはなかったですが、それだと面白味に欠けるので没になりました。
なんで、ハヤテちゃんにはここらへんで苦労してもらいましょう。
まぁ、大外からレコードペースでかっ飛ばして入着してる時点で十分やべー奴なんですが。