Diving into Emotions.   作:粗茶抹茶

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感情ってなんだろうね

血液みたいにどろどろしたり

吐息みたいにふわふわしたり

はたまた肉体みたいに居座っている

まるで生き物みたいじゃないか

ならその生き物はいったいどんな奴なんだろうね


感情を一杯

相似して類似して酷似

 

 ───曰く、『感情』とは即ち液体であり、飲み干した者の心を侵す。

「君の感情は僕には飲み干せない」

 

 ───曰く、『感情』とは即ち気体であり、吸い込んだ者の身体に広がる。

「タキオンさんの感情は私には吸いきれないです」

 

 ───曰く、『感情』とは即ち固体であり、噛み砕いたものの脳髄に寄生する。

「貴女の感情は私には噛み砕けない」

 

 ─────曰く、『感情』とは即ち総てであり、生み出した者の腹の裡である。

「君の感情は君のものだ、それを否定することは自身への否定だ。裡なる少女を赦してやれよ」

 

 青年を終え成年へ向かう超光速の粒子(アグネスタキオン)を待ち構える盛年はそう告げるのだった。

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研究記録五十一頁 向き合うべき『要素』

 

 私と『感情』についてはあまり多くを語ることが出来ない。

 確かに、『感情』というものが人体において筋肉の使用効率をあげているのは過去の研究データがそう示している。しかしどれだけ顕示されようともそんなものはデータでしかない。百聞は一見にしかず、百見はたった一度の経験に劣るのだから。

 

 経験というものを重視した私にとってファン感謝祭は貴重な経験を得る機会だったのだ。

 結果から言えば成功と言えよう。ファンや、自身を慕ってくれる者からの声援というのは確かに更なる身体能力の向上に勤めていたのは同日のデモンストレーションが証明してくれた。

 しかし、得られた結果はそれだけである。学術書に記されただけの効果しか得ることが出来なかった。私の期待した効果を得る為にはベクトルの修正が必要だろう。

 タイムリミットは『本格化』が終わる日までだ。

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Liquid 12 June 20■■

 

 ひらり、はらり。

 病的な青白さを孕んだ蛍光灯が辺りを照らす中、男は一人本を読んでいた。オーダーメイドだろうか、本革で拵えられたブックカバーは当時の硬さなど既に失せ、草臥れた姿を見せていた。

 

「人の研究記録(レポート)を盗み見るとは感心しないな」

 

 呑気に読み進めていた男の手から本が離れる。厚みのある紙同士が勢いよくぶつかった時の優しい音がした。本を取られた男は特に気にする様子もなく余裕綽々と背伸びをするだけで声の主に目を向けることもなかった。

 

 時計の秒針が折り返しに来た時男は立ち上がり、カップとソーサーを二組戸棚から出すと、湯で温めたティーポットの中身を捨てサバラガムワを慣れた手つきで入れる。隣ではまるで見計らったかのように細長のケトルの蓋が踊っていた。

 小気味いい水音と共に燻したような香りが静謐な空間に広がる。長針が秒針に二度ほど周回遅れになった頃、スプーンで中を一周。ケトルの残り湯で温められたカップに紅茶が注がれる。

 

「───おまたせ、砂糖は自分で入れてくれよ」

「そうだね、君に任せると低カロリーな紅茶(酷い味)になりかねない」

「上手に入れられたようで何より」

 

 ひょいひょいと角砂糖を入れるウマ娘、アグネスタキオンは男の紅茶の腕前を冗談混じりに酷評するが男はそれを気にも止めず、無糖のそれを啜った

 

「──しかし、意外と言うべきか」

「何がだよ」

「君が私の研究記録(レポート)に興味を持つなんてね。二年前は触れすらしなかったのに」

「そりゃまあ、気になるだろうよ。自分の贈り物(プレゼント)をどういう風に使っているかは。ま、こんな風にエイジングされているんだ。腐らせずにいてくれたことを嬉しく思うよ」

 

 テーブルに置かれた本。そのブックカバーの縁を撫でながら男は言う。

 

「なんというか、効率的でないと私は思うのだが」

 

 アグネスタキオンの呟きに男は眉を動かす。

 

「というと?」

「ブックカバーの調子が見たいのであれば外面(そとづら)だけ見ればいいじゃないか。中身を、内面を見る必要なんて無いだろう?」

「そうだな、外面(うわっつら)だけ見てもわかることはある。しかし、だ。手に持って肌で感じて、開いてどんな目的で使ってるかまで知って初めて僕は嬉しく思えた」

「……そうかい、やれやれだな。ところで、君はその五十一頁……〖感情〗の研究について読んだみたいだけれど、何か感じることはあったかい?」

「いんや? タキオンらしいなって。感情なんて不安定すぎるものをデータ化してあまつさえベクトルまで弄ろうとしていたんだから」

 

 "ああ、そうだ"

 男はひとつ付け足した

 

「感情というのは液体なんだよ、さらさらしたりどろどろしたりその都度粘度(ねばりけ)比重(おもさ)性質(かたち)も変わる。燃えやすかったり、冷めやすかったりする」

「どういうことだいトレーナー君、全くわからんぞ」

「何、簡単な話だ。人は他人の感情を飲み干すことなんて出来ないのさ。僕も君も」

 

 "君の感情は僕には飲み干せない"

 男からすれば珍しくしどろもどろとするアグネスタキオン。それを他所目に男は紅茶を飲み終えると一人、部屋の外へ向かって行った。

 以降、部屋の中には陶磁器の音が響くのみだった。

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研究記録七十六頁 宝塚記念を終えて

 

『感情』の研究に囚われてからひと月半。珍しく私はパドックでのファンサービスについて指導を受けた。私の場合は、清楚に、高貴さを醸し出すのが良いと指導をされた。

 はっきり言ってどうでもいい、どうでもよかった。しかしそれで私への固定客(ファン)(ルビを振らないといけないのもめんどくさいものだ)による他者声援の効果をG1で知れるのなら安い投資だろう。

 

 ───しかし、ゴール後の歓声が一番盛大というのは中々に酷と言うのでは無いのだろうか。最終コーナーでの大盛り上がりですら児戯(ままごと)のように感じさせられてはデータの意味が殆どない。

 

 しかし、その程度の声援ですら、私の肉体に一時的変化をもたらしたのは事実である。全くの屈辱だ。

 次の目標である天皇賞・秋までにこの空気を、熱気を、最終コーナーで引き出すための術を見つけなければならなかった。

 

 〖追記〗

 一連の研究を振り返りたくなった私の為に天皇賞・秋については百十三頁から記していることを此処に書き残す。

 

研究記録百十三頁 天皇賞・秋での光明と消失

 

 はっきりいってどん詰まりだった。夏の強化合宿は何も掴めなかった。いや、少なくとも異なる環境下でのトレーニングによる筋量の増量は叶ったのだが。

 しかし、休日返上、自由時間全てを費やしても宝塚記念での解決策を見つけることは出来なかった。

 

 ──さて、そんな合宿からまたひと月半、あるウマ娘の走りを見ていた時、降ってきたと言うべきだろうか。このひらめきを私はトレーナー君と共有することにした。

 あの時の疑問と不審と困惑を中途半端に混ぜた顔を写真に収められなかったのは失策だっただろう。

 何時もふらふらしては突然閃いて帰ってくるトレーナー君への仕返しは個人的な研究リストに追加しておくとしよう。

 結果から言えば上手く行った

 

 天皇賞・秋にて私は端的に言えば、走法を変えた。所謂『差し』にシフトを変えたのだ。後からトレーナー君に聞いたが、レースの序盤から中盤まで観客(モルモット)達は動揺によるざわめきが支配していたとか。

 

 当然だろうと私は考える。今まで先行策のみで戦って来たのだ。そんなウマ娘が、しかも一番人気で注目度も高いのに突然走法を変えたとあれば誰もが出遅れを考えるだろう。

 

 しかし、それまでが演技で、ブラフで、手品師の十八番(ミスディレクション)なら? 

 一人、また一人と喰らいつき、追い越し、置き去りにする私の姿に観客達は発狂に近い歓声をあげていたのが最終コーナーだったか。宝塚記念をも超えるその声量に、確かに、確実に私の体は反応し、加速した。

 しんと静まる競技場。掲示板に映る大差の文字。はっきりいってガッツポーズのひとつでもしたかった。しかし、ある声を聴き逃していたことに気づく。

 共犯者、モルモット、助手、トレーナー(私を見つけここまで連れてきたもの)、そう、彼の声だ。今までのレース総てとは言わないが、節目節目のレースにおいて必ず私は彼の声を最終コーナーで聴く。

 天皇賞・秋、中距離の最強を決めるこの場が節目でないわけが無い。しかし結果として聴こえなかった、その事実だけは残っている。

 歓声にかき消されたか、そもそも声を上げなかったのかは当人に訊くしかないのだが、これを書く日まで訊くことは出来なかった。

 まるで何かを恐れるかのように。

 

 この訳の分からない恐ろしさは棚上げするとして今年のゴール、有馬記念。そこがきっと私の研究のひとつの締めくくりになりそうだ。

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Gas 3 December 20■■

 

「……へぇ、これがタキオン先輩の研究なんですね……」

「そうだね、スカーレット君。それでもまだこの研究は途中なんだ。終わる気配すら見えないよ」

 

 トレセン学園にある空き教室。そこの蛍光灯は基本的に働かない。部屋の主である研究狂い(アグネスタキオン)の発明する薬品が照明の代わりを果たしているからだろう。

 しかし今日は珍しく蛍光灯は役目を全うしていた。それはきっと不可思議な繋がりを感じる少女(ダイワスカーレット)の来訪が理由だろう。

 

「でも有馬記念が締めくくりになりそうなんですよね? それだとおかしいじゃないですか。研究が終わりそうもないのにそこで終わらせてしまうなんて」

 

 不思議そうに首を傾げるダイワスカーレットをよそに、アグネスタキオンは文中の単語をひとつ指した。まるで稚児が持ってきた本を一緒に読むように。まるで幼子の間違いを優しく諭すように。

 

「見たまえスカーレット君、ここに『ひとつ』と書いてあるだろう? 

 大きなテーマの研究はこれからも、いや一生、そう一生続くだろう。しかし湧いて出てくる小さな課題は解決していかないとならないのでね。それが終わりそうな『感情についての研究』だよ」

「あ、そうでした。ごめんなさいタキオン先輩。早とちりをしてしまいました」

 

 アグネスタキオンは、嘘を指摘された子供のように謝るダイワスカーレットをいいんだと止めると聞きたかった、知りたかった疑問を口にした。

 

「ところでスカーレット君。君は、『感情』についてどう思う?」

「感情……ですか?  そうですね、私にとって感情というのはとてもフワフワしてるもの……気体みたいなものだと思います」

 

 先程まで座っていた椅子を丁寧にしまい、立ち上がったダイワスカーレットは真っ直ぐになるよう、自身の視線とアグネスタキオンの視線を結んだ。

 

「考えを聞こう」

「例えば……なんですけど、レースで勝てても凄く納得がいかなくてモヤモヤしてしまう時があるとして苛立ってしまっても、応援してくれるファンの声援がそういった納得いかない感情を拭い去ってくれると思うんです。まるで重たい空気を換気扇で入れ替えるように。だから思うんです、私にとって感情とはきっと気体であると」

 

 "そしてタキオンさんの感情は私には吸えないと思います"

 

「あっ、ごめんなさい! 私ばかりずっと喋ってしまって……」

「いや、構わないよ。それより今日はありがとう。今日は珍しくトレーナー君が病欠でね。面白い話も聞かせてもらったしこれはお礼だ。君のところのトレーナーにも飲ませてあげるといい。きっとよく効くだろう」

 

 そう言うとアグネスタキオンは戸棚からひとつの茶缶を出すと、ダイワスカーレットに渡した。中身は変哲のないただの紅茶である。疲労回復と即効性の睡眠薬の効果があることを除けば。

 

「ありがとうございます! これできっとアイツも──いえ、私のトレーナーもリラックスできると思います!」

「そうかい、じゃあ今日はお開きにしようか。貴重な意見をありがとう。スカーレット君」

 

 一人残された部屋の中、アグネスタキオンは椅子に座り、天井を眺めていた。使う理由を失った蛍光灯の光が目に焼き付く。

 

「──どうして私は、ここまで『感情』にこだわるのだろうかな? それはきっと知らないを、知らないままにしておけないからなのだろう」

 

 ぱたん、と本が閉じられる音がした。

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感情を知らぬ者のボイスログ

 

 答え、というのは案外近くに転がっていて自分を見つけてくれと叫んでいると私は思う。問題はそれを探す探求者の方にあるのだ。灯台もと暗しと言うべきか。結局そういったものに気づくためには自分の近くにいるものをどれだけ知ることができているかが重要なのだ。ヒントを出してくれる者の声にどれだけ耳を傾けられるか。

 

 閑話休題。こんな研究は本当に遠い遠い回り道だった。しかし必要な回り道だった。

 

研究記録百二十七頁 有馬記念

 

 歓声が鳴り響く中山競技場、有馬記念(11R)の本命は私ともう一人、マンハッタンカフェに二極されていただろう。他でもない、私が指名したライバルなのだから。

 

 ターフを駆ける、コーナーをいくつか越えた。最終コーナーに入る。入れ替わりを繰り返し先頭になった私を追うカフェ。会場の歓声はきっと今年一番だっただろう。

 最終直線、残り少ない燃料をやりくりする私とある程度残った燃料を一気に放出するカフェ。次第に差は詰まっていくのを後ろの気迫から感じた。「負けたくない」そんな声が何処からか聞こえたような気がした。

 途端、私は『答え』に至った。とても簡単で、しかしこの瞬間出ないとたどり着くことの出来ない『答え』に。私は尽きかけの燃料を一気に燃やし、その先へ、確かに限界点を超えたのだ。

 

 レースを終え、地下バ道で待っていたトレーナー君はただ頷き手を差し伸べた。今ならあの謎の『答え』も聞けるだろうと確信じみたものが滲み出てきていた。

 

 答えは単純で、前列を取れず後方、ガラス窓の先に居たそうだった。喉につっかえた魚の小骨のような恐怖感はこれにて一蹴された。全く、あの得体の知れない恐怖とは二度と会いたくない。

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Solid 5 January 20■■

 

「……それで今日はなんの用ですか。こんな新年早々呼び出される私の身にもなってください……」

「いや……ふふ……あっははは! まさか本当に来るとは思わなかったよ!」

「なんですか、全く用が無いのに呼んだのですか。なら帰らせていただきます、じゃあ……」

「ああ! 待ってくれよ! せっかく来てくれたんだ、私の淹れる紅茶を飲んでから帰ったって良いだろう?」

「私が紅茶を苦手としているのを知ってやっていますよね?」

 

 短い冬休みのこれまた短い三が日を終えたある日、いつかの研究室に二人のウマ娘が椅子に腰掛け会話をしていた。昨年の年末といえば必ず出てくる二人、最高峰の競り合いをした二人。そう、アグネスタキオンとマンハッタンカフェである。

 

「……まあいいでしょう。それに理由も無しに呼んだのなら、こちらも理由無しで貴方の資料を読ませて貰いますし……」

「ああちょっとそれは──」

 アグネスタキオンが制するよりも早く、マンハッタンカフェは本革のブックカバーに手をかけた。

 

「──これは、なんというか。貴方に受けた屈辱を思い出すようで苛つきますね」

「研究記録百二十七頁、有馬記念の考察だからね。なるべくあの時を思い出しやすくしているからさ」

 

 諦めたのかつらつらと解説をするアグネスタキオンに耳だけを向けてマンハッタンカフェは内容を黙読していた。

 

「──で、って聞いてないだろ君。まあいいや。ところでカフェ君? 私は君に、ひとつ質問をしたいのだが。ああ、そんな身構えなくていい。この質問は、トレーナー君にも、愛すべき後輩(スカーレット)君にも聞いた事だ」

「……なんですか、いきなり……」

「君にとって、『感情』とはなんだ?」

 

 マンハッタンカフェは少し動揺していた。その理由は他でもない、アグネスタキオンに有るだろう。液体のように不定形で、気体のようにいつもそこにいる彼女が、真っ直ぐに、こちらを見ていたのだから。

 

「それは……凄くわかりづらい質問ですね。感情が何かなんて考えたことはありませんでしたから。ところで、そのお二人はどのような答えをされたのですか?」

「そうだねぇ……トレーナー君は液体、スカーレット君は気体だったかな。はは、これで君が固体だなんて答えたらまるで状態変化じゃないか。 ……なんだい、その顔は。まさか君」

「ええ、大方貴方の想像通りですよ」

「なんか君考えることを放棄していないか。まあいいや、で? そう思った理由はあるんだろうね?」

 

 大きな溜息をこぼし、アグネスタキオンは問いかける。

 

「……特別な理由なんてありませんよ。答えはもうお二人が示しているのですから。ただ、噛み砕いて、咀嚼して、飲み込めばきっとそれに寄生されてしまうでしょうね」

 

 "だから私は、貴女の感情は噛み砕くことはできないでしょう"

 

「……またか」

「どうかしましたか」

「いいや、こっちの話だ」

 

 アグネスタキオンが呆れてしまうのも無理はないだろう。変わらない展開に人は飽きやすいのだから。

 

「まあ、今日は感謝するよ。素敵な暇つぶしができたと思う」

「暇つぶしって……貴女本当に人のことなんだと思っているんですか……」

「私にとっては貴重な友人さ」

「そうですか。ではその貴重な友人からひとつだけいいですか」

 

「貴女は彼とちゃんと向き合うべきです。 ……それでは」

 ──────────────────────

答え合わせ

 

 日本ウマ娘トレーニングセンター学園本校舎屋上。たくさんの利用者がいるここも本日に限り伽藍堂となっていた。それもそうだ。今日の天気予報は雨、空は既に黒雲に覆われいつ雷が地を割ってもおかしくないだろう。金網に全体重を委ねている僕は空を見上げてそう思った。

 

「それで、こんなところに僕を呼び出してなんの用かな?  タキオン」

「そうだね……軽い感謝でも伝えようかなとおもってね」

「軽いってなんだよ、普通に感謝じゃいけないのかよ」

 

 自分の目の前にいるタキオンに伝えるとくつくつと彼女は笑っていた。

 

「いやいや、私が君に感謝を感じるなんて相当珍しいことなんだよ? なんなら君がこの私に感謝して欲しいくらいだ」

「ああそう。で、その感謝ってなんだよ」

「私をここまで連れてきたことだ、なんだいその顔は。当然だろう? 果てを見れた理由には少なくとも君は関与しているのだからね」

 

 そう言うタキオンの顔が少し物悲しそうだったことを僕は見逃さない。

 

「そういうわけだ。これからも、いや、少なくとも私が学園にいる間はよろしく頼むよ」

 

 後ろを振り向き扉へ向かうタキオン。

 

「本当にそれだけか」

 

 僕の声は、言葉は彼女の歩みを止めた。

 

「……なんだ」

「本当にそれだけなのか。人が来ない場所を選ぶならこんな場所じゃなくても良かっただろう。研究室なんかうってつけだったろうに」

「……あそこじゃ駄目なんだ。きっと思い出が邪魔をするから。君がきれいさっぱり自由になれるチャンスはここしか無かった」

 

 なんだそれ、と思った。

 

「おいおい、それはどういうことだよ」

「そうだね……始まりは去年の四月、感情の研究を始めたあたりからだろう。最初は速さを求めるためのファクターとしか思っていなかった。

 他人の感情を知ることも、自分の感情も正直どうでもいいと思ってすらいた。速さに繋がるのなら、そう思っていたよ。けれど秋の天皇賞の時、君の声が聞こえなくて」

 

 未だこちらを振り返らないタキオンの背中は小さく震えていた。

 

「それが凄く怖かった。でもそれは、ただの我儘でしか無かった。この前カフェに向き合ってみろって言われてね。

 思えば私は私の我儘を君に押し付けてばかりだった。きっと君の望みや願いをたくさん踏みにじっただろうと考えるとそれは罪悪感になったんだ」

 

 だんだんと声に息が混じっているのを感じる。

 

「だから……君には自由になってもらうべきだと、私はそう考えた。幸いなことに私はあと一、二ヶ月でここを去る。君は自由になれるんだ、こんな愚かしい女から」

「そこに君の本心はあるのか」

 

 ぐるりと振り返るタキオン。それと同時か、ぽつり、またぽつりと雨が降り始める。

 

「そんなもの……あるわけないだろう。これは私なりの罪滅ぼしなんだ。そこに私の意思が、感情が介入しちゃいけないんだよ」

「だったら、その意思は、感情は何なんだ」

「……できるなら君というぬるま湯に浸かっていたい。君に甘やかされて生きていたい。君を喪失することがとても怖い。けれど、そんな感情を持っていちゃ、私は大人にはなれない。だからこそ、私は君と決別すべきだしそれが君にとっても幸せだろう?」

 

 雨が頬を濡らす。タキオンの顔にもいくつかの水滴が出来上がり、伝っていく。

 

「タキオン、答え合わせをしよう」

「……なんのだい」

「『感情』について、君の研究の成果を聞かせて欲しい」

「君は答えを知っているとでも言うのか」

 

 彼女は散々渋った結果、僕に彼女が纏めている研究記録の内容を聞かせてくれた。どうしても、あまりにも可笑しくて笑ってしまう。答え合わせなんてする必要などなかったのだ。笑いで歪む顔を戻し真っ直ぐに彼女を見つめる。

 雨はだんだんと勢いを増す。

 

「タキオン、これから僕が言うのは、たくさんある答えのうちのひとつだ。この答えが今の君に必要だから」

 

 深呼吸をする。

 原稿は頭に浮かんだ。

 スピーチの始まりだ。

 

「感情というのは、まさに液体で気体で固体だ。流動的で浮遊感があってそこにどしんと居座っている。じゃあそんな感情はいったいどこから出てくると思う?  心?  いや違う。もっと深いところだ。

 それは君が、僕が、皆がいつの間にか置いてきてしまった幼さなんだ。どうしようもないくらいに純粋な〖自分〗なんだよ。

 押し殺すのは簡単だ。蓋をして、鍵をかけて、そのまま忘れてしまえばいい。でも君は、それでいいのか?」

「いいのかって、それしか方法がないじゃないか。感情を殺して、自分を殺して、私はやっと君に罪滅ぼしが、恩返しができるんだ」

「本気でそれを言っているのか。ふざけんなよ」

 

 語気がだんだんと強くなる。きっと自分の幼さ(かんじょう)が怒っているんだ。自ら逃げようとしてる彼女を。自分から蓋をして、大人になった気でいようとしてる彼女を。

 

「感情を殺すな。自分を殺すな。無理に自分を世界に合わせようとするな。君の感情は君のものだ、それを否定することは自身への否定だ。裡なる少女を赦してやれよ」

 

 暫しの沈黙、強まった雨は次第に弱くなり始める。

 

「……いいのかい?  私が私でいて」

「いいさ、君は君らしくずっと我を通し続けろ。そのための僕だ」

「……たくさん甘えるぞ」

「たくさん甘やかしてやる」

 

 一歩、タキオンが近づく。

 

「……実験にも付き合ってもらうぞ」

「君が研究を辞める日まで付き合ってやる」

 

 また一歩

 

「……なんの用もなく君を呼ぶぞ」

「むしろ大歓迎だ」

 

 手を少し伸ばせば届く距離までタキオンは来た。

 

「君はどうしてそこまでできるんだい?」

「僕の幼さが君を手離したくないから」

「なら私の幼さもきっと……同じなんだろうな」

 

 互いの体温を知った頃、雨は止んでいた。

 ──────────────────────

帰る場所があるということ

 

 カップとソーサーを二組用意する。茶缶からガラムマサラを温めたポットにたっぷり入れる。これが好みなのだからしょうがない。ポットに湯を注ぎ、適当な時間待つ。

 

「……うん、いい感じだ」

 

 スプーンで一周中を回したら茶葉が下に落ちるまで待つ。ちょうどいい具合になってきた頃、鍵が開けられる音がした。昨日渡しておいて正解だった。

 

「全く、卒業式というのは実に退屈だ。どこの誰かも分からない政治家の薄っぺらい祝言を聞かされると頭が痛くなるよ」

「はは、当時の僕もそんなんだったなぁ。つまらなくて、退屈で、眠気を抑えるのがやっとだったよ。さて、卒業おめでとう。君の学園生活、楽しめたかい?」

「もちろんだ。ルドルフ会長をはじめとしてスカーレット君にフジキセキ寮長、シャカール君やカフェ。他にも沢山のウマ娘たちと関わり、高め、研究できたことは私の学園生活を大いに楽しませてくれたね。そして何より、君が居た。これ以上ないくらい私は満足してるよ。ありがとう」

「それは重畳。おっと、淹れてた紅茶ももうそろ飲み頃だな。どうする? 君も飲むか?」

 

 玄関先の彼女は靴を脱ぎ、制服のリボンを外す。それを乱雑に洗濯カゴに放り込むと呆れ返った表情をした。

 

「君はわかってやってるだろ。そんなに実験台になりたいならすぐにでも用意するぞ?」

「それは困った。まだ君に言っていない言葉があるのに」

 

「おかえり、タキオン」

「ああ、ただいま」

 

 桜咲く。誰かの門出を祝うように。

 桜咲く。新たな始まりを願うように。

 

 最初の一杯は彼女好みの甘さだった。




畑違いの作品ですが皆様の食指を少しでも動かせたら幸いです。
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