一日の始め方
素敵な一日というのはまず、飲み物から始まるらしい。
彼女の場合は砂糖たっぷりの紅茶。アフタヌーンティーならぬモーニングティーだ。
午後の紅茶しかないことを憂いた彼女が、午前の紅茶としてそれを売り出そうとした時は、それを飲むのは彼女しかいないと三時間かけて教えたのはあまり思い出したくない。そんなことを思いながら僕は買い出しに走っていた。
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シュガーポット
「おはよう、私のトレーナーで助手で共犯者の■■くぅん」
「おはよう、いつになったらその呼び方やめるんだ。もう僕は君のトレーナーではないし、助手ではあるけど共犯者は酷いじゃないか」
東京都府中市のケヤキ並木から横に入ったところにある商店街。背の低いビルの一階にその喫茶店はあった。
喫茶〖摩天楼〗
その名は天を摩るような場所でも商品を出せるという意味か、単に店主の宿敵の二つ名から取ったのかはきっと店主しか知らない。
引退した重賞勝利ウマ娘が営んでることもあってか開店から閉店まで客の居ない時間は無い。そんな喫茶店の上、二階のある部屋に二人は居た。
「君が私の研究に目を瞑って貰えるように生徒会長サマに色々お願いしていたのは知っているんだが? それでも君は共犯者じゃないと言いきれるのかい?」
「それでも共犯者って肩書きは嫌だろ。せめて共同経営者にしてくれよ。というか店のことほぼほぼ僕がやってんだから実質僕の店だろ」
軽口をこぼし合う二人は一年前にトゥインクルシリーズで活躍したウマ娘とそのトレーナーであり、ウマ娘の名は超光速のプリンセスの二つ名を持つアグネスタキオンであった。
トゥインクルシリーズを確かに走りきった二人は、ある出来事を経てこうして共に店を持ち、生活することになった。その出来事の結果だけ語るなら、アグネスタキオンは自身の『感情』を本当の意味で理解した、ということだろう。
カタカタとケトルの蓋が踊る。それはトレーナーだった男の私物であり、トゥインクルシリーズを駆け抜けた証でもある。
「っと、もう沸いたのか。ほら、早く紅茶を淹れたまえよ。私の一日は紅茶から始まるのだから」
「はいはい。人使いが荒いなあタキオンは」
「忘れたのかい? 甘やかしてやると言ったのは君じゃないか」
「わかってるって 」
彼は立ち上がるとキッチンへ向かい、コンロの上で踊るケトルを落ち着かせ、いつものようにサバラガムワを用意した。そこからは彼がトレーナーだった頃の副産物である紅茶淹れの技術が見事に活かされていたと言えよう。
用意された紅茶からは燻したような深みのある香りが広がり、キッチンとリビングを包み込む。
彼女の前と自分の席の前にカップとソーサーを用意する。たぽぽと紅茶を注ぐ彼の姿は優麗で喫茶店の実質的なマスターを名乗るだけのことはあった。
「君も随分と紅茶を淹れるのが上手になったね」
「そうか? 一昨年くらいから特に上達したような感じはないんだが」
「してるとも。少なくとも私に美味しいと思わせられるほどにはね」
「それはありがたいな。砂糖の消費をもう少し減らしてくれるともっとありがたいんだけど──あっ」
冗談なのか本音なのか分からない懇願を口にしてる途中で彼は気づいてしまった。
「■■くぅん? 早く砂糖をおくれよー。砂糖たっぷりの紅茶じゃないと私の素敵な一日は始まらないんだからさ」
「あー、砂糖ねえ……うん、砂糖、はいこれ」
突然言葉に詰まった彼は戸棚からシュガーポットを出すとやけに軽いそれを彼女に手渡した。
「どうしてそんなに歯切れが悪いんだ君は、全く……ってこれは……本当かい? これが本当なら死活問題だぞ」
アグネスタキオンが良い一日を送るために必須だと豪語する紅茶の、凡そ二割くらいを占める砂糖はそこには無かった。
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甘くて美味しい
苦くて幸せ
砂糖とついでに諸々の買い出しを彼にさせたところで私は窓から外を見る。
既に目覚めた街は時計を確認し、せかせかと歩く会社員や、大声で会話をする主婦たち。それらを駆け抜けていく小学生たちが街の音楽になっている。
クラシックのように優雅でも、ジャズのように自由でもないが、生を実感出来るその場限りの演奏会に私は耳を傾けた。
演奏会ももうお開きかというところで私は思い出した。
「ああ、そうだった。今日の実験の準備をしなくては」
準備、と言っても大掛かりな装置に電気を通す訳では無い。それは学園にいた頃の特権だ。
今できるのは、少しばかり特殊なルートから仕入れた薬品を混ぜ合わせるだけだろう。
こうして出来上がった薬品。苦味をより強く感じる効果を持ったそれを試験管から彼のカップに注ごうとした時、カップの縁、ある一点が煌々と輝いていることに気づく。
「これは彼の……」
私は傾けていた試験管を元の姿勢に戻すと、もう片方の手でカップを手に取る。
ばさばさと自分の尻尾が揺れていることに気づく。おそらくそれを目にした時からだろう。
ここはひとつ、私の
○
「ただいま」
「ああ、おかえり。随分と遅かったみたいだね」
「どこぞの誰かがついでに食料品買って来いって言うからでしょ」
いくつものビニール袋を抱えた彼は私に袋をひとつ投げると買ってきた食料品を冷蔵庫にしまい始めた。
受け取った袋を開けると中には砂糖、グラニュー糖、角砂糖が入っていた。
「なんだい、こんなに砂糖を買ってきて。さすがに私でも使い切れないぞ」
「全部使い切る気でいるんじゃないよ。ストックしておくの。どれかが無くなっても気付いた時に買いに行けるだろ? よし、終わりっと」
冷蔵庫に入れ終えたのだろう。彼はこちらに戻ると席に座り、ぬるくなった紅茶、縁がどこも綺麗なカップに入っていたそれを飲んだ。
彼の顔がだんだんと苦悶の表情を浮かべてくるのを見ながら私は砂糖を紅茶に入れた。
「にっが! 何入れたんだよタキオン!」
「おやおや、私はただ苦味をより強く感じる薬をその紅茶に入れただけだが? 君の反応を見る限り実験は成功したようだね」
思わず笑みがこぼれてしまう。慌てる彼を見ながら紅茶を飲む。
「なんでこんなことするんだよ」
「君が砂糖が無いことを忘れていなければ、こんなことにはならなかったんじゃないのかな?」
「はいはい、善処しますよ。じゃあ僕は開店の準備してくるから」
「ああ、宜しく頼んだよ」
○
足音が離れていく。彼が階下の喫茶店に向かっていったのだろう。
一人残された私は呟く。
「私の飲む紅茶は美味しい。君が入れてくれるからね」
残された薬品入りの紅茶に口をつける。苦味に対して私の感覚が鋭敏になる。少しの罪悪感と多幸感が押し寄せてきた。
「けれど時にはこんな苦い無糖の紅茶もいいのかもしれないな」
その紅茶は幸せの味がした。