どこにでもいるような、名も無きモブ君は恋愛を知らない。
これは、そんなモブ君の独白のようなものである。

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第1話

 会社員男性。アラサー。

 容姿は普通、運動は苦手な方、学歴はどちらかといえば良い方。細かなステータスに注目すれば、それぞれに一応、得手不得手はあるが、モテ要素を全て合算して平均すれば普通に収まるような男。

 それが俺だ。

 なお、モテ要素筆頭の1つとしてよく挙げられる年収は、同年代と比べたら良い方ではある。そこだけはちょっと自慢できるかな。

 

 院卒で大手企業に入社して、田舎町の工場に配属となってから2年が経つ。

 観光名所としても知られるこの町は、水が綺麗だから、品質の良い工業製品をつくることができる。何をつくっているかまで言うと、身バレの危険があるから話さないけど。

 この町は良いところだ。

 空気は美味しいし、通勤はお前らみたいに毎日満員電車に揺られる必要がなく、会社が持っている寮に格安で住まわせてもらえるんだよ。

 買い物には少々不便だが、そのお陰で貯金は貯まる一方だし、ブラックな労働環境でもないから、健康にも十分な配慮をしつつ生活できていると思う。

 

 この暮らしに、そうだな、敢えて欠点を探すとすればそれは……、とにかく、全然人がいないことかな。

 特に若者がいない。家と会社の往復が簡単な反面、同僚以外の友人や仲間との出会いがない。

 それに…恋愛もない。

 ま、その辺に関して、俺は別に何とも思っていないよ。

 モブはモブとして、誰にも知られずにひっそりと生きていかねばならないって相場が決まっているから、さ。

 

 ……とまあ、こんなふうに、俺はモブである自分に一応は誇りを持って生きているわけなのだが、別に俺だって初めからモブになりたかった、ってわけじゃない。

 

―――ただ、今となってはそうやってプライドを保っていないと、やっていられないというだけのことなのかもしれない。

 

 ラブコメ漫画とかを想像してほしい。

 主人公がメインヒロインと結ばれる中、彼らのことを陰から支えるわけでもなく、ただクラスメイトとして存在しているだけの人間たち。誰にも個々として認識されずに、決してストーリーに干渉しない人間たち。

 あいつらが、主人公たちに話しかけたり、目立ったりしたらどうなるだろうか。

 きっと物語は崩壊することだろう。

 だから、俺はああいう中に入ってはいけないんだ。そういう星のもとに生まれてきた人間なんだ。

 そう思うと、胸につかえていた何かがすーっと消えてなくなっていく気がしたんだ。

 だから俺は、自分のことをモブと呼ぶことにした。そして俺はモブのまま、学生生活を終了した。

 

 ちなみに俺が中学卒業から大学院を卒業するまでに知り合った、同年代の女性の人数といえば、4人。

 なんということでしょう、片手で収まってしまうじゃあないかー(棒)

 モテるとかモテないとか以前の問題である。

 そのうちの1人は、バイト先で知り合った子。綺麗な子で、当然のごとく彼氏がいた。

 あと2人は、同じ学部・学科で一緒の空間で講義を受けていた子。ほとんど会話した覚えはない。

 そして、最後の1人は……

 

♢♢♢

 

 院に進学して1年目、6月の、ある朝のことだった。

 その日は朝イチからどうしてもやらねばならない実験があって、前日の疲れもあり少し寝坊してしまった俺は、いつもの道を小走りで、大学へと向かっていた。

 そのとき、1人の若い女性が俺の視界に入った。急いでいるというのに、思わず立ち止まってしまいそうになるほどに綺麗な人だった。

 信号待ちをしている彼女の横顔を、ただぼんやりと眺めつつ、俺はその場を通り過ぎる筈だった。

 彼女が歩き出すと同時に、俺は速度を緩めた。俺の向かっている方向の信号は、赤に変わったからだ。

 ついてないな、なんて思いつつ、後方から物凄いエンジン音が近づいてきていることに俺は気がついた。

 何かと思えば真っ赤なスポーツカーが、猛スピードのまま赤信号に突っ込んでいこうとしていたのだ。

 俺は慌てて彼女の方へと視線を戻した。

 彼女は車の接近に気づき、渡りかけていた横断歩道を慌てて引き返そうとしたのだが、不運にもヒールの部分がアスファルトに引っかかって、そのまま前のめりに転びそうになっていた。

 このままいけば、彼女は理不尽にもスポーツカーにはねられてしまう。

 だから俺は咄嗟に人生で一度も触れたことのない女性の手を強引に掴んで、抱き寄せるかの如くこちらに引っ張ったのだ。

 

 間一髪、彼女のことを救うことができた。

 

 彼女はめちゃめちゃ感謝してくれた。モブの俺なんかに本来向けられるべきではない彼女の笑顔は、運動不足気味の体に無理をさせて鼓動が速くなっていた俺の心臓を、更に跳ねさせるには十分すぎるほどに綺麗で、眩しかった。

 彼女は今度俺にお礼がしたいと言ってくれて、連絡先を尋ねてきた。だけど、それは流石に大きく捉え過ぎだろうと、あのときの俺は思ってしまったんだ。

 

―――これは、俺の感覚がおかしいとか、そういうことはないと思う。

 

 普段、他人に無関心で、通りすがりのモブ歩行者Aである俺が、彼女のことを助けることができた理由。

 それは、俺が優しいからなんかじゃない。周りをよく見ていて、気配りができて、まるで物語の主人公みたいな人間じゃないし。

 俺は、モブでありながら、メインヒロインのことを分不相応にも横目で眺め、思わず見惚れてしまっていたから、救えた。ただそれだけ。

 だからそんな彼女の申し出を、安易な気持ちで受け入れてはいけないと思った。

 そんなわけで俺は、急いでいたこともあって、無事でよかった、とだけ返して、そのまま急いで大学への道を再び走り出すことにしたのだった。

 

♢♢♢

 

 だが、男ってのは馬鹿な生き物で、それはモブであっても変わらないらしい。

 たった一度の出会いで、ほんの一瞬だけ言葉を交わしただけの彼女のことが、頭から離れてはくれなかった。

 きっと俺が、他人との関わりが少ない、モブであることが原因だろう。

 今となっては何年も前になるあの日のことをこんなにも鮮明に記憶しているのは、あの日に帰りたいから、とかではなくて、あの日以外の日々は毎日同じようなことの繰り返しだから。

 もし、連絡先を交換していたらどうなっていたのだろうか。

 何か美味しいものを一緒に食べに行ったとか、可能性として『ない』とは言い切れないが、きっとそれは建前だけで、言葉を真に受けた俺は馬鹿なやつと彼女に思われて、そのまま何の連絡もなくて、どうせそんなのがオチだろう。

 そんな簡単なことくらい、モブの俺でもわかるというのに、なぜなのだろうか。

 もう会うはずのない彼女の面影を、このちっぽけな田舎町で探してしまう自分がいるのは。

 

 俺のいつもの休日の日常へと戻ることにするさ。

 俺はこの町に越してきてから、休日の午前は決まってジョギングをするよう心掛けている。その時間が近づいているのだ。

 ジョギングなら、誰かと関わることがないから、モブとしての役目を果たしつつ、楽しむことが出来る。

 あと、大学のあった都会とは違って、この町は空気が良い。だから走っている間はいつも清々しい気持ちで、日々の仕事のストレスとか、色々な感情を忘れることができる。

 それを言葉にするのは難しいが、なんだろうな。『無』に近い精神状態を得ることができる。

 

 ――そして、その『無』こそが、モブである俺に求められていることではないだろうか。

 

 だから俺は、今日も走る。道の両脇に広がる、田んぼやら、草原やら。

 そういったどこまでも続いていきそうな景色が、走っていると少しずつだけど変化していく。不思議とそれを眺めるのが楽しい。

 だから、俺は来た道を引き返すようなことはしない。

 自宅から程よい、というよりも少しだけ長めの距離で、一周して戻ってこられるようなコースを設定しているのである。 

 明るいがずっと人気ひとけのない、そんな景色が続く。

 しかし、コースの終わりに近づいたとき、1か所だけ、少し賑やかな場所がある。

 そこにはちょっとした観光スポットになっているお花畑があって、道の駅が隣接して存在している。

 ここを通るとき、俺は決まって華やかな気持ちになることができた。そして今日も、いつものように綺麗な花を遠くから眺めつつ、そのまま通り過ぎる。

 

 ――そのはずだった。

 

 だが、僕は規則正しく守っていたジョギングのペースを乱し、その場で立ち止まることになる。

 思わず息を吞むような、綺麗な女性が、そこに立っていた。

 真っ白なワンピースを身にまとい、頭に帽子を乗せた姿はとても絵になっていた。ソフトクリームを舐めている美しい横顔は、俺が何度も、何度も思い返してきた、彼女のそれと……

 

 ――全く一緒であった。

 

 こんな運命的な瞬間が、この、しがない1人のモブに存在するとは思ってもみなかった。

 気づけば俺の足は完全に止まっていて、それなのにどんどん心臓の鼓動は速くなっていく。

 もうこの際、ペースなんてどうでもよくなっていた。ジョギング中に道の駅に寄りたい、なんて思ったことなどこれまでに一度もなかったというのに、何故だか…今日は無性に寄りたい気分になった。

 だから俺はソフトクリームでも買ってみようかと、いつものコースから一方外れようとした。

 

 そのとき、彼女の隣に、1つの人影が現れた。背が高くて、程よく引き締まった体は、誰がどう見ても男主人公のそれだった。

 名も知らぬ彼は、彼女と同じソフトクリームを手にして彼女の元へと近づいたかと思えば、彼女の肩をそっと抱き寄せた。

 それに対して、彼女の方はといえば、あの日見た眩しすぎる笑顔を彼へと向けたのだった。

 それを見てしまった俺は、何故だか急に、ソフトクリームを食べたくない気持ちになった。

 だから、いつものようにその場所を通り過ぎることにしたのだ。

 なんだか気持ちがコロコロ変わって、バカみたいだな。

 

 ――しかしなぜ、モブである俺にこんな感情が湧いてきたのだろうか、まるで理解ができなかった。

 

 俺は走る。走って、ただただ走り続ける。

 走るのはいい。こんなにも清々しい気持ちになれるのだから。

 ずっと1人のモブとして、俺は彼女の幸せを願っていた。

 たった1度の出会いだけの、しかし決して忘れることのなかった、メインヒロインの姿。

 それを再び、ただのモブである俺が目にすることができるなんて、なんて幸運なことなのだろう。

 彼女は幸せそうに笑ってた。

 明るくて可愛らしくて眩しすぎて、そんな彼女の表情はちゃんと向けられるべき人に向けられていた。

 俺はそのことがすごく嬉しかったんだ。

 だって、あの日俺が手を差し伸べなかったら、彼女の今の笑顔はなかったかもしれないのだから。

 あの日抱き寄せた彼女の感触とか、匂いとか、そういったことを俺は忘れることはないだろう。

 だけどそれらを覚えているのが、モブである俺だけだったとしたら、それは寂しすぎる。

 だからって、主人公と歩む幸せな未来が、あの日で閉ざされてしまっていたとしたら、それは悲しすぎることだろ。

 モブである俺が、メインヒロインの物語に干渉したことは、間違いじゃなかったんだって、証明されたのだから。

 俺は、嬉しくてたまらなかった。

 普段は意識しているはずのフォームとか、呼吸とか、色々ぐちゃぐちゃで、それなのに家に着いたとき、俺はこれまでに感じたことのない達成感を味わうことができた。

 

 ――それは、普段は流れないような部分から汗が流れるほどに、心地良い気分だった。

 

 

 

 早朝6時。

 モブ君はいつも通り、田んぼの畦道を走っていた。冷たい空気が肺に入ると同時に、彼の日常がまた始まる。特別な出来事は何一つ起こらなかった人生。

 

「よし、今日は少しペースを上げてみるか」

 

 その時だった何かが視界を横切り、思わず急ブレーキ。見れば、電信柱のそばに若い女性が倒れていた。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 駆け寄ると、彼女は顔を赤くして震えている。「すみません……方向音痴で迷ってしまって……それに昨日から何も食べてなくて……」

 モブ君はポケットから取り出したスポーツ飲料と、家から持ってきたおにぎりを差し出した。

 これが偶然の出会い――後に「運命の出会い」と呼ばれるきっかけだった。

 それからというもの、彼女は毎朝同じ時間に現れた。名前は美咲という24歳。都会から引っ越してきたばかりだという。

 

「モブさんのランニングコース、すごく気持ちいいですね」

「え?あぁ、この辺りは田んぼしかないですけどね」

 

 会話は最初こそぎこちなかったが、次第に距離が縮まっていった。美咲は地元の観光案内所で働き始め、地域のお祭りやイベントで二人はよく顔を合わせるようになった。

 ある雨の日、いつものランニングコースが洪水で通れなくなり、モブ君は久しぶりに遠回りすることになった。

 その途中、傘もささずに佇む人影を見つけた。それは美咲だった。

 

「こんなところで何してるんですか?」

「実は……私の実家のあった場所なんです」

 

 二人は小さな丘の上から広がる景色を見下ろした。そこにはかつて美咲の実家があったという小さな土地だけが残されていた。

 

「親戚の反対を押し切って実家を処分したんです。でも、やっぱり寂しくて……」

 

 涙ぐむ美咲の肩に、モブ君はそっと手を置いた。

 

「ここは僕にとっても大切な場所ですよ。この風景の中で育ってきて……」

 

 彼女が顔を上げた瞬間、二人の目が合った。雨の中、不思議と心が通じ合うような感覚があった。

 それからの日々は、モブ君の単調な日常を一変させた。ランニングする足取りは以前より軽くなり、朝起きるのも苦ではなくなった。

 そして何より、「普通」という言葉に含まれていた孤独感が、少しずつ薄らいでいくのを感じていた。

 彼のスマホには初めて女性からの連絡先が登録され、毎晩LINEでのやりとりが始まった。時には冗談を言い合い、時には互いの悩みを打ち明けるようになっていった。

 

「明日の運動会、一緒に来てもらえませんか?子どもの頃の服とか取材させてほしいんです」

 

 美咲の仕事のためとはいえ、運動会に呼ばれること自体がモブ君にとっては特別な出来事だった。

 当日、彼は着慣れないジーンズにTシャツ姿で参加した。同年代の人々が集う中、彼の存在は明らかに浮いていた。しかし、美咲の笑顔を見るために必死に周りと交流しようとする自分に気づいた。

 昼休み、二人は隅の方で弁当を食べながら語り合った。

 

「モブさんって本当に面白い人なんですね」

「え?どこが?」

「だって、田んぼの名前全部覚えているじゃないですか。『鈴木さんの田んぼ』とか『高橋さんの池』とか。それに地形まで詳しくて……」

 

 美咲は微笑んだ。

 

「私、あなたのそういうところ、好きです」

 

 その一言がモブ君の胸に深く刻まれた。

 帰り際、モブ君は意を決して言った。

 

「あの、よかったら今度ランニング付き合いませんか?もちろん無理なら全然……」

 

 予想外にも、美咲は嬉しそうに頷いた。

 

「はい!ぜひお願いします!私も運動不足ですし、それに……」

 

 彼女は少し恥ずかしそうに付け加えた。

 

「モブさんが走ってる姿、見てみたいんです」

 

 翌週の土曜日。二人は朝早くから集合し、モブ君がいつも走るルートを一緒に歩き始めた。実際には半分も走れなかったが、それでも十分楽しかった。

 夕方、カフェで休憩しているとき、モブ君は勇気を出して聞いた。

 

「美咲さんはどうして都会からこんな田舎に来たんですか?」

「家族の縁が切れちゃったからです」

 

 美咲は窓の外を見ながら答えた。

 

「都会での生活、疲れてたんですよね。それに……新しいスタートを切りたくて」

 

 その瞬間、彼女の目に映る景色が急に鮮やかに見えたように感じた。田んぼの緑、山々の輪郭、すべてが新しい物語の始まりのように輝いていた。

 

 

 

「モブさんと出会えて本当によかったです」と美咲は言った。

「最初はただ助けてもらっただけだったのに、今では大切な人になりました」

「大切……」

 

 モブ君は繰り返した。今まで聞いたことのない言葉だった。

 その夜、部屋に戻ったモブ君は窓を開け放った。秋の虫の声が聞こえる。これまで当たり前すぎて気にも留めなかった自然の音色が、今夜はまるで祝福の合唱のように響いていた。

 これからどんな物語が紡がれていくのか。それはまだ誰にも分からない。

 だが、少なくとも今日までの一日一日が、モブ君にとっては特別なものになっていた。

 枕元に置いたスマホには、美咲からのメッセージが届いていた。

 

「おやすみなさい。明日も楽しみにしてます♪」

 

 モブ君はそれを何度も読み返しながら、久しぶりに笑顔で眠りについた。

 

 

 

 ……夢だった。見慣れた部屋だった。でも暖かい。

 

 陽光が部屋に差し込む。

 夢だけど、夢じゃなかった!

 ワーイとでも思わなければやってらんねーわ。

 小さいころ見た映画の場面を思い出す。主題歌は舞台の町の駅で発車メロディにも使われていると聞く。

 その町にもランニングコースがあるのだろう思い、今日も日課のランニングにいそしむ。




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