美貌バいろいろ   作:SunGenuin(佐藤)

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【引退後】最強の白毛伝説 麗しの凱旋門賞馬が繋いだ人馬の夢

サンジェニュイン没後5年に寄せて

 

「お前は最高の馬だよ、サンジェニュイン」

 

 一人の男が、墓石に刻まれた名前を撫でながらそう呟いたのは、2030年初めごろ。

 彼はサンジェニュインの元厩務員で、今は有志による引退馬支援ボランティア『太陽の輪』会長を務めている、目黒(めぐろ)康史(やすし)さんだった。

 

 ■ 麗しの太陽馬 その軌跡

 

 2006年10月1日のフランス・パリ。

 青々と繁る芝生の上を、一頭の馬が駆け抜けていった。

 その時点でG1・7勝をマークし、単勝1.1倍の1番人気に推されていた日本馬・サンジェニュインだ。

 日本調教馬が初めて凱旋門賞に挑んでから約40年間。

 芝レースの一つの頂点とまで呼ばれたこのレースに勝つことは、日本競馬界の長年の悲願だった。

 史上初の白毛の凱旋門賞馬。

 彼はその輝かしい戦績を提げ、これまた史上初の白毛の種牡馬となる。

 その血は各国の競馬界に大きな影響を及ぼし、今日に至るまで色褪せない功績を残した。

 

 人は彼を『美貌の凱旋門賞馬』あるいは『太陽馬』と呼んだ。

 

 そんなサンジェニュインの軌跡を、関係者と共に振り返りたいと思う。

 

 ■ 約20年ぶりの仔馬

 

 サンジェニュインを生産したのは、北海道安平(あびら)町にある社来ファーム・陽来(あききた)だ。

 元は陽来(あききた)牧場という個人運営の牧場だったが、2000年に社来グループに加わった。

 

 陽来(あききた)牧場ができたのは戦前。

 アングロアラブ種の繁殖を含め、一時期は30頭近い繁殖馬を所有していた。

 代表的な生産馬は地方3勝のアキノヨーカン。牝馬だ。

 だが成績不振の影響で1981年に繁殖部門を閉鎖。

 それ以降はリハビリテーション施設の運営を主な業務とした。

 国内でも稀な馬専用のリハビリテーション施設は近隣の牧場からも大変好評で、大牧場の馬もお忍びで通わせるほどだと言う。

 そのリハビリテーション施設に注目したのが、国内馬産業の大手、社来グループである。

 馬の治療やリハビリに関する豊富な知識と経験が買われ、社来グループ生産馬の専用施設に改造する予定が立てられた。

 だがそれに待ったをかけたのが、他でもない、社来グループ代表の吉里氏だ。

 

「生産部門を閉じた後も、厩舎などの生産施設は綺麗に残されていたんですよ。定期メンテナンスもされていてね。こんなに綺麗になってるなら、リハビリ専用じゃなくて、新しい生産部門を用意しても良いかな、と思ったんです。ちょうど、試してみたい肌馬もいましたから」

 

 そうして2001年。

 陽来(あききた)牧場は社来ファーム・陽来(あききた)に改名。

 リフォームされた生産施設に新しい牝馬が持ち込まれた。

 その牝馬の名をピュアレディー。

 社来グループが生産し送り出した、G1・2勝の名馬ジェニュインを産んだクルーピアレディ、その全妹に当たる馬だ。

 アメリカにいたのをわざわざ連れてきた。

 

「日本競馬は近年ますます高速馬場の傾向が強まってきました。それと同時に短距離路線もだいぶ盛り上がっていってる印象です。それまではスタミナが足りない馬が走るもの、として注目度の決して高くなかったマイル、スプリントのレースの方が、今や価値が高いとされている。それで私、じゃあマイルの馬を作らないとな、と思って」

 

 ジェニュインはマイラーだった。

 社来が導入した大種牡馬・サンデーサイレンスの初年度産駒であり、皐月賞馬でもあるこの馬は、古馬になった後もマイル路線で走り続けた。

 ただ脚があまり丈夫ではなかったため、G1・2勝でその現役生活を終えることになったのである。

 吉里氏はこれを大変残念に思っていた。

 それと同時にこうも思っていた。

 

  ── もしジェニュインに丈夫な足があったなら。

 

 どこまで行っただろう、どこまで走っただろう。

 

 その夢の続きを担う馬の誕生を願い、肌馬として選ばれたのがピュアレディーだったのだ。

 未出走のサラブレッドではあるが、馬体の丈夫さを買われての選択だった。

 その繁養先となったのが社来ファーム・陽来(あききた)

 2001年にアメリカから移動してきたピュアレディーは陽来(あききた)に入ると、同年の5月に種付けされた。

 配合相手となったのは社来グループの大種牡馬・サンデーサイレンス。

 無事受胎すると、翌2002年の7月、陽来(あききた)牧場としては約20年ぶりとなる仔馬が誕生した。

 驚くことに2ヶ月も出産予定を過ぎていたが、仔馬は疾病もなく元気に生まれた。

 青鹿毛の父と鹿毛の母とは違う真っ白な馬体は突然変異のものだったが、とても人懐こく明るいこの仔馬は、牧場内ではマイサンと呼ばれて可愛がられたという。

 このマイサン ── のちのサンジェニュインである。

 

「連絡を受けて会いに行ったのは、生後3日目ですかね。その頃にはピュアレディーが育児放棄してて、代わりに陽来(あききた)のスタッフが人工哺乳をしていました。とても人懐っこいし、怖がるそぶりも一切見せない。好奇心旺盛で、人が話し出すと耳をピクピク動かして聞き入っているような仔馬でした。ずいぶん可愛らしい性格だなあ、と思ってたんですけど、それ以上に驚いたのは体格ですね。遅生まれでありながら、1月2月生まれの馬とそこまで遜色ない大きさです。両親はどちらも大柄とは言えない馬だったんですけどね」

 

 馬の品種によって仔馬の出生時の平均体重は様々だ。

 サラブレッドにおいては50キロ前後が目安となるところ、サンジェニュインは遅生まれながら65キロとかなり大柄だった。

 2ヶ月も栄養を蓄えてたんですかね、と吉里氏は笑いながら答える。

 通常、このように大きな馬だと心配されるのは体質だ。

 特に脚元の状態は要注意と言えるだろう。

 吉里氏も、まず心配だったのは体重の割には細い脚だったという。

 だが驚くことに、サンジェニュインはそこから一度も故障や体調不良を起こすことはなかった。

 

「初期育成も全て陽来(あききた)でやってもらいました。あそこはリハビリ施設もあるし、大きな放牧地もありますから。当時は肌馬(= 繁殖牝馬)がピュアレディーだけってのもあって、サンジェニュイン以外の仔馬はいなくてね。大人の馬も。だからただでさえ広い放牧地を、たった一頭で走り回れたんです。あいつのマイペースさやスタミナはそうやって培われたのかもしれません」

 

 そうして2003年の秋。

 健康優良児のサンジェニュインは入厩検査も無事クリアし、栗東トレーニングセンターにある本原(もとはら)厩舎に預けられることとなった。

 満1歳になってからわずか4ヶ月後のことだった。

 

 ■ 入厩からクラシックシーズンまでの軌跡

 

 サンジェニュインを管理することになったのは本原調教師。

 それまでの代表管理馬はガンジョウメイバ。

 その馬名の通り、無事是名馬を体現するように駆け抜けていったせん馬だ。

 他にも中央3勝のハルノメガミヨなども担当した。

 しかし重賞勝ちにはなかなか恵まれず、サンジェニュインを預けられる前年には廃業することも考えていたという。

 

「調教師として完全に行き詰まっている状態でした。そんな中で現れたのがサンジェニュインです。あのサンデーサイレンスの産駒ですから、どんな暴れ馬がやってくるのかちょっと不安でもあったんですけど、いざ対面してみるとすごくおとなしい馬でしたね。あととにかく人馴れしていて、懐っこい。可愛げ抜群の馬でした。加えて稽古上手でものすごく従順。あいつほど手のかからない馬にはまだ会えてません」

 

 本原さんはそう笑顔で語る。

 今は調教師を引退し、奥さんと共に北海道に移り住んでいる本原さんの現在のお仕事は、地元乗馬クラブの講師。

 小中学生を中心に馬の乗り方を教えているそうで、教え子の中には現在JRAの競馬学校に通っている海原翔くんもいる。

 そんな本原さんのモットーは『諦めないことが名馬の証明』だ。

 

「サンジェニュインという馬は、よく天才だとか、才能の塊だったとか、言われるんですよ。実は当時はそうでもなくて、特にデビュー時の評価はいまいちでした。白毛の珍しさで人気が先行していて素質はそうでもない、って感じでね。でもサンジェニュインは集中力のある馬で、一度調教を始めると納得するまで終わろうとしないんですよ。顕著なのが坂路調教で、この時期ならこのタイムで十分だな、と思う走りをしても、どうしてかもう一本、さらに一本、と走ろうとするんです。4本目になったところで強制的にやめさせるんですけど、それでもピンピンしていてスタミナはあるんだなあ、と。後から『洋芝で育成してた』って聞いて納得しました。それと同時に、こりゃ長い方が走るんじゃないか、とも思いました」

 

 2004年の12月19日に行われた阪神競馬場5Rの新馬戦でサンジェニュインはデビューした。

 芝の2000メートルを選択したのは、本原さんがいう通り長い方が走ると思ったからだという。

 吉里氏はマイラー輩出を目指した配合だと言っていたが、結果的には裏切ることになってしまった。

 これを本原さんは申し訳なく思っていたそうだが、吉里氏から『これが競馬というものだ』と励まされ前向きになったそうだ。

 長い方に向いているならむしろ、皐月賞も、日本ダービーも、菊花賞も射程範囲内。

 クラシック向きなのだと明るく捉え、その期待に応えるようにサンジェニュインはデビュー戦を2着で終えた。

 同レースでサンジェニュインを抑えて勝利したのはディープインパクト。

 これが現役最後の瞬間まで頂点を争うことになる、好敵手との出会いであった。

 

「ディープインパクト号の噂は予々聞いてました。栗東で知らない人はいなかったんじゃないかな? それくらい有名な馬だったからちょっと心配だったんだけど、そのディープインパクト号相手に8センチ差の2着だから悪い結果じゃない。むしろ、それまで差し追いで稽古させていたのに逃げ先行もできるのか、と発見できてよかったとさえ思いました」

 

 次走は明けて2005年の3歳未勝利戦。

 小倉競馬場で迎えた二度目のレースで、サンジェニュインは豪快な逃げ切り勝ちをしてみせた。

 2着馬とのタイム差4秒オーバー。

 小倉の芝2000メートルのコースレコードとなる1分58秒のレコードタイムだった。

 続く3戦目は同じく小倉競馬場のあすなろ賞。

 前走の走りっぷりから圧倒的1番人気に推されると、そのまま押し切って勝利。

 堂々とした走りでオープン入りを果たし、4戦目に弥生賞を選択した。

 もちろん、クラシックシーズンに向けた優先出走権獲得のためである。

 このレースには若駒ステークスを勝ち上がったディープインパクトの他、最優秀2歳牡馬に選出されたマイネルレコルト、京成杯勝馬のアドマイヤジャパンといった重賞勝馬も登録していた。

 メンバー内ではサンジェニュインの成績は特別良いとは言えない。

 だが本原さんの自信はかなりのものだったという。

 

「親バカというか、調教師バカだと言われたら否定できないんですけど、あの当時からサンジェニュインはどの馬よりも優れている、という思いはありました。G1馬にだって負けていない何かが、サンジェニュインにはあるのだ、と。小倉のレコード勝利が、その想いに拍車をかけていたのかもしれません。調教のできも素晴らしいものだったので、胸を張って中山に送り出すことができました」

 

 だがトラブルというのはつきものだ。

 弥生賞のゲートが開いた時、サンジェニュインはそれまでのスタートの良さが嘘かのように、出遅れた。

 隣ゲートに収まっていたニシノドコマデモが立ち上がり、それに影響を受けた形だ。

 

「終わったな、と思ってしまいました。情けないですよね。誰よりも担当馬の勝利を信じなくてはいけない立場だったのに、思わず頭を抱えてしまった。でも、レースはまだ終わってない。どこかでチャンスがあるはずだと、願いを込めてレースを見守りました」

 

 出遅れたサンジェニュインだったが、持ち前の瞬発力で一気に駆け出すと中団に頭を差し込んだ。

 そこから多少かかり気味になりながらも前を追うと、並ぶことなく先行馬を一気にちぎる走りを見せる。

 白毛の馬体が重賞馬たちを置き去りにしていくシーンは、圧巻と言っても良かった。

 そしてラスト200メートル。

 後方から猛烈に追い込んできたディープインパクトと熾烈な競り合いを経て、サンジェニュインはハナ差3センチの2着に敗れた。

 二度目の惜敗だった。

 

 そしてゴール直後、その馬体は芝生に向かって勢いよく突っ込んでいった。

 

「首が折れなかったのは不幸中の幸いです。寸の所で芝木騎手が手綱を引いたことで最悪の事態は免れた。しかし、後にも先にもあれほど不安になったことはありません」

 

 原因は競走中の無呼吸。

 必死に足を動かしている間、息を吸い込む暇もなかったのだろう。

 叩かれてきた心臓が疲れてしまい、サンジェニュインはしばし死の淵を彷徨った。

 診察を担当した獣医は本原さんに『心の準備』を求めたという。

 これまで多くの馬を担当してきた本原さんとて、こういった事故の時に覚悟を決めなければいけないと知っていた。

 しかし、どうしても諦められなかった。

 サンジェニュインはここで終わるような馬じゃないと、強く、強く信じていた。

 

「サンジェニュインは天才じゃないし、完璧な才能の塊でもない。けれどすごく努力家で、諦めが悪くて、それで、愛した分だけ応えてくれる。そんな馬なのだと、強く信じていたんです。だから必死に呼びかけた。お前、死んでる場合じゃないぞ、って。死んだら、自分が勝ったのかディープインパクト号が勝ったのか、わからないままだぞ、ってね」

 

 本原さんの信頼に応えるように、サンジェニュインは死の淵から蘇った。

 診療室に運ばれた一時間後、その馬体を懸命に摩っていた本原さんの目の前で、息を吹き返したのだ。

 

「キョトーン、としてましたよ。何が起きたかわかってない感じで。それはそうでしょうね。サンジェニュインからしたらさっきまで競馬場にいたのに、気づいたら見知らぬ場所で横たわっていたのですから。暴れなかったのが不思議なくらいです。けどそれでもよかった。サンジェニュインが生き返ってくれた以上に必要なことは、何もありませんでした」

 

 入念な馬体検査が行われた。

 だが倒れた時にできた小さな傷以外は損傷なく、むしろ1レース死ぬ気で走り切った馬とは思えないほど、すこぶる元気だったそうだ。

 翌朝には何事もなかったように飼い葉を食べ、水を飲み、愛嬌を振りまく。

 念のために設けた休養期間が明けるとすぐ、今まで以上に元気よく調教に励んだ。

 

 そして4月。

 弥生賞2着でものにした優先出走権を握りしめ、サンジェニュインは皐月の舞台に立った。

 

■ 白毛初のクラシックホース、誕生

 

「デビューからそれまで苦楽を共にしてきた芝木騎手から、ベテランの柴畑騎手へと手綱が渡りました。経験豊富な柴畑騎手はサンジェニュインに馴染もうと努力してくださって、ただ、予想外というか、ある意味予想通りというか。サンジェニュインは、誰が自分の世話をしていて、誰が自分に乗っているか、というのを理解していたみたいで、芝木騎手が乗らなくなったことにだいぶ戸惑っていましたね。でもサンジェニュイン自身も順応力の高い馬なので、調教の回数を重ねるにつれて人馬の息も合うようになりました」

 

 迎えた皐月賞当日。

 サンジェニュインは2番人気に推された。

 弥生賞での激走を高く評価された結果だったが、それでもディープインパクトの人気には後一歩及ばない。

 しかし本原さんは、人気にはあまりこだわっていなかったという。

 たとえ最低人気だろうと、ここを勝てば周りの目も変わると信じていたからだ。

 死の淵からでも蘇ってくると信じた本原さんに応えたように、皐月賞でもサンジェニュインは期待に応えた。

 終始ハナを譲らずに突き進むと、途中のコーナーカーブに苦戦しながらも逃げを貫いてゴールイン。

 共にゴールに飛び込んだディープインパクトと、長い写真判定の末に同着優勝となった。

 同着とはいえ、白毛馬のG1優勝も重賞制覇もこれが史上初だった。

 

「厩舎としても初のG1勝利でした。管理馬が皐月賞の優勝レイをかけられた時は感無量でしたよ。同着ではありましたが、とても誇らしい気分でした。ただ浮かれたままでもいられません。皐月賞が終わってすぐ、サンジェニュインは競走馬研究所に向かうことになりました」

 

 2005年の皐月賞は、今でも話題に上がることがある。

 クラシックレース初の同着というのもそうだが、何より話題の中心になったのは出走馬の馬っ気にある。

 馬っ気というは、簡単にいうと牡馬が性器を勃起させた状態のことだ。

 発情期の牝馬がいる時などに起きやすい現象なのだが、その年の皐月賞は全出走馬が牡。

 そんな中にあっての珍事だったため、関係者からしたら戸惑い以上の何物でもなかっただろう。

 これとサンジェニュインに何の関係があるのかといえば、牡馬たちが興奮した原因にサンジェニュインの存在があるのではないか、と疑われたためだ。

 サンジェニュインはデビュー前から栗東トレーニングセンター内ではかなり有名な馬だった。

 それは残念ながらディープインパクトのような素質馬としての知名度ではなく、牡馬に好かれる牡馬として、だった。

 

「白毛が目を惹くんでしょうかね。馬場に出るとよく年上の牡馬に追いかけ回されてましたよ。サンジェニュインはそれがいやで、調教には熱心なのに馬場に連れ出すときはちょっと抵抗してみせるんですよ。ストレスになってもいけないから、なるだけ馬の少ない時間に連れ出してみたり試行錯誤もしました。併せ馬は、同厩舎に併せられる馬がいないので居住厩舎に掛け合ってカネヒキリ号に頼んだりね。サンジェニュインはどうしてか、カネヒキリ号は平気なんですよ。あとヴァーミリアン号とシーザリオ号かな」

 

 どうしてサンジェニュインが牡馬に好かれるのか、その毛色ゆえなのか、管理する本原さんも理解できないその現象を解き明かすために、サンジェニュインは競走馬研究所で検査を受けることになった。

 そして一週間後。

 サンジェニュインは栗色のメンコをつけ、栗東トレーニングセンターに戻った。

 

「初めて聞いた時は信じられない思いだったんですけど、逆に、それくらいしか理由ないなあ、とも思いました。まあ、馬も生き物ですからね。好みとか、そういうのもあるんでしょうね」

 

 当時のことを思い出してか、本原さんは苦笑いを浮かべながらもそう語った。

 サンジェニュインが牡馬に好かれる理由。

 これを、競走馬研究所は『牡馬に好かれやすい顔をしているから』と公表した。

 何かのジョークか、と思われたが、新たにつけ始めた栗色のメンコは、帰厩したその日から効果を発揮した。

 これまで馬場に出れば必ず馬っ気を出す牡馬が1頭はいたところ、その現象の陥る牡馬がいなくなったのだ。

 これは本原さんにとっても、牡馬を管理する他の調教師にとっても朗報だった。

 馬場に出てもストレスになる要因が減ったことで、ダービーに向けたサンジェニュインの調教もスムーズに行くようになった。

 この時期の併せ馬の相手は桜花賞馬ラインクラフト。

 人馬のひしめく5月の栗東トレセンで、二頭は共に二冠目に向けて調整を続けた。

 

 そして迎えた日本ダービー当日。

 約7千頭いる同世代の中で、たった18頭のみが出走を許された春の大舞台に、サンジェニュインはいた。

 その鞍上には皐月賞に引き続き柴畑騎手が跨る。

 ライバルのディープインパクトも、主戦の竹騎手を乗せて登場した。

 1番人気にディープインパクト、差がなく2番人気にサンジェニュイン。

 どちらが勝っても二冠達成となる歴史的なレースは、綺麗なスタートダッシュを決めたサンジェニュインが主導権を握った。

 

「途中までは楽勝ムードでした。溢れるスタミナから長い距離が向いていることもわかっていたし、皐月賞より400メートル長いダービーなら、その真価も発揮されるはずだ、と。しかし、それはディープインパクト号にも言えることでした」

 

 小柄な馬体から繰り出される高速回転。

 それを武器とした追い込みは、過去の名馬を彷彿とさせた。

 あれは史上三頭目の三冠馬・ミスターシービーの背中。

 時代の寵児と呼ばれ、タブーを塗り替えたあの追い込みが、平成中期になって再び我々の前に現れた。

 ディープインパクトという、新しい時代の寵児の名に変わって。

 鮮やかにサンジェニュインを抜き去ったディープインパクトに、場内の熱気は一気に高まった。

 二冠馬に、ダービー馬になるのはディープインパクトで決まりだな、と、そういう空気が充満した。

 しかし、それでも諦めなかったのがサンジェニュインという馬だった。

 

「抜かされて、ああこりゃ失速するなと思った瞬間、さらに伸びた。つけられた三馬身差を、サンジェニュインがぐいぐいと詰めていく。まだだ、まだだと、私に語りかけているようでした。それはまさに、私が彼に願ったことを体現するように」

 

  ── 努力を裏切るのは諦めだ。

  ── 諦めないことが名馬の証明だと、信じさせてくれ。

 

 レースが始まる前、そう言ってサンジェニュインを送り出した本原さん。

 

 大きく跳ぶサンジェニュインはディープインパクトとの差を縮めると、ほぼ同時にゴールに突っ込んだ。

 ディープインパクトの黒い鼻先と、サンジェニュインのピンクの鼻先が重なる。

 どっちが勝った。

 ディープか、サンか、ディープか、サンか。

 これは皐月賞同様、同着になるのではないか。

 また長い写真判定が行われ、しかし、掲示板に光った文字はハナ差。

 もっとも運のある馬が勝つと言われるダービーで、わずか1センチの大接戦を制した馬は、ディープインパクトだった。

 

「悔しかった。たった1センチ。わずか1センチ。それでも1センチ。あの1センチは、あまりにも遠すぎました」

 

 ダービーは熾烈なレースになることが多い。

 そうでなくても、暑さの増す5月の終わりに開催されることもあり、3歳馬には少し過酷と言える。

 そして馬たちだけでなく、人間にとっても大きなプレッシャーのかかるレースだ。

 ピリピリとした人間たちに影響されるように、馬たちも落ち着かなくなっていく。

 そして死力を尽くして挑むことになるこのレースで、多くの馬が燃え尽きてしまうのだ。

 それはしばしば、ダービー燃え尽き症候群とまで呼ばれていた。

 激戦を繰り広げ、そして敗北したサンジェニュインの様子に、多くの人間がその文字を頭に浮かべたかもしれない。

 しかしサンジェニュインはその年の秋、大覚醒を見せた。

 

「夏は北海道の早来で放牧に出しました。わざわざ生産牧場時代の担当スタッフにまで移動してもらって、サンジェニュインのお世話をお願いしたんですよ。ちょっとしたご褒美も兼ねてました。早来では十分休養できたみたいで、帰ってくる時はもっとふっくらしてるかなと思ったんですが、意外と絞れてたのは今でも不思議ですね。でも、問題はそこじゃなくて、鞍上でした」

 

 8月に栗東トレーニングセンターに戻ってきたサンジェニュイン。

 夏競馬で負傷した柴畑騎手が鞍上を降りることになったことで、その鞍上は再び空くことになった。

 史上初の白毛のG1勝馬。

 乗りたいと名乗りを挙げる騎手が多いことは、一般ファンにも想像がつくだろう。

 誰とならサンジェニュインは再びレースを制することができるか。

 吟味に吟味を重ねた結果、その鞍上には芝木騎手が選ばれた。

 3月の弥生賞以来、半年ぶりの騎乗となる。

 

「芝木騎手に戻ることになったのは、柴畑騎手の推薦はもちろん、本人の技量が申し分ないと思えたことも大きいです。背が平均的な騎手よりも高いため選ばれにくいだけで、芝木騎手は十分重賞レースに向く腕を持っています。何より、サンジェニュインは彼によく懐いていますからね。テンションの落ちる暑い時期に、慣れ親しんでいた騎手に乗ってもらうことでやる気にさせる。そういう意味もありました」

 

 そしてその狙いは的中する。

 9月に開催された菊花賞トライアルレース・神戸新聞杯。

 ディープインパクトとの間に格付けは済んだ、と言われていたサンジェニュインは、ここで驚異の逃げ脚を見せた。

 当日の雨によって稍重となった阪神競馬場。

 稍重のレースは初となるサンジェニュインは、今まで踏んだことのない芝の感触に驚いたのか、馬場入りの際に脚を上げる仕草を見せたが、特に問題もなくゲートに収まった。

 そして違和感をものともしない抜群のスタートを決めると、勢いを落とすことなく先頭へ。

 1000メートル57秒のハイペースを刻みながら、誰にも ── ディープインパクトにすら影を踏ませることなく、大楽勝でゴールイン。

 当時、塗り替えられることはないだろうと言われていたトウショウボーイのレコードを、1.9秒も更新する大レコードでの勝利だった。

 待望の重賞2勝目。

 G2レースでありながら、鞍上の芝木騎手がガッツポーズを見せるほど、価値のあるレースと言えた。

 

 その勢いそのままに、サンジェニュインは本命でもある菊花賞へと挑んだ。

 ディープインパクトを抑えて、初の1番人気。

 ここを勝てば芝木騎手は初のG1制覇となり、サンジェニュインは二冠馬となる。

 ライバルであるディープインパクトが勝てば、ナリタブライアン以来の三冠馬の誕生だ。

 両者、一歩も引けない戦いだった。

 

「このレースでは1000メートル58秒だったでしょう。秒数が出た時は泡を吹きそうでした。どんどん前に行け、とは言ってたんですけど、そこまでスピードを出すやつがあるか、と。いくらスタミナのある馬とはいえ、初めての3000メートルです。古馬の3000メートルならともかく、3歳馬で、こんなデタラメなスピード。けどね、サンジェニュインって馬は、そういや常識で測れないやつだったなってことを、思い出したんですよ」

 

 きつい淀の坂。

 3歳馬にとっては上がるも下るも大変なそれを、サンジェニュインは止まることなく走り切った。

 終盤になって馬群を抜け出し、サンジェニュインの背中を目掛けて走るディープインパクトの、その熱気を背に受けながら。

 ゴールタイム、3分2秒。

 芝3000メートルのワールドレコードを叩き出した、大勝利だった。

 

「息もできないっていうのは、ああいう時のことを言うんでしょう。菊花賞の緑の優勝レイは、サンジェニュインの白い馬体によく似合っていました。風に揺れる鬣を撫で、笑顔で写真を撮った日のことを今でも覚えています。それほど、印象深いレースでした」

 

 皐月賞は最も早い馬が勝つ、と言われている。

 日本ダービーは最も運のある馬が。

 そして菊花賞は、その世代、最も強い馬が勝つ、と。

 

 長距離レースの価値が下がり始めていた2005年。

 しかし、サンジェニュインのその後の活躍を思うと、価値のないレースなど存在しないのではないか。

 菊花賞から3ヶ月後の有馬記念を、有力古馬を退けて3歳で制したその白い背中を見ると、そう思わずにはいられないのだ。

 

「神戸新聞杯、菊花賞、そして有馬記念。ジャパンカップも出走予定でしたが、やっぱりあれだけの激走ですからね。疲労がすぐには抜けそうになかったので、大事をとってジャパンカップを回避しました。まだ来年がある、と思っての判断でしたが、まさか4歳でも回避することになるとは思いませんでしたよ。縁がなかったのかもしれません。……今でこそ笑い話にできるようになりましたが、ジャパンカップ回避に関しては、ちょっと悔しく思うこともあります。日本が誇る国際G1ですからね。そこに出して、日本で一番の馬として勝たせてやりたかったっていう思いは、やっぱりあります」

 

  ── けど、回避して大事を取ったからこそ、有馬記念での勝利があると思っている。

 

 悔しさを滲ませながらもそう語る本原さん。

 サンジェニュインが3歳で制した有馬記念の、その2着馬はハーツクライ。

 前走はサンジェニュインが回避したジャパンカップで、勝利したアルカセットとタイム差なしの2着だった。

 当時は短期免許で日本に来日していたリュベール騎手を鞍上に迎え、先行に戦法を変えたハーツクライは強かった。

 粘りの走りで極限まで追い込まれ、結果はタイム差なしでハナ差1センチ。

 サンジェニュインの勝ち鞍の中では最も着差の短いレースだった。

 それでもなんとか掴んだグランプリホースの称号。

 サンジェニュインはこの結果を持って、翌年のドバイシーマクラシックに招待されることになった。

 ハーツクライの参戦も公表されたことで、2頭の再戦は、周りが思っていた以上に早く巡ってきたことになる。

 

■ 初の海外遠征、ドバイシーマクラシック

 

「翌年、ドバイミーティングの大トリ、ドバイワールドカップに出走することになったカネヒキリ号を帯同馬に遠征しました。前にも言った通り、この2頭は本当に仲が良くってね。お陰で輸送中も、向こうに滞在している間も何の問題もなく過ごせました。サンジェニュインの馬の友達というと本当に限られていて、ほとんど牝馬なんです。ラインクラフト号とか、シーザリオ号とか、エアメサイア号とか。年下だけどウオッカ号も。牡馬だと安心できるのはカネヒキリ号だけなので、彼の存在には本当に助けられましたよ」

 

 輸送機も滞在先の馬房でも隣同士だったという。

 ともに調教を受け、飼い葉を食べてきたことで、2頭はストレスなく本番を迎えた。

 サンジェニュインはドバイでも変わらず芝木騎手を鞍上に挑んだ。

 道中を得意のスタートダッシュから先頭をキープすると、ドバイの煌めく照明に照らされながらゴールを一心に目指す。

 ゴール後、力強くガッツポーズを見せた芝木騎手の姿を、今でも鮮明に思い出せる。

 

 しかし、ドバイシーマクラシックの勝ち馬として歴史に名を刻んだのは ── ハーツクライだった。

 

「どんな言い訳もしません。ハーツクライ号は強かった。それだけが答えなんです」

 

 初めての重賞制覇は2004年の京都新聞杯。

 次走の日本ダービーでは五番人気ながら最速の上がり脚で激走し、勝ち馬キングカメハメハの2着につけた。

 秋の初戦となった神戸新聞杯でも3着と好走。

 しかし迎えた菊花賞。

 1番人気に推され、18頭中2番目の上がり脚を見せながらも7着に敗れた。

 以降、ジャパンカップ、有馬記念と凡走し、4歳になった2005年は未勝利のまま終わった。

 一時期は引退も考えたと、管理する橋本調教師は語ってくれた。

 しかし、多くの関係者がハーツクライの種牡馬入りを待っていた。

 なんとか重賞をあと1勝。

 G1を1勝だけでもしてくれたら。

 いいや、絶対取らせてみせる、という執念が実を結んだのが、まさにドバイシーマクラシックでの激走だったのである。

 

■ 春の欧州競馬に現れた、常識外れの白毛馬

 

 海外初戦を苦々しくスタートさせてしまったサンジェニュインだったが、本原さんは気持ちを切り替え、すぐに欧州レースへと意識を切り替えた。

 4月末日、欧州で一番に開催されるG1レース・ガネー賞が、海外遠征2戦目となる。

 当時の取材陣を前に、本原さんは次のように語っていた。

 

『何一つ心配になる要素がありません。サンジェニュインは勝つでしょうし、それを確信している。ゲートさえ抜ければ、独走することだって可能でしょう』

 

 地元有力馬が脚を揃えて迎えた春大一番のレース。

 海外からの参戦という、言うなればよそ者から飛び出たとは思えないこの強気の発言は、地元メディアにも大きく取り上げられた。

 批難もされたし、嘲笑もされたという。

 しかし、本原さんは何一つ撤回するつもりはなかったと、笑いながら教えてくれた。

 

 そうして迎えた4月30日。

 日本では天皇賞・春が開催されるその良き日に、サンジェニュインは先頭でゴールへと駆け抜けていった。

 当日のロンシャン競馬場は、雨が降ったことにより不良馬場に限りなく近い重馬場。

 地元関係者は誰もがスローペースの決着になると睨んだレースを、しかしサンジェニュインは2分11秒ジャストで走破。

 泥をかぶりながらもひたすらに前を目指したサンジェニュインが、後続に叩きつけたその着差は ── 26馬身差。

 ガネー賞が催されて以来、最大の着差であった。

 24年経った2030年現在でさえ破られていない、偉大なる記録である。

 

「勝てる! と強く信じたレースでしたが、流石にあの着差はね。予想外というか、そこまで出るか!? という気持ちで。馬房に戻ってきた後も、サンジェお前、お前すごいな、しか言えませんでした。それと同時に、やっぱりこの馬はパワーがあるし、何より欧州の馬場に適応できると確信することもできた。海外遠征はまだ残ってましたから、その後のレースにもどっしりとした心構えで挑むことができましたよ」

 

 ガネー賞の後、サンジェニュインは日本に帰国して短期放牧に出された。

 それが終わるとすぐに栗東に戻り、三度目の海外遠征に向けて準備することになる。

 帰国当時のことを、本原さんはこのように振り返っている。

 

「かなりバタバタしてました。戻ってすぐに次のレースの準備をしなくちゃいけないっていのもありましたが、それ以上に大変だったのは、やっぱりサンジェニュインの権利周りですね」

 

 欧州競馬に根差した大グループ・ゴンゴルドン。

 そのオーナー直々に持ちかけられたのは ── サンジェニュインの金銭トレードだった。

 ちょうど同じ時期にディープインパクトのオーナー・金城氏所有のユートピアが、賞金額とほぼ同額で金銭トレードされたばかりということもあって、その情報は瞬く間に日本競馬界を駆け巡った。

 しかしユートピアのようにすんなりと金銭トレードが行われるかと言ったら、半信半疑だった人が多いだろう。

 それはサンジェニュインがクラブ所有馬だったからだ。

 出資者は基本的にはクラブの意向に口出しすることはできない。

 多くのクラブで会員規則にもそう明言されている。

 だからやろうと思えば、当時サンジェニュインを所有していたサイレンスレーシングクラブも金銭トレードに応じることができたはずだ。

 けれど、それまで一口出資者の支援と声援を受けて駆け抜け、大きな夢を見せ続けてきたサンジェニュインは、すでに単なるクラブ馬とは呼べなかった。

 

「今や背負うは日本の悲願。海外遠征の果てに凱旋門賞出走を計画していることは、すでにメディアを通じてファンに筒抜けでしたから。今となっては古くさい考えだと笑われるかも知れませんが、あの当時。日本生産で、日本調教、日本所属。日本のクラシックを走り、二冠馬になり、グランプリホースにもなった、そんな馬が、40年近い挑戦の歴史に、白星を飾ろうとしているんです。それが金銭トレードされて、海外所有になる。それじゃ意味がないと、そう思ったファンも多かったのでしょう」

 

 結果としてサンジェニュインの金銭トレードは成立しなかった。

 ゴンゴルドンの代表が自ら出向いたとされる話し合いで、サイレンスレーシング代表の吉里氏は一歩も引くことはなかったという。

 話し合いが行われた夜。

 吉里氏から本原さんに一本の電話が入った。

 

「『本原先生、引き続き頼みましたよ』って。それ言われて初めて、ようやっと安心できました。はあ〜、よかったよかった、と。恥ずかしい話なんですけど、腰が抜けましたよ。それまでずっと不安だったんです。だって、もしサンジェニュインが金銭トレードってことになったら、もう、あいつの稽古ができないってことでしょう。急に、海外の調教師があいつのそばに立って、ここまで育ててきました、って顔するんでしょう。納得いかないし悔しいし、寂しい。だからそうならなかったことに、心底ホッとしたんです」

 

 そう語った本原さんは、胸の辺りをぐるぐると撫でながら、にこりと笑った。

 

 着地検査先でトレード回避の一報を聞いてから、サンジェニュインはようやく休養に入った。

 それが終わるとすぐに栗東トレーニングセンターに帰厩し、帰りを待っていた厩務員の目黒さんとともに、再び調教の毎日が始まった。

 この時期、サンジェニュインの併せ馬の相手を務めたのは居住厩舎の所属馬たちだった。

 古馬のハットトリックやデルタブルースを中心に、当時2歳馬だったウオッカもサンジェニュインと併せた一頭だ。

 

「サンジェニュインには妙な悪癖があったんですよ。牝馬相手に減速してしまう悪癖がね。すごく仲が良いカネヒキリ号すら弾き飛ばすのに、どうにも牝馬が近づくと大人しくなっちゃって。どうにか直さなきゃと思って、頻繁に牝馬と併せ馬をしていました。それでいうと、当時2歳でまだ制御の甘かったウオッカ号は最適な相手といえます。なぜかといえば、鞍上が手綱を引いてもぶつかってくる気性の荒さが抑えられていなかったからです」

 

 めげることなく何度もサンジェニュインに体当たりを食らわそうとするウオッカ。

 それを躱す度に、サンジェニュインの中にも変化があったという。

 体当たりされそうになっても減速することなく、むしろウオッカを跳ね返すようになったのだ。

 それを目の当たりにして、本原さんは悪癖の矯正に成功したことを悟ったそうだ。

 

「海外3戦目となったサンクルー大賞典には、地元の有力牝馬・プライド号の出走登録がありました。この馬とはガネー賞でもぶつかりましたが、このレースでは重馬場でブーストがかかったサンジェニュインが突っ走ったことで、プライド号と接触することなく終えられています。しかし、プライド号の鞍上であるグラン・リュベール騎手とはハーツクライ絡みで因縁があって、とにかく、この騎手はサンジェニュインをよく観察している。癖の一つ、一つを見られている。あんな悪癖がバレてしまったら、突かれないわけがない、と話題になっていました。実際に、サンクルー大賞典で突かれたわけですし」

 

 6月に開催されたサンクルー大賞典で、グラン・リュベール騎手が騎乗するプライドは先行策を採った。

 それもただの先行策ではない。

 常にトップスピードで駆け抜けるサンジェニュインを、自身のペースメーカーとともに挟み撃ちにするという、ある意味捨て身の作戦に打って出たのだ。

 

 当時のこの作戦の真意を、そこに至るまでの出来事を、グラン・リュベール騎手本人に聞いてみた。

 

「どうやったらこの馬に勝てるか。もう毎日毎日考えてました。サンジェニュインは故郷でも有名だったんですよ。何せ、競馬が始まって以来初めての白毛のG1ホースだから。顔もびっくりするくらいかわいいし。かわいいのに戦績すごい良いし。ああいうのをスターホースっていうんでしょう。そんな馬に勝つ方法を、ビデオと睨めっこしながら考えていた」

 

 リュベール騎手が初めてサンジェニュインと対戦したのは、2005年の有馬記念だった。

 

「当時任せてもらっていたハーツクライは、それまでなかなか勝てない馬でした。でも追う力はあるし素質はすごく高いと思っていたから、前めを走らせるようにした。そしたらそれでよかったみたいで、ジャパンカップでレコードタイムで2着でしょう。これはいけるな、って。有馬記念でも想像以上の走りをしてくれました。けど勝てなかった。サンジェニュインは出だしが良すぎるし、何より無尽蔵のスタミナとパワーを武器に何度でも、どこからでも加速できるっていうのは、信じられないくらい化け物じみたスペシャルな才能です。隙があるとしたらコーナーカーブくらい。でもそのコーナーカーブだって、大外回ってしまえば隙にすらならないわけでしょう。どうしてやろうかな、この馬、って、結構恨みに思いました」

 

 有馬記念の1着から3着はそれぞれ1センチ差だった。

 誰が勝ってもおかしくなかった大接戦を、遠すぎる1センチを、華麗にものにしたサンジェニュイン。

 3歳馬で有馬記念を制した馬の背中は遠く、しかし、リュベール騎手に諦めの文字はなかった。

 

「でもね、パーフェクトホースなんて神でもない限り作れない。だからきっと、どこかできっと、隙ができる筈。じっと待って、待って、待って。そのすぐ後ろで待ち続けて。ドバイでハーツクライは2センチ先をいった。粘り勝ち。執念の成せる技。どうだ見たかこれがハーツクライだぞ、っていう誇らしい気分です。今でも感謝しています。ハーツクライは僕に『粘り』と『執念』を刻みつけた馬ですから。このドバイの出来事があって、僕は、サンクルー大賞典の策を実行に移す決意を早めに決めることができたんですよ」

 

 時は2006年の5月に進む。

 ガネー賞でサンジェニュインが驚異の着差を刻んだレースで、リュベール騎手は4着馬のプライドに騎乗していた。

 圧巻のスピードで前をいくサンジェニュインを見て、こりゃダメだと早々に悟ったという。

 

「諦めないことをハーツクライに教えてもらっておいて、って言われるかもしれません。でも、流石に26馬身を縮めるのは不可能に近いです。近い、っていってるのは、やろうと思えば無理じゃないから。でももし実行していたら、プライドはチャンピオンステークスも香港カップも勝てていなかった。つまり、壊れること前提ならば勝てました。逆に言えば壊す以外であの馬に追いつくことはできなかったんです」

 

 だがサンクルー大賞典でリュベール騎手は奇策を用いた。

 

「ガネー賞も終わってプライドの次走がサンクルー大賞典に決まって。そこにはハリケーンランもサンジェニュインも出ますから。もっと研究しなきゃ、と思って知人に頼んで調教時のビデオとかもらったんです。で、それを見てて気づいた。あれ、サンジェニュインって牝馬相手だとちょっとだけ遅いな、って」

 

 併せ馬の最中、牝馬が近づくと馬体を離そうとする。

 隣に並びかけると減速する。

 馬っ気が出ているわけでもない、牡馬との併せ馬では近づかれたら跳ね返しているのに、どうしてこうなってしまうのか。

 原因はわからないけれど、サンジェニュインが牝馬相手に強気に出れない事実に、リュベール騎手はたどり着いたというわけだ。

 

「これだ! と思わず手を叩きました。プライドはご存知の通り牝馬です。早い段階で前目につけて、サンジェニュインの視界に入る位置にいられたら、チャンスができる。しかし、片方にプライドがいるだけでは弱い。もう片方、左右を挟むくらいのインパクトがなきゃ、サンジェニュインを立ち止まらせることはできない。だから、無理を承知で調教師や馬主に頼み込んで策を実行した。もし過度に脚を消耗するならその時点で策を止める、と約束をして」

 

 綺麗にスタートダッシュを決めたサンジェニュインの左右。

 プライドが滑り込んだのと同時に、片側にももう1頭、牝馬の姿があった。

 プライドと同厩舎のペースメーカー、ヴァネッサだ。

 2頭はスタート200メートルをトップスピードで走ると、サンジェニュインの横をキープした。

 側から見ても、サンジェニュインはストレスを感じているようだった。

 左右を気にして、そのスピードはガネー賞よりも劣る。

 コーナーカーブが苦手なサンジェニュインは、大外を回らなければトップスピードをキープできない。

 しかし両側を挟まれていることで外に進出できず、サンジェニュインは苦手な小回りを強いられていた。

 これだけを見るとリュベール騎手の奇策は効果的だったと言える。

 だが誤算があったとしたらそれは、サンジェニュインがこの時点で既に悪癖を矯正されていたことだ。

 

「手元にあった調教ビデオは、一番新しくて5月上旬のものもあったんです。そこから僅か1ヶ月も経たずに矯正がうまくいくとは、流石に予想できなかった。だって、悪癖が明確になったのは昨年の春先のことで、もうすぐ1年が経つ頃になっても直ってなかったんだから。もう、先生方に完敗って感じです」

 

 最速ではなかったとはいえ、それでも平均より速いサンジェニュインのスピードに張り付いていた牝馬2頭は、終盤になって体力の限界が現れた。

 その時に出た隙が、サンジェニュインの勝利へと繋がる。

 鮮やかに抜け出たその白毛が、それまでどこに隠し持っていたのかわからないほどのスピードで駆け抜ける。

 最終的に5馬身差の圧勝で、サンジェニュインは欧州G1・2勝目を挙げた。

 

「終わった瞬間に思ったのは、もうやだな、この馬、でしたね」

 

 苦笑いでそう答えたリュベール騎手。

 しかしその後のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスではハーツクライに、凱旋門賞ではプライドに騎乗してサンジェニュインと相見える。

 何かと縁のある1人と1頭だ。

 そしてその縁は、血を重ねてさらに深く、繋がっていく。

 

 サンジェニュインが種牡馬入りした後。

 2年目産駒となるシルバータイムの主戦騎手を務め、彼をG1馬に導いたのは他でもない、グラン・リュベール騎手であった。

 

■ 夏の欧州競馬に君臨した、洋芝の王様

 

 帰国はせず、その翌月に迎えたキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス。

 稀に見る豪華な組み合わせとなったそのレースで、一番人気に推されたのはサンジェニュインだった。

 他にはドバイシーマクラシック勝ち馬のハーツクライ、ドバイワールドカップ2着馬のエレクトロキューショニスト、前年の凱旋門賞馬・ハリケーンランらなど、錚々たる面々だ。

 キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス ── KGVI&QESの舞台となるのはアスコット競馬場。

 比較的コースレイアウトが広めに取られている他の競馬場と異なり、この競馬場の特徴的なところの一つにコーナーカーブがある。

 アスコット競馬場のコーナーカーブはかなり狭く、真上からみたコースの形は三角形に近い。

 カーブを苦手とし、トップスピードをキープするためには大外に進出する必要があるサンジェニュインにとっては、かなりきついコースレイアウトになっていた。

 

「サンジェニュインは困ったことに、本人は減速が嫌いなんですよ。後ろに牡馬がいるとなおさら。牝馬相手の悪癖に関しては、アレ、本人は減速してるつもりもないので。もうギリギリまで大外にヨレてでも必死に回ってもらうしかない、と思っていたし、芝木騎手にもそう指示を出しました。ただ、思った以上にサンジェニュインが内側で曲がろうとしてしまったので、右側の脚がぶつかっちゃったんです」

 

 傷自体は深くはなかったが、その白毛の馬体ゆえか出血は派手に映った。

 本原さん曰く、サンジェニュインは脚の踏み込みが深いため傷が浅くても痛みはそれなりに強かったはずだ、という。

 それでもサンジェニュインはレースを走り切った。

 先頭で、誰よりも早くゴールした。

 

「終わってみれば6馬身差。上り坂もぐんぐん上がっていくんだから、大したもんです。やっぱりこの馬は欧州競馬に適応しているし、誰よりも強いんだって思いました。それと同じくらい、無茶するなよとも思いましたが」

 

 前代未聞、馬も授賞式に参加するというイベントをこなしたサンジェニュイン。

 その強い競馬と、可愛らしい顔で注目を集め、ついには欧州各国の競馬雑誌で表紙を飾った。

 イギリスの女王陛下とともに写る写真は、その年の英国随一の写真として表彰もされたというくらいだ。

 この時、各社の記事に引用されたフレーズがある。

 

 “右脚を赤く染めてなお、君臨する王者"

 

 日本、阿嘉島アナウンサーの熱の篭った実況は、海を渡り、現地でその後長らく語られることとなる、名実況となった。

 

 そして、舞台はインターナショナルSへと進む。

 

 8月に開催されたインターナショナルSは、凱旋門賞出走前に参戦する最後のレースだった。

 前年、2005年にはゼンノロブロイが挑み、惜しくも2着に敗れたその舞台に、その年はサンジェニュインが日の丸を背負って出走。

 ゼンノロブロイの敵討ちをと多くのファンの声援を受け、その時点で欧州G1・3戦3勝の戦績を誇るサンジェニュインの人気はやはり一番だった。

 だが当日のサンジェニュインは、これまでと様子が違った。

 

「馬に感情ってあると思いますか? 私はあると思います。そうでなければ説明がつかないし、少なくともサンジェニュインには理解できているようでした。あいつはちょっとどころじゃなく、かなり賢い馬でもありましたから」

 

 インターナショナルS開催日より数日前。

 2005年の桜花賞馬ラインクラフトが、4歳にして急逝した。

 秋競馬に備えた休養中に、急逝心不全によるものだった。

 このラインクラフトはサンジェニュインの併せ馬の相手を務めた1頭だ。

 日本ダービー前から共に調教を受けるようになり、長いことパートナーとなっていた。

 そんなサンジェニュインの手元に届いた赤い手綱は、2頭の友好を示すには十分なものだろう。

 

「調子が戻るかは五分五分でした。たとえ戻らなかったとしても、走ってもらわなければならない。迎えた当日の有様は、決して完璧とは言えませんでしたが、それでもサンジェニュインは、抵抗することなくゲートへと向かっていきました。何をするべきか、それだけは頭から抜けなかったのでしょう。素直で、人間思いの馬ですからね。私たちにできたのはとにかく、サンジェニュインが無事にゴールして戻ってくることを祈る。それだけでした」

 

 レースはいつも通りハナで進んだ。

 調子の悪さは競馬関係者ではないファンにも目に見えてわかった。

 鞍上の芝木騎手との折り合いは欠け、半ば暴走しているようにも見えたのだ。

 頻繁にソラを使い、心ここに在らずという姿に心配になったファンも多いだろう。

 だが、サンジェニュインは常に人間の想像を超える馬だった。

 

「レース終盤に近づくにつれ、サンジェニュインの雰囲気が戻っていきました。ペースアップしながらも、徐々に芝木騎手と息が合い始めたんです。自分で調子を立て直しながら走って、走って、走り切って。サンジェニュインは2着馬に12馬身つけてゴールしました」

 

 決して相手が弱かったわけではない。

 ただシンプルに、サンジェニュインという馬のスピードが、他の馬を上回っているだけだった。

 

 “夏のヨーク競馬場に、菊と桜が咲き乱れる"

 

 粋な実況がその覇道に花を添える。

 白い馬体に似合う赤い手綱に、桜の息吹を織り込みながら。

 もはや向かう所敵なしの王様は、僚馬の魂と共にいよいよ秋の大舞台へと向かった。

 

■ その太陽の光は、世界に届いた

 

 宝塚記念を制したディープインパクトが、予定通り凱旋門賞に出走することを公表した。

 春の登録からそれまで明言が避けられていたため、ファンは待ちに待った報告に歓喜したことだろう。

 日本は初めて2頭の馬を凱旋門賞に送り出すこととなった。

 最有力視されたのは海外レースを連戦連勝中のサンジェニュイン。

 完全に欧州競馬に適応し、凱旋門賞が開催されるロンシャン競馬場での勝ち鞍もあるサンジェニュインの評価は高かった。

 次点がディープインパクト。

 天皇賞・春、宝塚記念を連勝したのはもちろん、2006年の国内春競馬は無敗。

 母はアイルランド生産のイギリス馬で、その祖母にあたるハイクレアは競走馬としても繁殖馬としても名牝と言える。

 血統的にみても欧州適性は十分にあるとみられていた。

 歴代最も凱旋門賞に近いとされた2頭が、互いを帯同馬に、日の丸を背負って現地入りしたのは9月の下旬だった。

 

「お互いが帯同馬っていうのは、カネヒキリ号の時もそうだったんですけどね。ディープインパクト号に関しては……芝木騎手から結構難色を示されたんですよ。カネヒキリ号ならまだしも、って。サンジェニュインは本当に賢いやつで、自分が誰に負けたのかってことを覚えてるんですよね。鹿毛で、額に星があって、ディープインパクトって名前の馬が自分を負かした。それがわかってるんで、ディープインパクト号と一緒だと嫌がるんです。3歳の春先とかは特に。ディープインパクト号の名前を聞くだけで厩舎に戻ろうとするんですよ。そんなんだからストレスとか心配だったんですけど、あいつも海外連戦してるうちに大人になったのか、輸送中とかも大人しくて。開催当日もどっしりと構えてましたよ」

 

 出発前の検疫厩舎では、同じクラブのヴァーミリアンが帯同馬として付き添った。

 そのおかげか、飼い葉食いは落ちることなく、フランスでも調子の良さはキープされたままだったという。

 そして迎えた大一番。

 前年の凱旋門賞馬ハリケーンランを抑え、ダントツの一番人気に躍り出た。

 9番ゲートに収まった白い馬体が駆け出す。

 安定のスタートダッシュはロンシャン競馬場の広いコースを中央を走り、後続をぐんぐん引き離していった。

 2番手に浮上したのはハリケーンラン。

 そしてそのすぐ後ろ、3番手に顔を出したのはディープインパクトだった。

 この先行策に関して、当時ディープインパクトを管理していた沼江琢馬さんはこう言った。

 

「サンジェニュインは元からスーパーカーって感じの馬なんですけど、洋芝で走るともう別の乗り物って感じなんですよね。あのスピードに対して後方から追うっていうのは無理がある。中山とか府中で戦うなら追込でもいいんですけど、あの時は流石に前の方で追ってないと勝負すらできない、ということで竹騎手と話が付きました。ディープインパクトはちょーっと出遅れ癖もあったんですけど、サンジェニュインと走ってるうちにそれも克服できたので、正直先行で出すことに不安はありませんでした。それに出てしまえば、あとは鞍上との折り合いと勝負根性に期待するだけ。勝機は十分にあったと今でも思っています。……ただねえ、やっぱりね、サンジェニュインのパワーは桁違いだよね。ディープとレイルリンクに揉まれたところからさらに伸びるのかよ、っていう」

 

 地元有力3歳牡馬のレイルリンクがディープインパクトに並び、2頭デッドヒートを繰り広げながら先頭サンジェニュインを追う。

 ディープインパクトはハリケーンランを抜かしたところからレイルリンクにすら先行を譲らず、2番手のままサンジェニュインを狙い続けていた。

 そして終盤の差し競り合い。

 ただ1頭、ディープインパクトだけがサンジェニュインの影を踏んだ。

 踏んで、並んで、それでもサンジェニュインが先頭を譲ることはなかった。

 怒号のような声援がロンシャン競馬場を満たす中、その白毛の馬体が確かなスピードでゴール板を踏み切った。

 鞍上の芝木騎手が空を指差すと、観覧席のあちらこちらから日の丸の布がはためいたのを覚えている。

 約40年近い挑戦の歴史を経て、硬く閉ざされた凱旋門が開かれ、白い光が射し込んだ瞬間だった。

 

「しばらく言葉が出ませんでした。誰におめでとうと言われても、何も言えなかった。ただ、やっぱりサンジェニュインはすごいんだって言葉だけが、頭の中をぐるぐるしていた。歴史を作っただとか、それ以上の感動があったんです」

 

 1着サンジェニュイン。

 2着ディープインパクト。

 

 欧州国外の馬2頭が表彰台の上二つを独占した。

 凱旋門賞始まって以来のことだった。

 

「凱旋門賞が終わってから数日は慌ただしかったですよ。現地メディアの取材を受けたり、日本メディアの対応に追われたり。でも、そんな忙しさのお陰で頭が正常に戻ったと言っても良いかもしれません。そうじゃなかったら永遠に『うちの馬すごいな』ってことで頭がいっぱいになっていたはずなので」

 

 サンジェニュインとディープインパクトは共に帰国した。

 まだ冷めやらぬ熱気を纏わせながら、それでも世界一位と二位の看板を引っ提げて。

 白と黒は、母国の大地を踏み締めた。

 

■ ラストラン 結局最後も2頭共に

 

 2頭を乗せた輸送機が成田空港に着くと、大勢のファンが出待ちしていたという。

 歴史的偉業を成し遂げた2頭は、しかしいつも通りのんびりした様子で検疫厩舎に入ったそうだ。

 

「まあ、馬からしたらレースの格なんて分かりませんからね。中山で走るときの延長戦くらいに思っていたのかも。ともかく、2頭怪我もなく帰国できたのは良いことでした。……けど、良いことがあると悪いことも起きるものですね。天皇賞・秋を次走としたディープインパクト号が東京競馬場に向かう当日。サンジェニュインは心房細動を発症しました」

 

 いまだ原因の判明していない突発的な疾病・心房細動。

 これによってサンジェニュインは予定していたジャパンカップ出走等、全てのスケジュールを白紙に戻した。

 そして発症翌日には年末での引退が決定。

 翌2007年から種牡馬として社来スタリオンステーションで繁養されることが発表された。

 

「いつか種牡馬入りはするだろうと思っていました。それが思ったよりも早かったし、何よりあんな終わり方は想定してませんでしたから。けど、仕方ないことです。無理をさせて、今度こそ取り返しのつかないことになるんじゃ意味がない。まだ元気なうちに種牡馬にして、その血を繋いでもらう方がサンジェニュインは幸せなんじゃないかと、そう思いました」

 

 ラストランは有馬記念に決まった。

 ライバルであるディープインパクトも年内の引退を公表し、同じく有馬記念がラストランとなる。

 2004年12月19日の阪神競馬場で共にデビューした2頭は、2006年12月25日の中山競馬場で共に引退する、唯一無二の馬になった。

 

「ディープインパクトは天皇賞・秋、ジャパンカップを制して有馬記念に駒を進めました。ここを勝てばテイエムオペラオー号やゼンノロブロイ号に続く秋古馬三冠達成。サンジェニュインは凱旋門賞ぶり、かつ、日本で走るのはちょうど1年前の有馬記念以来のことです。何よりラストランですから。サンジェは最後まで強い馬だぞって言って有終の美を飾りたかった。そうなるだけの調整はしてきたつもりでした」

 

 当日の中山競馬場は良馬場だった。

 ラストランに相応しい晴れた天気。

 17万人のファンが、2頭の最後の戦いを見に中山競馬場を埋め尽くした。

 久しぶりの中山に思うところがあるのか、パドックで立ち上がるなどいつものとは違った様子を見せるサンジェニュインに、本原さんは頭を抱えたという。

 だが、いつも通りの横顔でゲートへと向かっていた背中には、信頼しかなかったと晴れやかな顔で語った。

 レースはサンジェニュインの大逃げから始まった。

 和芝ということもあってスピードはそれほど出ていなかったが、後続に5馬身差をつけるその速度は十分だ。

 その年の二冠馬メイショウサムソンらを引き連れる白毛は、これが病み上がり初戦とは思えないほどの迫力を見せた。

 大外スタートを利用してコーナーカーブを十分な広さで回ると、後方に控えたディープインパクトが駆け上がってくるまで独走。

 そしてラストの直線。

 全ての力を振り絞って全馬を抜き去ったディープインパクトが、サンジェニュインに2馬身差のリードを奪い取った。

 しかしサンジェニュインも抜かれてはい終わりとはいかない。

 こちらもラストラン。

 死力を尽くして並ぶと、2頭は首差し頭差しを繰り返しながらゴールに飛び込んだ。

 

「長い写真判定でした。時間的にみれば日本ダービーよりは短いけれど、私が一番長く感じられたのはこの有馬記念です。結果が出るまで、どちらが前を行ったのかわからなかった。でもね、びっくりするほど悔いはなかった。負けても、勝っても。サンジェニュインが今まで培ってきた全てを出し尽くした末の勝敗です。鼻息鳴らして駆け抜けた結果です。どんな終わりだろうと、彼の全てを誇りに思おうと決めていました」

 

 2頭がゴールしてからもしばらく歓声は止まなかった。

 史上初を連発しながら、新しい歴史を作り上げていったサンジェニュインとディープインパクト。

 白と黒。太陽と衝撃。逃げと追込。

 驚くほど正反対の2頭は、けれど負けず嫌いなのは一緒で、諦めが悪いのも一緒で。

 だからこそどこまでも人に夢を見せてくれる。

 終わってほしくないと思わせてくれる。

 そんな2頭のラストランは、最後まで、歓声と感謝に満ちていた。

 

 そして翌日26日。

 2頭はそれぞれの関係者に見送られ、生まれ故郷へと戻っていった。

 共に繁養先は社来スタリオンステーション。

 種牡馬としての第2の馬生に入り、2頭の対戦の続きはその産駒へと引き継がれていくことになった。

 

■ 白毛初の種牡馬

 

 サンジェニュインは世界で初めて、G1を勝った白毛馬として種牡馬入りを果たした。

 そのシンジケート総額は60億にも及ぶとされている。

 主な繁養先は社来スタリオンステーションとなったが、配合相手の多くが海外の牝馬だったことから、2月から4月までを日本で、5月から6月一杯までを海外のスタリオンステーションで過ごすという、異色のスケジュールとなっていたという。

 当時のサンジェニュインを担当していた厩務員、目黒リキさんに、種牡馬としてのサンジェニュインについてお話を伺ってきた。

 

 以下、リキさんと表記させていただく。

 

「健康上は全く問題ありませんでした。気性も穏やかだし、手もかかりませんでしたね。でも初めての種付けの時、年上の牝馬が相手だったんですけど、その牝馬がかなりグイグイ来るタイプで、サンジェニュインはそれに気圧されたのか逃げてしまったんですよ。こりゃ種付け向きの性格じゃないな、と。でも2回目の種付けは段取り通りこなせましたし、海外に行ってからも評判はよかったです。おっとりした馬なので、牝馬に嫌われることもありませんでした。あと何よりもその受胎率の高さ。数年止まらなかった(= 未受胎)牝馬も、サンジェニュインを付けるとすぐ止まるんですね」

 

 そのため、サンジェニュインは不受胎となった牝馬たちの受け皿となっていた。

 どんなに種付け料が高額であろうとも、ほぼ受胎が確定となるサンジェニュインならば金を惜しまない、という生産主も多かったとリキさんは語る。

 

「初年度から多くの仕事をこなしてくれました。2年目と3年目は海外が中心だったので日本の産駒は少なかったのですが、4年、5年目からは徐々に国内向けの産駒も増えていった印象です。きっかけは初年度産駒のデビューですね。国内外合わせて初の勝ち馬がサンサンドリーマー。母の父はエルコンドルパサーです。結構重めの配合ではあるんですけど、この馬が2歳の時点でG1の朝日杯FSを完勝してくれたので、国内での注目度が上がった感じです。翌年にはサニーメロンソーダが3歳馬として初めて宝塚記念を制してくれました」

 

 競走馬生産において、親としての優秀さを証明するのは子供の活躍だ。

 初年度のサニーファンタスティック、シャイニングトップレディらが三冠馬となったこと。

 3年目産駒のブランシュブランシュ、6年目産駒のシャイニングパッションが凱旋門賞馬になったこと。

 これら産駒たちの輝かしい成績が、サンジェニュインの種牡馬としての価値を確かなものにしていた。

 

「サンデーサイレンスの血はこれ以上ないってくらい濃くなっているので、国内でバンバン配合するわけにはいきません。でも海外では相手に困ることがない。ヨーロッパを中心に、サンジェニュインは毎年のようにG1馬を輩出しました。後継種牡馬にも恵まれましたし、母の父としても強い影響力を持つようになりました。その繁殖能力は父であるサンデーサイレンスを彷彿とさせるものです。高齢になってからも衰えるそぶりがなく、後期の代表的な産駒の1頭であるサントゥナイトを見れば、それは明らかでしょう」

 

 サンジェニュインから数えて史上2頭目の白毛の凱旋門賞馬サントゥナイト。

 2021年生産で、配合時サンジェニュインは18歳だった。

 そして凱旋門賞を制した時は23歳で、その輝かしい姿を見納めてからサンジェニュインは黄泉路に旅立ったのだ。

 サントゥナイトの一つ下の世代、2022年生産のサンサンファイトは産駒初の日本ダービー馬。

 ラストクロップからは無敗で皐月賞を制したサニードリームデイが誕生。

 最後まで国内外に活躍馬を送り続けたことになる。

 

「サンジェニュイン自身も話題に事欠かない面白い馬でしたが、その産駒も実に個性豊かでした。もし今、サンジェニュインに会って何かを伝えられるとしたら、面白い馬に出会わせてくれてありがとう、と言いたいですね」

 

 サンジェニュインの墓は今、社来スタリオンステーションの敷地内にある。

 現役時代、種牡馬時代共に親交の深かったカネヒキリと、好敵手であるディープインパクトに挟まれる形で眠る。

 その墓に、現役だった頃からのファンや、送り出してきた子供たちのファンが、花束を携えてやってくる。

 会いに来たよ、と、笑顔を浮かべて。

 

■ 結局、サンジェニュインとはどんな馬だったのか

 

「振り返ってみても、やっぱり、あいつは天才ではありませんでした。もっと言えば、負けて強くなるタイプの馬です。負けて、悔しくって、頑張って。負けず嫌いで努力家で頑固で。大逃げをしてたのだって、馬群に飲まれるのがいやだから逃げてただけです。他の天才と呼ばれる馬のように、スピードが段違いだからそのつもりがなくても自然と逃げになっていたとか、そういうんじゃない。もっとシンプルなやつなんですよ、あいつは。……それで、自分を愛してくれる存在に、同じだけの愛を返してくれる馬でした」

 

 誰に聞いても返って来る答えは同じだった。

 

 人懐っこい。

 従順で。

 穏やかで。

 優しくて甘えたで。

 愛してるよ、と囁くと、嬉しそうに嘶く。

 頑張れと応援した分だけ走った。

 最後まで人を信じ、人を愛した。

 

 その最期の瞬間を、目黒康史さんはこのように振り返る。

 

「体調は夏頃から崩れてました。それでも気力だけで踏ん張ってたんですよね。でもサントゥナイトの凱旋門賞制覇をテレビ越しにみて、あいつの中の緊張の糸みたいなものが、プツリと切れたんじゃないかな。ああ、もう安心だなって。サンジェニュインが頑張って血を残さなくても、もう、後の世代がいるんだなって。もしかしたらそこまで深くは考えてなかったかもしれないけど、でも、あいつ、最後はすごく満ち足りた顔をしてました。やりきったぞ、って顔ですね。だから、誰もが死ぬなとは言えなかった。ただありがとうしかなかった。天国への土産に感謝の言葉をいっぱいに詰めて、送り出したかった」

 

 “お前は最高の馬だ”

 

 旧・本原厩舎では、サンジェニュインがレースに出るたびにそう言って送り出したという。

 今日も、明日も、明明後日もいつまでも。

 サンジェニュイン、お前こそが最高の馬だ、と囁く。

 この上ない愛情と信頼を込めて。

 そしてサンジェニュインが天国に旅立つその瞬間に、目黒さんが贈った言葉も同じだった。

 

「やっぱりお前は、最高の馬だ」

 

 サンジェニュインの横顔は、歓喜に満ちていた。

 

■ サンジェニュインが遺したもの

 

 サンジェニュインが旅立ってから5年の月日が流れた。

 サントゥナイトの初年度産駒はクラシックシーズンを迎え、サンサンファイトの初年度産駒もまもなくデビューだ。

 初年度産駒のサニーファンタスティックらはとっくに種牡馬を引退し、今は孫の世代。

 かつてサンデーサイレンスの3×4に時代の流れを感じたように、今、サンジェニュインの3×4を持つ馬たちがそれを教えてくれる。

 

 サンジェニュインがいた日々を思うと、5年は短くなかった。

 だが同時に、その存在を忘れてしまうほど長くもなかった。

 今も各国の競馬場でサンジェニュインの血脈が躍動する。

 忘れるな、というように。

 最高の馬と声高に呼ばれた父の、その白さが受け継がれている。

 

 来年2031年。

 サンジェニュインの凱旋門賞制覇から25年目を迎える。

 リアルタイムであの熱狂を見届けた競馬ファンも世代交代が近づいている頃だろうか。

 海外に挑む日本馬も珍しくない昨今の競馬ファンには、過去のあの盛り上がりの意味は理解し難いかもしれない。

 しかしあの時代、海外レースに出走する競走馬は決して多くなかった。

 勝率だって今ほどは高くない。

 だがそれでも、過去の挑戦者たち ── スピードシンボリが、シリウスシンボリが、エルコンドルパサーがタイキシャトルが。

 そしてサンジェニュインらが挑み続けたことには意味があった。

 例え敗北を重ねたとしても、その敗北にすら意味があった。

 挑み続けることそのものに、価値があったのだ。

 

 サンジェニュインが競馬界に遺した最も偉大なものはその血だと言う競馬評論家もいる。

 だが私は、サンジェニュインの最も偉大で大切な遺物は、挑み続ける強さや、諦めないことにあると思うのだ。

 

 挑むことを諦めないこと。

 勝利を諦めないこと。

 血を残すことを諦めないこと。

 

 それら全てを体現した軌跡そのものが、サンジェニュインの最大の遺物だ。

 

 来年、サンジェニュインのラストクロップであるサンパーカッションが長期の海外遠征に挑む。

 芝木真白厩舎所属の現在4歳で、2028年の札幌2歳ステークスを最後に重賞勝ち鞍はない。

 それでも海外に挑む。

 その脚に適応した戦場を求め、諦めを知らない太陽の血を示す。

 自身を『最高の馬』と呼んで愛する、全ての関係者のために。

 

 サンジェニュインの遺志は、今も、繋がっている。

第◇回サンジェニュインのお嫁さんレース(敬称略)

  • エアグルーヴ
  • ハルウララ
  • ウオッカ
  • カレンチャン
  • 海外牝馬組
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