美貌バいろいろ   作:SunGenuin(佐藤)

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【引退後】虹の端っこで待ち合わせ

 人は色に意味を見出す生き物だと言う。

 

 赤は生命の誕生。

 青は成長。

 緑は安らぎと学び。

 黄色は向上心。

 紫は迷いと嫉妬。

 黒は生命の終わり。

 

 では、白は?

 

  ── あれは、たった一瞬のできごとだった。

 けどその一瞬で、馬たるカネヒキリは『色』というものの意味を知ったのだ。

 芝生に映える美しい白色の、その意味を。

 

 風に揺れる(かみ)の美しさと、その風を通じて香る甘酸っぱい匂い。

 (かみ)と同じ色のまつ毛に縁取られた瞳の青さは、晴れた日の空によく似ていた。

 

 カネヒキリは馬なので、この時抱いた感情を的確に表現する術を持たなかった。

 でももし、カネヒキリがヒトで、もしくはカネヒキリの気持ちを読めるヒトがいたとして。

 その感情に、感動にいちばん近いものをきっと ── ひとめぼれ、と呼んだ。

 

 

 

 競走馬カネヒキリが産まれたのは2002年の2月。

 3月まで片手もいらないほど近づいたその日、春の息吹を前に立ち上がった。

 そうして2004年のデビューから引退する2010年までの6年間。カネヒキリの魂は砂上にあった。

 その身体は決して丈夫とは言えず。(したた)かとも言えず。

 脚は走るたびに傷み、常に怪我との戦いだった。

 1度、2度、折れて、立ち止まって、横になって。

 しかし、カネヒキリは不屈の闘志を持って何度でも蘇り、その強さを見せつけたまま砂上を去った。

 雷帝は稲妻を帯びる不死鳥に変わって、その強さを次代に繋げるべく、今度は父になる。

 涼しい北の故郷。

 種付けシーズンを終えた今は与えられた放牧地のど真ん中で、僚馬であるサンジェニュインと2頭きり、日向ぼっこに勤しんでいた。

 

『暇だねえ、カネヒキリくん』

 

 カネヒキリの真横で寝転ぶ白毛の馬が、僚馬にして最愛の友、サンジェニュインだ。

 2歳になった2004年の初め、お互いの管理調教師によって引き合わされた2頭は、空白の4年間も含めればかれこれ11年近い付き合いになる。

 生まれた時から馬体が大きく、同厩舎に似た体格の馬がいなかったサンジェニュインの相手 ── 併せ馬のパートナーとして顔を合わせたのが、2頭のファーストコンタクトだった。

 

 サンジェニュインに出会う前のカネヒキリは、その他大勢の馬と何ら変わりなく、ごくありふれた反応を示す馬だった。

 人に世話をされ、それを享受し、調教をこなし、飯を食らい……そんなどこにでもあるような、単調な日々を過ごしていた。

 

 しかし、サンジェニュインとの出会いが、カネヒキリの世界を鮮やかに変える。

 

 何をしてもおもしろく、何を見ても美しかった。

 そこにサンジェニュインがいるだけで、見飽きたと思っていた景色のどれもが新鮮に思える。

 カネヒキリの目に映るサンジェニュインが、そして2頭が立つその場所が、この世の何よりも素晴らしい、と。

 できるだけその感覚を味わっていたくて、カネヒキリの目は自動追尾システムがごとくサンジェニュインを追った。

 ああ、きっと目を離したってサンジェニュインはどこにも行かないし、美しいナニカは他にもあるかもしれないけれど。

 カネヒキリは、生まれて初めて感じた柔らかい感情を失くさないよう、いつまでもサンジェニュインを見つめていた。

 

 可能な限りその隣で息をしていたかったのだ、とカネヒキリは目を細める。

 だってなんだか、サンジェニュインのそばで吸い込む空気の方が、1頭でいる時よりも素晴らしいものに思えたから。

 

『タオル相撲にも飽きちまったなあ……でも他にやることねえもんなあ』

 

 脚をばたつかせながらサンジェニュインがあくびをする。

 その姿をじっくりと脳裏に刻んだ後、カネヒキリは緩慢な動作でコクリと頷いた。

 

『種付けシーズンの時はさあ、まったりできる時間ほしいなって思ったけど、オフはオフでマジ暇。呼吸以外することねえ。極端すぎんだろほんと』

 

 青草をブチリと引き抜きながら文句を垂れる姿さえ、サンジェニュインという馬は輝いていた。

 これでも2歳の頃は『あら可愛いでちゅね』で済んでいたのだ。赤ちゃんを可愛いと呼ぶアレである。

 

 ふわふわとした(かみ)、クリクリとした丸くて青い瞳、鼻先からうっすらと透けるピンク、むにむにとよく動く口元。

 豊かな表情と愛嬌のある四肢の動きが、とにかく、そうとにかく可愛い。

 体格は同世代どころか古馬を見てもかなり立派な方ではあったが、可憐すぎた顔と言動のせいでしばしば牝馬と間違われた。

 実際に初対面の時、カネヒキリは『とんでもねえワンダフルビューティー牝馬だ』とガン見をしたレベル。

 

 しかし、だ。しかしサンジェニュインは牡馬である。牡馬なのである。

 ヴァーミリアンが血涙流して『と"う"し"て"た"よ"!』と喚こうともひっくり返らない現実がそこにはあった。

 カネヒキリは早々に現実を受け入れ、淡い初恋が一瞬にして極太友愛へと転じたので事なきを得たが、心に傷を負った牡馬は大勢いる。

 

 まあ気持ちもわからんでもない、とカネヒキリはひっそりと頷いた。

 牝馬のごとく愛らしかったサンジェニュインも成長すれば変わる。

 年を重ねれば自然と牡馬らしい骨張った男臭い偉丈夫になろう、というカネヒキリ含め大勢の牡馬の予想と願望を裏切り、サンジェニュインは可憐なまま成長したのである。

 体格は芸術的と言えるほど立派になったというのに、どういうわけか少女めいた甘酸っぱい美貌は女神のごとき進化を遂げたのだ。

 栗東発の馬運車内で久々にサンジェニュインの素顔を見たカネヒキリが気絶したのも、そりゃもう仕方ないと言えるほど。

 

 これで、これで美しいだけだったらどんなによかったか。カネヒキリは横でコロコロと転がるサンジェニュインを見守りながら目を細めた。

 なんとこの白毛馬、明るく前向きな性格で、さらには1度懐いた馬にはどこまでも好意的。

 2歳から親交のあるカネヒキリ相手にはさらに顕著で、遠くで目があっただけなのにトコトコと走ってきてくれるのだ。

 おまけにスキンシップ好きでとんでもない甘えたがり。放牧地でカネヒキリがうたた寝してると、その隙を突いて(かみ)をモシャリと食んでくる始末。

 これが他の仲の良い馬にも同じ態度だったら救われるのに、カネヒキリにしかやらない。

 そのせいで2歳時にバグを起こしたカネヒキリの脳みそと情緒と感情バロメーターは、今日も今日とて元気にバグったままだった。

 

 つまり何が言いたいのかと言うと。

 今日もサンジェニュインは素晴らしく素晴らしいので、カネヒキリは呼吸をするのも楽しい。

 

『ダメだァ! 暇すぎて発狂しそう! カネヒキリくん! なんか面白い遊び知らないか? タオル相撲とかけっこと日向ぼっこと昼寝以外でな!』

 

 とねっこのごとき駄々こねっぷりを見せるサンジェニュイン。

 カネヒキリには効果抜群だ。

 またライフがひとつ減ったが気にするな、いつもの事だ。

 

 スゥーッと遠のいていきそうな意識をなんとか保ち、カネヒキリは振り向いた。

 ピンクの鼻先にはっぱを付けたサンジェニュインが、キョトンとした顔でカネヒキリを見た。

 毎秒可愛くて困る。いや馬のカネヒキリには秒数とかそういう概念はないが、何故か瞬きする度に可愛いという感想が上がってくるのは理解してる。

 ヴァーミリアンが『どこから見ても天使なのはズルくね?』とブモブモ鳴くのも仕方ないと思えるレベルだ。

 しかし仕方ないと思えるのは天使ちゃんと呼称するところだけであり、サンジェニュインを追いかけ回すことに関しては許せない。

 カネヒキリは砂上でのレースとトモダチのヒィンには馬いちばい敏感なのである。

 と思いながらカネヒキリが立ち上がると、それに釣られてサンジェニュインも立ち上がると、遠くから足音が聞こえた。

 

 馬の耳というのはヒトよりも何倍も敏感。

 だからかなり距離は空いていたとしても、誰かがカネヒキリたちのいる放牧地に向かっているのが2頭にはすぐわかった。

 

『リキか? ……いや、聞きなれない足音だな』

 

 不思議そうに首を傾げるサンジェニュインに倣ってカネヒキリも首を傾げた。

 

 サンジェニュインはたまに人語を理解しているかのような言動をすることがある。

 カネヒキリたちの耳にはただ複数の音が組み合わさっているようにしか見えない人語を、さも当然のように聞いているのだ。

 前々から不思議に思っていたが、何故かサンジェニュインならそれくらいできそうだな、という気持ちもあって、カネヒキリは深く突っ込んだこともない。

 サンジェニュインが人語を理解しているおかげで、こうしてカネヒキリがサンジェニュインと暮らせているというのもあるし。

 メリットしかないな、と思いながら耳を澄ませた。

 

 サンジェニュインがぽろりと零した「リキ」と言うのは、カネヒキリたちを管理している人間の固有名だ、というのをカネヒキリ自身も認識している。

 声色がガラガラしていて不思議なヒトだったが、サンジェニュインを外に連れ出すときはいつもカネヒキリも一緒に連れて行くので、割と好きな部類の人間だ。

 そのリキでないなら、こちらに向かってきているヒトは何か。

 いつもの「メグロサン」という人間だろうか。それともあのいけ好かない「シバキクン」とやらか。

 まさか、いつぞやのようにカネヒキリとサンジェニュインを別々の部屋にしようと企んでいる、そんな輩なのではないか!?

 

 サンジェニュインのいなかった4年間、サンジェニュインと再び共に過ごすことだけを夢見て駆け抜けてきた優駿 ── それがカネヒキリである。

 今の生活はそれに対するご褒美、いわゆるボーナスステージのようなものだと受け止めて生活してきた。

 ウキウキワクワクハピハピな第2の馬生を阻む輩がいると思うだけでムカムカするし、穏やかではいられない。

 カネヒキリは緊張からピリピリとした空気を放ちつつも、サンジェニュインから引き剥がされないよう、その隣にぴたりと立った。

 

『……ん? 一般人? あれ今日って俺たち見学の予定入ってたっけ。リキのやつ何も言ってなかったけど……不法侵入じゃないよな? ま、まさかなあ……でも念の為……カネヒキリくん、ちょっと柵から離れようぜ!』

 

 サンジェニュインに頷き返して、カネヒキリも呼吸を合わせて走った。

 2頭で共有している放牧地は、大柄な体躯に合わせてそれなりの広さだ。

 この2頭が駆け回っても余裕がある放牧地の、真ん中のスペースに辿り着くと振り返る。

 その間に足音の人間が入出ゲートの前まで来ていた。

 

「わーっ! 本当に2頭でおんなじとこ使ってんだぁ」

「……ね、ねぇ、やっぱりまずくない? 勝手に入っちゃさ」

「だいじょーぶだって! 迷っちゃったって言えばよくない?」

 

『いやいや良くねえよ』

 

 社来スタリオンステーション、通称社来SSは観光牧場ではない。

 しかしファン向けに観光ツアーが組まれていたり、見学をすることが可能だ。

 そのためにはいくつか守らなければいけないルールがあり、当然、見学対象外のエリアに立ち入るのはルール違反である。

 

 それにルール違反なのはそれだけじゃない。

 片やハツラツとした今風の女性で、服装は萌え袖を意識しているのか袖がかなり長く、ミニスカートにヒールが高めの靴。

 耳には大ぶりのアクセサリーがピカピカと光っていて、手には日傘と思わしい派手な装飾の傘。

 大丈夫だ、と言ったこの女性に対して、心配そうな表情を浮かべているもう片方はと言えば、スニーカーに白いポロシャツと紺色のズボン。

 光モノのアクセサリーは一切なく、万一にも馬がかまないようにするためか、袖や襟がぶかぶかした上着も着ていない。

 競走馬ふるさと案内所のQ&Aでも熟読したのだろうか。だとしたらお友達の服装にもなんか言っておいてくれ、とサンジェニュインはぶつくさと漏らす。

 ヒトの言葉や常識など理解できないカネヒキリには、突然現われた人間の区別など付かない。

 しかしサンジェニュインの反応からある程度推測することはできるし、ふたりのうちどちらに撫でられた方がマシか聞かれたら、後者の女性だと即答するだろう。

 まあカネヒキリは純粋な馬なので、このヒトたちの言っていることは本当に本当にわかっていないので直感レベルだが。

 

『もう1人はともかくさあ。なんかやべーわ。あんなウルヴァリンみてーな爪……俺とカネヒキリくんのつやつやボディに引っかき傷ができちまうし、何されるかわかったもんじゃねーし……カネヒキリくん! もっと離れようぜ!』

 

 コクリと頷いてカネヒキリはサンジェニュインの後を追った。

 動き出した2頭に、声を上げたのは派手服の女。

 遠くに行っちゃう、という言葉に振り返ることなく、サンジェニュインたちは放牧地の奥まで走っていった。

 その位置からでも、馬の優秀な耳は人間の声を捉える。

 

「あーあ。近くで写真撮りたかったのに……おーい! こっち来てー!」

「ねえ、本当にまずいって、やめようよ」

「大丈夫だって言ってんじゃん! おーい! にんじんあるよー!」

 

 牧場見学の最たるマナーに、大声を出すべからず、と言うものがある。

 馬というのはとても繊細で臆病な生き物だ。

 自分の影にすら驚くだけでなく、想定していなかった音が聞こえるだけでパニックになる。

 なんなら芝とダートの境目を見ただけでパニックになる馬もいる。

 さて、パニックになった馬がどんな行動に出るかは、ベテランの厩務員さえ予測がつかない。

 一例として、驚きのあまり駆け出し、柵に突っ込んでしまって怪我を負ってしまった馬もいる。

 その怪我が元で亡くなってしまった馬も……だから牧場見学においてマナーの徹底及びルールの遵守が求められる。

 

 そもそもだ。先に述べた通り社来SSは観光牧場ではない。

 年数億円以上を生み出す、経済動物たる繁殖馬が暮らす仕事場であり、見学者は文字通り「見る」こと以外は許されていないのが本来のあり方だ。

 マナーの悪さゆえに繁養されている繁殖馬に何かがあれば、当然、それ以降の見学可否は見直されることとなる。

 良識のあるファンならば、そこら辺を把握して行儀よく振る舞うものだが、残念なことに、全てが質の良いファンとは限らない。

 元が人間だったサンジェニュインは、だからこそいろんなことを理解し、一刻も早くこのとんちき状態から逃れたかった。

 

『今日はディープインパクトもヴァーミリアンも来てないからなんとかなってるけど、参ったなあ。早くリキたち来ねえかな。こんなんじゃカネヒキリくんとゆっくりできねえや』

 

 正直な話をすると、カネヒキリ的にはそこにサンジェニュインがいればかねがね満足なのだ。

 この瞬間も空気がうめえと思うくらいには。

 だがサンジェニュインが言う通り、こんな騒音の中ではおちおち空気も吸えないし味わえない。

 何よりサンジェニュインが落ち着けないならダメなのだ。

 不満げなサンジェニュインに同意するようにカネヒキリが頷くと、サンジェニュインがワッと声を挙げた。

 

 『は、はえぇ……!? 柵を乗り越えようとしてやがる!? うっそ死ぬ気!? いやそりゃ、俺たちサラブレッドの中でも1位2位を争う穏やかウッマだけども!? それにしても限度はあるんだが!? 危なくなったら抵抗するぞ!? 拳、じゃなくて脚で!!!!』

 

 カネヒキリの目にも派手服の女が柵に足をかけているのが見えた。

 もう片方の女が止めて入るものの、乗り越えるのにそう時間は掛からないだろうというのも分かる。

 ヒエェ、と情けない嘶きをあげたサンジェニュインだったが、その声の情けなさとは裏腹に、カネヒキリの前に立って庇おうという姿勢だけはハッキリしていた。

 

 ところで余談だが、2頭の体格差、実はそれほどない。

 顔が可愛いだ可憐だ儚いだと言われがちなサンジェニュインだが、その馬体は現役時代530キロまで膨らんだこともあり、パワー型ならではの立派な体躯なのである。

 一部のファンから「お胸ばいんばいん」「巨乳」「わがままボディ」と呼ばれ、競馬関係者からも「グラマス」「豊満な」「素晴らしいスタイル」と言われてきた。

 併せ馬でカネヒキリが誤ってタックルしてしまった時も、崩れるどころかカネヒキリを跳ね飛ばすほどの体幹。

 一方のカネヒキリも530キロオーバーの馬体重を有するに見合うアスリートボディで、サンジェニュインから「ムキムキいいなあ」と羨ましげに見られるほどのマッチョである。

 砂の王者らしい風格を併せ持つ牡馬の中の牡馬と言えよう。

 そんな2頭が並ぶと、それはそれは大変見栄えがして、そんでもってとんでもない迫力を生むのだ。

 遠目で見るだけでも「おお……」と見学者から声が上がるそれを、真正面からみたらどうなってしまうのか。

 しかもただ真正面なだけじゃなくて、明らかに気が立ってることを示すように前掻きを始めたらどうなるか。

 

「ひ、ひぃ……っ」

 

 ハイヒールで芝の上を走る度胸のあった女は、しかし雄大な馬格の馬を前にして腰を抜かした。

 サンジェニュイン的には近寄ってこないなら何もしないのなあ、くらいの威嚇。

 基本的には人間大好きで、元が人間だからと言うのもあってその好奇心には一定の理解があるからである。

 それに侵入者にして不審者であるとはいえ、人間を害した場合に自分やカネヒキリがどうなってしまうのか気になって、そもそも近寄ってきてもギリギリまで耐える気すらあった。

 どんな理由でも人間に手を出した動物は害獣扱いになりがち。サンジェニュイン、知ってます。

 

 しかしそんなサンジェニュインの思惑など、カネヒキリはもちろん目の前の人間も知らない。

 ふるふると震える女と、柵の外側で顔を青くしている女を交互に見ながら、サンジェニュインは厩舎にいるだろうスタッフたちへ祈りを捧げた。

 

 もう誰でも良いから俺とカネヒキリくんを解放してくれ、と。

 

 一方その頃カネヒキリは、可愛いより格好良いが上回ってなおキラキラして美しいサンジェニュインの背中と横顔に昇天しかけていた。

 

 威嚇してる姿のなんと可憐で美しいことか。雄々しいのに可愛くて素晴らしいな。彫刻か?

 ヴァーミリアン、ディープインパクト見ろ。

 いつもならヒンヒン鳴いてるサンジェニュインが王様然としたオーラを醸しているぞ。

 なに? 2頭ともいない。なんと哀れな、この輝かんばかりに美しいサンジェニュインが見られないなんて。

 

 カネヒキリは通常運転であった。

 

「ちょっと、君たち何してるんだ!?」

「柵から離れて! 君も、なんでそこにいるんだ!? 立ち入り禁止だって言ったはずだぞ!」

「おい、サンジェニュインとカネヒキリの馬体検査!」

「見学中止! 上長へ連絡! 急げ!」

 

『うおおリキ――ッ!! スタッフぅ――ッ!! 遅いぞ〜〜!!!! 危うく前脚で見事なキックをキメちまうところだった!!!!』

 

 ドタバタと足音を鳴らしながら飛び込んできたのはサンジェニュインとカネヒキリの担当スタッフだ。

 見学者の人数が合わないことに途中で気づいたのか、それとも24時間放牧地に取り付けられている監視カメラでも見たのか。

 どちらにせよ、サンジェニュインが見事な前脚蹴りを見せるか、もしくはカネヒキリが大興奮のあまりタックルする前に来てくれてよかったと言うほかない。

 あとちょっとでも遅れていたら、この放牧地は今以上のカオスに見舞われていたに違いないのだから。

 

 それからすぐサンジェニュインとカネヒキリは放牧地から連れ出され馬体検査を受けた。

 侵入者のどちらもやばいやつらではある。

 だが、放牧地に侵入しなかった方の人間に関しては情状酌量あってほしいなあ、などとサンジェニュインは思ったが、まあ判断するのはスタッフだ。

 今回のが大事になって見学禁止にならなければそれでいい。

 

「はぁ……まったく、映画が公開されてから変なやつばっか……!」

「公開前から変なやつばっかだったろ」

「そうですけど、倍になった気がします! 前はクラブ経由とか、パーク経由での見学会でそれなりに弁えてはいたじゃないっすか! それが映画始まってからは、映画のイベント経由での見学申込でこれですよ? 正直、質が悪いにもほどがあるでしょ……!」

 

 今年、つまり2015年。サンジェニュインの半生を題材にした実写映画が公開された。

 競走馬を主題にした映画と言えば、国内ならこれまでもハルウララの映画もあるにはあったが、大手制作会社が手がけるのも、国内どころか全世界一斉公開となったのもサンジェニュインが初めてである。

 公開されてちょうど1ヶ月ほどだが、えげつないほどの人気を博している、らしいとサンジェニュインは小耳に挟んだことがあった。

 国内はもちろん、アメリカやイギリス、フランスでも大人気なのだとリキが誇らしげに言っていたことをサンジェニュインは思い出した。

 

 ちなみに、この映画を作るにあたって、撮影には多くの馬が参加した。

 何せ主役が馬のサンジェニュインなのだ。

 登場人物、もとい登場人馬のうち、どちらかというと馬の割合の方が多かったくらいである。

 通常、映画などに馬を出す時は役者馬やタレント馬と呼ばれる専門の馬たちが起用されることが多い。

 しかしサンジェニュイン自体が珍しい白毛のサラブレッドということもあって、それを演じられる役者馬がいなかった。

 メガホンを取る監督はリアリティや再現性に拘ることで有名だったため、馬は全頭競走上がりの馬で撮ることにした。

 サンジェニュイン役はサンジェニュイン産駒で揃える徹底ぶりである。

 

 当歳時のサンジェニュインを務めたのは、2015年産まれの牡馬数頭。

 この中でもメインのシーンを撮った馬は、未来の皐月賞馬である。

 ついでに菊花賞も制して二冠馬になる逸材だが、この時は誰もそうなるとは思っていなかった。

 続いて1歳役もサンジェニュイン産駒だったし、2歳役は当時すでに5歳だったサンサンドリーマーとサニーメロンソーダという産駒が務めた。

 これは両馬が小柄な馬だったからであり、本物の2歳馬を使うよりも上手くサンジェニュインを演じられたからだ。

 3歳時はわざわざアメリカからシャインニングトップレディというサンジェニュイン産駒の牝馬まで招き寄せた。

 ちなみにシャインニングトップレディはアメリカ三冠馬である。

 4歳役を務めたのは、同じく初年度産駒のイギリス三冠馬であるサニーファンタスティック。

 役者が豪華すぎるだろ、とサンジェニュイン本馬が白目をむいたり、隣の放牧地を縄張りとするディープインパクトやヴァーミリアンが興奮したり。

 とにかく大忙しだった記憶が残っていた。

 

 撮影が始まったのは2014年の初め頃だって、サンジェニュイン専用厩舎もにぎやかになっていた。

 元々の想定通り、サンジェニュイン産駒が種牡馬入りしてきたのである。

 だだっ広い厩舎をカネヒキリと分け合っていた日々が終わりを告げたのだ。

 

 これに当のカネヒキリはとてもガッカリした。

 せっかくのサンジェニュインとのウキウキハッピーライフ満喫中に……せめてあと10年くらい待ってくれという心境である。

 そんなカネヒキリとは反対に、諸手を挙げて大歓迎していた馬たちがいる。そう、ディープインパクトとヴァーミリアンだ。

 彼ら曰く、サンジェニュインとその産駒はそっくりだけど警戒心薄くて眺めてて面白い、らしい。

 だがカネヒキリにはまったくそうだとは思えなかった。

 サンジェニュインのクローンか? というレベルでそっくりであり、サンジェニュイン本馬も『俺じゃん!?』と震えるほど似てるサニーファンタスティックを見た時さえ、似てないな、と真顔になったくらいだ。

 じゃあ具体的にどこが似てないんだよ、とキレ気味にヴァーミリアンが吠えたので、カネヒキリは持てる語彙すべて使って説明してやった。

 そうしたら何故かヴァーミリアンには泣きながら止めてくれと懇願されたのでやめたのだ。

 お前は業が深すぎる、とはヴァーミリアンの言葉だが、正直ヴァーミリアンにだけは言われたくないなと思ったカネヒキリである。

 嫌々言っても現実は変わらない。腹を括って一緒に暮らしてみれば案外慣れるものだ。

 それに厩舎には産駒たちはいるが、放牧地は変わらずカネヒキリとサンジェニュインの2頭だけ。

 なのでカネヒキリはこの生活をひとまず受け入れることにした。

 

 さて、そんな苦労の末に完成した映画が公開されたことで、今、日本はプチ競馬ブームであった。

 

 2015年はそもそもスターに恵まれた年だったことも影響していたのだろう。

 新・芦毛の怪物と呼ばれたゴールドシップが3度目の正直で天皇賞・春を制し、3連覇のかかる宝塚記念で豪快に立ち上がって120億円を散らしたことは記憶に新しい。

 皐月賞と日本ダービーをエアグルーヴの孫であるドゥラメンテが制覇し二冠馬になった時は、早くも三冠馬誕生の予感と盛り上がった。

 そのドゥラメンテ不在の中、最後の一冠である菊花賞を制したキタサンブラックは、大スターである馬主にとって初のG1馬という事で派手に取り上げられたりもした。

 にわかに盛り上がっていく中でのサンジェニュインの映画は、ブームを後押しするのにちょうど良かったのだろう。

 

 だが、サンジェニュインとカネヒキリが現役時代もそうだったように、ブームというのはいい事ばかりではない。

 新参のファンというのは良くも悪くも騒ぎを起こしがちで、今回の件はその悪い部分が3割増で現れたようなものなのだ。

 

 この騒ぎの翌日。

 いつも通り放牧地でキャッキャッウフフする予定だった2頭の元に、放牧中止の知らせが舞い込んだ。

 純粋馬たるカネヒキリには何が起きたかまったく分からなかったが、人間の言葉がわかるサンジェニュインは別だ。

 あの出来事をきっかけに警備体制と見学体制を見直すことにした社来グループは、当面の間は2頭の放牧と、予定していてた見学会をすべて白紙にすることを決定したのだった。

 

『嘘じゃん……俺たちこれからどこで遊ぶんだよ……まさか歩き運動も無しか? こんな狭い馬房にずっと閉じこもってろってのか……?』

 

 悲しげに鳴くサンジェニュインを見ると、カネヒキリもどこか悲しくなってしまう。

 

 おのれ人間。

 何が原因かはわからないがサンジェニュインを悲しませやがって。

 

 種牡馬生活で積み重ねてきた人間への信頼が、この件でまたリセットされしまったカネヒキリは、親友を励まそうと小窓から顔を出した。

 そして同じように小窓から顔を出したサンジェニュインの儚げな表情にダイレクトアタックをくらい、失神しかけた。

 美人は三日で飽きると言うが、美馬は三日では飽きないのだ。

 

『パークとか映画経由はまあそうならあ、とは思ってたけどさあ、クラブ経由の見学会も中止なんて予想外だったぞ! どうすんだ、現役時代の一口馬主のニキネキに会えるのはこれしか方法が無かったってのに……! ハッ、ま、まさか、目黒さんも来れなくなったとか、そういうのは無いよな!?』

 

 『メグロサン』というのは、サンジェニュインが現役だった頃の担当厩務員なのだが。

 とてもよく懐いていて、よくくっついていたのをカネヒキリも覚えているし、なんならカネヒキリも好きだ。

 ドバイでは不在だったカネヒキリの担当厩務員の代わりにあれこれと面倒を見てくれただけでなく、よくサンジェニュインとも遊ばせてくれたので気に入っている。

 何より、その人間がいるとサンジェニュインが大変ご機嫌になるので、カネヒキリもニッコリしてしまうのだ。

 やはり親友の笑顔。

 これが健康に生きるために必要な最大栄養素である。純粋馬のカネヒキリもこれを魂で理解している。

 はやくサンジェニュインが元気になるよう、カネヒキリは虹の向こう側を見つつ祈った。

 

 

 

 それから少しだけ月日が流れたが、まだ2015年。

 そろそろ種付けシーズンへの準備が始まりだした頃、カネヒキリとサンジェニュインが仲良く暮らす厩舎に訪問者がいた。

 

『目黒さーん!!!! 来てくれたんだな目黒さん!!!!』

 

 大好きな人間の登場に、放牧地にもろくに出れずにいたサンジェニュインは、久々のご機嫌満点スマイルを浮かべながらはしゃぎ鳴いた。

 これにはカネヒキリもご機嫌満点気絶をキメた。今日も空気が美味い。

 

『カネヒキリくん!?!? 意識しっかり!?!?』

 

 そしてサンジェニュインの悲鳴で無事蘇生した。牡馬(おとこ)には生きる理由がある。

 

 サンジェニュインに無口を引っ張られつつ、カネヒキリはやっぱり笑顔が一番だな、と思った。

 確かに憂い顔のサンジェニュインも美しいといえば美しい。絵画のごとく。

 併せ馬をしていた頃、カネヒキリに負けると悔しげに地団駄を踏んでいた姿も可憐だった。天使のごとく。

 カネヒキリは見たことがなかったが、レース中に浮かべるという闘志の滾る様もさぞ素晴らしいのだろう。

 だがやはり、笑顔、笑顔なのである。

 

 現役時代、遠くにカネヒキリを見つけ、大きな声で()きながらカネヒキリの名前を呼び、ふにゃふにゃと浮かべる笑顔こそが、至高なのだ。

 ヴァーミリアンはムスッとした表情が可愛すぎていじり倒したくなる、などと言っていたし、ディープインパクトはガン付けてくるキレ顔が良すぎる、などと興奮していたが。

 まったくこれだから太陽素馬(しろうと)はダメなのだ。

 真正面から浴びる好意100%の笑顔という名の太陽光に勝るものなどないのである。

 これまで取ってきたG1タイトル賭けても良い。

 

『カネヒキリく〜ん、俺たち再来年はアメリカらしいよ! カネヒキリくんの初年度が向こうのダート界で大記録連発してっからな。あ、でも来年はふつーに日本だって。俺、海外行かずに日本とか久しぶりすぎ』

 

 実はサンジェニュインの言っていることは、時々カネヒキリには難しすぎることがある。

 分からないことも多いが、とにかくご機嫌なサンジェニュインが見られれば良いのだ。

 今のセリフも8割くらいわからなかったが、カネヒキリとサンジェニュインが一緒にいるのだということだけは理解した。

 カネヒキリは訳知り顔でウンウンと頷いてサンジェニュインの横顔を見る。

 ニコニコとしているサンジェニュイン、やはり美しすぎる。

 神はこの馬を作る時、美しさに全神経を使ったのだろうか。

 今日何度目かもわからない失神をしつつ、カネヒキリは幸福感に包まれていた。

 

『アメリカいったら俺たちの産駒に会えるのかな。ね、カネヒキリく……カネヒキリくん!?!? また意識が飛んでるぞカネヒキリくん!!!!』

 

 まもなく冬がやって来る。

 あと少ししたら年が明ける。

 2016年になって、カネヒキリとサンジェニュインは、14歳になるのだ。

 

 カネヒキリはサンジェニュインに揺さぶられながら、遠くない未来を夢みた。

 

 13歳のサンジェニュインも美しいが、きっと14歳のサンジェニュインも美しいぞ。

 きっと、きっと。

 

 

 

 

 

 そして、運命の日がやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 命あるものはいつか虹の向こう側に渡るもの。

 それはカネヒキリがとねっこの頃から、耳がふわふわになるほど母に言い聞かせられてきたことだ。

 生まれ、息をし、走り、食べ、眠り、目覚め、そうして命を営むその最果てに、虹の向こう側があること。

 カネヒキリは母の教えを心の片隅に持ちながら、今日まで生きながらえてきた。

 そして、今、間も無く虹の向こう側へと渡ろうとしている。

 いつものような、一瞬のことではない。

 本物の。永遠の。別れ。

 決して避けられないことだと分かっていながら、でも、カネヒキリはこの瞬間も心臓を叩き、まだ、まだと首を振った。

 もう少しだけ、後少しだけ。

 

 美しい光の輪を持つサンジェニュインのそばで、息をしていたかった。

 

『カネヒキリくん!』

 

 カネヒキリの美しい親友は、涙を流していても美しい。霞んだ視界でさえそう思う。

 でもカネヒキリは、涙を流すところよりもうんと、うんともっと美しい姿を知っている。

 朝、小さな身じろぎとともにカネヒキリへと送られる、ねむたげな瞼と口元にのる『おはよう』の暖かさとか。

 いつもカネヒキリの頭上にある眩い光の球のように、サンジェニュインはとても晴れやかに笑うのだ。

 軽快な笑い声と、それに彩られながら呼ばれる自分の名前が、カネヒキリはとても、とても好きだったから。

 

 それに。

 

『サンジェニュイン』

 

 いつだったか、どの馬に聞いたのか忘れてしまったが、人間も馬も、声を最初に忘れてしまうという。

 どんなに長く過ごした間柄でも、どれほど親しくても、常に更新される思い出の中で声というものは脆く、すぐに褪せるのだと。

 どうしてこの瞬間に思い出してしまったのか、カネヒキリにはわからなかったけれど。

 もしカネヒキリより先にサンジェニュインが虹の向こう側に渡るとして、カネヒキリは、サンジェニュインの声を忘れたくなかった、と思う。

 それと同じくらい、自分の声も忘れてほしくなかった。

 

 だから、カネヒキリは抜けていく力の全てを振り絞って、美しい親友の、美しい名前を呼び続けた。

 

『サンジェニュイン』

 

 サンジェニュインは、いつも馬生が楽しいという雰囲気を醸しながらも、その実は孤独を嫌う寂しがり屋だと、カネヒキリは思う。

 難しい言葉はやっぱりわからないけど。サンジェニュインが見せる明るさの裏側に、寂しさがあることを、ちゃんと分かっていた。

 だって見ていた。これまでずっと、どんな馬よりも長く、素のサンジェニュインを見続けてきたのは他でもない、カネヒキリだから。

 熱気と悲喜渦巻くあのドバイの大地で、たった1頭だけ取り残された時の、サンジェニュインの悲しそうな横顔を、カネヒキリは今でも覚えている。

 可能ならばカネヒキリがそばに残ってやりたかったが、激走の影響で傷んだ脚では隣に立つこともできず、サンジェニュインを置いて帰国した。

 そこから約4年間、カネヒキリは脆い脚を抱えながらも不屈の闘志で走り続けたわけだが、そうしてカネヒキリが離れていた頃、サンジェニュインの寂しさを想像するだけで苦しい。

 自分も苦しかったからこそ理解する。そして自分の知らないトモダチを亡くしたサンジェニュインの、深い悲しみを想う。

 それでもサンジェニュインが立ち続けたのは、そうして旅立っていくトモダチが彼のためを想い、遺して逝くものがあったから。

 ラインクラフトは赤い手綱を遺したらしい。同じファームで生まれた遠い昔なじみ。カネヒキリはもう顔を思い出すだけでも精一杯になった牝馬。

 そうしたものたちが、これからを生きるサンジェニュインの支えになっていくのだろう。

 例えトモダチそのものはいなくなっても、大丈夫、寂しくないよと励ますカタチになる。

 

 では、今日、これから旅立つカネヒキリがサンジェニュインに遺せるものとは、なんなのだろうか。

 

 もはや何も持たないカネヒキリに、ラインクラフトのように形あるものを遺すのは難しい。

 この血を分けた子供たちがサンジェニュインの下に辿り着くのは、きっともっと後のことになるだろう。

 それならば、何を、どれを、どういった形で遺せるのか。

 もはや一刻の猶予もない状態で、カネヒキリは考えて、考えて、考え抜いて。

 

 そうして、名前を呼んだ。

 

『サンジェニュイン』

 

 カネヒキリが世界で一番美しいと思う、八文字の音だった。

 

 声は最も忘れやすい記憶だと知りながら。

 思い出の中で一番最初に褪せていくものだと知りながら。

 それでもカネヒキリはサンジェニュインの名前を呼び、その声を刷り込むようにして重ねた。

 

 サンジェニュインと出会ってから今日、この瞬間までの12年間が、カネヒキリのそれほど大きくない脳裏を駆け抜けていく。

 いつまでも美しい親友の、柔らかい声色が鮮やかに再生される。

 こんなふうにカネヒキリが、命の終わりにサンジェニュインを思い出すように。

 どうか、サンジェニュインの命の終わりにも、カネヒキリとの思い出が再生されればいいと願った。

 

 どれもが喜びに満ちた記憶。

 どれもが優しさに満ちた記憶。

 どれもが愛に満ちた記憶であると、カネヒキリは胸を張って言える。叫べる。遺せる。

 

 そんな記憶の全てが、カネヒキリがサンジェニュインに遺せる唯一のものなのだと、カネヒキリはこの瞬間になって気づいたから。

 だから名前を呼び続けた。

 サンジェニュインの名前を、ひたすらに。

 深い友愛と、祈りと、希望を込めて呼んだ。

 

『サンジェニュイン』

 

 親友は涙を流しながら、カネヒキリの傍らに横たわった。

 寝藁に光が落ちる、と思った。いつもカネヒキリの頭上でピカピカと光るあの丸い球が、カネヒキリの側に墜ちてきたような。

 気を抜けば一瞬で旅立ちそうになるのを必死に堪えて、カネヒキリはまだまだ、と名前を呼び続けた。

 視界に入った白い耳が、その音を聞き漏らすまいとピクピク動く。

 きっとサンジェニュインも、カネヒキリが遺すものが思い出であることを、理解していた。

 

『カネヒキリくん』

 

 水気を帯びたサンジェニュインの声色がカネヒキリを呼ぶ。

 引き留めるような声色に頷きながら、返事をするようにカネヒキリも名前を呼び返した。

 もう時間はない。一瞬も無駄にできない。

 あと数回呼んだら、きっと、カネヒキリは旅立たなければならないだろう。

 だから名前を呼ぶ、その音の一つ、一つに気持ちを込めた。

 

 サンジェニュインは横たわってカネヒキリの名前を呼んで、それから一瞬だけ間を開けると、意を決したように話し出した。

 

『虹の向こう側って、さ。いいところ、なんだって。だから、だからみんな、帰ってこなくって……』

 

 あの(けぶ)るような夏の日。

 そうサンジェニュインに言い遺したのはラインクラフトだと、カネヒキリは前に聞いた。

 誰もこっちに帰ってこないのは、きっと、虹の向こう側が良いところだから、と。

 だから心配しないで、大丈夫だと、自分の背中を押したあの鹿毛の牝馬を思い出して、サンジェニュインは言葉をつなげる。

 

『おれ、がんばるから……い、1頭だけでも、がんばるし、』

 

 平気だから。

 そう言って、でもサンジェニュインはすぐに頭を横に振った。

 

『嘘ついた……ッ全然平気じゃない! 寂しい、寂しい、寂しいんだよカネヒキリくん!』

 

 よく駄々をこねるし甘えたがりなサンジェニュインを、我慢の利かない馬だと言うやつもいる。

 けどカネヒキリから見て、サンジェニュインは我慢強い馬だ。

 自分の感情を押しとどめることも、よくないことだけどできる馬だ。

 けれど、その脚の本数よりほんのちょっとだけ多い数のトモダチの中で、カネヒキリはさらに特別な存在だったから。

 人間が、幼い頃から親交のある友人を特別に思うのと同じように。

 サンジェニュインにとって2歳時に出会ったカネヒキリという存在は、感情を取り繕えないほど大切で、大人になれないほど柔らかくて、亡くしたくない親友だった。

 共に歩んできた12年の歳月が、例え4年の空白があっても互いを一番の友だと思い合ってきた年数が、2頭を仔馬時代へと連れ戻す。

 なんでもなく明日を信じられた、またね、が言えたあの頃を。

 やがてカネヒキリの声色にも水気が混じる。

 

 きっと、寂しいのは、お互い様だった。

 

『か、かね、カネヒキリぐんん……!』

 

 駄々をこねるときと同じ声色でサンジェニュインが呼ぶ。

 カネヒキリはいつもだったら、ちょっと困りながらもその駄々を叶えてやっただろう。

 無邪気で、少しわがままなところも、カネヒキリには大切におもえたから。

 でもカネヒキリは、今日、初めて、首を横に振った。

 サンジェニュインの願いを聞いてやれなかったのは、これが初めてだった。

 

 小さな唸り声に苦笑が漏れる。

 そう、サンジェニュインは少しだけ、子供っぽい。

 けど、けど、けれど。

 

 覚悟を決めてしまえば誰より、強い牡馬(やつ)だった。

 

『サンジェニュイン』

『……ん"!』

 

 きっとあと1回だ。

 あと1回、サンジェニュインの名前を呼んだら、カネヒキリはもう持たない。

 視界がぐらぐらと揺れ、感覚が次第に引いていく。

 虹の向こう側へと続く橋が、静かに、でもゆっくりとカネヒキリに架けられていくようだった。

 

()()()()()!』

 

 大きな声でサンジェニュインが名前を呼ぶ。

 カネヒキリくん、じゃなくて、カネヒキリ、と、はじめて。

 視線だけ動かして、カネヒキリはサンジェニュインの顔を見た。

 すごく寂しそうで悲しそうで。

 ああ、最期に見る顔がこんな顔ではやるせない。

 でもその表情のすみっこに、確かな決意を滲ませているのがわかった。

 あまりにも眩しいので、カネヒキリは薄く目を閉じながら、サンジェニュインの言葉の続きを待った。

 

『……無茶苦茶寂しいし、ほんとは虹の向こう側行ってほしくないし、でも無理だってわかってるから……だから、だから』

 

 ―― 俺のこと、待たなくったっていいよ。

 

 今度はカネヒキリが顔を上げた。

 

『向こう側にはさ、ラインクラフトちゃんもいるし、ほかにもたくさん馬がいて。だから、探すの、きっと大変だろうけど……次は、俺がカネヒキリくんのこと見つけるからさ! 今度は、俺から、会いに行く。だから、待たなくってもいいから』

 

 はしゃいでてくれよ、とサンジェニュインが涙声で言った、次の瞬間だった。

 

 カネヒキリの前に、ゆっくりと、本当にゆっくりと橋が架かった。

 それはきれいに虹色を帯びて、ああ、来てしまったか、とカネヒキリは覚悟を決めた。

 でも、あと一瞬だけ時間がほしい。

 カネヒキリは気力を振り絞って、まだ続くだろうサンジェニュインの言葉に、全神経を傾けた。

 架かる橋の向こう側からは楽しげな音が聞こえる。

 けどそんなもの知ったことか。

 カネヒキリが聞きたいのは、サンジェニュインの声だけだった。

 

『カネヒキリくん、楽しそうにはしゃいでくれよ。ああ、楽しそうなこの声は、カネヒキリくんの声だなって、俺……俺、カネヒキリくんのこと、顔も、声も、全部! ッ全部、忘れずにいるから ──!』

 

 旅立つカネヒキリにとって、その言葉はこの上なく素晴らしい(はなむけ)だった。

 遠く離れた4年のあと、久々に再会したカネヒキリに一発で気づいた時の、あの全身に染み渡る喜びに似ている。

 

 だから、だからカネヒキリは。

 

『サンジェニュイン』

 

 これまでで一番、愛に満ちた声色で、サンジェニュインの名前を呼んだ。

 

 

 

 眩い光がカネヒキリを包んだあと、気づけば橋の一歩前に立っていた。

 振り返ると、広々とした草原だけが広がっている。

 どうやら完全に橋が架かり、カネヒキリは虹の向こう側へと向かう途中にいるらしい。

 目の前の橋の、その奥からは楽しげな音が響き続けていた。

 きっとこの先にあるのが、虹の向こう側というものなのだろう。

 サンジェニュインの『はしゃいでてくれ』という言葉を思い出し、カネヒキリは、薄く笑って歩き出そうとした。

 

 しかし、ふと、思った。

 

『虹の向こう側は、きっと良いところだから』

 

 サンジェニュインはそう言っていた。

 これから旅立つカネヒキリが不安に思わないようにか ── いいや、きっと本気で良いところだと思っているのだろう。

 あの言葉は、カネヒキリの直接的な死を、できるだけ前向きにとらえようと奮闘した、そんな名残なのかもしれない。

 

 でも、カネヒキリに言わせれば、サンジェニュインの側こそ『良いところ』だった。

 それ以上に良いところなどあるはずもないと、カネヒキリは割と本気で思っていた。

 だからカネヒキリは、橋を渡らなかった。

 橋の横の、草原にゴロンと寝転がって、柔らかく広がる青空を眺める。

 雲が揺蕩う空は、サンジェニュインの瞳の色に似ていた。

 

 しばらくすると、さまざまな馬たちが橋を渡っていった。

 何頭かは橋の横にいるカネヒキリに気づいて、渡らないのかと聞いてくる。

 聞かれるたびにカネヒキリは空を見上げ、緩く首を振って答えた。

 

太陽(しんゆう)を待っているんだ』

 

 はしゃいでてくれ、とサンジェニュインは言ったけれど。

 その楽しげな声色を頼りに、カネヒキリを見つけてくれると言ったけれど。

 

 でも、サンジェニュイン、それはできないんだ。

 

 どんな理由で飾り付けようと、答えはひとつだ。

 たった1頭で虹の向こう側にわたることを―― カネヒキリが耐えられない。

 

 サンジェニュインは宣言通り、きっとカネヒキリを見つけ出すだろう。

 けど、見つけるまでの間に他の馬がサンジェニュインを先に見るのは、なんだか嫌だった。

 再会するなら誰よりもカネヒキリが一番に会いたい。

 カネヒキリはどこだ、と悩む暇さえなく、サンジェニュインと再会したい。

 

 それで、美しい(かみ)を風に預けたサンジェニュインが、カネヒキリを見つけて怒る姿が、見たいのだ。

 

『んも〜! カネヒキリくん! 虹の向こう側ではしゃいでてって言ったじゃんか!』

 

 そんなワンシーンを夢見ている。

 それで、怒られたらこう答えよう。

 

『はしゃいでるよ、今』

 

 はしゃぐ、というのは、楽しいということだ。

 心が浮ついて、どうしようもない感情があふれ出すこと。

 

 カネヒキリの中で、美しさや、楽しさや、喜びや、それらを象徴するのはサンジェニュインで。

 サンジェニュインなしにカネヒキリがはしゃげるなどと思っているのは、残念ながら誤算としか言いようがない。

 というより、カネヒキリに対する認識が甘いのだ。あの親友は。

 舐めるな、こちらは会えなかった4年の間、サンジェニュインの写真を馬房に貼り付けていた牡馬(おとこ)だぞ。

 

 だから、再会したら。

 探す気満々だったサンジェニュインの怒りを宥めながら、2頭で一緒にこの橋を渡ろう。

 虹の向こう側まで、お互い、はしゃぎながら。

 

 それが何年先になるかはカネヒキリにはわからない。

 サンジェニュインという馬は誰よりも丈夫で、生命力にあふれて強かで。

 だからきっと、長いこと待たなければいけないのだろう。

 別に長くなったって構わない。

 だってカネヒキリは、我慢強い馬で、忍耐強い馬で。

 

 待つのは、すごく、得意だから。

 

 柔らかく気持ちの良い風を全身に受けながら、カネヒキリは再び寝転んだ。

 どこまでも広がる草原の、どこかから。

 白毛の馬がのっそりと歩いてくるのを、静かに、静かに、待っている。

第◇回サンジェニュインのお嫁さんレース(敬称略)

  • エアグルーヴ
  • ハルウララ
  • ウオッカ
  • カレンチャン
  • 海外牝馬組
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