美貌バいろいろ   作:SunGenuin(佐藤)

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エアグルーヴ先輩から見たサンジェニュインというウマ娘

3万3千文字くらいあります!!!!


その別れはまるで2度目だった

 サンジェニュインというウマ娘に対して、一般的なウマ娘が抱く感情は概ね好意的だ。

 

 神のお手製とまで囁かれるその美貌。

 気品に満ちた立ち居振る舞い。

 他のウマ娘の視線を奪って止まない走り。

 

 天は二物を与えずと言うが、サンジェニュインはあらゆる面から多才であると言われている。

 だがエアグルーヴはその称賛を一笑し、そして首を横に振った。

 

「私は嫌いだがな」

 

 その美貌の影を知れば。

 その立ち居振る舞いの真実を知れば。

 その走りに至るまでの努力を知れば。

 

 エアグルーヴはますます『嫌い』と言うほかない。

 輝きの裏側へと蓄積されたあらゆる感情に思いを巡らせ、眉間に皺を寄せたエアグルーヴは、呆然としているウマ娘たち ── チーム・スピカのメンバーを一瞥した。

 

「これでようやく私も、面倒な『監督役』から解放される。これ以上に清々しいことはない」

 

 この春、サンジェニュインは日本ウマ娘トレーニングセンター学園から旅立つ。

 競技者としてターフを踏むことはもうなく、積み重ねた青春を思い出にするのだ。

 退寮前日になっても荷造りが終わっていないサンジェニュインの、その尻ぬぐいをしたのが『監督役・エアグルーヴ』としての最後の仕事であった。

 立ち尽くしたままのスピカの面々を前に、エアグルーヴはそっと瞳を閉じた。

 思い返せば、長いような、短いような、しかし濃密で、苦労の絶えない日々だったとエアグルーヴは振り返る。

 いつから自分の苦労は始まったのか。

 瞼の裏側で、ピンク色の花びらがひらりと散った。

 

 

 

 

 

 

 エアグルーヴがサンジェニュインというウマ娘に出会ったのは、桜舞う季節だった。

 生徒会副会長のひとりとして、常に生徒の模範であれと振舞ってきたエアグルーヴの性格は、非常に厳格で生真面目だと表される。

 そんな彼女から見たサンジェニュインの第一印象は、と言えば『腑抜けたウマ娘』という一言に尽きた。

 

 お世辞にも決して好意的とは言えない。

 だがそれは無理もないことだった。

 なにせエアグルーヴが初めて目にしたサンジェニュインの姿はと言えば、同期生であるカネヒキリに甘える場面だったのだから。

 

「あれが今期の注目生徒とは……会長のお考えが読めない」

 

 日本ウマ娘トレーニングセンター学園 ── 通称・トレセン学園の生徒会長であるシンボリルドルフは、毎年入学してくる生徒の中から数名、注目すべき生徒をピックアップしていた。

 今回、その中のひとりとして名前を挙げられた生徒こそが、サンジェニュインだ。

 だがエアグルーヴには、敬愛するシンボリルドルフが記憶するほどの価値がこのウマ娘にあるのか、不思議で仕方がなかった。

 サンジェニュインの名前自体は入学以前から有名で、エアグルーヴも知っている。

 おそらく、トレセン学園の生徒でサンジェニュインを知らぬ者はいないだろうほど著名。

 何故ならサンジェニュインは、幼少のころからウマ娘専用パジャマのイメージモデルを務めており、コマーシャルや雑誌などのメディアに多く出演していたからだ。

 

『千年に一人の美少女ウマ娘』

 

 このキャッチフレーズを付けたのは誰だったか。

 似合いのキャッチフレーズだ、とエアグルーヴは独りごちる。

 サンジェニュインはそれらの前評判に違わぬ美貌の持ち主。

 それ故に、入学が決まってからはほとんど毎日のようにトレセン学園に問い合わせが来たものだ。

 彼女が芸能関係の仕事をセーブする、と所属事務所から発表されていたことも後押しになったのかもしれない。

 マスメディアに出待ちのファンまでならなんとかできたが、内部の問題にはさしものエアグルーヴも頭を抱えずにはいられなかった。

 

「ゴールドシチーのメイクデビュー、オグリキャップの転入と初レース……振り返れば様々な出来事があったが、サンジェニュインはそれらとは完全に異なる。ここまで個の『美』が周囲に影響を及ぼしたことなど前例は……ないな」

 

 放課後の生徒会室。

 いつものように花の世話を終えたエアグルーヴを、シンボリルドルフのため息が出迎えた。

 つい先ほどまで誰かがいたのだろう。

 ティーポットの中身は半分ほど残っていて、その熱も失われていなかった。

 エアグルーヴは誰が来たのかを尋ねず、シンボリルドルフの言葉を引き継ぐように口を開いた。

 

「校内で追い掛け回された回数は既に2桁。1か所に留まればそこに人が集まり、歩き出せば大名行列よろしく群れができる。食堂を利用すれば異物混入。プライベートエリアである寮室への侵入は未遂も含めたらキリがありません。……前提としてサンジェニュインが被害者だとしましょう。それでももう、収拾がつかないところまできている。庇うことはもう……」

 

 言外に限界だと呟いたエアグルーヴを、シンボリルドルフの無言が肯定した。

 

 サンジェニュインというウマ娘は、あまりにも美しすぎた。他者を狂わせるほどに。

 シンボリルドルフは、吐き出されたすべての怒声から慈悲を拾い上げて、もう一度小さく頷く。

 エアグルーヴはその唇の動きだけを見ていた。

 

「君の言葉に異論はないよ。エアグルーヴが言う通り、庇うには、あまりにも事が大きくなりすぎた。例え彼女に罪がなくても……そう、美しいことは罪でも悪でもない。周囲が勝手に狂い、惑い、道を踏み外しているだけ、と言えよう。だが……魔性を自覚してなお対処できないのは善良とは呼べない。それは回りまわって罪になり、悪になり、そして罰になる」

 

 朝夕を問わずその周りに多くの人混みを作りだすサンジェニュイン。

 彼女が歩く度、大名行列のように付き従うウマ娘たちの存在は、その他のウマ娘たちの妨げになっていた。

 ここ数日の間だけで、すでに10件近いクレームが生徒会に寄せられている。

 サンジェニュインがどれほど望んでいなくとも、彼女に寄せられる第三者からの非難、悪意は日を追うごとに増していた。

 

 だが幸いなことがひとつある、とシンボリルドルフは続けた。

 

「サンジェニュイン本人には対処する意思がある。事の大きさも理解しているし、これまでも様々な方法を試みている。ただ残念ながら、そうであっても収まる気配すらない」

 

 1か所に留まるとそこに人混みができるから、ということで、サンジェニュインは常に学園内を動き回っている。

 できるだけ人を避けようと、食堂も、購買も、カフェテラスも、街に出ることさえもほとんどしない。

 不本意ながら周りに人が集まってしまった時は、サンジェニュインなりに厳しい言葉を使って遠ざけている。

 だがそれも一時しのぎに過ぎず、少し時間が経てば叱られたことも忘れて人が寄ってきてしまう。

 あらゆる対処法すら、暖簾に腕押し、沼に杭で意味をなさない現状に、エアグルーヴだけでなくシンボリルドルフさえ眉間に皺を寄せた。

 

「どんなに本人が望んだものではないとしても……登下校の妨げや騒音、トレーニング妨害と、第三者にまで実害が及んでいる以上は厳しくせざるを得ない。その一環として前回、君とサンジェニュインの模擬レースを行ったわけだが、まったく意図が通じなかったようだな」

 

 瞳を閉じたシンボリルドルフの前で、エアグルーヴはこれまでの日々を振り返った。

 

 

 あれは遡ること2か月前。

 つまりサンジェニュインが入学してから1か月が過ぎようとしたころ。

 その時には既にサンジェニュイン絡みのトラブルが多発。

 それらの対処も兼ねて、シンボリルドルフら生徒会が主催する形で生徒会役員との模擬レースが行われた。

 サンジェニュインの実力 ── あえて『格』という呼び方をするが、他のウマ娘に対して彼女の走りを見せ、その格の違いを知らせるためでもあった。

 

「『この娘は気軽に近づいて良い相手ではない』 ── つまりは、高嶺の花である、と思わせたかったのだが」

「……あの腑抜け顔に『高嶺』など、そもそも無理だったのでしょう」

 

 言い捨てたエアグルーヴに苦笑を浮かべ、しかし、とシンボリルドルフは想像する。

 平素でさえ独特のオーラを放つ美貌の持ち主である彼女が、感情の一切をそぎ落とした表情を見せたら?

 きっとそれだけで十分に『高嶺』と呼べるだろう。

 そう思いつつも口には出さず、シンボリルドルフは前回の模擬レースについて思考を戻した。

 

 模擬レースの建前は『新入生の腕試し』だった。

 生徒会役員を相手にしたマッチレース。

 シンボリルドルフはディープインパクトと、エアグルーヴはサンジェニュインと。

 誰もが新入生側が負けるだろうと分っていた。

 どれほど才能があろうとも、競技者として駆け出したばかりのウマ娘と、実績のあるウマ娘とでは雲泥の差があるからだ。

 だがこの模擬レースで注目すべきは、まさにその『差』だった。

 

「先行策をとった私に対して、後方に控えたディープインパクトのレース運びは見事の一言に尽きた。結果だけを見れば私の勝ちだが、入学間もないウマ娘の走りとしては完璧と言えよう。彼女の走りにシービーの姿を見た者もいたかもしれない。未来の三冠ウマ娘の姿を。……それはサンジェニュインも同じだ」

 

 あのマッチレースでエアグルーヴはサンジェニュインを逃がし、その6バ身後ろからレースをスタートさせた。

 教官たちから聞こえていた評判の通り、サンジェニュインのスタートは完璧で一切の無駄がなく、そして躊躇いがない。

 ゲートが開いたと同時に放たれた脚力。

 芝のえぐれた無残な姿が、その踏み込みの深さを物語っていた。

 

「距離は2000メートル。残り2ハロンの時点で先頭は依然サンジェニュインのまま。観客はこのままサンジェニュインが逃げ切ってしまうのではないか、と騒然としていた。だがエアグルーヴ。君は差し切った」

 

 驚愕の上り脚でラスト100メートル。

 サンジェニュインに並び、その差はわずか7センチ。

 この着差がつくまでの数秒の攻防を含めて、エアグルーヴは生徒会副会長としての威厳を示し、サンジェニュインは接戦の末の敗北 ── つまり『負けて強し』の姿を残したわけだ。

 このレースの結果をもって、サンジェニュインの格は確固たるものになる。……はずだった。

 

 シンボリルドルフはため息を噛み殺し、窓の外に視線を向けた。

 

 シンボリルドルフには2つの認識齟齬があったのだ。

 ひとつは『サンジェニュインに関連したトラブルには、その実力の有無はほとんど影響していなかった』こと。

 ふたつは『サンジェニュインの実力が証明されたことで、その人気にさらに火が付いた』こと。

 

 実力の証明は抑止力ではなく燃料に過ぎなかった。

 サンジェニュインの価値を上げ、彼女を支持するウマ娘につけ上がる隙を与えた。

 

「それまでサンジェニュインの実力を疑問視していた者に対し、サンジェニュインを支持していた者が高圧的な態度を取ることで発生するトラブルは後を絶たない。……ここまできたら、ファンというよりは熱心な信者の異端審問のようだ」

 

 ぽつりと呟かれた言葉に、エアグルーヴは同意した。

 その通り。

 サンジェニュインの周りにいるウマ娘は、ファンというよりは信者と言った方が的を射ていた。

 熱心で、従順で、敬虔で。

 神のごとくサンジェニュインを見上げ、それゆえに『サンジェニュイン』を否定した。

 

「必要なのは『サンジェニュイン』と言う個体ではなく、彼女たちにとって都合の良い『神』なのだろう」

 

 どんなにトラブルが起きようとも、シンボリルドルフがサンジェニュインを糾弾できない理由が、まさにそこにあった。

 擁護するでもなく、シンプルにサンジェニュイン自身の意思ではないことを知っている。

 かつて自身も見上げられる立場だったからこその、深い理解だった。

 

「あれから2か月。繰り返しになるが、サンジェニュインの説得も空しく、エアグルーヴ、君が頭を悩ませているようにトラブルは尽きないままだ。そしてあのマッチレースで証明されたはずの実力も、また疑われるようになった。今度はサンジェニュインだけの問題ではない。……わかっているな」

 

 コクン、と頷いたエアグルーヴを一瞥して、シンボリルドルフは窓側に置いていた目安箱を手に取った。

 

『サンジェニュインのマッチレースはヤラセ』

『模擬レースは茶番』

『サンジェニュインを制御できない生徒会は無能』

 

 目安箱から流れ出した文章に、エアグルーヴは拳を握った。

 辛うじて唇を噛み締めることだけは避けたが、その悔しさを隠すことはできなかった。

 

「まったく舐められたものだ。これらが『戯れ』では済まない事さえ考えられないとはな。もはやサンジェニュインだけではどうしようもない。この生徒会が主催した模擬レースを茶番とは……一体いつから、我々生徒会は軽んじられるようになったのだろうな、エアグルーヴ?」

 

 目安箱に投稿されたのは火薬ではなく、火そのもの。

 そしてその火はシンボリルドルフの、ひいては生徒会役員全員の怒りに()べられた。

 

「我がトレセン学園に置いて、走りは、レースの結果は絶対の実力。それが模擬レースであろうとな。万が一にも『美貌によって実績を得た』などと言う戯言を野放しにするわけにはいかない」

 

 中央のトレセン学園。

 それは全国のトレセン学園の中で最も格式高く、最も規律を重んじ、最も実力を尊ぶ。

 

「レースの結果を、そして生徒会を貶めることはそれすなわち、学園への侮辱」

 

 投書を握りつぶしたシンボリルドルフは、エアグルーヴを鋭く見つめ、笑った。

 

「学園を無礼(なめ)ることは許されない」

 

 皇帝・シンボリルドルフ。

 未だ並ぶものなしの七冠ウマ娘を前に、エアグルーヴは息を飲み、けれど決して視線を逸らさなかった。

 そのエアグルーヴを眼前に、シンボリルドルフは微笑みを抑え、ゆっくりと、だが明快に口を開いた。

 

「そこでだ。2か月後、再び模擬レースを開催する。今度は16人立ての本番形式で行おう」

 

 芝のコース。

 距離はメイクデビュー前であることを考慮して2000メートル。

 シンボリルドルフも、エアグルーヴも、その他の生徒会役員は全員不参加。

 サンジェニュインと、公募に名乗りを挙げたメイクデビュー前のウマ娘たちだけの、16人でゴールを競う。

 

「公募……しかし、我々生徒会が出ないというのは……悪評を打ち消すことにはならないのでは?」

 

 不安げなエアグルーヴに首を横に振って見せ、シンボリルドルフは微笑む。

 

「いいや、打ち消すことはできる。むしろ我々がいないことに意味があるんだ」

 

 シンボリルドルフは紙の束を取り出した。

 右端がホッチキスで止められただけの簡易的なそれは模擬レースの資料。

 促されるままにページをめくっていたエアグルーヴは、紙面に踊る文章を見て目を瞬かせた。

 

「『サンジェニュインに先着できた者には、生徒会役員を名乗る資格を与える』 ── !? 会長、正気ですか!?」

「無論、正気だとも」

「こんな……ッ生徒会役員という立場はトロフィーではないはずです!」

 

 エアグルーヴが訴える通り、シンボリルドルフの中でも生徒会役員はトロフィーではない。

 それは誇り。絶対のプライド。

 上り詰めた実力の先にある、栄光であり、名誉であり、責任であり ── (こころ)だ。

 レースの賞金のように扱ってよいものではない。

 

 しかしシンボリルドルフは、あえて『生徒会役員』を権利として持ち出した。

 

「7センチ差でエアグルーヴに惜敗したサンジェニュインの実力が偽物ならば、それはつまり、エアグルーヴ。君の実力でさえも彼女らにとっては偽物なわけだ。であれば、生徒会の存在すら薄く感じてしまうもの」

 

 しかしエアグルーヴの実力は偽物ではない。

 オークスを制し、天皇賞・秋を制した女帝。

 その軌跡がフェイクであるはずもないのだ。

 

 しかし、とエアグルーヴは言葉を続けた。

 

「サンジェニュインや我々の振る舞いに不満を持つウマ娘が、果たして模擬レースに参加するでしょうか。生徒会役員の権利さえ、その者たちには不要に映るのでは? 公募である以上、強制的に参加させるわけにもいきません」

「当然の疑問だな。だがそれに関しても問題はない。……エアグルーヴ。彼女たちが一番に欲するものは何だと思う?」

 

 一番に欲するもの。

 サンジェニュインや、サンジェニュインを庇い続ける生徒会に不満を持つウマ娘にとって、手に入れたいものとはなにか?

 

「彼女を、サンジェニュインを中心に、あるいはきっかけに巻き起こるトラブル。それを抑えられないサンジェニュインに対する不満、怒りと、サンジェニュインを制御できない生徒会への失望。こう言う者がいる」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……まさか」

 

 戦慄くエアグルーヴの予想を肯定するように、シンボリルドルフはゆっくりと頷いた。

 

「この模擬レース、もしサンジェニュインが1着を逃した場合。彼女はトレセン学園を去ることになる」

 

 つまり退学 ── 敗北のペナルティとしては苛烈と言えた。

 それも模擬レースでのペナルティである。

 エアグルーヴは完全に理解しきれないのか、片手で額を抑え、痛みをこらえるように目を閉じた。

 シンボリルドルフはそんな彼女を眺め、薄く頷いて見せる。

 

「サンジェニュインを排除したいウマ娘は、何がなんでもこの模擬レースに参戦するだろう」

「そん、そんなことが許されて良いのでしょうか……?」

 

 あるひとりのウマ娘の進退が決まる。

 メイクデビューを前に、人生の岐路に立たされるのだ。

 それもほぼ強制的に。

 そんなことが許されて良いのか。

 エアグルーヴは眩暈がしそうだった。

 眼前のシンボリルドルフを真正面から見られない。

 

 そんなエアグルーヴをよそに、シンボリルドルフはまたしても微笑んだ。

 

「エアグルーヴ。()()()()()()、ではない。()()()()()()

 

 それは絶対の宣言だった。

 遥か高みからの予告。

 ここでは、シンボリルドルフこそが答えになる。

 

 フリーズしたままのエアグルーヴと視線を合わせ、シンボリルドルフは言葉を吐き出した。

 

「勘違いしてはいけないよ、エアグルーヴ。この模擬レースでサンジェニュインがすべきことはたったひとつ。他の15人に納得してもらうのではない。他の15人を()()()()()のだ」

 

 言葉でもなく、その美貌でもなく。

 レースの結果という最もシンプルで最も確かな方法で。

 16人中たったひとりだけが掴む栄光を持って、サンジェニュインは示す必要がある。

 その実力、その格。

 

「さて、サンジェニュインは何バ身差で相手を退けるのか。楽しみだな、エアグルーヴ」

 

 その勝利を1ミリも疑わぬ強い声を肯定するように、部屋の外から軽快な足音が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

「待ち人のお出ましだ。開けてやってくれ、エアグルーヴ」

 

 思いのほか軽いノックの後。

 シンボリルドルフの言葉に従って扉を開けたエアグルーヴは、そこで一瞬だけ目を丸くした。

 扉の向こう側から顔を出したのは、つい先ほどまで話題に挙げていたひとりのウマ娘。

 

「よくここまでひとりで来られたな、サンジェニュイン。カネヒキリはどうした?」

「廊下側の壁を伝って窓から侵入しました! カネヒキリくんはおやつ作って待っててくれてます。……あ、お邪魔します!」

 

 白い髪をふわりと揺らして、サンジェニュインは部屋の主に笑いかける。

 傍らのエアグルーヴにももちろん挨拶は欠かさない。

 礼儀など二の次かと思わせる普段の様子とは逆に、サンジェニュインはこう言った生真面目な一面も併せ持っていた。

 

 それにしてもシンボリルドルフがサンジェニュインを呼び寄せていたとは。

 一体いつからそのつもりだったのか。

 それとも(はな)から、エアグルーヴが憤るところからシンボリルドルフの手の上だったのだろうか?

 言い知れぬ畏怖を覚えながらも、エアグルーヴは黙してその横に立った。

 

「それでは話を始めよう、サンジェニュイン。……ここ最近、自分がトラブルを起こしているという自覚は?」

 

 微笑みを崩さないままシンボリルドルフが言葉を発する。

 それは一見何気ない始まりに聞こえたが、すぐ傍に佇むエアグルーヴには(ほとばし)る圧がひしひしと感じられた。

 これを真正面から受けたら、並のウマ娘ではまともに返事もできないだろう。

 

 だが今、目の前にいるウマ娘は並ではない。

 

()()()()()()()()()()自覚……正直1ミリもないですッ!」

 

 並ではないというよりは、まともではない。

 

 あっけらかんと言い放ったサンジェニュインに、エアグルーヴは目眩より先に青筋を立てた。

 もしこの場にシンボリルドルフがいなければ大声で叱っていただろう。

 お前、自分が何を言っているのかわかっているのか、と。

 だがちらりと向けられたシンボリルドルフの視線が喉に釘を打ち、エアグルーヴは辛うじて言葉を飲み込んでいた。

 

「でも、『()()()()()()()』になってトラブルが起きているという自覚はあります。うまく対処できずすみません」

 

 言い切ると、サンジェニュインは深々と頭を下げる。

 その姿に、エアグルーヴは驚きを通り越して感心していた。

 レースや勝負事になれば真剣な表情を浮かべ真摯に取り組む、という側面は前回の模擬レースで骨身に染みたが、普段は『ふにゃり』という擬音が似合う表情を浮かべ、常にカネヒキリやラインクラフトらと戯れている姿を思い出せば、意外に思えても当然だった。

 

 これにはシンボリルドルフも満足げにひとつ頷いた。

 

「サンジェニュイン。お前が被害者であることは純然たる事実だ。本来なら配慮を受けるべき立場。これは私も、ここにいるエアグルーヴもそう認識している」

 

 そう、先にエアグルーヴが口にしたように、サンジェニュインは前提として被害者であった。

 食堂での注文品への異物混入、寮室への不法侵入、付きまとい、挙げればキリがないトラブルの数々。

 心身ともに被害を受けているサンジェニュインに対し、加害者の対処をしろと言うのは聞く者が聞けば酷なことだろう。

 だが、そうとも言っていてられない状態になってしまったから、サンジェニュインはここまで引きずり出された。

 

「被害者であるお前は、今、大きな視点から見ると『トラブルの中心点』だ。お前をきっかけにして起きるトラブルに枚挙の暇なく、それはお前だけでなく、第三者にすら被害が出始めた」

「……認識してます。騒音等でご迷惑をおかけしたチームには、担当トレーナーを通して謝罪を行いました。表立っては許して貰えたことになっていますが、そう単純な話じゃないってことくらい、オレにだってわかります」

 

 返答に満足したのか、シンボリルドルフはまたひとつ頷いて話を進めた。

 

「我々がお前の美貌に誑かされ、お前を贔屓にしているという風評被害も把握しているな」

 

 踏み込んだ言葉にも、サンジェニュインはためらわず頷いた。

 普通、疚しいことが何ひとつなくても、強い圧を受け続ければ一瞬の間くらいは生まれるものだ。

 だがサンジェニュインは何を聞かれるのか既にわかっているのか、それとも単に神経が図太いのか止まることはない。

 

「会長、副会長、並びに生徒会の皆様には、寮室の件で配慮してもらったのにご迷惑をおかけしてすみません!」

 

 サンジェニュインの寮室には特別な処理をしていた。

 通常2人部屋のところを1人部屋に変更し、隣の部屋には馴染みの深いカネヒキリを宛がっている。

 ふたりの部屋は内側に作られた扉で繋がれており、部屋から部屋へ移動可能になっていた。

 寮の外扉、窓にも特殊な処理を施したことで侵入者はぐっと減った、と数日前にサンジェニュインから報告があったばかりだ。

 無くなった、のではなく減った、というあたりがなんともサンジェニュインらしい。

 減ったとはいえ存在する侵入者は誰が対処したのか、思い浮かんだシルエットは1度スルーし、向き合うシンボリルドルフとサンジェニュインに再び視線を戻した。

 

「すべてお前の責任とは言えないだろうが、もはや責任を取らなくてもよい、と我々も言えなくなってしまった」

「トーゼンです。責任はきっちり取ります」

 

 今日だけでエアグルーヴは何度感心させられたのだろうか。

 まるでレースの時のような凛々しい表情を浮かべるサンジェニュインは、もしかするとエアグルーヴが思う以上に事の重大さを理解しているのかもしれない。

 サンジェニュインが入室してからずっと微笑みを崩さなかったシンボリルドルフは、すっと表情を消すと淡々とした声色で告げた。

 

「この度、生徒会主催で模擬レースを開催することにした。お前にはそこに参加してもらう」

 

 そしてエアグルーヴに渡した資料と同じものをサンジェニュインに手渡し、概要を軽く説明する。

 話を黙々と聞き、資料を隅から隅まで読み込むサンジェニュインを見つめ、エアグルーヴは静かに息を飲んだ。

 最後のページに書かれているのは、この模擬レースによって得られるものと、失うもの。

 

 だが ──……。

 

「レースの条件としては、サンジェニュイン、君に特別な報酬はない」

 

 その通りだ。むしろ逆でしかない。

 サンジェニュインが勝とうが、負けたほかの生徒が退学になるわけでもなければ、必ずしもトラブルが収まる保証もあるわけではない。

 それでもサンジェニュインはレースに出なければならないのだ。

 

 ……実を言うと、エアグルーヴとしてはほとんど満足だった。

 もしサンジェニュインが無自覚なままトラブルを引き起こしているのであれば、エアグルーヴの怒りはまっすぐに彼女に向かうだろう。

 だがそうではなかった。自覚していて、責任を感じていて、それを償おうとしている。

 トラブルを抑える道は険しいだろうが、本人に立ち向かう気概があると分かれば、退学を賭けた模擬レースを開催せずとも……そうエアグルーヴは口を開きかけて、しかしそれよりも早くサンジェニュインが応えた。

 

「レースの条件、すべてに異論ありません!」

 

 快活な笑みだった。

 晴れやかで、その後ろは単なる扉のはずが、そこから光が射し込んでいるかのような笑顔だった。

 

 『ウッ』という謎のうめき声がエアグルーヴの隣から聞こえた気がしたが、シンボリルドルフは真剣な表情を崩してはいない。

 きっと気のせい、いやそれよりもサンジェニュインの返事だ。

 エアグルーヴは焦りを抑え、サンジェニュインに聞き返した。

 

「異論なし、だと? サンジェニュイン、話は聞いていたか? 資料も読んだか? これは、つまり ──」

「オレが負けたらここを出ていく。……そういう認識ですけど間違ってますか?」

 

 エアグルーヴは言葉を詰まらせた。

 間違っていない。合っている。

 言葉を詰まらせた理由は、一切間違っていない認識をもって、サンジェニュインが『異論なし』と断じたことについてだった。

 

 これが認識齟齬に依って頷いているなら訂正のしようがあった。

 模擬レースに出走しない選択肢を提示できた。

 だがサンジェニュインの表情に揺らぎはなく、その瞳はエアグルーヴを捉えていた。

 

 なんだろうか、この威圧感は。

 腑抜けていて、トラブルの起点になり、身内の助力なくしては生きることすらままならない。

 心身ともに他者の助け無くしては立てないウマ娘。

 そんな、それまでサンジェニュインに抱いていた印象が捲られていく。

 こんな圧を常に出せるなら、周りに寄るウマ娘も減るのではないか、と考えて、それが出来ぬからこうなっていると思い直した。

 

  ── ああ、薄気味悪い。

 

 美しく、勇ましく、(たお)やかで、生きるために他者の献身を必要とし、それなのに叡智を秘めたような瞳をちらつかせる。

 ちぐはぐだった。それゆえに薄気味悪い、という言葉が浮かぶ。

 なんなのだ、こいつは。

 まるで多重人格のようじゃないか。

 光に透かしたガラスが様々な色を見せるように、サンジェニュインにはいくつもの側面があるように見え、エアグルーヴは無意識のうちに一歩、後退った。

 

「ところでお願いなんですけど。もしオレが2着に大差つけて勝ったら、レース後の5分間は何も聞かなかったことにして貰えませんか?」

 

 エアグルーヴの密やかな怯えや、シンボリルドルフの圧を感じ取ることなく、サンジェニュインは明るく言い放った。

 一拍おいてエアグルーヴが怪訝そうな表情を浮かべ、質問の意図を聞こうとすると、それを視線で制し、今度はシンボリルドルフが口を開く。

 

「それは何かトラブルを起こす、という宣言と受け取って良いのか?」

 

 冷ややかな視線とは裏腹に、その声色は楽し気だった。

 サンジェニュインは『そんなまさかあ』と軽口を返し、内緒話をするような声色で言葉を紡ぐ。

 

「トラブルをね、起こすんじゃないんです。起きてるトラブルに決着をつけたい、というか……んー、ぶっちゃけ、私怨っすね!」

 

 さらりと言い放ったサンジェニュインに、今度はシンボリルドルフも目を丸くした。

 へにょん、と眉を下げたサンジェニュインはそれに気づいていないようだ。

 

「オレ、自分のことを言われるのはどうでもいいんです。興味もないし。罵詈雑言を聞く時間あったらトレーニングしたいし」

 

 さらりと言い放つサンジェニュインの声色に、特別な温度感はない。

 カネヒキリに向ける甘えたな声や、シンボリルドルフに向ける尊敬の声や、エアグルーヴへの涙混じりの懇願の声に混じる、あの声色たちはどこへ行ったのか。

 ただ冷めた空気に音が乗り、それは真実、サンジェニュイン自体が興味を抱いていない何よりの証左だった。

 

 前から、このウマ娘にはこういう一面がある。

 興味のある・なしの落差がひどいのだ。

 

「あと自分の記憶の中に罵詈雑言とか残しておきたくないし。()()()()()()()んですけど。……でも、友達の悪口とか言われたら話は別だ」

 

 ふざけんな、と、心から思う。

 

 エアグルーヴはそこで初めて、サンジェニュインから怒りの感情を汲み取った。

 サンジェニュインが何かに怒っている姿はこれまでに何度か見たことがあったが、それらすべてが戯れで、友人との他愛ないコミュニケーションだったことを理解する。

 あくまでも『怒っている』というリアクション。

 『怒り』というエンターテイメント。

 だがこの怒りは本物だ。

 紛れもなく、戯れでも冗談でもなく。

 

「……お前、怒れたのか」とエアグルーヴが漏らしたのは、驚きからだった。

 

「えっ、バリバリ怒ってますけど……感情を理解できない悲しきモンスターじゃあるまいし……」

 

 半分くらい悲しきモンスターみたいなものだ、と思っていた本音を飲み込んで、エアグルーヴは内心唸った。

 

 幼稚に見えて見識はあり。

 鈍感に見えて鋭く。

 楽観的に見えて激情家。

 

 やはり多重人格だろう、コイツは、と痛む頭を押さえる。

 感情と興味の温度差が酷すぎるだろ、本当に。

 次に眉間を揉み込むと、サンジェニュインは『お疲れですか?』と心配そうにエアグルーヴを見つめた。

 半分、いや8割はサンジェニュインによる疲労なのだが、それを言っても何の解決にもならないことを、エアグルーヴはよくよく、知っていた。

 

「……念のために言っておくが、暴力は庇えないぞ」

「エッそんなすぐ手が出る蛮族だと思われてる……? やだ心外……」

 

 ふざけんな、と口にした辺りでは割と本気で手を出す気だっただろう、とツッコミ掛けてエアグルーヴは音を飲み込んだ。

 かわりにシンボリルドルフがサンジェニュインに尋ねる。

 では、何をするつもりなのか?

 

「殴る蹴るはもちろんしないです。蛮族じゃないし、オレの腕も脚も走るためにあるから。……でも、ノーリスクで他者にグーパン食らわせてハイ終わり、なんて都合の良い話なんてないじゃないすか。傷つけるからには、される覚悟があって当然だって思うわけです。レースに出るからには、負ける可能性もあるのと同じですよ。……だから、目には目を、歯には歯を。罵詈雑言には罵詈雑言が大正解だと思うんですよね!」

 

 何が『大正解だと思う』なのか。

 なんでもないことのように話す目の前のウマ娘が、エアグルーヴには別の生き物に思えた。

 だがシンボリルドルフは違うようだ。

 淡々としていた表情を綻ばせ、サンジェニュインとしっかりと視線を合わせて口を開いた。

 

「いいだろう。わざわざ『大差勝ち』を条件にするのだ。少しくらいは報いなくてはな。……5分間だけだ。その間は、我々はお前の口から出る言葉を聞かなかったことにする。だが、何事にも限度というものはある。わかるな? サンジェニュイン、お前は、()()()()()()んだな?」

「モチのロンです! 節度を守って罵倒しますし、責任は取りますよ。オレの走り、これから獲るトロフィーのすべて。踏み切った屍の頂点に立ち、勝ちを目指し続ける。それが、オレの責任の取り方です!」

 

 はははっ、とシンボリルドルフが大声で笑う。

 

「ならばよろしい」

 

 なにもよろしくはなかったが、エアグルーヴは疲労感からそれらをスルーした。

 

 

 

 

 

 

 あの生徒会室でのやりとりからしばらく。

 レース参加者は想定以上に早く決まり、トントン拍子でレース当日。

 

 模擬レースの会場は騒然としていた。

 押し寄せたウマ娘たちの動揺は広がり続け、それは言葉もなく狂乱に変わる。

 それを横目に見ながら、エアグルーヴはひっそりと冷や汗を拭った。

 

「圧倒的ね」

 

 ぽつりとつぶやいたのはマルゼンスキーだった。

 自身と似た脚質であるサンジェニュインに思うところがあったのか、それとも単純に興味を惹かれただけか。

 シンボリルドルフの旧友である彼女の真意をエアグルーヴが推し量るのは難しく、しかし放たれたその一言に異論はなかった。

 

 ただただ、圧倒的だった。

 その風格。その走り。そのすべて。

 

 へにゃり、と笑ったあのウマ娘と本当に同一人物なのか?

 ごくりと飲み込んだ唾は、喉を潤すことはなかった。

 

「……端から結果はわかっていたはずだった。おそらく多くのウマ娘が、我々と同じ気持ち、同じ考えに至っただろう。それでも、今日、この瞬間にすべてが決まった」

 

 笑いを噛み殺したシンボリルドルフがエアグルーヴに問う。

 何バ身差だったか。

 エアグルーヴは縺れる舌を噛まないよう、一拍おいてから答えた。

 

「20バ身差です」

 

 視界には膝に手を当て、荒く肩を上下させるウマ娘が15人。

 彼女たちの視線の先は空でも、大地でもなく、たったひとりのウマ娘に向けられていた。

 

「ん~! 気持ち良いほどの逃げ切りね! バッチグーだわ!」

 

 スーパーカーと称され、メイクデビュー後から圧倒的注目の最中にいた彼女の言葉は、それ以上に重く感じられる。

 楽しそうに笑うマルゼンスキーの隣で、何故かびしょ濡れのミスターシービーが拍手をしていた。

 シンボリルドルフはそれを横目に見て、脳裏である言葉を思い浮かべた。

 

『才能はいつも非常識だ』

 

 かつてミスターシービーに贈られた賛辞は、15対1の接戦になるだろう、という予想を根本から(ひるがえ)したサンジェニュインにも十分に当てはまる。

 そも、勝負にすらならなかった。

 マルゼンスキーを追いかけてきた数多のウマ娘の、その気迫の籠もった追走とはとうてい比べものにならない。

 これは恐ろしいウマ娘がやってきたものだ。

 翌年に控えるクラシックシーズンを思い、シンボリルドルフは興奮に震える身体を抑えた。

 

 素質のあるウマ娘がやってくると、いつもこうなる。

 どの程度強いか、どの程度走るか、その限界、その闘志の在処、その脚の征く先。

 長くターフに立ち、誰よりも強者と走り抜けてきた、走者としてのシンボリルドルフの身体は、本人の心よりも真実を知っている。

 この震えは怯えでは無い。

 走ることを求めている。

 強く在ることを望む誰かと、強く在ることを望む自分が。

 

「……さあ、行こう。私たちが行かねば、サンジェニュインの願いは叶えられない」

 

 ゴールしたほかの15人に何かを言い募られているサンジェニュインは、だが彼女たちを見てはいなかった。

 まっすぐと、ひたすらにまっすぐとシンボリルドルフを見つめている。

 その声なき声が聞こえた。

 早く、という声が。

 

 シンボリルドルフが歩き出すと道が割れた。

 その行く先を誰もが視線で追った。

 現役最強のウマ娘は、ターフの手前で足を止め、そして微笑む。

 それを合図にサンジェニュインは振り返り、そして、地獄が始まった。

 

 

 彼女たちとシンボリルドルフたちの距離はざっと100メートル。

 だがウマ娘の耳をもってすれば、それがどんなに小さな声でも拾える距離だった。

 冷え込む声に耳を傾けながら、エアグルーヴは内心安堵していた。

 あの距離ならスタンドにいるほかのウマ娘には聞こえまい。

 ぽつりと漏らした『よかった』という言葉は、絶望に彩られていく15人の表情もまた、スタンドから見えないことに対するものだった。

 

 一言、サンジェニュインから発せられるたびにひとり、堕ちていく。

 底のない絶望。

 淡々とした表情を浮かべるシンボリルドルフやマルゼンスキー、ミスターシービーの一歩後ろで、エアグルーヴは脳内の算盤を叩いた。

 15人の退学手続きにかかる時間は、はて、どれくらいになるだろうか?

 きっと、エアグルーヴがトラブルを対処する時間よりもはるかに短く済むだろう。

 そしてこれからもその時間はぐっと減る。

 

 エアグルーヴというウマ娘は母の影響もあって後進の育成に積極的だが、反面、努力を軽んじる者には容赦がなかった。

 いつか芽吹く花なら手間暇を惜しまないかわりに、腐った種ならば植えることはない。

 それに例えるなら、サンジェニュインは種の段階から虫の付きやすい大輪の花。

 世話をするのは多大な労力がいるが、その分だけ美しく咲くだろう。

 だが残り15人は花にすらなれない。

 いや、なることを自ら手放したのだ。

 

「残り1分ね」

 

 マルゼンスキーが楽し気に告げる。

 サンジェニュインの表情は逆光になっていてよく見えなかったが、マルゼンスキーの言葉に反応するように顔の角度を変えた。

 

 そうして現れた表情に ── 感情はなかった。

 

 すべてそぎ落とされたような無。

 レース中のサンジェニュインも似たような表情をすることはエアグルーヴも知っている。

 見たこともある。

 だがこれは別物だと瞬時に判断した。

 

 レース中のサンジェニュインの表情にほとんど感情はない。

 だがそれは『ほとんど』であって、まったくの無ではなかった。

 その瞳には炎が宿り、勝利を一途に求める執着心が、確かな感情になって表情に残っていた。

 だというのにこれはなんだ? 目の前のサンジェニュインはなんだ?

 エアグルーヴは胸の内に恐怖が巣くうのを感じた。

 

 しかし驚くことに、サンジェニュインが見せたそれらは瞬く間に消える。

 まるで夢だったかのように、サンジェニュインは温和な表情を浮かべ、身を掻き抱く15人に背を向けた。

 それはちょうど、ミスターシービーが持っていた時計のアラームが鳴るのと同じだった。

 

「約束の5分だ。……サンジェニュイン!」

 

 シンボリルドルフの声に反応してサンジェニュインは小走りで近寄ってきた。

 その表情はやっぱり柔らかく、満足そうに『ありがとうございました』とシンボリルドルフたちに告げる。

 あらっなんのこと? とわざとらしく口にしたマルゼンスキーに苦笑しつつ、シンボリルドルフは首を傾げて見せた。

 

「さて、なんのことだか……それより、ここに入れなかったメディアたちが出走者にインタビューをしたいそうだ。君たちも早くこちらへ」

 

 5分間の約束通り、シンボリルドルフは知らぬ存ぜぬを通した。

 それに倣うようにエアグルーヴも小さく頷き、『ウイニングラン代わりのインタビュー嫌だぁ!』と嫌そうなサンジェニュインの背中を押す。

 

「あいつらパシャパシャとフラッシュ焚いてくるんですよ! オレ、眩しいのほんとイヤでイヤで!」

「気持ちは痛いほどわかる。私もフラッシュは嫌いだ。焚かないよう通告してあるから、早く行って来い」

 

 エアグルーヴがフラッシュを嫌いになったのは、秋華賞へ出走したとき急にフラッシュを焚かれたから。

 それ以来、急に光るものが嫌いになった。

 なのでサンジェニュインの気持ちは理解できるのだが、それはそれ、これはこれだ。

 フラッシュが嫌いでも、エアグルーヴはインタビューを拒絶したことはなかったのだから。

 

「やだァ……フラッシュ以外にもアイツら、オレの顔のことしか聞かないんすよ……!」

 

 よほど嫌なのか、バタバタと駄々を捏ねるサンジェニュインを宥めるのは多大な労力を必要とする。

 ただでさえエアグルーヴやシンボリルドルフ、そしてこの場にいるどのウマ娘よりも背の高いサンジェニュインが暴れたら、制御できない。

 なので、最終的には見に来ていたカネヒキリを呼び寄せて引き渡し、マスメディアが待つ会見所へと運んでもらった。

 だがカネヒキリだけだとサンジェニュインの我儘を叶える可能性があるので、ラインクラフトを監視役につける。

 去り際のサンジェニュインが『ラインクラフトちゃん手配済みだとぉ!? こ、これは卑怯だ~! ヒィン!』などと叫んでいたが、それをスルーしたエアグルーヴは、いつまでも蹲っている15人のウマ娘たちに声を掛けた。

 

「……最後にトレーニングを受けたのはいつだ?」

 

 二度聞いても返答はなかった。

 だが、それが彼女たちの返答だった。

 

 エアグルーヴの手元には、今回のレースに参加したウマ娘たちの調書がある。

 どのトレーナーに管理されているか、どのようなトレーニングを受けたのか、座学の態度は、成績は、日常生活の様子は。

 様々な観点から調べ上げられたそれらは、16人分ある。

 

 その中でもサンジェニュインの調書は非常にわかりやすい。

 トレーナーの名は日野静。

 数々の名ウマ娘を育て上げた敏腕トレーナーの下で綿密なトレーニングを受け、座学の態度は比較的良好。

 理数系にやや難点はあるものの成績も極端に悪いわけではなく、努力の跡がみられる。

 日常生活ではトラブルも多いが、積極的に対処しようとしている。

 トレーニングは毎日行い、特に坂路を日に4本熟すこともある等、スタミナやパワーは同世代の中でも抜けた存在と言える。

 だが人目を避けてトレーニングしているため、これらの努力を知っている者は少ない。

 それが一部のウマ娘からサンジェニュインが低くみられる原因にもなっているのだろう。

 それにサンジェニュインが文句を言ったことはない。

 

『レースで走りを見てもらえれば、それが本物になるだけ』

 

 というのがサンジェニュインの言い分だった。

 

 対して残りの15人はどうか。

 それぞれ管理するトレーナーは異なる。

 だが共通点を挙げるとすれば、彼女たちは座学態度や成績こそ平均だが、トレーニングにおいてはその限りではない。

 飛びぬけて厳しいトレーニングを積んでいた、という意味ではなく、むしろその逆だった。

 

「大小に関係なく、貴様らにも美点はあった。だがそれらの芽を摘んだのも、貴様ら自身だ」

 

 どんなに才能豊かであっても、努力なくしては花開くことはない。

 花園がもとはたったひとつの種であり、水を与え雑草を抜き手間暇かけない限り芽吹かないように。

 

「なら……どうしたらよかったんですか。どうしたら、あんなバケモノに勝てるっていうんですか……ッ!?」

 

 15人のうちのひとりが叫んだ。

 レース後、サンジェニュインたちのもとへ辿り着く前に、サンジェニュインを激しく罵倒していたウマ娘だ。

 エアグルーヴはその娘を哀れに思った。

 彼女の名前はかつてシンボリルドルフが挙げた『今期注目のウマ娘』にあったことを、脳の隅で思い出す。

 だが彼女の名前は今、どこにもない。今後浮かぶこともないだろう。

 

「貴様にできることは、努力することだった。諦めぬことだった。貪欲でいることだった。……陰口に溺れ、蹲ることではなかった」

 

 本当に哀れだ。

 もしかしたらこのウマ娘は翌年、クラシックシーズンで花開いたかもしれない。

 今後ますます注目を浴びるだろうサンジェニュインやディープインパクトと共に、日本ダービーに行く未来もあったかもしれない。

 しかしそれらすべては絵空事になり、掴むことは不可能になった。

 ……いいや、不可能にしたのだ、彼女自身が。

 未だ憎悪に暗む目が、もし情熱に燃え盛っていたら、エアグルーヴが掛ける言葉も変わっただろう。

 

「2度は言わない。取材の時間が押している。早く行くように」

 

 彼女たちは重い足を引きずりながら、彼女たちに背を向けたサンジェニュインを目指して歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 インタビューは当然のようにサンジェニュインに集中した。

 メイクデビューが始まって2ヶ月が過ぎている中で開かれた異例の模擬レース。

 出走表には『千年にひとりの美少女ウマ娘』として知られるサンジェニュインの名前が載っているとあらば、赴かない理由など彼らにはない。

 飛び交う質問をさばいて1時間。

 これ以上は延ばせない、これで最後だ、という段階で、取材陣の後方から声が飛んだ。

 

「サンジェニュイン! 今、1番楽しみにしているレースは!? これだけは絶対に出たいレースは!?」

 

 それは1つではなく2つだ、とエアグルーヴが声を上げる前に、サンジェニュインがマイクを握った。

 そうして放たれた言葉が、15人のウマ娘に止めを刺し、エアグルーヴら生徒会にすら衝撃を与えた。

 

「凱旋門賞ですッ!」

 

 おそらく取材陣が期待していた回答ではなかっただろう。

 彼らが期待していた言葉はきっと『日本ダービー』だ。

 マルゼンスキーやオグリキャップが当時のルールで出走叶わず、ただ見上げるにとどまった一世一代の大舞台。

 だがそれらではなく、サンジェニュインは世界の大舞台を名指しした。

 

「楽しみにしているのも、絶対出たいと思ってるのも、凱旋門賞です! そりゃあダービーも出たいんですけどそこは楽しみ以前に『必然』というか……あ、あとガネー賞とサンクルー大賞典、キングジョージと、インターナショナルSと……あっ、あとドバイシーマクラシック! ここらへんは全部出たいです! ……いや、出ます!」

 

 パーッと花が咲くように笑ったサンジェニュインは、冗談でも、高望みしているわけでもなく、本気なのが見て取れた。

 後続に20バ身をつけて完勝したばかりとあって、それを茶化す記者も現れない。

 ただ曇りのない瞳と、晴れやかな表情を浮かべるサンジェニュインが周りを照らす。

 それと反するように、ほかの15人の絶望が色濃くなった。

 それが少しだけ恐ろしいと思いながらも、エアグルーヴは一切同情できなかった。

 見ている場所が違うこと。根本的に自分たちと違う存在であることを今更自覚しても、すべて遅いから。

 彼女の言葉をどれくらいの記者が本気だと受け取ったかわからないが、近い将来それらを叶える様がエアグルーヴの脳内に浮かんだ。

 それと同時に、いつの日だったかシンボリルドルフが語って聞かせてくれたことが、エアグルーヴの記憶の淵から蘇ってきた。

 

 

『エアグルーヴ。君は、サンジェニュインが恵まれていると思うか?』

『それは……はい。恵まれたウマ娘だと思います』

 

 エアグルーヴの正直な答えに、シンボリルドルフは同意して頷いた。

 サンジェニュインは日本有数のウマ娘専用リハビリテーションセンター・アキキタの出身だ。

 片手で足りるほど幼い頃からウマ娘のエキスパート集団に囲まれて育った彼女は、これまでケガとは無縁。

 高低差6メートルの洋芝コースを専用のトレーニング場として与えられ、学校には通わずひたすらトレーニングを積んできた。

 それによって得たスタミナ、パワー、天性のスピードにレース勘。

 どれも一流だ。並のウマ娘では得られない環境で生きてきた。

 

『彼女は恵まれている。だが、2千人以上が集うこの中央において、恵まれているだけのウマ娘はありふれている』

 

 そしてどんなに恵まれていても、花開かないウマ娘もまた、ありふれている。

 逆に、恵まれた環境になくとも自ら花を咲かせ、頂点に上るものだって存在するのだ。

 エアグルーヴの脳裏に、地方から転入したオグリキャップの逸話がよぎった。

 地方のトレセン学園が悪いとは思わない。

 だが残念なことに、今、中央と地方の間には純然たる差がある。設備ひとつとっても桁違いなのだ。

 そのギャップを埋めるのは並大抵の努力では足りないだろう。

 オグリキャップは天性の才能はもちろん、それ以上に努力家だったからこそ成し遂げられた。

 

 ウマ娘として活躍した母を持つエアグルーヴは、ウマ娘が成功するうえで環境は切っても切り離せない大切なものであり、良ければ良いほど好ましい、という考えを持っている。

 これが絶対であり、それ以外は正しくない、とはもちろん思わないが、それでも自分の中にこの考えがある。

 だが、シンボリルドルフが語ったようなことは起きる。

 その度にエアグルーヴは悩んだ。

 どれだけ良い環境を与えられ、それに相応しい才能を持っていようとも、花開かぬウマ娘のほうが圧倒的に多数という現状。

 大輪に至る者、咲いても枯れる者、そもそも咲かぬ者。

 一体何が違うと言うのか。

 ぽつりと尋ねたシンボリルドルフに、エアグルーヴは何も答えられなかった。

 

『何も難しい話じゃない。ただただ純粋に、【意識の高さ】だよ』

 

 多くのウマ娘はメイクデビューを目標としている。

 もちろんメイクデビューは大事だ、勝ち上がることに意味があり、それを目指すこと自体は悪くない。

 問題なのは、メイクデビューのことだけを考えることにある。

 

『私はな、エアグルーヴ。メイクデビューは通過点だった。もっとその先のことを考えてきた。君が母君の制した大舞台を目指してきたように』

 

 花開くものと芽吹かぬものの違いはその意識にある。

 どんなに才能を持っていようとも、花開くための努力と高い意識がなければ無駄だ。

 与えられた肥料は過剰栄養になり、やがて種を腐らせる。

 あの15人のように。

 

 

「会長の言っていた言葉の意味が、今になってわかりました」

 

 納得したつもりだった。

 でも心のどこかではきっと納得いっていなかった。

 恵まれた環境に在るならば、それに相応しい結果が出るものだと思っていた。

 だが、違うのだ。

 シンボリルドルフの言っていた通り、努力と意思なくしては芽吹くこともなく、花開くこともない。

 エアグルーヴの眼前でうなだれる15の種もまた、それを自覚したのだろう。

 だがやはり、遅すぎる自覚だった。

 

 

 

 

 

 

 季節は風のように過ぎた。

 あの模擬レースの後。

 サンジェニュインは変わらず多くのウマ娘の歓声を浴び、大名行列が尽きることはない。

 それではなんの効果もなかったのかと言うと、あるにはあった。

 

 まず、サンジェニュインのプライベートエリアに侵入するウマ娘はほとんどいなくなり、また、囲まれることも少なくなった。

 大名行列もサンジェニュインからだいぶ距離を取って形成されている。

 彼女が『離れて』と口にすれば、すぐ解散するほど弁えるようにもなった。

 ……まあサンジェニュインの性格や表情のコミカルさが隠しきれず、言ってもまたワラワラと人が寄ってくる現状には変わりはない。

 少し頻度がマシになったレベルといえばそれまでだが、口に出しても無駄だった以前と比べれば格段の成長ぶりである。

 しばらく経った今も生徒会室の目安箱にクレームが入っていないのが、その証明と言えた。

 それに、あの模擬レースに出走していた残りの15人はいずれもサンジェニュインに対して不満を持つ生徒の筆頭だったようで、彼女たちが自主退学や転校をしたことで煽る者もなくなりトレセン学園に平穏が戻った。

 これにはサンジェニュインのみならず、そのトラブルがあれば駆けつけなくてはならないエアグルーヴの、その負担も軽くしてくれた。

 

 15人の行く末はあえて追わなかったが、ひとりだけ。

 『どうやったらあのバケモノに勝てるのか』と泣いたひとりだけは、地方のトレセン学園に転入し、ローカルレースで走っていることを確認している。

 あの模擬レースよりも何十倍も走りが研ぎ澄まされ、本人も活き活きとした表情で駆け抜けていたのを思い出して、エアグルーヴは苦笑した。

 聞けばサンジェニュインの元に彼女から手紙が来たらしい。

 これまでの態度を詫びる内容と共に、ローカルレースで自分らしい花を咲かせようという意気込みが書かれていた、と。

 あの出来事がなければ彼女も中央で活躍できていたかもしれない……そんな夢想は、楽しそうな彼女を見て以来やめた。

 彼女の種は確かに1度腐ったが、新しい畑で新しい種を蒔き、今、芽吹かせようとしている。

 その努力に、タラレバはもはや不要だった。

 

「たっだいま戻りましたー!」

 

 どん、と扉が開いて白髪のウマ娘が飛び込んでくる。サンジェニュインだ。

 昨日までフランスにいた彼女は、シーズンオフの名目で帰国していた。

 手にある大量のショッパーはいずれも有名ブランドのもので、生徒会へのお土産用に買ったのだろう。

 るんるんと鼻唄でも歌いそうなくらい上機嫌なサンジェニュインは、まさか、褒められるとでも思っているのだろうか。

 エアグルーヴは青筋を立て、その振る舞いを叱りつけた。

 

「お前というヤツは……! ノックなしに部屋に入るなと何度教えれば覚えるんだ……!?」

「す"ひ"は"へ"ん"ん"……!」

 

 サンジェニュインを正座をさせるのも慣れたものだ。

 半泣きで謝るサンジェニュインを見下ろしながら、エアグルーヴは『本当に時が経つのは早いものだ』と、改めて過去を振り返った。

 

 模擬レースから数ヶ月後。

 サンジェニュインは暮れのメイクデビューで2着に敗れた。

 あの模擬レースで20バ身差を突きつけたウマ娘が敗北するなど、普通なら想像できないだろう。

 だが相手が悪かった。

 よりによって ── ディープインパクト。

 

 サンジェニュインとディープインパクトは同じチーム所属だ。

 日野静トレーナーが管理するチーム・メテオ。

 有力なウマ娘が多く所属していることで知られるメテオの中で、ディープインパクトもまた異彩を放つ存在だった。

 国内の大財閥の出身であることもそうだが、母もまた活躍したウマ娘だったこともあり、早い段階から注目を浴びていたのだ。

 Rookie Knowledge, Stats, and Talent ── 通称『RKST』と呼ばれるポイントは7000ptに達する高評価。

 一方のサンジェニュインはと言えばどうか。

 アイドル路線としては爆発的な人気だったが、実家であるアキキタからはここ十数年活躍しているウマ娘もなく、RKSTポイントは推定2000ほど。

 だが模擬レースで見せつけた実力から、メイクデビューも楽勝だろうと思われていた。

 

 実力が拮抗しているふたりを併走させたら互いを消耗させてしまう。

 そう考え、トレーナー陣もメイクデビューで当てるつもりがなかったそうだ。

 だがどういうわけか、サンジェニュイン本人がディープインパクトと共にデビューすることを望んだ。

 こうでなくてはならない、こうであってしかるべき、と。気迫の籠もったソレに押され、トレーナーは渋々応じたらしい。

 

 その結果が1着・ディープインパクト、2着・サンジェニュイン。

 しかしハナ差8センチの接戦は、久しく盛り上がりに欠けていたトゥインクル・シリーズを華やかにした。

 ふたりは翌年のクラシックシーズンでも活躍。

 前代未聞、至上初のG1・皐月賞同着。

 日本ダービーでは1センチの接戦をディープインパクトが制し、菊花賞ではワールドレコードを引っ提げたサンジェニュインが勝利を収めた。

 

 その年の暮れ、有マ記念も制したサンジェニュインは、模擬レースでの予告通り、翌春にドバイSCへと出走。

 ここをチーム・メテオでの先輩にあたるハーツクライに敗れるも、サンジェニュインの快進撃はそこから始まった。

 同じく予告していたガネー賞、サンクルー大賞典、KGVI&QES、インターナショナルS、そして ── 凱旋門賞。

 もはや誰にも止められないスピードを一切緩めること無く、欧州G1・5連勝を達成したサンジェニュインは、今や世界が認める一流のウマ娘になっていた。

 

 ……だが性格はどうしようもない。

 そして勉学の成績もどうしようもないものだ、とエアグルーヴは頭を抱える。

 その手に握られていた小テストの点数は15点。

 100点満点中の15点に、エアグルーヴの意識は遠くなりそうだった。

 

「なんなんだこの点数は……ッ!」

 

 目を泳がせるサンジェニュインの旋毛を押して、エアグルーヴは翌日の補習について脳内でスケジュールを組む。

 こんなことをするようになったのは一体いつからだったか。

 思い返すのは夏の終わり。まだ少しだけ蒸し暑く、しかし秋の訪れがすぐそこにあった頃。

 そう、サンジェニュインが1回目の凱旋門賞に出走した後のことだ。

 帰国と同時に定期テストが行われ、そこでサンジェニュインが出走停止レベルの点数を出したことがきっかけだった。

 挑戦し続けて数十年目。ようやく誕生した我が国の凱旋門賞ウマ娘がこんなぽんこつなんて!

 その当時既に生徒会の一員になっていたサンジェニュインを身内同然と思っていたことも相まって、エアグルーヴは監督役を引き受けることにした。

 

 補習の面倒を見てやったのも一度や二度ではない。

 幸いなことにサンジェニュインはぽんこつだがスポンジのようなもので、教えればしっかりと覚えた。

 ここ最近は小テストや定期テストでも赤点は取らなくなったというのに……凱旋門賞2連覇を目指した長期の欧州遠征の影響か。

 

「サンジェニュイン、明日から毎日2時間は補習だからな」

 

 エアグルーヴの無慈悲な決定にサンジェニュインが小さく()く。

 

「そんなぁ……おやつの時間はありますか?」

 

 あるわけないだろこの戯けめ、とその旋毛を押し返した。

 悲鳴をあげているくせに、なんだ、その楽しそうな表情は。

 まったく、自分の立場がわかっていないのだろうか、このぽんこつ凱旋門賞ウマ娘。

 

「……貴様のそう言うところが、私は嫌いだ」

 

 旋毛を押す力を強めるエアグルーヴは、自分がどんな表情を浮かべているのか、まったく気づいていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「オレ、今シーズンで引退することにしました」

 

 良く晴れた日のことだった。

 いつも通りの生徒会室。部屋奥の会長席で書類に目を通すシンボリルドルフと、備品整理をしているエアグルーヴ。

 戸棚に収まった過去の資料を探すナリタブライアンの近くで、ディープインパクトがもくもくと書類に判を押していた。

 そんな静かな空間で、水面を揺らすようにサンジェニュインが口を開く。

 あまりにも軽く、重みも哀愁も感じないさらりとしたセリフに、シンボリルドルフも目を丸く開いて手を止めた。

 

「ずいぶん急だな。てっきり凱旋門賞3連覇する、なんて言い出すと思っていたんだが」

 

 少しからかうような返答に、サンジェニュインは真剣な表情で「それも考えたんすけどねー」と宣う。

 これは冗談でも何でも無く本気だ。

 サンジェニュインは本気で3連覇も視野にいれていたのだろう。

 気軽に言ってくれるな、このウマ娘は。シンボリルドルフは内心で苦笑し、(かぶり)を振った。

 本人的には気軽でもなんでもないのだろう。ただしたいことをする、シンプルな()だと理解していた。

 

 しかしさしものシンボリルドルフも、「ちなみにディープインパクトも引退です」と続けたサンジェニュインには驚愕した。

 さらっと言うことでも無いし、ディープインパクトも「そうだった言い忘れてた」みたいな顔をするな。

 口を噤んだエアグルーヴの内心だけが雄弁である。

 

「君たちが揃って引退とは……故障か?」

「いや、オレもディープインパクトも健康体です。ピンピンもピンピンですよ。こいつの理由は、まあ知りませんけど、オレは……オレはなんとなく、今かなって」

 

 朧げながらそんな気がしたんですよねえ、とサンジェニュインがへらりと笑う。

 そんな感覚だけで進退を決めるな。

 口に出そうになって、だがエアグルーヴは止めた。

 浮かべた表情とは裏腹に、眼前にあるサンジェニュインの瞳はどこまでも本気だったからだ。

 少なくとも、気まぐれでも、勢いでも、考えなしに決断したわけでもないのだろう。

 

「正式な引退はいつ頃になる?」

「んん、年末、いや来春、ですかね……夏にやるロイヤルカップと、春のトライアルレースと、後は ──」

 

 きらり、とサンジェニュインの瞳に光が走った。

 

「URAファイナルズで()()()です」

 

 サンジェニュイン、ディープインパクト共に目標部門は長距離。

 これはシンボリルドルフの出走予定と同じだ。

 もっとも、シンボリルドルフは今年に入ってからチーム・リギルを抜け、サブトレーナーとして共に歩んできたヒトと独立済み。

 所属が変わった今、出走予定も変更になる可能性もあるが、それがなければURAはさらに豪華なメンバーになるのだろう。

 エアグルーヴは他人事のようにそう思った。

 

「ということで! 残り1年ちょっとですが、引き続きよろしくお願いします!」

「……ます」

 

 ぴたりと揃って下げられた頭を見つめる。

 白と黒。太陽と衝撃。逃亡者と追跡者。

 レースに出れば何かと張り合い、勝った負けたを繰り返すふたり。

 日常生活ではやたらとくっつきたがるディープインパクトと、それから逃げるサンジェニュインの構図で知られているが、実はそれほど仲が悪いわけではない。

 特別気が合うわけでもないが、根が負けず嫌いなふたりは、どこか似ていた。

 レースに関する飽くなき探究心と、トレーナーへの信頼。

 目指す高みへの意識の持ちようなど、互いの親友よりも互いの諦めの悪さを熟知している。

 噛み合わないようで、最初からずっと噛み合っているようなふたりだった。

 

 エアグルーヴの胸中は少しだけ荒れていた。

 もうサンジェニュインのトラブル対処をしなくても良いのだ、という安堵だけを感じていたかったのに。

 不思議と湧き上がった不安の正体はなんだろうか。

 寂しさ? 悲しさ? そんなまさか。

 

「ああ……お前を世の中に解き放つのが不安だな」

「なんでえ!?」

 

 サンジェニュインは警戒心が高い。

 ウマ娘相手ならば決して油断はしない。

 だが人間相手だとそうでもない。

 人間に負けない、後れを取らない自負があるからか?

 種族的優位によるものか。

 定かではないが、ただひとつ言えることは、サンジェニュインは人間に甘い。

 その甘さがいつか命取りにならないか。

 ……不安の正体はきっと、これだ。

 エアグルーヴはそう思って、書き損じた書類を密かに処分した。

 

 

 

 

 

 

 

 時は瞬く間にすぎる。

 サンジェニュインとディープインパクトのURAファイナルズからさらに幾月か後。

 

「うっ、うっ……ぐずっ……」

 

 そのウマ娘をエアグルーヴが見つけたのは、まったくの偶然だった。

 

 顎の下まで伸びたクセのある白髪。

 色だけなら見慣れたものだが、そのウマ娘はエアグルーヴのよく知るウマ娘とは少し違う。

 

「シルバータイム。こんなところで何をしているんだ」

 

 エアグルーヴに名前を呼ばれて、ウマ娘 ── シルバータイムは顔を上げた。

 瞳の色は青。

 でもサンジェニュインに比べてより濃く、深海を思わせる色合いで、少しだけつり目気味に見えた。

 このウマ娘は数多いるサンジェニュインの妹分のうちひとり。

 とっても努力家で頑張り屋で、まっすぐ走るウマ娘。

 いつのことだったか、そう紹介されたのを思い出して、エアグルーヴは屈んだ。

 

 季節は秋。

 クラシックシーズンを終えたばかりのトレセン学園は熱気冷めやらぬまま、だが次の舞台に向けて動き出していた。

 シルバータイムはその時間の流れに抗うように蹲り、嗚咽を漏らし、あたりに散らばったナニカをかき集めている。

 ソレはきっと『期待』だった。

 

 シルバータイムというウマ娘は、約1億のRKSTポイントを叩き出したウマ娘として今や知らぬ者は居ないほど有名だった。

 『我が国の太陽』とまで呼ばれたサンジェニュインの妹分として、早くから多くの期待を集めていたことを知っている。

 姉が歩んだ道程を望まれ、それより素晴らしくあることを見込まれ、そうあるべきプライドを積み重ねてきた。

 だが期待に反して、彼女のクラシック戦績は皐月賞7着、日本ダービー11着、菊花賞9着。

 驚くことに、この3戦すべてでシルバータイムは3番人気に推されていた。

 皐月賞はともかく、日本ダービー、菊花賞は前走の勝者を差し置いての人気だから、その期待値の高さが窺えるだろう。

 シルバータイムもまた、その期待に応えんと日々トレーニングに励んでいたはずだ。

 

 自分という種を芽吹かせるため、手間暇掛けて自分を育てているのをエアグルーヴも見ていた。

 ポスト・サンジェニュインとしてデビュー前から注目を浴び、前年三冠ウマ娘になった姉たちに追いつこうと必死の努力を重ねて。

 しかし、その果ての全敗が堪えたのだろう。

 ターフでは泣かずにいたことが、彼女に残されたたったひとつのプライドだったのかもしれない。

 

「お、おね、おねえしゃま、にも、ひぐ……うっ、うっ……みす、みすて……っ」

 

 肩が丸くなる。呻きとともに揺れる。

 深い悲しみと失望と悔しさと、恐怖の合間にぐらりと揺れ続けている。

 姉を絶対の指針として走り続ける彼女たちにとって、その指針から外れることの怖さは、きっとエアグルーヴには理解できない。

 しかし一つだけわかることがある。

 下手をすればこの妹分よりもなお深く、強くわかることが。

 

 サンジェニュインは。

 

 「サンジェニュインは、妹分を見捨てるようなウマ娘なのか?」

 

 バッとシルバータイムの顔が上り、涙に暮れた表情のまま勢いよく頭を振った。

 言葉にならない唇の戦慄きが、違う、と繰り返す。

 そう、違う。

 サンジェニュインは、何があったとしても妹分を見捨てるようなウマ娘ではない。

 

「レースで……お前は必死に走ったのだろう。努力した上での敗北を笑う者は、ここにも、どこにもいない」

 

 厳しいことならきっともっと言えた。

 だが、何故かこのウマ娘に運命的な何かを感じて、どうにも厳しくできないのだと、エアグルーヴ本人が理解している。

 どこか懐かしく思う。

 ここではない遠くの場所でこの娘の手を握り、歩いたような、そんな錯覚がある。

 サンジェニュインとは違うおとなしさや従順さが好ましいのかも知れない。

 自身とは違うが、両目にアイシャドウを入れているという共通点も、エアグルーヴがシルバータイムを放っておけない理由なのかも知れない。

 ただ、どうにも寄り添いたくなるような、見守りたくなるようなウマ娘だった。

 

 エアグルーヴは大粒の涙を溜め込んだ瞳と目を合わせる。

 瞬きの後にこぼれ落ちるだろうそれを拭って、気持ちを込めた。

 

「ここで走るのをやめるか?」

 

 落ち着いて、でも温かい声で聞くエアグルーヴに、シルバータイムは首を横に振った。

 強く、強く振った。

 

「ま、だ……叶えたい、夢が、あるんです」

 

 今度は自分自身で涙を拭いながら、一杯一杯の声で続けたシルバータイムの、まだ震える背を撫でる。

 エアグルーヴは微笑んだ。

 

「ならそれを目指していけば良い。お前はサンジェニュインではなく、シルバータイムという個人なのだから」

 

 自分なりの目標を、そしてゴールを探せ。

 

 シルバータイムは涙を止め、エアグルーヴの手を見つめていた。

 走者らしく少し指先の硬い、けれど細く繊細な指先が、シルバータイムの拳をそっと開いた。

 その手のひらに添えられたものを、シルバータイムは不思議そうに眺めてから、再びエアグルーヴを見上げた。

 

 それはしおりだった。

 かつてサンジェニュインから贈られたもの。

 いつも面倒をみてくれてありがとうございます、なんて、しおらしい態度で手渡されたそれは、サンジェニュインのお手製だという。

 ひまわりのドライフラワーを使った、天下にふたつとないものだ。

 ドライフラワーなのに生花のように色鮮やかで、密かに愛用していた。こうして持ち運んでいるのが何よりの証拠だった。

 

「これをお前に貸そう。……あくまで貸すだけだぞ? お前が、もういらないと思ったら返しに来い。それまで大事に使ってくれ」

 

 エアグルーヴの言葉に、希望とともにしおりを握り込んだシルバータイムが立ち上がる。

 そうして浮かべられた微笑みは ── エアグルーヴに似ていた。

 

 

 この1ヶ月後、シルバータイムはジャパンカップで3着と好走した。

 姉がその現役生活で一度も走らなかった大レースを、低人気ながら必死に逃げ粘ったのだ。

 その翌春。

 シルバータイムの姿は遠い遠い異国の大地、大歓声を前に堂々とした様子でそこにあった。

 手にしたトロフィーが光を反射する。

 凱旋門賞を2連覇したサンジェニュインが2度も挑戦し、それでも獲得不可能だったドバイのG1タイトル。

 同世代のトリプルティアラ覇者を押し込んで、逃げて差す見事な走り。

 顔をあげ、太陽を見上げたそのウマ娘の表情に、もう、涙の跡はない。

 

 画面越しに見届けたエアグルーヴは確信した。

 おそらく近いうちに、しおりが返ってくることを。

 

 

 

 

 

 

 

 シルバータイムの吉報から1月後。

 サンジェニュインとディープインパクトはいよいよ退寮の時を迎えていた。

 

「サンジェニュインちゃんなんスかこの服!?」

「それは……一昨年のヴァーミリアンの誕生日に着たコスプレ衣装、かなあ……綾◯レイの……」

「……まだ着るっスか?」

「いや流石に……う~ん、妹分に送るか。シルバー着るかな」

「やめたげて!?」

 

 一昨日、サンジェニュインの部屋の近くを通った時、ラインクラフトの悲鳴を聞いた。

 走りも行動も性格も、派手なウマ娘が多いチームメテオの中にあって、ラインクラフトは比較的常識人だ。

 それゆえかサンジェニュインに振り回されていることも多いようだが、なにくれとサンジェニュインを上手くフォローしている。

 ラインクラフトがいるなら退寮準備も問題ないな、とエアグルーヴは安堵の息を吐いた。

 

 そもそもサンジェニュインとディープインパクトの退寮は前年の予定だった。

 URAファイナルズ終了後に行うはずが、やれ諸々の手続きがあるだの、卒業後のライセンスだの、イベントだので結局1年近く掛かった。

 だがそれらもようやく終わり、ふたりは揃って学園から出る。

 今日はその前日だったはずだ。

 

「だというのに、何故……なぜ退寮前日までに荷作りが終わってないんだ貴様は……!」

「ヒィ〜ンッ! 寮に()()の荷物持ち込んでたから退()()が大変で……アッ今の激ウマギャグです。あとで会長にも教えに行こーっと」

「はあ……前から思っていたのだが、お前と会長のそのやりとりはなんなのだ、一体……」

 

 どこからかやる気が下がる音を聞きながら、エアグルーヴは適宜サンジェニュインを叱りつけつつ荷物をまとめていた。

 いつもならサンジェニュインの側にいるカネヒキリたちチームメテオの姿はない。

 当のカネヒキリは車中でサンジェニュインが食べる軽食の準備中だし、ラインクラフトとシーザリオは迎えの車の手配をしているらしい。

 ヴァーミリアンはディープインパクトの荷運びを手伝っているそうで、それにオルフェーヴルも駆り出されているという。

 まさかサンジェニュインのみならずディープインパクトも済んでいなかったとは。

 エアグルーヴは頭を抱えた。

 やはり、なんだかんだで似たもの同士なのだ、このふたりは。

 言えばきっとサンジェニュインは認めないだろうが、ディープインパクトは嬉しそうに頷いてくれるだろう。

 そう思いながらも、エアグルーヴは黙々と仕分けを手伝っていた。

 

 そんなエアグルーヴを怒っていると勘違いしたのか、あと段ボールひと箱だけですよぉ、とサンジェニュインが小さな声で呟いた。

 

「段ボールひと箱だけなら昨日のうちに詰められただろう、まったく……」

「いやぁ……そうなんすけど。でも段ボール1個分残したら、エアグルーヴ先輩、絶対一緒にやってくれるじゃないっすか。だから残しておきました!」

 

 ハァ? と低い声がエアグルーヴから飛び出る。

 しまった、と表情を浮かべたサンジェニュインがびくりと肩を振るわせた。

 

「貴様ァ……最初から私にやらせる気だったのか……?」

「ちょちょちょっ、たんまたんま、タンマで! 違います、違いますーっ! こっ、これはですね! こうでもしないとエアグルーヴ先輩捕まらないなって、そう思ってぇ!!」

 

 怒気を放っていたエアグルーヴは、サンジェニュインのその言葉に不思議そうに首を傾げた。

 ずぴぃ、と鼻水を拭ったサンジェニュインは伺うようにこちらを見ている。

 無言で「弁解できるものならしてみろ」と促したエアグルーヴへの返事代わりか、サンジェニュインは鼻をすんすんと鳴らす。

 しばらくすると照れ臭そうに頬を掻いて、少し視線を彷徨わせた後に「だって……」と話し始めた。

 

「だって、だってエアグルーヴ先輩……オレのこと、避けてたじゃないっすかあ……」

 

 ひぃん、と言葉尻が情けなく緩む。

 

 避けてない、と返すエアグルーヴだったが、その声は少しだけ裏返っていた。

 なぜならサンジェニュインの言うこともあながち間違ってはいないから。

 実はふたりはここ1ヶ月、まったく顔を合わせてなかった。

 それこそ、サンジェニュインが避けられていると思うほど。

 

「オレ、最後だからちゃんとお礼言いたくて」

 

 半泣きのサンジェニュインがそう言って後ろを向いた。

 ダンボールの山から1つ、白い箱を手繰り寄せて中を開く。

 その儚げな見た目とは真逆にガサツなところもあるサンジェニュインが、そっと、そっと大事に取り出したのは ── 蝶の標本だった。

 

「エアグルーヴ先輩、虫、苦手だって聞いたからずっと渡せなくて。でも会長に相談したら『きっと大丈夫』だって言われたんですけど……ほ、ほんとに大丈夫ですか?」

 

 確かにエアグルーヴは虫が嫌いだった。

 唯一てんとう虫だけが例外。

 それをサンジェニュインが知っているとは思わず、エアグルーヴは首を緩く縦に振るので精一杯で。

 

「……これ、は、いつ、作ったん、だ?」

 

 声が震えた。

 ぐ、っと喉を抑え、揺らぐ瞳はサンジェニュインから逸れていた。

 

「んん、と、去年の夏に……あっ、でもちゃんと処理してあるんで! 綺麗だし、他の虫が湧くこともないので! 観賞用にしてもらえたらなあ! って、おも、って……です、ね……」

 

 もじもじとサンジェニュインが両手を擦り合わせる。

 普段はデリカシー迷子の極太神経を持っていながら、こういう時は繊細な一面を覗かせた。

 

 一方のエアグルーヴは、息をするのも忘れて標本に見入っていた。

 

 サンジェニュインの手先が器用なのは、貰った押し花のしおりで知っている。

 あの鮮やかなひまわりの美しいしおり。

 花に詳しく、花を生業にしている知り合いに見せたとき、プロレベルの腕前だと絶賛された瞬間なんて、エアグルーヴは少し誇らしかった。

 それと同時に、何故か目が熱くて仕方がない。

 まるで泣き出す一歩手前のような酷い熱だ。

 水気を帯びた呼吸音の隙間から上ってくる、激情のような。

 

「エアグルーヴ先輩、たくさん面倒をかけてしまってごめんなさい。それから、オレのこと見守っていてくれて、ありがとうございました……!」

 

 白い頭の旋毛(つむじ)を見るのはこれで何回目だろうか。

 エアグルーヴとサンジェニュインは10センチ以上も身長差があるから、立ったままそのてっぺんを見る回数は少なかった。

 ときたまサンジェニュインが悪さをして、説教するために正座をさせたときにだけその旋毛が見える。

 ふわふわの髪の毛のうちちょびっと丸まった場所を、とん、と押して叱っていた。

 

 これからはその機会も皆無になる。

 そう思ったら自然と手が伸び、エアグルーヴはサンジェニュインの頭を撫でていた。

 乱雑に、ではなく、乗せるだけのような、手のひらをぐっと開いて触れた。

 自分でもなぜこのような行動に出たのかわからない。

 ただ最後だと思ったら、こうしなければならないような気がした。

 サンジェニュインは特に何を言うでもなく、おとなしく撫でられている。

 でも時折そっとエアグルーヴの表情を見て、まぶしいものを見るように目を細めた。

 それを合図代わりに手を放し、エアグルーヴは、何もなかったように荷造りを再開した。

 

 

「エアグルーヴ先輩、これで最後です」

 

 段ボールに最後の荷物をつめた。

 これで終わりだ。これで。

 エアグルーヴの役目は終わった。

 

「あの、先輩、明日なんですけど ──」

「明日は役員の仕事があるので見に行くことはできない。だから、お前とはこれが最後だ」

 

 嘘だ。

 エアグルーヴに明日の予定などない。

 しかし、エアグルーヴはサンジェニュインの見送りには参加しないつもりだったから、こんなどうしようもない嘘をついた。

 シンボリルドルフに聞かれたらバレる嘘を。

 それに対してサンジェニュインは反論するでも無く、駄々を捏ねるでも無く、ただ小さく、小さく頷いた。

 

「……食事はきちんと取れよ。夜更かしせず、規則正しい生活を送れ」

 

 こんなこと言わなくても、サンジェニュインが規則正しい生活を送ってきたことなど知っている。

 夜更かし好きそうな性格のくせに、毎日決まった時間に寝て、決まった時間に起きて。

 トレーニングコースが開場するよりも前からゲート前に並び、誰よりも早く練習を始める。

 人がまばらな時間にやるから、誰もこのウマ娘がとんでもない練習量を熟していることなど知らないのだ。

 

「好きなものばかり食べるな。健康に良いものは、なるべく食べろ」

 

 今更、もう必要ない小言を吐いて。

 うん、とサンジェニュインが頷く。

 トレセン学園から旅立つサンジェニュインは、もうエアグルーヴの後輩ではなくなるのに。

 それなのにどうしてか。

 言葉が止まらなかった。

 

「わたし、は……」

 

 言いたいことはない。

 もう、ないはずだった。

 それなのに喉元まで上がってきていた。

 不思議なくらい眼前が揺らぎ、水たまりの中に落ちたような感覚の熱が、エアグルーヴを包む。

 言いたいことはない。

 言いたくない。なのに。

 

「『()()()()()()()()』」

 

 ハッとして、エアグルーヴは顔をあげた。

 

 力強い声が一瞬だけ低く聞こえた。

 少女とは違う声色で、でも目の前にはサンジェニュインしかいない。

 だがその低い声色もまた、エアグルーヴには聞き覚えがあるような気がしていた。

 どこで聞いたんだったか。

 思い出せはしないけど、とても大切な記憶だった気がする。

 

「わたし、は……私、は。おまえが、きらいだ」

 

 涙は出なかった。

 だけど、嗚咽のような何かがずっと響いている。

 エアグルーヴはそれらを抑えながら、そして懸命に言葉を選びながら吐き出した。

 嫌いだと言われて、でもサンジェニュインは泣かなかった。

 ただ小さく頷いて、「オレは好きですけどね」と淡々とつなげた。

 でも、言葉の端だけ揺れていた。

 

「トラブル、ばかり、おこすし……小テスト、で、一桁点数、出す、し……」

 

 かけられた迷惑は枚挙に暇なし。

 思い出そうと思えばいくらでも出せた、嫌いなところなんて。

 それこそ本気で嫌だったものだって出せるはずなのに、他愛もない場面ほど先に浮かぶのはなぜなのか。

 浮かんで、消えて、また浮かんで。

 結局残るのは笑顔だけだったと、その時になってエアグルーヴは気づいた。

 

 

 

 

 

 

 サンジェニュインの見送りへ行くチーム・スピカにエアグルーヴが出会ったのはまったくの偶然だった。

 どれほどサンジェニュインが素晴らしいウマ娘なのかを力説する彼女たちに、エアグルーヴが言い放った言葉が冒頭の台詞。

 嫌い発言で呆然としていたスピカの面々は、エアグルーヴが歩き出したことで意識を取り戻したのか、慌てたように走り出した。

 だがただひとり、シルバータイムだけが立ち止まった。

 エアグルーヴの背中とスピカの面々とを見比べて数秒。

 何かを決心したのか、シルバータイムはエアグルーヴに向かって走り出すと、小さくなっていく背中を捉えた。

 

「お節介なのは解ってるんですけど! 最後はきっちり顔見せて手を振ったほうが良いです!」

 

 ふたりの身長差は6センチ程度。デカいのはシルバータイム。

 姉譲りの瞬発力を持って一息でエアグルーヴを担ぎ上げると、シルバータイムはそのまま走り出した。

 ああ、シルバータイムとサンジェニュインは似てないと思っていたのに。

 強引でマイペースなところはよく似ていると、エアグルーヴは諦めた。

 

 

 桜が舞う中を突き進む。

 シルバータイムの少し早い鼓動と息の終着点に光があった。

 

「お姉様! お待ちください!」

 

 サンジェニュインは車に乗り込む寸前だった。

 それを引き留めたシルバータイムの声に、見送りに来ていた面々が驚きに目を見開く。

 ゴールドシップと居るときはそれこそやかましさの塊だったシルバータイムも、偉大なる姉の前ではいつも大人しい妹だった。

 サンジェニュインの前でこんなに大きな声を出すところは初めて見た、と呟いたのは誰だったか。

 サンジェニュインは手荷物だけを車に積み込むと、シルバータイムの方へと歩み寄った。

 そこにきてようやく、シルバータイムがエアグルーヴを担いでいることに気づいたのか、エッと声が挙る。

 

「なんで……生徒会の仕事があったんじゃ……」

 

 そうだ、そう言い訳をしていた。

 エアグルーヴが『嘘を吐いた』と正直に言えないのは、その場に会長であるシンボリルドルフがいたからだ。

 だが幸いな事にシンボリルドルフは察しの良いウマ娘で、咄嗟に『別日に変更したんだ』とフォローを入れてくれた。

 エアグルーヴが目礼すると、悪戯っぽくシンボリルドルフが笑う。

 きっと後でからかわれるだろう。

 

 だが、今はどうでもよかった。

 

「みんな見送りに来てくれてうれしい」

 

 エアグルーヴを中心に周りを見たサンジェニュインが、そう微笑んで呟いた。

 辺りを見ればチーム・メテオの他にも、スピカやリギルを始めとした、サンジェニュインとも親交のある面々が集まっている。

 人見知りも激しいくせに、ヘンに人脈が広い。

 カノープスの面々となんていつ知り合ったのか。

 そう思いつつ、エアグルーヴは自分をここに連れてきてくれたシルバータイムに内心、感謝した。

 

 ここ3年、トラブル対処のために張り付けていた笑顔ではなく、本物の顔で笑うサンジェニュインは久々だ。

 ふにゃり、という効果音のつきそうなその笑顔で、サンジェニュインはひとりひとりの顔を見つめる。

 言葉をひとつ、ふたつ交わして、瞬く間に過ぎ去った日々へ思いを馳せた。

 懐かしさに満ちた声は、しかし長続きはしない。

 出発の時間は訪れ、車のエンジンが掛かる。

 ああ、挨拶の時間が足りないとサンジェニュインは言うけれど。

 ちょうど良かった、と呟いたナリタブライアンの瞳は、ほんの少しだけ潤んでいた。

 あと数分残っていたら、その目から何が零れただろうか。

 エアグルーヴは分りきった答えを自分の胸の中だけで呟いた。

 零れそうなのはエアグルーヴも同じだったからだ。

 

 車に乗り込んだサンジェニュインが窓から顔を出す。

 反対側に座るディープインパクトが少しだけ前に身体を倒して、サンジェニュインの横から手を振った。

 さようなら、と口が形を作って、車が動き出した、その瞬間。

 

 ぶわり、桜吹雪が舞った。

 季節は春。四月。出会いと別れ。

 青葉混じりになった桜の、最後の息吹が吹き上がる。

 

 ここまで連れてきて貰ったのに、結局、エアグルーヴは何も言わなかった。

 言えなかった。

 さよならも言わなかった。

 寂しいも言わなかった。

 嫌い、も。

 2度目は言わなかった。言えなかった。

 さみしさと、慈しみと、いっぱいの感謝で彩られたサンジェニュインの顔をみたら、何も言いたくなかった。

 でも、それが正解だと思ったのだ。

 昔も、そうして別れたような気がする。

 気がするってだけかも知れないけれど。

 

 風に巻き上がった花弁の中で、サンジェニュインが窓から顔を出す。

 その美しい微笑みを、エアグルーヴは穏やかな気持ちで見送った。




エアグルーヴ先輩
サンジェニュインとかいうぽんこつの面倒を見てきた頼れる先輩
補習も見てくれるしケツ追いの尻拭い()も手伝ってくれる
カネヒキリくんがいない時の基本の預け先はここ
いつもお世話になってます、とカネヒキリくんからお礼の品が時々届く
しおりも蝶の標本もずっとずっと大事にしてくれるよ、ずっとね

シンボリルドルフ先輩
強そうな後輩が入ってきて嬉しかった
メンタルもつよつよで楽しい
いっぱい走ってもっと強くなれ
会長、祈ってます

マルゼンスキー先輩
実は朝の練習でよくサンジェニュインを見かけてた
頑張り屋でバッチグー

ミスターシービー先輩
才能は非常識の代表格
ディープインパクトさんとは追込シスターズを結成しているとかどうとか
同年代の三冠になれるウマ娘が揃うとこう(サンプイ)なるんだね

シルバータイムちゃん
あんなに期待されたのにクラシックだめだった
悔しくて悲しくて泣いてたけど人前じゃ泣けず裏側で泣くタイプ
けど勝ち気で負けず嫌いで何度でも立ち上がる、まるで女帝のようなウマ娘

地方に転校したウマ娘ちゃん
サンジェニュインをクッソ激しく罵倒してた同世代
真っ直ぐ進めずに折れて種を腐らせた
けど彼女はもう1度種を蒔いた
苦しい道のりと知ってても

サンジェニュイン
安定のぽんこつ美貌ウマ娘
オレのこと嫌いになってもオレのトモダチは嫌いにならないでください!
昔もそうやってエアグルーヴさんと別れた
俺はずっと覚えてます

第◇回サンジェニュインのお嫁さんレース(敬称略)

  • エアグルーヴ
  • ハルウララ
  • ウオッカ
  • カレンチャン
  • 海外牝馬組
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