「サンジェニュイン」
俺を呼ぶ声がする。
低く、けれど優しく。
夏になる度、思い出す声だ。
初夏の風が吹いていた。ジメっとした熱気を纏って、誰の
水中にいるかのように視界が霞み、いろんな色が、音が遠ざかっていく。
「 ──── ッ!」
俺は夢中で何かを叫んだ。
永遠に忘れることなどないだろう、約束を。
「サンジェニュイン」
彼は、最期の瞬間まで、俺の名前だけを呼んだ。
身体がおかしい。
それを自覚したのは、2025年の夏だった。
「サン、どないしたん? 放牧の時間やで」
馬房の中、寝藁に転がったままの俺を見下ろして、リキ ── 俺の世話をしてくれている目黒さんの甥は、そう声を掛けて来た。
いつもなら「はいはい」と立ち上がって、さあ放牧地に行くぞ、と尻尾を振り上げていただろう。
だが俺は立つことができなかった。
「サン……? まさか……っ」
怪訝そうな顔で俺を見ていたリキが、小刻みに震える俺の身体に手を当てて唸った。
全身が痺れるような感覚は、現役時代に心房細動を起こしたときに似ている。
あの時と違うのは、苦しくないということだけだった。
「すぐに獣医を呼んだるからな!」
リキが馬房から駆け出す。
その背を見送って、俺は「いよいよか」と、浅く息を吐いた。
頭の中にあるのは、これまで経験してきた別れ。
現役時代にはラインクラフトちゃんを。
種牡馬になってからはタイヨウマツリカをはじめとした産駒たちを。
親友であるカネヒキリくんを。
ライバルだったディープインパクトを。
励まし合ってきたシーザリオちゃんを。
それぞれが虹の向こう側に駆けていくのを見送った。
──……今度は、俺の番。
だが不思議と不安感も、恐怖心もない。いやむしろ、ほのかな安心感すら覚えていた。
振り返れば8年前 ── 2017年。
カネヒキリくんが旅立ってから約1年後。
俺1頭だけになった広すぎる放牧地の、その両隣にはディープインパクトとヴァーミリアンの放牧地があった。
だがこの年、ヴァーミリアンは種牡馬を引退してホースパークに行くことが決まっていた。
それで、せめて別れの挨拶だけでも、とヴァーミリアンが馬運車に乗り込む直前、会いに行った事がある。
それまでの俺にとって「別れ」と言うのは「永遠」を意味していた。
二度と会うことがないもの。虹の橋へ相手が旅立つのを見送るもの。
だからだろうか。
ヴァーミリアンは五体満足でピンピンしていたのに、俺は妙な不安を感じて落ち着けなかった。
それがヴァーミリアンにも伝わったのだろう。
いつもの荒々しい言動はなりを潜めて、ただ静かに言葉を落とした。
約束だ、と。
── 俺様は長生きする。お前よりもうんと。
嘘偽りのない、真っ直ぐな目をしてそう言いきった姿を、昨日の事のように覚えている。
今、俺が感じている安心はきっと、この約束が果たされるだろうと確信できたから。
俺は間違いなくヴァーミリアンより先に逝く。
見送る側ではなく、今度は、見送られる側に立つ。
繰り返し取り残されて、遺されて。
増えていくばかりの宝物の重みを、今度は託す側に回るのだ。
……正直、ヴァーミリアンを遺して逝くことに思うところはある。
アイツだって俺と同じ、取り残される側だったから。
でも、虹の橋を渡るタイミングは、自分では操作できないもの。
約18年に及ぶ種牡馬としての仕事で、この身体にはかなりガタがきているし、それが自然な流れなのかもしれない。
そうだ、仕方ないことだ。いずれそうなっていたのだろうし、抗うことができないものなら、いっそこのまま身を任せて ──……。
俺はそこまで考えて、いやまだだ、と思い直した。
視界の奥側から駆け寄ってくるヒトの姿が見える。
必死の形相で、俺の身体に、心に触れ、その命を長らえようと懸命な姿。
心の中に住まう、4歳の俺が首をもたげる。
ラインクラフトちゃんのように、カネヒキリくんのように、ディープインパクトのように、シーザリオちゃんのように。
俺は、まだすべてを遺せていないじゃないか。
まだ、まだ、遺し足りないじゃないか、と。
若々しい声でそう言う。
俺は心の中でしっかりと頷き、脚に力をいれた。
── ああ、そうだ。そうだとも。
どうして渡ることを当然のように受け入れようとしたのか。
不思議なくらいに活力が漲る。
終わっちゃいないって、遺しきってなんかいないって、俺がいちばんわかってるくせに。
まだだ。
まだ足りない。
ぜんぶ遺せたよ、と言い切るには。
『まだ、まだ……』
宝物庫には空きがある。
これ以上は入りきれないってくらいいっぱいにしたい。
だからまだ、くたばるわけにはいかないのだ。
フルルン、と短く嘶いて脚に力を込める。
夏風に急かされるように立ち上がると、俺を取り囲んでいたヒトたちも釣られたように頷いた。
── 俺が立てなくなった日から数日が経った。
あれからリキたちの尽力もあって再び立てるようになり、今日も宛がわれた放牧地でまったり。
2016年までは同世代の馬だらけだった俺の放牧地周辺も、2025年の今ではずいぶんと様変わりした。
サンデーサイレンスの後継馬で溢れていたのも昔のことで、いまここに居るのはその孫世代が中心だ。
ナリタブライアン以来の三冠馬となったオルフェーヴルに、シーザリオちゃんの仔・エピファネイア、キングカメハメハさん家のロードカナロアや、海外から輸入された牡馬たち。
かつてディープインパクトが使っていた放牧地には、今はオルフェーヴルがいる。
ヴァーミリアンが使っていた方にはサニーメロンソーダ。
同世代の2頭はレースでもよく顔を合わせていたが、どうもソリが合わないらしく、よく喧嘩をしているしなんなら現在進行形だ。
2頭とも気性が荒いタイプなので仕方ないのかもしれないが、喧嘩とはいっても8割くらいは遊びのようなもの。
暇さえあれば柵越しに見合っているのを見ると、実は仲良いんじゃないかと思ったり。
このまま仲良くしていて欲しい。……あ、サニメロが立ち上がった。
スタッフたちが慌てたように動き出したのを横目に、俺は小さくあくびをする。
そのままゴロン、と寝返りを打つと、ハッとしたようにスタッフたちが俺の方を見た。
一時的とはいえ立てなくなったあの日から、スタッフたちはかなり神経質になっている。
それに、俺の身の回りも少し変化した。
まずひとつめは、俺の種牡馬引退が決定したこと。
来年も血を繋ぐぞ、と思っていただけに「いやちょっと考え直してくれ」と思ったが、駆けつけた目黒さんから真剣な表情で諭され、これは受け入れることにした。
俺だってヒトに迷惑をかけたいわけじゃない。
だが、今年 ── 2025年の種付けが最後となると、来年産まれる仔が最終世代というワケだ。
その仔たちがデビューするのは2028年くらいだから、あと3年くらい。
それまでこの身体が持つのか、という心配もあるし、来年も仕事を続けて大変なことになるよりは、いま引退する方が良い、という意見も理解できる。
できるのだが……。
「サンジェニュイン、もう、十分だろう」
目黒さんが呟いたこの言葉にだけは、まだ、頷けない。
これまでの軌跡を振り返るように目を閉じると、すべて鮮明に思い出せた。
2006年末に現役を引退し、2007年から種牡馬として仕事を始めてからの約18年間。
基本的には社来スタリオンステーションで生活していたが、イギリスやアメリカの牧場に出張することもあった。
だがその時であっても、社来のスタッフ数人が同行してくれていた。
ここのスタッフで俺の世話を一度もしたことがない、というヒトはいないんじゃなかろうか。
俺がやたら大人しく従順だからってんで、新人スタッフの研修にまで使われたことあるしな。
この18年近くで俺が仕事をした回数は数え切れない。
最初の2年くらいはなんとか数えようとしていたが、もう途中から多すぎて数えるのをやめた。
けど、国内だけで三桁、下手すると四桁近くは仕事してる、かもしれない。
ディープインパクトがいなくなってからはさらに仕事が増えたし。
国外を含めると確実に四桁には届くだろう。2千は超えてそう。
とはいえ、俺の仕事も百発百中なワケではない。
実際に生まれた頭数は仕事量よりも下だと思うのだが、それでもかなりの数はいるはず。
スタッフたちはいちいち俺に「今年はこれくらい仕事しました」なんて言わないから、正確な数はわからないけども。
GⅠの勝利数だけで言えば、現時点で77勝、だったっけな。
目黒さんが教えてくれた範囲では、国内外の総計で、4頭の三冠馬と、3頭の二冠馬、そして2頭の凱旋門賞馬。
その他、ドバイシーマクラシックやガネー賞、サンクルー大賞典、KGⅥ&QES、インターナショナルSにBCシリーズ、ジャパンカップ、有馬記念などなど。
産駒たちは俺の「重い馬場でこそ真価を発揮する」性質を受け継ぎやすいのか、特に欧米のレースで芝・ダート、距離問わずに活躍した。
俺が日本よりも欧米での仕事が多かったのは、7割くらいこれに所以している。と、思う。たぶん。きっと。
あとの3割は血統だろう、と目黒さんは言っていた。
日本では俺の父馬・サンデーサイレンスの血が溢れまくっているが、海の向こう側ではそうでもない。
むしろガリレオの血が濃くなってきた中で、俺はその薄め液として需要が高かったのだ。
血統的に壁になるモノが他馬より少ないこともあり、仕事相手も多く見つかった。
それにプラスして、早い段階から三冠馬を輩出できたのも大きいだろう。
4頭いる三冠馬のうち2頭は初年度 ── 最初の仔であり、この2頭の成績もあって俺の種付け数は爆発的に増えた。
さらに、現役の競走馬としてだけでなく、繁殖入り後も活躍する馬が出たことも、俺の仕事量に影響を与えたと思う。
特に、初年度産駒であり、英三冠馬であるサニーファンタスティックの種牡馬入りや、米三冠馬であるシャイニングトップレディが繁殖牝馬になったことは、俺の血統を証明するのに大きく作用した。
サニーファンタスティック ── 俺はサニファと呼んでいるのだが、この馬は欧州各国のダービー馬を何頭も輩出する名種牡馬になっている。
英国が誇る大種牡馬・ガリレオ亡き今、リーディングサイアーの上位に浮上していた。
現時点で7年連続3位だ。ちなみに1位はこの俺!
普段は日本で暮らしているとはいえ、ほぼ毎年のように渡英し、多いときには200頭近く仕事を熟しているのだから、まあそうなるわな。
といっても、ここ数年は国内での仕事量が増えた影響で、国外ではそんなにやらなくなっている。今年なんて70頭くらいだったし。
英国でサニファが種牡馬としての地位を確立してくれたこともあって、需要が俺からサニファに移行しつつあるのだ。
サニファの仔、つまり俺の孫世代にあたる馬たちからも多くの活躍馬が出ているし、もう既に何頭か繁殖入りしている。
孫の仔、つまりひ孫の世代ももうデビューしているのを考えると、そりゃあ俺も歳をとるわけだ。
もう1頭の初年度産駒の三冠馬・シャイニングトップレディも、アメリカ競馬界でその名を燦然と轟かせる名牝になった。
現役だったのは1年とちょっとくらいだったが、無敗で走り終えてくれたのは、この仔が初めてだったな、確か。
俺がシャトーという愛称で呼んでいるこの馬は、繁殖牝馬としても多くの孫を俺に遺してくれた。
特に有名なのは、ソウルオブラヴァーという尾花栗毛の牡馬だ。
この仔の父はハートオブイマジニングという栗毛なのだが、なんとカネヒキリくんの産駒!
初めて聞いた時はビックリして三日三晩魘されたよな。うん。
まさか遠く離れた異国の地で、俺の血とカネヒキリくんの血、このふたつが混ざり合うことになろうとは。
競馬はブラッドスポーツだって言われてるし、そういうこともあるかもなあ、とは思ってたんだけど。
後から知った話なんだが、どうも俺の血を引く牝馬とカネヒキリくんの血を引く牡馬は相性が良いらしい。
今回のシャトーとハートオブイマジニング以外の産駒同士の組み合わせでも、レースで好成績を残す孫たちが現れたし。
惜しい、と思うことがあるとするならば、その孫の誕生を、その喜びを、分かち合いたかった親友がもうこの世のどこにもいないということ。
でも、カネヒキリくんが見られなかった分を俺がたくさん見るよ、と勝手に誓った夏を思い出した。
あれからもう10年近く経つというのに、俺の記憶力も大したモンだな。
ま、元人間だからっていうのもあるかもしれないけど。
今じゃ中央でも地方でも、カネヒキリくんの直仔は数少なく、今年の初めに地方競馬所属の8歳馬が2年ぶりの勝利を挙げたと聞いたのが最後だ。
それに、この馬は去勢された馬。今から繁殖に上がることはない。
けど、アメリカのハートオブイマジニングや、日本のディオスコリダーやロンドンタウンら種牡馬入りした産駒を通じて、その父系はこれからも残り続けていくだろう。
そうやって俺たちは命を繋ぎ、時には耐え難い別れを受け入れながら進んできた。
脳裏を過るのは、初年度の1頭であるタイヨウマツリカや、サンサンプリンスらの姿。
自分よりも若い仔たちが散っていくのは辛かった。
それでも見送った。
見送る以外の選択肢がなかった。
向こうは、虹の向こう側はきっといいところだからと、そう自分に言い聞かせながら。
生と死を繰り返して、それでもなお、俺の営みは止まらない。
俺が満足するまでは。
掛けられた愛情の分だけ遺したいモノがある。
そのひとつとして、俺が思い描いたもの。
ラインクラフトちゃんが赤い手綱と共に血を遺す勇気をくれたように、そしてカネヒキリくんが明日を歩み続ける希望を遺してくれたように、俺もまた、遺していきたい。
何よりも濃い「血」という絆を。
閉じていた目を開いた。
夏の陽射しに照りつけられる芝生は青く美しい。
そこに立てられた柵越しに俺を見るスタッフ1人ひとりの顔を見渡して、俺は、眩しさで目を細めた。
夏煙が揺らぐように、目黒さんの言葉が蘇る。
「サンジェニュイン、もう、十分だろう」
その言葉の通り、後継種牡馬はもう何頭もいて、母の父としても名を遺すことができている。
一般的に見ても、歴史的に見ても、俺は「種牡馬」として十分な成績を収めているのだろう。
どんな毛色でもいい。牡馬だろうが牝馬だろうがどちらでもいい。
俺の血を継ぐ誰か。その名を長く、柔らかく遺して、次世代へ。
その気持ちは今でも揺るがないし、凱旋門賞を制してくれた青鹿毛の産駒たちのことも誇らしく思っている。
けれどやっぱり、凱旋門賞を ── 自分と同じ白毛の凱旋門賞馬を。
史上二頭目の白毛の凱旋門賞馬を、俺の血から、遺したい。
心残りのひとつだった「日本ダービー」を俺の産駒が制してくれたことで、その気持ちはますます強くなっていった。
サンサンファイト。まだ記憶に新しい、今年の、2025年の日本ダービー馬。
俺とディープインパクトが走った、あの熱戦から丁度20年になる年に、俺の仔が勝つなんて。
その仔の存在が、俺の決意をより確かなものにする。
俺が競り負けたあの日の1センチを、打ち震えるような熱気を纏って拾い上げてくれた。
あの瞬間の喜びは言葉にできない。宝物がまたひとつ増え、俺は、心の底から安心した。
……だからこそ、あともう1頭。あともう1頭の存在が必要だった。
凱旋門賞馬を制してくれる、白毛の存在が。
その白毛を見るまでは、なんとしてでも生きなければならない。
生きて血を繋がなければならない。
だがその決意を否定するように、俺の身体は確かに虹の橋へと近づいていた。
おそらく今年か、来年か ── いや、おそらく今年が、ラストチャンス。
来年産まれるだろう最終世代のクラシックシーズンまで、この身体は持たない。
だから今に賭けるしかない。
そしてそのラストチャンスの切符を握るのは、自身と同じ白毛の産駒・サントゥナイト。
この仔の凱旋門賞出走は春の段階で決まっていた。
サントゥナイトは、俺の産駒の中でも珍しく小柄で、長く一緒に過ごした仔だ。
とても甘えん坊な仔で、なかなか自分から離れようとしなかったことを思い出して笑う。
こんな調子で優勝劣敗の世界である競馬界でやっていけるのか、と心配だった日のことも。
だがそんな俺の心配を他所に、サントゥナイトは力強くターフを蹴った。
どんなに苦しいときでも諦めず、ひたすらに先頭を追う。
その眩しさを、俺は、信じたかった。
── 2025年10月。
瞬く間に夏が過ぎ、凱旋門賞当日の朝。
身体の震えは最高潮に達していた。
正直、もう限界だった。
『オヤジ!』
『父上、大丈夫ですか!』
『……ん、おお』
両隣の馬房から嘶きが聞こえる。
俺を父と呼ぶその馬たちは俺の仔だ。馬房から首を伸ばしてこちらを伺っている。
オヤジ、と呼んでくれているのがサニーメロンソーダで、父上、と呼んでくれているのがシルバータイム。
朝から騒がしくしているからか、2頭はもちろん、同じ厩舎の産駒たちは落ち着きがない。
『サンジェニュインさん……』
産駒たちの声に紛れて不安そうな声色で俺を呼んだのは、2021年に社来スタリオンステーションにやってきたロンドンタウン。
カネヒキリくんの2年目産駒にあたる馬で、当初は韓国で種牡馬入りする予定が流行病でそれもできず、一時的に預かる形でうちに来ていた。
だが、俺の血を迎え、今年3歳になった彼の初年度産駒が、芝・ダート問わずに活躍を見せ始めたことでそのままうちにいることになった。
毛色こそ鹿毛だけど、雄大でしっかりとした馬体のラインはなるほど、父であるカネヒキリくんに似ている。
大人しく物静かな仔で、牝馬たちの中では「種付けが上手い」と評判らしい。
カネヒキリくんの仔どもらしいと言えばらしいな。
この仔は年30頭前後の仔を生み出しているが、その約4分の1が俺の孫 ── 即ち、俺の牝馬たちとの間の仔だ。
優しくて紳士的なのよ、と言っていたうちの仔の姿を思い出して、ちょっと複雑な気持ちになった。
やっぱ父としては娘のそういう話には敏感なんでね。
でもまあ、これが血を繋ぐということである。ウン。
ロンドンタウンは、日本では数少ないカネヒキリくんの後継ということで、スタッドインしてから長いこと俺が面倒見てきた。
半ば父親代わりのような気持ちで、あれやこれやと世話を焼いたものだ。
それもあってか、ロンドンタウンも俺のことを慕ってくれているようだった。
できることなら彼の仔が繁殖入りするまで元気でいたかったが、こればっかりは仕方ないのかも知れない。
冥土の土産に彼の仔が活躍している話題だけでも持って行けることが、せめてもの救いなのかもな。
『お前達、そんなに不安そうにするなって。……前にも話しただろ?』
産駒たちをこれ以上不安な気持ちにさせないように、俺は努めて明るく話し始めた。「いつもの」話だ。
これは、仔が俺の元にやってくるときや、逆に離れていくとき、いつも話題にしている。
それは「虹の向こう側」の話。
タイミングやシチュエーションは
でも心配するな。向こうはきっといいところだから。
それに、会えなくても父ちゃんはお前達をずっと見守っているよ、と。
今年の夏の時点で、同じ厩舎に入っている産駒やロンドンタウンたちには「俺はそろそろ虹の向こう側にいくから」と含めて話していたこともあり、仔らの殆どはそこまで動揺していない。
サニーメロンソーダに至っては、同世代であるタイヨウマツリカのこともあってか、おそらくこの場にいる産駒の中では誰よりも冷静だろう。
オヤジ、と俺を呼ぶ声は一瞬震えていたが、心配するなと言った俺の言葉に、しっかりした声で「わかった」と返事をした。
その頼もしさに、暴れん坊将軍などと呼ばれていたサニーメロンソーダの成長が見て取れた。
気まぐれで、破天荒で。気が乗らなければ主戦だった芝木くんさえ振り落とした。
お前! 俺の相棒になにしてくれてんだ! と憤ったこともあったけど、なんだかんだで勝ちだけは掴んでくるちゃっかりさも、この仔の魅力のひとつだった。
こんな状態でもなければ、大人になったなあ、と褒めちぎりたいくらいだ。
せめて「頼もしいな」と一言だけでも言おうと口を開きかけて、俺は動きを止めた。
『う……っ』
『オヤジッ!』
次の瞬間、発作のように身体が震えだした。
俺を支えるようにして寄り添うヒトたちは、俺の身体が崩れ落ちないように踏ん張っている。
頭が下がらないように首筋をしっかりと支えられ、ぶるぶると揺れる馬体は抱き込まれているかのようにしっかりと繋ぎ止められていた。
ぴくぴくと動く耳は、彼等の「がんばれ」「だいじょうぶ」を拾う。
もう長いこと立ちっぱなしのまま、500キロ以上もある俺の身体を支えているのだ。
腕も足も、精神も、もう限界だろうに、彼等は決して俺から手を離さなかった。
その、愛に。そう、愛だ。
俺へと注がれた深い愛に感謝しよう。
このヒトたちの尽力がなければ、今、この瞬間も立っていることさえできなかっただろうから。
震える身体で、真横にいる目黒さんへするりと頭を寄せると、優しい手が俺の頭を撫でた。
『ちちうえ』
次にか細く響いたのは、シルバータイムの声。
冷静だったサニーメロンソーダと比べ、まるで幼い仔どものように俺を呼んだ。
俺はまだ上手く返事ができず、荒い鼻息だけを漏らしていると、段々と泣きじゃくるような声色に変わっていった。
馬も泣くのだ、目黒さんたちなら俺でさんざん体験しているだろうけど。
……ごめんな、父ちゃんが、父ちゃんなのに心配させてごめん。
シルバータイムは、普段は一歩引いた態度を取ってきた。
幼少期を一緒に過ごしてこなかったからか、俺に未だに遠慮する癖がある。
だけど、勝負事には真剣で、現役時代は合わない日本の芝で頑張って走ってくれた。
そうしてデビュー3年目、4歳の春先。
俺が零してしまったドバイシーマクラシックのトロフィーを、ゴール手前、諦めの悪い差返しで勝ち取ってくれたのだ。
俺のテキ ── 本原先生は、かつて俺にこう言った。
《 諦めないことが名馬の条件だ 》
であるならば。シルバータイムも。
日本のレースで一度もGⅠを勝てなかったシルバータイムも。
紛れもなく、名馬であり、俺の誇りだ。
『……シルバー、自信を持て。お前も、父ちゃんの後継だ』
かすれた声でそう言葉を繋いで、目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、必死に走る白い馬体。
この仔の現役時代は厳しかった。
同世代に二冠馬ゴールドシップと三冠牝馬ジェンティルドンナがいて、ひとつ上の世代にも三冠馬オルフェーヴルと、グランプリホースであるサニーメロンソーダ、盾の覇者であるサンサンドリーマーらがいる。
加えて、シルバータイムは超がつくほどの良血馬だった。
まず父である俺は凱旋門賞を制し、欧州年度代表馬にも選出されている。
自分で言うのもなんだが、なかなかいい成績を修めていた。
そして母父も凱旋門賞馬であり、母は日本の年度代表馬に選出された女帝エアグルーヴ。
何を目的とした配合なのか、あまりにもハッキリしていたがゆえに、シルバータイムは生まれたその日から、いいや、母の胎の中にいたときから期待されてきた。
もちろん、純粋な馬であるシルバータイムにヒトからの期待云々は伝わらない。
しかし、言葉は通じなくとも思いは通じる。
シルバータイムは、掛けられた愛情の分だけ、結果として返そうとしていた。
だが、気合いだけでどうにかなるほど、競馬の世界も甘くはない。
覚悟を決め、そのために完璧なまでに身体を仕上げた俺が、ディープインパクトの差し込みを抑えきれなかったあの日本ダービーのように。
努力と勝利は必ずしもイコールにはならないものだ。
そして競馬では、努力の過程よりも結果が求められる。
どんなに頑張っても勝てなければ意味がないのと同じだった。
1着以外の馬は敗者。
ハナ差1センチだったとしても勝ちは勝ち、負けは負け。そういう世界。
そういう世界であっても、シルバータイムは戦い続けた。
固い馬場を踏みしめる脚の、その痛みを堪えながら、ついに栄光を掴んだ。
彼の主戦騎手を務めた外国人の騎手は、シルバータイムを「父サンジェニュインよりもメンタルが弱い」と言っていたが、それは少し違う。
ヒトの記憶を持つ俺と、純粋な馬であるシルバータイムとではそもそもの情報量が違うのだから。
そんな中でも走ることをやめず先頭を目指し続けてきた。その時点で、シルバータイムの方が何倍も強い。
だというのに、シルバータイムは自分になかなか自信が持てない馬だった。
……国内産駒でも最も凱旋門賞に近かった俺の仔。
卑下するな。自分を悪く言うな。お前はすごい馬だ。
俺に、父ちゃんにキラキラとした夢を見せてくれた。
白毛の凱旋門賞馬を遺したいと、そう願うきっかけをくれた。
そしてこれからも、いろんなヒトに夢の続きを見せてくれるだろう。
お前が納得できるまで何度でも言おう。お前も俺の後継だ。誇りだ。
だから泣くのは止めて、ひたすら前だけを見ろ。
振り返ることなく、前だけを。俺の命あるかぎり、何度でも言うから。
俺の言葉に応えるように、シルバータイムは小さな声で「うん」と言った。
── それから数時間後。
「もう少しか」
何度か遠のきそうになった意識をつなぎ止めていると、外はすっかり暗くなっていた。
俺の身体から溢れる汗を何度も拭っているからか、目黒さんの服も少し濡れているように見える。
自分を取り巻くほかのヒトたちも、自分自身の汗を拭いながらも、俺が倒れないように側にぴったりと張り付いていた。
ヒトが密集していることで、俺がいる馬房もそんなに寒くはない。
だが、10月に入ってから確実に寒くなってきた中で、自分の苦労も顧みず側に居続けてくれる。
震え、揺れ、崩れ落ちそうな馬体を支える彼等の、その淀みない愛情を受けて、俺はもうひと踏ん張りだと脚に力をいれた。
真横で俺に寄り添う目黒さんの鼓動、息遣いを感じながら、俺は、その瞬間をじっと待っている。
「ッ放送、はじまりました……!」
俺たち馬に配慮してか、小さい声ではあったもののハッキリとしたその言葉に、俺はゆっくりとした動きで一歩、前に踏み出した。
そうして、画面一杯に映る息子を見つめる。
《 さあ間もなく、間もなく始まろうとしています、2025年、第104回凱旋門賞。ここ、フランスはパリロンシャン競馬場は、人馬の烟るような闘志を覆い隠すように華やかに、煌びやかに。これが人馬の社交界、凱旋門賞の会場です 》
画面越しに見るパリロンシャン競馬場は、記憶の中よりは色褪せて見える。
思い出は美化されるから、というのもあるだろうけど、たぶん、あの時に見た景色が美しく思えたのは、この背に相棒を乗せ、期待を乗せて駆け抜けたからだ。
きっとサントゥナイトに見えている景色は、俺がそうであったように、この画面とは比べものにならないほど鮮やかだろう。
俺はそう思って画面を見つめた。
《 今年も日本からは2頭の馬が参戦します。1頭目はサントゥナイト。ドバイシーマクラシック、宝塚記念を制しました。まっすぐに伸びるその大逃げは、このパリロンシャンのターフにいったいどんな軌跡を残してくれるでしょうか。父は「美貌の凱旋門賞馬」サンジェニュイン。史上2頭目の白毛の凱旋門賞馬を目指して、サントゥナイト、その鞍上には芝木真白騎手が乗っています 》
「……見えるか、サンジェニュイン。サントゥナイトが立派な顔つきをしているぞ」
ああ、そうだな、目黒さん。
返事代わりに鼻を鳴らすと、目黒さんは俺の鼻筋を撫でる。
イサノちゃんと共にパドックを回りきり、芝木くんを鞍上に歩くその白い馬体を見た。
さくさくと進む脚は、調子の良さの表れ。小気味よく尻尾を揺らす姿に、緊張感はないようだ。
凱旋門賞に出走する際、願掛けとして俺のメンコを貸して欲しい、とサントゥナイトの馬主に頼まれて、今、あの栗色のメンコはサントゥナイトが着けている。
初夏はサンサンファイトが日本ダービーへ出走するときに貸していたが、出国前に引き渡しが済んでよかった。
俺が初めてあのメンコを貰った日から20年が経っているが、とてもキレイに保管してくれていたのか、目立った損傷もないようだ。
額に金色の糸で縫われた太陽のマークを光らせる、その身体はやっぱり小さいが、4歳になってから一層俺に似てきたな、と思って小さく笑いが漏れた。
そして芝木くんを鞍上にゲートへと向かう姿は、なんだか懐かしい。
19年前は、俺があそこで芝木くんを乗せていたんだよな。
隣にはディープインパクトと竹さんがいて。
やたら俺に近づくハリケーンランにも絡まれながら返し馬をした。
今やその2頭のどちらもこの世にはいない。
でも、思い出の中では力強く、その影を見ることができた。
少し感慨深い気持ちになりながらも、俺はゲートが開くその瞬間を待つ。
思えば、テレビ越しに実況を聞いたのは、ディープインパクトのジャパンカップが初だった。
種牡馬入りしてからは目黒さんがテレビをプレゼントしてくれたことで、毎週土日は競馬実況を見ていたから慣れたが、敏感すぎる耳は当初、テレビの音を上手く聞き取れなかったっけな。
そんなことを思い出しているうちに、ゲート入りはどんどん進んでいく。
《 さあ全頭ゲートイン完了、体制準備よし。第104回凱旋門賞 ── スタートしました! 》
全馬が滞りなくゲートに収まると、間もなく、その扉が開かれた。
その瞬間だった。
何故かあの日の空気、鼓動、声援がぶり返したように俺を包み、気づけば寝藁を蹴り上げていた。
支えて貰わねばまっすぐ立つことすらままならなかったのに、どこにこんな力が残っていたのか。
「……お前、まだ走りたかったのか」
と、からかうように言葉を漏らした目黒さんに嘶き返す。
でも、そうかもしれない。
俺はまだ、走りたかったのかも知れない。
……いや、もしかしたら、ただただ、懐かしく感じただけなのかもしれないけれど。
短く息を吸って、視線を画面に戻した。
サントゥナイトは先頭をひた走る。
それ以外の走り方を知らぬかのように。
《 全頭キレイな飛び出しです! 7頭立てと例年よりさらに少ない頭数での104回目の凱旋門賞。頭数が少ないからこそ、1頭1頭の力量を見ることができます。ハナを奪った7番サントゥナイト、大外を回りながらもぐんぐん、後続に6馬身、7馬身、8馬身のリードを取ります。それを追走するのは2番エリアライト、2馬身差の位置に4番シグナルスキーがついていますが徐々にスピードを落としている、後方から競馬を進めたいようです。そこから一馬身離れてレイセイレーン、差がなくステラクラリウス、オールライラックは少し内にヨレたか体勢持ち直してステラクラリウスから3馬身差の位置、シンガリは1番ゴールドフィールですが、この選択は正解か、鞍上・福沢、策はあるのか気になる流れです 》
懸命に前を走るサントゥナイトを見つめていると、目黒さんがぽつりと言葉を漏らした。
「お前と一緒に暮らしていたころは、よくほかの牡馬に近寄っては追いかけまわされたり、逃げ回っていたのに……サントゥナイトは強くなったな」
ああ、そうだな、強くなった。
同年代の他の産駒にすら舐められるほど弱っちいやつだったのに。
いつの間にか、仔は、大きくなっていた。
《 さあ間もなく最後の直線だ! 先頭は7番サントゥナイト! サントゥナイトすごい脚! まったく他馬を寄せ付けない! 3馬身差でこれを追うのはパリ大賞典の覇者レイセイレーン、その外に2番エリアライトが追走すると2馬身差の位置にステラ、ステラクラリウスがここで上がってエリアライトを抜いた! レイセイレーンに並んで狙うかサントゥナイトまでまだ7馬身差あるぞ! 後方グループはシグナルスキーが引っ張る形かッいや、やや緩やかな流れから中段ゴールドフィールがオールライラックを抜き去って上がる! ここから全頭一気に仕掛けてくるか!? 》
熱がこもる実況を聞き流して、俺は、食い入るように画面を見つめ、その白毛に語りかけた。
サントゥナイト。
── いいんだ、それでいい。先頭を
じっと、じっと、あまりにもじっと見つめていたからか。
たぶん、これは、幻覚のようなものだ。
……だってそうじゃなければ、どうして俺は、フランスにいるんだ?
『あれえ!? 父ちゃん!?』
俺に気づき声を挙げるサントゥナイトの真横に並ぶ。
あれほど自分の意思では動かすことのできなかった脚が自在に動き、身体は酷く軽かった。
まるでまだ現役だった頃の、あの瞬間の感覚。
もう取り戻せない俊敏さが、俺に夢だと思わせていた。
『父ちゃん来てたなら言ってよお! もうっ、隣の馬房のやつが怖くて怖くて! 父ちゃんに会いたかったよう!』
ヒィン、と鳴き声を漏らす息子に、俺は内心苦笑した。
すぐに泣くな、こいつは。
一体誰に似たんだ、と思いながらも、俺は質問には曖昧に返した。
『父ちゃんには秘密の道具があんだよ』
『エッなにそれ! 気になる~! あっそれより、ねえ父ちゃん、俺ここはじめてなんだけどさっ! ここ、走りやすいねえ! 父ちゃんも今度走ったらいいよ!』
機嫌良さそうにそう言う息子は、あまり賢いタイプではない。
だけど、誰よりもひたむきに前を走る。
『そうだなあ。俺たちには走りやすいよなあ。重くて、ふかふかで、脚がしんどくないし』
『そうなんだよ! 俺、次のもここがいいよ!』
『んふふ、そういうワケにもいかないけどな! それよりホラ、ナイト、ちゃんと前を向け』
インターナショナルSの俺がそうであったように、サントゥナイトはチラチラと横を見ながら走る。
それでも体幹はブレることなく、その脚は真っ直ぐに大地をエグっていた。
『あっそうだ! ねえ父ちゃん! 俺、この前のやつ勝ったんだよ! 見た?』
楽しげな声色で尋ねるサントゥナイトに頷き返す。
この仔の前走は宝塚記念だった。
舌をペロペロと遊ばせながら走り切り、ゴール後も牡馬に追われて泣いていた。
『ああ、見てたよ。すごかったな』
『スゴイ!? 俺、スゴイ!?』
『うんうん、すごいよ、すごい。父ちゃんはお前が勝ってくれてうれしいよ』
『んふふふふ』
もうレースをしていることを忘れているのか、サントゥナイトは弾んだ声で俺に話しかける。
その楽しそうな様子に俺は、何故かヒトだった頃を思い出していた。
……学校終わり、ランドセルを放り出して母に駆け寄った、あの頃の俺。
あのね母ちゃん、今日はね、って。
『父ちゃん! 俺、ここも勝つからさ! 父ちゃん見ててよ!?』
どんな小さな事も母に話した。
よかったね、と言ってくれる声が好きだったから。
その声を思い出しながら、俺がサントゥナイトに言葉を返すと、仔はさらに嬉しそうな声をあげた。
『うん……うん』
ただひたすらに無邪気だった記憶が波のように押し寄せてきた。
まるで死ぬ間際の走馬灯のように。
苦しかった生活。疲れ果てた母の姿。浴びせられた心ない言葉。ひとりぼっちになった日。
そして、馬になった日。
ああ ── 生きたんだなあ、俺は!
今年で23歳。
思えば、人間だった頃よりも長生きしている。
ごはんに困ったこともなければ、来月は家を失うかも、なんて心配もない。
勝負事の世界だから、ヒトに嫌われることもあるけど、その何十倍も俺を愛してくれるヒトがいた。
思い返せば返すほど、満ち足りた馬生だった。
『とおちゃあん!? 見てるう!?』
俺を探す仔。
『ああ……ああ、見てる、ッ見てるよ!』
水気を帯びた声で叫んだ。
段々と脚が重くなっていく。
そろそろ限界なのだと理解して、俺は、最期にその姿を目に焼き付けようと思った。
『あっそれでさ、走り終わったらさ、一緒に放牧地に、あれっ? 父ちゃん? 父ちゃんどこ!?』
思わず、といったように振り返った仔に、俺は苦笑する。
『前を向け。……大丈夫、父ちゃんはここにいる』
『本当にっ!? いる!? ねえ父ちゃん!』
『いるよ、ずっといる。だから大丈夫、前を向け、サントゥナイト』
何度も俺がいるか確かめる声に笑って、まるではじめて自転車に乗るこどもと、その親のような軽さで言葉を繋いだ。
自転車の後ろの部分を掴んで、大丈夫、父ちゃんが支えているから、地面から足を離してごらん、って。
そのやりとりが記憶の海の中で残りカスのように漂っていたモノを引きずり出す。
もうずっと昔に捨てたはずの、クソみたいな親父との記憶が。
まだまともだった親父が、俺を肩車している。
俺は高いところが怖くて、落ちないように親父の頭をしっかり掴んでいた。
痛いよ、と笑う親父を無視して、小さかった俺が眼前を指さす。
── あのおうまさん、かっこいいね、とおちゃん!
そう言って笑った、その先にいたのは白地のゼッケンに黒の5番。
……その鹿毛の名前を、ずっと、ずっと、忘れていたかった ──!
『とおちゃん!』
仔が俺を呼ぶ。
その顔は振り返らず、前だけをまっすぐ向いている。
『父ちゃん、本当にいるっ!?』
『本当にいるよ。父ちゃんがお前に嘘を言ったことがあったか?』
『エッ、うーん。……ない! ウン、見ててよ父ちゃん!』
『うん、見てる。見てるよ、だから ──』
白毛の馬体がしなる。
俺にはない柔軟さで、サントゥナイトは身体を大きく揺らし、グン、っと加速する。
ああ、俺の光の一部を継ぐ仔。
今日、拍手喝采を浴びる仔。
いつまでも甘えん坊で、まだまだ子供で、なんて思っていたのに。
……なあ、ラインクラフトちゃん。
あの日、俺と一緒に走ってくれたとき。ラインクラフトちゃんもこんな気持ちだったのか?
深く、深く沁み入るような、この、泣きたくなる気持ち。
『とおちゃあん!!』
仔が俺を呼ぶ。
それに応えるように、俺は叫んだ。
『前を征け!!』
仔は、ウン、と
会場の空気が変わる。
それが少しずつ研ぎ澄まされ、歓声が、その背を追って。
『父ちゃん見てる!?』
── 見てるよ、見てるさ、ずっと。
『もっと前へ行くよ!』
── うん。
『前へ』
前へ。
「『もっと前へ──……ッ!』」
《 ── どこまでも駆け征く、
響く、衝撃音は。
《 見てるか親父──ッ! 息子がやったぞ──ッ! 》
ああ、ああ。
見ていたよ、ずっと見ていた。
サントゥナイト。
青い芝生に輝く俺の仔。
「ひぃん」
言葉にすらできない声が嘶きに変わる。
「ひぃん」
渦巻く喜びと、安堵とが綯い交ぜになって。
「ひぃん……っ」
ああ。ああ。ああ……!!
これで、これですべて、遺せた──ッ!!
サントゥナイトを称える、ひときわ大きな歓声が上がって、俺の身体に叩きつけられる。
それが、虹の橋への扉を開いた。
「ッサンジェニュイン!」
全身から力が抜け、俺はその場に倒れた。
瞬きの直ぐ後、目黒さんが縋り付くように俺の身体に触れると、他のスタッフたちも一斉に俺を取り囲んだ。
サンジェ、ナイトが勝ったよ、おめでとう、だからもうちょっと頑張ろうって、そう言ってみんなが俺の身体をさする。
なんとか起き上がらせようとする彼等を一瞥し、俺はゆっくりと瞬きをした。
もう嘶く余力さえない。
命を打ち鳴らす鼓動が弱くなっていく中、まだ鮮明な聴覚が、すすり泣く音を捉えた。
── ああ、泣かないでくれよ、もう……。
あきれを含むような、仕方ないなあっていうような、そんな気持ちを伝えたいけど、どうやったって声はもうでそうにない。
だから代わりに、何度も瞬きをした。そこに、思いのすべてをこめて。
でも、ぱちり、と瞬きをすると、目の前が少しぼやけて見えた。
涙が流れたようだ。
その涙を拭うように、頭上から、すぐ横から、後ろから、やさしい五文字が響く。
ありがとう、ありがとう、と。
── それ言うべきは俺の方なのに。
ヒトがいなければ生きてはいられなかった。彼等の献身なくしては。だから。
ありがとう、みんな、ありがとう。
もはや声さえ形作ることもできず、瞬いて涙を流すだけの俺を、多くの手が包む。
馬になってからの23年間、絶えず、絶えず注がれた愛。
言葉で、行動で、あらゆる手段で渡された、その愛 ── まぎれもなく、本物の。
「サンジェニュイン」
目黒さん。
返事代わりに瞬きをすると、霞んだ視界の端で目黒さんが頷いた。
1歳の秋、目黒さんが迎えに来てからの約22年間がその瞬きひとつで過ぎていく。
厩務員として、あるいは俺のいちファンとして。
もっとも長く、もっとも近く、俺の心に寄り添ったヒト。
『ありがとう、目黒さん』
そう感謝を込めると、寄せては返す波のように目黒さんは言葉を繋げた。
それは、俺がずっと、ずっと、抱きかかえていた希望。
最期、言われるならこれがいいな、と思い続けていたもの。
「サンジェニュイン」
俺の名が響く。
水の中にいるような、そんな潤んだ世界。
望んでいた言葉が広がるのを、穏やかな気持ちで待っていた。
「サンジェニュイン……ッ」
何かを堪えるような声色で呼ばれた名に、瞬きを返して、それで。
「ありがとう」
寄せて、返す、波が。
「……お前は」
そう、俺は。
「最高の馬だ、サンジェニュイン」
── ああ、やっぱり。
その言葉が、何よりも好きだよ。
それから、ぱちり、と瞬いて、開くことなく閉じた。
けど、まだ身体の奥底から叩く音がする。
その音だけに耳を傾けて、俺は、眼前に広がった虹の橋を、確かに渡った。
木々のざわめき。
葉のこすれる音。
鳥のさえずり。
騒ぐこともなく、ただ静かに。
虹の向こう側から、
静かに、静かに、待っている。
これは圧倒的美貌で凱旋門賞馬になった、ある1頭の馬の、どうしようもなく満ち足りた一生の話。
第◇回サンジェニュインのお嫁さんレース(敬称略)
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エアグルーヴ
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ハルウララ
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ウオッカ
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カレンチャン
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海外牝馬組