雨と心と、レースと、甘いもの   作:狂猫病

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スタンドにて

 スタンドを埋めつくしていた観客は、すでに()けてしまっていた。

 階段を上がりきったリトルココンは周囲を見渡し、上方の特別席でひとりターフを眺めていた樫本理子をすぐに見つけた。

 スタンドを駆け上がっていって、そのそばまで近寄る。

 息をついて、チーム<ファースト>のメンバー全員のクールダウンと着替えが終わり、帰りの支度までが整ったことを報告した。

 

「──で、あとは荷物をまとめてバスに乗り込むだけです。今日は最終日で関係者の人数も多いらしいんで、アタシたちが実際に競技場を出られるのは少しあとになるかもですけど」

 

 報告を終えたリトルココンへ、理子が頷きを返してくる。静かな声で、わかりました──とだけ答え、再びターフへ視線を戻した。

 リトルココンも、理子の視線の先を眺める。

 すでに大きく西へ傾いた夕陽を反射して、芝がオレンジ色に輝いていた。数人の整備員たちがその上を歩きながら、ところどころめくれてしまった箇所の補修作業をしているのが見えた。

 リトルココンはそっと、理子の横顔を窺う。

 今日のレース以前にあった張り詰めた緊張感は、すっかり消えていた。しかし寂しげで、どこか落ち込んでいるようにも見えた。

 

「あの──樫本トレーナー」

 

 呼びかけると、理子が視線を向けてくる。リトルココンは思いきって尋ねてみることにした。

 

「──トレーナーは、本当に学園に残ってくれるんですか。さっき、みんなの前で話してくださったときには、この先はまだどうなるかわからないって、そういうことでしたけど」

 

 ああ──と理子は微笑む。柔らかい笑顔だった。

 

「もちろん私個人としては、ぜひ残りたい気持ちです。貴方たちの未来を見てみたいというのも、本心からのものです。しかし今の私がそれを一存で決められる立場ではないというのも、また事実ですから」

「……それは、理事長が決めるんですか」

「そうですね……正確には、秋川理事長とそのほかの理事たちによる話し合いと、その後の議決によって決まります。とりあえずは明日の午前中に最初の話し合いがおこなわれることになったので、そこでどうなるか……正午ごろには大筋が決まっているとは思いますが」

「もし樫本トレーナーが追い出されるなんてことになるなら、アタシも学園を辞めるつもりです」

 

 リトルココンがそう言うと、理子は驚いた様子で目を見開いた。

 前から決めていたことだった。

 申し合わせたわけではないが、おそらくビターグラッセや<ファースト>の主力の何人かも、同じ気持ちでいるはずだ。

 <ファースト>は樫本理子の指導の正しさを証明するために、今日の決勝まで全てを賭けて走り続けていたのだ。その当人がいなくなるのなら、自分たちが学園に留まる意味はない。

 叱られるかもしれない──と思い、リトルココンは身を固くしてうつむいていた。

 ぽん、と肩に手が置かれた。

 顔を上げると、優しげな理子の表情がすぐ目の前にあった。

 

「リトルココン──貴方のその気持ちは、素直に嬉しい。貴方たちが私のような未熟者を見捨てずにいてくれることに、本当に感謝しています」

 

 リトルココンは頬が熱くなるのを感じた。こんなに間近で、理子から触れられながら話をするのは初めてだった。

 理子は優しい表情を崩さないまま、ゆっくりと首を振って続ける。

 

「しかしリトルココン──貴方は何があっても、学園に残らなくてはならない。学園を辞めることで失われるものは、貴方にとってあまりにも大きすぎる」

「樫本トレーナーの指導より大きなものなんて、アタシには考えられません」

「単に指導のことだけではないのですよ」

「樫本トレーナーの指導が、アタシにとっての世界一なんです。今日は、それを証明するために走りました。みんなに、そのことをわかってもらいたかった」

 

 リトルココンは挑むように理子を見つめた。

 納得がいかなかった。

 競走()養成機関としてのトレセン学園から樫本理子という一流の指導者が排除されるというのなら、この先そこで自分が得られるものは何もないと、リトルココンはそう断じていた。

 リトルココンの内心の憤懣をよそに、理子はまたもやわらかく微笑む。

 その柔和な表情の奥になにか寂しさ、あるいは痛ましさのようなものを感じた気がして、リトルココンは微かな不安を覚えた。

 理子が再びターフへ視線を戻したので、リトルココンもそちらを向いた。理子の細い手が、リトルココンの肩を抱くように置かれていた。

 

「ずっと──今日の貴方たちのレースを思い出していました。本当に、本当にみんな、素晴らしい走りだった。美しかった。そして、あんなにも美しく貴方たちが駆けられるのだということを、私はずっと間近にいたのに愚かにも知らなかった。知ろうとしていなかった」

 

 リトルココンはターフを見下ろす。

 あの芝の感触や匂い、蹄鉄を土に食い込ませたときの芝の根がこすれる微かな音までもが、まだ頭の中に鮮明に残っていた。

 そして──最後の競り合いの記憶が、まざまざと蘇ってきた。

 

「──でも、アタシは負けました」

 

 2勝2敗で迎えた今日の最終レース、リトルココンが出走したのは自身が最も得意としている長距離戦だった。

 そして自己最高のタイムを叩き出しながらリトルココンは2着に敗れ、その結果<ファースト>も準優勝という成績でアオハル杯を終えた。

 

「そう。──でも貴方は自分の限界を超えて、最高の走りをした。だからこそ貴方はビターグラッセやほかのメンバーたちと同じように、レース後に胸を張ってみせた。そうでしょう──リトルココン?」

 

 リトルココンは眼下の芝を睨みつけたまま、頷く。

 理子の言うとおりだった。

 けっして、勝負をおろそかにしていたわけではない。

 ただ今日は何よりも自分たちの限界を超えること、そしてそれを樫本理子と観客たちに示すこと、このふたつがチーム<ファースト>における最優先の命題だったのだ。

 レースの勝敗は、その先にあるものだった。

 

「アタシは……負けるかもしれないという予感がなかったと言えば、それは嘘です。でも、負けてもいいなんてことは、絶対に思いませんでした。……うまく、言葉にできないですけど」

 

 リトルココンが呟くようにそう言うと、理子が頷く。

 

「どんな競技者であっても、そうした葛藤を常に抱いているものなのです。貴方たちが立派だったのは、レースに負けても自分たちの走りの価値を減じなかったこと。だから、私も含めた観客の誰もが、レース後の貴方たちの姿に胸をうたれていた」

 

 理子の言葉は暖かかった。

 そして暖かであるからこそ、それが慰めでもあることをリトルココンは(さと)っていた。

 レースの直後には抑えていたはずの感情が不意に湧き上がってきて、思わず口にしていた。

 

「どうして、アタシは──負けてしまったんでしょうか。自分の限界を超えられたのに、最高の走りができたのに──なぜ」

 

 リトルココンは拳を握りしめる。

 レースの敵は、自分がどうあがいても勝つことのできない、それほどの強大な才能の持ち主だったのだろうか。

 そんなことはない。

 そんなことは、絶対にありえない。

 

 ──「アイツ」に、そこまでのウマ娘なんてこと、ぜったいに──

 

 その瞬間、理子が両肩を握るように手を添えてきて、リトルココンの想念は中断された。

 理子が、抑えた声で言う。

 

「リトルココン──そのことについては、本当に申し訳なく思っています。──すべては、私の責任でした」

 

 その声には、隠しようのない悲痛さが込められていた。

 リトルココンは即座に振り返り、勢い込んで反駁する。

 

「いいえ、違います、トレーナー。走ったのはアタシです。だからレースに負けたのは、ぜんぶアタシのせいです。アタシが、悪かったんです」

 

 理子はなにか痛みをこらえるような表情で、しばらくリトルココンを見つめていた。

 やがて、静かに言った。

 

「そのことについては、いずれまた話をしましょう──リトルココン。貴方はとても賢いウマ娘だから、きっとすぐにわかってくれると思っています」

 

 

 

 リトルココンは複雑な心持ちで、スタンドから選手控室へと通じる通路を歩いていた。

 あんなに近い距離で理子と話をしたのは、これまでにないことだった。

 ただ話をしたということにとどまらず、肩に手を添えられ、同じ方向を向いていた。

 真に尊敬する人物から特別な信頼を寄せられている──それはリトルココンの胸を無性に熱くさせた。

 自分の思い上がりかもしれない。あるいはトレーナーという人種がウマ娘を「のせる」ためによく使う、一種の手管なのかもしれない。

 それでも、もしかしたら自分は<ファースト>のメンバーの中では飛び抜けて、理子にとって特別な存在なのではないか──そう考えただけで、リトルココンは気分が浮き立ってきた。

 そして次の瞬間、ひとつの事実がリトルココンに冷や水を浴びせてくる。

 

 ──レースに負けた。いちばん大事なレースに。

 

 思わず、舌打ちが出た。

 浮き立つ気分は一気に、最悪に近いところまで落ち込んでいってしまう。

 レースに負けたことは腹立たしく、悔しい。

 だがそれ以上にリトルココンを苛立たせているのは、敗戦を自然に受け入れている自分がいたという事実のほうだった。

 

 ──負けてもいいなんて思わなかった。絶対に勝ちたいレースだった。でも……

 

 今日のレースにむけた練習を開始したときからずっと、「自分の限界を超える」ということだけに集中しすぎていた気がする。

 それというのも、あの「練習試合」に負けてしまってから、ずっと自分の「限界」のことばかりを考えるようになってしまっていたからだ。

 

「いや、あれはべつに負けちゃいなかったか……でも、あのときの『アイツ』は──」

 

 つい、声に出して呟いていた。

 何ヶ月も前のそのときのことを思い出そうと、口もとに手をやり、歩きながら思案に沈みかけたそのときだった。

 

「あ──あの、リトルココンさん!」

 

 すぐ背後から大きな声で呼びかけられ、リトルココンは文字どおり飛び上がった。

 慌てて振り向くと、当の「アイツ」が通路の端に立っていた。

 

 

 

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