朝早くからずっと、雨が降っている。
歩道のそこかしこに現れた水たまりを器用に
──昨日はあんなに、夕陽が綺麗だったのに。
憂鬱だった。
雨の日が特別に嫌いというわけでもないのだが、靴が濡れたり、水滴のついた傘を屋内に持ち込んだりする際の煩わしさを思うと、ついついため息が出る。
そしてため息を実際につくと、もうひとつの憂鬱の種が重く頭にのしかかってきた。
──やっぱ、やめときゃよかったか。
昨日の時点では悪くない考えだと思っていた。
しかしいざこうして「アイツ」と対面する段になると、やはり心のどこかに臆するものがある。
今朝は<ファースト>のメンバー数人にも声をかけて誘ってみたのだが、全員からつれない返事が返ってくるばかりだった。
ビターグラッセは自主トレ、他のメンバーも自分なりの予定があるということで、こんなときばかりは個人主義者で固められた<ファースト>というチームが恨めしくなる。
──まさかアイツのほうこそ、チームメイトを引き連れて来てたりしないよな。
リトルココンはその考えに至って、歩みの速度を無意識に緩めた。
さすがにそんなことはないだろう──と思いつつも、もし万が一そうなっていたとしたら針の
リトルココンは思案しながら待ち合わせ場所の駅前広場へ向かう方向からはずれ、大きく迂回する道に入っていった。
──約束の時間より少し遅れていって、もし「アイツ」が変な連中と一緒に来ているのが見えたりしたら、すぐに回れ右だ。
スマホの番号は聞いてあるので、キャンセルの連絡を入れてやればいい。
理由はどうとでもなるはずだ。チームのミーティングが急に入ったとでもしておけば、むこうもそれほど強く食い下がりはしないだろう。
リトルココンは、傘の柄をコツコツと爪で叩いた。
ほんの少しだけ、気が咎める。
──べつに……構わないでしょ。大もとは、あっちが言いだしたことなんだし。
リトルココンは胸の内で、昨日の通路での「アイツ」とのやり取りを反芻していた。
──だからべつに、そんなのもうどうでもいいってば。ていうか今の今まで忘れてたし。
『で、でも……どうしても、謝りたかったから……』
──……じゃあ、弁償でもしてくれる?
『うん……! それで、リトルココンさんが許してくれるなら』
──バカ、冗談だってば。まあ、あれもいちおう特製のドリンクではあったけどさ、一杯いくらとかそんなんじゃないから、たぶん。
『でも、あのことが原因で』
──モメたね。どういうわけだか野良レースも始まっちゃうし。……ま、あれは単にグラッセが勝負の口実にしたかっただけでしょ。アイツ、勝負バカだから。
『みんな、ケンカみたいになっちゃって……』
──べつに、今さらどうでもいいけどね。
『謝ろう、ちゃんと謝ろうってずっと思ってたのに、勇気が出なくて』
──ずっと謝ってたじゃんアンタ、あのとき。
『ちゃんと……謝れてなかったから。練習試合のときも、レースのことばっかりに夢中で……』
──わざとだった?
『え?』
──アタシのドリンクをこぼしたのは、アンタがわざとやったことだった?
『う……ううん、そんなこと、ない……! そんなこと、ぜったいしないよ……!』
──ならいいよ、べつに。もう気にしてないから。
『でも……でも……!』
思い出しながら、リトルココンは舌打ちしていた。
異様にしつこかった。
一年以上も前の、今となっては心底どうでもいいことを、どうして「アイツ」はあんなにもこだわって食い下がってきたのか。
「ちゃんと謝りたい」とは言うが、まさか通路のど真ん中で土下座させるわけにもいかない。そもそもそんなことをしてもらったところで、こちらが愉快な気持ちになるわけでもない。
相手をしているのが、面倒になった。
それで、つい思いついたことを口走ってしまったのだ。
──じゃあ、パフェでも奢ってよ。それで貸し借り無しのチャラ──どう?
<ファースト>に入ってからずっと、かつては大好きだった甘いものをリトルココンは我慢してきた。
課せられた食事制限を守り、レースに最適な体重を維持することが、理子の信頼に対する自分なりの応え方であると思っていたからだ。
それが昨日の最終レースが終わったあと、リトルココンを含む<ファースト>のメンバーのもとに降りてきた理子が、メンバーひとりひとりに労いの言葉をかけてから言ったのだった。
『明日は終日、各自の自由行動とします。祝日で授業もありませんし、ゆっくり体を休めるも良し、美味しいものを食べに出かけるも良し。自主トレーニングも疲労が残らない範囲内であれば構いません』
チームが結成されてから、何のタスクも課されない完全な自由行動の日が与えられたのは初めてのことだ。
予想外の休日に<ファースト>のメンバーは一様に戸惑いつつ、それでも明らかに高揚しているようだった。
困惑気味なのはリトルココンも同じだったが、「美味しいもの」という理子の言葉を聞いた瞬間に頭の中に浮かんだものがあった。
──駅前に新しくできたカフェが、看板メニューとして売り出しているパフェ。
同じクラスのウマ娘が開店初日に食べに行ったことを楽しそうに話していたのを、横で聞いていたことがあった。
そのときは自分には縁遠くなってしまったことと聞き流していたのだが、思いがけずチャンスが巡ってきた。
ひとりで行くのも心細いのでビターグラッセかほかのチームメイトでも誘ってみようかと、ミーティング直後にはぼんやりと考えていた。
もちろん理想は理子と行くことだったのだが、それはまずありえないだろうと頭の中からすぐに消去していた。
──なんで、「アイツ」なんかと一緒に。
よりにもよって、いちばん大事なレースで自分が競り負けた、その相手だ。
しかし「アイツ」と会うことに前向きな理由があるとすれば、やはりそのレースのことを話してみたいという思いがあるからだった。
──どうやってアタシに勝ったの、なんて訊いたって、まともには答えないだろうけど。
敵に自分の手の内を明かすウマ娘は、まずいない。
アオハル杯は終わってしまったが、トゥインクル・シリーズは今後もまだURAファイナルズが控えている。さらにはその後、ドリーム・シリーズへ出場することもあるだろう。
今後の対戦の可能性を考えれば、レースの詳細を別チームのウマ娘と話し合うなどありえない話だった。
だが、レースに勝ったほうは総じて気分がいいものだ。
上手くのせて気分をもっと良くしてやれば、むこうから勝手にペラペラ話し出すかもしれない。
レースの敗因について自分と理子との間には意見の相違があるようだが、敵方から情報を引き出すことで新しい見地が開ける可能性もある。
そこに思い至ったからこそ、まだ昨日の時点ではこれが悪くない考えだとリトルココンは思っていたのだ。
それでもやはり、友だちでもなんでもない相手と一対一で会って食事をするというのは、どうにも気が重くなる。
鬱々としながら歩を進めているうちに、駅前広場へと着いてしまった。
──いた。
雨のせいか広場には普段よりも人出が少なく、傘をさしたウマ娘がそこに立っているのが、尻尾のおかげもあって遠目にもすぐにわかった。
ひとりだった。
時間を気にしているのか、落ち着かなげに手もとのスマホをチラチラと見ている。
広場のアナログ時計で確認してみると、遅刻は15分ばかりのものだった。
リトルココンはしばらく逡巡していたが、覚悟を決めて一歩を踏み出した。
「ごめん──遅れた」
視界に入らない方向から間近まで歩み寄って、リトルココンは声をかけた。
勢いよく「アイツ」が振り向く。
また、泣きそうな顔だ──とリトルココンはその表情を見て思った。
「ああ──よかったぁ」
本当に心から安堵したようだった。
しかしすぐに、表情を引き締めるようにして首を振り、続ける。
「ううん、ううん──大丈夫。ライスもちょうどさっき、来たばかりだったから。ぜんぜん、ぜんぜん待ってないよ」
無理につくった窮屈そうな笑顔で、ライスシャワーは言った。
リトルココンは横を向いて視線をそらした。
さっそく、居心地が悪くなっていた。
「──雨の中、待たせちゃって、悪かったね。ちょっと……道に迷っててさ」
つまらない言い訳をしてしまってから、ひどく後悔した。
こんな駅前で、道に迷うもなにもない。
気まずくなって横目で窺うと、ライスシャワーは硬い笑顔のまま首を振った。
「ううん、いいの──ぜんぶ、ライスが悪いから。今日の雨も、きっと」
リトルココンは思わず首をかしげて、ライスシャワーを正面から見つめた。
言っている言葉の意味が、よくわからなかった。