雨と心と、レースと、甘いもの   作:狂猫病

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雨上がりに

 店を出ると雨はすっきりと上がっていて、眩しいほどの陽光が差していた。

 往来する人も車も、雨が上がるのを待っていたかのようにその数を増やしている。濡れた路面に車のタイヤがこすり合わされる音が、街のそこかしこから聞こえてくるようだった。

 申し合わせたわけではないのだが、ふたりはどちらからともなく学園への帰り道についていた。

 ずっと、押し黙っている。

 微妙な沈黙に耐えきれなくなって、リトルココンは自分から口を開いた。

 

「いや──しかし驚いたよね。あの店員さん、アタシらのファンだったとかさ」

 

 ちらりと横目で反応を窺ったが、ライスシャワーはうつむき加減のまま、無言で頷くのみだった。

 リトルココンは焦り気味に言葉を継ぐ。

 

「でもさ、得しちゃったよね。初めてだよ、お代は結構です──なんていうの」

 

 カフェでの会計時、レジに立ったのは注文をとったあの背の高い店員だった。

 財布を取り出しかけていたふたりを軽く手で押しとどめ、声を落とした彼女が告げたのは、自身と店長がトゥインクル・シリーズの熱烈なファンであることだった。

 

『じつは昨日も観に行ってたんです、アオハル杯』

 

 当然、最終レースで激しく競り合いを演じたリトルココンとライスシャワーの名前と顔は、よく憶えていたという。

 トレセン学園のウマ娘が来店するのは初めてのことではないそうだが、昨日の今日であの熱いレースの当事者、それも1位と2位が連れ立って現れたので、店長はいたく舞い上がってしまっているとのことだった。

 

『今は年甲斐もなく恥ずかしがっちゃって、厨房に引っ込んじゃいましたけど。──で、これは他のお客様には内緒なんですが、昨日のあの感動と、今日来ていただいたことへのお礼ということで──』

 

 愛嬌たっぷりに片目をつぶってみせた店員を思い出しながら、リトルココンはなんだかくすぐったいような、落ち着かない心持ちがした。

 

 ──あの店員さん、アタシとライスのこと、本当の「仲良し」だと思ってたりして。

 

 隣をうつむき加減で歩くライスシャワーに、心の中で話しかける。

 端から見れば、連れ立ってパフェを食べに来て、ときに笑い合いながら話をしていたのだから、それはもうまごうことなき「仲良し」ということになるだろう。

 

 ──でも実際は、そうじゃない。

 

 一緒にパフェを食べに来たのは、それぞれに目的があったからだ。

 リトルココンにとってはライスシャワーからレースのことを聞き出すためで、ライスシャワーからすればリトルココンのドリンクをこぼしてしまったお詫びをするためだ。

 すっかり溶けてしまったパフェを前に笑い合ったあの瞬間には、確かに何か、ふたりの間で通じ合っているものがあるような気になっていた。

 だが今、店を出てからこうしてずっと押し黙ってしまったライスシャワーの横を歩いていると、それは自分の勝手な思い込みだったのではないか──とすら思えてくる。

 

 ──本当の「仲良し」なら、きっとこんなふうじゃない。

 

 リトルココンは、自分がライスシャワーのチームメイトたちのような、「和気藹々(あいあい)」とした雰囲気を作れるようなタイプではないと十分に自覚していた。

 ライスシャワーが黙り込んでしまった理由がわからない。

 それを気にせず明るく話しかけることもできないし、あるいはその理由を優しく尋ねることもできない。

 こういうときにかぎって、妙に緊張してしまう自分の性格が(いと)わしい。

 気まずい時間が流れていく中で、足もとの水たまりをただ小器用に避けて歩くことばかりをしていた。

 

「あのね、ココンさん──ライスはずっと、思ってたんだ」

 

 突然ライスシャワーが言葉を発したので、リトルココンは思わず背を伸ばしてしまった。

 見ると、ライスシャワーは畳んだ傘を胸の前で握りしめるように持っていて、前方のどこか遠くを見る眼をしていた。

 

「ずっと──謝ろうって。ココンさんにしっかり、あのときのことを謝らなきゃ、って」

「あのときのこと──って、例のドリンクのときのこと?」

 

 尋ねると、前方を見つめたままのライスシャワーはこくりと頷く。

 ゆっくりと歩みを進めながら、リトルココンはうつむいた。

 

 ──そんなのもう、本当にどうだっていいのに。

 

 そのどうだっていいことにライスシャワーがいまだにこだわり続けている理由は、つまりリトルココンが本物の「友だち」ではないからだ。

 あのこぼしたドリンクがリトルココンのものでなく、ライスシャワーのチームメイトのものであったのなら、このように一年以上も引きずるような事態になっていない。

 ライスシャワーはその場で平謝りに謝るだろうが、チームメイトはあっさりと笑ってそれを許しただろう。

 ライスシャワーが故意にそんなことをするなど絶対にありえないと、チームメイトたちは知っているからだ。

 今ではそうしたライスシャワーのまっすぐな心根(こころね)を、リトルココンも十分にわかっていた。

 

 ──でも、あのときのアタシは違った。

 

 <ファースト>を取り巻くすべてが、自分たちを憎んでいる「敵」だと思っていた。だから、それが過失であるという言い分を信じるなど、到底できなくなってしまっていた。

 

『──わざとじゃないのにドリンク丸々ひっくり返しちゃうって、ありえないから』

 

 リトルココンは、目の前の水たまりを蹴り上げたくなった。

 得意気に決めつけていたあのときの自分を、ひっぱたいてやりたい。

 ライスシャワーのチームメイトたちがあの場でそうしなかったことに感謝してもいいと、今さらながらそう思った。

 

 ──アタシはバカだ。大バカで、しかも性格が悪い。最悪だ。最悪のウマ娘。

 

 リトルココンが胸の内で悪態をついていると、不意にまたライスシャワーが言った。

 

「あのときのことをちゃんと謝りたかったから、だから、パフェのお代はちゃんと払いたかったんだ。そうじゃないと──」

「そうじゃないと?」

「ライスは、ココンさんに伝えることができないって、そう──」

 

 そこで、ライスシャワーは唇を引き結んで言葉を止めた。眼は、じっと遠くのほうを見ていた。

 その横顔をしばらく見つめたあとで、リトルココンはまたもうつむく。

 伝えることができないとは何のことか──そう尋ねることはできなかった。

 答えは決まっている。

 

 ──アタシとは、もうこれきりってこと。貸し借り無しのチャラ。だから、おしまい。バイバイ──。

 

 そこに思い至って、リトルココンは胸をひどく締めつけられた。

 そんなのは寂しすぎる──はっきりと、そう思った。

 カフェでの、ライスシャワーのあどけなく愛くるしい笑顔が頭から離れない。

 あんなふうに、レースで競った相手と自分が笑い合えることがあるなどと考えたことは、一度としてなかった。

 今までのすべてを賭けたレースで競り負けたことは、本当に悔しい。

 しかしその悔しさ以上に、あのレースを、あの競り合いの瞬間を共有した相手と通じ合うことができたという、その事実のほうがずっと嬉しかった。

 

 ──でもライスは、アタシとは違うんだ。ライスは「良いコ」で、アタシは「悪いコ」。

 

 リトルココンは唇を噛んだ。

 自分が「悪いコ」であることを否定するつもりはない。

 だが、自分自身を軽蔑したままでいるのだけは嫌だった。

 だから、せめて謝ろう──と思った。

 謝るのは、それでライスシャワーに許してもらいたいからではない。

 あのドリンク事件などというくだらないことで、ライスシャワーがいつまでも思い悩む必要なんてありはしないと、そう伝えたいだけだった。

 リトルココンは顔を上げ、向き直って言おうとした。

 

「ライス、アタシこそ──」

 

 言いかけたところで突然、腕を引かれてリトルココンはつんのめった。

 すれ違うようにして(たい)を入れ替えるライスシャワーを、凝視した。

 バッ──と景気のいい音を立てて、持っていた傘をライスシャワーが開く。

 リトルココンは(いぶか)しく思った。

 ライスシャワーは車道の間に立ちふさがるようにして立って、奇妙にも開いた傘を横向きにしていた。

 次の瞬間、ザァッという音がやって来た。

 路面と傘を叩く、水飛沫の音だ。

 騒がしい重低音を響かせながら、一台の車が通り過ぎていった。

 眼で追うと、車道に溜まった雨水を歩道へと派手に跳ね上げ続けている。

 歩行者の男性が水を引っかけられそうになって跳びすさり、車の走り去っていく方向に悪態をついていた。

 

「大丈夫、ココンさん──? 濡れなかった?」

 

 傘を畳みながら、ライスシャワーが振り返って言う。

 リトルココンはまだ呆然としたままだったが、どうにか頷いてみせた。

 

「ああ──うん。アタシは、へいき」

「よかった──あ、腕、痛くない? ライス、とっさに引っ張っちゃったから……」

「大丈夫、ぜんぜん、腕、痛くないから」

 

 鸚鵡返しに言ってしまって、自分の言葉のぎこちなさにリトルココンは少しだけ吹き出しそうになった。

 ライスシャワーがさらに尋ねてくる。

 

「靴は? 濡れてない?」

 

 自分の足もとを確認して、リトルココンは首を振った。

 ライスシャワーは心底から安堵したように、よかったぁ──と言って笑顔を向けてくる。

 

「ライスのせいで、ココンさんの靴が濡れちゃったらどうしようって──」

 

 そこでリトルココンは初めて気がついた。

 ライスシャワーのほうの靴は、泥水をまともにかぶっていた。白いソックスも、水を吸って変色している。

 素早く立ちふさがるようにしてライスシャワーがかばってくれたおかげで、リトルココンはいっさい濡れずにいた。

 濡れた靴を意に介した様子もなく、ライスシャワーは(てら)いのない笑顔を向けてくる。本当に、リトルココンの靴が濡れなかったことを心から喜んでいるように見えた。

 リトルココンはふと、思い出した。

 去年の十月、季節外れに暑かったあの日だ。

 練習場の脇にある芝生の上で、ライスシャワーはリトルココンのドリンクボトルを手に立ちつくしていた。

 振り向いたときの顔は、今とは対照的な泣き顔だった。

 こぼれたドリンクで日向の芝が濡れて、光っていた。

 今は目の前で、傘から落ちる雨水の(しずく)が陽光を反射させ、煌めいている。

 

 ──同じだ、あのときと。

 

 リトルココンは直観した。

 泣き顔と笑顔──正反対の表情でありながら、それはコインの表裏のように、ひとりのウマ娘であるライスシャワーを両面から形成している。

 自分が周囲に不幸を振りまいていると、ライスシャワーはそう思い込んでいる。

 それは、普通なら見過ごしてしまうような、他人の些細な不運までもが不幸として見えてしまう同情心の深さがゆえのものであり、その不幸に対して無力であった自分を責めるという、他者への複雑で過剰な優しさをもったライスシャワー自身による「呪い」だ。

 その「呪い」がずっとライスシャワーに付き纏い、彼女を苦しめてきたことを、リトルココンは言葉よりも深い部分で感じ取っていた。

 優しすぎるがゆえの苦悩を哀れに思ったが、それを解く(すべ)について、リトルココンには見当もつかなかった。

 薄っぺらな言葉のひとつふたつで解決するようなものなら、とっくに周囲の気のいいチームメイトたちによって、ライスシャワーは無用の苦悩から解放されているはずだろう。

 「呪い」はすでにライスシャワーの根本的な人格部分に深く喰い込んでいて、不可分に近いものになっているのではないか。

 精神科医でもカウンセラーでもない自分にできることなどろくにありはしないのだということを、リトルココンはわきまえているつもりだった。

 

 ──だけど。

 

 リトルココンは水たまりを踏んで、ライスシャワーに一歩近づいた。

 伝えるべき言葉があった。

 それだけは絶対に、伝えなければならなかった。

 傘を持つその小さな手を、両手で握る。

 驚くほどに小さな手だった。

 

「ありがとうね──ライス」

 

 ライスシャワーが大きく目を見開く。

 ついでまばたきを繰り返し、忙しく眼を泳がせると、うつむいてしまった。

 ひどく赤面している。

 こんなに照れたウマ娘の顔を見るのは初めてかもしれない、とリトルココンは胸の内で思った。

 

「あの……べつに、そんな、ライスは……ただ、車が前から来るのが見えたから……あ」

 

 うつむいた拍子に、自分の靴が濡れていることに気がついたようだった。リトルココンにむかって首を振って言う。

 

「あのね……これ、雨用の靴だから。だから……べつに、平気、だから」

 

 途切れ途切れに言うライスシャワーに、リトルココンは首を振った。

 

「違うよ、ライス。今だけのことじゃなくて、これまでのこと、ずっと」

「これまでのこと……?」

「そう。ライス、アタシは……これまでの、ぜんぶ、アンタに……ありがとうって」

 

 口をついて出たのは、驚くほどにぎくしゃくとした言葉ばかりだった。

 これじゃあ何も伝わらないじゃないか──とリトルココンは焦ったが、ライスシャワーは眼を輝かせるようにして、リトルココンの手に自分のもう片方の手を重ねてきた。

 

「それ……! ライスも、ライスもそう、ココンさんにずっと伝えたかった! これまでのこと、ずっと──ライスと一緒に走ってくれてありがとうって!」

「ずっと、一緒に……走って?」

「うん! ライスはずっと、練習のときも、ココンさんと一緒だったから……! それに、本番のココンさんはもっともっと、練習のときよりもずっと速くて……だから、あんなにすごいレースができたって……! ライスがひとりだけだったらぜったいにたどり着けないところまで、連れて行ってくれたんだって」

 

 勢い込んで話すライスシャワーに圧倒されながら、リトルココンは、そうだったのか──と初めて気づいた。

 練習で一緒だったというのは、ライスシャワーのイメージトレーニングのことなのだろう。

 レース本番でふたりはともに自己ベストを更新し、自他ともに認める最高のレースをつくり上げた。

 そしてライスシャワーはそのレースの礼を言いたいがためだけに、あの大昔のドリンクの一件をなんとしても詫びようとしていたのだ。

 「いいレースだったね」などという誰もが社交辞令として口にする決まり文句を、何のわだかまりもない状況にしたうえで、ライスシャワーは心からリトルココンに伝えたかったのだ。

 ただ「ありがとう」と、すっきりとした気持ちで伝えるためだけに。

 痺れて動けなくなっているリトルココンに、ライスシャワーが熱っぽく続ける。

 

「今日も、いっぱい、あのレースの話ができて嬉しかった……! あんなにキレイなお店の、あんなに美味しいものを食べながら、ココンさんはすごく自然で、堂々としていて……やっぱりすごい! ココンさんは、すごいウマ娘なんだって!」

 

 すごいウマ娘はアンタのほうだよ、ライス──リトルココンは声には出さず、心の中でそう言い返し、ただ、笑った。

 ライスシャワーも、笑う。

 ふたりで手を握り合って、笑っていた。

 やがて、歩道の真ん中で手を握って笑い合うふたりを見る、歩行者たちの視線が気になってきた。

 奇異なものを見る眼が大半ながら、ときに生暖かいような視線を投げかけてくる人も混じっていて、なんとも居心地が悪い。

 

 ──だから、そういうキャラじゃないんだってば、アタシは。

 

 リトルココンはさりげなく手を外そうとしたのだが、傘を持っていない側で握りしめている片手をライスシャワーはけっして離そうとせず、ほどくことができなかった。

 本当の「仲良し」のように、手を繋いだ格好になってしまっている。

 ライスシャワーは満面の笑顔だ。

 

 ──まあ、たまにはいいか……こういうのも。

 

 リトルココンは首を振って照れを振り払った。

 手を繋いだままのライスシャワーにむかって言う。

 

「──また来ようね、ライス」

 

 ライスシャワーがこの上なく嬉しそうに、力強く頷いた。

 リトルココンは前を向く。

 陽光があまりに眩しくて、眼に刺さるようだった。

 息を大きく吸って、一歩を踏み出す。

 

 さあ──学園に帰ろう。

 

 

 

 

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