選抜レースを見た日の夜。
既に消灯時間は過ぎ、トレセン学園の校舎内にはトレーナーや教員の他にはいないような時間帯。
「あー……疲れたぁ……。毎度毎度の事ながら、どうしてあんなに書類が多いのか……あ?」
窓の外。トラックコースの方に人影が見えたような気がして、思わず足を止めて注目した。
うっすらとだが、誰かが走っているような……。
「……いや、走ってるな。なんか赤いのと白いのが見える」
ような、ではない。
遠目なのでハッキリとはしないが、とりあえずトレセン学園指定の体操服の紅白は見えた。
一応と思ってスマホを確認してみるが、やはりトラックコースの照明の消灯時間は過ぎている。
消灯時間を過ぎている、という事は、ウマ娘たちは既にそれぞれの寮に帰っていなければならない時間のはずだ。
確かに、たまに遅くまで自主トレーニングをする娘はいるが、それにしたってこの時間にはもう寮に帰っている。
「……まさかな」
走っている“彼女”が果たして誰なのか。
オレは確信めいたものを抱えながら、急いでトラックコースまで向かった。
階段を駆け降り、すぐに靴を履き替えて、トラックコースまでダッシュして――やがて見えてきたのは
「はぁっ……はぁっ……」
案の定。
そこにいたのは、追い詰められた横顔の“彼女”だった。
選抜レースも走って――あんなにスタミナを消耗してのゴールだったはずなのに。
今にも倒れ込んでしまいそうなほど消耗しているのが傍目にもわかってしまうその様子に、声を上げずにはいられなかった。
「そこのウマ娘! 無茶し過ぎだぞ!」
と、そこでようやくこちらの存在に気付いたらしい彼女は、膝に突いていた手を離し、まるで何事もないかのように直立して、不機嫌そうに口を開いた。
「は……? なに、アンタ……」
「それ以上は怪我に繋がる。その辺でやめとけ」
「……うるさいな。関係ないでしょ」
「や、でも――!」
と言葉を続けようとした瞬間、彼女の不機嫌の色が怒りの色に変わった。
「ッ、ああああああもう! うるっさいんだよ、どいつもこいつも!!」
まるで藁焼きのようにカッと勢い良く燃え上がる彼女の怒りの炎。
「『無茶するな』『それ以上は危ない』、で次は!? どうせアンタも言うんでしょ、『お前には向いてない』って! 『身体が小さ過ぎる』! 『手脚が細過ぎる』! 『お前はレースに出るべきウマ娘じゃない』! ――全部全部、聞き飽きたっつの……!」
烈火の如き勢いとその剣幕に、口を噤まざるを得ない。
「けど、いい!? 何を言われようが、アタシはターフに立つから! バカにして、見下してきた連中全員に――『ざまあみろ、アタシのいるべき場所はここだ』って、ウィナーズサークルで、笑って見せつけてやるんだっ!!」
そして――気付く。
彼女の瞳に宿っているもの。
それは紛れもなく、苛烈にして確固たる、勝利への渇望だった。
『あああああーーーーっ!! い、いたぁーーーータイシィーーーーン!!』
一触即発とも言えるような緊迫した空気が漂う中、それを両断するように、そんな声が段々近付きながら聞こえてきた。
地面を蹴る音が段々と近付いてきて――やがてその音と声の主と思しきウマ娘は、彼女の隣にピタリと付けて止まった。
「こんな時間まで何してるんだよぉおおおおー!! コースのライトも消えてるのにっ、危ないよ!?」
彼女の横で足を止めたその黒く短い髪のウマ娘は、彼女に向かってそんな事を言う。
「ウザ……アンタこそ何しに来たわけ?」
先ほどまでの怒りの色はどこへやら。
しかし不機嫌そうな色を残しつつ、どこかバツが悪そうに顔ごと視線を逸らして、つっけんどんに彼女は問い掛ける。
黒髪のウマ娘の方は、こういった事には慣れっ子なのか、彼女の刺々しい言葉には特に気にした様子も見せず、困ったように眉根を寄せて言葉を返す。
「迎えに来たに決まってるじゃん! 全然寮に帰って来ないから心配したんだよ、タイシン〜……!」
どことなく親しげな様子を感じるやり取り。
……だが。
「……アンタに心配される筋合い、ない」
と、彼女はそう吐き捨てて、スタスタと去っていく。
黒髪のウマ娘は「あぁっ!? ま、待ってよタイシィーーーン!!」と言って、去っていく彼女を追いかけるようにして去っていった。
照明の落ちたトラックコースに、ひとりぽつねんと残されてしまった。
「ナリタタイシン……か」
我知らず、胸の鼓動が高鳴ってくる。
名家が血統でぶん殴ってくる。
それが、オレがこのトレセン学園に来てからの『レース』というものだった。
名家でないにしても業界では有名なウマ娘の娘であるとかが、とにかく頭ひとつやふたつ抜けている。
他のウマ娘も光るものは持っているのに、そうしたウマ娘の影に隠れてしまって今ひとつ光れずにいる。
昔テレビで見ていたレースは、結局はそういうものなんだと思っていた。
「……母さん。オレ、また夢が見れそうだよ」
そんなつもりはなかった。
どうせなら何も決めないまま、適当なチームのサブトレーナーとしてお世話になって、いずれ適当なタイミングでトレーナーを引退しよう――なんて考えてた。
だから、今回沖野さんが持ってきた話だって、本当ならその場で断ってしまいたかった。……まあ、沖野さんの手前、そうはしなかったのだけれども。
だけど、“本物”を見てしまった。
大きなハンデを背負いながら、しかしそれに挫けずに立ち向かっていくウマ娘を、この目に、脳裏に、焼き付けてしまった。
こうなってはもう戻れない。
昔の、無邪気にウマ娘を応援してた頃の自分と、トレーナーになる事を決意した時の自分が顔を出して、『やっちまえよ』と言ってくるのだ。
これには、今のオレは降参するしかない。だって、まだ燃える情熱がここに残っている。
「弱っちまうよ、ナリタタイシン。今日のこの日にお前を見てなければ、こんな気持ちになる事もなかったんだ」
まずは、彼女を知るところから始めよう。
ナリタタイシンというウマ娘。
抜群の末脚のキレを持つあのウマ娘は、本当はどんな走りをするのか。
過去のレースの映像データでもあればいいんだけど……。
◆
明けて翌日。
オレは書類仕事が一段落したのをいい事に、ナリタタイシンの事を調べ始めた。
とりあえず欲しいのは、トレセン学園入学以前の彼女のレース映像……ってところか。
「とは言っても……トレセンに来てから鳴かず飛ばずのウマ娘のレース映像が、果たしてあるのかどうか……」
問題はそこだ。
結局のところ、トレセン学園におけるナリタタイシンの立場というのは『およそレースには向かないハンデを背負ってなお、往生際悪くいつまでもレースに固執するウマ娘』という感じだろう。
昨日の大先輩の言からして、前々からトレセン学園を去る事を勧められていただろう事は想像に難くないし、あの性格でもってそれを突っ撥ねてきたんだろうという事もわかる。
それは選抜レースで見せたあの無理な先行策からしても、容易に想像出来る事だ。
そんなウマ娘が、トレセン学園入学以前にどのようなウマ娘であったのか。
どのようなスタイルでレースをしていたのか。
仮にあの選抜レースと同じような事をしていたのであれば、データなど残ってないだろうし、そもそもトレセン学園への入学すら厳しいはずだ。
地方ならばともかく、ここは中央なのだから。
「…………お?」
ふと、ひとつのバインダーが目に入った。
背表紙には『ナリタタイシン』と書かれている
早速とばかりに手に取ると、いくつかの書類資料と一枚のCD-Rがあった。
「あった、か。……さて、お前はどんなレースをしてたんだ?」
手元のノートパソコンで早速CD-Rを読み込むと、ひとつの動画ファイルがあった。
これを再生すると、ちょうど、入学前に行われたらしいレースの映像が再生された。
動画内の、コースを走るナリタタイシンの表情には、昨日のように追い詰められたような、焦ったような色は見受けられない。
それどころか、至って冷静にレースを進めているように見える。
位置も、選抜レースのような先行策ではなく、差しと追込の中間のような……ともかく、後方から進めていく作戦を取っている。
レースの展開自体は結構……いや、かなりのスローペースだ。
スローなレース展開は逃げのウマ娘が最後まで脚を残せるから、先行有利なレースになるのが普通なんだが……。
「……へぇ」
映像の中のナリタタイシンは、その『レースの常識』をぶち壊していた。
驚くべきキレ、恐ろしいまでの瞬発力。
まるで鬼神をその身に宿したかのような圧倒的な疾走で、見事、ナリタタイシンは1着の栄光をその手にしていた。
「っと、そうだ」
バインダーの中の書類をめくり、このレースに関わる資料を見つける。
映像ではスローペースなレース展開だったから、レース前半のタイムに関しては『まあ、そうなるな』という感じのタイムだったが――レース後半、特に上がり3ハロンに関しては同距離の別レースと比べても、自分の目を疑いそうなタイムを記録している。
「なんともはや……。確かにレースってのは究極的に言えば、ラスト3ハロンだけ他の誰よりも速ければ勝てるんだけど……それにしたってこれは……」
ただ、これで裏付けが取れた。
昨日の選抜レースの時……ナリタタイシンがスパートをかけた時に見せたアレは、間違いなく彼女の武器だったんだ。
気持ちが逸って先行策を取ったせいで無駄に消耗してしまってるからラストの追込が難しくなってるが、後方に位置して、最後まで落ち着いて脚を溜められたなら――!
「――は、ははっ、はははははっ! 最高かよ、ナリタタイシン……!」
ゾクゾクと背筋が震える。
否応なしにテンションが上がる。
「ナリタタイシン……ナリタタイシンだ」
オレがスカウトするのは、あのウマ娘しかいない……!
そう考えてからの行動は、我ながら速かった。
ノートパソコンからCD-Rをイジェクトし、諸々の資料と共に元あった場所に戻して部屋を後にする。
休み時間という事でウマ娘たちが銘々に過ごしている校舎内を歩き回り、ようやく見つけたナリタタイシンに小走りで駆け寄った。
オレが駆け寄るのと同時にこちらに気付いたらしいナリタタイシン。
その横には、昨日彼女を迎えに来ていた黒髪のウマ娘がいる。
「……アンタ、昨日の」
少し意外そうな声色と表情のナリタタイシン。
覚えていてくれたのか、と思うと同時に、何かを察したらしい黒髪のウマ娘が口を開いた。
「あッ!! 昨日の夜にタイシンと一緒にいたトレーナーさんだ!! これは、もしかしてもしかして――スカウトッ!?」
はい正解。
「正解ッ! 正解した君には飴をあげよう」
「ありがとう!!」
「いや…………は?」
瞳も顔もキラッキラの黒髪ウマ娘と、聞こえはしたが頭が理解を拒絶しているという顔のナリタタイシン。
「な……なに、それ。昨日あんだけキレられといて、どういう……」
「……ナリタタイシン。お前の過去のレースの映像を見させてもらった。色々と言いたい事はあるんだが――とりあえずひとつ、どうしても言っておきたい」
「…………なに?」
「お前の末脚は素晴らしい――!」
「…………はぁ。で?」
「オレと一緒にウィナーズ・サークルに立ってくれ!」
そう言い放った途端、ナリタタイシンが複雑そうな表情になった。
……はて、なんだろう。
「…………か」
と口を開いたのは、ナリタタイシンではなく、隣の黒髪のウマ娘。
「げ……」
苦々しい表情のナリタタイシンから、そんな声が漏れる。
まるでこの先にある展開を予想してて、それに辟易しているような声だ。
「か、か、か、か――――」
カカカカッ?
「がんどうじだぁあああああああーーーーーッ!!!!!!」
叫ぶようなその声と同時に、ぽろぽろと涙を流し、それを右手で拭き左手で拭き――とやっている黒髪のウマ娘。
え、なに?
もしかして泣き上戸の娘か?
「熱いッ!! 熱いよこのトレーナーさん!! タイシン、きっとこの人、いい人だよぉぉぉぉーーーー!!」
……なんか知らんが『いい人』認定された。
理由はよくわからないが……まあ、それ自体は嬉しいな。
「ウザ……いい人判定ガバガバのクセに……」
ガバガバなんだ……。
……えっ、大丈夫かこの娘。
トレセン学園のウマ娘たちは一般的には中高生と同じ扱いだけど、悪い人に連れて行かれたりしやしないか?
「それでそれで、スカウト受けるのッ!? 契約、しちゃうのッ!?!?」
「だ、誰がこんな暑っ苦しいのと――」
そっかー、暑苦しかったかー。
……うん、まあ、それはそう。
近くにオレよりテンション高い娘がいるから、一周まわってなんか冷静になってきたわ。
さっきまでのテンションなんだったの?
「――そうか。君さえ乗り気であれば、万事解決だったのだが」
「え――」
不意に横合いから、涼やかな声が差し込まれた。
声のした方を見れば、トレセン学園の我らが生徒会長、皇帝シンボリルドルフの姿があった。
「割り込み失礼。しかしながら、急を要する案件だ。同行頼めるか、ナリタタイシン」
「か……会長さんッ!?」
「……それから、椎名サブトレーナー。君にも同行願おう。乗りかかった船……知らん顔というわけにもいくまい?」
「まったくで」
こちらはナリタタイシンにスカウトを掛けている側。
確かに知らん顔は出来ない。
極めて神妙な顔のシンボリルドルフに連れられてやって来たのは、生徒会室だった。
応接用のテーブルにつくよう促され、こちらのソファにはナリタタイシンが。反対側のソファにはシンボリルドルフが、それぞれ腰を落ち着けた。
「さて……何故君を呼び付けたのか、だが。単刀直入に言うと――君に退学勧告をすべきだ、との声が大きくなっていてね」
神妙な面持ちのまま、シンボリルドルフはそう切り出した。
退学勧告……か。
「努力のためとはいえ、度重なる門限破り等の校則無視と併せ――最近は成績も揮わない、体調にも不安があると指摘されていたな」
その言葉がシンボリルドルフから放たれるのと同時に『やっぱりか』と思った。
昨日、あの大先輩に指摘されていたように、ナリタタイシンは成績も揮わなければ、それによって生じた焦燥から体調も思わしくないと思われているのだ。
まして、度重なる校則無視……同じく昨日の、消灯時間後もなお続けられていたトレーニングは、以前からあった事だという話である。
それらを踏まえての退学勧告の推奨。
思うところがないわけではないが……然も有りなん、といった感じだ。
「私も反論はしているが、正直、四面楚歌といった具合だ。……そこで、君に協力を要請したい」
「協力……?」
「ああ。今述べた意見自体は、主に学園の教官やトレーナー陣から上がっているものだが……これを覆すに最も有効なのは、君の力を、可能性を示すこと。――どうか全力で悪評を覆してくれ、ナリタタイシン」
にこやかに、しかし有無を言わせない雰囲気でシンボリルドルフはそう締め括った。
「……さて。こちらからはひとまず終わりだ。よく考えておいてくれ」
「…………はぁ」
気のない返事をして、ナリタタイシンはおもむろに立ち上がり、出入口のドアから外に出ていく。
「……結構、崖っぷちなんだな」
「ああ。私でも庇いきれないところまで来てしまう」
「それはまた。随分と追い詰められたもんだ」
「椎名トレーナー……いや、兄さんなら、どうする?」
シンボリルドルフ――ルナ――が、試すような顔でこちらを見る。
「まあ、幸いにして求められてるものは単純だ。トレセン学園に置き続ける価値を示せ、とね。……彼女より、オレが言われる事かと思ってたが」
「サブトレーナーとしての仕事は、しっかりやっていると聞いているよ?」
「買い被りだと思うがね。……ともあれ、だ。その価値をウマ娘が示そうとしたら、レースしかないだろ。人を集めて、模擬レースをして……かな」
「うん。私も同意見だ」
鷹揚に頷くのに連動して、前髪の三日月メッシュが揺れる。
……改めて思うけど、不思議な髪だよなぁ。
「手伝っては貰えるのかな?」
「……さて、オレはまだチームスピカ預かりのサブトレーナーなんでね。領分を超えて好き勝手は出来ないさ」
「ふふ。期待しているよ、兄さん」
「あんまり期待してくれるなよ、ルナ。オレにだって出来る事と出来ない事とあるさ」
「出来ない事にはそもそも首を突っ込まない――が、信条だったと記憶しているよ」
にっこりと笑う三日月……ではなく、シンボリルドルフ。
「快傑ライオン丸め……」
「如何に優れたヒーローでも、支えがなくては戦えないものだよ」
「言ってろ。じゃあな」
「ああ。またいずれ」