「いやキッツ……!」
準備運動を終えてタイシンを追いかけるように始めた坂路の往復をする事しばらく。
濡れマスクの事もあって、オレのスタミナはギブアップを告げようとしていた。
それでもどうにかやれているあたり、普段のトレーニングの効果があるのかないのか……。
「余計な事喋ってると息止まるよ」
と言いながら、涼やかな表情でオレの横を通り過ぎて坂を下っていくタイシン。
流石はウマ娘と言うべきか。
やはりウマ娘の身体能力はヒトを置き去りにしている。
……思えば、濡れマスクでフラットな道を走った事はあっても、坂道を往復した事はなかったなぁ……。
それでも普通の人よりは鍛えてるはずだし、水泳だって折を見てやって、それなりの心肺機能にはなってるはずなんだけどな。
何が違うのかしら。
考えられる事と言えば……取り込んだ酸素がどれくらい身体に循環するのか、って事かね。
医者やってる知り合いのじいさん曰く、息切れ――つまり呼吸困難ってのは、血中の酸素濃度が一定以下になると発生するらしい。
という事は、ウマ娘たるタイシンはオレより先に始めているにも関わらず、血中酸素濃度が始める前と比べて未だ一定を下回ってないという事になるわけで。
「やっぱ、身体能力だけじゃなくて、臓器からして、ヒトとは違うの、かねぇ……っ」
本当に同じヒトゲノムなんですか。
少しでいいから能力分けて欲しいもんだよ。
別世界の名前とその魂……か。
「走る事を宿命付けられた魂、って事かねぇ」
ナリタタイシンってのは、別の世界でも走ってるのかね。
小さい身体で、周りのデカい奴らに負けないようにって。
ヒトなんだかそれ以外の生き物なんだか、あるいはあそこにいるタイシンみたいにウマ娘とかそれに類似した生物なんだかわからないけど、もしそうなら、その別世界のナリタタイシンも頑張ってるといいなぁ。
「頑張ろうな、タイシン」
「はいはい」
再びのすれ違いざまに、そんな言葉を交わす。
知り合ってから日も浅いからかつっけんどんな感じはあるものの、なんとなく、仄かに、優しい感情が伝わってくる。
……さて。
とりあえずの目標はクラシック三冠で大丈夫だろう。
これを獲る事が出来れば、タイシンの望みもいくらか達成されると見ていい……かな。
三冠バなんてのは、誰の目にも――それこそ、何も知らない一般人に見せたとしても『へー、凄いんだ』くらいの感想は出てくるはずだ。
それを知っている奴に見せたなら、まず間違いなく、タイシンはこれまでの雪辱を果たせると言っていい。
欲を言えば、これを無敗のままで成し遂げたいところだ。
まあ、世の中そう上手くはいかないもんだが、上手くいかなくても無事に走って無事に帰ってきてくれれば、とりあえずはそれで十分だ。
別にクラシックだけが全てじゃない。有馬記念や宝塚記念記念みたいなグランプリレースもあるし、天皇賞だって歴史あるレースだ。
要はわかりやすい結果であればいいわけだ。中央所属の化け物級のウマ娘たちの中で、なお煌々と輝けばそれでいい。
「無事是名バ、ってな」
とはいえ……メイクデビューからそのまま皐月賞へとなったら、流石に期間が空きすぎる。
間にひとつふたつくらい、何か挟むべきか。
考えられるものとしては……そうだな……皐月賞と条件の似てるホープフルステークスや弥生賞がいいか。弥生賞はそのまま皐月賞のトライアルだから、いい選択かも知れない。
「……よし」
「何が『よし』なの」
……びっくりした。
えっ、もう往復して来たの……? 早くない……?
「や、とりあえず路線は決まったかな、と」
「クラシック?」
「わかりやすくな」
「ふーん……」
「ところで、随分早いな?」
「……アンタ、気付いてないの?」
「なにが?」
「さっきから立ち止まってんだよ、アンタ」
言われて気付く。
確かに、いつの間にやら足が完全に止まっている。
……おっかしいなぁ、走ってるつもりだったんだが……。
「あれぇ……?」
「ぷっ……。いいよ。そろそろいい時間だし、今日はもう上がりで」
「いや、でもな……」
「大体さ、そのつもりが無かったんだから色々準備もないじゃん。また明日でいいと思うんだけど」
「それはそう」
オレの都合に合わせてもらったみたいで心苦しいが、確かに今日は準備もないし、気付けば辺りも結構暗くなってきている。
タイシンにはレースの疲れもあるだろうし、流石にここいらで止めておくのが賢明かな。
「じゃあ、まあ、今日はこれまでって事で。ゆっくり休んでな、タイシン」
「言われなくても」
「……そういえば寮の同室は?」
「クリークさんだけど……」
「あー……なるほどぉ……」
「……なに?」
「や、うん。それはそれで大変そうだな、って」
スーパークリークによるトレーナー逆スカウト事件は、あれから随分と経ってはいるが、未だ記憶に新しい。
先輩トレーナーたちをして満場一致でダメトレーナー製造機と言わしめるスーパークリークが同室なら、タイシンも明らかなオーバーワークはするまい。
あのタマモクロスをして抗えないのだ。タイシンとて、なんだかんだでお世話されているに決まっている。
「……なに」
「いや、なんでも」
……案外、自分の事は全部自分でやってるかも知れない。
わかんないけど。
スーパークリークのあれは、母性とかではないはずだ。
いつだったか何かで、本来女性に母性本能というものは存在しないとかなんとか聞いたしな。
あれは……なんというか……そう、溢れ出る庇護欲と言うか、『育てたい』という願望がだだ漏れになっていると言うか。
ともあれ、そんなスーパークリークが同室ならばタイシンの抑止力としてはバッチリだろう。
タマモクロスよろしく低身長なタイシンは彼女の庇護欲をこれ以上なく刺激して、隙あらばお世話を進言して図らずともタイシンのストッパーになってくれるに違いない。
彼女は彼女でトレーニングがあるだろうが……なに、一度寮に帰ったら、流石のタイシンでもスーパークリークから逃げ出す事は叶うまい。
「んじゃ、また明日」
「……ん」
そっぽを向いて短く返事をしてくれたかと思えば、疲れなど感じさせない足取りでさっさと帰っていってしまうタイシン。
「嫌われてる……わけじゃ、ないんだろうけど……」
なんというか。
あの手のタイプの女の子と接した経験に乏しいので、今現在どういう距離なのかがよくわからない。
こちらの言う事は素直に聞いてくれている事から特段嫌われているわけではないという事は理解出来るが、これ以上距離を縮められそうな感覚もあまりない。
全ては時が解決してくれるのか……はたまた、特別歩み寄る必要があるのか……。
「……ま、いいか。結局、何するにもこれからなんだ」
とりあえずそれで納得しておく。
さて明日からのトレーニングは何を用意しておくべきかと、トレーニングメニューを考えながらトレーナールームへと歩き出す。
上手くやれますように。
◆
その日の夜。
追込策を得意とするウマ娘や各レースの資料を漁りながら机に向かってノートパソコンとにらめっこをしていると、スマホのメッセージアプリの通知音が鳴った。
「……あ?」
見れば、母親からのメッセージが届いている。
どういうわけかオレがトレセン学園に所属する事が決定してから、定期的に『担当の娘、決まった?』と尋ねてきている。
そして、今回も案の定それだ。
……いや、今回は頭に『そろそろ』とくっついている。
この母親、担当ウマ娘を恋人か婚約者の類と勘違いしちゃいないだろうか。
先達のトレーナーには当時の担当と籍を入れたと聞く人も多いが、まさかオレがそれになるわけがないだろうに。
「…………なんかなぁ」
文字入力スペースのキャレットの点滅を睨み付けながら、どう返したものかと悩む。
担当は得られたのだから素直にそう返せばいいのでは? と思われるだろう。
だが、この送られた文面からして、あの母の事である。そんな文章を見れば、まず姉に報告が飛び、父に飛び、両親のそのまた両親に飛び、挙げ句の果てには『お赤飯炊かなきゃ!』と、本人のいないどころか与り知らぬ場所で有頂天になってしまうに決まっている。
同じ事を、今はもう引退して久しいウマ娘たる姉が、トレセン学園に所属して初めてG1レースを勝利した時にした事がある。
故に、容易に想像出来てしまうのだ。
とはいえ、担当は決まったしサブトレーナーでもなくなったのは事実なので、それは一応伝えておくべきか。
「母さんが大騒ぎしませんように」
そんな願いを込めて、打ち終えた文字を送信する。
刹那、つく『既読』の文字。
そして間髪入れずアプリの通話画面が現れた。
「……それ見た事か」
とりあえず通話拒否をタップし、即座にスマホの電源を落とす。
これで次に電源を入れるまでは平和だ。
「さて、と。とりあえずスタミナとパワーの増強メニューでいくとして……問題は――」
オレに、追込策を得意とするウマ娘の面倒を見た経験がない、という事に尽きる。
チームリギルやチームスピカでサブトレーナーとしてやっていた頃も、所属するウマ娘にアドバイスしたりとかトレーニングを見てやるとかはしていた。
していたにはしていた……のだが。
非常に残念ながら、王道戦術とも呼ばれる先行策や差し策のウマ娘の方が絶対数が多く、逃げ策や追込策のウマ娘の面倒をみた経験なぞ、あってもサイレンススズカやヒシアマゾン程度。
……まあ、悲しい事にサイレンススズカはそもそもトレーナーがいなくても光る逸材であったし、ヒシアマゾンに関しては美浦寮の寮長業も任されている立場であるが故に、勘を忘れない程度のトレーニングしかしていない。
いつかの日にタマモクロスとも親しくなりはしたが、彼女にはきちんとトレーナーがいるのでオレの経験には数えられない。
「……ん。そういえば前に、先輩がなんか言ってたな。なんだっけ……?」
記憶を掘り起こす事しばらく、ようやく該当のものに辿り着いた。
マヤノトップガン。
逃げ、先行、差し、追込のどれもをこなせる驚異の脚質をしているウマ娘だと聞いた。
「惜しむらくは、彼女が天才型であるって事か……」
先輩トレーナーに曰く、マヤノトップガンは典型的な天才型のウマ娘だという事だ。
一を聞いて十を知り、理詰めより感覚で走り、その身に秘めた才能はあのナリタブライアンに比肩するほどだとか。
「最終手段、かな」
天才型は一足飛びに答えに辿り着く性質を持つが、反面、そこに至る過程を筋道立てて説明出来ないというデメリットを持つ。
……と、オレは思っている。
問題文だけで解に辿り着くのは凄いとは思うが、イコールの先だけを示されてもわからない奴にはわからない。問題文を読ませて、式を経て、イコールを以て、解としてやらなきゃならない。
そういう意味で、マヤノトップガンに追込策の教授をしてもらうという案はとりあえずナシだ。
「誰か、頼れる教師役っていねぇもんかね……」
タイシンの追込策は、言ってみれば昔取った杵柄。
最早焦る事も逸る事もなくなっただろう彼女が取り戻した、確かな自分の武器。
しかし、現状それは付け焼き刃程度の威力しか持たない。
メイクデビューなら問題なく勝ち切れるかも知れないが、その先……重賞レースを勝とうと思ったら、オレだけの力では足りない。
なんせオレには経験がないのだ。どれほど力になれるのかなんて、高が知れている。
「実家の手を借りる……か?」
幸いと言うべきかなんというか、実家はあのシンボリ家と縁がある。かくいうオレも我らが皇帝シンボリルドルフとは従兄妹の間柄であるからして、あれの小さい頃からよく知っている。
それだけに留まっていれば良かったものの、祖父母の祖父母の祖父母の――と、なにはともあれ何代も昔からウマ娘のトレーナーとしてやってきた我が家の家系からは、レース業界に名だたる名家に嫁いだり逆に娶ったり、あるいは婿入りしたり。
そんな人たちがいたのである。
ただ。
たまの親類縁者の集まり程度でしか顔は合わせないし、トレセン学園所属が決まってからこっちは実家に顔も出してない。
連絡こそ取り合ってはいるものの、昔よくしてくれたおじやおばの顔なんぞは薄れてしまって久しい。見れば思い出すだろうが。
それなのに、自分が初めて担当を得たからといって縋り付いていいものか。
第一、未だ一線で活躍している人たちばかりでもある。
日々忙しくしているだろうし、連絡を取るのは憚られる。
「……うん。まずは自分で、だな。二進も三進も行かなくなったら、その時は……まあ、まず親父を頼ってみようか」
そう決めて、我知らず止まっていた手を動かし、タイシンに課すトレーニングメニューの詳細を詰めていく。
初めての担当。頑張ろう……!