園田智代子が俺のクラスメイトだったらというやつです

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漫才・園田・マーガリン

「かめちゃん英語のワーク!」

 朝教室に入ってきて、俺の顔を見るなりそう叫んだのは井岡(いおか)だった。

「やってねー」

「んだよお! 使えねーなあ」

「どの口が」

 理不尽な罵倒に当然の権利として俺がそう言い返すと、井岡は紙を丸めて潰したみたいにくしゃりと笑った。

「冗談だって」

 井岡は半ば放り投げるようにして廊下側の自分の席にリュックを下ろすと、つかつかと歩いてきて俺の前の席に腰を下ろした。

 身体を回転させてこちらを向いたかと思えば、上半身を俺の机にだらりと倒れ込ませてきた。

「んだよ」

「どーしよ~、英語一限やんか~! 木村(きむら)ぜってえだりーキレ方するやん~!」

「じゃあさっさとやれよ」

 手を止めることなく、視線すら上げることなく俺はそう答えた。

「かめちゃん早くでかしてよ~! んで、俺に見せてや~!」

「時間的に無理」

「絶望」

「だから自分でやれって。今からやればギリ間に合うだろ?」

「めんでぃー」

「だりーなお前」

 井岡とは中学時代からの付き合いだ。得体の知れない糸でずるずると引き寄せられているように、何故かコイツとは同じクラスになることが多かった。

 だからコイツの性分も大体は分かっているつもりだ。俺自身、井岡の返事は予想がついていたし、実際ヤツの答えはその通りだった。

「だからはやく~!」

「うるせーよ、今集中してんだろが。ええと……三番か」

「何これ? ダ……ダ……ダンゲラ?」

デンジャー(danger)な。お前の頭がデンジャーだよ」

 俺がそう言うと、井岡はぽかんと間抜けな表情をした。

「は? どういう意味?」

「アホすぎて俺の皮肉も分かってないじゃんお前……」

「おめー、ちょっと英語できるからってあんま調子こくなよ!」

 井岡の声は、朝の比較的閑散とした教室にはよく響いた。

 教室にいたクラスメイトたちが一斉にこちらを振り向いて、俺は心臓にあと数ミリメートル、というところまで突然針先を突き付けられたような思いがした。

「ばっ、おまえ、声でけーって」

「やべっ」

 漫画みたいに慌てて口を両手で押さえた井岡は、きょろきょろとあたりを見回して幾つもの視線が自分たちに注がれていることを認めると、少し照れくさそうにした。

「さーせん、さーせん……」

 井岡が各方にぺこぺこと頭を軽く下げると、クラスメイトたちはみな苦笑して各々の世界に戻っていった。

 それを見届けて、井岡はへへ、と軽くはにかんだ。

「つい出ちった」

「屁みたいに言うな」

「……ぷっ、ぷふっ」

 俺のツッコミの後、抑えていたのが遂に漏れ出してしまったような――そんな笑い声が、斜め左後ろから聞こえてきた。

 やった、と思った。俺が最大限にさりげなくそちらをゆっくりと振り向くと、このクラスの頂点に等しい存在が、くすくすと笑っていた。

「ふふっ、ご、ごめんね……! 亀屋(かめや)くんたちのやり取りが漫才みたいでさ、つい……ぷ、ぷくくっ!」

 彼女――園田(そのだ)智代子(ちよこ)を笑わせるのが、最近の俺のひそかな楽しみだった。

 

 

『今をときめく現役女子高生アイドル特集! 最後は、スタジオにもお越しいただいている園田智代子さんについてご紹介していきたいと思います!』

『チョコちゃん、よろしくね~』

『はいっ! 放課後クライマックスガールズのチョコアイドル、園田智代子です! ――それでは~っ、VTR! どうぞ~っ!』

研一(けんいち)、チョコちゃん出てるよ!」

「言われなくても分かってるって」

 軽く焼いた食パンにマーガリンを塗っていると、キッチンから母さんの大声が響き渡った。

 朝はパン派だ。母さんもそれを分かっているから、朝に米を炊く時はいつも俺以外の分だけを炊いている。

『チョコが大好きなチョコアイドルとしてファンには親しまれている園田智代子さん! 本日はその魅力について、たっぷり紹介していきたいと思います!』

 女性ナレーターのはきはきとしてよく通る声が、母さんのだみ声とは対照的に耳に引っ掛かりなくスムーズに入ってくる。

 スプレッダーにこびりついていたマーガリンが粗方食パンに移動したのを確認すると、ゴルフのグリーンで芝目を読むようにしてマーガリンの広がり具合を確認する。

 芝目を読むのはカップインの確率を上げるためだが、マーガリンの芝目を見るのは旨いパンを食うためだ。

 と言っても何のことはない、パンの全体にマーガリンが行き渡っているか色をさっと確認するだけだ。ゴルフでも芝の色を見て葉の多い場所を確認するらしいが、そこまで大層なものでもない。

 しかし気分はツアー大会に参加中のゴルファーになって、俺はマーガリン・レベルを丹念にチェックする。朝にどれだけ完璧なパンを食えたかということが、俺のその日のモチベーションだったり、パフォーマンスだったりに関わってくるような気がしているからだ。

『園田さんは千葉県出身の一七歳! アイドル活動の傍ら学業もこなしている現役女子高生アイドルなんです!』

 油分の広がり具合に満足して、早速一口齧る。瞬間、マーガリンの濃厚な味わいがパンの柔らかな甘みに調和している見事な快味――数年間俺が磨き抜いてきた洗練が、舌の上に広がった。

 七五点。

『趣味はスイーツ店巡りで、公式プロフィールにも特技は“たくさん食べられること!”と書かれているのは、ファンの皆さんならもちろんご存知でしょう!』

 今日の出来は決して悪くはない。けれどまあ、そこまで良くもない。平均点よりはやや上、というところが総評だった。

『チョコアイドルというのはただのキャラ付けではありません! 園田さんは普段から色んなチョコを食べているんだとか!』

「研一、チョコちゃんの特集だって!」

 俺の返事が聞こえなかったのか、母さんがまた大声でそう言った。

「だから分かってるって、うるせーな! 朝からあんま叫ばんでくれ!」

『チョコちゃん、最近オススメのチョコってある?』

『ええ~?! オススメか~……あ! そういえばこの間事務所の近くに――あ、私たちが所属している283プロダクションですね! その近くにクレープ屋さんができたんですけど、そこのチョコバナナクレープが絶品で……! もう毎日食べちゃってます!』

「ちょっと~、ちゃんと見なくていいの~?」

「別に学校行けば会えるんだしそんなありがたいもんでもねーよ」

 それは半分嘘だった。最近はアイドルとしての活動が忙しいのか、園田は前よりも学校を休みがちになっていた。

 もちろんいる日といない日でいうといる日の割合の方が高いが、いる日でも午後からの登校だったり、逆に午前中での早退が増えてきている。

 また、正直興味はあった。メシなど今すぐぶん投げてテレビにしがみついて園田の特集を見たい気持ちだったが、このお節介でミーハーな母の前でそんなことをするのは癪だった。

『――園田さんは実はトーク力もすごいんです! こちらは園田さんがレギュラーを務める番組のロケ映像なんですが、少しご覧ください――』

 母さんが自分の分のトーストと牛乳をトレイに乗せて、俺のはす向かいに座った。トレイには苺のジャムの瓶も置かれている。

 俺が使っていたそれとは別の、まだ綺麗なスプレッダーを瓶の中に突っ込みながら、母さんは羨ましそうに溜息を吐いた。

「アイドルが同じクラスにいるなんてほんとドラマみたいだよねえ。あんた、その幸せを噛み締めなさいよ」

「へいへい」

『スタッフだけでなく、通りががった街の皆さんも笑顔を浮かべています。園田さんは――』

 母さんが引き揚げたスプレッダーの上には、ぷるりとしたゼリー状の赤いジャムがこんもりと載っている。母さんはそれを、焦げがついているくらいにこんがりと焼かれたパンの上に塗りたくった。

 俺はウェルダンよりはレア気味――食パンの焼き加減を形容する言葉としてこれが正しいのかは分からないが――の方が好きだ。今食っているそれだって、オーブントースターに入っていた時間はほんの僅か。父さんからはしゃぶしゃぶみたいだな、と言われたことがある。

『ここまで見ていただいたように、老若男女問わずに愛されるキャラも彼女の魅力ですが、チョコアイドルにはふさわしくない抜群のプロポーションにもご注目!』

「わ、チョコちゃんすごい身体してるねぇ! 研一、見てみ」

「だからそんな興味ないって」

 それも嘘だった。正直ものすごく興味はある。

 だが母親の前で性にがっつくことなど、一般的な男子高校生にはおよそ不可能だろう。

 しかし全くテレビを見ないというのも不自然だ。俺は実に何気なく、パンを口に運ぶ過程でたまたま目に入ってしまったという(てい)を装って、テレビの方をちらりと見やった。

 すると何かのMVだろうか、砂浜で同じ放クラのメンバーたちとともに水遊びをする園田の姿がそこには映し出されていた。

『全力系アイドルユニットを謳う放クラ! その中でも特に溌溂とした印象の強い園田さんですが、時々垣間見えるセクシーさにファンはメロメロなんです!』

 朝のニュースでやる内容かよ。相変わらず明瞭とした発音で一切の滞りなくそんなことを宣うナレーションに、苦いものがこみ上げてくる。

 映像が切り替わり、今度はステージの上。やや露出の多い衣装で踊る園田の姿が、ハイライトで流されている。

『この食いしん坊なキャラに似合わない弩級のスタイルとのギャップが、園田さんの人気の理由のひとつでしょう!』

 胃がむかむかして我慢ならなくなり、テーブルのコップに注がれていた牛乳を一気に流し込んだ。

「ちょっと、それお母さんの!」

「ごめん貰った」

 牛乳は俺の不快感を押し流してはくれなかった。スタジオではコメンテーターとして出演しているベテランの芸人が園田をべた褒めしていて、それが一層むかつきを強くした。

「もー、自分のコップあるでしょ。なくなったんだったらまた()げばいいのに。成長期かっつの」

「まさにその通りだよ」

 テレビの中の園田は恥ずかしそうにしながらも、わざとらしく調子に乗ったような発言をしてスタジオの笑いを誘っている。

 その姿が何だか無理しているように見えて、このニュース番組のスタッフ陣やこんな仕事を園田にさせる芸能事務所、そして何もできない俺自身に対してどうしようもない怒りを覚えた。

 教室にいる時の園田は自然体だ。誰にも気を遣ったりすることなく、ありのままの彼女がそこにはいる――と思う。

 女子たちに比べれば俺は決して園田に近しい存在とは言えないが、男子の中では友人筆頭といえるくらいの関係にはなれているはずだ。だから俺が感じているこのやりきれなさのようなものは、きっと見当違いのものではない。

 次に園田に会った時は、また井岡と二人で彼女を笑わしてやろう。あの関西人と普通にやり取りしているだけで、彼女は天使のような笑みを見せてくれる。

『――放課後クライマックスガールズのフォースシングルが今月一四日に発売します! 二曲とも私たちらしいすっごくクライマックスな曲になってます! みんなっ、聴いてね~!』

 俺はそう決意を固め、食パンの最後のひと欠片を口に押し込んだ。そこだけ、マーガリンの塗りは若干甘かった。

 画面の向こうの彼女は、いつものそれとは嗜好が異なる――テレビ用の衣装のようだ――色彩の鮮やかな見慣れない制服を身に纏って、見慣れた笑みを俺に浮かべていた。

 

 

「かめちゃん、クライマックスアイランド最高やな!」

 朝教室に入ってきて、俺の顔を見るなりそう叫んだのは井岡だった。

「どう考えても拝啓タイムカプセルだろうが」

「オマエ表出ろや! 戦争じゃ!」

 俺が何とはなしにそう返すと、般若のような形相をして井岡が睨めつけてきた。

 俺も負けじと井岡に向かってメンチを切り、机を叩いて立ち上がる。

「おお、やってやるよ!」

「表行くかコラ!」

「こっちの台詞だコラ! 今更べそ掻いて謝っても(おせ)えからな!」

「それこそこっちの台詞だよコラ! ケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタいわしたるわ! 表行くかコラ!」

「上等だよコラ! 前からムカついてたんだよおめーにはよ!」

「ボコボコにしてやるよこの三下が! 表行くかコラ!」

「だから行ってやるよこの分からず屋が! 耳にタコできるくらい聴かせて拝カプ中毒にしてやんよ!」

「んだと! クラアイ最高に泣けるし最高やろが! 表行くかコラ!」

「しつけーよ! だから行くって言ってんだろうが! なめとんのかお前!」

「ぷっ! あはははっ!」

 よし。内心で思い切りガッツポーズをする。

 井岡の方も、ぱちぱちと片目でウインクを俺に送ってきている。俺も相棒への合図を、大笑いしている彼女に決してバレないようにこっそり返した。

「もー、亀屋くんも井岡くんも、ほんとに漫才みたい……! あはは……!」

 井岡は悪戯っ子のような顔をすぐに先ほどまでのチンピラのようなそれに戻し、『実に不満だ』という口調で俺を指差してきた。

「だってよおチョコちゃん、かめちゃんがクラアイはクソだなんて抜かすから……」

「んなこと言ってねえだろお前ぶん殴られてえのか?! クライマックスアイランドも最の高だったよ! ただ俺は拝カプ派だってだけだよ!」

 いくら舞台上での演技だとしても、その嘘は許せない。俺は半ば本気で井岡に怒鳴った。

「くくっ、二人ともほんとに……! ふふっ……!」

 井岡は無神経にも再び片目を開け閉めしている。俺は視線に殺意を籠めてヤツを見返した。

「でも、皆にも聞かせてあげたいくらいだよ! そんなに気に入ってくれたなら、レッスンも頑張った甲斐があるもんね!」

 園田は井岡の無神経な発言を気にしていないのか、花が咲くような微笑みを見せた。

「チョコちゃん……」

 井岡は感動したように園田を見つめ立ち尽くしている。コイツ、本当に後で一発殴ってやりたい。

 俺は園田との会話を続けるべく、魂が抜けたようになった井岡の代わりを継いだ。

「園田、そんなにレッスンしたの?」

「あ、うん! 歌もそうなんだけど、ダンスが結構難しくて……! 樹里(じゅり)ちゃんに教えてもらいながら練習したんだー」

「……へー」

「でね、今回のダンスはあの夏葉(なつは)ちゃんも割と苦戦してて……! 全体レッスンの時に樹里ちゃんがちょっと揶揄ってたんだけど、夏葉ちゃんずっと真剣な顔で練習しててね! 構ってもらえなくて拗ねてる樹里ちゃん、可愛かったなあ……!」

 おい。俺は今、ファン垂涎の超貴重な情報を聞いているのではないか?

「あ、ごめんね?! あんまり興味ないよねこんなこと! 私ってばついつい……えへへ」

「いや、そんなことないよ」

 おい井岡! さっさと目を覚ませ! お前は今超絶もったいないことをしているぞ!

 俺は園田にごく無難な、当たり障りのない返事をしつつも、先ほどまで殺意を抱いていた男に心中必死に呼びかけていた。

 俺の想いも虚しく、井岡は未だに別の世界にトリップしているようだった。気持ち悪い顔でどこか遠い場所を見てニヤニヤしている。気持ち悪い。

 その時、園田の後ろから別の女子が彼女に抱き着いた。園田が学校でいつも一緒にいるグループの中のひとりだった。

「チョコちゃん、何してるの?」

「わっ! もー、びっくりしたよー!」

「亀屋くんじゃん。もしかして、わたしのチョコちゃんにちょっかいかけてたー?」

 その言い方はまずい。俺が下心を持って園田に接しているみたいではないか。

「かけてねーよ」

「チョコちゃん、ほんとー? 亀屋くんに何かされなかった?」

「されてないよ?! 亀屋くんがそんなことするわけないじゃんかー」

 胸の中に、急に小鳥が飛び込んできたような喜びが沸き上がった。

 園田に信頼されているのだというくらくらするような恍惚感と、そしてその程度でここまで喜んでしまう自分の惨めさに対する陰鬱がミキサーにかけられて俺を満たしている。

「チョコちゃんの言う通り。かめちゃんが何かやらかす度胸があるとでも思うんか?」

 いつの間にか復活していた井岡が、園田の援護射撃に加わった。ありがたいのだが。

「お前はいちいちヒトの癪に障る言い方をしないと気が済まんのか?」

「ぶはっ」

「チョコちゃん?!」

「ひひっ、もう、止めてって……!」

 笑いすぎて苦しそうにお腹を押さえているアイドルとその背中を心配そうにさすっている女子、そして片目を閉じた奇妙な表情をしている男子二人。

 教室にいた他のクラスメイトがこの時見た光景は、きっと不可解なものに映っただろう。

 

 

「かめちゃんやべえよこれ!」

 朝教室に入ってきて、俺の顔を見るなりそう叫んだのは井岡だった。

「なにが?」

「これやって!」

 井岡が手に持っていたのは、ヤツのスマートフォンだった。その他に何か目を引くようなものを持っているようには見えなかった。

 眼が血走り、異常なくらいに興奮している様子の井岡にやや引きながらも、俺は相手をしてやることにした。

「どれ?」

「だからこれやって! 画面見ろ! 画面!」

 最早絶叫というレベルで『画面』と連呼され、俺の鼓膜の中に住んでいる誰かが井岡の声を思い切り打ち返さんとテニスラケットを構えている幻覚を見た。

 差し出されたスマートフォン、その中に横書きで書かれた小さな文字列を解読しようと目を凝らす。

「んー? 『チケットをご用意することができました。詳細はこちらからご確認ください』。……なんこれ」

「チケットや! チケット!」

「なんの?」

「放クラのワンマンや!」

 鳩尾を思いっ切り打たれたような衝撃が、俺の全身を駆け巡った。

「まじかよ?!」

「マジマジ大マジや! ほら見てみこれ! 当たってん!」

 井岡は売れないヘヴィメタルバンドのボーカルのように身体を小刻みに揺らしながら法悦の笑みを浮かべている。

 驚愕で血潮が逆上しそうな感覚に陥りながらも、冷静に俺は先週の井岡の言葉を思い出していた。

「でもお前こないだ抽選外れたって死ぬほど悔しがって――」

「オヤジや!」

「え?」

「オヤジも買っててん! 放クラワンマンのチケット!」

「それが当たったのかよ?!」

「当たったんや! しかも見てみい!」

 井岡がぶるぶると震える指先で指し示しているのは、『放課後クライマックスガールズ ONEMANLIVE 2021』と打たれている、その下――

「――ペアチケット、だと」

 その時、俺の脳裏にはまだ新しい――忌まわしい記憶が、古井戸の底から這い上がってくるように蘇ってきていた。

 チケットをご用意することができませんでした、という何度見たか分からないその文章。見る度に絶望に打ちひしがれ、そしてあの日は絶対に見たくなかったその文章。

 瘡蓋の下の傷は、未だに癒えていない。

 だが。

「オヤジが俺らのために申し込んでくれてたんやって! 今朝見たら当たってたから、お前とかめちゃんにやるって――」

「お前のお父様、最高だな!」

 俺は手を差し出した。心の友も何かを掴むように片手を差し伸べた。

 俺たちは固い握手を交わした。

 すると教室の入り口の方から、音楽のようにすべすべして甘く澄み透った笑い声が聞こえてきた。

「くくくっ、また漫才やってる……!」

「ち、チョコちゃん?!」

 井岡が調子はずれの甲高い声を上げた。

 その視線の先に目をやると、教室の入り口でおかしそうに腹を抱えた園田がそこに立っていた。

「ごめんね? 途中で声掛けようかと思ったんだけど、面白そうだったからついつい……!」

「いや、大丈夫! なあ親友?」

「お? お、おお」

「ぷぷ、亀屋くんあからさまに態度変えて……あはは、もうだめ笑っちゃう!」

 思いっ切り腹に力を入れて、俺は全力で平静を装った。そうしなければ、今にも気色の悪いにやつき顔――混浴風呂で若い女を待つおっさんとか、客が無防備に持っている食い物を狙う動物園のサルみたいなそれ――をしてしまいそうだった。

 教室に園田がいなかったので特に狙ったわけではないが、禍福は糾える縄の如しとはこのことだ。チケットがご用意されなかったからといって、何も絶望することはないと天は言っている。

 今朝のマーガリン予報は八四点だった。ここ最近の点数はずっと低迷していたが、急に高得点を叩き出したかと思えばこれだ。やはりこの予報は当たる。

 笑いすぎて少し涙目になっている園田――かわいい――が目元を腕で拭った。

「でも、言ってくれれば私の方で招待できたのに?」

「それは違う」

 自分の口から出た音にエコーが掛かっているような違和感を覚えた。何となく井岡の方を一瞥すると、ヤツもこちらを間抜けな顔で見ていた。

「わっ、ハモった!」

 俺たちは目を合わせて頷き合った。

 井岡が一歩前に進み出た。

「チョコちゃん、それは違う」

「え?」

「チョコちゃんの俺らに招待券をあげようっていう気持ちは嬉しい。すごーく嬉しい。けどな、こういうのは自分で手に入れないと意味がないんや」

「あ、それ、あすみちゃんも……」

「そのとおり」

 相棒の言葉を引き継ぐべく、俺も鷹揚に首を振りながら前に進み出る。

「園田から招待してもらいたいのは山々だし、身に余る光栄だ。ただ俺たちは、狭き門を自力で潜り抜けて――ゴールテープを切りたいんだ」

「何言ってんねんオマエ」

「急に冷静になってんじゃねーよ! 引っぱたくぞ!」

「おお?! なんじゃ貴様!」

「やるかコラ!」

「上等じゃコラ! 表出ろや!」

「行ってやんよコラ! おら着いてこいや!」

「……」

「だから急に冷静になるなっつってんだろ! まじでいい加減にしろよお前!」

「ぷっ、く、あはは……! もう勘弁してえ……!」

 朝の教室に、パーンという男と男が手を叩き合う音がした。

 

 

「かめちゃん昨日のキンマン見た?!」

 朝教室に入ってきて、俺の顔を見るなりそう叫んだのは井岡だった。

「見た」

「やばかったな! 俺まじでびびったで!」

 右の拳を強く握り締めて少年漫画の主人公のようにぷるぷる震わせている井岡の仕草は、本気なのかそれとも演技なのか。

 この男は大したことのない話でも、まるでキャプテン・キッドに街中で偶然出会った牧師の息子がそのことを語るときのように、尾びれどころか腹びれや背びれまで付けて話すという悪癖がある。

 あれはいつだったか。電車でたまたま隣の席にユーミンがいたから友達になったとかいう話を井岡がしていて、驚いた俺が詳しく聞いてみると実際は友達になるどころか一言二言交わした程度で、しかも隣の席じゃなくて隣の車両にいたから声を掛けに行っただけで、しかも結局その人はユーミンじゃなくてユーミンのそっくりさんだったというオチだった。

 その時から、俺は井岡の話はまず話半分に聞くことにしている。まあ今は、所詮テレビ番組の話だからそんな突拍子もない文脈に吹っ飛ぶことはないだろうが。

 『キンマン』は大手の芸能プロダクションが主催する漫才の日本一を決める大会であり、毎年テレビでも決勝戦の様子が生中継されている。

 今年の決勝には俺が好きな中堅トリオが勝ち進んでいたということもあり、昨日はテレビに齧りついてずっとハラハラとしていた。

 残念ながら俺の推しは敗退してしまったが、なんと優勝は結成三年目、彗星のように突然現れた若手のコンビが搔っ攫っていったということでツイスタのタイムラインは大盛り上がりだった。

「びびったな」

「いや、まさかだった! 生放送ならではってゆーか!」

『生放送ならでは』? 井岡の言葉のチョイスに若干の違和感を覚える。

 録画放送ではないリアルタイムならではの緊張感が感じられたという意味だろうか。まあ、それなら分からなくもない。

「確かにそれもあるかもな。まさか優勝が――」

「――まさか、チョコちゃんのCMが流れるなんてな!」

「は?」

 何の話だよ。

「は、って……見てへんかったんか?! ファーストステージの後に流れてたやん! リップのCM! 新作!」

「俺そんとき多分、トイレ行ってたわ」

「かめちゃんオマエ、まじかよ……?! 日本中が見てる漫才の頂点を決める番組のコマーシャルで、我らのチョコちゃんの勇姿が放送されたんやで?! それを見てへんて何事じゃ!」

「知らねーよシッコしてたんだから。……でも園田のCMって、あれか? 公式で告知してたやつ。あの枠で流れるって結構すごいことじゃないの?」

「だからびびったって言ってるやん! ツイスタのトレンド入りまでしてたで、チョコちゃん!」

 何。ツイスタはチェックしていたが、そこまでは気づかなかった。

「すごいなそれは」

「やろ?!」

 自分のことではないのに、井岡は隠しようもない得意顔を晒して、その鼻孔は芳香を嗅ぐように広がっている。

「誰この子かわいーとか、めっちゃキレイとかツイスタで言われてたで! まさか昨日、しかもあの枠で初めて流れるなんて思いもせんかったし、まじでサプライズやったわ……!」

「えへへ、照れます……」

 そしてここまで馬鹿みたいに騒げば、当然、同じ教室にいる園田の耳にも届く。

 多分井岡(コイツ)は、端からそのつもりで――園田の気を引きたくて馬鹿みたいに騒いでいたのだろう。というか、俺たち三人の会話の導入はいつもこのパターンだった。

「でも、ちょっと背伸びしてる感じだったなー、とか井岡くんは思わなかった? 私にはあのリップ、ちょっと大人っぽすぎるんじゃ? なんて思ってて……あはは」

「ぜんっぜん!」

 待ってましたとばかりに井岡は、席に座って勉強していた園田の方に向き直り、売れない舞台役者のように大袈裟に首を振った。

「めたくそバッチリだった! チョコちゃんイエベの、しかもスプリング寄りやと思ってたからああいうダークな感じの色すげー意外だったけど、でもくそ似合ってた! バーガンティーもイケるって、チョコちゃん最強やなって――」

 何の話だよ。

 俺の知らない関西弁を喋っているのかと思ったが、しかしどうやら園田には意味が分かっているようだった。

「ええ~、そうかな~?! でもありがとう井岡くん、そう言ってもらえてちょっと安心したよ!」

 心の底からそう言っているのだと、傍観者の俺でも見ていて感じ取れるような飾り気のない笑みを、園田は井岡に向けた。

 べらべらと立て板に濁流のように話していた井岡が、いつかのように凍りついた。園田とあそこまで隔てなしに会話できる男が、なぜそこでプラグを抜かれたロボットのように停止してしまうのか、俺は甚だ疑問だった。

 いや、大方の予想はつく。コイツは園田の笑顔に弱いのだ。特に、自分に向けられた笑顔に。

「――えっ、ああ、おん……!」

 今回の再起動は早かった。井岡は赤い顔をして曖昧に頷いた。

 誰が見ても、ああ、コイツは園田のことが好きなんだな、と分かるような仕草なのだが、当の園田は果たして気づいているのだろうか。

 そっと彼女の方に目を向けると、やはりというべきか、井岡の不自然な態度を全く変だと感じていないようで、そのまま話し続けている。

「それにしてもキンマン、面白かったよねー! 私も見てたんだけど、まさかあの人たちが優勝するなんて思わなかったよ!」

「――そう! そうなんだよ!」

 思いも寄らないところから俺のしたかった話題が湧いてきて、思わずそれに前のめりに飛びついてしまった。

 園田は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにまたリラックスしたような、俺が自然だと思っている表情になった。

「でもやっぱり、優勝するだけあってすっごく面白かった! 一本目のネタも大笑いしたけど、二本目のネタがツボっちゃって……!」

「いや、マジでそれ! こんな奴らが埋もれてたのかって、俺鳥肌まで立っちゃっ――たわ」

 園田と同じ感想だったことが嬉しくて、不必要なまでに大きな声が出た。慌てて語尾を抑えたが、園田は楽しそうに笑っている。

「亀屋くんって、けっこうお笑いとか好きなんだね」

「あー、まあ、そうかな?」

「亀屋くんと井岡くんって時々ほんとの芸人さんみたいに見える時あるんだけど、それが影響してるのかも?」

「え?」

 きっと青瓢箪みたいに冴えない面をしている男と、本場のたこ焼きの中に入っている紅生姜みたいな色の面をした男。

 温かな輪郭の線の中に見る者に親しみを与える柔らかさを閉じ込めた、俺が今までの人生で出会った中で最も華やかな顔立ちをしたクラスメイトが、そんな華のない男たちと向き合っている今の状況は、よくよく考えたら奇跡みたいなものかもしれない。

「私、いっつも二人には笑わせられちゃってるから!」

 

 

「かめちゃん! ついに来たなこの日が!」

 朝俺の部屋に入ってきて、俺の顔を見るなりそう叫んだのは井岡だった。

 階下から母さんの俺を呼ぶ声が聞こえてくる。

「研一、井岡くん来てるよー!」

 玄関前に来た時点で言ってくれ。部屋に入れてから言うなよ。

 そう怒鳴りたいが、起きたばかりでまだ脳が完全には覚醒していない。俺は小声で毒づくだけに済ませておいた。

 布団を被り直そうとすると、腕がにゅっと伸びてきて俺から夜の守り人を奪い取った。

「起きろや研一!」

「うるせーよ朝から……てか、来るのはええよ……」

「わくわくして眠れんかったわ」

「小学生かよ……」

 気を抜くとすぐに閉じてしまいそうになる瞼をなんとかこじ開け薄目でドアの方を見ると、今から登山にでも行くのかというほど大荷物を背負った井岡が立っていた。

「荷物多すぎだろ……」

「そうか?」

 どう考えてもそうだろ。あくびを噛み殺しつつ内心そうツッコむが、井岡は本当にピンときていない様子だった。

「なに入ってんだ? そのリュック」

「えーと、財布と携帯の充電器と飲み物と、上下の着替え一枚ずつと、替えの下着と靴下、タオル三枚、あと双眼鏡とタオルケット、ミニ扇風機、マスク、サングラス、色紙とペンと携帯食料と――」

「多い多い」

 今日は本当に登山の予定だっただろうかとやや心配になってきた。

 俺の記憶が確かなら、今日は放クラのワンマンライブの日だ。

「携帯食料とかギャグかよ。おい、ちょっと中身見せてみろ――うわ、ほんとに入ってるし」

「嘘つかんわ、別に」

「要らん要らん。財布とスマホだけでいい。まあタオルと飲み物くらいは持ってってもいいけど、手ぶらがベストなんだよこういうのは」

 井岡が目を丸くして、こちらをまじまじと見つめてきた。

「かめちゃん詳しいな。ライブとか行ったことあったんか」

「そりゃな。放クラのは初めてだけど」

「やるな」

 本気で感心したように、井岡はほうと溜息をついた。

「別に大したことじゃねえ」

「まあな」

「くたばれ」

 いつものように軽口を叩き合っているうちに、段々目が覚めてきた。

 身体を起こしてカーテンを開けると、まだ元気のない太陽がやんわりと俺の部屋に光を差した。晩秋の午後のような、重みのない透明な光だった。

 窓の冴えた輝きが仄かに色を薄めていて、それが今日という日が幸福なものになる前触れのように感じられた。

 よし、と膝を叩いて井岡の方を振り返る。

「三十分待て。シャワー浴びて歯磨いて、マーガリンチェックする」

「はあ?」

「知らねえのか? 俺の人生は、マーガリンに左右されてきたんだよ」

 

 

 マーガリンとバターは、見た目はそっくりだが実はそこには大きな違いがある。

 こういう時に、『価格』とだけ言い切ってしまうようなエレガントさに欠ける人間にはなりたくないと俺は常々思っている。だからマーガリンとバターの違いについても、俺は過去に調べたことがある。

 バターは牛の乳の脂肪分を攪拌させて塊状にしたもので、マーガリンは食性油脂――コーン油、大豆油、菜種油などが主体となっているが、それぞれの特性により様々な種類の油が使い分けられているらしい――などの原料を混合して練り合わせた加工食品だ。

 一八六九年。日本では明治二年、明治政府による中央集権強化のために版籍奉還が行われた年。戊辰戦争が終結した年でもある。その年、フランスではナポレオン三世の治世であり、隣国プロシアとの戦争でバターの欠乏状態が続いていた。

 そこでナポレオン三世がバターの代替品を懸賞に掛けて募集したところ選ばれたのが、イポリット・メージュ=ムーリエが考案した、牛脂に牛乳を混ぜて固めたものだった。公に採用されたそれは、製造途中でできる脂の粒子が真珠のように美しく輝いて見えることから、真珠を意味するギリシャ語『Margarite』から取ってマーガリンと名付けられた。

 そして現在までに色々と品質や風味の改良がされ、バターとは異なる、マーガリンというひとつの食材として世界中から愛されるまでになったのだ。

 どんなパンにも合う飽きのこない美味しさが、俺を魅了してから暫く経つ。

 今朝のマーガリンは、過去最高と言っていい出来の分布の仕方を食パンの上で見せていた。

 ソフトタイプのそれは、スプレッダーでも楽に切ることができ、塗り付けるのも比較的容易だ。もちろんよく火を入れて熱を持ったトーストの方が塗りやすいのは確かだが、焼かないままでも均一に広げられたセメントのような綺麗な塗布面を作ることができる。

 井岡を待たせていることなどお構いなしに丁寧に丁寧に塗ったマーガリンの地平線には、僅かな凹凸も見られなかった。

「九〇点だな」

「なー、いつまでバターいじくってんだよー……」

「これはバターじゃねえ、マーガリンだ。それに、もう終わった……いただきます」

 退屈している猫のようにソファーで項垂れている井岡を横目に、俺は産まれたての赤ん坊を抱き上げるみたいにそっとそれを手に持ち、宝の小箱が海に浮いているのを見つけた海賊船の水夫が、それをこっそり懐に入れるようにそっと、口の中に差し入れた。

 上下の歯を使って優しく嚙み千切り、ゆっくりと顎を動かして味わう。飲み込める程度に小さく、柔らかくなったパンの欠片を喉奥に押し込む。嚙み砕かれたものが食道を通過する印に、喉仏がぴくりと動いているのを感じる。

 俺の食事の様子を見て、井岡はうんざりとした表情をしている。

「……五分かけたマーガリンパンの味は?」

 そんなことどうでもいいけれどこれだけ待ったんだ、せめてこちらの納得のいく回答を寄越してくれ――そんな思いが滲み出ているような口調で井岡がそう訊いてきた。

 俺の答えはひとつだった。

「いつもどおりだ」

「死にさらせや!」

 クッションが飛んできた。顔面に当たりそうなところで危うく躱す。

「なにすんだ!」

「こっちの台詞じゃ! 何しとんねんオマエ!」

 未だ眠っている父さんの朝食を作るため、休日だというのに早朝からキッチンに立っている母さんは俺たちのやり取りに全く関わろうとせず、黙々とトマトを刻んでいる。

 対照的に井岡は、今にも殴り合いを始めてやろうかというテンションだ。

「いつも通りだからこそいいんだろうが! 大体、マーガリンの塗り方だけで味が変わる訳ねえだろ!」

「だったらはよ準備せえや! ライブに間に合わなくなるやろが!」

「開演何時だと思ってんだよ! 一六時だぞ! 今朝の八時だ! 来るのはええんだよ!」

「だからわくわくして眠れんかったって言うたやんけ!」

「ガキかよ!」

(わり)ぃかよ!」

「知らねえよ!」

「研一、井岡くん、お父さんまだ寝てるから静かにね」

「はい」

 わっ、ハモった。

 

 

 窓の外の景色は、轟々と流れる川のように忙しなく移り変わり、あまり馴染みのない街並みは俺の記憶に残る前に次から次へと過ぎ去っていく。

 病人の歯軋りのようなレールの軋む音は、棺桶の中にはよく響く。

「なあ、荷物これだけでほんまによかったんかな……」

 ライブ会場の最寄り駅に向かう電車の席で、井岡は先ほどから溜息ばかり吐いていた。

「まだ言ってんのか……だからあんまり持ち物多いとライブの時絶対邪魔になるからって言ったろ?」

「そうか……」

 井岡がここまで心配性だったとは知らなかった。石橋を叩かなければ橋を渡ることすらできない男の嘆きを、俺は耳に穴が空きそうなほどに聞かされ続けていた。

「……」

「……」

「……なあ、せっかくの日の昼メシがハンバーガーなんかで、ほんまによかったんかな……」

「あーあーうるせーなあ……じゃあ何ならよかったんだよ」

 一度ぶん殴った方がコイツの目も覚めるだろうか、などと半分冗談、半分本気で考えつつもそう問うと、井岡は腕を組んで難しい表情をした。

「……カツ丼?」

「なんでカツ丼がよくて、ハンバーガーはダメなん?」

「そりゃカツは、縁起もんやからやろ。 フライのカツと、『勝負に勝つ』の勝つが掛かってんねん。 かめちゃん知らんのか?」

「知っとるわ!」

「ちょ、かめちゃん声でかい……! ここ、電車……!」

「やべっ」

 慌てて辺りを見回したが、俺たちの方を向いている乗客はいない。というか電車の中はやけに混んでいて、高い人口密度に鬱屈としている乗客たちは、俺たちのことなど気にも留めていない様子だった。

「なんでこんな混んでるんやろな」

 井岡が不思議そうにそう小声で呟いた。

「まあ、みんなライブに行く奴らだろうな」

「え?! これ全員放クラのワンマンの客?!」

「ほんとに全員ではないだろうけど、九割はそうだろ。この時間にこの電車乗ってるってことは」

 そう言いつつ、俺は向こうに気づかれないようにゆっくりと、車両の端の方を指差した。

「ほら、あいつとか見てみろよ。リュックに杜野(もりの)凛世(りんぜ)の缶バッジみたいなの付けてる」

 俺の人差し指の先端は、いかにも普通のサラリーマンといった風貌の男――あまりアイドルとかそういうのには興味がなさそうなタイプに見える――を結んでいた。

 長年使い古した感じのボロい背嚢には、しかしこちらはピカピカでよく手入れのされていることが分かる缶バッジがぶら下がっている。

 ブリキ製の円盤には、俺も知っている人物の写真がプリントされていた。長い睫毛の下にすっと通った鼻筋、怜悧そうな眼つきと若干青みがかった美しい髪は、放課後クライマックスガールズのブルーその人だった。

「ほんまや……」

「あっちにも」

 その男の隣の隣の隣、さっぱりとしたカジュアルな服装の二十代くらいの女が弄っているスマホのケースには、『KAHO KOMIYA』とローマ字で彫られている。

「あんなの発売されてたか?! 見たことないねんけど……」

「自作だろ」

 更にその女の五人分隣には、明らかにお歳を召した感じの、大福を踏みつけたような爺さんと、しわくちゃの饅頭のような婆さんという組み合わせの老夫婦が、俺たちの持っているそれと同じチケットを握り締めて優先席に座っていた。

「あんなジジババも来るんか……」

「流石に少数だろうけどな、ああいう人たちも偶に見るよ」

 それ以外にも電車の中には、明らかに放クラファンだと分かるような風体の人々が多く見かけられた。

 それらの人々は年齢や性別など様々で、まるで異世界の住人たちがこの電車の中で一堂に会したようなちぐはぐな光景を作り上げていた。ただ、皆が一様に遠足前日の小学生のような、うきうきとした雰囲気を漂わせているということは共通していた。

「……すごいんやな」

 井岡が、譫言のようにそう漏らした。

「すごいんやな、放クラって」

「なんだ、知らなかったのか?」

 俺は冗談ぽくそう茶化したが、井岡はそれを俺が本気で尋ねているのだと捉えたらしかった。

「……いや、知っとった」

 胸の中の最後の空気を吐き出すような、抑揚のない声だった。俺に言っているのか独白のようなものなのか、けじめのつかない言い方だった。

「知っとった」

 

 

 やはりというべきか、電車に鮨詰めになっていた乗客の殆どが俺たちと同じタイミングで電車を降りた。

 開演まではまだ一時間以上あるのにも関わらずここまで多くの人が既に会場に向かっているということに井岡は驚いているようだった。

 人の群れは同じ目的地を目指して歩み続けている。俺は小学生の頃の集団登校を思い出していた。

 その中にはちょっと変わった容貌の者――電車の中で見かけたサラリーマン風の男が身に着けていたような缶バッジを、全身に大量に付けてジャラジャラ鳴らしながら歩いている男や、黒いマジックペンで『樹里命』と手書きされた白シャツを着て、あまつさえそれを見せびらかすようにして歩いている男――もいた。

 ただ大多数は、どこにでもいそうな感じの平凡な、記号のような人々だった。

 結局のところは、個々の見た目はあまり関係がない。ここにいる人たちはみんな、放クラに――園田たちに会いたくて、彼女たちのパフォーマンスを見たくてやって来ている。

 しかし、俺の周囲の世界を構成しているような、日常を成り立たせているような、これぞと取り立てて紹介するようなところはひとつもない本当に普通の人たちが、園田に会うために決して少なくないお金と時間をかけて来ているという事実に、俺はどうしようもなく心を揺り動かされるのだ。

 俺の世界を構成する一部である園田智代子という存在が、こんなにも多くの人々を魅了し、傀儡同然に仕立て上げていることに、恐ろしく感動する。

 同時に、俺はこれ以上ないというほどの優越感に浸される。叫びだしたくなる。お前らが会いたくて会いたくて仕方がない園田智代子と俺は、毎日のように会っているんだぞと。

 それどころか学校のクラスメイトで、それどころか友人と言っても差し支えないくらいの仲で。お前らの誰よりも俺は、園田智代子と近い存在なんだぞと教えてやりたくなる。

 もちろん、そんなことはしない。できない。俺はそれができるほど図々しい神経の持ち主ではなかったし、それができるほど小心者でもない。

 けれど、園田智代子というアイドルが、俺という人間の価値を担保してくれる存在であることは、醜く惨めで直視できない事実でも、俺の中では間違いなかったのだ。

 不意に、ジーパンのポケットが震えた。スマホの通知を知らせるバイブレーションだった。

 スマホを引っ張り出して見てみると、通知はツイスタからだった。園田のアカウントが更新されたという機械的な報告が、俺の設定に従って画面のトップに表示されていた。

 ツイスタのアプリを開いて園田のアカウントをタップすると、そこには放クラの他の面々と仲睦まじげに写った園田の写真が載せられていた。

『放クラ初のワンマンライブ、ついに始まります!』

 俺は正直なところ、放課後クライマックスガールズのライブそのものに、あまり期待しているわけではなかった。

 亀屋研一のどこかに棲む陋劣な自尊心を満たすという目的が、きっとあった。俺は卑怯にも自分自身それに気づかないふりをして――園田のクラスメイトとして、彼女のファンとして――ここまで足を運んできていた。

 

 

『私のマックスは、きっと他の誰かの普通だったりします』と、彼女は言った。

『でも、そんな私が、ここでだけは特別になれる』と、彼女は言った。

『みんなの力で、特別にしてもらってるんです』と、彼女は言った。

『だから、私も特別な時間をお約束します!』

『私を見て、私の歌を聴いて、私のことを考えている間は!』

『みんなの時間を、特別なものにしちゃいます!』

 

 

 ライブが終わるのは、あっという間だった。

 開演して、園田たちが袖から出てきたかと思えば、いつの間にか割れんばかりの拍手と歓声が会場に轟いていた。

 気づけば俺は絶叫していた。井岡も、隣の二十代前半くらいの眼鏡の男も、後ろの三つ編みの野暮ったい女も、前の中学生くらいのガキも、皆叫んでいた。

 俺たちの声がうねりとなって会場全体を包んでいた。得体の知れない波のような何かが自分を攫っていく感覚が、しかし不快ではなくて、むしろ心地よかった。

 終わって欲しくない、と思った。俺たちに向かって頭を下げているステージの上の五人は、どうしようもないくらいに『特別』で、輝いていた。

 園田は、笑っていた。

 俺は、教室で、俺たちの馬鹿を見て笑っている園田が自然な園田なのだと――本来の彼女なのだと、そう思っていた。

 だけど、今、仲間と手を繋いで立っている園田を見ると、学校にいた時の彼女はきっと本物ではないのだと、そう思う。

 偽物ではない。彼女は間違いなく常にダイヤモンドで、驚くほどの美しい輝きを常に纏っている。

 しかしその煌めきは、完全なものではなかったのだと俺は知ったのだ。鏤められた宝石の屑の輝きを見て、俺はそれを結晶の輝きなのだと思い上がっていた。

 今の彼女は、太陽の下の月というよりまるで太陽そのもののような――ちょっと手を触れただけで皮膚がどうにかなってしまいそうなほど異様なくらいの眩さを放っていた。

 園田たちがステージを去っても、会場中が痺れるような余韻と圧倒的な熱気に狂酔していた。

 俺は天井を見上げた。無数のライトに照らされて白っぽく滲んでいる。いや、視界そのものが白掛かっているのかもしれない。白いレンズを透かして物を見ているような感覚が、先ほどから続いていた。

 半ば放心状態で俺は席を立った。数歩後ろから、井岡が黙ってついてくるのが分かった。

 表情のコントロールを完全に放棄していたから、井岡の目に俺がどう映ったかは分からない。呆けた様子を晒し続けていたかもしれないが、それを気にするような余裕はなかった。

 アメーバのように増殖を続ける人間の塊の中を俺たちは移動し続けた。

 蟻が小さな穴に群がり入るように、押し倒し押し返し人混みは駅の方角へ向かって動いていて、俺たちはその流れに逆らうことなく歩いた。

 駅に着くと怒涛の軍勢が我先にと改札を通り抜けていて、やはり俺と井岡はそこでも止まることなく歩き続けて、かき混ぜる工程を端折った卵焼きみたいにぎゅうぎゅうの電車に乗った。

 家の最寄りの駅に着く頃には、まずい卵焼きもまあ食えなくはないという程度のものになっていて、人にぶつかることなく俺たちは電車を降りた。

 改札を出ると、そこで俺と井岡は別れた。

 ライブが終わってから、俺たちはついに一言も話さなかった。

 

 

「はい、さよならー」

 担任のおざなりすぎる別れの挨拶を皮切りに、教室内の生徒たちは殆ど一斉に荷物を持って立ち上がった。

 ガタガタ、という机と椅子と床が乱暴に擦れる音がうるさいほどに響いた。

「『進路希望調査』ねえ……」

 ホームルームで配られたプリントの一番上中央に、でかでかと印字された文字を何となく読み上げてみる。

 最後にこれを見たのは――今年の四月か。二年生に上がってすぐに、これの回答で悩んだような記憶がある。

 前回は結局、無難な大学の名前を書いて適当に済ませたはずだ。自分の学力に見合った学校を選んで書いたからか、担任に何か言われたような記憶もない。

「帰ろうや」

 随分と高い位置から降ってきたその声の出所を見ると、井岡が鞄を肩に掛けて俺の机の前に立っていた。

 一六〇半ばの俺と違って井岡は一八〇センチは優に超えているから、その井岡から思い切り見下ろされるこの構図はやや居心地が悪い。

「ん、ちょい待ち」

 進路希望調査のプリントを半分に折って机の中に突っ込み、脇に掛けておいたリュックを手に取って立ち上がる。

「行くか」

 そう言いながら園田の席の方を見やると、彼女は友人たちの輪に囲まれながら楽しそうにお喋りをしていた。

 余裕そうにしているところを見ると、今日は()()の日なんだろう。

 放課後にアイドルとしての仕事がある日、大抵園田は忙しそうにバタバタとして真っ先に教室を出ていく。

「ねえ、チョコちゃんがテレビで言ってたクレープのお店行こうよ!」

「あ、いいねえ! 行こ行こ!」

「えーまた~?! 智代子こないだも行ってたじゃん、マジで太るよー?!」

「ダメっ、それは言わないで! それは言わない約束なのです……!」

「わたしキャラメルバニラかなー」

「うちストロベリーカスタード頼んじゃお」

「わ、どっちもいいなあ……! 私今日どうしよっかなー! キャラメル系もいいし、フルーツ系も捨てがたい……! あーでも、チョコアイドルとしての宿命が今日も私をチョコバナナに(いざな)ってしまいそう……!」

「アハハ、何言ってんの智代子ー!」

 耳を澄ませると、緩み切った教室の喧騒の中でも思いの外はっきりと会話の内容が聞き取れた。

 盗み聞きしているような気分になって、俺は慌てて歩き出した。いや、盗み聞きそのものだったかもしれないが。何も言わずに井岡もそれについてくる。

 教室を出ると流石に園田たちの声は聞こえなくなり、他の生徒たちの取り留めのない話し声や物音の束が周囲を満たした。

「部活ないって最高だな!」

 さっき園田たちの会話を聞いていたことが井岡にバレているのではないかと内心冷や冷やしていた俺は、それを誤魔化すために馬鹿みたいに陽気なテンションでそう言った。

 俺と井岡は同じバスケ部だった。タッパがない俺は控えで、デカい上に技術もある井岡はレギュラーという違いはあったが、体育館がワックスがけの為に休部なのは二人とも同じだった。

「……」

 てっきり俺と同じようにアホっぽく叫んでハイタッチでもしてくるかと思っていたが、井岡は棒杭のように押し黙っていた。

「井岡?」

「ん……ああ、そうやな」

 俺が不思議に思って呼びかけると、井岡は曖昧な相槌だけを打ってまた唇を水平に結んだ。

 二週間前のあの、放クラのワンマンライブに行った日から、井岡はずっとこんな調子だった。

 俺は井岡の変調の理由を考えつつも、この空気をもたせるために自分から何か話題を振るというのも嫌だったので、なぜか口を開かない井岡に倣って黙々と家路を歩いた。

 

 

 駅まであと二分というところで、徐に井岡が立ち止まった。落ちかけの陽が道路の端にある電柱に、巨大な影を作っていた。

 周りの湿度を含んだ空気は温度を上げ始め、首筋のあたりにじっとりとへばりつくような汗が滲み出しているのを俺は冷静に感じ取った。

 黒ずんだ雲の堆積の間から覗く一筋のそれを浴びて、白皙の顔が茜色に染まっている。

「……井岡?」

「……」

 渾沌と暗く固まった何かが口を塞いでいるのか、井岡は形容し難い妙な表情をして黙っている。

「どうした?」

 もう一度尋ねると、朝露の雫が葉先からぽつりと零れるように弱々しく、井岡は「なあ、かめちゃん」と呟いた。

「ん?」

「俺ら、芸人にならん?」

 思わず見上げた井岡の顔は、夕暮れ特有の、紅に金を混ぜた強烈な色彩の光に照らされながらも、豪奢で深い憂愁を秘めた色だった。

 奥の暗い灰色を快活な黄色で塗り隠すような、時間をかけて丁寧に描き上げられた絵画のような何かを感じて、俺は暫く井岡から目を放すことができなかった。

「……本気か?」

 やっとの思いで絞り出した俺の言葉をあざ笑うかのように、井岡は少しの逡巡も見せずに即答した。

「マジや」

「……なんで?」

 続けてそう尋ねると、初めて井岡はその表情を崩した。

「なんでって、そりゃ……なりたいからやろ」

「なんでなりたいんだよ」

「なりたいからや」

「答えになってねえだろ」

「表出ろや」

「やるか?」

 井岡が、トラクターのエンジンがかかったように笑い出した。俺もそれにつられて笑った。

「バカや」

「お前がな」

 乾いた砂をさらさらと掃くような風が、急に俺たちの間を拭き抜けていった。さっきまで微動だにしていなかった大気の、突然の気まぐれだった。

 街の騒音が、耳を快く擽った。それはまるで、春の野の蜂のうなりのように遠く霞んでいた。

 井岡は、今までに見たことがないほど真剣な表情をしていた。

「かめちゃんも、分かるやろ?」

「……」

「俺らさ、二年生になってチョコちゃんとおんなじクラスになって……めっちゃ楽しかったやんか。もち、チョコちゃんかわいくていい子だからそういう意味でも楽しかったけど、じゃなくて、俺が言いたいのは……」

 市中を奔る電車の響きが、岸辺を打つ波のように地面を揺らしている。俺にはそれが、ラジオのスピーカーを通して聞いているみたいに、どこか朧げなものに感じられた。

「チョコちゃんがさ、俺らのやるバカで笑ってるのを見るのが楽しかったって言うか……だからなんつーか、そういう人を笑わせるような仕事をしたいって思ったっていうか……」

 混じり合った異なる種類の豆を選り分けるように、井岡が言葉を慎重に選んで話しているのが分かった。

 また、風が一筋吹いた。耳元でぐるぐる捩れながら吹き過ぎていく風の音が、俺たちの間の何かを搔っ攫っていった。

「こないだのライブ、すごかった。衝撃やった。俺らのしょうもないボケで大ウケしとるような女の子が、ものすごい数の人の前で歌って、踊ってて。そんで、そのものすごい数の人間が全員、笑ってた」

「……」

「すげえ、って思った。負けられねえ、って思った。芸人になって、チョコちゃんよりももっと多くの人を笑わせてみたいって、そう思った」

 息継ぎをせずに滔々と話し続けている井岡は、苦し気だった。

「でさ、俺、そういうのをやるならかめちゃんとしかありえんやろって思って……俺がひとりでそういうのやってるとこ、想像できんくて……だから……」

「井岡」

 俺が名前を呼ぶと、井岡はびくりとした。自分よりガタイもよく大柄な井岡が怯えたような表情をしているのが滑稽だった。池に張った薄氷みたく、ヤツを隠しきれない不安が覆っているようだった。

 あのライブの日、絹の糸の結ばれて解きかねるようになっていた俺の中の何かが、傍より急にその一端を引かれていよいよ解き難くなっていた気がしていた。

 しかしその結び目は、馬鹿正直に元の一本の糸に戻そうとする必要はなかったのかもしれない、と俺は思った。具体的には、俺はいっそ鋏を取り出す気になるような、そういう決断が腹の中でついてしまっていた。

「な、なんや」

「やろう」

「……え?」

「やろう、芸人」

 あやふやだった気持ちが虫けらのように圧し潰されたような、そんな爽快感にも似た覚悟がある。

 それに、いつもアホ丸出しで笑ってる井岡が、今にも現実の世界から落剝してしまいそうな顔をしているのが見ていられなかった。

 俺がヤツの手を取って、いつものところに引き上げてやらなきゃいけない。

「俺とお前で。園田を笑わせるみたいに、日本中笑わせてやろう」

「……かめちゃん」

 引き上げて、そして。

 本物のダイヤモンドを、創り上げてやる。

「おい、芸人になるためにはまずどうすりゃいいんだよ」

 俺がそう言うと、井岡は神隠しにあったみたいにぽかんとした。

「……し、知んねえ」

「馬鹿か」

 俺は思いっ切りヤツの頭をひっ叩いた。

「芸人になるんだろ? そんくらい調べとけ、アホ」

 その時の井岡の間抜け面を、きっと俺は生涯忘れることはない。

 

 

「かめちゃん起きろ!」

 朝俺の部屋に入ってきて、俺の顔を見るなりそう叫んだのは井岡だった。

「起きてるよ」

「おお、珍しい」

「うるせえ」

 井岡はそのまま絨毯の上に座り込むと、テーブルの上に置いてあったコップをひったくり、くいっと一気に傾けた。

「うめえ!」

「俺の牛乳勝手に飲むな」

 ヤツが戻したコップの中には、パン食には切っても切れない魅惑の白い液体はもう殆ど残っていなかった。

「くそやろう」

「そーりー」

 井岡は普段過ぎるほどに普段通りだった。

「分かってると思うけど、俺今から朝メシだから。少し待て」

「うい」

 テーブルの上にあった、野球のボールが三個ほど入りそうな大きさのプラスチックケース。その蓋を取って、引っ越しと同時に合わせて買った俺専用のスプレッダーを中に突っ込む。

 ケースの中の白い宝石は、全く抵抗することなく金属の刃を受け入れる。冷蔵庫から出したばかりだというのに、それは既に適度な柔らかさになっていた。

 なかなか巨大な塊からすればほんのわずかな少量をスプレッダーで切り取り、手首を使ってうまいこと掬い出す。それを皿の上の食パンにべったり塗る。

 口が滑ってもトーストとはいえないような焼き加減のパンに、しかしすんなりとそれは馴染んでいく。これがバターならそうはいかない。

 ほどよく平らに塗り広げられたのを確認すると、ケースを冷蔵庫の元あった場所にしまい、使用済みのスプレッダーをシンクに放り投げておく。

 井岡が無言で見守る中俺は再び席に着き、両手を合わせて目を閉じた。

「いただきます」

「召し上がれ」

 俺の儀式に横槍を入れたクソを軽く睨みつけた後、脂肪分でテラテラと光っているパンを手に取る。

 視線を感じる。こうも見つめられると食いにくいったらありゃしないが、それも最近では慣れてきていた。

「……何点?」

 井岡が、固唾を飲むような雰囲気でそう尋ねてくる。

 俺は正直な採点結果を伝えることにした。

「百点」

「おお、マジかよ!」

 井岡は俺の返事に、子供じみた手放しの喜びようを見せた。

 時間があれば今にも街中の窓ガラスを磨きに飛び出しそうな井岡から顔を背け、俺はパンを頬張った。

 今日は三〇点だな、とか言っていたら井岡はどんな反応をしたんだろうか。意地悪い気持ちが沸々と湧き出してくる。

 しかし事実、今日のマーガリン・レベルは過去に類を見ない桁の数値だった。今までに一番高かったのは、放クラのあのワンマンライブの日だ。

 身体の内から、何か熱いものが昇ってくるような気がした。

 他人が知れば、馬鹿らしい、と思うかもしれない。くだらない、と思うかもしれない。

 俺だってそう思う。何がマーガリン・レベルか。確かに上手く塗れれば、最後の方で味の薄いパンを食べる羽目になったりはしない。逆に、一部分だけ濃すぎてしつこすぎる味になったりはしない。しかし結局は、均一でいつも通りの味の、普通に上手い朝メシを食うことができるという、ただそれだけだ。

 だけどこれが、俺にとっては大事なアンカリングなのだ。いつも通りであるということが重要なのだ。一日の最初に、俺は今日という日が普段と変わらない日であることを確かめる。いつも通りの日なら、いつも通りのことができるはずだから。

 ずっと練習してきたことを、本番でもできるはずだから。

「ごちそーさま」

「あい、おりこうさん」

「親みたいなこと言うな」

 へへ、と井岡が笑った。ヤツもやっぱり、いつも通りのようだった。

 使った食器を片付けて歯を磨く。髭を剃って髪を整髪剤でセットした後、割と気に入っている靴下を履いた。

「それじゃ、行きますか」

「おし!」

 玄関の扉を開けると、夏にふさわしい炎天の日差しが、熱く熱く俺の全身の輪郭をなぞった。

 俺の住んでいるアパートや目の前に見えるビル群と数々の住居、その屋根や側面が、ぎらぎらとした光に照らされて白く溶け出しているように見えた。やがてそれらは、ひとつの白い塊となって俺を見つめ返しているみたいだった。

 アパートの外階段は長時間日光に晒されたことで尋常ではない熱を持っていて、それを靴越しに感じ取った。熱すぎてその上を歩けないというほどではないが、足の裏からじんわりと伝播してくるそれが、今日はなぜか歓迎すべきものに感じられた。

「今日は俺が運転したろか?」

「免許持ってねえだろ」

 井岡の寒すぎる冗談をさらりと受け流して、俺はアパートの前の駐車場に停めてあったマイカーに乗り込む。

 安い軽自動車だが、燃費も良くてそこそこ荷物も入るこの車を俺は割と気に入っていた。特に小回りが利くというのが最高だ。この複雑に入り組んだ東京という街で、それは軽の最大のメリットだった。

 フロントガラス全体を覆うように内側から立てかけておいたアルミシートを手に取り、後部座席に置く。夏場屋外に車を放置しておくと、ハンドルがしばらく触れないほどに熱を持つということを、俺はこの歳になってようやく思い知っていた。この銀色の被せ物はその対策だった。

「じゃあ、お願いしやす」

「うす」

 井岡も隣の席に座ったことを確認して、俺はボタンを押して車のエンジンを掛けた。

 ゆっくりとアクセルを踏み込んで発進させる。この日に限って車が故障している、なんてこともなく愛車はいつも通りに動き出した。

 アスファルトの上を滑るようにして駐車場を出ると、すぐに交通量の多い大通りに出た。

 夜と朝の狭間くらいの、まだ太陽が顔を出そうか出さまいか迷っている時間ならばもっと空いているのかもしれなかった。しかし今は、僅かな猶予しか許してくれない信号機に次々と車たちが捕まって、長蛇の列を形成する時間だった。

「混んでんなあ」

 助手席の井岡が、呑気にそう言った。

 正直俺も運転に自信があるわけじゃないから、井岡にはドライバーのサポーターとして肉食鳥のように周囲に目を配っておいて欲しいくらいなのだが、それを言うと馬鹿にされそうなので実際に言ったことはない。

 信号が青になり、堰き止められていた車たちが、再び緩やかに動き出した。行き交う車の流れが、俺を別の世界に運んでゆく川の流れのように感じられた。

 隣を走っていたタクシーが、揶揄うような唸りを立てて俺たちの車を追い越していった。俺も井岡も、それを目で追って、けれど何も言うことはなかった。

 決して快適なドライブとは言えない。窓を開けてはいるものの、外から入ってくるぬるい風は硫酸の雨に打たれたかのようにひりひりとした車内を冷やしてはくれなかった。しかしなぜか俺も井岡も、車に備えられているエアコンをつけようとはしなかった。

 説明のつかない沈黙が降りていた。井岡は開けた窓に腕を乗り掛からせて外の方を見ている。俺からは井岡がどんな表情をしているのかは見えない。

 俺はひたすらに車を走らせていた。陽光が強い。運転席からは、何もかもが影もなく煌めいているように見える。

 人も車も建物も、その全てが乾いた静物のように銀灰色に焼け、水ひとつない風景の中で真夏の光を容赦なく浴びていた。

 雫が落ちれば、途端に崩れ去ってしまいそうな八月の一〇時三二分。

 俺たちはまた、信号に引っかかった。信号機の示す無感情な赤が、ここで止められた車たちの返り血の色なのではないかと思った。

 交差点の向かい――反対車線に、白のハイエースが停止していた。鋳造されたばかりの銀貨のように、ホイールが眩しく光っていた。

 ヘラクレスオオカブトみたいな図体をした車の運転席には、スーツをかっちりと着込んだハンサムな男が座っている。俺はその似合っていない組み合わせに目を引かれた。

 後部座席の窓ガラスにはスモークフィルムが貼られているようで、そちらはよく見えない。けれどドライバーの男が、後ろに座っている誰かと楽しそうに何かを話しているのは見える。

 信号が青に変わった。それぞれの停止車線の先頭に立っていた俺の軽とスーツ男のハイエースが、同時に発進する。

 その時、黙り込んでいた井岡が急に大声を上げた。

「かめちゃん! あれ――」

 ハイエースが、俺たちの車の脇を通過しようとしている。ハンドルから手を放してそちらに伸ばせば、触れることのできてしまいそうな距離だった。

 フィルムのないフロントガラスから、向こうの車の中の様子がちらりと見えた。

 俺は視界の全てが、見える限りの世界が、その瞬間だけ時間を止めたような――息をすることを止めたような――錯覚に襲われた。

 そして、俺たちとハイエースは、空気のように一瞬ですれ違った。

 ミラーに映る白い車体は、どんどんと小さくなってゆき、間もなく姿を消した。

 井岡は、窓から身を乗り出して食い入るようにじっと後ろの方を見ている。

「おい、危ないからやめろ」

 俺がそう忠告しても、井岡には聞こえていないのか、あるいは聞こえた上で無視しているのか、井岡は動くことはなかった。

 たっぷり三十秒ほどそうしていただろうか。井岡は名残惜しそうに車内に身体を引き戻すと、背もたれに身体を預けて、ふう、と深い息を吐いた。

 そして、徐にこう言った。

「……俺さ、好き、やった」

「……そうか」

「気づいとったと思うか?」

「さあ」

 気になって井岡の方を一瞬見やったが、ヤツの顔は荒々しい自棄に塗れたみっともない面ではなく、それよりもどこか晴れ晴れとした、爽やかな表情だった。

「キレイに、なってたな」

「ん」

「あのいけ好かないイケメン、誰なんやろな?」

「さあ」

 俺の返事が適当すぎたのか、会話はそこで途絶えた。

 井岡は窓の外の一点をぼんやりと眺めている。

「……なあ」

「ん?」

「俺も、好きだったよ」

 井岡は、歯の間から押し出すように、ひっそりと笑った。

 

 

 コインパーキングに車を停めて歩くこと五分。到着した会場の中は、意外と多くの人で賑わっていた。

 体育館のように広いロビーの天井は吹き抜けになっていて、ずっと上の方までコンクリート張りのごつごつとした質感の壁が続いて、そこからは陽の光が燦々と降り注いでいる。

 『受付』と馴染み深いフォントで書かれた紙がセロテープでぶら下げられた長方形型の白いテーブル、それが五つと、小さな観葉植物が隅っこの方にわずかな数配置されている以外は何もない、殺風景な空間だった。

 雑多なざわめきの音が、どこにいても絶え間なく耳元を掠る。

「一回戦でも、こんなに客おるんやなあ」

 上京してきたばかりの田舎者のように、物珍しそうにきょろきょろとしながら井岡が呟いた。

「客が入るのはこれからだよ。こいつらみんな、出場者だ」

 俺がそう言うと、井岡は「あー」と間延びしたような返事をした。

「一回戦だからライバルの数も多いってことか」

 この関西人は気づかなかったようだが、ここに漂っている空気はアマチュアや無名プロたちのお笑いを観るために集まってきた道楽者たちが醸し出すそれではない。明らかに周りを全員敵だと思っている者たちの、殺意にも似た緊張感だった。

 しかし、井岡はにやりとした。不敵、という言葉がふさわしい顔だった。

「まあ、全員俺らの敵じゃないやろ」

 いつもならば、このデリカシーのない発言が周りに聞こえていないか慌てて周囲を確認して、無神経な井岡を小突くところだ。

 けれど今日は、そうしたくない気分だった。

「ああ」

 俺が素直に頷いたことに、井岡は驚かなかった。むしろ俺の返事を当然だと思っているようだった。

 その時、前方から若い女の声がした。

「それでは、東京会場一回戦A日程の受付を開始いたします! 順番に列にお並びいただき、事前にご提出されたエントリーシート記載のお名前とコンビ名をお答えください!」

 子供が散らかした玩具のように無造作に存在していた人々が、受付のテーブルの前にわっと並び始めた。

 別に最後尾でも問題はないと思うが、急激に形成されていく人の壁に、俺も井岡も何となく弾かれまいとしてスーパーのバーゲンセールに挑む主婦のように人波をかき分けて列に食い込んだ。

 自分たちの順番まではそこまで待たなかった。受付では出席確認のようなことをやっているだけで、エントリーナンバーの書かれた札を貰って控室に案内される。

 控室といっても、薄いテーブルと質素な丸椅子のセットが幾つかあるだけの部屋だ。しかし中には既に何十人も出場者がいて、殆どの者がそれぞれの相方と思わしき者とぶつぶつとネタ合わせをしている。

 俺たちは特にやることもなかったので、とりあえず指スマをして暇を潰すことにした。

 しばらくすると、先ほどの受付の女が部屋にやって来て、『一五八』とか『三二六○』とか数字の組み合わせを何個も言った。

 すると何人かの者が立ち上がった。その者たちは皆、女が言った数字と同じ番号の札を持っていた。

 女に案内されて、そいつらは部屋を出て行った。

 またしばらくして、女が部屋に来て幾つか数字を言った。そしてまた何組かが出て行った。

 一時間ほど待っただろうか。再び部屋に来た女は、俺たちの持つ札の数字を呼んだ。

 出番が来たのだ。井岡に目配せして立ち上がる。俺たちの他にも、奇天烈な格好をした二人組の女や、坊主とノッポの男二人組、中学生くらいの幼い見た目をした少年たちなど、何組かが立った。

 俺たちは女に連れられて廊下を歩いていく。どこからか形容し難い独特なにおいが漂ってきていて、『ああ、これから始まるんだな』とぼんやり思った。

 廊下を何度か曲がると、『関係者以外立ち入り禁止』とステッカーの貼られた重そうな金属のドアに行き当たった。女がそれを開けると、俺たちはぞろぞろと中に入っていく。

 ドアの先は暗かった。何も見えないというわけではないが、見えにくいように意図的に絞られた明度だ。ただそれは俺たちの姿が、()()から見えにくいようにとの運営側の配慮だろうことは理解できる。

 そこから少し進むと、俺たちと同じくらいの見た目の若い男二人組が、スポットライトに照らされているのが見えた。

 女は井岡の名前を呼んだ。呼ばれた井岡は、女に着いていって暗闇の中に消えた。

 俺は別のスタッフと思しき男に連れられ、光と影の境界線――暗幕の内側ぎりぎりに立った。

 先ほどの若い男二人が、俺の立っているところとは反対方向にぺこりと頭を下げた。するとぱちぱちと、沢山の人間が柏手を打つ音が聞こえてきた。

 二人組のひとりが、俺の方へ捌けてくる。すれ違う瞬間、ほんの一瞬だけ目が合った気がした。

 客席は水を打ったように静まり返っている。耳に届くのは、一定のリズムで空気を吸って吐き出す、自分の呼吸の音だけだ。世界からはそれ以外の音が消えてしまったようだった。

 反対側の袖に、『ナンバー:二八九』と印刷された札を胸元に着けた男が立っている。

 見下ろせば、俺のシャツにも同じ数字が書かれたカードが安全ピンで留められている。

 離れた場所で向き合っている男は俺の視線に気がつくと、ボディビルの大会でよく見かけるようなバイセップスのポーズをして、腕をぽんぽんと叩いた。

 何か俺もポーズを返してやろうかと考えていると、カチリというスイッチを入れるような小さな音が聞こえた。直後に、つんざくようなマイクのハウリング音が響き渡った。

 俺とヤツのちょうど真ん中。ステージの上に、一本のスタンドマイクがぽつりと立っている。

 まばらな拍手が、縮緬のような残響となって袖まで届いてくる。

 向かいに立つ男が、下手くそなウインクをしている。

 井岡。

 井岡。俺たちは、俺たちを見ている人を笑わせることができるだろうか――

 井岡。俺たちは、本物のダイヤモンドになることができるだろうか――

 ふと目を細めて、天井を見上げた。

 赤熟した円盤から、眩いばかりの光輝が溢れ出している。

――ついに、太陽が姿を現したのだ。

 俺は、戦場へと一歩を踏み出した。



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