数分前。時間軸は、露伴が鬼女に勝利を宣言したそのすぐ後まで遡ぼる。
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露伴は気を失った鬼女の傍らに本腰を入れてしゃがみ込むと、幾層ものページに分かれた顔の表皮を滑らかな手付きで捲り始めた。その一枚一枚から丹念にリアリティを吸収していく露伴の姿からは、プロのマンガ家としての誇りと矜持が夏のアスファルトの上に揺れる陽炎のように立ち昇っていた。
人間だったころの生い立ち、鬼となった経緯、そして今まで───人間の寿命を遥かに超越した鬼の肉体に刻まれた重厚な記憶。もはや歴史と呼べそうなそれらの中に、特に露伴の興味を惹いた記述が一つ。
「『私の能力は全部<累>のもの。私は弱い鬼だったから<累>の能力を分けてもらった。<累>は無惨様のお気に入り、<下弦の伍>だったからそういうことも許されていた』……まさかこの記述、<十二鬼月>ッ! この那田蜘蛛山の中にいるのかッ!」
実は露伴はその瞬間まで、山中に「下弦の伍」が潜んでいることをこれっぽっちも知らなかった。それもそのはず、露伴の読んだ「善逸伝」───その著者の我妻善逸は今この瞬間山中の別の場所にて、猛毒の激痛に身を焼きながら鬼と戦っている真っただ中。苛烈極めるその戦いの内容が「善逸伝」の那田蜘蛛山関連記述のほとんどの割合を占めており、同時刻に出現していた下弦の伍についての言及は一切なされていなかった。本の内容でしか鬼殺隊の動きを知らない露伴にとっては、「善逸伝」で描写されていないことは全て未知の領域なのだ。
「読みたいッ……! 鬼の祖<鬼舞辻無惨>に直接力を分け与えられた十二人の鬼、その記憶ッ!」
衝動が露伴の心を突き動かす。露伴は鬼女の記憶のページのほとんどをビリビリと破り取り、小さく折ってポケットにしまった。記憶を奪われた生物はその分体重が顕著に低下するが、そんなことは露伴にとって大した問題ではない。彼の懸案事項は「早く記憶を読まなければ誰かが下弦の伍を殺してしまうかもしれない」と言うことであり、リアリティを吸い出され道端に転がる小石のように軽くなった「ただの鬼の抜け殻」ごときには何の興味もなかった。
モタモタしている時間など無いと、足早にその場を立ち去ろうとした露伴。そんな彼の足取りをチクリと傷んだ良心が止めた。
彼の良心を刺した針が、確かにその「道端に転がる小石」から伸びてきていた。
「この鬼女……ぼくの能力でほとんど記憶を失っているが、逆にそれがまずい状況に繋がるかもしれないな。記憶を失い、<理性>を失えば残るのは鬼としての<本能>だ。人間の生き血を啜ろうとする純粋な<本能>だけが残る……このまま放っておくと、目を覚ました後で大きな被害を出してしまうかもしれない」
いくら独善的な露伴と言えど、彼なりの正義や倫理観はその黄金の精神の中に確かに存在している。残虐非道な殺人の可能性をみすみす見逃してしまうほどの薄情さは持ち合わせていないのだ。
ところが露伴は、ここで一つの大きな問題点に気づいた。
「待てよ。ひょっとするとぼくは今、<陽光の下に固定する>以外に鬼を始末する術を持ち合わせていないんじゃあないか?
人間が鬼を殺す方法は二つ。「太陽の光を鬼の身体に照らす」か「日輪刀で頸を落とす」の二つだけだ。そして日輪刀を持っていない露伴にとって、鬼の命を奪う方法は自ずと前者に絞られる。
しかし今は草木も眠る丑三つ時。日の出までにはまだ相当時間があり、そしてそれを待つ余裕は露伴にはなかった。とにかく一刻も早く、露伴は下弦の伍の居場所を見つけ出さなくてはならない。
鬼女に「その場から動けなくなる」と書き込んでおいて、いずれこの場所に差してくる太陽光に始末を委託する───そういうプランを考えた露伴だったが、上空を見上げて舌打ちした。
うっそうと生い茂る樹木の群れたちが空を完全に遮ってしまっており、例え朝日が昇ったとしても鬼女の身体が陽光の影の中にすっぽりと隠れてしまうのは明らかだったからだ。
「クソッ……スタンドで頸をもぎ取れば、あるいはこいつら鬼を消滅させることが出来たりするのかもしれないが……生憎
悔しそうに地団駄を踏む露伴。
しかし残念ながらその仮説は外れだ。確かにスタンドには「水中でのテレパシー会話」や「謎の空中飛行」などまだまだ未知の能力を持っている部分はあるが、少なくとも鬼を消滅させるような能力はない。例えダイヤモンド並みの硬さの歯を拳で掘り進めるほどのパワーを持った空条承太郎の「スタープラチナ」であったとしても、だ。
ともあれ、ないものねだりをしていてもしょうがない。そうして露伴がはじき出したプランCこそ───
「<村田>。彼を起こして頸を切断してもらうか」
───露伴が本にして気絶させていた鬼殺隊士・村田を叩きおこすことだったのだ。
「彼を起こす前に、少しだけ書き込ませてもらうとしよう。ぼくの正体を訝しんで戦闘態勢突入なんて無駄なリスクは負いたくないしな」
村田のページの余白に、露伴は「岸辺露伴は鬼殺隊の上司」の一文を滑り込ませた。そうして能力が解除され普通の顔に戻った村田の頬を、露伴は気付け薬代わりに少し強く叩き始めた。
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「さてと。無事に鬼も討伐出来たことだし、ぼくはこの辺で失礼させてもらうよ。この山の中に<下弦の伍>が潜んでいるという情報も入ってきていることだしね」
自分の責務は全うしたとして、今度こそその場を立ち去ろうと歩き始める露伴。
「ええっ! あの<十二鬼月>!? ヤツは今どこにいるんですか!?」
「残念なことに、その<居場所>ってやつが分からないんだ。<潜んでいる>ことは確かなんだがね」
「そうですね、<下弦の伍>はこの那田蜘蛛山にいます。でもどうしてそんなこと、あなたが知っているんでしょうか?」
その言葉とともに唐突に露伴の背後へ、ふわりと何かが舞い降りた。
耳の中の鼓膜、そのさらに奥まで響くような優しい声色の囁きとはまるで裏腹な、息の詰まるような圧迫感を露伴は感じていた。まるで「死」が形を成してそこまで迫っているかのような気配に身震いした露伴のこめかみを、一筋の冷や汗が伝う。
経過する、数秒に満たない時間。苦い汗の雫はにきび一つない露伴のまっさらな肌の上をつーっと流れ落ちていく。
こめかみから頬へ、頬から顎へ。
やがて重力に負けて肌を離れていったそれは、地肌に散らかった落ち葉の中へと静かに溶け込んで───
「───
西部劇に登場するガンマンの早撃ち対決のように、露伴は漂う静寂を破って後ろを振り返った。そして間髪入れずに彼の腕が、時速三百キロは優に越しているであろう神がかり的速度で空を踊り出す。描かれた「ピンクダークの少年」は、光り輝く筆跡から浮かび上がり実像を成した。
が、無。誰もいない。露伴の目線の先に広がっているのは木々が所狭しと並ぶ山中の景色のみであり、そこには人物など影も形もない。だが残された強い藤の花の香りが、一連の出来事が幻覚であるという可能性を真っ向から否定してくる。
その香りの流れを追うように、露伴はもう一度背後を振り返った。
蝶の羽のような柄の羽織を着た女が一人、実に優雅な立ち振る舞いで佇んでいた。
「こんばんは。今日は月が綺麗ですね」
溢れ出る教養と知性を感じる───露伴がその女に対して抱いた第一印象だった。
敵か、味方か。すでに女は
「……そうだな。今が何月何日なのかは分からないが、十五夜に昇る<中秋の名月>に勝るとも劣らない美しさだ」
少なくとも「会話が通じない相手」ではないことだけは確かだと判断した露伴は、天に浮かぶ綺麗な満月を見上げ、女との対話を試みた。話しながら気づかれないようにじりじりと距離を詰めていき、
しかし、物事とはままならないものだ。露伴と女の二人だけならば良かったのだが、この場にはもう一人、プラスアルファの異分子が混ざり込んでいる。
「むっ、蟲柱・胡蝶しのぶ様!! 私は階級<庚>の村田です!!」
「こんばんは」
露伴の隣にいた村田が、想定外のイレギュラーな動きを始めてしまったのだ。
露伴は驚愕した。身長百五十センチほどの小さな体躯をした非力そうな目の前の女が、鬼殺隊の最高戦力に数えられる者<柱>の一角であるなどとは思いもよらなかったからだ。
そして同時に、露伴は自分が置かれている状況───鬼殺隊有数の実力者にその素性を怪しまれており、警戒されている───があまりにも芳しくないものであることを悟った。
「村田くん、そちらの方はお知り合いですか?」
「はい! こちらは岸辺露伴さんで、鬼殺隊の上司です」
「岸辺露伴……鬼殺隊の方なんですか? それにしては隊服も着ていませんし、日輪刀も持っていないようですけれども」
「は、はあ。言われてみれば……しかし<岸辺露伴は鬼殺隊の上司>であることは間違いありません」
「……先の鬼との戦いで両方とも破損してしまったんだよ」
「破損、ですか。隊服と日輪刀の両方、それも跡形もなく……そんな激しい戦いをした割にはあなた、傷が少ないですね。少ないどころか全くの<無傷>です」
何とか絞り出した言い訳が粗だらけであまりにも苦し過ぎることは、露伴自身が一番よく分かっていた。
弁論の矛盾を挙げればキリがない。だが今必要なのは場の空気を押し切りクロをシロだと突き通す熱量であると、露伴は「自分は間違っていない」と言わんばかりの堂々とした態度を精一杯の虚勢とともに貫く。
「君、まさか疑っているのか? ぼくが鬼なんじゃあないのかって」
「どこからどう見ても、あなたは鬼殺隊士には見えません。なのになぜだか<下弦の伍>については知っている。それはあなたが鬼だからでは?」
「ちょっと待てよ。ぼくが鬼殺隊の一員であるその事実は、ここにいる村田くんが証人だ。なあ、そうだろ?」
「はい! <岸辺露伴は鬼殺隊の上司>ですから!」
「……先ほどから同じ台詞ばかり、まるで何かに憑かれているようですね。催眠術とかそういう類の<血鬼術>でしょうか? 瞳孔が鬼のように縦長ではないのも、それを応用して我々に幻覚を見せて偽装しているとか?」
村田には露伴の素性を裏付ける具体的な記憶など当然何もなく、無理やりにねじ込んだ<岸辺露伴は鬼殺隊の上司>という認識だけが彼の中で独り歩きしてしまっている。ゆえに、胡蝶や露伴の問いに対してオウムのように同じ言葉をただひたすら連呼し続けることだけしかできないのだ。面倒ごとを避けるためにと村田に能力を使って書き込んだ露伴の行動が、ここに来て裏目に出てしまっていた。
睨み合いの膠着状態となってしまった露伴と胡蝶。
「ではこうしましょう」
笑顔とともに叩かれた胡蝶の両手の音で、それは破られた。
「手の甲に刻まれた階級を見せてください。破損してしまう可能性のある隊服や日輪刀とは違い、階級の文字はあなたの身体に直接刻まれていますから、失いようがありませんよね」
まずい。
ゴクリと生唾を飲み込む音が露伴の頭に響き渡った。心拍数が急激に上昇を始め、熱を帯び始めた身体と氷点下まで冷えた肝のコントラストが、露伴にははっきりと分かった。
「どうしました? <階級を示せ>と言って拳を握り込むだけですよ」
岸辺露伴はその実、鬼殺隊士ではない。となれば当然、階級が肉体に刻まれているはずもない。ただ動揺するのみで何一つアクションを起こせない露伴。
もう、誤魔化しようがない。
馬鹿正直に「未来から来た」と言ったところで、鬼が自己保身のために妄言を吐いていると思われるのが関の山だ。この女の中で大きくなってしまった不信感を拭い去ることはできないだろう。それならいっそ───
───露伴は覚悟を決めた。
「こっ、胡蝶様……! 私は催眠術になんてかかっておりません! 間違いなく<岸辺露伴は───」
その言葉を皆まで言い終わる前に、村田は再び意識をどこかへ手放してしまった。糸が切れた操り人形の如く、その身体はストンと地面へ崩れ落ちた。村田はまたも本に変えられている。露伴の
「ぼくは鬼じゃあない。それだけは確かだ」
虚空のキャンパスに指先が踊る。
「だが……蟲柱・胡蝶しのぶ、だったな。君があくまでもぼくのことを<鬼>だと疑い、殺しにかかるのなら……<再起不能>になってもらうよ。ぼくは今忙しいんだ」
露伴の傍に現れ立つ、メカニカルな風貌をした「ピンクダークの少年」。
その宣戦布告を受けてなお、胡蝶は口元に湛えた微笑を崩さない。腰に下げていたフェンシングのサーベルのように細身な刀を抜刀し、胡蝶はそれをグルグルと手の上で回して構えた。
「あらあら、やっぱり鬼殺隊士だと言うのは噓だったんですね。残念残念」
臨戦態勢に入った二人。
異変が起こったのはちょうどその時だった。
宵闇に沈む山中が、月明かりとは別のほのかな光に包まれていく。
「なッ、何だ……ッ!?」
岸辺露伴の肉体から、いくつもの小さな光球が漏れ出始めたのだ。
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