テンニンカ大将軍の朝は早い。大将軍たるもの部下に示しをつけなければならないし、規則正しい生活を送る者こそ、軍人としてあるべき姿なのである。時計の短い針が10に達した辺りで目を覚ましたテンニンカは目を擦りながらも、部屋の中で棒を振る。子供のチャンバラごっこにしか見えないが、これは立派な朝練だ。
誰がっ! 戦場でっ! 旗を武器にするんだよっ!……という指摘があるかもしれないが、大将軍の仕事は兵を鼓舞することであって、この棒で敵の頭をカチ割ることではない。使い慣れたテーブルクロスにひっかけて粗末な机を粉砕してしまったが、何も問題は無い。あとで部下が掃除すれば良いだけなのである。
彼女が大将軍を務めるロドスでは24時間、食堂が運営されているため、いつ食事を摂るのか個人の裁量に任されている。フレキシブルな体制は組織の方針を明るい方向に導くのだ。扉を開けると鋭い目つきでレポートを読むケルシーに出くわしたが、何も怖くはない。何故なら、ケルシーも所詮は大将軍の部下に過ぎないのだから。
獣の耳がピンと立つ髪を見送り、反対方向から食堂へ行くとする。廊下を走るとドーベルマン教官に叱られてしまうので、テンニンカはゆっくりと地面を確かめるように歩いた。兵は拙速を尊ぶ。炎国の古い軍事史でもそう言われているように、本来ならば少しでも時間を節約するために食堂へは走って行かなければならない。
その考えは幾人かの部下から賛同を得ているのだが、ドーベルマン教官と無為に対立することで、ロドスの中で派閥が作られるのを恐れたテンニンカは敢えて反論することはしなかった。平和のためであれば、自分の思想と違う考えであっても受け入れる……まさに大将軍の鑑である。
また、大将軍と言えども自らを教導してくれた教官にはやはり逆らいづらい。ドーベルマンはもしかすれば、大将軍を育成した手腕で以ていまの位置に座しているのかもしれないが、テンニンカが彼女に恩義を感じているのは確かであるので、その点を指摘することはなかった。
廊下を曲がると大きな背中にぶつかり、テンニンカの体が吹き飛ばされてしまう。優れた指揮力と求心力を持つ彼女であるが、ドゥリン族が小柄であるという宿命までは変えることが出来ず、その体はひどく小さい。簡単に倒されたと言っても、それはテンニンカの体躯が目の前の少女に劣っているためで、けして弱いからではない。
「わー! テンニンカ、ごめんねぇ。はちみつクッキーが美味しすぎて、ボーッと立ち尽くしていたんだー。お詫びにこれあげるー!」
いまが非常事態であるかのような物騒な武器を多く背負うグラマラスな少女は無神経にテンニンカの手を握り、何かを持たせる。彼女の好物であるはちみつクッキーかと思われたが、それは既に粉末状にまで砕かれており、とても食べることは出来なかった。
「こらーケオベ二等兵! 大将軍たるあたしを愚弄しているのか!? せめて食べられるものをちょうだい!」
「うん? おいらは“にとうへい”じゃないよ。でも……テンニンカがそう言うならそうなのかな。ところで、“だいしょうぐん”って何?」
あたまペッローの彼女に何を言っても意味は無い。シエスタの海に向かって愚痴を叫んでも事態が好転しないように、文句を言っても始まらない。テンニンカは彼女の手を掴み、敬礼のポーズを取らせる。
「敬礼!」
「けいれい!」
「よし。で、ケオベ三等兵。この粉はなに?」
いつのまにか降格させられたケオベだったが、彼女はひどく脳天気で細かいことは気にしない大らかな性格であったため、口出しすることはなかった。大将軍たるテンニンカに意を反することは反逆行為でもあるので、そちらを考慮した可能性はもちろんあったのだが。
「これはドクターから貰った《元気が出る不思議な粉》だよ! すごいでしょ。でも、おいしくないからはちみつクッキーに掛けてたんだ」
「ええっ、凄い!」
テンニンカは手のひらに付着した粉を舐める。すると、確かに脳髄の奥が開くような、血管が瞬く間に広がってゆくような、そんな高揚感があった。これを兵站に取り入れれば、ロドスのオペレーターたちはどんな環境でも立ち上がることが出来るだろう。ケオベは美味しくないと言ったが、一度舐め終えたら次が欲しくなる不思議な味であった。見れば、ケオベが手に持つはちみつクッキーにはまだ粉の余裕がある。
しかし、さすがにはちみつクッキーにひどく狂っているケオベからそれを取り上げるのには慎重にならざるを得ない。もしこれが軽挙妄動なサンクタの運び人などであれば、ノリと勢いで食べ尽くしてしまったはずだ。自身の冷静さに少し酔うテンニンカであったが、それでも次の粉が欲しいと思う衝動に駆られそうになる。
「ちょっとぉー! ケーちゃん!」
「ほえ? どうしたの〜、ブレイズ」
廊下を走ってはならないというルールに疑念を感じながらも大将軍である自分が遵守しているのに、目の前の自称エリートオペレーターがその禁を破っていることにテンニンカは怒りを覚えそうになる。
そして走ってきたのはブレイズだけではなかった。あろうことかロドス総司令(大将軍の部下)のアーミヤまでもが廊下を走ってこちらへ来たのだ。風紀が著しく乱れていることにさすがのテンニンカも苦言を呈することにしたのだが、勢いよく肩を掴まれたので、思わず動転してしまった。
「テンニンカさんまで! どうしましょう、ブレイズさん。ドクター用に特別に調合された理性回復剤をふたりが摂取してしまいました!」
「オーケー……少し落ち着こうアーミヤちゃん。ケルシー先生のところまで連れて行けばなんとかなるはず。ケーちゃん、はちみつクッキーを追加であげるから、医務室に来てくれない? ね?」
「分かったー!」
ケオベはブレイズの子供騙しとしか思えない言葉にまんまとハマって廊下を走り出してしまった。テンニンカは自分が何か良くないものを口にしてしまったことに気付いたが、医務室に行くのは避けたかった。医務室では医師こそが正義。大将軍の権力でも医師にはその威光が届かないのだ。
「あたしはおなかペコペコなんだ。だから、食堂に行くの。邪魔しないで? ね?」
「何言ってんの? 食堂はもう閉まってる。テンニンカは寝坊助なんだから、朝食なんていつも林檎で済ませてるじゃない。下手な言い訳は辞めた方がいいよ」
「ち、ちがうもん。あたしはロドスの大将軍……。シエスタで最近流行りのガーリック風味のソーセージを食べるんだ……。グムが用意してくれるって言ってたもん!」
不審な顔をしながらも、ブレイズは自らが戦場で振るうチェーンソーを構えて、ゆっくりとテンニンカに近付く。裏を取るようにアーミヤが立ち、その手には禍々しい赤黒い剣が握られていた。このふたりは何故こんなにも物騒な姿勢を取っているのか。その理由は簡単に思い付く。大将軍たるテンニンカの命と地位を奪うべく、暗殺を図っているに違いあるまい。
「あたしに近付かないで! それ以上来ると、真銀斬を撃つよ!」
「は?」
「真銀斬が怖くないの? それなら、デストレッツァにしようか? もしくはイラプション? どれもこれも、ロドスがテラに誇るテンニンカの最強アーツ! この廊下を血の海にしちゃうよ!」
すると顔面蒼白といった感じでアーミヤが剣を落とす。さすがの彼女でも恐れを成したのだろう。脳筋のブレイズとは違い、彼女は聡明なロドスの指揮官である。自分が如何に愚かな真似に及ぼうとしていたのか気付いたのだ。
「……まさか、妄想に支配されている? そんな、ドクターがケオベさんに理性回復剤を渡してから、そう時は経っていないはず。こんなにも強い症状が出ているなんて……」
「ケーちゃんはいつも通りだったよね? あ、じゃあ、こうは考えられない? テンニンカは小柄だから、薬が速く回ったんだって」
「……っ! 一刻も早く、取り押さえましょう!」
アーミヤが剣を拾い、テンニンカの右腕のぼたっとした袖に突き立てた。刃は服を貫通して廊下の壁に深く刺さる。彼女を直接殺すのではなく、溶け出したアーツで毒そうとしたのだろう。大将軍と言えど、ここまで接近されたら敵わない。死を強く覚悟した彼女の顔面をブレイズのチェーンソーが打ち据える。本来であれば、テンニンカの眉目秀麗たる整った顔は切り刻まれ、粉塵と化したに違いない。
しかし、テンニンカの意識が刈り取られるだけで済み、その肉体には全くダメージが入っていなかった。さすがはエリートオペレーター。それはけして自称ではない。敵を上手く殺す術に長ける彼女は逆に敵を上手く殺さない術にも精通していると言えるのだ。ブレイズはアーミヤが拘束した壁からテンニンカを服ごと引きちぎり、医務室に担いでいった。
「はっ」
テンニンカは目を覚ました。感覚的に、既に食堂が閉まっている時間だと考えた。自らの迂闊さを少し呪いながら目を擦ろうとしたが、腕が動かない。よく見れば、ここは彼女の部屋ではなかった。寝ぼけたまま他のオペレーターの部屋に侵入し、二度寝をかますことが増えてきたテンニンカにとって、その事態は慣れっこだった。だが、ガッチリとした丈夫な布で足と腕と腹が縛られており、ベッドに拘束されているのが分かると共に愕然とした。
「えっ、あたし、捕まってる!?」
自分が寝ている間にロドスが敵勢力に陥落させられたことまで考えが行って絶望感を覚えたテンニンカの想像力はとても豊かだ。《元気が出る不思議な粉》の効力のせいで脳がスッキリとし過ぎているせいかもしれないが。
「おごごご……」
「ひえっ!」
声がした方向に顔を動かすと凄惨な状況が繰り広げられていた。テンニンカの友人であるケオベが拘束され、メカニカルな幾本もの太いパイプを口の中に突っ込まれていたのだ! ただ殺すだけじゃ飽き足らず、違法な実験を施そうとする敵に対して憎悪ではなく、恐怖を抱いた。当たり前だ。何故なら、彼女は栄誉あるロドスの大将軍ではなく、ただのドゥリン族の女の子オペレーターに過ぎないのだから。
「た、助けてぇー!」
「……起きてしまったか、テンニンカ」
すると目の前に見知った人物が現れた。ロドスの総司令のひとり、ケルシーだ。彼女は怪しい液体の滴る注射器を持って、鋭い双眸でテンニンカを射抜いた。それだけで彼女は直感した。ケルシーがロドスを裏切ったのだ。
「ケルシー先生! あたしは、あたしは、あなたを信じてたのにぃ! ケーちゃんだけじゃなく、たくさんのオペレーターを殺したんでしょ!」
「何を言ってるんだ……おまえは? まぁ、いい。すぐに何も分からなくなるんだからな。ブレイズ、アーツ吸入機器をこちらに回せ」
「ブレイズまで? ……ていうか、アーミヤもいるじゃん!? みんな、ひどいよぉ……! あたしたちを裏切るなんて!?」
「テンニンカさん。私は許されようとは思いません。私はドクターに危険なモノを服用させていることには自覚的でしたが、まさかここまでの事態になるとは。ゆっくり眠ってください」
「やだぁー! 殺さないでー!!」
大仰なパイプが取り付けられたマシンを動かしてきたブレイズはテンニンカが何やら誤解をしていることにようやく気付いたのだが、事情を説明するのはひどく面倒であった。それどころか恐怖を煽った方が面白いのではないかと思ったほどだった。
「へっへっへ……悪いねぇ、テンニンカ! おまえの命もここまでだ! これに懲りたら、二度と寝坊するんじゃないぞ!」
「ごめんなさい!! 許してください!!」
「ははっ、許さないよーんだ! 喰らえ、ボイリングバースト!」
その掛け声と共にブレイズはアーツ吸入機器をテンニンカの口の中に突っ込む。この機械を使うためには対象が大きく口を開いていなければならないので、そのための策でもあったが、他の視点から見ればやりすぎの誹りを免れない行為であった。しかし、どこまでもシリアスなアーミヤと五徹目のケルシーはブレイズに何も告げることはなく、テンニンカは喉の奥を通る異物感と痛みに失神した。
理性回復剤はドクターのために用意されたものである。成分は血液に浸透し、その脳を強く覚醒させる。摂取した者が感染者であれば、体内・体外にある源石の影響で大した症状は出ない。けれど、非感染者は話が別だった。実際、テンニンカはほんの少量を舐めただけで、早くも依存症を併発していた。体を元の状態に戻すためにはアーツで以て、吸い出すしかない。
そういう意味では感染者かつ無症状のケオベに吸入機器を挿し込んだのは、完全にとばっちりであった。テンニンカがあまりにもヤバそうな言動を繰り返していたために、それに引っ張られたのだ。たっぷり睡眠を取ったケルシーが後日、この施術に意味が無かったことを悟ったが、医療に明るくないアーミヤとブレイズからの信用を失墜させないため、握り潰すことになった。
また、医療部門内のレポートを読んだワルファリンからなぜ麻酔をしないのかと問われてケルシーは考え込んでしまうことになる。彼女がテンニンカに打った注射は記憶を消すための処理なのだが、パイプが喉を貫いたときテンニンカは失神してしまった。つまり、施術にはそれほどの痛みが生じる。患者側に寄り添う姿勢を完全に失念していたケルシーは仮眠を取ることにした。彼女のハードワークぶりも、これ以降少し収まることになる。
テンニンカに理性回復剤を摂取させたのはケオベであり、ケオベに流したのはドクターであり、ドクターを過度の疲労に追い込んだのはアーミヤであるため、誰が悪いとは一概には言えまい。お詫びとしてドクターから、ケオベにはたっぷりのはちみつクッキー、テンニンカはグム特製のソーセージが贈られたので、特に記憶が残っていないふたりにとってはむしろプラスだったのかもしれない。
テンニンカの朝は早い。さきほどの騒動でブレイズに言われたのが効いているのか、最近は時計の短針が6を差す頃には起きている。日課である棒を振り回す運動をしたあとは林檎を食べて、食堂へ向かう。24時間あいているわけでもない食堂にいまは感謝しながら、彼女はにこやかに笑うのだった。
「リンゴちゃん、今日もよろしくね!」