and 7【PERSONA M@STER】 作:ストレンジ.
青い光が静かに揺れている空間、座席群のひとつに腰かけてスクリーンをぼーっと眺めていた。
意識が浮上してきたことをわかっているかのように画面越しの女性が目を開き、こっちを見て口を開けた。
「やはりあなたは契約を交わす
女性……ヘレンさんは微笑を浮かべて淡々と言った。深い蒼に不規則な白い筋模様の入った、いかにも厳めしい大理石調の大きな机に両肘をのせ手を組んでいる彼女から数歩下がって脇には文香さんが秘書のようにうやうやしく控えているのも見える。
ヘレンさんの目は責めるでも哀れむでも励ますでも優しく受け入れるようでもなくアタシを見ている。それが具体的にどういうものかわからないにも関わらず、宇宙か、そうとも知れないどこか果てのない場所に想いを馳せるように、アタシの内部を注意深く監査するようにこちらを見つめている。
「
「はあ……“それ”とは……?」
脳が現実についていけていないのか、我ながらのんきな声が出た。声がひとたび止めば空調の無機質な音が辺りに響く。寒い。冷房が効きすぎているわけではない。この淡々と流れる音に寒気を感じている気がする。
「すべて生けるものに存在する光と影、それらの調和を図り、かつ善なるものへと導くための心の運動体……。『動的精神力』……という言葉が適当かはわかりませんが、それが固有の“美”としてたち現れるものです」
「……
淡々とした口調の中に優しさを感じる声で説明してくれた文香さんにそう返した。『動的精神力が美としてたち現れる』……言葉の意味自体はわかりかねるけど、聞いたときにアタシに浮かんだのは芸術作品、表現行為だった。世界の持つあらゆる力を、作り手の身体と精神を通して結ばれる美しいもの。それは絵画でもあれば音楽でもあり、ダンスや料理、装飾、喋り、競技、遊び、性……ありとあらゆる形によって表現され得る思考と肉体の行為。
「フフ……間違ってはいないでしょうね。いわば、当事者の美が表出された霊魂……理解する時はすぐに来るわ」
「“それ”を見極めるのは、まさにその存在と相対したとき……契約を果たすとは“刻限”を迎えることなのです。ただし、待ってさえいればいいということはありません。その力は沙紀さんの日常を支え、同時に逸脱を試みる……意志無くてはいつ不浄に飲みこまれるやも知れぬ、無垢な魂の輝きなのです」
ヘレンさんも文香さんも要領を得ないというか意味深長な言い回ししかしてくれず、言葉の指すものがなんなのか判然としてこない。芸術にまつわるものらしいということはわかった。
「今は不明を甘受すればいいわ。知るなど、運命の前には容易いことなのだから……」
「時として“知る”とは“感じる”ことなのです。待ちましょう。惑いを忘れた放牧地帯に、やがて飢えた狼が迷い込むそのときまで……」
「その言い方は少々くどいわね」
「えっ……!?」
ひどく場にそぐわない文香さんの声を最後に目も耳も
*
5/7 TUE
連休が明けていきなり学園生活が変わるということも特にない。そりゃそうだ、と思いつつもどことなく浮き足立つような気持ちもなくはないまま、あっという間に授業は終わって放課後になり、予定はないけど寄り道もせずあっさり寮に引き上げると、“踊り場”ことフリースペースの方でボールがコンクリートに打ち付けられる音が聞こえてきた。その場に立ち止まってそっちに目をやり10秒ほど待っていると、両手でバスケットボールを持ったジャージ姿の渚ちゃんが見えた。彼女に向かって歩き始めて数歩すると、同じくジャージを着た伊吹も顔を見せた。姿が現れるなり伊吹はアタシに気づいたようで、頭をこっちに向けてまっすぐ手を上げるその動きでアタシを呼びかけた。
「いないと思ったらもう帰ってたんすね」
とはいえ下校のときに伊吹たちを探したわけではない。寮に帰ってきてここでこうして伊吹たちを見て初めて、下校時に伊吹はもう学園に「いないと思った」と思った。そもそも「いないと思ったらもう帰ってたんすね」に意味はなかったと思う。ただ単に挨拶として言ったつもりだと思う。そう思えば実際そんな気がしてくるものだから本当はどうだったかが自分でももはやわからない。
「いわゆる、ヒミツの特訓ってやつを、ちょいとね」
「言ってるじゃん」
言ってるものが示していることに対して、それを言ってしまっている時点で内容が隠せてないのですが。
「バス部に対して秘密なんで。アンタはセーフだから」
「いやそもそも秘密ではないけどね」
渚ちゃんが明かすと伊吹は意外そうな顔をした。
「あれ、そうだっけ!?」
「秘密っていうか気を利かして
「ほんとに気をよく遣うね~。言わんとしてることはわからないではないけど」
「うん。ほんと私、つくづく人のことよく考えるようになったと思う。1年の頃はもう自由気ままに動き回ってたんだけどなぁ~」
腰に手を当ててバスケゴールを見上げて渚ちゃんは言った。
「それだけキャプテンが板についたってことじゃないすか」
「ん~っ、それはいいんだけどね。そうやって気を遣う自分自身にがんじがらめにされてる感があるんだよね。それはまずいよな~ってなるわけ。ふたりもわかると思うけど、そういうのって動きに影響してくるじゃない」
うっすら苦笑いの顔になりながら頭を掻いて渚ちゃんが言うと、伊吹も同調するような息を漏らした。
「そういうのって、とにもかくにも“ノリ”に出てくるよね。アタシだと、同じように踊ってても動きが全体的に重いというかぎこちないというか……。頭でわかってなくても身体がちゃんと気づいちゃってるんだろうね」
「“ちゃんと気づいちゃってる”って言い方は面白いね。けどほんとそう。頭での理解よりもはっきり出ちゃうんだもん。身体って鋭いよね。絶対に誤魔化せない相手だよ」
「グラフィティでもそこは同じっすね。考えなくても描けなくはないけど、身体がノってないと、なにを描いてるのか、なにを描けばいいかなんにも見えてこなくて、まあ手を動かしていれば描けるには描けるけど、まったくしっくり来ないし楽しくもないってときはあるかな」
「ノリ問題は難しいやね。まっ、違うことやってモヤモヤを散らすのって大事だと思うわけ。やってく?」
伊吹が渚ちゃんの持ったバスケットボールを指差してそう言うと、半ば自動的に口角が上がった。誘いを期待していたわけではないけど、どうやら身体がやりたがっていたらしい。
「うん。着替えてくるから再開して待っててよ」
言いながらすでに足は寮へと動き出していた。なんだか不思議だ。なにかに突き動かされるようにやる気が湧いている。そんなにバスケしたくなってたのかな。
小走りで寮の玄関の自動ドアをくぐり、部屋を目指す。
*
しかしジャージに着替えて踊り場に戻るとふたりはいなくなっていた。
かわりに、と言うと、ふたりがいなくなったことと関係があるかのような捉え方になってしまう、とはいったものの実際そう思っているのだ。踊り場の壁に見覚えのない絵が描かれていた。『扉』だ。落ち着きのある赤い色の片開きのドアに蔓がからまっていて、そのところどころからはブドウが生えてぶら下がっている。まわりの他のウォールアートとは明らかに趣の異なる、油彩のような質感で描かれた写実的な絵だ。
こんなものは絶対にさっきまで壁には描かれてなかった。そもそも、小さな落書き程度のものはさておき、ここのペイントはほぼすべてアタシが描いたものなのだ。描いた覚えがない、いや、はっきりと言える。この絵を描いたのはアタシじゃない。連日の不思議体験の影響で身のまわりの変化にも敏感になってるし、今まで見落としていたということもまずない。
壁に近づいて『扉』をじっと観察する。温もりを感じさせるレンガのような暗褐色の赤い一枚板に取り付けられたドアノブは趣味が悪いほど黄金色だ。白みを帯びた爽やな印象を与える薄緑の蔓から垂れているブドウの実は、ふたりがいなくなった不安からそう感じるだけかもしれないものの、血だまりのように黒々と赤く、毒でもありそうに不気味に色づいている。
意を決したように手が自然と絵のドアノブへ伸びた。こういうとき、“こういうとき”がどういうときなのかはわかってないけど、それでもこういうとき、予感が現実になる感触を目や耳で確認したように実感させられることがある。
とはいえその手が絵であるはずのドアノブを掴んだということはなかった。そのかわり、アタシの手が壁へ、絵のドアノブへとめり込んでいた。絵はアタシの手のまわりから、ものを投げ入れられた水面のように波紋が広がっている。ふたりはこの中に入っていったんだ。少なくともアタシの頭では科学的な根拠を導き出せないこの異常な現象を前になぜかそう確信した。今は目の前のこのファンタジー世界のような、フィクションという理解を瞬時に与えるような光景にこそリアルがあるように思えてならなかった。
ためらいはない。魅入られてしまったのか驚きや恐怖の声もあげることなく、手から腕、すぐに頭も足も、全身を絵の中へ浸していく。抵抗感はなかった。前に道があるように歩みを進めていける。そう思ったとき、一瞬意識が薄らいだような気がした。
*
うたた寝をしたような感覚を覚えると、学園の廊下に立っていた。細かい場所まではわからないけど学校の廊下であることは間違いなさそうだ。
誰もいない。空間が歪んでいる。目に映るものに歪みがあるわけではなく、なんだか雰囲気が歪んでいるように感じられる。思い出したように不気味なものへの怯えが湧いてきた一方で、身体には妙な充実を感じる。小学生の頃のような、起きている間は常にベストコンディションが当たり前、ケガや風邪をひいたとき以外で体調に波があるだなんてまったく思わなかったあの頃のような……。急に歳をとったような気がしてきて手近にあった教室群の向かいの水飲み場で鏡を見てみると、ここへ来る前と特に変わった感じはない、毎日見ている10代半ばの、もうちょっと化粧に気を使えば大学生ぐらいに見えるかもしれないいつもの自分が映っていた。自分の顔、人に面と向かっては言えないけどいいと思う。嫌いにはなれない。創作には10代の、とりわけ“17歳”という年齢に仮託して思春期の自身や世界への愛しさや悲しさ、万能感や恨み辛みを描いたものがたくさんあるけれど、その愛憎の“憎”がアタシにはまだ理解できないでいた。とはいえこの先ずっと自分のことを嫌いにならずにいられるかといえば自信はない。
水飲み場から離れ廊下の真ん中に戻り、これからどうするか考えようとしたところで、奥からかすかに足音が聞こえた。大きな音を立てないよう静かに階段を降りる音。反射的に身構えながら音のする方を見つめていると、姿を現したのは伊吹だった。おずおずとした足取りから状況がわからず怯えているのが見てとれた。
「伊吹……!」
「えっ……」
そっと呼びかけながら大きく手を振って居場所を伝えると胸に手を当てたまま足音を殺して早歩きでやって来た。
「沙紀~! ここって学校……だよね?」
「見た目からしてそうだとは思うけど……なんでいるんすかね?」
「やっぱアンタもわからないか……」
予期してたように伊吹がため息をついた。
「お互いここにいるってことは、伊吹も絵の中に入ったんだよね?」
「そうそうそう! なんか気がついたら知らない絵が壁に描かれてて、見てたら渚がいきなり入ってったのよ。驚きもなんもせずに、スーッて。知ってたみたいにさ。で、ほっとけないしアタシも絵に触ったら入れるカンジだったから怖かったけど入っちゃったら学校にいたわけ」
「渚ちゃんは?」
「見つかんないのよ。ここに来たときからアタシひとりで、ワケわかんないから最初はその辺の教室でじっとしてたんだけど、誰も通らないし変な雰囲気だし探そうと思ってウロウロしてたら沙紀に会ったって流れ」
「そう……。みんな絵の中に入ってアタシも伊吹もここへ来たんだから学校のどこかにはいるとは思うけど、とにかく探さなきゃだね」
「うん……でも、ここって安全なんかな?」
不安な顔で伊吹が訊いてくる。正直なところ安全とは思えない。そもそも理解しがたい経緯で来た場所なんだから。思えば『ベルベットルーム』だって異様さで言えば同じようなもののはずなのに、すでにアタシはそうは思わなくなっている。それはヘレンさんと文香さんによるところが大きいのだろう。少なくとも彼女たちはアタシになにかを教えてくれようとしている。それがなにかは“刻”を待たなければいけないようだけど……。ひょっとしてこの場所に来たことが“刻”なんだろうか? だとすればなおさらここが安全な場所ということはなさそうなことになってしまう。
「安全とは思えない……でも、そうなら渚ちゃんを早く見つけなきゃいけないし、動かざるを得ない……んじゃない?」
「そう……なるよねぇ。まあアタシも安全だとは思ってないけど。絵の中だし」
そう。なによりまず伊吹が言ったとおり、ここは『絵の中』なのだ。意味がわからない。これがゲームや映画ならわかる。それは作品に与えられたフィクション性を駆動するための舞台という仮の世界だ。でもこれはなんだ? 壁に描かれた絵にめり込んでいってたどり着いた場所。ここはフィクションの世界なのか? 確かヘレンさんが『ベルベットルーム』は夢と現実の狭間と言っていた。それにしてもわからないことだけれど、ここもそういったものなのだろうか?
「まずここってさ、アタシらの通ってる学園ではない……よね?」
「うん……おそらく」
それはアタシもなんとなく気づいていた。絵の中からいつもの学園にワープしたということもあり得なくはない、いやあり得ないんだけど……つまり“あり得ない”という前提のもとで“あり得る”可能性ではあるけど、だとすれば放課後の今、誰もいないということはない。部活なりなんなりで残ってる生徒もいれば、先生たちだっているはずだ。
それになんとなくといった感覚ではあるものの、構造的に学園とは違う気がする。このあたりは動き回ってみればわかることだろう。
行くあてはないものの、とにかく気をつけながら伊吹と校内をうろついてみることにした。
*
「なんなんだマジにここは……というか、あの絵も」
ふたりで歩いて落ち着きを取り戻してきたのか伊吹がいつもの調子で呟いた。
「それについてはなにも答えられないけど……ひとつ思うんだよね。これって朋ちゃんが言ってた“なにかよくわからない力がアタシに起こそうとしている非日常な出来事”……なんじゃない? って」
というかベルベットルームで言われたことも含めればまず間違いないとアタシの中では思っている。
「それかぁーっ! ……っていっても、そうだとしてそれがわかったらここがなんなのかわかるってわけでもないんだよね?」
「わかってたらさっさと渚ちゃん見つけて帰ってるからね……」
そう言って嫌な考えが頭をよぎってしまった。渚ちゃんを見つけるのはともかく、ここから帰ることはできるんだろうか? とりあえずフィクション的に考えるなら渚ちゃんと合流してこっちの世界で『扉』の絵を見つけてまた入り込めば戻れるような予測は立つ。この場所がなんなのかという謎は解けないかもしれないけど。それか、まさにその謎を解明しないと帰れない可能性もある。
いずれにしても、すぐに帰れる気はしてこない……。いや、まずは渚ちゃんを早く見つけよう。途方に暮れるのはそれからでいい。
「なんにせよまず渚だよ。帰りは……なんとかなるでしょ」
珍しく沈んだトーンで伊吹が言った。そうなるのもわかるけど、いつもの楽観的な態度を求めてしまう自分がいる。
「うーん、ここがアタシらの通ってるとこならとりあえず渚のクラスに行ってみればいいと思うんだけど……」
筋というか正攻法というか、まずそれは間違いないと思った。ここが学園ではないにしても、当の渚ちゃんが同じように考える可能性もある。
「あてはないんだし、行こう」
3年生の教室は3階、窓から見える景色で判断した限りここは2階。さっき伊吹が降りてきた階段を上り直すことにした。
「さっきはなにも見なかった?」
「とりあえず1階まで降りようと思ってたからしっかりチェックしてたわけじゃないけど見なかったし聞かなかった」
3階へやって来ると実際特に目を惹くものはなかった。アタシたち以外の話し声や物音も聞こえてこない。ひとまず目的の渚ちゃんのクラスの3-Aを目指す。
そうして教室へとやって来たはいいものの、相変わらず物音は聞こえない。半ばそうと決めつけているような気持ちで扉を開けると、案の定渚ちゃんはもとより他の誰も教室にはいなかった。
なんの変哲もない座席のなかに、ひとつだけ上に物が乗っている机があった。ふたりして近づいてみるとノートだった。
「あっ、えっ待って、ここ渚の席……なんだけど。あっ、ここが学園ならね?」
ノートの表には『修練』と黒のサインペンで太く書かれていた。どことなく罪悪感を感じながらも流れ的に中を開いてみる。そこにはウォームアップ、練習、終わったあとのクーリングダウンや対戦相手のスタイルごとのゲームの展開法、メンタルトレーニングのメソッドをまとめたものが記されていた。流し読み程度でも特定の単語や図を見れば、これがバスケットボールについて書かれたものであることはアタシにも理解できる。
「渚ちゃんの……かな?」
「……でしょ。机の場所も、筆跡も見覚えあるし。ここは……学園なの?」
わからない。そうなら誰もいないのはおかしいし、それにこの教室はともかくとして、ここまでの道すがら、異様な雰囲気がそう感じさせるのもあるだろうけど、なんとなく自分たちの通ってる場所とは思えない違和感があった。
「体育館」
「え?」
「体育館はどうかな。自分の教室にいないなら、次に渚がいそうな場所だと思う……単純かもだけど」
誰もいない以上次の心当たりを調べるべきだろう。ノートを持ってから体育館に向かおうと教室を出ようとすると、先に廊下に出た伊吹が左を向いて、そのまま固まってしまった。
「どうしたの………………」
声をかけながら教室を出て伊吹と同じ方を向くと、そこからアタシも動けなくなってしまった。
「ミツケタ、ミツケタ……」
視線の先にいたのは……なんだろう?
「おぉうっ!?」
突然振り返って走り出した伊吹に腕を引っ張られた感覚で変な声が出てしまった。が、その動きで緊急事態を察した右足が即座に床を蹴った。
一瞬振り返る。緑色の丸っこい謎の塊がアタシたちを追ってくる。無我夢中に全力疾走で前を行く伊吹にがむしゃらについていく。さすがナチュラル体育会系のバネはすさまじく、文化系に端を発する体育会系のアタシでは少しずつ離されていってしまう。
それでもなんとか、どこに向かっているかわからないであろうままに階段を降りに降りて走り続ける伊吹に食らいついていくと、下駄箱をぽーんと通り過ぎて校舎前で止まった。
「ぁぁ……はぁ……っ、校庭なんて、広いとこ出たら見つかりやすくならない……っ?」
整いそうにない息をそれでも整えようとしながら率直な気持ちを言ってみた。
「いや……屋上行ったら詰むと思ったから……とりあえず降りてった……」
「じゃあっ……仕方ないね……」
疲れの差こそあれ、お互いに荒れた呼吸で言葉を交わしていると、嫌な予感しか感じさせないザザ、ザザッ……とした物音、というか足音が聞こえてきた。
「あぁ……」
「……はは、なんかもうよくわかんないね……」
感覚が麻痺したのか軽く笑いながら伊吹が呟いた。アタシも似たようなもので、息切れと目前の光景からくる得体の知れない不快さ、そして同時にこの場の雰囲気に対して馬鹿馬鹿しさのようなものもあって、そういったのが全部ないまぜになっていた。
アタシたちの前に……鬼がいた。赤黒い肉体、顔には瞳のない青い目、むき出しの太い牙、こめかみのあたりに二本、頭頂部に一本生えた角……清々しいほど鬼としか言いようがない見た目をした3匹の鬼がそこにいた。
鬼たちは低い唸り声を上げて明らかにアタシたちを狙っていた。手には薙刀のような形をした金棒を持っていた。それをどう使おうとしていたかは明白だった。
「ゥゥゥウ……」
ひとりの唸り声が止んだ。金棒を強く握りしめたときの筋肉が隆起する音が聞こえたような気がした。瞬間、さっきまで感じていた馬鹿馬鹿しさが青白い恐怖に変わり血の気が引いた。
「グオオオォォォ……ッ!!」
金棒が横薙ぎに大きく風を切った。幸いそれ以上に嫌な音は聞かずに済んだ。血の気が引くのと同じくらいの速さで身体も後ろに退いた。よく動けたと自分でも思った。そう思うとまた場違いに嬉しい気分が湧いてきて、見る余裕はなかったけどきっと伊吹はもっときれいに避けたんだろうな、なんて思ったりもした。
「いやいやいやいやいやいやいやいや……」
数歩後ろで伊吹が呪文のように呻きながら内腿とお尻をしっかり地面に着けてへたり込んでいた。顔はきっとアタシと同じだ。顔面蒼白。
察するに、力強いバックステップでアタシよりも後ろに下がって攻撃をやり過ごせたはいいものの、腰を抜かしてそのまま動けなくなってしまったようだ。無理もない。アタシも地面を踏みしめ直してみても、立てている気がしてこない。
鬼たちに慈悲はない。金棒を両手でしっかりと握り直して、今度は3匹が一斉ににじり寄ってくる。今のアタシたちには次の攻撃を避けるのも、逃げるのも難しい。立ち向かうのは……一瞬考えてみたけどやっぱり万にひとつもあり得ない。
「本当にそうなのかい?」
誰かが言った。誰か、そう“誰か”だ。アタシや伊吹ではない声……いや、声に関しては自分のに似てたような気もする。
「その可能性はあるかもしれない。なにせ、ぼくはきみなんだから」
また声がした。しかも明らかにアタシの心の声に答えるように。次から次へととんでもないことばかり起きているけど今は目の前のこの状況こそがいちばんとんでもなく、そして切り抜けなければいけないのに余計に頭が混乱してしまう……。
「この場を切り抜けるのは簡単さ、一歩踏み出せばいい。そしてそれが難しい。人間、自分自身に従うのがいちばん難しい。いまのきみみたいにね」
やっぱり考えを読んでいる……! 声は自分は自分自自身……アタシだと言う。そんなバカなことがあってたまるかと言えないのが今のアタシの状況……でも信じることもできないという正常な判断ができる程度には意志を保ててもいる……。
「そうかもね。でも信じる、信じないじゃないだろう? 前に出なきゃ、きみはここで終わるだけ。それにきみの友だちもね」
……! それはそうだ。それに声の主がさらに別の敵だったとしてもこれ以上の状況の悪化はない。目の前の鬼にアタシも伊吹も……終わるから。
「そうさ、自分の言うことは聞いておくもんだよ。さあ、一歩前へ!」
その声を合図のようにして、深いエコーで頭の中をひとつの言葉がこだまする。座り込んでしまいそうなほどのめまいをこらえて、右足を前に出し、やつあたりのように地面を踏みつけた。
「……ペ、ル……ソ、ナ?」
パリィ……ン! そう音が聞こえたわけではないが、割れて粉々になったガラス片のような光の粒が、踏み出した右足のまわりに散らばって、消えた。
「我は汝……汝は我。今ここに果たされた契約のもと、その力を見せよう」
そう聞こえたとたん、頭上に明らかに異変というか熱を感じた。見上げると……
「
目隠しをされた、拘束衣姿の、逆立った銀髪の……人間、なのか? が浮いていて、そう叫んだ。
「ゴワアアァァァッ!」
突然鬼たちのそばで青白い爆発が起きた。とっさに伊吹をかばいながらも爆発に見とれている自分がいた。