古今西行寺恋奇譚〜恋愛と闘いの幻想物語〜 作:黒い小説家
幽々子との対決を終えてから一週間後、あれから大和は人が変わってしまった。
幽々子に負けたあと、大和は鍛練に集中するために全てのことを放棄してしまったのだ。
それにより屋敷の家事は紅虎さんに任せ、幽々子さんの付き添いを和生に任せた。
学校に行かず、休憩も飯を食べるためにしか取らず、ひたすら己の肉体と技術を交互に鍛え続ける日々が七日間続けられた。
このとき大和の基本的な肉体強化のスケジュールは、まず50キロ以上の距離をほぼ全速力で走り続け、それを終えたあとジムで200キロのバーベルトレーニングを四時間、身体全体を鍛えるのに六時間、そしてサンドバッグをひたすら殴り続ける。
武術面ではあらゆる達人や武道を志す者と四六時中ひたすら素手で闘い続け、使われた技を全て瞬時に吸収する。
このときの睡眠時間は一時間と非常に短く、このスケジュールをやれば常人はもちろん、一流のアスリートでも半日も持たずに身体が壊れることになるだろう。
それだけ自分を追い詰めてどうなるのかと思うが、己の肉体を限界まで鍛え上げ、今より強くならなければ、大和の気持ちは落ち着かない状態にあったのだ。
もしも鍛練を無理矢理止めようとすれば、大和は怒りに任せて何をするのかわからないだろう。周りからしてみれば、あまりにも危険な存在と大和は成り果ててしまった。
《ボクシングジムにて》
時刻は九時半頃のこと。
このボクシングジムは床は緑色のコンクリート、壁と天井の色は白く、ボクサーが二十人ほど練習しても余裕があるくらいの広さがある。
そして練習器具はかなり充実しており、複数あるサンドバッグを初め、フリーウエイトやボクシングボール、自分の構えを確かめるための大きな鏡などが置いてあり、真ん中にはボクシングリングが設置してある。
ボクサー達が真剣に練習している中、強烈な打撃音がジム中に絶え間無く鳴り響いていた。
…ダンッ!!…ダンッ!!…ダンッ!!
そんな一際目立つ打撃音を何度繰り出している者の正体はサウナスーツを着ている草薙大和。このとき大和の肉体強化のスケジュールは一日の最終段階に入ってた。
大和が殴る度に爆音が聞こえると共にサンドバッグがくの字を描くほどの強烈な打撃力。そのあまりにも強烈な音に周りのボクサーは思わず大和の方向を見てしまう。
ただ、ボクシングジムで普通のトレーニングをしていれば良かったのだが、この時の大和のトレーニングは常軌を逸していた。
サンドバッグを休まず殴り続けたことで拳の皮が擦り剥けたのだろう。ボクシンググローブの中から大量の血液が溢れ出しており、地面には血が滴っている。
だが、それでも大和はサンドバッグを殴ることを止めなかった。アドレナリンが分泌されているせいで、痛みや疲れを一切感じておらず、何よりも強さへの執着が大和を動かしていた。
「あいつ、拳から血が出てるのに殴ることを止めないなんて頭おかしいんじゃねぇのか?」
「それによ、休まずに何時間サンドバッグ殴り続けてんだよ? いくらなんでも正気の沙汰じゃねぇぞ」
かれこれ休まずに四時間以上サンドバッグを殴り続ける、常軌を逸した大和の行いを見ていた周りのボクサーは騒ぎ立てる同時に、大和の身体を心配して一人の中年トレーナーが止めようとする。
「おっ、おいきみ……いい加減止めたらどうだ? それに拳の治療もした方が良いと思うぞ」
「止めるんじゃねぇ!! まだだっ! ……まだなんだっ! この程度で終われるかよっ!」
狂気を感じるほどの気迫と血走った眼、そして取り付かれたようにサンドバッグを殴り続ける大和の姿に思わず中年トレーナーは恐怖を感じてしまう。
(……もっとだ! もっと、さらに強くならねぇといけねぇんだ!)
今の大和はただ強さだけを貪欲に求める者と成り変わってしまった。もはや以前までの面影はほとんど残っていない。
結局、このときの大和を止めれるものは誰も存在せず、大和が自らサンドバッグを殴り止めるのも二時間後の話であった。
《一方その頃、草薙家では》
時刻は午後十一時辺り、一方で大和がボクシングジムでの練習を終えて、総仕上げの長距離ロードワークをしている頃だった。
草薙家の居間には紅虎、和生、幽々子、そして武尊の四人が集まっており、ちゃぶ台を囲んで話し合いをしていた。
話し合いの内容は他でもない、常軌を逸したトレーニングをかれこれ一週間は続けている大和をどうしようか考えていた。
勉学や哲学などで悩まない和生でさえ、今では兄の大和をどうやって止めれば良いのかを考えることで頭がいっぱいになっており、思わず溜め息が漏れてしまうほどに悩んでいた。
ただ幸いなことに、大和があんな風になったのはこれが初めてではないことだった。
「まったく、世話の焼けるやつだ」
「兄貴のやつ、また昔に戻っちまったな」
「えぇ、格段に強くなっているのは確かですが。また強さへの欲求が異常なまでに高まってきています」
師匠の紅虎からしてみれば、弟子が強くなるために鍛練を日々励むのは嬉しいことだが、今の大和がやっている行為は正気の沙汰ではない。
過酷なトレーニングで鍛え上げられた大和の肉体は常人とは掛け離れており、そう簡単には壊れることはないだろう。
しかし、大和が行っている今のトレーニング内容は異常且つ大変危険なもの。一週間続けれたのが奇跡だと言っても過言ではないほどだ。
いくら強靭な肉体を持つ大和でも、これ以上イカれたトレーニングを継続すれば、間違いなく肉体は破滅してしまうだろう。それだけ危険な状態なのだ。
「やっぱり紅虎さんの言ったことが駄目だったんじゃねぇのか? 兄貴結構落ち込んでたし」
「私は本当の事を言ったまでです。 ただ……こうなるとは予想していませんでしたが」
「それでだよ、あんな風になった兄貴をどうやって止める? 悪いが力ずくで止めるなら俺は絶対に嫌だからな、こっちが半殺しにされちまう。」
「俺を一緒にすんじゃねぇ、あいつが強くなろうが俺が勝つことに変わりわねぇよ」
「それなら大丈夫です。私が大和を食い止めるので、ただ少々痛い目にあって貰いますが」
平然とした表情でそう紅虎は発言する。まるで自分なら大和の暴走を容易に止めれると言わんばかりに、余裕の雰囲気すら感じ取れるほどだった。
しかし、そんな紅虎の態度に対して和生は納得していた。兄の師匠というのもあるが、何よりも紅虎の底知れない実力を理解していたからだ。
「まぁ…そういうことになるよな、それじゃあ任せたぜ紅虎さん、俺は何もできねぇけどな。」
「あの~……昔の大和って、一体どういった人だったのかしら?」
二人が話し合いをしている中、幽々子が悩んだような表情を浮かべながら恐る恐る話し掛けてくる。
それに対して二人は無意識にも幽々子を話し合いから省いていたことに気が付くと、若干申し訳なさそうな表情で紅虎が質問に答えてくる。
「昔の大和はただひたすら強くなるために、良く無茶な事してた人でしたよ。 生命の危機に晒されることなんて日常茶飯事でしたから」
崖から飛び降りて驚異的な防御力と動体視力を身に付けたり、大型の猛獣や武器を相手に素手で闘ったりと、正気の沙汰ではない鍛練をよく大和は行っていた。
その試練を大和に与えたのは全て紅虎だが。
「だが幽々子さんが来てから兄貴は大分変わったよ。 楽しそうに笑ったり喋ったりする兄貴を見たときは驚いたからな」
「そうですね、武術家としては嬉しくない出来事ですが、以前に比べれば大和は人間味が出てきた感じがします」
「あと女性が苦手だったよな、中学の時に聞いた話だと、クラスの女と目を会わしただけで顔が真っ赤になってたとか」
「へぇ~そうだったのね、別に苦手そうな雰囲気はなさそうだったけど」
確かに出会った当初の大和は所々恥ずかしそうにしてたり、顔を赤らめていたことが多々あったけど、あれは女性慣れしていなかったからなのか。
少しずつ話が脱線していき、大和の過去を暴露する話に成りつつあると言うことは黙っておこう。
話を聞いていた武尊はため息をつくと、まるで馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに呆れたような表情を浮かべながらその場から立ち上がった。
「くだらねぇ、たかがそんなことでヤケになるなんて馬鹿としか言いようがねぇな」
そう言って武尊は茶の間から立ち去っていった。
「ところで紅虎さん本当に大丈夫なのかしら? 大和は以前よりも強くなっているのよね?」
「まぁ突進しか脳が無い闘牛を相手にするようなものですから問題ないでしょう。
それに格段に強くなったとしても、目的を失ったあの子には負けませんよ」
「……目的?」
「それでは早速、大和を待ち伏せしようと思うで、私はこれで失礼させて頂きます。」
「くれぐれも怪我しないようにな、紅虎さんよ」
「心配には及びません。寧ろ兄の身を案じた方がいいと思いますよ」
そう言い終えると紅虎はその場から立ち上がり、歩いて居間から立ち去って行った。
それから紅虎がいなくなると、和生はその場に寝転がりながら愚痴を漏らした。
「相変わらず紅虎さんは自信があるよな。まるで自分は絶対に負けないって雰囲気を感じるぜ」
「でも、それに見合った強さを持ってると思うわ。それに、あの人の心境や実力は本当にわからない事が多すぎるわね」
知り合いに胡散臭い旧知の友人がいるけど、直接のコミュニケーションを一切とらなくて、計画や考えてることを把握することができる。
しかし、紅虎の場合は本当にわからない。言葉の真偽、戦闘の実力、思考、どれもまったくと言っていいほどに読むことができない。
「仕方ねぇよ、昔から謎な部分が多い人だからな。逆に紅虎の経歴とかを知ってるやつがいるのかよって思うぐらいだし」
それから和生は欠伸をしながら身体を伸ばしたあと、その場から立ち上がって座っている幽々子の方を見ながら言った。
「それじゃあ俺は自分の部屋に戻るわ。幽々子さんも夜更かしするなよ」
そう言って和生も自分の部屋に戻るために、幽々子に背を向けながら手を振って居間から歩いて去っていった。
一方、居間に残された幽々子は部屋には戻らずに一人で考え事をした。