中間テストまでいよいよ……と思い詰めた顔をして言うこともなく、今日この日。当日に至る。
今までコツコツとしてきた勉強に加え、前日に櫛田さんから配られた過去問までしっかり解いてきた生徒たちの表情には、確かな自信というものが窺えた。
茶柱先生が教壇に立ち、そんな生徒たちの顔を不敵な笑みを浮かべながらぐるりと見回している。
「欠席者は無し、ちゃんと全員揃っているみたいだな」
一度満足げに頷き、さっそく持っていたプリントの束を配り始めた。
全員に渡る前にまた口を開く。
「もし、今回の中間テストと7月に実施される期末テスト。この二つで誰一人赤点を取らなかったら、お前ら全員夏休みにバカンスに連れてってやる」
生徒たちが茶柱先生の放ったあるワードにすかさず反応する。そのワードとはもちろん『バカンス』だ。茶柱先生は愉快そうに笑った。
「そうだなぁ……青い海に囲まれた島で夢のような生活を送らせてやろう」
茶柱先生に嘘を言っている様子はない。だから生徒たちはその言葉を信じ、テストを終えた後の“ご褒美”にそれぞれ思いを馳せてキラキラと目を輝かせた。
特に男子の咆哮が凄いもので、私もどさくさに紛れて一緒に叫んでおいた。このビッグウェーブに乗らずして何の人生か。私も女の子たちの水着楽しみです。
───教師の合図で始まった中間テストは、一時間目、二時間目、三時間目と順調に終えていく。
そして迎える四時間目も無事に終え、昼休み。
事件はここで起こるのだ。
「楽勝だな! 中間テストなんて!」
「俺120点取っちゃうかも」
一応私も堀北さん主催勉強会のメンバー入りをしているし、清隆くんと目が合ったのもあって堀北さんの近くに集まっていた。清隆くんの机に浅く腰掛け、ぽけーっとした顔をする。清隆くんもぽけーっとしている。
そんな私たちをよそに、池と山内は明るい声をあげていた。だから必然とみんなの視線はある人物に集まった。
「須藤くんはどうだった?」
「……須藤くん?」
須藤の顔色が悪い。彼が瞬きするのも忘れるくらい食い入るようにじっと見ている問題は、英語の過去問だ。
「須藤、お前もしかして……過去問勉強しなかったのか?」
「英語以外はやった。寝落ちしたんだよ」
薄ら汗の滲んだ額。焦っているのもよくわかるし、イライラしているのもよくわかる。
時計を見る。殘された時間は10分弱だ。この10分で問題のすべてを覚え切れるとはとても思えない。初めて目を通すならなおさらだろう。
「くそ、なんか全然答えが頭に入らねぇ」
「須藤くん、点数の振り分けが高い問題と答えの極力短いものを覚えましょう」
堀北さんがすぐ席を立ち、須藤の隣についた。須藤は堀北さんの態度に若干驚きを示すものの、素直に頷いて指示を聞いている。
「だ、大丈夫かな?」
櫛田さんが私たちのすぐ近くに来て、堀北さんたちの邪魔にならないようこそこそと不安の言葉をこぼした。
「日本語と違って、英語は基礎が出来てないと呪文みたいに見えるからな。それを覚えるのは時間がかかる」
「そもそも日本人が英語やる意味ある?」
「英語できない人の常套句じゃないかそれ……」
「あはは……」
軽く雑談しているうちに、タイムリミットはすぐ来たようだ。無情にチャイムが鳴り、堀北さんが一旦ふうと息をついた。
「やれることはやったわ。後は忘れないうちに、覚えている問題から解いて」
「ああ……」
須藤の顔色は悪いままだった。みんなその様子に不安を残しながらも、各々自分の席に戻っていく。
清隆くんが私を見ている。一度視線が交差して、席に戻るため離れれば自然とすれ違った。
最後のテストも終え、教室から生徒たちが続々と姿を消していく中。
清隆くんを含む堀北さん主催勉強会メンバーは、再び須藤の周りに集まっていた。私は一度教室を出てお手洗いに行っていたため、自分の席に座ってごそごそと片付けをしている最中だった。
「な、なあ大丈夫だったか?」
池の不安そうな声が聞こえる。
「わかんねえ……やれることはやったけどよ、俺、自己採点なんて出来ねえしな……」
「大丈夫だよ。今まで一生懸命勉強だってしたし、きっと上手くいくよ」
「くそ、何で寝ちまったかな、俺はよ」
須藤が自分自身に悪態をつく。貧乏ゆすりでもしているのか、カタカタと小刻みに机が揺れる音がした。
先ほどまで聞こえなかった堀北さんの声がする。
「須藤くん」
「……なんだよ。また説教か?」
説教じゃない。
彼女が今から須藤にするのは───
「過去問をやらなかったのは、あなたの落ち度よ。でも、テストまでの勉強期間、あなたはあなたなりにやれることをやってきた。手を抜かなかったことも分かってる。精一杯の力を振り絞ったのなら胸を張っていいと思うわ」
「んだよそれ。慰めのつもりか?」
「慰め? 私は事実を言っただけ。今までの須藤くんを見れば、どれだけ勉強することが大変だったかはわかるもの」
誰かが息を呑んだ気配がする。片付けをする手は、完全に止まっていた。
「それから……一つだけ。あなたに訂正しておかなければならないことがあるの」
「訂正?」
「私は前に、あなたにバスケットのプロを目指す事は愚か者のすることだと言ったわ」
「んなこと、今思い出させるかよ」
須藤が苦々しく言葉を吐く。堀北さんは構わず、生徒たちが一人、また一人と消えていく教室の中で淡々と喋り続ける。
「あれからバスケットのことを、その世界でプロになるのがどういうことなのか私なりに調べてみたわ。そしてやはりそれは、険しい茨の道であることが分かった」
「だから俺に諦めろって言うのかよ。無謀な夢だって」
「そうじゃない。あなたはバスケットに情熱を注いでいる。そのあなたが、プロになることの難しさを、生活していくことの大変さをわかっていないはずがない」
……動きを再開する。鞄の中身を整理し、筆箱を中に収めた。
「日本人でも、沢山プロの世界で戦っている人たちがいる。そして、その中には世界で戦おうとしている日本人もいる。あなたは、その世界を目指すつもりなのね」
「ああ。どれだけバカにされたって俺はバスケでプロを目指す。それがバイト以下の極貧生活になるとしても、俺はやり遂げて見せる」
「私は自分以外のことを理解する必要はないと思っていた。だから最初あなたがバスケットのプロを目指すと言った時、侮辱する発言をしたわ。けど今は後悔してる」
席を立つ。音を立てず教室を後にする。
声が、する。
「───あの時はごめんなさい。……私が言いたかったのはそれだけ。それじゃ」
視線は変わらずあった。
私が振り向くことはなかった。
§
教室に足を踏み入れた瞬間、茶柱先生は驚いたように生徒たちを見回した。当然だ、生徒たちが揃って中間テストの結果発表を固唾を呑んで待ち、ピンと張り詰めた空気が教室内を漂っていたからだ。
なお例外高円寺くんは除く。私と清隆くんは周囲に合わせて真面目な顔をしているのでノーカンである。
平田くんがクラスを代表して茶柱先生に質問をし、たった今、この瞬間から中間テストの結果発表が為されることがわかった。教室の空気がさらに緊張で張り詰めることになる。
「放課後じゃ、色々と手続きが間に合わないこともあるからな」
茶柱先生のこの余計な一言が原因なのもあるだろう。
黒板に張り出された大きな白い紙には、Dクラスの生徒の名前と点数が整然と並んでいる。
上から順にすっと視線を動かし確認する。予定通りの並び、点数だ。最後尾にいる名前とその点数を確認し、静かに瞼を閉じた。
茶柱先生の声が不気味に教室に響く。
「ああ、認めている。お前たちが頑張ったことは。だが───」
「お前は赤点だ須藤」
赤いラインが須藤の名前の上でゆっくり引かれていくのが皮肉のようだと思った。あながち間違いでもないんだろう。
騒然とする教室で、一瞬呆然となっていたのが嘘みたいに真っ先に須藤が声をあげる。
「は? ウソだろ? ふかしてんじゃねえよ、なんで俺が赤なんだよ!」
「須藤。お前は英語で赤点を取ってしまった。ここまでということだ」
「ふざけんなよ赤点は31点だろうが! クリアしてるだろ!」
「誰がいつ、赤点は31点だと言った」
茶柱先生が赤点の判断基準の種明かしをしていく。みるみるうちに須藤の顔からは色が失われていく。とても平然と見ていられるものではない。
凪いだ瞳が一対、須藤を見ている。
「これで、お前が赤点だと言うことは証明された。以上だ」
「ウソだろ……俺は……俺が、退学、ってことか?」
「短い間だったがご苦労だったな」
どこまでも淡々と言い放つ茶柱先生に、ついに須藤は何も言わなくなる。項垂れて、再び重い沈黙が教室に満ちた。
茶柱先生は待つわけもなく、また淡々と業務報告のように告げていく。
「残りの生徒はよくやった。文句なく合格だ。次の期末テストでも赤点を取らないよう精進してくれ。それじゃあ、次だが───」
「せ、先生。本当に須藤くんは退学になるんですか? 救済措置はないんですか?」
平田くんの助けを仰ぐ声に対しても、茶柱先生の対応は変わらない。
「事実だ。赤点を取ればそれまで。須藤は退学にする」
「……須藤くんの答案用紙を、見せて貰えないでしょうか」
「見たところで、採点ミスはないぞ? ま、抗議が出ることは予想していた」
ほとんど悪足掻きに近い須藤の答案用紙を見て採点ミスが無いかを探すという手段も、やはり徒労に終わった。
須藤に続き、平田くんも顔色を悪くさせて力なく項垂れる結果となる。
そのまま茶柱先生がホームルームの終わりを告げ、最後についでのように須藤には「放課後職員室に来い」とだけ言った。
重苦しい沈黙が包み込む教室の中ですっと上がった細い腕は、一筋の救いの光のようにも見えたことだろう。
「茶柱先生。少しだけよろしいでしょうか」
堀北さんが自主的に発言をするのは、これまでの学校生活において初めてのことだ。
茶柱先生とよく似た淡々とした喋りで、この状況の打開策を捻り出そうと慎重に言葉を口にする。
「今しがた、先生は、前回のテストは32点未満が赤点だと仰いました。そしてそれは、今の計算式によって求められた。前回の算出方法に間違いありませんか?」
「ああ、間違いない」
「それでは一つ疑問が生じます。前回のテストの平均点を私が計算したところ、64.4でした。それを2で割ると、32.2になります。つまり32点を越えているんです。にもかかわらず、赤点は32点未満だった。つまり小数点を切り捨てている。今回の求め方と矛盾しています」
「た、確かに。前回の通りなら、中間テストは39点未満が赤点になる!」
堀北さんがしたのは、赤点の採点基準は小数点を切り捨てているのではないか、というシンプルな話だ。その矛盾を突き、須藤の退学を阻止しようとする。
茶柱先生は意外そうな顔をしている。
堀北さんの言葉をクラスメイト全員が聞き、確かに教室の中には一瞬光が差す。
「なるほど。お前は須藤の点数がギリギリになることを見越していたのか。それで英語の点数だけが極端に低かったんだな」
「堀北、お前……」
茶柱先生の言葉に須藤が、クラスメイトたちがハッとしたように張り出された紙を目をやった。
そうして気づく。堀北さんは5科目中4科目は満点を取っているにも関わらず、英語の点数だけは51点という異質な数字を取っていること。
「お前、まさか───」
須藤の呆然とした声を聞いてなお堀北さんの凛とした態度は崩れない。それは同様に、茶柱先生にも言えることだった。
希望の光は容赦なく途絶えた。
「そうか。なら、もっと詳しく教えてやろう。残念だがお前の計算方法は1つ間違っている。赤点を導き出す際に用いる点数、小数点は四捨五入で計算される。前回のテストは32で扱われ、今回のテストは40で扱われる。それが答えだ」
今度こそ完膚なきまでに救いの道は閉ざされた。矛盾のない適切な説明がされ、話はこれで終わったなと茶柱先生がついに教室を後にする。
冷たい音を立て教室の扉は閉まり、再び教室の中は暗く重たい静寂に包まれた。
「……ごめんなさい。私がもう少し、ギリギリまで点数を削るべきだったわ」
シンと静まり返った教室には、ポツリと落とされた堀北さんの言葉ですらよく響く。
「なんで……お前、俺のこと、嫌いだって言ってただろ」
「私は私のために行動しただけよ、勘違いしないで。それも無駄に終わったけれどね」
堀北さんはそう言って、静かに腰を下ろす。また重い沈黙が教室に落ちた。誰も口を開こうとしないし、動こうとしない。
時計の針はもうすぐ1時間目が始まることを指している。時間は無限じゃない。残酷なくらい有限なのだ。いつまでも待ってくれるわけがない。
Dクラスの教室の外では、いつもとまるで変わらない喧騒が広がりつつある。
───静かに教室を後にする人物がいる。
私は気づいていないフリをして振り向かず、ぎこちなく日常を取り戻していく音を耳に拾いながら、真っ直ぐ前を見続けていた。
§
「お前たちがいれば、あるいは。本当に上のクラスに上がれるかも知れないな」
「彼はともかく、私は上のクラスに上がります」
「過去、一度たりともDクラスが上にあがったことはない。なぜなら、お前たちは学校側から突き放された不良品だからだ。そのお前たちが、どうやって上を目指す?」
「事実、Dクラスの生徒の多くは不良品かも知れません。けれど、クズとは違います」
「クズと不良品が、どう違うと?」
「不良品かそうでないかは紙一重です。ほんの少し修理、変化を与えるだけで、それは良品へと変わる可能性を秘めている、と私は考えます」
茶柱先生が微かに笑う。
「なら、楽しみにしようじゃないか。担任として、行く末を温かく見守らせてもらう」
誰もいなくなった一階の廊下。正確に言うならば、まだ一人残っている。まだ一人。
あと、一人。
先ほどまで脇腹に手刀を叩きつけられ悶絶していたとは思えないほど平坦な声で、廊下の曲がり角、その陰に隠れた存在の名前を呼ぶ。
「葵。いるんだろ」
「───やっぱり、清隆くんにはバレちゃってたか」
名前を呼ばれてあっさり姿を現す。曲がり角の陰から弾みをつけて廊下に出た。
私が出てくる場所も予測していたのかすでに体はこちらに向けられていて、清隆くんは静かに私を見ている。
「葵」
もう一度名前だけを呼ばれる。湖面のように凪いでいた瞳に僅かに感情が滲んだ。
「……清隆くん」
一歩前に踏み出す。動かない清隆くんの代わりに、また一歩、二歩と足を進める。
ついに目の前に立って、無造作に体の横に置かれていた清隆くんの両手を取った。エスコートするみたいに掬い上げ、手を繋ぐ。
「違うよ、清隆くん。私は何もしなかった。それだけだよ」
「……それは」
「そうだね。あんまり上手な言い訳じゃない。でもこれは、別に言い訳してるわけじゃないよ。私は事実を言っているだけ」
繋いだ手に力を込められた。瞳が揺れている。込められた分の力、それをさらに上回る力で清隆くんの手を強く握る。
「私は何も変わってないよ。清隆くん」
「………」
一度手を離そうとする。こうなった清隆くんが素直に離されてくれるわけもない。
それでもじっと顔を見上げ続けていれば、欠伸でもしそうなくらいゆっくりと、確かに緩んでいく。
完全に手が離れたのを確認すると、私は清隆くんの頰に両手を伸ばした。頰を包み込み、そのままぐっと下に引っ張る。
鼻先が触れるくらいの至近距離で真っ直ぐ瞳を合わせて、前を見据えた。
「明るくて、幸せな未来のため。……私が言っていることは、もう信用できない?」
私の言葉を聞き、揺れていた瞳が滲むような緩徐とした動きで焦点を定めていく。瞼もまた、ゆっくりと閉ざされていく。
もう一度目が開いたときには、いつもの清隆くんに戻っていた。
「もうすぐ1時間目が始まる。戻ろう、葵」
「りょーかい」
動き出した清隆くんに合わせて頰から手を離せば、いつものように手を取られた。教室に戻るために二人並んで歩き出す。
喧騒が遠い。教室を出ていた生徒たちも、1時間目の授業に備えてとっくに教室に戻りつつあるのだろう。
教室に戻るまでの僅かな時間。
私たちの間に会話はなかったけれど、繋いだ手はずっと変わらない、優しくて穏やかなものだ。その手に力を込めれば、同じように握り返してくれる。
そうだ。
私はずっと変わっていない。
変わっているなら、それは。
ストックしていた分はすべて出し終わりました。
二章以降もストックが溜まり次第一巻内容ごとに投稿していく予定なので、気長に待っていただけると嬉しいです。
評価、お気に入り、感想、ここすき等本当にありがとうございました!