「暑くない……?」
「今日もまた……いや、前より悪化している……」
げんなりしながら寮のロビーを出る。冷房に慣れ切った体には朝からコレはキツい。夏が好きとは言ったけど、あまりに暑いのは嫌いだ……。
「これでまだ七月なんだから笑う」
「笑えない。笑えないからな」
ぶわっと蒸し暑い熱風が襲い掛かってきた。二人揃って一歩後退りする。目を合わせて、覚悟を決めるように頷き合った。
学校までの数分間、肌を焼く痛みに耐えながら緑葉の生い茂る並木道から、ようやく学校へと辿り着く。学校に着いてからの安心感が段違いだ。
いつもと違うことに気が付いたのは、下駄箱から少し先にある階段の踊り場の掲示板だった。
「あ、これ───」
「須藤とCクラスに関係する情報を持つ生徒を、募集する貼り紙……か。なるほど、よく考えたな」
さらには有力な情報提供者にはポイントを支払う用意があるとまで書かれている。これなら普段興味を持たない生徒たちも注目をするはずだ。
一通り貼り紙の内容に目を通し感心していると、後ろから元気な声をかけられた。ビクーッと飛び上がりそうになる。
「おはよー綾小路くん、水元さんっ!」
「お、おはよう! 一之瀬さん!」
「おはよう、一之瀬。なあ、この貼り紙って、もしかして一之瀬が?」
吃りつつも朝の挨拶を返すことができ、大満足の私である。
清隆くんは挨拶もそこそこにさっそく貼り紙について聞いていた。一之瀬さんが掲示板の貼り紙に目を通し、興味深そうにする。
「へえ。なるほどなるほど。こういう手もありだねえ」
「え? 一之瀬じゃなかったのか」
「これは多分───あ、いたいた。おはよう神崎くん」
ちょうどよく通りかかったらしい、この貼り紙を用意したと思われる男子生徒が静かに歩み寄って来る。
「この貼り紙、神崎くんだよね?」
「ああ。金曜日のうちに用意して貼っておいた。それがどうかしたのか?」
「ううん、彼が誰がやったのか知りたがってたから。あ、紹介するね。Bクラスの神崎くん。こっちはDクラスの綾小路くんと、水元さんだよ」
「神崎だ、よろしく」
差し出された手を順番に取る。これがBクラスの参謀、神崎くんか……うーんイケメンだな。
物腰は固めだが真面目そうな生徒であり、高身長、すらりとした体型をしている。平田くんとはまた別のタイプで人気がありそうなイケメンだ。まあ私は断然平田くん派なんですが……。
清隆くんが私を見て、視線を戻した。
「どう神崎くん。有力な情報はあった?」
「残念ながら使い物になりそうな情報は無かった」
「そっか。じゃあこっちも例の掲示板見てみるね」
「掲示板? 他にも貼り紙を?」
一之瀬さんが薄く笑う。そんな笑みも可愛い。
「学校のHP見たことあるかな? そこに掲示板があるんだけどね、そこで情報提供を呼び掛けてるの。学校での暴力事件について目撃者がいれば話を聞かせて貰いたいってね」
そう言いながら私たちに携帯の画面を見せてくれる。
そこには貼り紙に書かれている内容とほぼ同じ書き込みがある。こちらでは閲覧者数まで見られるようになっており、その数はまだ数十人のようだったが、直接聞いて回るよりも遥かに効率的なように思う。
「あ、ポイントのことなら気にしないで。私たちが勝手にやってることだから。それに今の手ごたえだとちょっと新しい情報は難しいかもね。……あ」
言ってる矢先に、一之瀬さんが何かに気づいたような声を上げた。
「どうした」
「書き込み、2件ほどメール来てるみたい。少し情報があるって」
しばらくメールを読んでいた一之瀬さんが、少し笑みをこぼした。すぐに私たちにも画面を見せてくれる。
「例のCクラスの一人、石崎くんは中学時代相当な悪だったみたい。喧嘩の腕も結構立つらしくて地元じゃ恐れられてたんだって。同郷の子からのリークかな」
こうしてまた一歩着実に事態は進展した、か。
けれどまだ証拠として弱い。この情報は心証だ。須藤が一方的に殴ったという事実は重い。半々に持っていくのが現時点での精一杯だろうか。
「とりあえず、情報くれた子にはポイント振り込んであげないとね。あ、でも相手は匿名希望か……どうやってポイント譲渡すればいいんだろ?」
「良かったら教えようか?」
「綾小路くんわかるの?」
「いろいろ携帯操作していて覚えた。相手のメールアドレスは分かるんだよな?」
「フリーのだけどわかるよ」
一之瀬さんが清隆くんに携帯を向ける。その際無防備に清隆くんと距離を詰める一之瀬さんを見て、私はといえばハッと目を輝かせた。
おっ……おお!?よしいけ! いけ! いけーっ! 身を寄せろ! いいぞ! 美男美女で目の保養だ、いい感じ………なんで避けた清隆くん!?
内心騒がしくしている間にポイントの送信は無事に完了したらしい。一之瀬さんが身を離し、神崎くんの隣に戻った。
「ありがとう、綾小路くん。それじゃあ行こうか」
一之瀬さんと神崎くんについていく形で、私と清隆くんも並んで教室に向かう。
なにやら一之瀬さんを見て思案しているらしい清隆くんを横目に見つつも、私は私で覚えのあるぐにゃりとした感覚に苛まれていた。
§
教室に入って早々、櫛田さんが明るい笑顔で私たちに声をかけてくる。
「おはよ! 綾小路くん! 水元さんっ!」
「おはよう櫛田さん!」
「おはよう、櫛田」
勢いの違いを見てほしい。清隆くんには天使の笑顔が見えていない可能性あるな。
「昨日はありがとう。本当に助かったよ」
迷惑をかけられた覚えがないのに、こうして何事にも真摯に対応し、律儀にお礼を言ってくれるから櫛田さんは人気者なんだろう。私の方こそ私服姿の櫛田さんをありがとうって感じだ。
「また、今度一緒に遊ぼうね」
「ぜひに」
すかさず返事をする。社交辞令ではない、リアルにする。そういう強い意志での返事だ。ちなみに清隆くんも一緒でお願いします。
清隆くんと一旦分かれ、机に鞄を置きに行く。
荷物を所定の位置に置いてから後ろを振り向いてみれば、どうやら堀北さんに話しかけられている清隆くんがいた。
堀北さんから話しかけているなんて珍しい。好奇心が勝って、歩み寄って行く。
「そう? 別にそんなつもりはないわ、いつも通りよ。ただ、随分勝手に動くようになったなと感心していたのよ」
私が近寄って来ていることに気づいたのか、なんだかものすごい顔をした堀北さんが私にも視線を投げかけてくる。
「あなたたちは私が頼むときには渋る癖に、櫛田さん相手だとすんなり承諾するのね。その違いは何なのか、冷静かつ慎重に分析していたところよ」
お、おお……!? コレが……本領を発揮した堀北さんでは……!?
全然冷静にも慎重にも見えない堀北さんを興味津々に見ていると、ちょいちょいと肩を指先でつつかれる。櫛田さんだ。ちょっと来て、と呼び出されて、清隆くんと揃って後をついていく。
なおその間も堀北さんの冷静でも慎重でもない眼差しが向けられている。むしろキツくなったくらいだ。
三人で廊下に出て、櫛田さんが驚きと喜びに顔を明るくしながらコソコソと言った。
「なんかものすごく新鮮なものを見た気がするね。あんな顔もするんだ堀北さんって」
「新鮮? 不気味……やや怒ったような堀北だったと思うが……」
「二人ともわかってないなぁ」
やれやれとため息をつく。ついでに肩を上げて両手を上に向け、大袈裟な挙動も取ってみる。
清隆くんと櫛田さんの注目が集まったところで、私は存分に溜めつつ言った。
「……あれが……」
「「あれが……?」」
「───ツンデレの……デレだ………」
「んぶふっ」
櫛田さんが吹き出した。吹き出す櫛田さんとか初めて見たかもしれない。
「ツンデレ……? あれがデレ、なのか……?」
「そうだよ」
「迷いのない返事だな……」
清隆くんは困惑し切っている。まだピンと来ていないんだろう。
櫛田さんは未だお腹を抱えて震えていた。
「あ、あれは……私を誘ってくれなくて寂しい、疎外感を感じる、って奴だね」
笑い過ぎて目尻に涙が浮かんでいる。それを指先で拭いながら、櫛田さんが懸命に言葉を紡いでいた。ちらっと教室を見て、また小さく吹き出す。
「あの堀北が? まさか」
「ほ、本人も無意識な気がするけど……。きっと友達と話したり過ごしたりする時間の楽しさに気づいたんじゃないかな。良いこと良いこと……ん、ふふっ……ふふふ」
相当なツボに入ったらしい。櫛田さんが楽しそうで何よりだ。
清隆くんは清隆くんで困惑し切った顔が抜けていない。櫛田さんとはまた別の意味で、同じようにチラチラと堀北さんを見ている。
「あ、もしかして綾小路くん、根本を勘違いしてるんじゃない? 堀北さんはね、綾小路くんと水元さんに誘ってもらえなかったことが嫌だったんだよ。……うん、ツンデレって言葉が一番わかりやす……んん゛っ! ん、ふふ、あはははっ!」
「ええ……」
ついに声を上げて笑い出した櫛田さんを、清隆くんが引いたように見ている。
ここに堀北さんツンデレ同好会が発足した。私の中で。
清隆くんはともかく、誘えば櫛田さんはノリノリで入ってくれそうな気がしている。機会があれば本格的に準備して誘ってみようかな……。
§
ホームルームを終えた茶柱先生をさりげなく追いかけて、職員室の手前で呼び止める。教室の中だと目立つため、佐倉さんに配慮したものだ。
昨日の電話の話は結局できないししないまま、私たちは佐倉さんと共に後方で待機する。
私が此処にいる必要はないとわかっている。でも見届けたかった。正体を、突き止めたかったのだ。
櫛田さんが先頭に立ち、茶柱先生に佐倉さんの件を伝えている。
「目撃者? 須藤の事件のか」
「はい。佐倉さんが事件の一部始終を見ていたんです」
櫛田さんが後ろで静かに待機していた佐倉さんを呼ぶ。佐倉さんは少し緊張した面持ちで、静かに一歩前に出た。
茶柱先生の確認の言葉に佐倉さんが頷く。小さく肯定の返事をする。茶柱先生の眼光に居心地が悪そうにはしていたが、ちゃんと反応を示した。
証言すると約束した通り、佐倉さんは茶柱先生の前でゆっくりと真実を口にしていく。茶柱先生は最後まで口を挟まず、静かに話を聞いていた。
佐倉さんの証言を聞き終え、茶柱先生が口を開く。
「おまえの話は分かった。が、それを素直に聞き入れるわけにはいかないな」
「ど、どういうことですか? 先生」
目撃者の発見に、Dクラスの担任である茶柱先生が喜ぶと思っていたのだろう櫛田さんが、期待を裏切られて慌てて理由を尋ねた。
茶柱先生は淡々と言う。
「佐倉、どうして今になって証言した。私がホームルームで報告した際には名乗り出なかったな。欠席していたわけでもなかっただろう」
「それは……その……私は誰かと話すのが、得意じゃないので……」
「得意じゃないのに今になって証言するのも変じゃないか?」
……きっと最初の段階で名乗り出ていれば、茶柱先生も素直に目撃者の存在を喜べていたんだろうな。
「先生、佐倉さんは───」
「今私は佐倉に聞いているんだ」
鋭く、怒気の籠った声で茶柱先生は櫛田さんの言葉を遮る。佐倉さんが怯えたように小さく縮こまった。
「えっと……クラスの、が、困ってるから……私が証言することで、助かるなら……そう思ったから……」
茶柱先生は担任として、佐倉さんという少女の性格を把握しているはずだ。だから彼女がこうして真実を話しているだけでも、大きな前進だと感じているだろう。
「なるほど。お前なりに勇気を振り絞ってのことだったんだな?」
「はい……」
「そうか。おまえが目撃者だというなら、私は当然の義務としてそれを学校側に伝える用意がある。だがその話を学校側が素直に聞き入れ、須藤が無罪になることはないだろう」
「ど、どういうことですか?」
感情のこもらない声で、また茶柱先生が淡々と言った。
「本当に佐倉は目撃者なのか? ということだ。Dクラスがマイナス評価を受けるのを恐れて、でっちあげた嘘なんじゃないかと私は思っている」
茶柱先生の担任とは思えないあんまりな言い方に、櫛田さんが愕然とした表情になる。すかさず非難を込めた声を上げるが、茶柱先生は一ミリも揺るがない。
「茶柱先生、そんな言い方は酷いと思います!」
「酷い? 本当に事件を目撃しているなら初日に申し出るべきだ。期限ギリギリになって名乗り出られても怪しむのが当然だ。それもDクラスの目撃者とくれば尚更な」
茶柱先生の言い分は、もっともだった。
「疑うなという方に無理がある。そうは思わないか? 都合よく同じクラスの生徒が人気のない校舎にいて偶然一部始終を目撃した。出来過ぎだ」
疑われても仕方ない。佐倉さんが事件を目撃していたという事実は、あまりに出来過ぎだった。私だって第三者に言われれば、絶対に内輪の作り話だと思うだろう。
公正なジャッジを行えば、目撃証言として弱くなるのは当然のことだ。
「しかし目撃者は目撃者だ。嘘だと決めつけるわけにもいかない。ひとまず受理しておくことにしよう」
茶柱先生が試すように佐倉さんを見る。
「それから、場合によっては審議当日、佐倉には話し合いに出席してもらうことになるだろう。人と関わるのが嫌いなお前に、それが出来るのか?」
意地が悪い言い方は茶柱節が利いていた。……茶柱節ってなんか……美味しそうだな。……思考が逸れた。
佐倉さんは茶柱先生の揺さぶりじみた言葉を聞いて、若干顔を青ざめている。
「それが嫌なら辞退するのも手だ。その際には審議に参加する須藤に伝えておくように」
顔色を心配した櫛田さんが佐倉さんに「大丈夫……?」と声をかけている。佐倉さんはこくこくと頷いた。
一応声に出して返事もしているが、先ほどよりもさらに自信を失くした声をしている。
人前で証言をすることに加えて、当日は須藤と二人きりで審議に参加ということ。それを佐倉さんに強いるのは少々……いや、かなり酷だろう。
櫛田さんがそれに気づき、いち早く提案をした。
「私たちが参加しても構いませんか、先生」
「須藤本人の承諾があれば許可しよう。だが何人もというわけにはいかない。最大で二人まで同席することを許可する。よく考えておくように」
今度こそ茶柱先生が職員室に入っていく。これ以上引き留めても話は堂々巡りだろう。
職員室を後にした私たちは、教室に戻って堀北さんに事のあらましを説明した。
堀北さんが説明を聞き、「当然といえば当然ね」と言い放つ。
「ごめんなさい……私が、もっと早く名乗り出てたら……」
「確かに事態は多少違ったかも知れない、けれどそれほど大きな違いはなかったでしょうね。目撃した人物がDクラスだったことが運のツキよ」
慰め方が下手である。でもこれが堀北さんだ。順調にツンデレ街ど……人との接し方を学んでいるようで私は嬉しいぞ。
堀北さんが思案気に視線を落とす。
「それから櫛田さん。当日は私と……綾小路くんに出席させて貰えないかしら。あなたが佐倉さんの支えになることは十分理解しているけれど、討論となれば話は別よ」
「それは……うん、そうだね。私じゃ、その部分は力になれないと思う」
───安堵。
気づけば、肩から強張りが取れていた。
「佐倉さんも、それで構わないかしら?」
「……わ、わかった」
佐倉さんの返事からは全然良くはないことを感じた。この場ではそう答えるしかないとはいえ、やっぱり少し可哀想だった。
私は心の中で応援するだけに留めておいた。
§
櫛田さんは佐倉さんの裏の姿に気付いたであろう。
池と山内が漫画の週刊誌を取り合っているのを見て、何かに気づいた様子で携帯で調べ物をしていた。気づくのは時間の問題だ。
妙に落ち着かなくて、早めに切り上げた部活からの帰り道。
寮のロビーに差し掛かったところで、一通のメールが届いたのに気づいた。差出人を見て動きを止める。
メールを開いて目を通した。
『もし、私が明日学校を休んだらどうなりますか?』
心臓が鳴っているのが聞こえる。額に手を当て、瞳を閉じた。
一度息を吐くと、閉じていた目を開けて返信するために指を動かす。
『どうもしないよ』
少し間を置いて、返信がくる。
『今、何してますか?』
『部活が終わって、今は寮に帰って来たところ』
『もし良ければ今からお会いできませんか。1106号室です』
『誰にも秘密でお願いできると……助かります』
清隆くんも連れて行って大丈夫かと、途中まで書き込んでいたメールを止める。
決定的に狂っている。バグだ。これはバグ。そうじゃないと、どう説明すればいい。
……いや、違う。佐倉さんはおかしくない。佐倉さんは間違っていない。理解している。理解できている。だから。
バグ。狂っているのは。
バグなのは?
『5分もかからないで行けるから、待っててくれる?』
エレベーターのボタンを押す。
下に降りてくるのを待っている間、私は真っ暗な画面を映す携帯を意味もなく見下ろしていた。
エレベーターが一階で止まった。開いたドアを見つめる。
「……水元さん?」
後ろから声がかかって、ゆっくりと振り向いた。声の主から誰かは簡単に推測できた。
「堀北さん。珍しいね、こんな時間に。どこか行ってたの?」
「買い物してたから。見てなかったの?」
堀北さんが手にしていたビニール袋を軽く持ち上げた。ビニール袋特有の乾いた音が鳴る。
あーと納得の声を上げた。
「そういえば堀北さんも自炊してたね」
「ええ」
先にエレベーターに乗り込んで、開くボタンを押して堀北さんが中に入ってくるのを待つ。
堀北さんが乗り込んだのを確認してから、ボタンから指を離し目的の階を押した。
ゆっくりとエレベーターが上がっていく。沈黙は気まずいものではない。
ふと私が押した階を見て、堀北さんが不思議そうな声を上げた。
「あなた、どこに行こうとしてるの? 綾小路くんの部屋でもないようだし、まして自分の部屋でも……10階でもない」
10階? 急に何の話をしてるんだろうか。
思い当たる節がない階層に首を傾げる。
「佐倉さんかしら?」
「違うよ」
佐倉さんの名前が出て即座に否定したが、堀北さんは信じてくれていない気がする。
私を見る目に、険が宿ったままなのが証拠だ。
「傍観者。自分のことをそう称していた割に、あなたも随分積極的なことね。何か心境の変化でもあったのかしら?」
「その点に関して言えば面目ない……」
自分でも自覚がある。だからこそこうも悪足掻きのように修正しようと奔走しているのだ。しかし、同時にもはや修正不可能な段階だとも理解している。
一度生まれた綻びは、なかなか元通りには戻ってくれないらしい。
ポーン、と目的の階に着いた音がエレベーター内で鳴る。
ドアが開き、少し前に進んでから振り返って軽く手を振った。
「じゃあまた、堀北さん」
「……ええ。また明日」
前を向く。背後でエレベーターのドアが閉じる音がする。
佐倉さんの部屋を目指して、足を進めた。
インターホンを鳴らしてすぐ、玄関で待機でもしていたのかと思うくらいあっさりと鍵が開いて、中に招き入れられた。
「お邪魔します……」
「……どうぞ」
佐倉さんは私服姿だ。今日は帽子もマスクもしていない。外じゃないんだから、当然か。
部屋に入って、敷かれたラグマットの上に勧められるまま腰を下ろした。すぐに佐倉さんもテーブルを間に挟む形で対面になって座る。
沈黙が辺りを包む中、私から口を開いた。
「それで、私に何か用があるんだよね?」
「あの……水元さんは前に、私に言ったこと覚えてますか……。私が目撃者だったとしても名乗り出る義務はないって言ってたこと。無理に証言したことに意味は無いって」
……なるほど。そこから狂っていたのか? なら、まだ、修正は可能……か。
水滴が落ちて、そこから波紋が広がるように。
安堵が胸に満ちた。ようやっと、視界がはっきりした感覚を取り戻す。
「……私……やっぱり自信がありません……」
意識を戻す。
顔を上げて、佐倉さんをしっかり見た。
「人前で話しきることに対して、かな」
「昔からダメなんです……人前で話すことが苦手で……明日、先生たちの前であの日のことを聞かれたら、ちゃんと答えられる自信がなくて……それで……」
なるほど、と頷く。佐倉さんが言いかけた言葉を引き継いだ。
「学校を休んでしまおうかと」
落ち込んだように頭を下げる。私の言葉に頷いたように見えなくもない。
佐倉さんの頭は止まることを知らないかのように、そのまま額をテーブルにぶつけに行った。えっと素で声が出た。結構痛そうな音が鳴ったぞ。
「あーーーーもう、どうして私はこんなにダメなのぉぉ!」
!? こんな駄々っ子みたいな佐倉さん、私が見ちゃっていいの!? 清隆くんチェンジだ! なるはやでココに来て!
ジタジタと手足を動かし、もどかしそうに頭を抱えて佐倉さんが叫ぶようにしてそう言う。
私はつい、しみじみと口を開いていた。
「……佐倉さんって意外とハイテンション系なんだね……」
「はっ!?」
私の言葉を……というより私の声を聞いて驚いたように顔を上げる。
まさか叫んでいたとき、私がいること忘れてたとかある?
佐倉さんが真っ赤な顔になって首を振り、ついでに手を顔の前でかざして何度も左右に振った。
「ちが、違います。これは違いますっ!」
佐倉さんのいろんな表情を見ていると、ついついほのぼのしてしまう。そんな表情も作れるんだなと、安心するというか。
佐倉さんといえば思い出す顔は、だいたいいつも塞ぎ込んだ暗い顔ばかりだ。だから、こうやってころころ表情を変えている佐倉さんは良いと思う。
「ねぇ、一つ聞いてもいいかな。どうして私に声をかけたの?」
私が意識しないうちに話しかけやすい土壌を作っていたとはいえ、それでも理由はまだ乏しいと思う。相談するならば櫛田さんの方が良いに決まっているし、他の生徒も、それに清隆くんだって。
清隆くんは実際に店員さんから佐倉さんを守っているし、そんな風に、佐倉さんの周りには頼りになる人がいる。
だからどうして真っ先に何も為していない私を頼ったのか、その理由が気になった。
「……み、水元さんは……すごく、綺麗だから……」
「…………ん?」
なんか予想の斜め上というか、宇宙外から豪速球で投げ飛ばされたような回答が返って来たな……。
困惑し切った顔で頰を掻いて、改めて理由を尋ねる。聞き間違いの可能性、無きにしも非ず。
「えーっと……綺麗……って何?」
「あ! あの。見た目じゃなくて、あ、見た目は可愛いって感じですよね! って違う! あの、その、私が言っているのは………目、です。目が、とても綺麗で……」
「お、おう………目?」
「はい……。すごく、目が。澄んでいるっていうか、その……」
佐倉さんが真下を向いて俯いた。髪の隙間から見える耳は真っ赤だった。頭隠して尻隠さずみたいだなと思った。
「……じ、実は……私、水元さんのこと、よく見ていたんです」
「え」
「水元さん、ほら。よくうろうろしているじゃないですか」
「うろうろ……」
「はい。私もしてますから……」
うろうろという言葉にちょっと傷ついたが、本人も普通にうろうろしているらしく、『うろうろ』は別にバカにしているわけじゃないとわかった。
というより、今は別の言葉が気になっている。
俯いたまま佐倉さんは言葉を続けた。
「すごく……いつも、キラキラしていて。まるで、世界まるごと綺麗だって、言っているみたいな……そんな目をしているから」
「……えっと……ちなみにどこで見てたの?」
「あ……いろんな場所で見かけました。水元さんはその、集中していたから……私も水元さんに気づいたらすぐ隠れて、物陰とか、遠くから見ていただけだし………あ」
佐倉さん何か気づいたのか、顔をサッと青くする。そして私に向かって深々と頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……! 勝手に見られてるのとか、気持ち悪いですよね。ごめんなさい、もうしません本当に!」
「あ、いや! それは全然気にしなくていい、いや全然でもないけど、別にそんなに謝ることじゃないしいいよ! 私も気づかなかったくらいだし」
いくら距離があったとはいえ、害意のある視線だったら気づいたはずだ。……いや、よく思い出せばたまに視線を感じることはあった。それも気のせいだと思えるくらい希薄なものであったが。
なるほど、その視線の主が佐倉さんだったなら納得できることだ。
佐倉さんはただ普通に私を見ていただけ。それなら別に、何も咎める理由はない。
───私も、たまに出先で佐倉さんを見かけることはあった。同じように声をかけることなく、見かけたら静かにその場を退散していた。なんというか……お互い様な気がしている。
そりゃ佐倉さん曰くうろうろしている同士だから……いつか鉢合うのも自明の理……。
そしてコミュ症が幸いして今の今までお互いノータッチだったのも、なんか、こう。改めて考えたら笑える。笑えない?
笑うのを堪えようとして、変な顔になる。佐倉さんは俯いていて、私の様子に気づいていないのがラッキーだった。
「そうだ。これからは一言声をかけてくれると嬉しいな。私もかけるから」
こうやって声をかけることができるくらいには回復した。佐倉さんも落ち着いたのか、そろそろと窺うように私を見る。こくりと頷いて、ほんの小さくではあるが、笑みを浮かべてくれた。
……私には向いていない。改めて思った。
「須藤くんの、ことなんですが……見たことをそのまま話せばいいって分かってるんです。だけど、それがどうしてもイメージできなくて……どうすれば積極的に話せるんでしょうか?」
私に聞くのだから、この数日間相当悩んでいたんだろうと思う。
だが、最初に言っていた通り佐倉さんが無理をする必要はないのだ。
「やめたいなら、私から話しておくよ?」
「……怒らないんですか……?」
「だから最初に言ったでしょ? 強要させた証言には意味なんてないって」
佐倉さんがまた視線を下げた。眼鏡の反射で瞳が見えない。
膝の上に置いた両手を固く握り込んで、縋るような声で聞いてくる。
「あの……。水元さんはどうするのが一番だと思いますか……?」
「佐倉さんの好きなようにすればいいよ」
具体的に指示をして欲しいのだろう。容易に察することができるが、私には無理な相談だ。
私は誰かに指図出来るほど優れた人間じゃないし、そもそも誰かに指図していいような人間じゃない。自分のことは自分がよくわかっている。
まあ、向いてないというのも単純に理由としてあるが。
「そうですよね。こんなこと急に言われても困りますよね……ダメだな、私。こんなだから友達が一人も出来ないんでしょうね……」
自分に嫌気がさしたのか、佐倉さんががっくりと肩を落として苦笑いをこぼした。
「佐倉さんなら少し誰かに話しかけていけば、仲の良い子がすぐに出来そうだけどな」
「全然です……。どうやってお話ししていいかも満足に分かりません……水元さんはいろんな人と仲が良さそうで、ちょっと羨ましいです」
「え。私が?」
「はい」
私はそんなに周囲と関わりがない方だが……? それを言うなら清隆くんの方がすごいだろう。やっぱり私、この場に似つかわしくない人物な気がする。
微妙な気持ちになりつつも、ふと佐倉さんを見やってあっと閃く。
……少しだけ躊躇したのは事実だ。だけど、今ここでこの言葉を言うからこそ、……いや。やっぱり私には向いていないな。
「……こんなことを言うのはおこがましいかも知れないけど、友達みたいなものでしょ。私たち」
へら、と笑う。
佐倉さんは戸惑った顔をした。
「……友達、なんでしょうか?」
「佐倉さんが違うって言えば、違うかも知れないけど」
「いえ……っ。うれしいです……そう言ってもらえると……」
また佐倉さんが小さく微笑んだ。さっきの笑みよりは、ちゃんと本物を感じる気がした。
佐倉さんがぺこりとまた私に頭を下げる。
「ありがとう。今日、私なんかに会いに来てくれて」
「全然大したことじゃないよ。これくらいならいつでも呼んでくれていいから」
もう用事は済んだだろう。立ち上がれば、見下ろした視界にまだ元気の無さそうな佐倉さんが映る。
時間は……まあ、部活をして帰るって言ったからまだあるか。
「そうだ。今日って今から予定ある?」
「今からですか……? いえ、特にはありません。というか、いつもありません」
そんな聞いていて悲しくなる情報は伝えなくていいんだよ……。
ツッコミがたい内容はスルーすることにして、玄関を指差して笑いかける。顔を上げた佐倉さんが、私を見上げながらゆっくりと瞬きをする。
「じゃあ、ちょっと一緒に出かけない? もし迷惑でなければ、だけど」
私としては場所はどこでも良かったのだが、佐倉さんにはどうやら行きたい場所があるらしい。
後をついて行き、たどり着いた場所に目を丸めた。
「あれ。佐倉さん、もしかして弓道部とか興味あったの?」
「はい。弓道部……というか。水元さんが、どんな風に……どんな目で部活をしているのか気になってて……でも、結局一度も行けませんでした。一人だとどうしても目立っちゃうから……」
相違点を突き付けられるたびに焦燥感が募る。
……不自然に止まっていた息に気づくと、そのまま溜めていた息を吐いて、努めて普段の呼吸を取り戻す。
佐倉さんが弓道場の方を向いたまま、質問を投げかけてくる。
「どうして私に声をかけてくれたんですか?」
「どうして……って、うーん。改めて聞かれると答えにくいな」
私も弓道場の方を見ながら、少しの間悩んで言った。
少し遠くから、時折矢を射る音が聞こえている。
「気分転換になれば、って思ったからかな。部屋にこもってばかりだと、気分が塞ぎ込んでいくから……」
「それは……少し、わかります。私もそうだから……」
沈黙が落ちる。以前のように、気まずさを感じるものじゃなかった。
静かに耳を澄ませて、周囲の、自然の音を聞く。矢を射る音も、一見すれば喧しく聞こえるはずの部活に励んでいる生徒たちの声だって、聞いているとどうしてか落ち着くものだ。
理由はまあ、なんとなく察することができるだろう。
「水元さんに友達だって言ってもらえて、嬉しかったです。そんなことを言ってもらえたの、初めてでした」
静かに紡がれる声に、こちらも静かに言葉を返した。
「櫛田さんは? 最初に声をかけたのは、彼女じゃなかったっけ?」
「……はい。櫛田さんにはいつか謝らないといけません」
佐倉さんが薄く笑った。自嘲交じりの、見ていて痛々しい笑みだ。
「声をかけてくれたのも最初に誘ってくれたのも櫛田さんだったのに、私に勇気が無かったから……。本当は一緒したかったんですけど。どうしても答えられなくて。情けないです」
視線を落とした。気分転換のつもりで連れ出したのに、余計落ち込んでしまっている気がする。
前に視線を向けて、少しの間逡巡した後。
私はゆっくりと口を開いた。
「明日のことについて、ひとつだけ私からアドバイスしてもいい?」
佐倉さんが私を見ていることに気づきながら、視線を前に向けたままた言葉を続けた。
「須藤のため。櫛田さんのため。クラスメイトのため。そんな考えは一度全部捨てて」
「えっ……? 全部……捨てる?」
「明日証言をするのは、事件を目撃したという真実を話す自分自身のためだよ」
佐倉さんが自分をまず大切にすることができるように。
自分が幸せになれずに、他人を幸せにすることなんかできない。自分を大切にして、それからようやく他人に目を向けることができるのだ。大切にしたいと、幸せにしたいと思うのだ。
───幸せになってほしい。
……これはまた、違うと思っているけれど。
「本当のことを自分のために話す。その結果須藤たちが救われる。それで十分だよ」
「………ありがとう、水元さん」
泣きそうな声だと思った。何も言わないで、視線は前に向けていた。