さらりとした感触を腕に感じる。それと胸元で何かの気配。
目を開けてすぐに広がった光景に、「お……あ〜……」と気の抜けた声を上げてしまう。思わず身動ぐと、寒そうに身を寄せられる。さっきよりも余計にくっついてしまった。
今度こそ動けずにいる私の耳に、軽やかな鈴の音のような笑い声が届く。眠っている人に配慮した、小さな笑い声だ。
視線だけを動かして誰か確認すれば、予想通りの人物と目が合う。ニコッと可愛らしく微笑まれた。
「おはよう、水元さん」
「く、櫛田さん……おはよう……」
内心で『誤解! 誤解なんです! これはその、えっと、あのだから誤解です!』と、まるで浮気現場でも見られたみたいな反応で騒ぐも、内心だから櫛田さんが知る由はなく。
軽く笑い返した私の顔が引き攣っていないことを祈るしかできない。腕の中にいる彼女の髪をこの美味しい状況で楽しまないわけがないので、まさに形ばかりの祈りではあった。
ち、違うんです! 本当に誤解なんです! 信じてください! いやそれにしても堀北さんの髪やばくない? 髪ってこんなサラッサラになるんだすっごぉ……。
日が昇ってきたのもあり、暑そうにしていれば櫛田さんに誘われて、一緒に顔を洗いに行くことになった。
川に向かっている途中、櫛田さんがくすくすと笑い声を上げる。
「堀北さん、可愛い寝相してたね」
「うんん……あの、その、誤解しないでほしいんだけど決して私が抱き寄せたとかそういうわけではなく朝気づいたらああなっててだから私は関与してないわけでつまり事故ってことなん」
「待って待って、焦りすぎだよ! ちゃんとわかってるから! ふふ……それにしても、水元さんも随分慣れた抱き方? してたな〜とは思うけど」
えっ!? と声が出た。素で動揺してしまった。
「そそそそんなことないと思うけどなぁ?」
「ふふっ、そういうことにしておこうかな?」
「誤解しないでください! 本当に違うんです!」
「うんうん、そうだね〜」
見事に櫛田さんの手のひらの上でコロコロと転がされている。櫛田さんは魅惑の女の子です。
というか慣れた抱き方ってなに!? 清隆くんか? たまに寝て起きたら腕の中いるもんな、清隆くん。逆もまた然りだが……。
川に着いて、さっそく顔を洗う。冷たくて気持ちいい。
川の水は地下水が湧き水として流れ込んでいる。だから温まりにくく冷めにくい性質があり、また上流から流れてくるから水温も上がりにくいという、まさに一石二鳥なのだ。
改めて考えてみれば、本当に良いスポットを押さえられたなぁとしみじみと思う。
「気持ちいいねぇ」
櫛田さんが濡れた顔をタオルで拭きながら、私に可愛らしく笑いかけてくる。今日も満点の笑顔だ。
相槌を返し、テントに戻るために立ち上がる。と、その際痛んだ腰に手をやって、軽く摩った。
「? どうしたの、水元さん?」
「いやぁ、やっぱり地面が固くてさ。腰が若干痛いんだよね……」
「あ〜……そうだよね。私もちょっと痛いかも……」
櫛田さんが苦笑する。私だけじゃなく、櫛田さんも痛むらしい。同じように腰を撫でている。きっと私たちだけでなく、他にも腰以外に各部位が痛む生徒が出てくることだろう。
私も苦笑を返して、櫛田さんと目を合わせながら言う。
「なんとかクッションに代わるものを探さないとね。マニュアルでクッションを買うのはもったいないし」
「えっ、マニュアルにクッションなんてあるの?」
「え? あ、釣りの道具を見てたときに偶然クッションがあるのも見つけて。ほら、マニュアルって誰でも申請可能だし……平田くんも快く見せてくれたんだ」
「そうなんだ……そうだね。はやくクッションに代わるものを見つけないとっ」
女の子の体はデリケートだもんね、とお茶目にウインクされる。うーん、何をしても満点。
「どこかに良いアイデアとかあったらいいんだけどな。参考にできるだろうし」
そんなことを言いながら歩いていると、私は前方を見てあっという顔をした。それから少し声を潜めて櫛田さんを呼ぶ。
私の突然の挙動不審な態度に不思議そうに首を傾げた櫛田さんが、私が指さす方を見て同じようにあっという顔をした。
「櫛田さん、あれ……」
「う、うん……平田くんに綾小路くんと……それと、Bクラスの神崎くんだね」
「なんかここから見たら三角関係みたいに見えるな」
「出てくる感想それなんだ……」
視線の先には、隣同士で並んでいる清隆くんと平田くん、そしてこの二人に対面する形で神崎くんがいる。三人は何か話をしているようだが、会話を聞くには私たちがいる場所では遠すぎて聞こえない。
「BクラスがDクラスに一体何の用だろうね? 神崎くん一人みたいだし……」
「本当だ……神崎くん一人、だね……」
「こんな朝早くから活動的だなぁ。みんなほとんど寝てるのに」
単独か誰かに指示されての行動かはわからないが、本当に立派なことだ。神崎くんならば単独の方が確率は高いと思うが。
櫛田さんが不安そうに三人の様子を見ている。三人の様子が気になるようだが、どのみちこの距離じゃ彼らの話している内容はわからないし、櫛田さんもわざわざ話しかけに行くほど気にしているわけではないだろう。
それに、そもそも少し考えたらわかることでもある。櫛田さんは頭が良いのだから。
チラと櫛田さんの様子を横目で確認して、声をかける。
「もう戻ろうか。顔も洗い終わってスッキリしたし。みんなを起こさないといけない時間にもなるしね」
「う、うん。そうだね」
櫛田さんを促して、彼らに背を向ける。
やることは済んだ。種を蒔いたなら、後はその後の過程を見守るだけ。
………さて。今後の展開はどうなるか。
いよいよ不明瞭になってきて、目を瞑り難しい顔をした。
§
朝の点呼を終えると、平田くんの指示により各々でポイント節約のための作戦を開始する。一方、手伝う気のあまりない生徒もいるわけで、つまり堀北さんのような単独を好む人間はそれぞれ好き勝手を始める。
櫛田さんはちょうど平田くんに話しかけていた。クラスの中心人物は大変だ。
そんな私はといえば釣りで忙しい。池! 池! 釣り教えて! 清隆くんも早くこっち!
「何だよおまえら!」
清隆くんを連れて池を探している途中、その池の怒った声が突然キャンプ地に響き渡ってびっくりする。清隆くんと一緒に声の方を振り向いて、状況を確認する。
肩を怒らせている池の前には、二人の男子生徒が立っている。二人の浮かべているニヤニヤとした笑みがなんとも悪役っぽい。絵に描いたような悪役面だ。ちょっと感動する。
「すごい、見て清隆くん。絵に描いたような悪役面」
「葵、聞こえるからやめろ。確かにそうだがやめろ」
………ッフ、と近くで誰かが笑う気配がした。
清隆くんと揃って声の聞こえた方を振り向く。伊吹さんだ。手の甲で口を押さえており、私たちと目が合うと気まずそうに目を逸らした。
清隆くんと一度目を合わせる。
「オフレコでお願いします」
「……別に。告げ口する気はない。実際間違ってないと思うし」
潔く頭を下げて平和的な解決を望む手を差し出せば、伊吹さんからあっさり、それも仄かにこちら側についているような返事が戻ってくる。ならば……ヨシ! 隣で清隆くんがため息をついた。
二人の男子生徒は伝言を伝え終えると、しばらく挑発行為を繰り返し、散々池たちDクラスの生徒の反感を煽って帰って行った。最後まで立派な悪役を務めていた。
彼らがいなくなってから、伊吹さんがぼそっと言う。
「私を探しに来た、ってわけじゃなさそうだな」
「ああ。単純に嫌がらせ目的っぽかったな」
「なかなかノリにノッた演技だったよね。すごく似合っモゴゴ」
「すまない。後でよく言い聞かせておくから、これもオフレコで頼む」
「……いや。だから、私は別に告げ口する気はないから」
今度は顔ごと逸らされてしまった。
清隆くんが後ろから私を抱え込んできっちり口を塞ぎながら、伊吹さんに疑問をぶつける。
「さっきあいつら、夢の時間を共有させてやるって言ってたが、心当たりはあるか?」
伊吹さんが少し俯いて、思案する様子を見せる。
「もしかしたら、私の想像する最悪のケースで動いてるのかもな」
そう呟くように言ったきり、伊吹さんは私たちから距離を取り、少し離れた木の傍に腰を下ろした。
「……偵察しに行く必要があるか」
覆い被さるように私を抱きかかえているせいで、清隆くんが何か言うたびに吐息が耳にかかってくすぐったい。あとなんか……う〜〜ん。
頭を意識して切り替える。
「モゴゴ」
「離さない。葵は……いや。葵は来なくていい。オレと堀北で行ってくる」
「モゴ」
「釣りは帰ってきてからだ。後でやり方教えてくれ」
「モゴゴ」
「櫛田? どうして櫛田の名前が───」
朝食の呼びかけが聞こえてくる。
「モゴゴゴ」
「……そうだな」
口を塞いでいた手がゆっくり離れていく。振り向いて、清隆くんの腕の中で笑う。
「昨日採ってきたきゅうりが朝食だって言ってたよ。一晩川で冷やしてたんだ、きっと美味しいよ!」
ちなみにきゅうりを川で冷やすことを提案したのは私だ。どうせなら竹製のざるに入れて冷やしたかったのだが、さすがにそんな贅沢はこの状況で言えないので我慢した。どんな感じで冷やしているかというと、川の中で石を使って柵を作り、そこにきゅうりを立てかけて冷やしている。
昨日からずっと楽しみにしていたのだ。清隆くんにもぜひ冷やしきゅうりを味わって感動してもらいたい。
腕の中から抜け出して、手を引いてクラスメイトが集っている場所を歩いていく。
「よーし、今日はトマト狙う。川で冷やしトマト。想像するだけで美味しい」
背後で軽くため息をつかれる。それから呆れたような声音で言われる。
「話を逸らそうとしてるんだろうが、後でちゃんと説教するからな」
「でも、警戒心はちょっとは解れたでしょ?」
「………」
だから垂れ目のジト目は全然怖くないとあれほど。
朝食を終えて私への説教も終わり、清隆くんが堀北さんのもとに向かう。
清隆くんに呼ばれ、堀北さんがゆっくりテントの中から姿を見せた。それからしばらく二人は話していたが、堀北さんが一度頷いて動き始める。その足取りは軽いものじゃなく、どちらかといえば重いものだ。よく観察しなければ気づかない程度ではあるが。
先を行く堀北さんについていく形で清隆くんも歩き始め、しかしある人物が彼らのもとに向かったことで歩みを止めることとなる。
その人物を確認して清隆くんは目を丸め、堀北さんはわかりやすく嫌な顔をした。
それからまたしばらく、今度は三人が話していたのだが、どうやら決着がついたらしい。ここからでもわかるくらい大きなため息をついた堀北さんがさっさと歩き始めて、その後ろを清隆くんと───櫛田さんが後に続く。
………少しだ。私が手を出すのは、少しだけ。
一瞬清隆くんが私に視線を寄越してきたので、元気よくサムズアップを返しながら、そんなことを言い訳みたいに思う。
手を出したとして、結果が変わらない可能性だって十分にあるのだ。そもそも手を出したというにはあまりに些細でもある。言っても所詮、キッカケを作った程度だろう。
遠ざかって行く彼らの背中を最後まで見送ることなく、私も動き始める。有言実行が私の座右の銘なのである。
食料調達班として櫛田さんが抜けたのは痛い。彼女の存在を目的にして協力していた人たちは、今日はきっと不参加だろう。しかし構わない。人数が少ない分、昨日より自由が利くはずだ。
マニュアルを借りた際、こっそりページを千切って地図にした紙をポケットから取り出す。昨日食料を発見した位置には印をつけており、ついでに軽く辺りの地形なども描いておいた。今日は不自然な空白があるところに向かうとして……この付近が怪しいだろうか。
ある程度あたりをつけ、再びポケットに紙を仕舞う。やることはたくさんあるのだ。釣りもしなければならないし、さっそく食料調達班の一員として集まらなければ。
歩き出そうとしてすぐ、後ろから「あの!」と声をかけられる。それだけなら平然と対応できたのだが、その声の持ち主が誰か気づいて、思わず目を丸めて振り返った。
「み、水元さんっ! わわわ、私もついて行って、いい……かな……?」
その声の持ち主───佐倉さんは頭から湯気でも出そうなほど真っ赤な顔をしており、上目遣いにそんなことをお願いしてきたわけだが。
こんな無自覚あざといお願いの仕方なんかされたら、私が返す反応など最初から決まっているようなものであった。
返事をした際、佐倉さんの花が咲いたみたいな笑顔はひたすらに眩しかったとだけ言い残しておく。
§
バッグには大量のなすび、それと昨日と同じくきゅうりや果実が収められている。あんなに切望して精力的に動いたというのに、トマトは結局見つからなかった。世界はいつだって非情なのである。
「なすびまで見つけちゃうなんて、水元さんすごいよ!」
わー! と隣で歓声を上げる佐倉さんに、「いやでも……」と落ち込んだ顔をする。
「トマトは見つからなかったから……」
「あ……そういえば、ずっとトマトトマトって言ってたもんね……」
ずっとトマトトマトって言い続けてる私やばくない? 佐倉さん言い方。
落ち込んでいる私を励まそうと、佐倉さんが必死に明るい声をかけてくれる。私の周りをぐるぐる移動して、何度も顔を覗き込んでくれる。
その小動物的動きに癒されるもので、最初こそガチで落ち込んでいたのだが、今は落ち込んでいるフリをしていると言ったら彼女は怒るだろうか。
佐倉さんに励まされながら歩き、キャンプ地に着く。今日の分の食料を調理班に報告し、すべて渡し終えたところで、ようやく私の時代がやってきたといえよう。
川の方に視線をやれば、釣り糸を垂らしているクラスメイトがいる。今回買った釣竿は3本だ。見た感じ彼しかやっていない。後のみんなは……川で遊んでるんだろ(適当)
パッと辺りを見回すも池が見つからないから、おそらく奴も川で遊んでいる組と見た。仕方がないのでさっそく探しに行く。別に嬉々としていない。『可愛い水着の女の子いるかも〜!』とか思っていない。
心を躍らせながらみんなが泳いでいるだろう付近に向かう。私の後をそろそろついてくる足音がして、振り向いた。
勢いよく振り向いたわけでもなかったのだが、目が合って軽く飛び上がられるとこっちがビックリする。
眉を下げて、「あー……」と声を出した。
「佐倉さん……? 何か用事とかあったかな」
「あの、その……み、水元さんは……今から、何するんですか?」
「私? 私は今みんながいる場所に向かってるよ」
「みんなって……あ、泳ぐ……?」
「正確に言えば、泳いでいる人たちのところに行ってる感じ?」
「あ……水元さんは、その……泳がないの……?」
予想外なことを言われて目を丸める。それから「まさか」と笑った。
「ごめんごめん、言葉が足りなかったね。釣りを教えてもらうために、泳いでいる人たち……池を探しに行ってるんだ」
「あ、そ、そうなんだ……水元さんが泳ぐわけじゃないんだね」
「あれ。佐倉さん泳ぎたいの?」
言った瞬間佐倉さんは物凄い勢いで首を振った。振りすぎて首が取れそうとか思ったのは初めてだ。それから顔の前に両手を持っていき、首を振るのと同時進行でこちらも物凄い勢いで振る。
「ままままさか! それこそまさかだよ! わわ、私泳ぐの得意じゃないし、それに、は、恥ずかしいから……」
手を振っている隙間から羞恥で赤くなった顔が見える。本当に恥ずかしがり屋らしい。
ずっと首と手を振っていて疲れたのか、佐倉さんがようやく動きを止める。それから赤い顔のまま私を見て、尋ねてくる。
「水元さんは、その。泳ぐのは好きなの……?」
「水の中って気持ちいいから、泳ぐこと自体は嫌いじゃないかな」
「そうなんだ……」
佐倉さんが『でも泳がないんだ……』みたいな顔をした。しかし顔だけであり実際声に出して聞かれてはいないので、これ幸いと気づかないふりをする。
私だって、泳ぎたい気持ちがないわけではないのだ。ただ自ら肌を晒すというのは、どうしても抵抗感が強い。腕とか足はまあ誤魔化せるけど、お腹とか明らかだからなぁ……。
シャツの上からお腹に手を這わす。相変わらず可愛らしい女の子とは程遠い。しかし同時にこれは努力の証でもあり、誇りに違いなかった。
だから後悔は、ない。
「水元さん……?」
「そうだ、佐倉さん。佐倉さんも一緒に釣りしようよ。池に教えてもらおう!」
さっき清隆くんも探したが、どうやらまだ帰ってきていないようだった。先に池から釣りの仕方を教わり、後で私が清隆くんにやり方を教えてあげるのもいいだろう。
そうと決まれば善は急げである。
「行こう、佐倉さん!」
「あ、ま、待って!」
駆け足になった私を佐倉さんが慌てて追いかけてくる。並びやすいように速さを調整しながら、まあでも一度は川でも泳いでみたいよな……と手のひらクルーして今後の予定を計算し始めた。
正直お腹なんかどうとでも隠せるしな……タイミングが合えば行ってみよう。タイミングが合えば。
予想通り川で遊んでいた池を捕まえ、陸地に引き上げ、釣竿の使い方やコツなどを伝授してもらう。
しかし口頭の説明ではやはりどうにもしっくり来ないもので、お願いして釣り場まで来てもらい、そこで実践しながら教えてもらう運びとなった。
佐倉さん目当てでついてきた山内を佐倉さんと二人で放置しつつ、池から熱心に釣りの仕方を教わる。
実際に釣りをしてもらいながら、動作の途中途中で先ほど口頭でしてもらった説明を聞く。百聞は一見にしかず、やはりこちらの方が数段わかりやすい。
最後に釣竿にかかった魚を見事な釣りテクニックで釣り上げてもらってから、手を振り去っていく池にお礼を言って、その場で見送る。山内はいらんから適当言って早々に池のもとに帰した。
グイグイ来る山内に終始萎縮しっ放しだった佐倉さんは、ようやく山内がこの場からいなくなって安堵したのか、ホッと息を吐いている。
「ありがとう、水元さん……」
「いいよいいよ。佐倉さんもお疲れ様」
好きでもなんでもない男子から絡まれるのは普通にキツいだろう。佐倉さんは生真面目だから尚更だ。ああいう輩は私くらい適当なのが適当に相手するのが一番である。
山内もいなくなって、ようやく落ち着いて釣りができるようになる。教えてもらった通りの手順を踏んでから、念願の釣りを開始した。
もちろんだが、すぐに魚がかかる気配はない。長丁場に備えて座り心地の良い岩場を探して腰を下ろし、釣竿をきっちり持った上で静かに目を閉じた。
目を閉じれば、より一層自然の音が耳に入ってくる。川のせせらぎの音だとか、鳥の鳴き声だとか、風に揺れて葉っぱが擦れる音だとか。
クラスメイトたちの喧騒が遠ざかって、一人だけ切り離されたような錯覚に陥る。……いや、今は二人か。しかし決して異物感はないのだから、佐倉さんも難儀な性質をしていると改めて思った。
心地のいい沈黙を先に破ったのは、佐倉さんだった。どこか窺うように名前を呼ばれて、閉じていた目を開ける。
隣を見て、緩く首を傾げた。
「どうしたの、佐倉さん」
「え、っとね……」
急かすわけでも促すわけでもなく、続く言葉を静かに待っていると、わたわたしていた佐倉さんが徐々に落ち着いていく。
それから落ち着いた様子で、ゆっくりと口を開いた。
「……水元さんは、何か好きなこととか、ある?」
思ってもみない質問だ。目を丸める私に、佐倉さんが釣竿を持っている手に視線を落としながら静かに続ける。
「私……私は、写真を撮ることが好きなんだ」
「うん。前言ってたもんね」
「水元さんは、何が好き?」
「うん?」
やっぱり突拍子ない気がする。佐倉さん、何気に我が道行ってるからたまに振り回されるところある。
しかし佐倉さんが私からの返事を待っていることは事実で、のらりくらり躱すことはできなさそうだ。それに好きなことを答える程度、何も問題はないだろう。あるかどうかは別として。
佐倉さんから視線を離し、うーんと首を傾げて唸る。好きなこと、好きなこと……か。
「なんでも好きだよ」
嫌いなものはない。
「なんでも……と、特に、とか」
「特に……うーん。部活とかでもいいの?」
「弓道?」
「うん。弓道とか好きだよ」
「それは、見てると伝わってくるな」
佐倉さんがふふっと笑みをこぼした。
「他にはないの?」
「他に……」
……いや、思い浮かんではいる。思い浮かんではいるのだ。ただその中で一つを選べないだけで。
最初に言った通り、私はこの世界のことならなんでも好きなのだ。
………どんどん自分が空っぽな人間のように思えてくる。普通に落ち込む。
「思った以上になんにもなかった……つまらない人間でごめん……」
「!? つ、つまらなくないよ! ごめんね、聞き方が悪かったかな」
「佐倉さんは何も悪くないよ……」
全面的に私が悪い。ガックシと首を垂れて、乾いた笑い声をこぼした。
「せっかくこんな島に来てるんだし、佐倉さんはもっと好きなことしたらいいと思うな。私は面白味のない人間だし、一緒にいても楽しくないと思うよ」
佐倉さんのことを考えて、そう言ったときだった。
「たっ楽しいもん!!」
普段の佐倉さんからかけ離れた大声でそう叫ばれて、思わず呆気に取られる。まだ鼓膜がキーンとしている。
呆然とした顔で隣の佐倉さんを見やる。
「え……あの……佐倉さん?」
「あ! これはその、ちがっ……違わないけど! でもそのッ……うー! たわー!!」
「うー! たわー?」
「!? ああああの、そのッ」
佐倉さん面白すぎるな。うー! たわー! が好きすぎる。
目をグルグルにして奇声(?)を上げる佐倉さんについつい和んでしまう。直前まで落ち込んでいたことはすっかり忘れていた。
まだ何かもにょもにょ言っている佐倉さんをほっこりしながら見ていると、ふっと視界の隅に入ったのは、佐倉さんの持っている釣竿だった。それが尋常じゃなく震えている。
間もなく糸がピンと張っているのにも気づいて、慌てて立ち上がった。
「佐倉さん! 魚! 魚きてる魚!」
「え!? あっ!?」
「あーー! と、とにかく落ち着いて、リールを巻いて……って逆! 逆になってる佐倉さん!」
「あわわわッ」
座っている佐倉さんの背中に回って、佐倉さんの釣竿に手を添える。リールを持つ手を重ね、正しい方向に一緒に回し始める。
「え!? 合ってますか!? これ合ってますよね!?」
「合ってる! たぶん!? なんか緩急が大事とか言ってたよね!?」
「そうでしたっけ!? あっ! これ以上リール巻けない! えっ!?」
「リール巻けなくなったら引っ張り上げたらいいんだよ! いける!?」
「いけっいけます! いけ……あーーー!」
「えっ……あーーー!」
騒いで叫んでドタバタしているうちに、なんだか今起こったこと全部が無性におかしくなる。気づけば、口を大きく開けて笑っていた。
お腹を抱えて笑っている私を見て、佐倉さんがきょとんと目を丸める。それから、私と同じように声を上げて笑い始める。私と比べたら上品な笑い方なのが、潜在的な女子力の表れであった。それすらおかしく感じる。
クラスメイトたちの喧騒に、私たちの笑い声も混じる。愉快で平和な昼下がりだった。
ちなみにだが魚は逃げていた。そりゃそう。
§
佐倉さんと一緒にリベンジマッチを始めてしばらく経った頃、清隆くんが帰ってきた。並んで釣りをしている私たちを確認し、近寄ってくる。
「お疲れ、葵、佐倉。調子はどうだ?」
「清隆くんもお疲れ様〜」
「お疲れ様です」
調子の方はこんな感じ、と獲った魚を入れていた鍋の中身を見せた。素直な「おお……」という感嘆の声を聞くことができて満足する。
散々どうだ凄かろうと自慢し終えたところで、フッと遠い目をしながら暴露した。
「まあ八割くらい佐倉さんなんだけどね……」
「嘘だろ……?」
そんな信じられないみたいな顔されても困る。私だってしたいよ。
佐倉さんが私たちの会話を聞いて乾いた笑い声をこぼす。若干気まずそうだ。清隆くんがそれに気づいて慌てて否定した。
「あ、違うぞ。葵が自分の手柄みたいに報告してきたくせに、八割佐倉の手柄だと知って驚いたというか」
「何も誤魔化せてないぞ、清隆くん」
「あはは……別にいいよ。私も変な感じだから」
話している間にも、佐倉さんの持っている釣竿がしなっている。どうやらまた魚がかかったようだ。
場数をこなし、随分慣れた手つきで佐倉さんが釣竿を操作している。最初こそあんなに私と騒いでいたのに、成長スピードがおかしいと思う。
「コツとかあるのか?」
「えっと……なんていうのかな。魚の気持ちになる感じ……? それで、引いたり戻したりして、こっちにおいでーってイメージで……」
「私には一向にその感覚がわからない」
そもそも釣竿が全く反応してくれなかった。もしかして私、魚に嫌われてたりする?
新たに鍋に追加された魚を物悲しい目で見つめる。清隆くんは釣竿を取りに行ったので隣にはいなくなっている。
本当に、最初は魚を釣り上げたものの触れないと半泣きで縋ってくる佐倉さんに代わって、魚を取って鍋に入れる係とかしてたのに……佐倉さんは半泣きしつつもいつのまにか全部一人でこなせるようになっていた。今では半泣きですらない。そのせいで私は余計に何もすることがなくなったという。
まず魚だが、釣竿にかかってくれないと釣りとして話にならない。つまり私には成長も何もなく、それ以前の問題であった。
佐倉さんがどんより落ち込む私を元気付けようと、声をかけてくれる。本日二回目である。
「だ、大丈夫だよ! それに私、落ち込んでる水元さんを見て『私が頑張らなきゃ』って思えたんだ。だから大丈夫!」
何が大丈夫なんだろう……。
よくわからない理論だったけど、佐倉さんなりに励まそうとしてくれているのはわかったので、素直にお礼を言う。浮かべた笑みは、眉を下げたなんとも情けないものではあったが。
「ありがとう、佐倉さん。もう少し頑張ってみるよ」
「う、うんっ! 一緒に頑張ろう、水元さん!」
パァッと顔を明るくして笑う佐倉さんを見ると、やっぱり和む。悩んでいたことがどこかへ飛んでいくようだ。
佐倉さんのおかげで気持ちを持ち直したところで、釣竿を握る手に力を込める。気合は未だ十分であった。まさか気合入りすぎて空回っているとかあるわけない。
「よしっ! じゃあ夕飯までもう一踏ん張りするか!」
気合十分で再度釣りを開始した私の隣に、釣竿を取りに行っていた清隆くんが戻ってくる。タイミングが良いのか悪いのか。
多少出鼻を挫かれたものの、自分の方の釣りは一時中断した。後でやり方を教えると約束したのは私だ。身振り手振り、口頭を用いてできるだけ丁寧に説明してやる。まあすべて池からの受け売りではあるが。
清隆くんは終始素直に頷いて説明を聞いており、たまに何か疑問が出てきて私に質問してきては、都度やり方を把握しているようだった。
一通り説明し終えて、他に聞くことはない? と首を傾げる。おそらく、と頷いてくれたので、ようやく自分の釣りに戻った。
横並びにある程度の間隔をあけつつ三人、それぞれがそれぞれのペースで釣りを始めてしばらくして、そういえばと思い出す。ちょっとしたお節介心にも似ている。
少し離れて隣にいる佐倉さんを見て、若干声を張り上げた。
「さっき佐倉さん、私に好きなものはないかって質問してきたんだけどさ、清隆くんには聞かないのー?」
「え……ええッ!?」
見事に動揺している。佐倉さんの持っていた釣竿が大きく揺れた。あの様子を見るに、今かかりそうになっていた魚は逃げたな。私にチャンスが巡ってきた。
魚の気持ちになる……魚の気持ちになる……と内心で呪文のように唱えつつ、マイペースに話を続ける。
「ほら、今ちょうど清隆くんフリーだよ。暇そうだから聞いてみれば快く答えてくれると思うなー」
「そもそも隣でそんな会話をされたら、今から質問をするも何もないと思うんだが……」
「清隆くんはシャラップ。ほらほら、佐倉さーん」
「えあッ……うう……その……」
魚魚さかなさかなさかな……と目が血走ってるとは言わないが一心不乱に釣竿の先を見ていると、ぼそぼそ、なけなしの勇気を振り絞ったのがわかる声量で佐倉さんがさっきの質問を口にした。
「……あ……綾小路くんは、何か……好きなものとかって、ありますか……?」
私を挟んでさらに隣からかけられた声だ。お世辞にも大きい声だとは言えない。
しかし清隆くんは余計なツッコミを入れることなく、ちゃんと聞こえたぞとばかりに一度頷いてみせた。さすができる男である。
「好きなものか……なんでもいいのか?」
「な、なんでもいいですッ! 好きな魚とか魚の種類とか魚の色とか魚の形とか」
「もしかして魚限定なのか?」
「魚の気持ちになったらそういう風になっちゃうの?」
まだまだ遠い道のりだな……と難しい顔をする。早く佐倉さんの域にまで到達したいものだ。
清隆くんが釣竿を丁寧に動かしつつ、少し悩んだ様子を見せる。好きなもの、とか急に聞かれても案外思いつかないものなので仕方ないと思う。
「そうだな……葵はなんて答えたんだ?」
「私は弓道〜」
「葵らしいな」
「そうかな?」
返事をした矢先だった。一瞬釣竿が反応した。
さ……魚ッ! 今絶対かかった気がする。
思わず前のめりになる。気が急いてルアーを巻く手に力がこもる。
よし……よしよしよし、このまま! このままいけ! いけ! いけーッ!
「オレは……」
………見える何もない釣竿の先。呆然と釣り糸を摘んで持ったまま、ゆらゆら風に揺れている先っぽを見つめる。
「───……が好きなんだと思う」
「そ……っか。うん……うん。すごく良いと思う。素敵だなぁ」
頭の中が逃した魚でいっぱいだった。
私はまた……なんの成果も得られなかったのか……。
悔恨の面持ちで歯を食いしばる。キツく目を瞑る。釣竿の悲鳴が聞こえるが、今の私に手を緩める余裕はない。
震えた指先で持っていた釣り糸を離し、もう一度釣りを開始する。深呼吸を繰り返して、釣竿を持っていた手を緩める。何事も落ち着くことが大事だ。気張る必要はない。釣りは勝負事ではないのだ。
隣で「お、」という声が聞こえた。顔を上げる。
清隆くんの持っている釣り糸の、その先にかかっている……魚を、こぼれ落ちそうなほど見開いた目で捉えた。魚が清隆くんの手に渡る過程までしっかり見つめ続ける。
「そう言う佐倉の好きなものは何なんだ?」
「え、あ……私? 私は……写真を撮ることが好き、かな」
「写真か……自分のカメラを持ち歩いているくらいだもんな。納得だ」
「う、うん。でも、さすがにここには持ってこれなかったよ」
「私物の持ち込みは禁止だったからな。仕方ない」
「うう……残念だな」
鍋に新たに加えられた魚を、自分の釣りそっちのけで食い入るように見つめる。
「本当なら、ここにデジカメがあったら……最高の一枚が撮れそうだったのにな」
……なぜ……? ぺいぺいの私よりはるかにぺいぺいのはずの清隆くんが、なぜ私より先に魚を釣り上げて……?
油の切れたブリキ人形じみた動きで清隆くんの方を見やる。清隆くんは目を細めながら手を顎に当て、何か考えている様子だった。
なるほど、じゃない。声に出してなくても唇が動いたら何言ってるかわかるんだよ。何を納得しているんだ。釣り方か? 釣り始めてさっそく魚を釣れて、さぞ気持ちいいんでしょうねぇ!?
ムキになって対抗するように釣りを始めた私の成果、言うまでもない。
結果的に隠すことになった綾小路のセリフに特に意味はないので、またすぐ出てくると思います。